彼女の指輪は、まだ濡れていた。

永文

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第10話:濡れた指輪を越えて

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「ここ、空いてる?」

「空いてますよ。沙耶香さんのためにずっと、取っておきました」
 
 2年ぶりの、会社の旧オフィスビルの屋上。
 春の風がやわらかく、でも確かに頬を撫でてくる。

 となりに座った彼女は、黒髪をゆるく束ね、スーツではなくカジュアルなワンピース姿だった。
 もう、あの“仮面を被った営業エース”ではない。
 けれど、今のほうがずっと輝いて見えた。

 ──橘沙耶香。
 いや、もうその名前じゃない。

「……成瀬くんって、やっぱり変わらないね」

「そうですか?」

「うん。あの日と同じ場所に来るなんて、ロマンチスト」

「2年前、沙耶香さんがここで “泣いてもいい?”って言ったからですよ」

「……そんなこと言ったっけ」

「言いました。“誰にも見えない場所で、崩れてもいい?”って」

 沙耶香は、ふっと笑った。

「あのとき崩れたから、今の私がいるのかもね」
 
________________________________________
 
 あれから、2年。
 沙耶香は正式に離婚し、苗字も旧姓に戻した。
 一時は実家に身を寄せていたが、1年後に都内でカフェを開いた。
 小さな店。でも陽の入る温かい場所。
 カウンターの端には、観葉植物が飾られている。

「店名、“hush(ハッシュ)”って意味知ってる?」

「静かに、とか、秘密って意味ですよね?」

「そう。“静かに、でも確かに大事なこと”って意味を込めたの」

 僕は、店の手伝いをするようになり、いつしか本格的にカフェの共同経営者になっていた。
 役職は副店長。でも実質、恋人。
 ただ——“付き合っている”と正式に言ったことはなかった。
 沙耶香が一線を越えることに慎重だったし、僕もそれを尊重した。

 それでも、毎日そばにいて、同じコーヒーを飲んで、同じ未来の話をする。
 それが、何よりの“関係の証明”だった。
 
________________________________________
 
 屋上で風に吹かれながら、沙耶香が言った。

「ここでさ、指輪、捨てたかったんだよね。昔の」

「じゃあ今日、捨てますか?」

「ううん。もう、手元にない。……事故のとき、手放しちゃった」

「そうでしたね。病院で渡されて……俺が、持ってた」

「でも、“濡れた指輪”は、あれが最後でいい」

 そう言って、彼女は僕のほうを見た。

「今度つけるなら、“大切な思いが籠った指輪”がいい」

 その目は、まっすぐだった。
 僕は、深く息を吸って、ポケットの中から小さな箱を取り出した。
 
「これ、預かっててくれますか?」

「……え?」

「まだ、“結婚してください”とは言いません。
 でも、これは……“一緒に未来を見ませんか”の約束の指輪です」

 彼女の目が、少し潤んだ。

「……あなたって、ほんとにズルい」

「はい。昔からです」

 彼女は、指輪の箱を受け取り、そっと開いた。
 シンプルなシルバーリング。飾り気はない。
 でも、内側には小さく彫ってある。

『No longer afraid.』
 
「……これ、自分で考えたの?」

「はい。俺も、もう怖くないって思えたから」

「なにが?」

「あなたと生きることが、です」

 しばらくの沈黙。
 風が、桜の花びらをひとひらだけ、空に舞わせた。
 彼女はゆっくりと、左手の薬指を出した。

「じゃあ、嵌めて」

「はい」

 僕は、震える指で、そっとその指に指輪を通した。
 今度の指輪は、濡れていなかった。
 乾いたままの光が、春の日差しにやさしく反射していた。
 
 
 沙耶香が、ぽつりと言った。

「これでやっと、“ただいま”って言える場所ができた気がする」

「俺にとっても、そうです」

「でもさ、成瀬くん」

「はい」

「ほんとは、あの夜から全部始まってたんだよね。“過ちを犯してしまった夜”から」

「……そうですね」

「私、ちゃんと覚えてるよ。あの夜、あなたが隣にいてくれたこと。ありのままの“私”でいさせてくれたこと」

 彼女はゆっくりと目を閉じた。

「だから今も、隣にいたいって思うの。女としてじゃなくて、人間として必要としてくれる人のそばにいたいって」

「俺も同じです」

「……もう、大丈夫だね」

「はい」

「……成瀬くん」

「はい」

「好きだよ」
 
 その言葉を聞いた瞬間、僕の時間が止まった。
 2年。長いようで、短くて。
 でもようやく、この一言にたどり着いた。

「俺も、好きです」
 
 
 ──濡れた指輪が意味していたのは、過去の呪縛だった。
 それを越えて、手にした今の指輪は、乾いたままでいい。
 涙も、苦しみも、誰かに隠す必要もない日々。
 それが、きっと愛されることであり、愛することなのだと思った。
 
 風が吹いた。
 桜の花がもう一度、空に舞った。
 その中で、僕たちは静かに、でも確かに、笑い合った。
 
 ──この恋は、間違いから始まったかもしれない。
 でも今は、間違えなかった未来にたどり着いた。
 そしてそれが、すべてだった。
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