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030 大学食堂での実習初日
しおりを挟む6月も中旬に差し掛かり、湿気の多いどうにも気分が上がらない天候が続いている。梅雨の時期というものは、世間一般の人の幸福度が、平均すると右肩下がりになっていく傾向がある。
しかし、桃花個人の幸福度は5月のあの一件以来、右肩上がりに上昇していた。
中学校を卒業し、田舎から調理科のある神戸の高校に通い始め、最初の一か月は新しい出会いと、新生活のドキドキに毎日幸福度は上昇していた。
しかし、5月に入ると自分でも気づかないうちに、離れた故郷、家族や友人など、ホームシックからくるストレスが少しずつ積り、精神的な不安を感じる日もあった。
5月の末に、翔の前で号泣してしまったのも、好きな人の前でうまく気持ちを伝えられなかったという、恥ずかしさと情けなさもあるが、少なからず故郷を離れて一人暮らしをすることから降り積もったストレスが起因していた部分も大きかったようだ。
あの日、子供のようにしっかり泣いたことで、好きな人の前で大泣きしたという気恥ずかしさは残るものの、梅雨真っ最中だというのに、桃花の気持ちはどこかすっきりとした心地がしている。
あれ以来、翔も桃花の様子を以前よりさらに気にするようになった。
バイト帰りには、コンビニでスイーツを買ってきて、「コンビニのスイーツって年々美味しくなるよなぁ」とこぼしながら、一緒に食べようと誘ったり、結局タイとハマチの両方を購入し、「活け造りパーティーだ!」と一緒に料理をしたり、桃花の幸福度メーターは順調に右肩上がりを続けている。
今日は多少の雲はあるものの、梅雨の時期に珍しい青空が見える晴天だった。
目的地に向かう途中で見かけた小学校の校庭では、子ども達が溜まりにたまった鬱憤を、一気に解き離すように元気に外で遊んでいる。
桃花が少し緊張した面持ちで足を踏み入れようとしている先は、文学部二回生である翔とトミーが通う神戸にある大学であった。
六月のこの時期、桃花の通う調理科のある高校では、特別カリキュラムとして学校外部の食事を提供する施設においての実習が組み込まれていた。
小中学校の給食施設、商店街の大衆食堂、またはレストランのキッチン、協力してくれる様々な場所に、実習生として彼らは送り込まれる。
期間はたった一週間、短いようにも思えるが、まだ中学生から高校生にあがったばかりの彼らが社会の厳しさや、人に食事を提供する責任を実感するには、有り余るほど十分な期間であった。
むしろこの時点でそれ以上長く実習期間を設けると、志半ばで料理人への道を閉ざしてしまう生徒も出てきてしまう。
調理科一年生の桃花の実習先は、神戸の大学構内の食堂であった。
「うわー、やっぱり大学って建物も大きいなぁ。」
翔とトミーが通う大学は、京都や大阪の国立大学には劣るものの、その次くらいには賢いんじゃないかと言われる国立の大学であった。それ故に、大学構内の建物も、大学図書館に購買、そして食堂などの付随する施設も、それなりには大きなものであった。
大学構内の食堂は、百人以上の学生や教授たちが一度に食事をとれる規模の大きさである。
桃花の実習先である大学の食堂で働いているのは、既に社会の酸いも甘いも噛み分けてきた、おじさんやおばさん達がほとんどであった。
「はっ、はじめましてっ!きょうからっ、一週間おせわになりますっ!よっ、よろしくお願いしますっ!」
実習先である食堂で初日の挨拶をした際、桃花は初日でかなり緊張していたものの、その初々しさが食堂で働くおじおばさま方のハートを打った。
「あらぁ、まぁかわいらしい。うちの娘もこんな可愛い子だったらねぇ。」
「初々しいねぇ~。」
「たった一週間かぁ。もっといてくれたらいいのに。」
初日は覚えることがいっぱいだったが、桃花はメモを取りながら年配の女性から説明されたことを漏らさないように聞いた。
「わからないことは、怖がらないできちんと質問すること!」
高校の担任から、クラスで指導された言葉を思い出す。しかし、年配の女性は丁寧に教えてくれたため、ほとんど質問する必要はなかったし、桃花からの質問にも親切に対応してくれた。
「どうだった?初日は?」
桃花のスマホからは、翔の低音のよく響く声が、若干のノイズとともに電子音に変換されて聞こえてくる。
「さいしょはかなり緊張してましたけど…、みなさんとっても親切で、一週間元気に実習できそうです!」
翔のスマホからは、桃花の比較的高音だが、落ち着きと柔らかみのある声が聞こえてきた。
「そっか。それを聞いて安心したよ。もし食堂のおばちゃんたちが桃花ちゃんに意地悪でもしようものなら、大急ぎで大学食堂まで乗り込んでいたところだ。」
翔の大げさな言葉に、桃花は笑いがこぼれた。
翔は桃花の実習先が、自身の通う大学の食堂だと聞いて大いに喜び、素敵な実習になるように毎日全力で食堂に応援に行くと意気込んでいた。
彼の声音からは、心から桃花の実習初日を気にかけてくれていたという想いが伝わってくる。
しかし、自身の大学で桃花が実習の初日を経験しているというのに、翔はどうしてもそこに顔を出せない理由があった。
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