海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(20)宵の空には日輪草②─追想、大正十四年五月─

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「大したことはありませんよ。疲労が溜まっていたのに無理して外に出て、雨に打たれたために体温が下がって一気に体調を崩しただけでしょう」

 そう冷静に分析し、軍医は寝台に寝かせた尾坂少尉にそっと布団をかける。雨に濡れた服は全て着替えさせて回収し、今は泥を落とすために水を張った桶に入れられていた。
 少尉自身は青ざめた表情のままで、死んだように眠っている。恐らく、疲れていたのは本当だろう。陶磁器の人形のように整った顔に生気は無く、目の下には酷い隈ができているから。

「若干の熱があるようですが……しばらくの間、暖かくしてゆっくり休息を取ればすぐに良くなりますよ。君、彼の当番兵だったね」
「は、堀野であります」

 軍医の言葉に敬礼し、堀野上等兵は淡々と答える。

「……うん、前から予感はありましたなぁ。彼、この間の月例検査から逃げましたから」
「えっ」

 月例検査というのは、中隊ごとに行う健康診断のことだ。もちろん、将校である彼も対象である。
 まさかそれをサボタージュしたとは思ってもみなかった堀野は、軍医の前だというのに目を円くしてバッと彼の方を振り返って、その顔を覗き込む。

 呼吸はか弱く、ともすればただの人形が横たわっているようにさえ見えた。

「人前で服を脱ぐのが嫌なようでしたから、何か怪我でもしてるのかと思いましたが………特にどこにも目立った外傷はありませんでした。何か、心当たりは?」
「………いいえ、何も」

 バツが悪そうにそっと目を伏せて、堀野上等兵は静かに首を横に振る。
 何せ軍医の診察を受けさせようにも、全身から「関わるな」という空気を出して無言で威圧していたような奴だ。所詮は下っ端でしかない堀野上等兵にそれ以上何かを言う権利は無い。

「強いて言うのでしたら……その…………」

 言うべきかどうか迷った。尾坂が一部の上官に呼び出された後が一番酷い顔をしている……と。

「何か?」
「……いえ。大したことでは無いのであります」

 迷って、結局堀野上等兵は言わない方を選んだ。報復を恐れた保身とも言えるだろう。
 自分の身の振り方くらいは自分で決める。たとえそれがどのように冷酷な物であっても。でなければ、生き残れない。

「ふむ……ということは心の問題でしょうな」
「心の問題、でありますか?」
「まあ、人生には色々とありますからね……特に彼は、出自や瞳の色のことでご苦労なさっているようですし」

 灰色の瞳。それは、日露戦争で多くの人に遺恨を残した露西亜兵を連想させるものだ。特に、陸軍には大切な人を喪った者や、身近にそういった者がいる人間が多い。
 そんな彼が陸軍で生きるということは、本人以外には理解どころか想像もできないような苦痛と向き合わねばならなかったのだろう。

「余裕が無くなると視野が狭くなり、余計に追い詰められてしまうというもの。彼には休息が必要です。お若いですし、明日の朝までには回復しているでしょう。それまで側にいてあげなさい」
「了解であります」

 堀野上等兵が返事を返したのを聞き届け、軍医は優しく微笑んだ後に部屋を退出した。
 これで部屋には尾坂少尉と堀野上等兵の二人きり。嫌な沈黙が訪れる。

「…………」

 コチコチ、という規則正しい機械の音。枕元に静置されている尾坂少尉の銀時計から発せられている音だ。
 陸士を主席で卒業した証であるまだ新しい銀時計は、もの悲しい輝きをキラリと残しながら正確に時を刻み続けていた。

「……………ん……」

 もぞもぞ、と今まで微動だにしなかった布団が動く。どうやら尾坂少尉の意識が戻ったらしい。熱っぽいのか潤んだ瑠璃色の瞳が、光を捉え始める。

「尾坂少尉……」
「……堀野上等兵…………?」

 寝起きだからか、それとも熱にうなされているからか。随分と掠れた甘い声をしている。
 いつだったか、風邪をひいた美人はいつの何倍色っぽいとか言った奴がいたことを思い出して堀野上等兵は頭を抱えた。その時は聞き流したのだが、確かに風邪気味の美人は随分と色っぽい。
 尾坂少尉は美形に間違いはないが、男だということだけが残念だ。

「お目覚めでありますか」
「………猫は」
「は、」
「猫は、どうした」
「………」

 ───この男は……

 ほんの少しの苛立ちが鎌首をもたげそうになったのをぐっと抑え、堀野上等兵はきゅっと唇を引き結ぶ。
 自分が倒れて迷惑をかけたというのに、この期に及んで猫なんぞの心配か、と。

「……衰弱していたようですので、軍獣医長がご自宅に連れて帰って様子を診られるとのことです」
「そう、か……」

 とりあえず猫が無事だと確認できたことで安心したのか、尾坂少尉はゆっくりゆっくり息を吐いて手の甲を目元に当てる。

「……猫のことよりご自身の心配をされたらいかがでありますか」

 考えて考えて、それで出した声は思いの外震えていた。
 ただし、これは怒りによるものだ。感情的に怒鳴りそうになったのをぐっと堪えて出された声だった。
 一方で尾坂少尉は何も言わずにただ黙りこんでいるだけ。それが余計に堀野上等兵の苛立ちを煽ってしまったようだ。

「人に頼る労力を惜しんで、なんでもかんでもご自分で先回りして抱えてしまうからこのような事になったのでありましょう。人間には限度というものがあるのであります。何でもできると傲慢になってこんな醜態を晒したのなら、末代までの笑い者でありますよ」
「…………」
「お叱りを受けることを覚悟の上で言わせて頂きますが。ご自身の限界も判っていないような方が、生き物を拾ってきてどうするのでありますか。責任なんて取れないでしょうに。ただでさえ少尉殿は、ご自身では到底背負いきれないようなものを、これでもかと抱えていらっしゃるというのに、これ以上大きな荷物を抱えてどうするのでありますか」
「…………」
「自分を上官侮辱で軍法会議にかけたいのでしたらどうぞご自由に。自分は何も弁明いたしませんので、いくらでも悪く言えばよろしいでありましょう」

 半ばヤケクソだったが、言いたいことが言えてスッキリした。
 堀野上等兵は、そのまま尾坂少尉の衣服の片付けに入る。

「…………」

 しかし、尾坂少尉は黙ったままだ。なにも言わない、何も聞かない。
 ……再び眠ってしまったのだろうか。堀野上等兵がそう思って水を取りに行こうとした時だった。

「……昔、」

 昔話でもしようというのだろうか。尾坂少尉は妙にしおらしい態度で、ポツンポツンとひとりごちに語りだす。

「住んでいた離れに……猫が、迷いこんで来たときがあった」
「………」
「怪我をしていたようだったから……手当てをして、餌をやって…………父上に見せたんだ…………」

 父上、ということは養父ではなく実父の九条院侯爵のことを言っているのだろう。彼は自分の養父のことを「閣下」という敬称で呼ぶから。
 堀野上等兵は尾坂少尉の独白に水を差さず、そのままじっと耳を傾ける。

「…………次の日にはいなくなっていた」
「………」
「父上は、まるで……最初から猫なんていなかったと………そういう風に振る舞っていた」
「…………」
「推測なんだが、たぶん………捨てられたか、殺されたか、したんだと思う………………それは………父上からの“修正”だったと………私の人生に不必要なものだ、と………ようやく悟ったよ…………」
「………」
「だから……もう二度と、猫なんかと関わるものか……と、誓ってたんだが………」

 ふっと自嘲気味に力無く笑い声を漏らして、尾坂少尉はそっと寝返りを打つ。堀野上等兵から背を向ける形で、だ。それで、堀野上等兵からは彼の顔は見えなくなった。

「……結局、見捨てられなかった……………咄嗟に手が出てしまった…………」
「………」
「馬鹿な男だと、愚かな男だと、思う存分軽蔑してくれよ………いっそ全部私のせいにされた方が気が楽だから……さ」

 背の高い痩躯。いつもは威圧感に一役買っているのだが、今はなんだか随分と小さく見えた。

「……自分は、この大雨の日に寒さで震える仔猫を放り出すような外道ではありませんのでご安心を」

 思ったことを素直に口にして、次の瞬間それが失言だったと気付いてバッと口を押さえる。そして、恐れを知らない若い上等兵は、大慌てで弁解を始めた。

「い、いえ。その、お父上のことを悪く言うつもりは無かったのであります。言い訳になるやも知れませんが……」
「いや…………」

 しかし、尾坂少尉の口から出てきたのは予想外の言葉だった。

「そう……だ、よな………? 私は、何も間違えてなんか……いない、よ……な?」
「少尉?」
「あれは、父上が……父上の対応の方が………おかしいん、だよな…………? 私のあれは、正しい対応だったんだよな………? おかしいのは、父上の方なんだよな……?」
「………」

 ふう、と溜め息。それで、呆れたように天井を仰ぎながら、堀野上等兵はなるべく小さな子供に言い聞かせるような口調を意識して語りだす。

「……そうやって、何でもかんでもご自分ひとりで抱え込むからそうなるのでありますよ」
「………すまない」
「まったく………何のための当番兵だと思っておるのですか。部下に仕事のひとつもくれないなんて、酷い上官でありますよ。少尉殿は」

 えっ、という驚いたような声。華奢な背中がピクリと跳ね上がる。

「なんでこう、貴方はそんなにも他人を頼らんのでありますか。自分は、そんなにも信用のできない部下でありますか」
「違う……そう思ってしまったのなら、申し訳ないが………違うんだ、堀野上等兵………」
「では、なんだというのでありますか」
「私は……何もかも完璧だった………完璧であって当然なんだ……それに、身の回りのことを……自分でできない不自由は……もう、たくさんだよ………」

 ……今までずっと、この男のことをいけすかない野郎だと思っていた。いや、今でもそう思っている。恵まれた環境で育った癖に、それら全てを自身の我が儘と父親への反抗心という下らない理由で放り投げて、田舎者の所にすり寄ってきた、意識だけは高い三流なのだと。
 だけど違った。この人にはこの人なりの苦悩や恐怖があるのだと。そして、この人の「助けて」という声は、先程までの堀野上等兵のような輩の何気ない一言で、誰にも聞き届けられないまま捩じ伏せられてきたのだと。
 それを知った今だからこそ、今までとはまったく違う関係が築けると思った。だからこそ出てきた言葉だった。

「では、それができるように練習をしたらいいのではないでしょうか。ちょうどここに、当番兵という名の練習台がおるので」
「堀野上等兵……」
「それくらいは付き合うでありますよ。だって、自分は貴方の当番兵ですから」

 素っ気なく淡々とした言い種だったが、そこにはしっかりとした優しさが詰まっている。それを汲み取ったからこそ、尾坂少尉はほんの少しでも勇気を持って前に進めたのだ。

「ん……そうだな」

 ふ、と。尾坂少尉から緊張の糸が緩むような気配を感じとる。

「じゃあ……そうだな。まずは、飼い主を探してやらないといけない。二ヶ月後には、砲工学校に入校しなければならない私では飼えんから」

 尾坂少尉は慣例に従い、二ヶ月後には東京の砲工学校に入校しなければならない。なので、それまでにあの猫の飼い主を探さねばならないだろう。

 お手伝いいたしますよ、と堀野上等兵が言いかけた。その時だった。


「あいつの────昆布太夫の飼い主を」


 ……その『昆布太夫』というのが、尾坂少尉が拾ってきた仔猫の名前なのだというのに気付くために、堀野上等兵はたっぷり五分はかけたそうだ。


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