海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(19)宵の空には日輪草①─追想、大正十四年五月─

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 大正十四年、五月某日──


 先日から降り続ける雨を生み出す曇天を眺めながら、工兵第五聯隊所属の兵がぼんやり呟く。

「……雨、止まんな」
「おう」

 五月雨は中々やまない。雨が酷くなってきたため兵舎に引き上げてきた工五聯隊の兵達は、内務班に与えられた部屋でぼんやり微睡まどろんでいた。
 雨はやむどころか勢いを増していき、雲の向こうの陽が傾き始めたのもあってか辺りを薄暗く包み込んでいる。

「なぁ、堀野」
「んー?」
「そーゆやぁ、われお前が当番しとる尾坂少尉。きょうび最近どうよ」

 声がかかったのはまだ上等兵だった頃の堀野だ。相手は彼と同じく昨年入隊した一等兵。気兼ね無く話せる相手だった。

「別に、どうとでもないさ。いっつも通りに腹の内がまったく読めなぃんじゃ。正しゅう死んだ魚の目でぇ」
「いや、死んだ魚でもあれよりゃぁ生気があるじゃろ。よう我慢がでけるなぁ、われぇ」

 彼らが話題に出しているのは、堀野上等兵が当番を務めている新品将校の尾坂少尉だ。
 この前年に少尉に任官した尾坂少尉のことはかなり有名だった。なにせ名門、九条院家のお坊っちゃまが泥臭い土方仕事で鍛え上げられた荒くれ者揃いの工兵科に放り込まれてきたのだ。早々潰れて使い物にならなくなるだろうと半ば決め付けられて全員が全員、意地の悪い考えを抱きながら手薬煉てぐすね引いて待っていたのだが……しかし、実際にはそうなることはなかった。

 特に張り上げてもいないのに良く通る声が聞こえると、すぐさまそこに彼がいると判る。尾坂少尉はそのくらいに存在感があったのだが、いかんせん本人が目立ちたく無いらしいので寡黙であまり話さず、いつも中隊長の後ろで静かに控えているだけ。まず最初に不気味な男だという印象を抱いた。
 そして次に、死んだ魚のように濁った瑠璃色の瞳をじっと向けてくると、まるで自分達の考えを全て見透かされているような気分になって居心地が悪くなり、すごすごと退散していくしかない。
 何を考えているのかまったく判らない、不気味で恐ろしい男。そんな評判がつくのに時間はかからなかった。誰も彼もが彼を気味悪い存在として見て、決して近寄ろうとしない。
 尾坂少尉の周りには、常に誰もいない空間があった。

 そんな中で当番兵という名の白羽の矢が刺さったのが堀野だったのだ。なぜか、いつの間にかそうなっていた。そんなふざけた成り行きで、堀野は尾坂少尉の当番兵に祭り上げられている。

「確かにあんなぁはボンボンだし我が儘かゆぅて思うて身構えとったんじゃが……あれ、本当に華族のボンボンなんでの」
「なんでじゃ」
「だってあんなぁ、自分のこたぁ何でも自分でやってしまうからの。お陰で当番の仕事も閑古鳥かんこどりが鳴いとるよ。手がかからんから助かるゆぅたら助かるんじゃが………でもやっぱ、気味が悪いぜ」

 華族のご子息なのだから、身の周りのことはなんでも使用人がやっていただろうし、それが長年の習慣として身に付いているはずなのに……尾坂少尉はどうしてか、他人に自分のことをされたくないらしい。自分のことは、いつも先回りして自分でやってしまっている。お陰で当番兵としてやることがなく、堀野は手持ち無沙汰になることが多かった。
 まあ、その分サボタージュに専念できたので良かったのだが。尾坂少尉自身も何も言わないため、堀野はその間やりたい放題だ。

「それにしちゃぁ自分の体調管理はできとらんみたいじゃがの」

 ケラケラと笑いながら、隣の男は燐寸を擦って煙草に火を付ける。何かにつけてはいけすかない男を貶めるネタを探してくる戦友に呆れたような溜め息を吐き、堀野は自分も煙草を呑もうと物入れの中をゴソゴソ探った。

「……そうじゃの」
「きょうびは日に日に顔色が悪ぅなっていくしさ。まるで幽霊みたいだってみんな噂しとるよ。その内生霊にでもなって化けて出るんじゃねえの」
「………」

 ひょうきんな顔で幽霊の真似をして両手をぶらりと顔の前で垂らした戦友を尻目に、堀野はそっと流し目を作る。
 ……手持ち無沙汰とはいえ、当番兵として誰よりも尾坂少尉の近くにいる堀野は知っていた。
 最近は青白い顔で幽鬼のように歩く姿が度々目撃され、下士官達から本気で心配されるほどにまでなった尾坂少尉。実の所、彼の顔色が悪くなっていくタイミングというものがあった。
 特にそれが顕著なのが、一部の中隊長や大隊長に呼び出された後。観察してて気が付いたのだが、その時が一番酷い。
 どこまでの人数が関わっているのかは不明だが、恐らく上官方から何かヤバイことでもさせられているのだろう。
 ただの兵卒である堀野は知る権利も止める権利も無いし、そもそも関わることさえ許されていないのだが。
 見てみぬふりをするしか無いのが現状だ。関わりたくないというのが本音なのでありがたいのだが。

「あー……クソ」
「どうした」
燐寸マッチを切らした。貸してくれんか」
「あ、うん。すまん、わしもさっきので品切だ」
「その煙草に着いとる火を貸せよ」
「やでぇ、野郎となんて。わしゃぁ美人の姉ちゃんとしかそがぁなこたぁせんって決めとるんじゃ」
「チッ」

 舌打ち。窓辺に寄りかかっていた堀野がひょいと離れる。

「われぇ、どこに行くんじゃ」
「酒保に行って燐寸買ぉてくる」
「おう、いってらっしゃい」

 あっさり送り出された。それに対する苛立ちをぷちっと腹の中で潰しながら、床板を盛大にギシギシ軋ませながらと歩いていく。

「………」

 雨はやむどころかどんどん悪化していた。大粒の雨だけでなく、横から叩き付けるような風の音まで鳴る始末。

野分のわきの時期にゃぁまだ早いんじゃが)

 今は五月、初夏とはいえども台風の時期にはまだ早いだろうに。暴風雨は止まらない。
 これは外に出してあるもののひとつや二つは覚悟しないといけないか。と考え出した、その時だった。
 

─────“ガタタッ!!”


 ちょうど裏口を通りかかった時、誰かが扉を開ける音が響いて堀野は飛び上がった。
 今はもう全員兵舎の中に入っていて、それに士官方がこの辺に足を運ぶことなどまずありえない。そして裏口はしっかり閉まっていたはず。

 侵入者───堀野の脳裏にそんな二文字が浮かび上がり、反射的に身構える。


─────“ギィ……”


 やや遅れて、軋んだ音を立てて扉が開き、暴風雨の音が間近で聞こえてきた。
 外には人影がひとつ。

「…………堀野上等兵か」
「! 尾坂少尉」

 掠れた声には聞き覚えがあった。堀野が現在、当番兵を押し付けられている尾坂少尉の声だ。
 暗闇に慣れた目が人影の正体を捉える。そこに立っていたのは、雨套マントを羽織って相変わらず幽霊のようにぼんやりと佇む尾坂少尉だった。
 いったい何時から外に出ていたのだろうか、全身びしょ濡れで水滴がボタボタ垂れている。

「驚かせてすまん。こんな時間に申し訳無いが……手拭いか何か持ってきてくれないだろうか」
「えっ」

 今度こそ、びっくりした堀野は盛大に固まってしまった。
 なにせ先述の通りに普段、まったく他人の助けを乞わない尾坂少尉が、堀野に頼み事をしたのだ。それも恐らく、当番になって以来初めて。驚かない訳がない。

「はあ……判りました。少々お待ちを……」
「私の分だけじゃなく……こいつの分も頼む」
「は、」

 誰の、と問いかける前にその答えが自分から声を出す。
 尾坂少尉の懐あたりから「にぃ」というか細い鳴き声が上がった。
 それを合図にしたかのように、尾坂少尉が懐に閉まっていた薄汚れた灰色の毛玉を出してくる。

「みぃ」
「………猫?」

 水分を含んでうっすら肌が透けて見えている手套の上に乗っていたのは、生後間もないと思わしき仔猫。良く見たら猫自身も全身ずぶ濡れで、遠からず命を落とすことが素人である堀野の目から見ても判るほど衰弱していた。

「……橋の向こうから、流されそうになっていたのを見て。思わず手が出た」
「………」

 ポカン、と口を開けて尾坂少尉と猫を交互に見比べる。橋とは恐らく駐屯地の前にある工兵橋のことだろうが……

 あの、尾坂少尉が。猫を拾ってきた。

 人物と事象が上手く結び付かずに混乱する堀野を他所に、尾坂少尉は急かす訳でもなく不気味なほど黙ったままだ。

「水気を拭くもの……後、猫を……暖められるものと………それから………それ、から……」
「少尉?」

 混乱のあまりに尾坂少尉の様子が可笑しかったことを見逃してしまい、ようやく彼の体調の変化に気付いた堀野は慌てて彼に駆け寄る。

「…………──────」

 声は出せず、唇の動きだけになった言葉。
 いったいそれが何だったのか聞く暇もなく、尾坂少尉の身体が大きくぐらついた。

「少尉!?」

 尾坂少尉の手から離れて落下しそうになった仔猫を、あわや床に激突する寸前で受け止める。
 次の瞬間、今度は少尉自身の身体が崩れ落ちて、まるで糸の切れた人形のように倒れ込んだ華奢な肢体を背中でどうにか受け止めた堀野が叫ぶ。


「おい───誰か、来てくれ!!! 大変な事になった!!! 軍医と……ああ、あと軍獣医長呼んでこい!!!」






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