海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(17)月明かりに彗星蘭をかざして③

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 広島市内、某料亭……

「あらぁ、尾坂大尉ではありませんか!」

 出迎えた女将がパッと顔を輝かせて微笑んだ。どうやらこの女将、尾坂とは顔見知りらしい。

「あらあら、軍服で来るなんて珍しいこともあるものですねぇ。いつも背広でいらっしゃるのに」
「ん………今日はこの二人の付き添いなんだ」

 駐屯地から直接来た、と尾坂は目を反らしながら言う。ちなみにこの二人というのは、奥池と戸田のことだ。二人の後ろにそっと隠れていたつもりだったが、あっさり見付かってしまった。
 こういう、時々見せる子供っぽい所が良いのだが……女将はそこには触れてやらずに、あくまでニコニコと微笑みを崩さず三人を案内する。

「女将、今日は芸妓はいいよ。三人だけで話がしたいんだ」
「あら、そうなのですか。ではお三方、どうぞごゆっくり……」

 三人がそれぞれ、奥池を上座にして席に座っていくのを確認して、そのまま女将はスー……と障子を引いて向こう側に消えていった。

「……いや、というか大尉。お前、いつもは背広で来るのか?」

 女将が消えて数秒後、戸田が思った疑問をぼろっと口に出す。
 机の上には季節の食材をふんだんに使った料理が並べられていた。

「ああ。戸田は知らなかったようだが、こいつはよっぽどのことがない限りは、料亭に行くときはいつも背広で行くぞ」
「……私だって、背広くらい持っております。米国留学が決まった際に養父から祝いの代わりにと頂いたものでありますが」
「なるほど、閣下からか」

 どうやらその背広は、米国留学が決まった際の養父からの贈り物だったようだ。軍服で来たことを珍しがられるということは、普段は背広で来るのは本当なのだろう。

「まあ、まずは一杯やろう。今日は戸田の歓迎も兼ねて俺の奢りだ」
「は。お気遣い、感謝するであります」

 丁寧に冷やされた徳利の冷酒を戸田が差し出したお猪口に注ぎ、ささやかながら戸田の希望した三者面談が始まった。


「それで、戸田。話ってなんなんだ?」

 何杯か呑んだことが潤滑剤になったのだろう。奥池が軽い調子で問いかける。
 というのも、今回尾坂が呼ばれたのは戸田たっての希望だったからだ。参謀本部から広島に来るので、尾坂を交えて奥池と会談の場を持ちたいと戸田が申し出たためこのような形になった。昼間に戸田と尾坂が二人っきりで話したのは、これの前段階のようなものである。
 結局、話し合いは途中で尾坂の部下が拾ってきてしまった仔猫によって残念ながら中断となったのだが。

「さっそく本題に入られますか。では、丁度酒も回ってきた所ですし、そろそろ真面目な話に入るであります」

 からりとした屈託のない笑顔を浮かべ、かと思った瞬間、唐突に表情を引き締めてぐっと目に力を入れる。

「実は………これは今年の六月あたりから中央で纏まり始めた話なのでありますが、今回ようやくその目処が立ったので、まずは本人と直属の上官へ内示という形で報せるために自分が派遣された次第であります」
「ん? 内示、ってことは……尾坂に辞令が来るのか?」
「はい。近々……遅くとも今年度中には、正式な辞令が来ると思われるであります」

 どうやら、戸田は尾坂への内示の任務を携えて、遠路はるばる広島までやって来たらしい。
 つまり、とうとう尾坂に工兵第五聯隊を出て転勤する時がやってきたというわけだ。
 これが喜ばしいものになるか、はたまた落胆するようなことになるのかは、辞令書に書かれた行き先次第である。

「それで、行き先は……」
「───東京であります」

 どうやら行き先は帝都、東京であるらしい。とりあえず大陸の僻地に飛ばされることは無いと判った奥池がほっと一息吐いた。
 まあ、尾坂の今までの行動から考えると奇跡のような人事だろう。なにせ中央に噛み付き広島の原隊に出戻りにされた後で自棄をおこしたのか夜な夜な遊び回った挙げ句、よりにもよって海軍士官と毎度ド派手な喧嘩を繰り返す日々。
 色々あったが特に某海軍大尉との大喧嘩がいつ中央の耳に入って“呼び出し”がかかるのかとヒヤヒヤさせられていた奥池にとって、手塩にかけて育ててた部下の東京行きが決まったことは非常に喜ばしいことであった。

「ほほう、それはめでたい。で、行き先はどこの部隊だ?」
「いえ。今回、大尉は隊附になるわけではありません」
「なんだと? つまり、あれか。中央三官衙のどこかに引き抜かれるってことか?」

 隊附では無いのならば、恩賜組である彼の行き先は自ずとその辺りになるだろう。それだったら、今回の尾坂の辞令は栄転に違いない。なにせ陸軍軍人にとって最高の出世コースといえば、陸大を出て中央三官衙の職員として働くことなのだから。
 尾坂自身は陸大を出てはいないが、陸大卒者である天保銭組と並んで、同期から一目置かれる存在である特別抜擢組。経歴を考えれば中央に引き抜かれてもなんらおかしくはない。そのため、この辞令は彼にとっても喜ばしいものであるはずだ。

「………お待ちください、少佐」

 しかし、当の本人はそう思っていなかったらしい。少しばかりか警戒するかのように声を低くして、探りを入れるように固い口調で問いかける。

「昼間に仰られたあのお話は、少佐殿の作り話では無かったのでありますか。私のことを、今年の十二月を目処に東京に呼び戻そうという動きがあると」
「ああ、時期は前後するだろうがな。早ければ十月には正式な辞令が来るだろう」
「…………」

 まさか昼間に交わした会話の内容が事実を元にしていたとは思ってもみなかった尾坂にとって、今回の東京行きは正しく寝耳に水だ。
 つまり、戸田が今回広島に来たのは偵察の意味合いも込められていたのだろう。
 なにせ工兵科というのは陸軍の兵科の中で最も結束が固いと言われている兵科だ。陸軍内の内訳でも、全体でわずか数パーセントと人数が少ないのもあってか、工兵科の将校はお互いを庇いあって、同じ工兵科の将校のついては良いことしか言わない側面がある。なので、辞令の前に尾坂が問題のある人物で無いか──もしくはすっかり反省しているのか見極める必要があった。
 そのための調査員として、工兵ではなく歩兵であり、尾坂と面識があるため警戒されにくい上にかつて彼と同じ広島幼年学校に通っていた戸田に白羽の矢が立ったというところか。

「ただし───行き先は参謀本部では……いや、中央三官衙ではない」

 えっ、と小さな声。尾坂か奥池か、どちらの声だったのだろう。はたまた双方同時に出た声か。
 行き先は東京、だが隊附になるわけではない。かといって中央三官衙に行くわけでもない。
 ということは、辞令が出された先はいったいどこなのだろうか。
 困惑する二人をじっと見て、戸田は思いきったように言い放つ。

「大尉、貴公が次の辞令で行く場所は技術本部だ」

 ああ、やはりそうか。と心のどこかで納得した。
 隊附ではない、かといって中央三官衙ではない。ということは行き先は自ずと限られてくる。そして工兵科で特別抜擢組である尾坂が配属されそうな場所といったら、陸軍の新技術開発や兵器研究の総本山である技術本部が一番自然だろうから。

「技術本部……で、ありますか」
「この時期になぜ技術本部………ああ、まさか開発中って噂の新型戦車のことか?」
「そうであります。これは極秘なのでありますが………今、陸軍では日本独自の戦車を開発しようとする動きがあり、実際に二年前の昭和四年には試作機が完成しました。しかし……」
「……その言い方、なにか問題が起きたんだな」
「…………」

 戸田は何も言わずに静かに頷くだけだ。
 と、思いきや身を乗り出しながらそっと周囲を探る。その様子に、内々にしたい話なのだと察した工兵の二人は、同じように気持ち身を乗り出しながら戸田の話に耳を傾ける。

「実は……試作機もできあがって仮ではありますが制式兵器に認定され、さあこれから量産……という時になって事故が起こりまして」
「ほう」
「幸い死傷者は出なかったであります。しかし、その、事故の原因というのが……かいつまんで解説させていただきますと、戦車の近くで誤ってガソリンを流出させてしまい、そこに引火したために発生した火流が戦車の下に入り込んで搭載していたガソリンエンジンを加熱してしまい、結果爆発したというものでして……(※1)」
「………つまり、技本の方でガソリンエンジンよりもっと安全な発動機エンジンを早急に開発すべきだという話が持ち上がったというわけでありますか」
「そうだ」

 話が早くて助かる、とばかりに戸田が頷いたのを見て、次に出てくる話に予想がついた尾坂ではあったが、現状の彼には薄く口を開けてじっと成り行きを見守ることしかできなかった。

「それで、抜本的な対策として『発動機をガソリンよりも安全な燃料を使用するものに代える』という話が持ち上がってな。それで、ガソリンより安全な軽油を使用するディーゼルエンジン……だったか。それの開発がにわかに脚光を浴び始めたんだ」
「ディーゼル……って、おい。それ、尾坂が米国で研究してた奴じゃないか」

 なんの因果か、まさか尾坂が米国で三年間やっていた研究の内容が、ここに来て脚光を浴びるとは。

「そういうわけで技本の開発者である二十七期の原乙未生とみお少佐(※2)と吉田車両班長が、何かディーゼルエンジンに関する論文が無いかって資料をかき集めている最中にお前の論文に行き着いてな。そりゃもう技本は大騒ぎだったらしい。それで原少佐が「この論文を書いた男に是非とも開発に加わってほしい」と強く希望したそうで、今回の引き抜きの話が持ち上がったんだ」

 東京の方でまさかそんなやりとりが合ったとは知らなかった尾坂は「見ている人は見ているんだな」と、飽きれ半分感嘆半分の気持ちで静かに戸田の言葉を待つ。

「まだ人事の面ではゴタゴタしているが………喜べ、大尉。今回の辞令は間違いなくお前にとって栄転だ。どうにか挽回の機会を与えられたんだ」
「ああ、そうだな。お前の能力を最大限生かすことができる場所で、今度こそ上手くやり直せよ。応援しているからな、尾坂!」

 ポン、と背中を押される。
 今回の抜擢のことは、奥池や戸田にとっては我がことのように喜ばしいものなのだろう。奥池にとっては尾坂は幼年学校時代からずっと見て育ててきた可愛い部下で、戸田にとってはかつての稚児であり大切な後輩なのだから。
 尾坂自身も、自分は何事にも執着しないと思っていたが、自分の研究が切欠で技術本部に“栄転”することが意外なほど爽快な気分を与えてきてくれることに驚きを隠せなかった。

 しかしその反面───なぜか、どうしようもなく胸が痛くなったことに愕然とする。

(……なんなのだろう、この感覚)

 ざわり、と腹の辺りに虫か何かが這いずり回るような、そんな言い様の無い不快感が走った。
 今回の辞令は間違いなく栄転だ。出自も、瞳の色も、何もかも関係なく、自分自身の能力が認められて勝ち取ったものである。

 だというのに、なぜか──嬉しくない、行きたくない、と懸命に訴えかける自分がいたのだ。

(なぜ……なんなんだ、この感覚は)

 それは間違いなく、尾坂が人生で初めて経験する感情だった。
 嬉しいはずなのに嬉しくない、行ってみたいのに行きたくない。これは、この相反する二つの感情はなんなのだろう。自分自身のことがまったく判らないという、初めて体験する妙な挙動に困惑を覚えつつ、尾坂は自分をそっちのけで二人だけで話し込んでいる奥池と戸田を眺めた。









※1:この話の中では試作の戦車(八九式戦車)が出来上がって間も無く偶然にも事故が発生し、ガソリンエンジンの脆弱性が発覚したという設定ですが史実は違います。実際にはこの爆発事故は一年後の昭和七年に上海で起こる事故です。


※2:原乙未生
熊本幼年学校、陸士二十七期卒。砲兵科→歩兵科。員外学生として東京帝国大学に派遣された後、英独にも派遣された。欧米と比較して機械化が大幅に遅れた日本陸軍の機甲部隊の発展に尽くし、日本戦車の父とも呼ばれている。


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