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第一楽章 ふたりのためのディヴェルティメント
9小節目 音の変わる朝
しおりを挟む満足いくまで花火を楽しんだ部員たちは、風呂を済ませ、それぞれの部屋へ戻っていく。
七音も軽く風呂を浴びると、どこかぼんやりとした足取りで自室へ向かった。
先ほど唇に触れた熱を思い出す。
どんなに考えても、あの行為の意味がよくわからない。
昨日までとはまた違う、どこか気まずい空気を感じている。
先輩と顔を合わせづらい。
とは言え、部内で男子は二人だけだ。
同室なのだから、顔を合わせないわけにもいかない。
ふすまを開けると、暁輝は布団の上でうつ伏せになり、足を揺らしていた。
枕元にはスコアが広がっている。
鼻歌交じりに、左手の指でリズムを刻んでいる。
まるで、さっきの出来事など何もなかったかのように、いつも通りだ。
畳敷きの和室。窓の外には、静かな湖が見える。
暁輝がふいに口を開いた。
「ね、今日の第一楽章さー。
ヴィオラちょっと走ってたよね」
七音は散らばったスコアに目をやってから、答える。
「セントポールですか」
「そう」
「確かに、少し前のめりでしたね」
暁輝が小さく笑った。
「だよな」
少し間を置いて言う。
「明日直るかな」
「あかり先輩がいますし、大丈夫じゃないですか」
「そうだよな」
いつも通りの会話だった。
会話が途切れると、外から虫の音が聞こえた。
七音は静かに布団に潜り込み、天井を見上げた。
落ち着かない気分を持て余して、思い出す。
夜のラウンジ。
柔らかいビアノの音と、その上を伸びていった、ヴァイオリンの旋律。
そして、重なった唇。
考えた瞬間、胸の奥が熱くなる。
(いったい何だったんだろう)
横を見ると、暁輝はもう目を閉じていた。
静かな寝息が聞こえる。
七音は小さく息を吐く。
そして、疲れに抗えないまま、ゆっくり眠りに落ちていった。
七音は違和感を感じて目を覚ました。
目を開けると、窓の外は明るかった。
遠くから鳥の声が聞こえる。
(……暑い)
冷房はついているのに、妙に暑い。
七音は顔を少し動かす。
その瞬間、理由が分かった。
(……え)
七音の布団に、暁輝が入ってきていた。
長い腕が、七音の体に巻き付いている。
完全に抱きつく形だった。
(なんで)
七音の思考が止まる。
暁輝はまだ寝ている。
顔が近い。
温かい呼吸が首筋に触れて、少しぞわりとした。
普段よりずっと無防備な表情だった。
少し乱れた髪。
長いまつげ。
そして、形の良い唇。
――昨日、この唇が自分に触れた。
七音はそっと声をかけた。
「……先輩」
反応はない。
「先輩」
暁輝が少しだけ動く。
でも、まだ起きない。
七音は少し声を強めた。
「先輩、ちょっと」
暁輝がむずかるように眉を寄せる。
それから、ゆっくり目を開けた。
ぼんやりした視線。
七音と目が合う。
一瞬の沈黙。
それから、暁輝の目尻がふっとゆるむ。
柔らかく笑った。
「なお」
寝ぼけた声だった。
「おはよー」
七音の心臓が、一瞬だけ速くなる。
「……おはようございます」
暁輝はまだ七音に腕を乗せたままだった。
七音が言う。
「先輩」
「ん?」
「腕」
暁輝が自分の腕を見る。
それから、なんてことないように言った。
「あー、
ごめん」
そういいながらも、腕はすぐには動かない。
七音はまた小さく溜息をついた。
窓の外では、夏の湖畔の朝が始まっていた。
◇◇
合宿最終日の早朝。
午前の練習を終えれば、午後にはバスで学校へ戻る。
湖は凪いでいた。
水面の上に、薄く霧がかかっている。
七音はペンションの外に出て、湖畔に立っていた。
冷たい朝の空気を吸い込む。
膝の擦り傷は、もうほとんど痛まない。
それでも、昨夜のことが頭のどこかに残っていた。
ラウンジ。
ピアノ。
ヴァイオリンの音。
(……気持ちよかったから?)
七音は小さく苦笑する。
そのとき。
「早いじゃん」
振り向くと、暁輝だった。
珍しく、一人で起きられたらしい。
暁輝は湖をちらりと見た。
「いい場所だな」
七音はうなずく。
「音、遠くまで行きそうですね」
暁輝が少し笑った。
「弾いてみる?」
「今ですか」
「うん」
ホールには、まだ誰もいなかった。
朝の光が大きな窓から差し込んでいる。
七音は譜面台の前に座り、チェロを構えた。
暁輝はヴァイオリンを肩に乗せる。
「弦セレ」
チャイコフスキー。弦楽セレナーデ。
弓が上がる。
旋律が静かに始まった。
七音も弓を置く。
チェロの低音が、その下に広がる。
昨日まで何度も弾いた曲。
同じフレーズ。
それなのに。
暁輝が、ほんの少し眉を上げた。
(……違う)
チェロの音が、前より柔らかい。
フレーズの終わりが、ほんの少し揺れる。
音に、余裕がある。
暁輝は弾きながら思う。
(変わった)
七音の弓の動き。
少し遅らせる。
少し溜める。
旋律の下で、音が呼吸している。
曲が止まる。
暁輝が言った。
「七音」
「はい」
暁輝は少し楽しそうに言う。
「わかりやすいね」
七音は驚いた。
「え?」
暁輝が笑う。
「音、変わった」
七音は少し黙る。
それから苦笑した。
「そうですか」
暁輝はうなずく。
「うん」
そして続けた。
「今の方がいい」
七音は自分の弓を見た。
ここ一か月、自分の音は少し硬かった。
でも今は、違う。
弓の重さ、呼吸。
音が自然に流れる。
七音は小さく言う。
「……楽しいです」
「何が」
「弾くの」
暁輝は少し驚いた顔をする。
それから笑った。
「俺とやってんだから、当たり前でしょ」
七音は苦笑する。
「そうですね」
少し沈黙が落ちる。
暁輝がヴァイオリンを軽く鳴らした。
「もう一回」
「はい」
弓が上がる。
今度は、少し速い。
音が重なる。
昨日より、ずっと自然に。
フレーズが流れる。
曲が終わる。
暁輝が言った。
「なあ」
「はい」
「なおは、もっと伸びるよ」
七音は少し笑う。
「そうだといいです」
暁輝は肩をすくめる。
「なるよ」
そして、さらっと言った。
「俺が弾きたい音になってきた」
暁輝は嬉しそうに、開放弦を一度鳴らした。
七音は一瞬、言葉を失う。
胸の奥が、また熱くなる。
ホールの窓から、湖の光が静かに差し込んでいた。
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