海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(15)立藤は遥か彼方に②

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 じゃり、とナハトを伴った尾坂は地面を踏み締め、ぐっと口元を引き結んだ。目の前にあるのは広島市内の繁華街辺りから少し離れた場所にある寺の門だ。
 彼の目的地はこの寺であったのだが、実のところ来て早々後悔していた。
 というのも、実は寺の境内から子供の声が聞こえるのだ。子供が苦手な尾坂にとっては躊躇う理由として充分。
 しかしここ以外にアテなど無い。意を決して門をくぐった。

「おや、貴方でしたか」

 尾坂を出迎えたのは寺の住職だ。そう、尾坂のアテとはこの寺の住職のことだった。ちなみに子供は裏の方で遊んでいるようで、姿は見えない。それに尾坂は少しだけ安心した。

「いらっしゃるのは明日だとお聞きしたのですが……それは?」
「………拾った」

 尾坂が手で慎重に抱えていた物が目に入った住職は、目を円くして聞いてみる。しかし彼はそれにたった一言だけ、ぶっきらぼうにボソッと返すだけだ。いつも通りの姿なので住職は特に気にも止めないが。

「ええ、まあ……そうですねぇ。ふむ……あちらの隅なら掘り返しても構いませんよ。道具は裏の納屋にありますので持ってきますね」
「…………すまんな。助かる」

 尾坂の足元に纏わりつく黒猫にはあえて突っ込まず、住職は納屋にシャベルを取りに行った。

「ナハト」

 ついて来い、と短い指示を出せば、賢い黒猫は素直に従ってくれる。ナハトを伴い尾坂が足を向けた先は、先程住職に示された敷地の隅。
 手に持っていた白い物体をそっと地面に置いて、尾坂は物思いに耽る。

(……あの人・・・は、どんな気持ちでこの日を迎えたのだろう)
 
 駐屯地に置いてきた仔猫達のことがふと気になった。
 野良で生きている獣──特に猫には、原則関わらない。それが尾坂の方針だ。
 原則関わらないというのは、餌を与えないことは勿論、触ったり話しかけたりすることもしないと覚悟することだ。
 たとえどんな事が目の前で起こっても、決して手出しをしない。
 だがどれほどこころざし高い信条を掲げていたとしても、実際には中々上手くいかないものだ。
 現に過去に二回ほど、あれほど二度と関わらないと誓っていた猫を思わず助けてしまった。ちなみにその内の一匹が、今尾坂の目の前で彼が地面に横たえた白い物体に静かに寄り添っているナハトだ。

 現在は軍獣医長の家にいる一匹目が、大雨の日に流されて、あわや川に放り出されそうになっていたのを救出した猫。そして二匹目のナハトが野犬に追い回されて木に登った所、爪が引っ掛かって降りられなくなったのを見付けて剥がした猫だ。

 一度でも関わってしまったのなら、最後まで責任を負わなければならない。それは生き物を扱う上で当たり前のことだろう。
 だからこそ、尾坂は今回も責任を取って、千歳が拾ってきてしまった仔猫の引き取り手を探すつもりだ。たとえ……明日が彼にとって特別な一日であったとしても。

「……なあ、ナハト」
「んァ?」
「お前にとって……それ・・は、どういう存在なんだ……?」 

 絞り出した声は震えていた。
 この物言わぬ白い物体はナハトにとってどのような存在だったのだろう。
 人でもない、猫にこんなこと聞くなんて自分にも焼きが回ったか、と思いながら尾坂は項垂れる。

「……ごめんよ」

 次に出てきたのは謝罪の言葉だった。ナハトは尾坂の方を振り替えって訝しげに目を細めている。
 それがまるで───お前が謝った所で時間なんて戻らないだろう、と暗に責められているようで。ズキリと突き刺すような痛みに襲われた尾坂は、そっと目を閉じて静かに懺悔する。
 するとザクザク、と砂利を踏みながら誰かが近付いて来る気配がした。住職が戻ってきたのだと悟り、尾坂はそっと伏せていた顔を上げてそちらの方に顔を向ける。

「……貴方は優しいお人なのですね」

 老住職は、慈愛の籠った眼差しで尾坂を見つめていた。その手に持っていた円匙を受け取って、尾坂は口を開く。

「……優しくなど無いさ。酷い男だよ、私は」 
「いいえまさか。出会った頃と比べれば見違えるようです。少なくとも貴方は、他人の痛みが判るほどには成長をしておりますぞ」

 ニコニコと笑いながら、住職は頷いた。
 尾坂はそれには答えずに、上着と帽子を脱いで住職に預ける。そして少しだけ考えた後に腰に吊っていた軍刀も革帯ベルトと一緒に外して住職に預けた後、無言のままで寺の敷地の隅に穴を掘り始めた。

「それで、本日はどのようなご用件で?」

 住職に許可を貰った場所を掘り起こしている尾坂の作業を、ナハトはじっと眺めていた。
 将校と言えどもさすがは工兵科と言うべきか。五分もしない内に膝の辺りまで掘ってしまっている。あっという間の出来事だった。

「……部下が」
「ふむ」
「部下が、仔猫を拾って来てしまった」
「おや」
「それも五匹」
「おやおや」

 上着を脱いだときについでに捲っておいた襦袢シャツの袖で額に流れた汗を拭いながら、尾坂は住職の方を振り返る。
 瑠璃色の瞳が揺れていた。

「恐らくまだ生後一ヶ月程度しか経っていない……一匹は引き取り手が見付かったんだが、残り四匹の引き取り手を探しているんだ。貴方だったら知っているかと思って……な。猫を飼いたがっている家がこの辺りにいるかどうか」
「フォッフォッフォ……猫の飼い主探しですか。構いませんよ。心当たりがあるので連絡を入れておきましょう」
「助かる」
「その前に猫の毛並みを伺っても?」

 長いどじょうひげを揺らして笑い、住職は快く引き受ける。
 この住職にとって尾坂は自分の孫のようなものだ。尾坂とは彼が幼年学校に通っていた時からの付き合いで、瞳の色のことで酷い目に合わされ逃げてきた尾坂を匿うことが度々あった。
 そしてそれ以前に、彼の養父である隼三郎閣下とは長年の付き合いであるから、隼三郎から養子である尾坂のことを色々と頼まれている。

 昔からどこか人間らしい暖かみに乏しい尾坂が、猫を拾って来た部下と猫のために自分を頼ってきてくれたのだ。その成長が喜ばしいと思うのも無理はないだろう。

「……うん、なんと言ったら良いのだろう」

 ちらり、と尾坂が横目で見たのは、先程彼が運んできた白い物体とそれをじっと見ているナハト。

「一匹、雄で灰色の縞模様があるのがいるだけで後は全部黒猫……いや、二匹だけ手足の先が白い。雄と雌が一匹ずつだ」
「黒猫ですか。それでしたら一軒ほど引き取り手に心当たりがありますぞ」
「ん……そうか」
「黒猫は昔から商売繁盛の守り神とも言われておりますしなぁ。あの家でしたら可愛がってもらえるでしょう」

 住職の口振りから察するに、心当たりがあるのは商売を生業にしている家だろうか。

「……頼んだよ」
「お安いご用で」

 住職はニコッと微笑み了解の意を伝える。

「ああ、ところでお話は変わるのですが……」
「皆まで言うな。明日のことだろう」
「ええ。お話が早くて助かります」

 掘った穴の底に白い物体をそっと横たえながら尾坂は淡々と答えた。どうやら本来なら尾坂がここを訪れるのは明日の予定だったらしい。

「こちらに猫を連れていく時に花だけ生けていくよ」
「そうですか……経は上げましょうか?」
「いや。それは来週にしてくれ」

 思ってもいなかった解答に目を見開いて、住職は思ったことをそのまま口にしてしまった。

「よろしいので? 貴方の養父である隼三郎じゅんざぶろう殿からのご依頼ではありませんか」

 尾坂は作業の手を少しも止めずに無言を貫く。軽く土を敷き詰めて緩衝材にした後に、動物に掘り返されることを防ぐための板を挟んで再び土を被せ始めた。

「構わん。できればしてほしい、という話だったからな」
「うむ……判りました。では、来週に回させていただきます」
「……迷惑をかけるな」
「いえいえ。こちらとしては“彼女”のことを今でも覚えていてくださる方がいるだけで報われる思いですから」
「…………」

 ザクッ、という音。どうやら作業は終了したらしい。掘り返した土は埋めた物がある分、少しだけ盛り上がっている。

「? どうかなさいましたか」
「いや……」

 ふ、と。八月末の生ぬるい風が、尾坂の頬を軽く撫でていく。
 遠くの方でシュワシュワと鳴いていた蝉の声が、唐突に消えてしまった。と思ったら、すぐに別の蝉が鳴き始める。もしかしたら境内で虫取りをしていた子供に捕まったのだろうか。

「───なんでもないよ」

 尾坂が出した答えはそれだけだ。
 足元ではナハトが小さく鳴いていた。


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