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夜の森の男
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森の空気が変わったのは、遠吠えが聞こえてからだった。
薄暗い枝葉の奥、見慣れたはずの森道が妙に冷たく感じる。
鳥の鳴き声すら途絶え、足音だけがやけに耳に残る。
俺は剣の柄に手を添えたまま、イーリスの方を振り返った。
「イーリス、疲れてないか?」
「ううん、大丈夫。……でも、なんか、風が変だよね」
彼女も気づいている。獣道の先に、確かに何かがいるのだろう。
あの咆哮、あれが自然のものとは思えない。
「どんな魔物だったか、その見た目だけでも分かれば王都に報告できる。嘘じゃないと理解してもらえれば――」
言いかけた時だった。
「……人?」
木々の間にぽっかりと空いた空間。
月光に照らされたそこに、男は立っていた。
黒いローブ。深く被ったフードのせいで顔は見えない。
けれど、月の下でも輪郭は曖昧に揺れていて、人間離れした雰囲気がある。
俺は剣に添えた手に力を込めた。
「こんな時間に、なにをしてるんですか?」
男は反応しない。返事も、動きもない。
ただ、その代わりというようにごうっ、と大気が揺れた。
思わず後ずさってしまうような強風。
しかし男は、そこに固定されているように立ち尽ちつくす。
「……聞こえてないの?」
イーリスが呟く。
「いや、聞こえてるさ。聞こえたうえで、無視してる」
わざとだ。こちらの警戒を試しているのか。
俺は少しだけ前に出て、声を強める。
「エンベル村の者です。あなたは、あの遠吠えに関係してるんですか?」
そう言った時、男の顔の下――フードの奥から、にたりと光る目だけが見えた。
背筋をなぞる冷たい感覚。
「……よく来たなぁ」
男の口が動いた。音は小さく、けれどはっきりと耳に届いた。
「こんな夜遅くに、大変だったろう。帰り道は分かるかな?」
声にまったく抑揚がないのに、笑っているような響きがある。
「……この人、気持ち悪い……」
イーリスが呟いた。
俺は剣を構え、そっと彼女の前に出る。
「あなたが、遠吠えを引き起こしているんですか?」
男は答えない。
風もないのに、フードの奥が揺れる。
「言葉が通じているなら、答えてください!」
声を張ったつもりだったが、返事は、妙にのんびりとした調子だった。
「……答えが欲しいかい?」
「当たり前です。ふざけないでください」
「ふざけてなんかいないさ。私はただ、気づけたかどうかの話をしているんだよ」
意味がわからない。
だが、男の目が、こちらを見据えていることだけはわかった。
「君たち、賢そうにしているが……まだ何も知らない」
ぬるい風が頬を撫でる。
「目の前のことに気を取られすぎて、近くにある答えを見逃してしまう。愚かだねぇ」
その言葉に、なぜかぞくりと感じ――いや違う。
恐怖を感じたのは聴覚ではなく嗅覚だ。
男の数メートル向こう側。森の影。その一角に何かが横たわっていた。
「っ……!」
俺は反射的に一歩踏み出し、目を凝らす。
木の根にひっかかるようにして倒れていたのは、兵士だった。
王都の紋章をあしらった革鎧。傷だらけの身体。目は見開かれたままで、動かない。
「……王都の、兵士……?」
声がかすれる。鼓動が速くなる。
手紙に返事も寄越さなかった彼らがなぜ――いや、依頼の受理はされていた?
連絡が途絶えていた理由はこれなのか?
「生きてる……?」
イーリスが小さく問いかける。
「……いや、もう……遅い」
近づかずとも分かる。皮膚の色が悪すぎる。
何より、空気が異常に冷たい。
「隠れて人を殺しているのか」
「違うよ?」
男の声が、唐突に響いた。
「私は隠れていたわけじゃない。君たちが見つけられなかったんだ。考えれば分かるのに、思考を放棄してしまう。本当に愚かだなぁ」
言葉そのものに力はない。
だが、それを口にする存在が明らかに異質。
「おまえは……何なんだ」
俺がそう呟くと、男はわずかに顔を上げ――そのフードの奥で、白く牙のような笑みを見せた。
「今、何かであることに意味はないよ。これから何になるかは大切だけどね。ほら、私の影を見てごらん?」
その言葉と同時だった。
足元の影――男の立っていた地面の影が、ずるりと蠢き、地を這うように広がり始めた。
「っ……!」
咄嗟に剣を抜く。
刹那、黒い影の――その背後から、無数の赤い瞳が浮かび上がった。
何かが飛び出してくる。牙、爪、濁った肌。それは森の魔物でも、野生の獣でもない。
「イーリス、下がれ!」
俺は横に跳んでイーリスを庇う。
影から飛び出したそれは、牙を剥いてこちらに飛びかかってきた。
寸前で剣を振り抜き、首元を斬る――が、動きが止まらない。
(……切ったはずなのに!?)
肉を断った感触がない。
「今度は気付けるかな? 君は、これには勝てない」
ようやく、月光が魔物に追いつく。
真紅の目。粘つくような黒い体毛。巨大な狼のような魔物で、口元からは紫の煙が漏れていた。
「イーリス、逃げるん――」
本能に従う速度で負けた。
一瞬で間合いを詰められ、俺の脇腹に鋭い爪が食い込む。
焼けるような痛みと同時に、何かが体内に入り込んでくるような違和感。
「う……が、あ……!」
「兄さん!!」
イーリスの悲鳴が遠くに聞こえる。
俺は声にならない呻きをあげながら、地面に膝をついた。
剣を持つ手が震える。視界がじわりと霞む。
「……兄さんを、これ以上傷つけさせない!」
イーリスの方へ首を向けると、彼女は両手を広げて魔術を放とうとしている。
戦ってはいけないと言いたいのに、間に合わない。
「――ルクス・アロー!」
魔法陣が空中に浮かび、光の矢が編まれていく。
だが、魔物の赤い瞳がそれを捉えた瞬間――ぐしゃり、と音を立ててその身体が地を跳ねた。
「イーリス、やめ――!」
叫ぶより早く、魔物の爪が光の矢を叩き落とした。
そのままに地を引き裂き、イーリスの足元を薙ぐ。
彼女の身体はバランスを崩し、地面へと叩きつけられる。
顔を庇った腕に裂傷が走り、血が跳ねた。
「る、くす――」
それでもイーリスは逃げなかった。
震える腕で必死にもう一度魔力を練ろうとする。
だが、魔物の牙が、ゆっくりと彼女の首元へと迫っていた。
「……あぁ、惜しいなぁ」
どこからともなく、あの男の声が届いた。
その声音には、まるでがっかりした教師のような諦念が滲んでいた。
「もう少しで、君は気づけたはずなのに。やはり、感情は思考を鈍らせる」
その言葉が地面を這い、俺の心臓を突き刺そうと、膝から登ってこようとしている。
目の前には、牙が迫るイーリスの顔。
恐怖に染まっていても、それでも目を逸らさない妹の姿がある。
(せめて、イーリスだけでも――)
限界に近い身体が悲鳴を上げる中で、俺はわずかに手を上げた。
震える指先に魔力を集中させる。意識が飛びかけても、目だけは閉じない。
「……っ、イーリスから……離れろ……!」
指先に収束していた淡い光が、破裂するように広がった。
「――ルクス・スフィア!」
まばゆい閃光が照らす。
太陽が地上に落ちたかのような白光が、魔物の赤い瞳を直撃した。
「ギ、アァアア――ッ!」
甲高い絶叫が響く。
魔物はその場でのたうち、地面を引き裂きながら後退していく。
その身体を覆う影が、まるで煙のように揺らぎ、消えかけたかと思うと、黒煙となって霧の中へと溶けた。
「素晴らしい!」
男の声が響く。しかし、どこにいるのかわからない。
「気づけずとも最善の答えを出せることもあるようだ。ふむ、本当に素晴らしい。感動したよ」
何を言いたのか理解できないが、声がどんどん遠くなっていく。
「君たちを殺すのは最後にしよう。周りの村を滅ぼして、最後に会いにいくよ。それまでに気付けるといいねぇ」
気配が消えた。やつは去っていったのだ。
「……兄さん!」
イーリスが地面から身を起こし、こちらへ駆け寄る。
俺は顔を上げようとしたが、糸が切れたように、身体が動かない。徐々に意識が遠くなっていく。
「レオン兄さんっ!? 起きてよ、お願い――!」
必死に呼びかけるイーリスの声だけが、脳に響いていた。
薄暗い枝葉の奥、見慣れたはずの森道が妙に冷たく感じる。
鳥の鳴き声すら途絶え、足音だけがやけに耳に残る。
俺は剣の柄に手を添えたまま、イーリスの方を振り返った。
「イーリス、疲れてないか?」
「ううん、大丈夫。……でも、なんか、風が変だよね」
彼女も気づいている。獣道の先に、確かに何かがいるのだろう。
あの咆哮、あれが自然のものとは思えない。
「どんな魔物だったか、その見た目だけでも分かれば王都に報告できる。嘘じゃないと理解してもらえれば――」
言いかけた時だった。
「……人?」
木々の間にぽっかりと空いた空間。
月光に照らされたそこに、男は立っていた。
黒いローブ。深く被ったフードのせいで顔は見えない。
けれど、月の下でも輪郭は曖昧に揺れていて、人間離れした雰囲気がある。
俺は剣に添えた手に力を込めた。
「こんな時間に、なにをしてるんですか?」
男は反応しない。返事も、動きもない。
ただ、その代わりというようにごうっ、と大気が揺れた。
思わず後ずさってしまうような強風。
しかし男は、そこに固定されているように立ち尽ちつくす。
「……聞こえてないの?」
イーリスが呟く。
「いや、聞こえてるさ。聞こえたうえで、無視してる」
わざとだ。こちらの警戒を試しているのか。
俺は少しだけ前に出て、声を強める。
「エンベル村の者です。あなたは、あの遠吠えに関係してるんですか?」
そう言った時、男の顔の下――フードの奥から、にたりと光る目だけが見えた。
背筋をなぞる冷たい感覚。
「……よく来たなぁ」
男の口が動いた。音は小さく、けれどはっきりと耳に届いた。
「こんな夜遅くに、大変だったろう。帰り道は分かるかな?」
声にまったく抑揚がないのに、笑っているような響きがある。
「……この人、気持ち悪い……」
イーリスが呟いた。
俺は剣を構え、そっと彼女の前に出る。
「あなたが、遠吠えを引き起こしているんですか?」
男は答えない。
風もないのに、フードの奥が揺れる。
「言葉が通じているなら、答えてください!」
声を張ったつもりだったが、返事は、妙にのんびりとした調子だった。
「……答えが欲しいかい?」
「当たり前です。ふざけないでください」
「ふざけてなんかいないさ。私はただ、気づけたかどうかの話をしているんだよ」
意味がわからない。
だが、男の目が、こちらを見据えていることだけはわかった。
「君たち、賢そうにしているが……まだ何も知らない」
ぬるい風が頬を撫でる。
「目の前のことに気を取られすぎて、近くにある答えを見逃してしまう。愚かだねぇ」
その言葉に、なぜかぞくりと感じ――いや違う。
恐怖を感じたのは聴覚ではなく嗅覚だ。
男の数メートル向こう側。森の影。その一角に何かが横たわっていた。
「っ……!」
俺は反射的に一歩踏み出し、目を凝らす。
木の根にひっかかるようにして倒れていたのは、兵士だった。
王都の紋章をあしらった革鎧。傷だらけの身体。目は見開かれたままで、動かない。
「……王都の、兵士……?」
声がかすれる。鼓動が速くなる。
手紙に返事も寄越さなかった彼らがなぜ――いや、依頼の受理はされていた?
連絡が途絶えていた理由はこれなのか?
「生きてる……?」
イーリスが小さく問いかける。
「……いや、もう……遅い」
近づかずとも分かる。皮膚の色が悪すぎる。
何より、空気が異常に冷たい。
「隠れて人を殺しているのか」
「違うよ?」
男の声が、唐突に響いた。
「私は隠れていたわけじゃない。君たちが見つけられなかったんだ。考えれば分かるのに、思考を放棄してしまう。本当に愚かだなぁ」
言葉そのものに力はない。
だが、それを口にする存在が明らかに異質。
「おまえは……何なんだ」
俺がそう呟くと、男はわずかに顔を上げ――そのフードの奥で、白く牙のような笑みを見せた。
「今、何かであることに意味はないよ。これから何になるかは大切だけどね。ほら、私の影を見てごらん?」
その言葉と同時だった。
足元の影――男の立っていた地面の影が、ずるりと蠢き、地を這うように広がり始めた。
「っ……!」
咄嗟に剣を抜く。
刹那、黒い影の――その背後から、無数の赤い瞳が浮かび上がった。
何かが飛び出してくる。牙、爪、濁った肌。それは森の魔物でも、野生の獣でもない。
「イーリス、下がれ!」
俺は横に跳んでイーリスを庇う。
影から飛び出したそれは、牙を剥いてこちらに飛びかかってきた。
寸前で剣を振り抜き、首元を斬る――が、動きが止まらない。
(……切ったはずなのに!?)
肉を断った感触がない。
「今度は気付けるかな? 君は、これには勝てない」
ようやく、月光が魔物に追いつく。
真紅の目。粘つくような黒い体毛。巨大な狼のような魔物で、口元からは紫の煙が漏れていた。
「イーリス、逃げるん――」
本能に従う速度で負けた。
一瞬で間合いを詰められ、俺の脇腹に鋭い爪が食い込む。
焼けるような痛みと同時に、何かが体内に入り込んでくるような違和感。
「う……が、あ……!」
「兄さん!!」
イーリスの悲鳴が遠くに聞こえる。
俺は声にならない呻きをあげながら、地面に膝をついた。
剣を持つ手が震える。視界がじわりと霞む。
「……兄さんを、これ以上傷つけさせない!」
イーリスの方へ首を向けると、彼女は両手を広げて魔術を放とうとしている。
戦ってはいけないと言いたいのに、間に合わない。
「――ルクス・アロー!」
魔法陣が空中に浮かび、光の矢が編まれていく。
だが、魔物の赤い瞳がそれを捉えた瞬間――ぐしゃり、と音を立ててその身体が地を跳ねた。
「イーリス、やめ――!」
叫ぶより早く、魔物の爪が光の矢を叩き落とした。
そのままに地を引き裂き、イーリスの足元を薙ぐ。
彼女の身体はバランスを崩し、地面へと叩きつけられる。
顔を庇った腕に裂傷が走り、血が跳ねた。
「る、くす――」
それでもイーリスは逃げなかった。
震える腕で必死にもう一度魔力を練ろうとする。
だが、魔物の牙が、ゆっくりと彼女の首元へと迫っていた。
「……あぁ、惜しいなぁ」
どこからともなく、あの男の声が届いた。
その声音には、まるでがっかりした教師のような諦念が滲んでいた。
「もう少しで、君は気づけたはずなのに。やはり、感情は思考を鈍らせる」
その言葉が地面を這い、俺の心臓を突き刺そうと、膝から登ってこようとしている。
目の前には、牙が迫るイーリスの顔。
恐怖に染まっていても、それでも目を逸らさない妹の姿がある。
(せめて、イーリスだけでも――)
限界に近い身体が悲鳴を上げる中で、俺はわずかに手を上げた。
震える指先に魔力を集中させる。意識が飛びかけても、目だけは閉じない。
「……っ、イーリスから……離れろ……!」
指先に収束していた淡い光が、破裂するように広がった。
「――ルクス・スフィア!」
まばゆい閃光が照らす。
太陽が地上に落ちたかのような白光が、魔物の赤い瞳を直撃した。
「ギ、アァアア――ッ!」
甲高い絶叫が響く。
魔物はその場でのたうち、地面を引き裂きながら後退していく。
その身体を覆う影が、まるで煙のように揺らぎ、消えかけたかと思うと、黒煙となって霧の中へと溶けた。
「素晴らしい!」
男の声が響く。しかし、どこにいるのかわからない。
「気づけずとも最善の答えを出せることもあるようだ。ふむ、本当に素晴らしい。感動したよ」
何を言いたのか理解できないが、声がどんどん遠くなっていく。
「君たちを殺すのは最後にしよう。周りの村を滅ぼして、最後に会いにいくよ。それまでに気付けるといいねぇ」
気配が消えた。やつは去っていったのだ。
「……兄さん!」
イーリスが地面から身を起こし、こちらへ駆け寄る。
俺は顔を上げようとしたが、糸が切れたように、身体が動かない。徐々に意識が遠くなっていく。
「レオン兄さんっ!? 起きてよ、お願い――!」
必死に呼びかけるイーリスの声だけが、脳に響いていた。
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