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一夜越えて
金盞花─ショーネン趣味と独身主義(後)─
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当番兵と馬の後ろ姿が見えなくなるまで見送った後に、尾坂は前庭を埋め尽くす勢いで群生している鳳仙花の間を縫いながら玄関の鍵を回す。
「………」
長靴を脱いで揃え、廊下の床板を軋ませながら家の中を進んでいく。裸電球の電源を入れると、途端に居間が橙色の光に包まれた。ドサッと書類鞄を隅に置いて軍帽を放り投げ、軍衣の釦に手をかける。
─────脱げよ
瞬間、不意に脳裏を潮の香りが掠めた。同時に、あの男の低くて甘く響く声も……
「……くそっ」
悪態を吐いて足音も荒く、普段軍服を仕舞ってあるクローゼットに近付く。扉を開けるとキィという音。古いために蝶番の辺りが軋んでいるのだろう。また油を差さないといけないかもしれない。
腰に吊った軍刀を外して所定の位置に置き、ズボン吊りをするりと肩から滑らせて………だがそのままピタリと動きを止める。
「……………」
コチコチ、コチコチ。首から下げた恩賜の銀時計の秒針がやけに大きく聞こえた。蓋を閉めている上で襦袢の下に仕舞ってあるので音は少しくぐもっていたが、陸士を首席で卒業した証である銀時計は正確に時間を刻み続ける。
「……………」
ふぅ、と深く息を吐いた。そのまま踵を返して押し入れのある方に向かう。かた、と普段開ける方とは反対側の襖を開けると、そこにはこっそり集めて並べている雑誌が変わらず揃って背表紙を見せている。
名前は少年倶楽部。月刊誌だ。購買層は男子小学生と中学生で、主に小説が掲載されているがたったの一本だけ漫画も載っている。一冊手に取って頁を広げると、雑誌の荒い紙の手触りとインクの臭いが物語の世界の片鱗を見せていった。
くるりと半回転して壁に背を付け、そのままストンと座り込む。
活字ばかりの頁をパラパラと飛ばしていって、辿り着いたのは絵と吹き出しの中の文字で構成された漫画の頁。そこに書かれた表題は、後に日本の長編漫画の先駆けとも言われるようになる『のらくろ二等兵』だった。
作者はかつて陸軍で兵役を経験しており、それを作品の世界観に落とし込んでいるらしい。随所で陸軍の、それも歩兵聯隊内での訓練内容や生活を作品の世界観に合わせて再構築している。
最初は上手く作ったものだと感心しながら頁を捲っていたのだ。しかし………
「…………」
パラリ、と頁をめくった。孤児である野良犬黒吉ことのらくろが、猛犬聯隊に入営して二等兵となる所からのらくろの物語は始まる。最初はへまばかりやって叱られ、しまいめには営倉送りにされる羽目になるのだが……彼は少しずつ、着実に信頼を積み重ねて聯隊長や中隊長から一目おかれるようになっていく。要は出世の物語だ。実に夢のある話だ、と思う。
……それだけの、はずだった。
「……………」
ドサリ、と横になる。行儀が悪いが、今日は体裁を整える気にもなれなかった。寝転がったままで雑誌の頁を捲り、犬の兵隊の物語を隅から隅までじっくりと読み込む。
どれほど時間がたったのだろうか。やがて一話丸々読み終えた尾坂はそのままパタンと雑誌を閉じて、ころんと仰向きになる。
「………」
遠くの方で蜩が鳴いていた。昼間に騒がしかった蝉どもとはうって変わって、どこか哀愁を誘う渋い鳴き声が余韻を残しながらスッと消えていく。かと思えばまたどこかで別の蝉が鳴き始めた。
窓の外にはすっかり闇に包まれた宵の空が広がっている。
────もう……それならいっそのこと、結婚を考えてみたらどうだ。妻帯を持ったら流石のお前も落ち着くだろ
(……奥池さんは何も悪くない………)
そう自分に言い聞かせて自分を宥めようとしても、無理なものは無理だった。胃の辺りが締め付けられる感覚。
不意に尾坂はむっくりと起き上がる。勿論、手に持っていた少年誌を畳の上に置き去りにしたまま。かと思えば畳を蹴って走り出した。
「ぅ、ぐ……」
口元を手で押さえ、バタバタと派手に足音を立てながら慌てて駆け込んだのは洗面所。バンッと派手な音を響かせ洗面台に手を着いて踞り、そして、喉の奥までせりあがって来ていた物を盛大に吐き出す。時間帯が時間帯なため胃液しか出なかったが嘔吐したことには変わり無い。
「おぇっ………は、ぁ……………ッ」
胃が痙攣を起こしているのが自分でも判る。胃袋どころか腹の中の臓腑が全てひっくり返ったのではないかというほど気持ちが悪い。しかし悲しきかな。慣れているため上手いこと吐瀉物を誘導させることはできたので、鼻の方には行かせなかった。鳩尾あたりを押さえたのがまたキリリと痛みと不快感を与えてきて、衝動のままに再び胃液を吐き出す。
「ぅ………あ……」
ぜぇはぁと肩で息をしながら洗面台にすがり付くと、纏めてあった前髪がパラリと解れて目元にかかった。
「………」
そっと顔を上げると、鏡の中に闇を纏って酷い顔をしている男がいる。
醜く、穢れきった──不格好で、何もかも中途半端な、化け物の子供が。
「………はは」
力無く笑い声を上げ、尾坂はぎゅっと拳を握り締めた。爪が食い込むほど強く握ったせいで、掌から出血したが関係ない。今は自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
(………皆、知らないから仕方がない………悪いのは全て私だ。本当のことを何も言えない私が悪いんだ…………!)
……誰も、本当の事を知らない。
尾坂と瀧本の本当の関係も、尾坂の実の母親は隼三郎閣下の姪と同一人物であることも、そして───尾坂が独身主義を掲げた本当の理由も。
「………気持ちが悪い」
ぼそっと囁いた声は思った以上に低く掠れていた。当番兵にはそれっぽく切り取って綺麗に揃えた理由を提示したが……尾坂が独身主義を掲げるようになった真の理由は、少し違う。
……これは砲工学校に入学した頃の話だ。たしか東京に戻った頃だったので間違いない。
同期達数名に拉致されて、料亭に遊びに出掛けた時のこと。少尉任官時に集まれなかったから、ここらで後れ馳せながら一発派手に、とのことでお節介な鷹山が芸者を手配したのだ。
歩兵や騎兵に進んで聯隊旗手を務めた同期達も、一年経ってその役を後任に引き継いだということもあってかその日はノリと勢いで童貞を捨てようとかいう魂胆もあったのだろう。かくして各自で芸者を伴って部屋に引き上げた時のこと。
尾坂自身はあまり乗り気ではなかった。自分が女役をやらされ続けたということもあってか、こういうことに対して妙な嫌悪感を抱いていたせいだ。だが、芸者の方は乗り気だった。ここで断れば彼女のプライドを著しく傷付けてしまうだろう……ということは明白だったのだ。だから、仕方がなく行為に及ぼうと芸者に触れて…………
────瞬間、初めて味わう感覚が喉元まで込み上げた。
今まで経験したことも無いような感覚に襲われたのだ。臓腑に氷の塊を詰められたような凍えが来て、次いで背筋を強張らせたのは純然たる恐怖。そして、言い知れない気持ちの悪さ。
それらは全て、全て、女性に対して抱いたものではない。理由は、原因は、自分自身で一番よく理解していた。そう、尾坂がおぞましい嫌悪と恐怖を感じたのは自分だ。いいや、違う。恐怖したのは、正確に言うと自分の身体に対してだ。
その事実に気付いて我に返った尾坂は、自分の身体への恐れと怯えを必死になって隠しきって、急に用事を思い出したというように声を上げて一人芝居を打った。もう必死だったのだ。
明日までに提出しなければならない書類があったことを忘れていた───と、芸者に伝えて大慌てで服装を整えながら料亭を飛び出して一路、隼三郎の家へと形振り構わず走り続けた。実際に明日提出の書類があったので助かった。
そして隼三郎の住まう官舎に戻るやいないや、厠に駆け込み盛大に嘔吐した。
大叔父は急に帰ってきたかと思えば厠に飛び込んだ途端に激しく嘔吐を繰り返す自分に仰天して、慌てて駆け寄り背中を擦りながら軍医を呼ぼうとしてくれた。だが、原因が判っていたため「呼ばないでくれ」と懇願したのだ。
生理的な物かそれとも別の理由か、止まらない涙を拭うことさえできずに尾坂はそれを口にした。
────自分が怖い。いいや、もっと正確に言えば自分が子供を作れる身体を持っていることが怖い、と。
怖かった。恐ろしくてたまらなかった。自分が健康な身体を持っていることが。子種が出せる身体だということが。何もかもが恐ろしくてたまらなかった。
脳裏を過ったのは母のこと。あの人は、出産が原因で命を落とした。それもいわれのない誹謗中傷に晒される中で、出血が止まらずに何日も生死の境をさ迷いながら。苦しんで苦しんで、苦しみ抜いてこの世を去ったのだ。
母を殺した自分が、母が命を落とす原因となった子供を成せる身体を持っていることがどうしても受け入れられなかった。
自分が───あれほど憎んでいるはずの父親と同じことをしてしまうかもしれない、同じことができる身体を持っているのが恐ろしかった。
「…………」
きゅっと水道の蛇口を捻って水を出すと、それを両手で受け止め口に含んで嫌な味を流し、ついでに顔を洗う。
鏡を見ると、青白い顔があった。それでもなお、嫌がらせのように綺麗に整っている。
……目元が侯爵に、お前の父に似ている。そう言われたのは大人になってからだった。
「ッ」
突発的に顔を殴りたくなって拳を振り下ろした。いや、下ろそうとした。だが……
──────その代わり、自分で自分を傷付けるのはもう止めろ。いいな
あの男の声が、尾坂を──仙を引き戻す。
「………くそッ!」
変わりに行き場を失った拳をガンッと洗面台に叩き付けて、尾坂は水道の蛇口を捻って水を止めた。
よろよろと足元が覚束ないまま居間に戻り、畳の上にゆっくりと身を横たえる。襦袢の下から飛び出した銀時計がカランと音を立てて目の前に転がった。
「………」
視線の先には先程置いていった少年倶楽部がある。それを見届け、そっと目を閉じた。
「……………れい……」
のらくろ自体については別になんとも思っていない。だが──のらくろに感情移入しなかった、と言えば嘘になる。
紙面の中にいる犬の兵隊に感情移入すること自体がおかしいと言われそうだが、本当に読んでいるうちにいつの間にかのらくろと自分を重ねて見てしまったのだ。
孤児で歩兵の二等卒であるのらくろと、父親の庇護の元でしっかり教育を受けて工兵の将校になった自分。似ている所など無いはずなのに、なぜ?
………軍に入るまで、ひとりぼっちで寂しい思いをずっとしていた。たったそれだけで、尾坂はのらくろと自分を重ねて見てしまったのだ。
中学に入るまで尾坂は実父から隔離されて無菌室の中で育った。関わった者は皆全て尾坂に知識を与える者ばかりで、共に努力を研鑽して成長していく友人も………暖かい情を教えてくれる両親もいなかった。
(だからといって、のらくろに感情移入なんぞすることはないだろうに……)
胎児のように小さく踞って、横になったまま膝に顔を埋める。
────ああ、うん。お前のことを考えてた
(うるさい、黙ってろ……)
─────難しいだろうけど少しは罵倒の種類も増やしとけって。いざというとき役に立つから
(余計なお世話だ……!)
ぎゅっと唇を噛んで自分自身を守るように腕を前で交差させ、よりいっそう小さく丸まる。
(どうしてお前は……ッ一番側にいてほしい時に側にいてくれないんだ………!)
憎いはずの男の顔を思い出して、どうしようもできない寂しさに襲われた。なぜ、どうして。憎い相手のはずなのに、どうして自分は奴にこんなにもすがり付いてしまうのだろう、と。
(………次は何時会えるんだよ…………)
じわっと目に涙の膜が張る。惨めな気持ちに打ちのめされた。
海軍軍人なんてもの、海に出れば数ヶ月帰ってこられないことくらいざらだ。頭では判っているはずなのに、心が追い付かない。追い付いてくれない。
寂しい、寂しい、寂しい。会いたくてたまらない。八つ当たりしてしまうと判っていても、話を聞いてほしい。助けて欲しい。黙って抱き締めてほしい。
「………れいじ……」
自分に彼の名を呼ぶ資格なんてないことくらい承知の上だ。それでも口にしてしまうのはなぜなのだろう。
日本人とは言えない灰青色の瞳、瑞典人にしては目鼻立ちの薄い顔立ち。
大人というには情緒が不安定すぎて、子供というには世の中の汚さを知り過ぎて擦れた心。
いくら女顔といっても生物学上は女ではなく、かといって生物学上問題なく男だとしても社会的には男として著しく不出来な自分。
……こんな自分がどうしようもなく嫌になる。
「…………零士…」
ぐすっと鼻をすする音。溢れた涙が目元を伝って畳を濡らす。
大丈夫。耐えることなんて、我慢することなんて慣れている。これくらいなんてこと無いさ。
自分を励ますように彼の名をそっと囁いて、尾坂はそっと目を閉じた。
金盞花:【別離の悲しみ】【寂しさに耐える】
参考文献
『写真で見る日本陸軍 兵営の食事』藤田昌雄/光人社
『陸軍よもやま物語』棟田博/光人社NF文庫
『陸軍員外学生』石井正紀/光人社NF文庫
『陸軍人事新装版 その無策が日本を亡国の淵に追いつめた』藤井非三四/光人社NF文庫
「───ああ、なんだ。戻ったのか」
駐屯地に戻り、馬房内に馬を繋いで出てきた尾坂の当番兵に声をかける者がいた。
こんな時間にいった誰だと胡乱そうな顔で振り返り、しかしそこに立っていたのが奥池聯隊長だということに気付いて当番兵は跳び跳ねる勢いで身体を棒のように伸ばして敬礼する。
「れっ、聯隊長!!」
「すまん、驚かせたか」
悪気はなかったが、驚かせたのは事実だ。奥池は素直に詫びた。ショーネン趣味が玉に瑕だが、元々気さくな聯隊長は下っ端である上等兵にも屈託無く話しかけてきてくれる。
だがしかし、相手は中佐だ。中隊長の当番兵である彼であっても、奥池は正しく雲の上のような存在だった。緊張するのも無理はない。
「……あいつの当番も大変だろう」
「はっ、あ……ええ、まあ……それは確かにそうなのでありますが………ですが、やりがいは十分あるのであります」
「そうなのか?」
「はい! あの方はあの方なりに部下のことを気にかけて下さっていることを、あの方と深く関わって初めて知れました。尾坂中隊長は冷たいように見えましても、お優しい方でありますから」
「………そうか」
ふ、と小さく息を漏らして奥池はゆるく微笑む。
「こっちに飛ばされてきた時はどうなることかと思ったんだがな。あいつ、指揮官というよりは技術屋だから」
「そこは中隊長も気にかけておられました。ですが……中隊長は投げ出されず、向いてないなりに努力されておられると、自分は思います」
「なら良いんだ……特サン(※特務曹長)が君をあいつの当番にしてくれて良かったよ」
奥池はかつて広島地方幼年学校で生徒監を任ぜられていた。その年にちょうど入学してきたのが尾坂だったため、二人は恩師と生徒という関係でもある。
「そうか……あいつも人の心が判るようになってきたのか………」
「………え……?」
奥池がぽつんと言った台詞に、当番兵はギクッと身を強張らせた。
そういえば、尾坂大尉は今日………
「あの……」
「ん?」
「不躾ながら、ひとつ質問させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ん、ああ。別に構わんぞ。尾坂のことだろう?」
「はい。その……中隊長は、人情が判らないから……原隊に戻されたのでありますか………?」
「!」
当番兵の言葉に、奥池は息を詰めた。
「それ……あいつから聞いたのか?」
「え、あ……はい」
「…………………そうか」
はぁ、と溜め息。余計な事を言ってしまったか、と当番兵は身を硬直させて、次の言葉を待った。
「そう緊張しないでくれ。別に怒った訳ではないんだ。ただ………そうか、あいつ……気付いていたんだな……」
痛ましげな表情をして、奥池はぽつりぽつりと話し始める。
「……これ、最低でも俺の口から出た情報って事は伏せておいてくれないか」
「は……」
「昔の話だ。俺が陸幼の生徒監に任ぜられた年だから、十五年前のことか………その年に入学してきた生徒の中に尾坂がいたことは周知の事実だろう」
有名な話だ。尾坂がかつて奥池の教え子だったことは。いったい聯隊長は何を話そうというのだろうか。
「あれは……あいつが一年生で、陸幼に入学して初めての夏休みだったな。一年生達が浮き足立っていた頃だった。生徒達は夏休みになったから帰省して家族に顔を見せてやれるってもので、各々その話を出していたな。あいつの母ちゃんは近所でも評判の美人だとか、俺の母さんは夫が戦死しているから一人で寂しい思いをさせて気の毒なことをしてしまったとか」
「……」
なんとなく、嫌な予感がしたのは気のせいではないだろう。つ、とこめかみに変な汗が伝った。
「そんな中で、あいつだけは同期生の輪に加わらずに母親の話をする戦友達をじっと遠巻きに眺めているだけだった。あいつの実母が亡くなっていることは隼三郎さんから聞いていたから、たぶん聞いてて辛いんだろうなって思って俺は気を使ってあいつを呼び出して同期達から引き離したんだ………その時、あいつが俺になんて言ったと思う?」
「は……」
下が口に張り付いて声が出ない。いよいよ嫌な予感が現実のものになろうとしているのか、夏だというのに腹の底が冷えるような思いに駆られて立ち竦む。
「……あいつは俺にこう言ったんだ────『母親とは父親の立場にある女性のことを指す言葉でありますか』とな」
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
「意味が判らないだろう? 俺も最初そうだった。ふざけているのかと思ってあいつの顔を見て、それで背筋が凍ったよ。あいつ、本気で意味が判らないとばかりにきょとんとしていやがったんだ。おまけに……大真面目な顔をして『母親とは、父上の奥方の別称でありますか』とな………それがトドメだったよ」
「そ……それ、は…」
「あいつはな───“母親”っていう概念そのものを知らなかったんだ。他ならぬ、実父である九条院侯爵の“教育”のせいでな」
ひっ、とひきつったような変な声が喉奥から漏れた。当番兵は今しがた聞いてしまった下手な怪談話よりも恐ろしい話に身震いする。
「あいつは“母親”というものを知らずに育った。いや、違う。母親という概念さえ知ることができない環境で育ったんだ。それを聞いた瞬間、気付いたよ。侯爵は人の皮を被った化け物なんだってな。あれだけ胆が冷えるような思いをしたのは後にも先にもあの瞬間だけだったよ」
「…………そう、で……ありますか……」
ぶるりと身震いしながら、当番兵は脳裏に美貌の上官の姿を思い浮かべる。
「……じ、自分は………その、お恥ずかしながら実家があまり裕福ではなく……小卒で大工見習いとして働いておったので………いつも、華族を初めとした上級学校に子供を進学させられるほどの余裕がある方々を羨ましい、と……思っておったのですが………」
緊張と恐怖でしどろもどろになりながら、当番兵は懸命に言葉を紡ぐ。他ならぬ尾坂大尉から、自分の感情は自分で大事にしろと言われていたから……
「い、今───初めて、自分が華族の家に産まれなくて良かったと思いました………」
「……そうか」
奥池もぎゅっと目を閉じて、当番兵の肩を軽く叩く。
「……別に、華族の全部がそうとは限ってないさ。九条院侯爵が特別振り切ってアレだったっというだけで。大半はまともだよ………たぶん」
「左様でありますか……」
「あ、すまん引き留めてしまったな」
「いいえ、自分は大丈夫ですから」
むしろ聯隊長の方がこんな時間まで油を売っていて奥方に叱られないかと暗に心配すると、聯隊長はからりと笑った。
「いやぁ、実は今かみさんの実家の猫がさぁ……行方不明だっていうもんでさぁ………ちょっくら実家にかえってんだわさ。わはははは…………はぁ」
「あっ……申し訳ありません」
「いや、いいよ……一人でのんびりしているからさ……」
どんよりとした影を背負いつつ、奥池は静かにとぼとぼ歩き出した。
その背中をそっと同情するような視線で送って、尾坂の当番兵は夕飯にありつくために小走りになったのだった。
「………」
長靴を脱いで揃え、廊下の床板を軋ませながら家の中を進んでいく。裸電球の電源を入れると、途端に居間が橙色の光に包まれた。ドサッと書類鞄を隅に置いて軍帽を放り投げ、軍衣の釦に手をかける。
─────脱げよ
瞬間、不意に脳裏を潮の香りが掠めた。同時に、あの男の低くて甘く響く声も……
「……くそっ」
悪態を吐いて足音も荒く、普段軍服を仕舞ってあるクローゼットに近付く。扉を開けるとキィという音。古いために蝶番の辺りが軋んでいるのだろう。また油を差さないといけないかもしれない。
腰に吊った軍刀を外して所定の位置に置き、ズボン吊りをするりと肩から滑らせて………だがそのままピタリと動きを止める。
「……………」
コチコチ、コチコチ。首から下げた恩賜の銀時計の秒針がやけに大きく聞こえた。蓋を閉めている上で襦袢の下に仕舞ってあるので音は少しくぐもっていたが、陸士を首席で卒業した証である銀時計は正確に時間を刻み続ける。
「……………」
ふぅ、と深く息を吐いた。そのまま踵を返して押し入れのある方に向かう。かた、と普段開ける方とは反対側の襖を開けると、そこにはこっそり集めて並べている雑誌が変わらず揃って背表紙を見せている。
名前は少年倶楽部。月刊誌だ。購買層は男子小学生と中学生で、主に小説が掲載されているがたったの一本だけ漫画も載っている。一冊手に取って頁を広げると、雑誌の荒い紙の手触りとインクの臭いが物語の世界の片鱗を見せていった。
くるりと半回転して壁に背を付け、そのままストンと座り込む。
活字ばかりの頁をパラパラと飛ばしていって、辿り着いたのは絵と吹き出しの中の文字で構成された漫画の頁。そこに書かれた表題は、後に日本の長編漫画の先駆けとも言われるようになる『のらくろ二等兵』だった。
作者はかつて陸軍で兵役を経験しており、それを作品の世界観に落とし込んでいるらしい。随所で陸軍の、それも歩兵聯隊内での訓練内容や生活を作品の世界観に合わせて再構築している。
最初は上手く作ったものだと感心しながら頁を捲っていたのだ。しかし………
「…………」
パラリ、と頁をめくった。孤児である野良犬黒吉ことのらくろが、猛犬聯隊に入営して二等兵となる所からのらくろの物語は始まる。最初はへまばかりやって叱られ、しまいめには営倉送りにされる羽目になるのだが……彼は少しずつ、着実に信頼を積み重ねて聯隊長や中隊長から一目おかれるようになっていく。要は出世の物語だ。実に夢のある話だ、と思う。
……それだけの、はずだった。
「……………」
ドサリ、と横になる。行儀が悪いが、今日は体裁を整える気にもなれなかった。寝転がったままで雑誌の頁を捲り、犬の兵隊の物語を隅から隅までじっくりと読み込む。
どれほど時間がたったのだろうか。やがて一話丸々読み終えた尾坂はそのままパタンと雑誌を閉じて、ころんと仰向きになる。
「………」
遠くの方で蜩が鳴いていた。昼間に騒がしかった蝉どもとはうって変わって、どこか哀愁を誘う渋い鳴き声が余韻を残しながらスッと消えていく。かと思えばまたどこかで別の蝉が鳴き始めた。
窓の外にはすっかり闇に包まれた宵の空が広がっている。
────もう……それならいっそのこと、結婚を考えてみたらどうだ。妻帯を持ったら流石のお前も落ち着くだろ
(……奥池さんは何も悪くない………)
そう自分に言い聞かせて自分を宥めようとしても、無理なものは無理だった。胃の辺りが締め付けられる感覚。
不意に尾坂はむっくりと起き上がる。勿論、手に持っていた少年誌を畳の上に置き去りにしたまま。かと思えば畳を蹴って走り出した。
「ぅ、ぐ……」
口元を手で押さえ、バタバタと派手に足音を立てながら慌てて駆け込んだのは洗面所。バンッと派手な音を響かせ洗面台に手を着いて踞り、そして、喉の奥までせりあがって来ていた物を盛大に吐き出す。時間帯が時間帯なため胃液しか出なかったが嘔吐したことには変わり無い。
「おぇっ………は、ぁ……………ッ」
胃が痙攣を起こしているのが自分でも判る。胃袋どころか腹の中の臓腑が全てひっくり返ったのではないかというほど気持ちが悪い。しかし悲しきかな。慣れているため上手いこと吐瀉物を誘導させることはできたので、鼻の方には行かせなかった。鳩尾あたりを押さえたのがまたキリリと痛みと不快感を与えてきて、衝動のままに再び胃液を吐き出す。
「ぅ………あ……」
ぜぇはぁと肩で息をしながら洗面台にすがり付くと、纏めてあった前髪がパラリと解れて目元にかかった。
「………」
そっと顔を上げると、鏡の中に闇を纏って酷い顔をしている男がいる。
醜く、穢れきった──不格好で、何もかも中途半端な、化け物の子供が。
「………はは」
力無く笑い声を上げ、尾坂はぎゅっと拳を握り締めた。爪が食い込むほど強く握ったせいで、掌から出血したが関係ない。今は自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
(………皆、知らないから仕方がない………悪いのは全て私だ。本当のことを何も言えない私が悪いんだ…………!)
……誰も、本当の事を知らない。
尾坂と瀧本の本当の関係も、尾坂の実の母親は隼三郎閣下の姪と同一人物であることも、そして───尾坂が独身主義を掲げた本当の理由も。
「………気持ちが悪い」
ぼそっと囁いた声は思った以上に低く掠れていた。当番兵にはそれっぽく切り取って綺麗に揃えた理由を提示したが……尾坂が独身主義を掲げるようになった真の理由は、少し違う。
……これは砲工学校に入学した頃の話だ。たしか東京に戻った頃だったので間違いない。
同期達数名に拉致されて、料亭に遊びに出掛けた時のこと。少尉任官時に集まれなかったから、ここらで後れ馳せながら一発派手に、とのことでお節介な鷹山が芸者を手配したのだ。
歩兵や騎兵に進んで聯隊旗手を務めた同期達も、一年経ってその役を後任に引き継いだということもあってかその日はノリと勢いで童貞を捨てようとかいう魂胆もあったのだろう。かくして各自で芸者を伴って部屋に引き上げた時のこと。
尾坂自身はあまり乗り気ではなかった。自分が女役をやらされ続けたということもあってか、こういうことに対して妙な嫌悪感を抱いていたせいだ。だが、芸者の方は乗り気だった。ここで断れば彼女のプライドを著しく傷付けてしまうだろう……ということは明白だったのだ。だから、仕方がなく行為に及ぼうと芸者に触れて…………
────瞬間、初めて味わう感覚が喉元まで込み上げた。
今まで経験したことも無いような感覚に襲われたのだ。臓腑に氷の塊を詰められたような凍えが来て、次いで背筋を強張らせたのは純然たる恐怖。そして、言い知れない気持ちの悪さ。
それらは全て、全て、女性に対して抱いたものではない。理由は、原因は、自分自身で一番よく理解していた。そう、尾坂がおぞましい嫌悪と恐怖を感じたのは自分だ。いいや、違う。恐怖したのは、正確に言うと自分の身体に対してだ。
その事実に気付いて我に返った尾坂は、自分の身体への恐れと怯えを必死になって隠しきって、急に用事を思い出したというように声を上げて一人芝居を打った。もう必死だったのだ。
明日までに提出しなければならない書類があったことを忘れていた───と、芸者に伝えて大慌てで服装を整えながら料亭を飛び出して一路、隼三郎の家へと形振り構わず走り続けた。実際に明日提出の書類があったので助かった。
そして隼三郎の住まう官舎に戻るやいないや、厠に駆け込み盛大に嘔吐した。
大叔父は急に帰ってきたかと思えば厠に飛び込んだ途端に激しく嘔吐を繰り返す自分に仰天して、慌てて駆け寄り背中を擦りながら軍医を呼ぼうとしてくれた。だが、原因が判っていたため「呼ばないでくれ」と懇願したのだ。
生理的な物かそれとも別の理由か、止まらない涙を拭うことさえできずに尾坂はそれを口にした。
────自分が怖い。いいや、もっと正確に言えば自分が子供を作れる身体を持っていることが怖い、と。
怖かった。恐ろしくてたまらなかった。自分が健康な身体を持っていることが。子種が出せる身体だということが。何もかもが恐ろしくてたまらなかった。
脳裏を過ったのは母のこと。あの人は、出産が原因で命を落とした。それもいわれのない誹謗中傷に晒される中で、出血が止まらずに何日も生死の境をさ迷いながら。苦しんで苦しんで、苦しみ抜いてこの世を去ったのだ。
母を殺した自分が、母が命を落とす原因となった子供を成せる身体を持っていることがどうしても受け入れられなかった。
自分が───あれほど憎んでいるはずの父親と同じことをしてしまうかもしれない、同じことができる身体を持っているのが恐ろしかった。
「…………」
きゅっと水道の蛇口を捻って水を出すと、それを両手で受け止め口に含んで嫌な味を流し、ついでに顔を洗う。
鏡を見ると、青白い顔があった。それでもなお、嫌がらせのように綺麗に整っている。
……目元が侯爵に、お前の父に似ている。そう言われたのは大人になってからだった。
「ッ」
突発的に顔を殴りたくなって拳を振り下ろした。いや、下ろそうとした。だが……
──────その代わり、自分で自分を傷付けるのはもう止めろ。いいな
あの男の声が、尾坂を──仙を引き戻す。
「………くそッ!」
変わりに行き場を失った拳をガンッと洗面台に叩き付けて、尾坂は水道の蛇口を捻って水を止めた。
よろよろと足元が覚束ないまま居間に戻り、畳の上にゆっくりと身を横たえる。襦袢の下から飛び出した銀時計がカランと音を立てて目の前に転がった。
「………」
視線の先には先程置いていった少年倶楽部がある。それを見届け、そっと目を閉じた。
「……………れい……」
のらくろ自体については別になんとも思っていない。だが──のらくろに感情移入しなかった、と言えば嘘になる。
紙面の中にいる犬の兵隊に感情移入すること自体がおかしいと言われそうだが、本当に読んでいるうちにいつの間にかのらくろと自分を重ねて見てしまったのだ。
孤児で歩兵の二等卒であるのらくろと、父親の庇護の元でしっかり教育を受けて工兵の将校になった自分。似ている所など無いはずなのに、なぜ?
………軍に入るまで、ひとりぼっちで寂しい思いをずっとしていた。たったそれだけで、尾坂はのらくろと自分を重ねて見てしまったのだ。
中学に入るまで尾坂は実父から隔離されて無菌室の中で育った。関わった者は皆全て尾坂に知識を与える者ばかりで、共に努力を研鑽して成長していく友人も………暖かい情を教えてくれる両親もいなかった。
(だからといって、のらくろに感情移入なんぞすることはないだろうに……)
胎児のように小さく踞って、横になったまま膝に顔を埋める。
────ああ、うん。お前のことを考えてた
(うるさい、黙ってろ……)
─────難しいだろうけど少しは罵倒の種類も増やしとけって。いざというとき役に立つから
(余計なお世話だ……!)
ぎゅっと唇を噛んで自分自身を守るように腕を前で交差させ、よりいっそう小さく丸まる。
(どうしてお前は……ッ一番側にいてほしい時に側にいてくれないんだ………!)
憎いはずの男の顔を思い出して、どうしようもできない寂しさに襲われた。なぜ、どうして。憎い相手のはずなのに、どうして自分は奴にこんなにもすがり付いてしまうのだろう、と。
(………次は何時会えるんだよ…………)
じわっと目に涙の膜が張る。惨めな気持ちに打ちのめされた。
海軍軍人なんてもの、海に出れば数ヶ月帰ってこられないことくらいざらだ。頭では判っているはずなのに、心が追い付かない。追い付いてくれない。
寂しい、寂しい、寂しい。会いたくてたまらない。八つ当たりしてしまうと判っていても、話を聞いてほしい。助けて欲しい。黙って抱き締めてほしい。
「………れいじ……」
自分に彼の名を呼ぶ資格なんてないことくらい承知の上だ。それでも口にしてしまうのはなぜなのだろう。
日本人とは言えない灰青色の瞳、瑞典人にしては目鼻立ちの薄い顔立ち。
大人というには情緒が不安定すぎて、子供というには世の中の汚さを知り過ぎて擦れた心。
いくら女顔といっても生物学上は女ではなく、かといって生物学上問題なく男だとしても社会的には男として著しく不出来な自分。
……こんな自分がどうしようもなく嫌になる。
「…………零士…」
ぐすっと鼻をすする音。溢れた涙が目元を伝って畳を濡らす。
大丈夫。耐えることなんて、我慢することなんて慣れている。これくらいなんてこと無いさ。
自分を励ますように彼の名をそっと囁いて、尾坂はそっと目を閉じた。
金盞花:【別離の悲しみ】【寂しさに耐える】
参考文献
『写真で見る日本陸軍 兵営の食事』藤田昌雄/光人社
『陸軍よもやま物語』棟田博/光人社NF文庫
『陸軍員外学生』石井正紀/光人社NF文庫
『陸軍人事新装版 その無策が日本を亡国の淵に追いつめた』藤井非三四/光人社NF文庫
「───ああ、なんだ。戻ったのか」
駐屯地に戻り、馬房内に馬を繋いで出てきた尾坂の当番兵に声をかける者がいた。
こんな時間にいった誰だと胡乱そうな顔で振り返り、しかしそこに立っていたのが奥池聯隊長だということに気付いて当番兵は跳び跳ねる勢いで身体を棒のように伸ばして敬礼する。
「れっ、聯隊長!!」
「すまん、驚かせたか」
悪気はなかったが、驚かせたのは事実だ。奥池は素直に詫びた。ショーネン趣味が玉に瑕だが、元々気さくな聯隊長は下っ端である上等兵にも屈託無く話しかけてきてくれる。
だがしかし、相手は中佐だ。中隊長の当番兵である彼であっても、奥池は正しく雲の上のような存在だった。緊張するのも無理はない。
「……あいつの当番も大変だろう」
「はっ、あ……ええ、まあ……それは確かにそうなのでありますが………ですが、やりがいは十分あるのであります」
「そうなのか?」
「はい! あの方はあの方なりに部下のことを気にかけて下さっていることを、あの方と深く関わって初めて知れました。尾坂中隊長は冷たいように見えましても、お優しい方でありますから」
「………そうか」
ふ、と小さく息を漏らして奥池はゆるく微笑む。
「こっちに飛ばされてきた時はどうなることかと思ったんだがな。あいつ、指揮官というよりは技術屋だから」
「そこは中隊長も気にかけておられました。ですが……中隊長は投げ出されず、向いてないなりに努力されておられると、自分は思います」
「なら良いんだ……特サン(※特務曹長)が君をあいつの当番にしてくれて良かったよ」
奥池はかつて広島地方幼年学校で生徒監を任ぜられていた。その年にちょうど入学してきたのが尾坂だったため、二人は恩師と生徒という関係でもある。
「そうか……あいつも人の心が判るようになってきたのか………」
「………え……?」
奥池がぽつんと言った台詞に、当番兵はギクッと身を強張らせた。
そういえば、尾坂大尉は今日………
「あの……」
「ん?」
「不躾ながら、ひとつ質問させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ん、ああ。別に構わんぞ。尾坂のことだろう?」
「はい。その……中隊長は、人情が判らないから……原隊に戻されたのでありますか………?」
「!」
当番兵の言葉に、奥池は息を詰めた。
「それ……あいつから聞いたのか?」
「え、あ……はい」
「…………………そうか」
はぁ、と溜め息。余計な事を言ってしまったか、と当番兵は身を硬直させて、次の言葉を待った。
「そう緊張しないでくれ。別に怒った訳ではないんだ。ただ………そうか、あいつ……気付いていたんだな……」
痛ましげな表情をして、奥池はぽつりぽつりと話し始める。
「……これ、最低でも俺の口から出た情報って事は伏せておいてくれないか」
「は……」
「昔の話だ。俺が陸幼の生徒監に任ぜられた年だから、十五年前のことか………その年に入学してきた生徒の中に尾坂がいたことは周知の事実だろう」
有名な話だ。尾坂がかつて奥池の教え子だったことは。いったい聯隊長は何を話そうというのだろうか。
「あれは……あいつが一年生で、陸幼に入学して初めての夏休みだったな。一年生達が浮き足立っていた頃だった。生徒達は夏休みになったから帰省して家族に顔を見せてやれるってもので、各々その話を出していたな。あいつの母ちゃんは近所でも評判の美人だとか、俺の母さんは夫が戦死しているから一人で寂しい思いをさせて気の毒なことをしてしまったとか」
「……」
なんとなく、嫌な予感がしたのは気のせいではないだろう。つ、とこめかみに変な汗が伝った。
「そんな中で、あいつだけは同期生の輪に加わらずに母親の話をする戦友達をじっと遠巻きに眺めているだけだった。あいつの実母が亡くなっていることは隼三郎さんから聞いていたから、たぶん聞いてて辛いんだろうなって思って俺は気を使ってあいつを呼び出して同期達から引き離したんだ………その時、あいつが俺になんて言ったと思う?」
「は……」
下が口に張り付いて声が出ない。いよいよ嫌な予感が現実のものになろうとしているのか、夏だというのに腹の底が冷えるような思いに駆られて立ち竦む。
「……あいつは俺にこう言ったんだ────『母親とは父親の立場にある女性のことを指す言葉でありますか』とな」
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
「意味が判らないだろう? 俺も最初そうだった。ふざけているのかと思ってあいつの顔を見て、それで背筋が凍ったよ。あいつ、本気で意味が判らないとばかりにきょとんとしていやがったんだ。おまけに……大真面目な顔をして『母親とは、父上の奥方の別称でありますか』とな………それがトドメだったよ」
「そ……それ、は…」
「あいつはな───“母親”っていう概念そのものを知らなかったんだ。他ならぬ、実父である九条院侯爵の“教育”のせいでな」
ひっ、とひきつったような変な声が喉奥から漏れた。当番兵は今しがた聞いてしまった下手な怪談話よりも恐ろしい話に身震いする。
「あいつは“母親”というものを知らずに育った。いや、違う。母親という概念さえ知ることができない環境で育ったんだ。それを聞いた瞬間、気付いたよ。侯爵は人の皮を被った化け物なんだってな。あれだけ胆が冷えるような思いをしたのは後にも先にもあの瞬間だけだったよ」
「…………そう、で……ありますか……」
ぶるりと身震いしながら、当番兵は脳裏に美貌の上官の姿を思い浮かべる。
「……じ、自分は………その、お恥ずかしながら実家があまり裕福ではなく……小卒で大工見習いとして働いておったので………いつも、華族を初めとした上級学校に子供を進学させられるほどの余裕がある方々を羨ましい、と……思っておったのですが………」
緊張と恐怖でしどろもどろになりながら、当番兵は懸命に言葉を紡ぐ。他ならぬ尾坂大尉から、自分の感情は自分で大事にしろと言われていたから……
「い、今───初めて、自分が華族の家に産まれなくて良かったと思いました………」
「……そうか」
奥池もぎゅっと目を閉じて、当番兵の肩を軽く叩く。
「……別に、華族の全部がそうとは限ってないさ。九条院侯爵が特別振り切ってアレだったっというだけで。大半はまともだよ………たぶん」
「左様でありますか……」
「あ、すまん引き留めてしまったな」
「いいえ、自分は大丈夫ですから」
むしろ聯隊長の方がこんな時間まで油を売っていて奥方に叱られないかと暗に心配すると、聯隊長はからりと笑った。
「いやぁ、実は今かみさんの実家の猫がさぁ……行方不明だっていうもんでさぁ………ちょっくら実家にかえってんだわさ。わはははは…………はぁ」
「あっ……申し訳ありません」
「いや、いいよ……一人でのんびりしているからさ……」
どんよりとした影を背負いつつ、奥池は静かにとぼとぼ歩き出した。
その背中をそっと同情するような視線で送って、尾坂の当番兵は夕飯にありつくために小走りになったのだった。
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