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エピソード22:赤の非常灯、白の記憶 -ルーシェ・ミーナ・カルロッタ-
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赤い非常灯の灯りが、鉄と血の匂いを濃く映し出していた。
ミーナの背を追いかけながら、ルーシェは無意識に指先を握りしめる。
――歩幅を合わせるのが、こんなに難しかったっけ。
隣を歩くこの背中は、ついさっきまでルーシェを抱きしめていた。
温もりがまだ腕に残っているのに、胸の奥では正体の分からないざわめきが渦を巻く。
それは懐かしさにも似ていたけれど、名前をつけることができない。
「……寒くねぇか?」
ミーナがふいに振り返り、短く問いかける。
「だ、大丈夫。……ほら、動いてると汗かくし」
強がるように返すと、彼女は鼻で笑って前を向いた。
歩きながら、耳の奥でかすかな金属音が響く。
奥の通路から、何かが転がるような音。
ルーシェは思わず足を止めたが、ミーナは振り返らない。
その背中を追って再び足を進めると、湿った空気の匂いが変わった――
鉄と薬品、そして……白い、何かの匂い。
足元のライトが一瞬だけ途切れ、闇がルーシェを飲み込む。
次に光が戻ったとき、通路の先に「白」が見えた。
通路の突き当たり。
そこだけが、不自然なほど明るかった。
まるで周囲の煤けた壁や錆びた床とは別の世界――
真っ白な、四角い口がぽっかりと開いている。
「……なに、あれ……」
ルーシェの声が震える。
足が勝手に止まった。
背筋の奥に冷たいものが走る。
ミーナがルーシェの前に立つ。
「……病室か、研究室か……でも、今は――」
その時だった。
「っ……!」
視界が、真っ白に染まった。
頭の奥が、針で刺されるような痛み。
立っていられず、壁に手をつく。
ミーナの呼ぶ声が遠のく中――
断片的な映像が、まぶたの裏に焼き付いた。
冷たいベッド。
眩しいライト。
何かを押し当てられる額の感触。
白衣の人物が何かを記録している。
そして――
“番号で呼ばれる”自分の声。
「……やめ……やめて……っ!」
無意識に叫んでいた。
手が震え、心臓が暴れる。
「おい、ルーシェ!? ど、どうしたんだよっ!?」
ミーナの声が近いのに、どこか遠い。
耳の奥で、金属の擦れる音と、人の息づかいが重なって響く。
それが現実の音なのか、記憶の中の音なのか――分からない。
「……っ、ここ……知ってる……」
掠れた声が、自分の口から漏れる。
「……あの部屋で……何か……された……」
言葉にした瞬間、背筋を氷で撫でられたみたいに寒気が走った。
視界が揺れ、吐き気が込み上げる。
「何かされた!? どういうことだよ…?」
ミーナの声が一気に鋭くなる。
ルーシェは、うまく説明できなかった。
説明する言葉よりも、断片的な光景と感触が先に頭を占領してしまう。
「わかんない……でも、怖い……!!」
「……チッ、分かった。とにかくここから離れるぞ!」
肩をぐっと抱かれ、ルーシェは半ば引きずられるように白い部屋から距離を取った。
遠ざかるにつれ、あの光の残像が少しずつ薄れていく。
――――――――――――――――――
壁にもたれ、荒い呼吸を整える。
「……大丈夫か?」
ミーナが横目でこちらを見る。
「……うん」
口ではそう答えたが、胸の奥のざわつきは消えていなかった。
「あのやべー部屋……あんたが記憶ぶっ飛んでるのと関係ありそうだな」
彼女は低く呟き、鉄パイプを膝に立てかけた。
「……かもしれない」
自分でも驚くほど素直にそう返していた。
あの白い光の中で、何かをされた感触。
それが“何か”を奪ったような気がする。
「あの部屋と……黒ローブ。 そこだけはなんとなく…覚えてる」
自分で口にした瞬間、心臓が強く脈打った。
黒ローブ――その輪郭だけが、やけに鮮明に浮かぶ。
顔は闇に沈んで見えなかったのに、背筋を這い上がるような声と、冷たい視線だけが刻み込まれている。
ミーナが目を細める。
「黒ローブ……私も散々見たわ。 やっぱアイツらが原因だよな」
鉄パイプを肩に担ぎ直し、彼女は深く息を吐いた。
「……顔は?」
「見えない。だけど、見られてた気はする。……すごく、嫌な目で」
「嫌な目?」
「……もしかすると、私はクローンの実験にでもされたのかなって。
ほら、ノーリの事もあるし……」
「……だとしたらクソだな」
ミーナの声は低く、吐き捨てるようだった。
拳をぎゅっと握りしめ、鉄パイプの先が床を擦る。
ルーシェは視線を伏せる。
白い部屋と黒ローブ、そしてノーリの影が、頭の奥で絡み合って離れない。
記憶は欠けているのに、心だけがざわついている。
「でも分かんねえな……仮にだぜ? そのノーリってのがあんたのクローンだとしてだ。 なんであんたなんだ?」
「……分からない」
答えながら、胸の奥がじくりと痛んだ。
理由が分からないことよりも、“選ばれた”という響きに嫌悪感があった。
それは誇らしさじゃなく、汚れを押し付けられたみたいな感覚だ。
「誰でも良かったのか、それとも私じゃないといけない何かがあるのか……」
自分の声がやけに冷たく聞こえる。
ミーナは鉄パイプを肩に担ぎ、わずかに顔をしかめた。
「……どっちにしても気分の悪ぃ話だな」
吐き捨てるように言い、床に視線を落とす。
「まぁとりあえずさ、あのクソッタレな白部屋は忘れようぜ」
「うん……そうだね」
声にしただけで少し軽くなる気がしたが、それは表面だけだと自分でも分かっていた。
頭の奥にこびりついた白と黒の残像は、決して消えない。
ミーナが歩き出す。
その後ろを追った瞬間、足元に黒く濡れた跡が目に入った。
乾ききっていない血痕が、廊下の奥へと伸びている。
「……辿ってみるか」
ミーナは短く言い、鉄パイプを握り直す。
血の跡を追って進むと、半開きの鉄扉の向こうに死臭が漂っていた。
部屋に入った途端、鼻腔を突く鉄臭さ。
教団員らしき男たちが何人も倒れており、胸や首に深い刺し傷が走っている。
「……化け物じゃねぇな、人間の仕業だ」
ミーナの声が低く響く。
次の瞬間――背後で、空気が裂ける音がした。
反射的に振り返った瞬間、銀色の刃が目の前をかすめた。
空気を裂く鋭い音と共に、頬に冷たい風が走る。
「うおおおっ!?!?」
「きゃっ!?」
そこに立っていたのは、全身を黒いボディスーツで覆った女。
瞳は焦点を結んでいない。
まるで何かを見ているのではなく、“自分の中の闇”だけを覗いているようだった。
「……なんで、よけるの?」
すぐさまルーシェはハンドガンを構え、ミーナは鉄パイプを握りしめる。
「なんだこの女…!? こいつも教団の!?」
「ミーナ! 気を付けて!!」
「……あれぇ? よくみたらきみたち……そのふく、ルードこうこうのじゃん」
彼女の声は掠れているのに、どこか子供が歌をなぞるような抑揚が混じっている。
「あぁ!? だったらなんだよ!!」
「わたし……カルロッタっていうの。こんにちは、かわいいこうはいちゃん」
その口元だけが歪み、口だけが笑っている気配がする。
「そう。OGってやつだよ」
ゆらり、と体が左右に揺れる。
その動きはリズムを刻んでいるようでいて、次にどちらへ動くか予測できない。
まるで獲物の反応を楽しんでいる肉食獣のようだ。
「……だからね、かわいいこうはいちゃん」
カルロッタの瞳が細くなり、声が低く沈む。
「ぜんぶ、こわしてあげるよ……そしたら、みんなおなじになるからぁ!!!!!」
カルロッタが床を蹴った。
耳を裂くような甲高い音と共に、黒い影が視界を横切る。
その速さは、化け物よりも鋭く、しかしどこか人間らしい“間”を含んでいた。
「くっ……!」
反射的に引き金を引く。
銃声が狭い部屋に炸裂し、耳が焼けるように痛む。
だがカルロッタは、頭をわずかに傾けるだけで弾丸を躱した。
髪の端が切れ、空気の中に一筋の黒が舞う。
「そうそう、それでいいよ……もっと、わたしをみて!!」
ミーナが横から鉄パイプを叩き込む。
「させるかよっ!!」
金属と金属が激突する甲高い音。
カルロッタは刃でパイプを受け止め、そのまま手首を返し、刃先をミーナの顎下へ滑り込ませようとする。
「ミーナ!!」
ルーシェは銃口を下げ、膝を狙って発砲。
弾が太腿をかすめ、カルロッタが一歩退く。
だが、その顔には痛みも怒りもない。
むしろ口元が笑っている。
「いいね……やっぱり、るーどこうこうのこは……つよいなぁ……」
次の瞬間、カルロッタは両足を交差させて床を蹴り、低い姿勢のまま回転。
その動きでパイプを弾き上げ、ミーナの腕を無理やり開かせた。
空いた懐に飛び込み、肘でミーナの腹を打ち上げる。
「ぐっ……!」
ミーナの息が詰まる。
「くっ……このっ!!」
必死に反撃しようと腕を振るうが、カルロッタはわずかに身を捻るだけでかわす。
「こわれろ…こわれちゃえばいいんだよ、ぜんぶ!!!!」
叫びと同時に、カルロッタの動きが一段階速くなる。
刃が横薙ぎに走り、壁に深い溝を刻む。
次には低く沈み込み、床を滑るようにしてルーシェへ突進――。
反射的に引き金を引く。
だがカルロッタは、わずかに上半身を傾けただけで弾丸を回避し、そのまま懐へと潜り込む。
「はっ……!」
腕を掴まれ、全身に衝撃が走る。
視界が一瞬で回転し、背中から床へ叩きつけられた。
息が詰まり、肺が悲鳴を上げる。
「だめだよ……おとなしくしてて……こわすのは、あたしのやくめなんだから……」
カルロッタの顔が覆面の影から覗き込み、瞳だけが異様に爛々と輝く。
「ルーシェ!!!」
ミーナが叫び、横から鉄パイプを振り下ろす。
だがカルロッタは手首を返して刃を立て、パイプを受け流すと同時に逆の足でミーナの膝を蹴り飛ばした。
「ぐあっ!」
ミーナが崩れ落ちる。
「やめろぉっ!!」
ルーシェは必死に膝を蹴り上げ、カルロッタの体勢を崩す。
その隙に転がって距離を取るが――カルロッタはもう、笑っていた。
「そうだよ……そのかお……もっともっと……」
刃を持った腕が、また低い位置からじりじりと上がってくる。
「わたしね……ルードこうこうをそつぎょうして、スピックエンツォってだいがくにいったの」
カルロッタは一歩踏み出しながら、抑揚のない声で語る。
「おえかきがすきで、びじゅつせんこうにはいった」
横薙ぎの刃。ルーシェはギリギリで身を捻り、頬に冷たい風を感じる。
「それだけじゃない。おんがくもすき」
逆手に刃を持ち替え、低い姿勢で踏み込んでくる。
「すいそうがくやってて……だいがくはオーケストラのサークルはいった」
ミーナが鉄パイプで受け止めるが、刃の衝撃で腕が痺れる。
「そこに、チェロひきのおともだちと、わたしにとってすてきなかれしがいたの」
カルロッタの瞳が一瞬だけ潤む――次の瞬間、踏み込みと同時に突きが放たれる。
ルーシェは辛うじて銃口で逸らすが、手首に鈍い痛みが走る。
「でも、うらぎられた」
その言葉と同時に、動きが一段速くなる。
「かれしは……市街地爆発事件。 あれをやったクソやろうだった」
刃が壁を抉り、石片が飛び散る。
「おともだちは……かってなつごうでわたしをこわした」
その“こわした”という言葉に、カルロッタの声が一瞬震え、刃筋も荒々しくなる。
「なんでわたしがこうなるひつようがあったの……?」
踏み込み。迫る刃先が視界いっぱいに広がる。
「ねえ、なんでよぉ!!!!!」
絶叫と共に刃が振り下ろされ、床ごと深く斬り裂いた。
衝撃で足元が揺れ、背中に冷や汗が伝う。
「あ、あなたも被害者なのは分かった……!! でも!!」
ルーシェは足を踏み込ませ、震える手で銃を構える。
「だからって……あんたが他の誰かを壊していい理由にはならない!!」
「りゆう……?」
カルロッタの瞳がかすかに揺れる。
しかしその揺らぎは一瞬で消え、覆面の下から低い笑い声が漏れた。
「じゃあ……わたしはどうすればよかったの……?」
一歩。
刃が鈍く光る。
「たすけてくれるひともいない。わかってくれるひともいない」
二歩。
靴底が血痕を踏み、湿った音が響く。
「のこったのは……ぜんぶ、こわすことだけ……」
三歩目で、カルロッタは一気に加速した。
「くっ!!」
反射的に引き金を引く。
弾丸はカルロッタの肩を掠めたが、そのまま突進の勢いは止まらない。
ミーナが横から飛び込み、鉄パイプで刃を弾く。
「お前の八つ当たりに、あたしたちは付き合わねぇ!!」
火花が散り、耳鳴りが部屋を満たす。
カルロッタは弾かれながらも、着地と同時に逆足でミーナの脇腹を蹴り飛ばした。
ミーナが呻き声を上げて崩れ落ちる。
「ミーナ!!」
「こんのアマぁ……!! ウチらのOGだかなんだか知らねえけど、この先ぶっ壊したってなにもねえぞ!!」
ミーナが歯を食いしばりながら鉄パイプを構え直す。
「そんなの……やってみないとわかんないよね?」
カルロッタの声は、ひらがなの柔らかさと鋭い刃が同居していた。
「こうはいごときが、せんぱいにくちだししないでよね」
次の瞬間、カルロッタは壁を蹴り、ありえない角度からミーナへ飛びかかった。
金属音が鋭く響き、ミーナの腕が痺れる。
すぐさま連撃。右から左、低い位置からの切り上げ――どれも殺意しかない軌道だ。
「くそっ、速ぇ……!」
ミーナは必死に受け流すが、押し返す余裕がない。
「ミーナ!!」
ルーシェは間に割り込み、銃を撃つ。
しかしカルロッタは体をひねって壁際に張り付き、そのまま垂直に走るように駆け上がった。
「なっ……!?」
天井近くで反転し、真下のルーシェを狙って急降下――。
咄嗟に転がって回避するが、床に突き立った刃がコンクリートを抉り、粉塵が舞う。
「ねぇ……しってる? せんぱいってね……こうはいをまもるんだよ……」
振り返ったカルロッタの瞳には、守るどころか“壊す”以外の意志がなかった。
長い戦闘により、ルーシェとミーナの呼吸は荒くなっていた。
腕は鉛のように重く、握った武器は汗で滑りそうだ。
一歩踏み込むたび、足元がふらつく。
「はぁ……はぁ……っ、こいつ……どんだけ動けんだよ……!」
ミーナが奥歯を噛みしめ、血の味を吐き出す。
「……ミーナ、下がって……っ」
ルーシェも息を乱しながら必死に銃口を上げるが、狙いはもう定まらない。
対してカルロッタは――その息は乱れておらず、むしろ笑っていた。
覆面の下から漏れる呼吸音は、不気味なほど一定だ。
彼女の動きは依然として滑らかで、疲弊という言葉が通じないかのようだった。
「ねぇ……よわくなってきたねぇ。
だいじょうぶ。もうすこしで……ぜんぶ、おわらせてあげるから……」
ルーシェとミーナの間に、見えない壁のような緊張が走る。
刃先がゆっくりと持ち上がり、カルロッタの影が床に伸びる――。
「……いや、終わるのはあなたです。 カルロッタ先輩……!」
ルーシェは息を整える暇もなく、握っていたハンドガンを思い切り投げつけた。
「なに……?」
カルロッタは反射的に頭を傾け、それをかわす。
銃が背後の壁に当たり、甲高い金属音を響かせた。
――その瞬間、カルロッタの視線が一瞬逸れる。
「おらぁっ!!!」
ミーナが全身の力を込め、鉄パイプを横薙ぎに振り抜いた。
鈍い衝撃音が部屋に響き、パイプの先端がカルロッタの腹を深く抉る。
「っ……がはっ!」
覆面の下から苦鳴が漏れ、カルロッタの体がくの字に折れる。
「あっ……ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」
「痛い!!!!!!!!!!!痛い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!やめてええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!」
突然の発狂に、ルーシェとミーナは思わず構えを崩した。
「な、なんだ……? 急に騒ぎ出したぞ!?」
ミーナが息を切らしながら距離を取る。
「やめて!!!!!!ベネ!!!!!!!もう、いやあああああああああああああああああ!!!!!!!」
カルロッタは刃を落とし、両手で頭を抱える。
覆面の下から漏れる声は、先ほどまでの狂気ではなく、怯えと絶望に満ちていた
「ベネ……?」
ルーシェが呟く。聞き覚えのない名前。
「許して!!!!!!!!!!!!お願い!!!!!!!!!!!!ベネ、もう許して………!!!
これ以上、私を壊さないで………!!」
カルロッタの膝が崩れ落ちる。
その叫びは、まるで誰かに拷問されている最中の記憶を追体験しているかのようだった。
ルーシェの胸の奥がざわめく。
(……この反応……“白い部屋”で……私に起きたあの感覚と……似てる……?)
カルロッタは正気に戻ったかのように、力なくその場に崩れ落ちた。
刃は手から滑り落ち、床で鈍い音を立てる。
覆面の奥から、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔がのぞき、濡れた頬が非常灯の赤に照らされる。
「もう……やだ……」
声は震え、途切れ途切れに吐き出される。
「アバルトも……ベネディッタも……みんな……私を裏切って……!!」
その名を聞いた瞬間、ルーシェの背筋が硬直した。
(……ベネ……さっきも叫んでた名前……)
カルロッタは床を握りしめながら、嗚咽を繰り返す。
「なんで……なんで私だけ……こんな目に……」
その姿は先ほどまでの狂気とは別人のようで、ただの傷だらけの人間だった。
「……これって大人しくなった、でいいのか?」
ミーナが鉄パイプを下ろしながら、半信半疑に言う。
「た、多分……?」
ルーシェも呼吸を整えつつ、拾い上げた銃口をわずかに下げた――その瞬間だった。
カルロッタの手が、ルーシェの手首を掴む。
骨まで食い込むような強い握力に、ルーシェは思わず身を引いた。
「わっ!?」
覆面の奥から、かすれた声が零れる。
「お願い……」
「……え?」
「殺して……」
非常灯の赤がカルロッタの瞳を照らし、その奥に怯えと覚悟が同居しているのが見えた。
ミーナが慌てて間に入ろうとするが、カルロッタはルーシェの手だけを離さない。
「殺して……殺して……。
もう、パパもママも、彼氏も友達もいないの……。耐えきれない……。
だからお願い……その銃で、私を殺して……!」
ルーシェは息を詰めた。
銃を握る手が汗で湿り、引き金がやけに重く感じる。
(……この人……ただ狂ってたんじゃない……)
カルロッタの声には、怒りも狂気もなく、ただ全てを諦めた響きだけがあった。
「お願いだよ……名前の知らない私の後輩ちゃん。 お願いだから…!」
「…………」
ルーシェは静かに、銃口をカルロッタに向ける。
「お、おいルーシェ!?」
ミーナの声が震える。
「……これだけ懇願してる。無下になんて出来ない」
自分の声が他人のもののように冷たく響く。
ルーシェの指が、ゆっくりと引き金にかかる。
「……全部を忘れて、楽になりたいんですよね?」
「…………うん。 もう……こんな記憶なんて……いらない」
カルロッタの声は細く、今にも消えてしまいそうだった。
その表情には恐怖も後悔もなく、ただ疲れ果てた安堵が滲んでいる。
(……分かる。私だって……白い部屋の記憶なんて、全部捨ててしまいたい)
ルーシェの胸がじくりと痛む。
あの眩しすぎる光、背中を這う寒気、見えない何かに触れられた感触――思い出したくもない断片が、頭の奥で疼く。
引き金にかけた指先が、ほんのわずかに震えた。
「ルーシェ……!」
ミーナの声が背後から響く。
「ごめんねミーナ。 この人のお願いを、聞いてあげたいの」
「……ありがとう。後輩ちゃん。私がいた記憶は……死に行くんだね」
「………さようなら。 カルロッタ先輩」
そしてルーシェはカルロッタの頭部に向けて引き金を引いた。
乾いた銃声が、密閉された廊下に鋭く響く。
赤い非常灯の中、カルロッタの身体がゆっくりと後ろへ倒れていく。
その瞳からは、もう焦点が消えていた。
口元がかすかに動き、最後に聞こえたのは――
「……ありがとう……」
やがてその声も途切れ、全てが静まり返る。
硝煙の匂いだけが、二人の間に重く残った。
ミーナはしばらく何も言わず、ただルーシェの横顔を見つめる。
ルーシェは表情を変えず、そっと銃口を下ろした。
――――――――――――――――――
硝煙の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
赤い非常灯が、カルロッタの倒れた体をゆっくりと照らし続ける。
「……終わった、のか」
ミーナがかすれた声で呟く。
ルーシェは何も答えず、ただカルロッタの顔を見つめた。
その表情からは、先ほどまでの狂気も、怒りも、何もかもが消えている。
ただ、疲れ切った人間の顔がそこにあった。
「……あの人、ずっと……楽になりたかったんだな」
ミーナは小さく息を吐く。
「……私も」
ルーシェがぽつりと落としたその一言は、あまりにも重く、冷たい。
ミーナが振り返ると、ルーシェは視線を落としたまま、銃をホルスターに戻していた。
その指先が、かすかに震えている。
「……行こう。ここに長居しても仕方ない」
ルーシェはそれだけ言い、背を向ける。
ミーナは最後にもう一度カルロッタの顔を見てから、その場を離れた。
廊下には、非常灯の赤と、二人の足音だけが残っていた。
「さて……ヘルベルトのオッサン探すか」
「うん…!」
だが、その会話を遮るかのように、澄んだ、しかし底冷えするような声が響いた。
『その必要はない』
「!? 誰だっ!?」
二人は即座に振り返る。
『ここだ』
闇の奥から、ゆらりと人影が浮かび上がる。
足元は床についていない。
重力を無視したかのように、黒い影が滑るように近づいてくる。
「うおっ!? う、浮いてる!?」
「……ノーリ!!」
「ノーリ!? こいつが……!」
ミーナが鉄パイプを構え、全身に力を込める。
赤い非常灯の明かりが、ノーリの白い肌と無表情を照らし出す。
その瞳は氷のように冷たく、二人を見据えていた。
『……あの男はもういない』
「あ?」
ミーナの眉がわずかに動く。
『あの男ならもうこの世にはいない、というべきかな』
「どういうこと!? ヘルベルトさんがいないって……まさか、あなたが殺したの!?」
『否。でも事実だ』
「なに訳分かんねえこと言ってんだ偽物!!」
ミーナが怒鳴ると、ノーリは小首を傾げ、無表情のままルーシェを見つめた。
『……偽物、か。だが私は……お前よりも“本物”に近い』
「……何を言ってるの?」
ルーシェの指が、自然とハンドガンのグリップにかかる。
『私はお前の“失われた部分”だ。
お前が思い出せない記憶も……本当はすべて私が持っている』
その言葉に、ルーシェのこめかみがずきりと痛む。
さっきの白い部屋の記憶と、ノーリの冷たい瞳が頭の中で重なった。
「……やっぱり、あの部屋で何をされたのか……あなた、知ってるのね」
『そのために私がここに連れてきたのだが……とんだ無駄足だった』
「無駄足?」
『……私の誤算だ。 ここではあなた…アリナは戻らない』
ルーシェの瞳が細くなる。
「……そういえば言ってたね。記憶の蘇生って」
「記憶の蘇生だぁ? それがここで出来ると思ってたら出来ませんでしたってやつか?」
『……やはり、あの地でしか不可能』
「あの地?」
『……この先の地下へ行け。サイドカーを配置している。
アリナ……あの地へ向かえ』
「だから!! あの地ってなんだよ!!」
『……そこで待っている』
「おいこら!!! 説明しやがれ偽物野郎!!!」
ミーナの怒声が響いた瞬間、ノーリの輪郭が揺らぎ、霧のように空気へ溶けていく。
その瞳だけが最後まで赤く光り、消える直前に――囁く。
『必ず来い。さもなくば……“本物”は私になる』
空気が重く沈黙し、赤い非常灯だけが二人を照らす。
ミーナは吐き捨てるように言った。
「……ったく、何なんだよアイツ」
ルーシェは答えず、ただ強く拳を握りしめていた。
「あの地……」
「あーもーイミフ。 マジで何言ってたんだアイツ?」
「……もしかして」
「え。心当たりあんの?」
「……うん、なんとなくは」
「……わかった。 ルーシェ、あんたの勘に賭けるぜ」
ミーナが肩を軽く叩く。
その手の温もりが、ルーシェの胸の奥で渦巻いていた不安を、ほんの少しだけ押し下げた。
「……ありがとう」
「よっしゃ、それじゃ――」
ミーナが廊下の先を指さす。
赤い非常灯の列が、地下へ続く階段の入り口をぼんやり照らしていた。
「ヘルベルトのオッサンは……もういないんだろうけどさ。
とりあえず“その先”を見に行こうぜ」
ルーシェは小さく頷き、二人は並んで階段を降り始めた。
足音が、金属の響きを伴って地下へと消えていく。
ミーナの背を追いかけながら、ルーシェは無意識に指先を握りしめる。
――歩幅を合わせるのが、こんなに難しかったっけ。
隣を歩くこの背中は、ついさっきまでルーシェを抱きしめていた。
温もりがまだ腕に残っているのに、胸の奥では正体の分からないざわめきが渦を巻く。
それは懐かしさにも似ていたけれど、名前をつけることができない。
「……寒くねぇか?」
ミーナがふいに振り返り、短く問いかける。
「だ、大丈夫。……ほら、動いてると汗かくし」
強がるように返すと、彼女は鼻で笑って前を向いた。
歩きながら、耳の奥でかすかな金属音が響く。
奥の通路から、何かが転がるような音。
ルーシェは思わず足を止めたが、ミーナは振り返らない。
その背中を追って再び足を進めると、湿った空気の匂いが変わった――
鉄と薬品、そして……白い、何かの匂い。
足元のライトが一瞬だけ途切れ、闇がルーシェを飲み込む。
次に光が戻ったとき、通路の先に「白」が見えた。
通路の突き当たり。
そこだけが、不自然なほど明るかった。
まるで周囲の煤けた壁や錆びた床とは別の世界――
真っ白な、四角い口がぽっかりと開いている。
「……なに、あれ……」
ルーシェの声が震える。
足が勝手に止まった。
背筋の奥に冷たいものが走る。
ミーナがルーシェの前に立つ。
「……病室か、研究室か……でも、今は――」
その時だった。
「っ……!」
視界が、真っ白に染まった。
頭の奥が、針で刺されるような痛み。
立っていられず、壁に手をつく。
ミーナの呼ぶ声が遠のく中――
断片的な映像が、まぶたの裏に焼き付いた。
冷たいベッド。
眩しいライト。
何かを押し当てられる額の感触。
白衣の人物が何かを記録している。
そして――
“番号で呼ばれる”自分の声。
「……やめ……やめて……っ!」
無意識に叫んでいた。
手が震え、心臓が暴れる。
「おい、ルーシェ!? ど、どうしたんだよっ!?」
ミーナの声が近いのに、どこか遠い。
耳の奥で、金属の擦れる音と、人の息づかいが重なって響く。
それが現実の音なのか、記憶の中の音なのか――分からない。
「……っ、ここ……知ってる……」
掠れた声が、自分の口から漏れる。
「……あの部屋で……何か……された……」
言葉にした瞬間、背筋を氷で撫でられたみたいに寒気が走った。
視界が揺れ、吐き気が込み上げる。
「何かされた!? どういうことだよ…?」
ミーナの声が一気に鋭くなる。
ルーシェは、うまく説明できなかった。
説明する言葉よりも、断片的な光景と感触が先に頭を占領してしまう。
「わかんない……でも、怖い……!!」
「……チッ、分かった。とにかくここから離れるぞ!」
肩をぐっと抱かれ、ルーシェは半ば引きずられるように白い部屋から距離を取った。
遠ざかるにつれ、あの光の残像が少しずつ薄れていく。
――――――――――――――――――
壁にもたれ、荒い呼吸を整える。
「……大丈夫か?」
ミーナが横目でこちらを見る。
「……うん」
口ではそう答えたが、胸の奥のざわつきは消えていなかった。
「あのやべー部屋……あんたが記憶ぶっ飛んでるのと関係ありそうだな」
彼女は低く呟き、鉄パイプを膝に立てかけた。
「……かもしれない」
自分でも驚くほど素直にそう返していた。
あの白い光の中で、何かをされた感触。
それが“何か”を奪ったような気がする。
「あの部屋と……黒ローブ。 そこだけはなんとなく…覚えてる」
自分で口にした瞬間、心臓が強く脈打った。
黒ローブ――その輪郭だけが、やけに鮮明に浮かぶ。
顔は闇に沈んで見えなかったのに、背筋を這い上がるような声と、冷たい視線だけが刻み込まれている。
ミーナが目を細める。
「黒ローブ……私も散々見たわ。 やっぱアイツらが原因だよな」
鉄パイプを肩に担ぎ直し、彼女は深く息を吐いた。
「……顔は?」
「見えない。だけど、見られてた気はする。……すごく、嫌な目で」
「嫌な目?」
「……もしかすると、私はクローンの実験にでもされたのかなって。
ほら、ノーリの事もあるし……」
「……だとしたらクソだな」
ミーナの声は低く、吐き捨てるようだった。
拳をぎゅっと握りしめ、鉄パイプの先が床を擦る。
ルーシェは視線を伏せる。
白い部屋と黒ローブ、そしてノーリの影が、頭の奥で絡み合って離れない。
記憶は欠けているのに、心だけがざわついている。
「でも分かんねえな……仮にだぜ? そのノーリってのがあんたのクローンだとしてだ。 なんであんたなんだ?」
「……分からない」
答えながら、胸の奥がじくりと痛んだ。
理由が分からないことよりも、“選ばれた”という響きに嫌悪感があった。
それは誇らしさじゃなく、汚れを押し付けられたみたいな感覚だ。
「誰でも良かったのか、それとも私じゃないといけない何かがあるのか……」
自分の声がやけに冷たく聞こえる。
ミーナは鉄パイプを肩に担ぎ、わずかに顔をしかめた。
「……どっちにしても気分の悪ぃ話だな」
吐き捨てるように言い、床に視線を落とす。
「まぁとりあえずさ、あのクソッタレな白部屋は忘れようぜ」
「うん……そうだね」
声にしただけで少し軽くなる気がしたが、それは表面だけだと自分でも分かっていた。
頭の奥にこびりついた白と黒の残像は、決して消えない。
ミーナが歩き出す。
その後ろを追った瞬間、足元に黒く濡れた跡が目に入った。
乾ききっていない血痕が、廊下の奥へと伸びている。
「……辿ってみるか」
ミーナは短く言い、鉄パイプを握り直す。
血の跡を追って進むと、半開きの鉄扉の向こうに死臭が漂っていた。
部屋に入った途端、鼻腔を突く鉄臭さ。
教団員らしき男たちが何人も倒れており、胸や首に深い刺し傷が走っている。
「……化け物じゃねぇな、人間の仕業だ」
ミーナの声が低く響く。
次の瞬間――背後で、空気が裂ける音がした。
反射的に振り返った瞬間、銀色の刃が目の前をかすめた。
空気を裂く鋭い音と共に、頬に冷たい風が走る。
「うおおおっ!?!?」
「きゃっ!?」
そこに立っていたのは、全身を黒いボディスーツで覆った女。
瞳は焦点を結んでいない。
まるで何かを見ているのではなく、“自分の中の闇”だけを覗いているようだった。
「……なんで、よけるの?」
すぐさまルーシェはハンドガンを構え、ミーナは鉄パイプを握りしめる。
「なんだこの女…!? こいつも教団の!?」
「ミーナ! 気を付けて!!」
「……あれぇ? よくみたらきみたち……そのふく、ルードこうこうのじゃん」
彼女の声は掠れているのに、どこか子供が歌をなぞるような抑揚が混じっている。
「あぁ!? だったらなんだよ!!」
「わたし……カルロッタっていうの。こんにちは、かわいいこうはいちゃん」
その口元だけが歪み、口だけが笑っている気配がする。
「そう。OGってやつだよ」
ゆらり、と体が左右に揺れる。
その動きはリズムを刻んでいるようでいて、次にどちらへ動くか予測できない。
まるで獲物の反応を楽しんでいる肉食獣のようだ。
「……だからね、かわいいこうはいちゃん」
カルロッタの瞳が細くなり、声が低く沈む。
「ぜんぶ、こわしてあげるよ……そしたら、みんなおなじになるからぁ!!!!!」
カルロッタが床を蹴った。
耳を裂くような甲高い音と共に、黒い影が視界を横切る。
その速さは、化け物よりも鋭く、しかしどこか人間らしい“間”を含んでいた。
「くっ……!」
反射的に引き金を引く。
銃声が狭い部屋に炸裂し、耳が焼けるように痛む。
だがカルロッタは、頭をわずかに傾けるだけで弾丸を躱した。
髪の端が切れ、空気の中に一筋の黒が舞う。
「そうそう、それでいいよ……もっと、わたしをみて!!」
ミーナが横から鉄パイプを叩き込む。
「させるかよっ!!」
金属と金属が激突する甲高い音。
カルロッタは刃でパイプを受け止め、そのまま手首を返し、刃先をミーナの顎下へ滑り込ませようとする。
「ミーナ!!」
ルーシェは銃口を下げ、膝を狙って発砲。
弾が太腿をかすめ、カルロッタが一歩退く。
だが、その顔には痛みも怒りもない。
むしろ口元が笑っている。
「いいね……やっぱり、るーどこうこうのこは……つよいなぁ……」
次の瞬間、カルロッタは両足を交差させて床を蹴り、低い姿勢のまま回転。
その動きでパイプを弾き上げ、ミーナの腕を無理やり開かせた。
空いた懐に飛び込み、肘でミーナの腹を打ち上げる。
「ぐっ……!」
ミーナの息が詰まる。
「くっ……このっ!!」
必死に反撃しようと腕を振るうが、カルロッタはわずかに身を捻るだけでかわす。
「こわれろ…こわれちゃえばいいんだよ、ぜんぶ!!!!」
叫びと同時に、カルロッタの動きが一段階速くなる。
刃が横薙ぎに走り、壁に深い溝を刻む。
次には低く沈み込み、床を滑るようにしてルーシェへ突進――。
反射的に引き金を引く。
だがカルロッタは、わずかに上半身を傾けただけで弾丸を回避し、そのまま懐へと潜り込む。
「はっ……!」
腕を掴まれ、全身に衝撃が走る。
視界が一瞬で回転し、背中から床へ叩きつけられた。
息が詰まり、肺が悲鳴を上げる。
「だめだよ……おとなしくしてて……こわすのは、あたしのやくめなんだから……」
カルロッタの顔が覆面の影から覗き込み、瞳だけが異様に爛々と輝く。
「ルーシェ!!!」
ミーナが叫び、横から鉄パイプを振り下ろす。
だがカルロッタは手首を返して刃を立て、パイプを受け流すと同時に逆の足でミーナの膝を蹴り飛ばした。
「ぐあっ!」
ミーナが崩れ落ちる。
「やめろぉっ!!」
ルーシェは必死に膝を蹴り上げ、カルロッタの体勢を崩す。
その隙に転がって距離を取るが――カルロッタはもう、笑っていた。
「そうだよ……そのかお……もっともっと……」
刃を持った腕が、また低い位置からじりじりと上がってくる。
「わたしね……ルードこうこうをそつぎょうして、スピックエンツォってだいがくにいったの」
カルロッタは一歩踏み出しながら、抑揚のない声で語る。
「おえかきがすきで、びじゅつせんこうにはいった」
横薙ぎの刃。ルーシェはギリギリで身を捻り、頬に冷たい風を感じる。
「それだけじゃない。おんがくもすき」
逆手に刃を持ち替え、低い姿勢で踏み込んでくる。
「すいそうがくやってて……だいがくはオーケストラのサークルはいった」
ミーナが鉄パイプで受け止めるが、刃の衝撃で腕が痺れる。
「そこに、チェロひきのおともだちと、わたしにとってすてきなかれしがいたの」
カルロッタの瞳が一瞬だけ潤む――次の瞬間、踏み込みと同時に突きが放たれる。
ルーシェは辛うじて銃口で逸らすが、手首に鈍い痛みが走る。
「でも、うらぎられた」
その言葉と同時に、動きが一段速くなる。
「かれしは……市街地爆発事件。 あれをやったクソやろうだった」
刃が壁を抉り、石片が飛び散る。
「おともだちは……かってなつごうでわたしをこわした」
その“こわした”という言葉に、カルロッタの声が一瞬震え、刃筋も荒々しくなる。
「なんでわたしがこうなるひつようがあったの……?」
踏み込み。迫る刃先が視界いっぱいに広がる。
「ねえ、なんでよぉ!!!!!」
絶叫と共に刃が振り下ろされ、床ごと深く斬り裂いた。
衝撃で足元が揺れ、背中に冷や汗が伝う。
「あ、あなたも被害者なのは分かった……!! でも!!」
ルーシェは足を踏み込ませ、震える手で銃を構える。
「だからって……あんたが他の誰かを壊していい理由にはならない!!」
「りゆう……?」
カルロッタの瞳がかすかに揺れる。
しかしその揺らぎは一瞬で消え、覆面の下から低い笑い声が漏れた。
「じゃあ……わたしはどうすればよかったの……?」
一歩。
刃が鈍く光る。
「たすけてくれるひともいない。わかってくれるひともいない」
二歩。
靴底が血痕を踏み、湿った音が響く。
「のこったのは……ぜんぶ、こわすことだけ……」
三歩目で、カルロッタは一気に加速した。
「くっ!!」
反射的に引き金を引く。
弾丸はカルロッタの肩を掠めたが、そのまま突進の勢いは止まらない。
ミーナが横から飛び込み、鉄パイプで刃を弾く。
「お前の八つ当たりに、あたしたちは付き合わねぇ!!」
火花が散り、耳鳴りが部屋を満たす。
カルロッタは弾かれながらも、着地と同時に逆足でミーナの脇腹を蹴り飛ばした。
ミーナが呻き声を上げて崩れ落ちる。
「ミーナ!!」
「こんのアマぁ……!! ウチらのOGだかなんだか知らねえけど、この先ぶっ壊したってなにもねえぞ!!」
ミーナが歯を食いしばりながら鉄パイプを構え直す。
「そんなの……やってみないとわかんないよね?」
カルロッタの声は、ひらがなの柔らかさと鋭い刃が同居していた。
「こうはいごときが、せんぱいにくちだししないでよね」
次の瞬間、カルロッタは壁を蹴り、ありえない角度からミーナへ飛びかかった。
金属音が鋭く響き、ミーナの腕が痺れる。
すぐさま連撃。右から左、低い位置からの切り上げ――どれも殺意しかない軌道だ。
「くそっ、速ぇ……!」
ミーナは必死に受け流すが、押し返す余裕がない。
「ミーナ!!」
ルーシェは間に割り込み、銃を撃つ。
しかしカルロッタは体をひねって壁際に張り付き、そのまま垂直に走るように駆け上がった。
「なっ……!?」
天井近くで反転し、真下のルーシェを狙って急降下――。
咄嗟に転がって回避するが、床に突き立った刃がコンクリートを抉り、粉塵が舞う。
「ねぇ……しってる? せんぱいってね……こうはいをまもるんだよ……」
振り返ったカルロッタの瞳には、守るどころか“壊す”以外の意志がなかった。
長い戦闘により、ルーシェとミーナの呼吸は荒くなっていた。
腕は鉛のように重く、握った武器は汗で滑りそうだ。
一歩踏み込むたび、足元がふらつく。
「はぁ……はぁ……っ、こいつ……どんだけ動けんだよ……!」
ミーナが奥歯を噛みしめ、血の味を吐き出す。
「……ミーナ、下がって……っ」
ルーシェも息を乱しながら必死に銃口を上げるが、狙いはもう定まらない。
対してカルロッタは――その息は乱れておらず、むしろ笑っていた。
覆面の下から漏れる呼吸音は、不気味なほど一定だ。
彼女の動きは依然として滑らかで、疲弊という言葉が通じないかのようだった。
「ねぇ……よわくなってきたねぇ。
だいじょうぶ。もうすこしで……ぜんぶ、おわらせてあげるから……」
ルーシェとミーナの間に、見えない壁のような緊張が走る。
刃先がゆっくりと持ち上がり、カルロッタの影が床に伸びる――。
「……いや、終わるのはあなたです。 カルロッタ先輩……!」
ルーシェは息を整える暇もなく、握っていたハンドガンを思い切り投げつけた。
「なに……?」
カルロッタは反射的に頭を傾け、それをかわす。
銃が背後の壁に当たり、甲高い金属音を響かせた。
――その瞬間、カルロッタの視線が一瞬逸れる。
「おらぁっ!!!」
ミーナが全身の力を込め、鉄パイプを横薙ぎに振り抜いた。
鈍い衝撃音が部屋に響き、パイプの先端がカルロッタの腹を深く抉る。
「っ……がはっ!」
覆面の下から苦鳴が漏れ、カルロッタの体がくの字に折れる。
「あっ……ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」
「痛い!!!!!!!!!!!痛い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!やめてええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!」
突然の発狂に、ルーシェとミーナは思わず構えを崩した。
「な、なんだ……? 急に騒ぎ出したぞ!?」
ミーナが息を切らしながら距離を取る。
「やめて!!!!!!ベネ!!!!!!!もう、いやあああああああああああああああああ!!!!!!!」
カルロッタは刃を落とし、両手で頭を抱える。
覆面の下から漏れる声は、先ほどまでの狂気ではなく、怯えと絶望に満ちていた
「ベネ……?」
ルーシェが呟く。聞き覚えのない名前。
「許して!!!!!!!!!!!!お願い!!!!!!!!!!!!ベネ、もう許して………!!!
これ以上、私を壊さないで………!!」
カルロッタの膝が崩れ落ちる。
その叫びは、まるで誰かに拷問されている最中の記憶を追体験しているかのようだった。
ルーシェの胸の奥がざわめく。
(……この反応……“白い部屋”で……私に起きたあの感覚と……似てる……?)
カルロッタは正気に戻ったかのように、力なくその場に崩れ落ちた。
刃は手から滑り落ち、床で鈍い音を立てる。
覆面の奥から、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔がのぞき、濡れた頬が非常灯の赤に照らされる。
「もう……やだ……」
声は震え、途切れ途切れに吐き出される。
「アバルトも……ベネディッタも……みんな……私を裏切って……!!」
その名を聞いた瞬間、ルーシェの背筋が硬直した。
(……ベネ……さっきも叫んでた名前……)
カルロッタは床を握りしめながら、嗚咽を繰り返す。
「なんで……なんで私だけ……こんな目に……」
その姿は先ほどまでの狂気とは別人のようで、ただの傷だらけの人間だった。
「……これって大人しくなった、でいいのか?」
ミーナが鉄パイプを下ろしながら、半信半疑に言う。
「た、多分……?」
ルーシェも呼吸を整えつつ、拾い上げた銃口をわずかに下げた――その瞬間だった。
カルロッタの手が、ルーシェの手首を掴む。
骨まで食い込むような強い握力に、ルーシェは思わず身を引いた。
「わっ!?」
覆面の奥から、かすれた声が零れる。
「お願い……」
「……え?」
「殺して……」
非常灯の赤がカルロッタの瞳を照らし、その奥に怯えと覚悟が同居しているのが見えた。
ミーナが慌てて間に入ろうとするが、カルロッタはルーシェの手だけを離さない。
「殺して……殺して……。
もう、パパもママも、彼氏も友達もいないの……。耐えきれない……。
だからお願い……その銃で、私を殺して……!」
ルーシェは息を詰めた。
銃を握る手が汗で湿り、引き金がやけに重く感じる。
(……この人……ただ狂ってたんじゃない……)
カルロッタの声には、怒りも狂気もなく、ただ全てを諦めた響きだけがあった。
「お願いだよ……名前の知らない私の後輩ちゃん。 お願いだから…!」
「…………」
ルーシェは静かに、銃口をカルロッタに向ける。
「お、おいルーシェ!?」
ミーナの声が震える。
「……これだけ懇願してる。無下になんて出来ない」
自分の声が他人のもののように冷たく響く。
ルーシェの指が、ゆっくりと引き金にかかる。
「……全部を忘れて、楽になりたいんですよね?」
「…………うん。 もう……こんな記憶なんて……いらない」
カルロッタの声は細く、今にも消えてしまいそうだった。
その表情には恐怖も後悔もなく、ただ疲れ果てた安堵が滲んでいる。
(……分かる。私だって……白い部屋の記憶なんて、全部捨ててしまいたい)
ルーシェの胸がじくりと痛む。
あの眩しすぎる光、背中を這う寒気、見えない何かに触れられた感触――思い出したくもない断片が、頭の奥で疼く。
引き金にかけた指先が、ほんのわずかに震えた。
「ルーシェ……!」
ミーナの声が背後から響く。
「ごめんねミーナ。 この人のお願いを、聞いてあげたいの」
「……ありがとう。後輩ちゃん。私がいた記憶は……死に行くんだね」
「………さようなら。 カルロッタ先輩」
そしてルーシェはカルロッタの頭部に向けて引き金を引いた。
乾いた銃声が、密閉された廊下に鋭く響く。
赤い非常灯の中、カルロッタの身体がゆっくりと後ろへ倒れていく。
その瞳からは、もう焦点が消えていた。
口元がかすかに動き、最後に聞こえたのは――
「……ありがとう……」
やがてその声も途切れ、全てが静まり返る。
硝煙の匂いだけが、二人の間に重く残った。
ミーナはしばらく何も言わず、ただルーシェの横顔を見つめる。
ルーシェは表情を変えず、そっと銃口を下ろした。
――――――――――――――――――
硝煙の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
赤い非常灯が、カルロッタの倒れた体をゆっくりと照らし続ける。
「……終わった、のか」
ミーナがかすれた声で呟く。
ルーシェは何も答えず、ただカルロッタの顔を見つめた。
その表情からは、先ほどまでの狂気も、怒りも、何もかもが消えている。
ただ、疲れ切った人間の顔がそこにあった。
「……あの人、ずっと……楽になりたかったんだな」
ミーナは小さく息を吐く。
「……私も」
ルーシェがぽつりと落としたその一言は、あまりにも重く、冷たい。
ミーナが振り返ると、ルーシェは視線を落としたまま、銃をホルスターに戻していた。
その指先が、かすかに震えている。
「……行こう。ここに長居しても仕方ない」
ルーシェはそれだけ言い、背を向ける。
ミーナは最後にもう一度カルロッタの顔を見てから、その場を離れた。
廊下には、非常灯の赤と、二人の足音だけが残っていた。
「さて……ヘルベルトのオッサン探すか」
「うん…!」
だが、その会話を遮るかのように、澄んだ、しかし底冷えするような声が響いた。
『その必要はない』
「!? 誰だっ!?」
二人は即座に振り返る。
『ここだ』
闇の奥から、ゆらりと人影が浮かび上がる。
足元は床についていない。
重力を無視したかのように、黒い影が滑るように近づいてくる。
「うおっ!? う、浮いてる!?」
「……ノーリ!!」
「ノーリ!? こいつが……!」
ミーナが鉄パイプを構え、全身に力を込める。
赤い非常灯の明かりが、ノーリの白い肌と無表情を照らし出す。
その瞳は氷のように冷たく、二人を見据えていた。
『……あの男はもういない』
「あ?」
ミーナの眉がわずかに動く。
『あの男ならもうこの世にはいない、というべきかな』
「どういうこと!? ヘルベルトさんがいないって……まさか、あなたが殺したの!?」
『否。でも事実だ』
「なに訳分かんねえこと言ってんだ偽物!!」
ミーナが怒鳴ると、ノーリは小首を傾げ、無表情のままルーシェを見つめた。
『……偽物、か。だが私は……お前よりも“本物”に近い』
「……何を言ってるの?」
ルーシェの指が、自然とハンドガンのグリップにかかる。
『私はお前の“失われた部分”だ。
お前が思い出せない記憶も……本当はすべて私が持っている』
その言葉に、ルーシェのこめかみがずきりと痛む。
さっきの白い部屋の記憶と、ノーリの冷たい瞳が頭の中で重なった。
「……やっぱり、あの部屋で何をされたのか……あなた、知ってるのね」
『そのために私がここに連れてきたのだが……とんだ無駄足だった』
「無駄足?」
『……私の誤算だ。 ここではあなた…アリナは戻らない』
ルーシェの瞳が細くなる。
「……そういえば言ってたね。記憶の蘇生って」
「記憶の蘇生だぁ? それがここで出来ると思ってたら出来ませんでしたってやつか?」
『……やはり、あの地でしか不可能』
「あの地?」
『……この先の地下へ行け。サイドカーを配置している。
アリナ……あの地へ向かえ』
「だから!! あの地ってなんだよ!!」
『……そこで待っている』
「おいこら!!! 説明しやがれ偽物野郎!!!」
ミーナの怒声が響いた瞬間、ノーリの輪郭が揺らぎ、霧のように空気へ溶けていく。
その瞳だけが最後まで赤く光り、消える直前に――囁く。
『必ず来い。さもなくば……“本物”は私になる』
空気が重く沈黙し、赤い非常灯だけが二人を照らす。
ミーナは吐き捨てるように言った。
「……ったく、何なんだよアイツ」
ルーシェは答えず、ただ強く拳を握りしめていた。
「あの地……」
「あーもーイミフ。 マジで何言ってたんだアイツ?」
「……もしかして」
「え。心当たりあんの?」
「……うん、なんとなくは」
「……わかった。 ルーシェ、あんたの勘に賭けるぜ」
ミーナが肩を軽く叩く。
その手の温もりが、ルーシェの胸の奥で渦巻いていた不安を、ほんの少しだけ押し下げた。
「……ありがとう」
「よっしゃ、それじゃ――」
ミーナが廊下の先を指さす。
赤い非常灯の列が、地下へ続く階段の入り口をぼんやり照らしていた。
「ヘルベルトのオッサンは……もういないんだろうけどさ。
とりあえず“その先”を見に行こうぜ」
ルーシェは小さく頷き、二人は並んで階段を降り始めた。
足音が、金属の響きを伴って地下へと消えていく。
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