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第十週「入港ぜんざい」
(48)キャラメルの甘さに誘われて
しおりを挟むところが睦郎の方は言えば、なんとも言えない酢を飲んだような表情をしながら黙りこくってしまった。あの妖怪のような表情を止めてくれたのは良いのだが、これはこれで非常に気になる表情ではないか。
新しい好奇心の種を産み出すんじゃないばかりに、赤岡は眉を寄せて睦郎に呼び掛ける。
「何か問題でも?」
「…………おれの中での赤岡さんは、あの帝大生の頃で止まっとるさかい……」
ボソッと呟かれた一言。睦郎にとっての赤岡像は、彼が帝大に通っていた頃のままで止まっている。それは赤岡が目を丸くするのに十分な一言だった。
(……なんだ)
いつも相手に重ねて見るのは、その昔に出会った頃の姿。歳を経て再会しようとも、あの日から時は止まったまま。
睦郎にとっての赤岡は、帝大に通っている歳上の医学生の姿で固定されている。それと同じように、赤岡も睦郎のことを今でもあの給仕の少年の姿のままで止まっていたのだ。
(気持ちに整理をつけられていなかったのは、お互い様ということか)
少し呆れたように天井へ視線を巡らせる。配管がむき出しになっている軍艦の天井だ。この天井を毎日見れるのは海軍の軍人だけだというのに、それでも自分達の気持ちは二十年前のあの日のままだった。
それを知れただけでも、赤岡にとっては安心できる。自分の気持ちと上手に向き合えず、苦しんでいるのは一人だけじゃないという事実だけで。
「いや、そんなことよりもな。おれには決めあぐねとることがあんねん、赤岡さん」
「そんなこと」
突如現実に引き戻され、赤岡は前につんのめりそうになった。なぜこの余韻をぶち壊しにするような真似をするのだろう。
しんみりとしていた気持ちを「そんなこと」呼ばわりされ、梯子を外された気分になった赤岡であった。
「重要やで。慎重に決めんと戦争が起こる」
「なにがですか」
「赤岡さんはつぶ餡が好きやったな」
「それが何か」
「それやで……ほら、好き嫌いが別れるやん。こし餡とつぶ餡で」
なるほど、その心配があったか。つぶ餡が苦手という人は意外といたりする。もしくは、こし餡こそが至高と信じて疑わない者も。
それこそが睦郎にとっての心配事だったのだ。無事に帰ってきたことを祝う甘味で争い事が勃発するなど、笑うに笑えない。
食事は美味しいと心の底から納得できてこそ楽しめる。そこに無駄な論争など必要ない。誰もが旨いと笑える物を考えるべし。それが睦郎の信条だ。
「他のもんやったら“なあなあ”で済ませて貰えるかもしれへんけどな。さすがに甘味は保証できひん」
「それでしたら、こし餡にしてしまえば良いのでは。それなら無駄な論争は起きないでしょうに」
こし餡派はこだわりが強いが、つぶ餡派は意外にもその辺りは寛容である。今まで乗ったことがある艦で経験的に覚えていたために出てきた言葉だった。
しかし、睦郎は「アカン」と首を横に振る。
「おれも長島くんも、あれをぜんざいやとは認めへんで……なんやねん……こし餡で作った汁はぜんざいやのうてお汁粉やろ……」
「はあ……そうですか」
甘味一つとってしても、関東と関西では意味がまったく違ってくる。
睦郎や長島が産まれ育った関西では、つぶ餡を使う物がぜんざい。こし餡を使う物がお汁粉と明確に別れているが、関東ではそれらは全て纏めて汁粉である。
新潟の産である赤岡にとっては正直どうでも良い話だったのだが、関西人である睦郎にとってはどうでもよくない話らしい。
睦郎が食のことで熱く語るのなど特に珍しい話でもないのだが、ぐっと拳を握り締めて力説していた。
「心底どうでも良い論争ですね……私を含めた東の人間はそんなに気にしていませんよ」
「おれが気にしまっせ」
「はいはい」
食には特にこだわりの無い赤岡らしい解答と言えばそうだろうが、睦郎にとってはまったくもって納得のいかない話である。少しは乗ってくれたって良いではないかと、非難の視線をじっとり向けた。
(ああ、面倒くさい……)
面倒なことになったな、と赤岡は天を仰ぐ。こうなったときの睦郎は、非常に面倒くさいのだ。なんとか逃げられない物かとざっと視線を流し……そして、入り口を丁度通りかかった士官に目が止まる。
(あれは、)
非常に見覚えがある顔だ。上背のある立派な体格に、キリッとした正に海軍士官の理想とも言うべき精悍な顔付き。
通りかかったのが砲術科の瀧本大尉だ。こんな時間にこんなところを通りかかるなど珍しい。だが、赤岡にとっては好都合だった。
「そこで何をやっているので、瀧本大尉」
「へ? あ、俺ですか」
まさか通りすぎようとした部屋の中からご指名を賜るとは思ってもいなかったのだろう。瀧本は一瞬挙動不審になって、そして呼ばれた方向を見てから相手が軍医長だったことに気付いてパッと敬礼をする。
「あ、逃げた」
「黙らっしゃい。こんな時間にこんな所で何をやっているかと思えば……」
答礼を返して合図を送ったことで、意図を読み取った瀧本が室内に入ってきた。そんな彼の手には、なぜかキャラメルの箱が大量にある。
「大尉、その大量のキャラメルはどうしたので?」
「嗚呼これですかい……」
呼び止められた理由が手の中にあるキャラメルだったと気付いた瀧本が、苦笑いをしながら丁寧に答える。
「何てこたぁ無いですぜ。これはさっき、クラスメートやコレスと一緒にポーカーやったときの戦利品です」
「あら、若い子でポーカーをやっていたのですか」
そういえば何やらここに来る前、ワードルームの一角で盛り上がっているなとは思っていた。どうやらそれは、この瀧本大尉達がポーカーをやっていたからだったようだ。金銭でのやり取りは問題なので、代わりにキャラメルを使ったのだろう。その結果が、この大量のキャラメルである。瀧本はどうやら賭け事も得意らしい。
それにしてもキャラメルを賭けて真剣勝負をする海軍士官とは、なんとも微笑ましい光景である。
「ほうかぁ。若い衆でポーカーやっとったんかぁ。若いってエエなぁ……おれらはもう、縁側で将棋か碁でも指しとる方が似合っとるわぁ……」
「それ、もしや私も含んでいるのでは無いでしょうね」
しれっと赤岡のことを頭数に入れていた睦郎だった。
「若い時分やったらもうちょっと冒険もできたんやろうけどな。この歳になると失う物も多いし、気軽に博打なんかできひんわ」
「無視ですか」
「それに主計科は今、忙しいしなぁ……修羅場が終わったら、うちの長島くんも誘ってやりぃ」
「えっ───長島も参加してたのですが?」
ビシッ、と空気が凍った。これはいったい、どういうことだ。
長島は主計科の庶務主任として、残っている仕事があるとか言いながら事務室に籠るとか言っていたはず。だから睦郎はその言葉を信じて主計科の事務室を留守にしたというのに。
「長島は俺のコレスですぜ。てっきり主計長も知っているのだとばかり……」
「アッ」
「……」
睦郎の手元から、ミシッと何かが軋む音。それは、彼が指先で持ってた鉛筆が、圧力のせいで折れそうだと悲鳴を挙げた音だった。
「あいつなにやっとんねん……」
「マズイ、主計長の阿修羅が目覚めた」
「あ、あれ? もしかして俺、なんかマズイことやっちまいましたか……?」
悪夢、再び。またあの妖怪のように純粋な恐怖を誘う表情を顔面に貼り付けた睦郎が、すっくと立ち上がった。
何をやるのかなんて目に見えている。私室に戻って私物の出刃包丁とやらを取りに行くつもりだ。
だがしかし──そんなことさせるかとばかりに、赤岡が動く方が早かった。
「待ちなさい、ちょっと。待ちなさいと言っている!」
珍しく息を荒らげながら、赤岡は即座に動いてゆらりと立ち上がっていた睦郎の背後を取る。そのまま彼を羽交い締めにしつつ、赤岡は瀧本に呼び掛けた。
「長島……長島……長島……」
「主計長がご乱心です、大尉。とりあえず、そのキャラメルを一粒で良いので主計長の口に放り込みなさい。それで少しは大人しくなる!」
「え? え?」
「いいから、早く!」
バタバタ暴れだした睦郎の動きを必死で封じ込めつつ、赤岡は叫んだ。どうしてこうなった、と。
そうして今日も重巡「古鷹」の一日は過ぎていく。
三月十日。
いえ、確かにオレが悪かったんですがね。さすがに出刃包丁は怖いですから。なんであの人はあれを私物として持ち込んでいるんですか。そもそも、あんな凶器を艦内に持ち込んで良いのですか。
……え? あ、料理用に。そうですか……はあ。
あ、マズイ。主計長がここを嗅ぎ付けたようですので、オレはこれで失礼させていただきます。
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