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夏休み 一章 先輩たちの最後の総体

004 青葉雪は、ノスタルジックな雰囲気に思い悩んでみる

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 須崎先輩はその後も――、姉貴への溢れる恋心をその弟である俺に語っていた。須崎先輩はまだ語りたりないような表情だったが、ようやく俺のげんなりする表情に気が付いたようだ。

「――おっと、すまんな。弟の身からすれば少し複雑だったか?」

 須崎先輩は俺の分も一緒に会計を済ませてくれ、少し申し訳なさそうに言った。

 姉貴を――全知全能の女神だ、彼女の声はローレライを彷彿とする美声だ、などと褒めたたえる須崎先輩の話を聞き、確かに神経を削られる複雑な心境になった……。
 
「いえ……。でも、二つの意味でもうお腹いっぱいですね。今日は御馳走様でした。」

「そうか、俺が引退した後もまた飯行こうな。もしかしたら、とても末永いお付き合いになるかもしれないし。」

「……話が早すぎますよ。」

――姉貴と須崎先輩がもし結婚したら、お兄ちゃんって呼ぶことになるのか? なんかやっぱりすごく複雑な気分だ。


 須崎先輩と別れたあと、俺は自動販売機で缶コーヒーを買い、夜の公園のベンチで飲むことにした。別に喉が渇いていたわけでなく、ただ静かに一人で物思いに耽りたかった。

 キャプテンの件、須崎先輩と姉貴の接点を作る件、それらもなかなか大きな問題だが、やはり頭に渦巻く一番大きな問題は、ちろると神崎さんの件に関することであった。

「――どうしたものかなぁ」

 神崎さんは天使のように可愛い俺の好きな人だ。これまで培った俺のその想いは、須崎先輩が姉貴を想う気持ちと同じく、どこまでも純粋で正しいもののはずだった。

 しかしその想いは、今は俺の中で不純なものとなりつつある。

 理由はもちろん、ちろるという存在が俺の心の中に現れたことだ。彼女の俺をどこまでも好きでいてくれる一途さは、とても美しく、どこまでも正しかった。

 彼女の取り乱した姿を見て、俺はちろるに告白したのだ。

 しかし、彼女の気持ちに応えたいと思ったのは、桜木ちろるという一人の女の子をちゃんと好きだと思えたからだ。ただの同情心で付き合ってやろう――なんて、そんな傲慢な思いではなかったはずだ。

 それでもやはり、俺の心にある迷いがちろるに伝わってしまい、彼女にまた辛い思いをさせてしまった。

「――もし二人が、崖から落ちそうになって死にかけていたら?」

 ふと頭にそんな疑問が過った。

「迷わず俺は――両方に手を伸ばして二人とも助けたい。」

 ――しかし、それはできない。

「神崎若葉と桜木ちろる――どちらか片方だけしか、命を助けられないなら――?」

――今の俺には、どちらか一人を選ぶことはできない。

 無論それは極端な例え話だが、俺の現状を言い表すにはしっくりきているかもしれないと感じた。

 俺が次に告白する時は、”世界で一番――、誰よりも好きだ”という気持ちを伝えたい。そしておそらく、ちろるが望んでいることも、そういった迷いのない告白なのだろう。

「本当に、クリスマスまでになんとかなるのかな……。」

 俺の心には、今は神崎若葉と、桜木ちろるという二人の女の子が存在してしまっている。神崎さんへの気持ちを失くすことが正しいことかどうか。いや……、問題は果たして俺にそれができるのか。

 簡単にそれができれば、苦労していないのだろう。

――「本当に好きになった人のことは、そんな簡単に心の中から、どこかへ行っちゃったりしないですから……。」

 ちろるの言葉が胸に思い出された。彼女の言う通りかもしれない。簡単にはどこかへ行かないだろう。しかし、きっといつかはなくなるものではないだろうか。

 夏の夜風は心地よく、俺の頬をそっと撫でた。ひぐらしのカナカナと鳴く声が遠い場所から聞こえてくる。こんなもの寂しい夜に、一人で欝々と悩み事をするのは経験上あまりよろしくない。

 一人ノスタルジックな雰囲気に思い悩んでみたところで、雲が晴れていくどころか、より重たい曇天が渦を巻いていくような感覚に陥った。

「あーもう、ほんと俺って情けねぇ……。もっとしっかりしないとな。」

 天使のような可愛いクラスメイトへの心に残る想い、俺を好きすぎる可愛い後輩への心に芽生えた想い……。

 約束の期限までに――、俺は自分の心を見定めなければならない。

 できれば頭と心がすっきりするまで、このまま時が止まってほしいところだ。しかし、限られた夏休みという時間は進み、どちらか片方を簡単に切り捨てることができない以上、その二つの想いを背負って生きるしかなかった。
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