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しおりを挟む「何か心に引っ掛かっているものがあるんじゃないかな?」
カルテに書き込みながら医師が穂高に訊いた。それまでずっと月に一度の通院だったのに、二、三ヶ月程前から学校帰りに薬が切れたと吸入器を貰いに一人で病院へ来るようになっていた。
「どうして、そんな風に思うんですか」
「ん?」
書いていたカルテから目線を上げて眼鏡をずらしながら医師が穂高に向き合う。看護師は忙しなくファイルを持って次の患者さんの準備を進めていた。穂高は看護師の様子を横目で見ながら医師の言葉を待った。
「君の症状の悪化は大気環境に因るところが大きいと考えられるが、前回よりもさらに炎症が酷くなってる。吸入器を使っていればこんな炎症は起こらない筈だよ。ちゃんと使っていないね。何か理由が?」
レントゲンを確認しながらいわれて膝に乗せていた両手の拳を無意識にぎゅっと握りしめ、目を反らしたまま穂高は話した。出来るだけ冷静に、無闇に心配をかけないように努めて淡々と。
「無くしちゃうんです。僕、少し抜けてるから。目を離すとすぐ」
医師は長いまつ毛に囲われた大きな瞳が以前よりも曇っているのに気づいた。
「……まぁ無くす事もあるよね。そんな大きなものでもないし。でも予備も三つは渡してるし、吸入器は一人で出歩かないよ」
「はい……」
「大丈夫、誰にも言わない」
その言葉を聞いてハッとしたように穂高は顔を上げた。眼鏡を通さずに見つめる医師の目はとても真摯だった。この人なら話しても大丈夫かも知れない。穂高は口を開いた。
「始めは一人が揶揄いだしたんです。僕の吸入器がなくなったらどうなるのって聞かれたから僕は強がって、平気なんだけど念のために吸ってるんだ、って嘘をついたんです。本当は使わないと呼吸が苦しくなっちゃうのに。それがないと生きていけない欠陥人間みたいに思われるのが嫌で。それを人質みたいに思われそうで。
中学になって他の小学校から上がってきた子達は僕の事をあまり知らないから見栄を張ってしまったんです。そうして嘘をついてしまってからは大っぴらに吸えなくなってトイレで吸ったりして誤魔化してたんです。
そしたらあいつは体育の授業に出たくないからあんなもの持ち歩いてるんだって、本当は無くても大丈夫な体なんだぜって、変な噂が流れだしたんです。学校で喘息を抱えているのは僕だけで、余り症状を理解してもらえていなかったから。
あいつはズルをして先生の同情を引いてる、マラソンもしなくていいんだ、卑怯だってどんどん話が膨れて行って、持ってる吸入器を隠されるようになって。それでも予備をいくつか持っていたし、運動を抑えている日は家に帰ってすぐに吸引して凌いでいたんですけどそれも限界になって……」
いたずらと言う名のイジメはどんどんエスカレートしてきていた。吸入器の次は体操服。その次は上靴。その内自分自身さえ隠されるのだろうと穂高は怯えて過ごしていた。
「―――お母さんには話したの?」
「いえ。心配させたくないし、仕事が忙しいので」
「友達は?」
首を横に振って俯いた。
「学校の先生には?」
また同じ様に首を横に振る。話している内に悔しさを思い出したのか涙がじわっと目に滲みだした。穂高はそれを見せまいとまた下を向いた。医師は優しく諭す様に話した。
「教えてくれてありがとう」
柔和な笑顔の目尻には患者を和ませようと沢山微笑んだ分だけ皺が刻まれている。
「ここは黄砂が沢山飛んでくる地域だし、工場も多い。症状改善を望む患者にとってこの場所はいい環境とは言えない。実は君が中学生になっても症状改善が見られなければ空気の綺麗な所への転居を考えましょうとお母さんと話していたんだよ。タイミング的にはちょうどよいのかも知れない。移住する事をどう思っているのか聞かせてくれないか?」
それから穂高と医師は十分くらい話し込んだ。体の事を第一に考え、本人の意向を聴きとり、医師は穂高の移住を薦めた。
穂高の母親は中小企業に正社員で働いていて、転居となると正社員を辞めなければならない。片親なのだから経済的にも打撃になる。自分の体のために母親が頑張って勤めてきたそれまでを全部ふいにしてしまう気がして、穂高は一人で移住する事を決断した。喘息の所為でほとんど外遊びができなかった穂高は色白で、線の細さがさらにか弱い印象を与えたが、外見にそぐわず頑固だった。母親は心配したが母親の実家には祖父母もいるし、自分の事を誰も知らない学校に転校すれば、新しく生まれ変われるような気もしていた。嘘つき呼ばわりされずに、普通の中学生として暮らせる。転居が進んで内心ほっとした穂高だった。
具体的な病状を新しいクラスメイトたちに話すことなく、激しい運動のある体育の授業は見学して過ごした。他の生徒たちが教師に訊いても、教師も体調が悪いんだと説明するだけだった。病気の事を言わないでほしいという穂高の意志は尊重されていた。
大きな瞳はいつも潤んでいて綺麗な顔立ちをしているせいかどこか近寄りがたい雰囲気がある穂高は、一見ツンとしたように見えるのに、誘えば優しそうな笑顔で答えるので、転移先の生徒たちは穂高を病弱な王子様と言うポジションに据え、下世話な事を根掘り葉掘り訊いてくることはなかった。基本無口な穂高もどこが悪いのか追及される事がないので自ら説明することもなかった。
空気の綺麗な場所で過ごし始めてすぐに喘息の症状は快方に向かい、月一回大きな街の総合病院で診てもらっていた定期健診も今では村の内科の先生に診てもらえばいいようになり、体育も軽い運動量のものならできるようになった。環境が変わるとこんなにも体が変わるのかと穂高自身がびっくりするほどに症状は改善した。
だからといってすぐに気管機能が正常になるわけでもなく、自分から遊ぼうと誘う社交的なタイプではない穂高は変わらず持病の症状を隠した。
片親であるというと「大変ね」と前の学校の同級生の親たちから憐憫の目を向けられ、喘息という症状が加わると「可哀そうに」とさらに同情されて居心地が悪かった。だから転校先では喘息であることは生徒たちには知らせないでほしいと教師に頼んであった。病気の重さを知らない友人たちは早く仲良くなろうと穂高を遊びに誘った。穂高がどれができてどれができないは分からない。誰も穂高の病気の事を知らない。だからこそ、それほど気を使わずに声を掛けられた。症状もみんなの前では軽い咳程度ですぐに治まる。穂高は不思議な自由を感じていた。このまま持病の事などなかったかのように過ごせるのではないかと思った矢先の出来事だった。
酷い喘息の症状が学校で出た日からクラスメイトの様子がよそよそしくなり穂高はショックを受けた。
「俺ら友達やなかったんか」
「なんで話してくれんかったじゃろ」
「王子様は田舎もんとは友達になれんて事か」
友達なら話すべきだったと遠巻きになる状態が暫く続いた。みんなとの距離がどんどん遠くなっていくのが怖いのに、穂高には弁解や説明をする勇気がなかった。また同じことが起きるのかな。そんな不安が穂高をさらに寡黙にさせた。
皆が放課後下駄箱に集まって自転車で出かける計画をしていた。
「ナガサワまで時間かかるから荷物置いたら即山本んち集合な。お前あれ持って来いよ、この前借した本、田辺が見たいって言ってたから」
「りょうかい。じゃぁ後でな」
みんなの会話を聞きながら穂高は隠れるようにして靴を履き替えた。
話している店は村を南に下って一つ峠を越えた場所にあり、家からは自転車で三十分以上かかる。喘息の状態が随分よくなったとはいえ許容以上の運動量をするガッツはまだない。自転車は思ったより激しい運動で、坂道の上りはたくさんは漕げない。いつもなら喘息の事を全面に押し出すことなく断わっていた放課後の遊びが、実は喘息で自転車を長距離こげないからだとなると、今まで嘘をついていたような気がして余計に引け目を感じる。
穂高が一人で帰る事はそれまでもたびたびあった。激しそうな遊びの誘いや遠方への自転車でのお出かけなど、運動量が予測できない場合は祖父母の手伝いをするのだと言って断っていた。田畑を持っている家庭が多く、そう答えれば誰も何も問わなかった。今は違う。誰にも誘われる事もなく、一人で帰る。
世話になっている祖父母も夕方までは畑や田んぼの仕事をしているから送ってくれなどと気軽に頼めない。帰り道も迎えに来てもらわなければならない。誘われたとしても、どの道行けないから断る事になる。遊べないという状況は変わらない。なのにもう誘われないという事がとても苦しかった。
一人の時間が続くとそれがだんだん当たり前になっていった。寄り道もせず帰り、宿題が終わればテレビを見る以外する事がない。再び退屈な毎日が始まった。誘われないだけで、別に避けられているわけではない。授業も普通に受けているし、昼休みには漫画の話で盛り上がる事もある。
ただ孤独感だけが日に日に増して行った。話の輪に入りたいのに穂高も遠慮するようになった。まるで見えないアクリル板を据え付けられたようだ。
「いじめられないだけマシか」
冷めた感覚を持つ方が楽な気がして、気にしていない態度を貫く事にした。微妙な距離がさらに穂高を孤立させていった。
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