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なんでもない日
(23)宵の空には日輪草⑤
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尾坂の支度も終わり、戸田と共に出発しようと玄関を開けたときだ。戸田がまっすぐ歩こうとした瞬間、尾坂はあっさり脇道にそれて庭の方に行ってしまった。
てっきそのまま駐屯地に行ってしまうのだとばかり思っていた戸田は、尾坂の突然の寄り道に出鼻を挫かれて口許をひきつらせる。
いったいどうしたというのだろうか。何やら尾坂が消えた庭の方でゴソゴソと物を探るような音がしたかと思えば、戻ってきた彼の手には園芸用のハサミと細い麻縄、それに古新聞が握られていた。どうやらそれを取りに行っていたらしい。
「仙よ、お前なにする気だ」
「さあ。鋏を持ってきてすることなど限られておるでしょう」
戸田の困惑などまるで意にも返さない。尾坂は古新聞を広げたかと思うと鋏を手に取り、無言のまましゃがみこんで足元に生えていた鳳仙花の茎をそっと摘まむ。
シャキ、という朝露をたっぷり吸い込んだ植物の茎が鋏で切られる音。地面に降ろされた根から切り離された鳳仙花は、赤い花弁を揺らしながら古新聞の上に横たえられる。
「おおい……いくら俺が植えすぎだろって苦情を言ったとしてもなぁ。なにも出かける前に手入れなんぞしなくても良いだろ?」
「いいえ。お言葉ですがこれは手入れではありませんよ。切り花にして持っていくだけです」
「は? 鳳仙花を?」
想像もしなかったことを唐突に言われ、戸田はきょとんと目を瞬かせた。
鳳仙花という植物は、実は乾燥に弱いそうだ。確かに鉢植えだったら初夏の時期にいくらでも売っているが、切り花になって売られている所など見たこともない。
鳳仙花を切り花にしてどこに持っていくというのだろうか。
「……もしかして、女か」
「………」
ショキン、という軽快な音。今度は赤と白のまだら模様だ。
図星だったのか、尾坂は急に黙りこむ。
「……まあ、そうですね。女性であることには違い無いでしょう」
「お前なぁ……もしかして、俺との会談を断ってまでやらなきゃいかん用事って女関係のあれやそれだったのか」
「別に……言ったでしょう。閣下に頼まれた、と」
次に採った紫の鳳仙花を古新聞の上に積み上げて、今度尾坂が目を付けたのは桃色の鳳仙花。それも鋏で切ってしまう。
「あの謹厳実直で身持ちが異様に堅い閣下が、お前に? 女関係の頼み事を?」
「事実ですがなにか。疑われるなら直接閣下本人にお聞きください」
「うーむ……どういう事なんだよ、いったい」
本気で判らなくなった戸田は、尾坂の作業を見ながら腕を組んで考え込む。
尾坂の言う「閣下」というのは、陸軍省次長の尾坂隼三郎閣下のことだ。つまり尾坂の養父。
今は奥方を亡くされて独り身だが、それでも女遊びのひとつもしない真面目で実直な男である。寡黙ではあるが部下のことをよく気にかけてくれて、戸田とも面識があった。そんな隼三郎が自分の女関係のあれそれを養子である尾坂に頼むとは、にわかに信じがたかったのだ。
「これから行く場所に答えがあるのでそれで察してください。私の口からは何も言いたくありませんので」
「言いたくないのかよ」
「口に出すだけでも労力がいるので。無駄な動きはなるべくしたくないだけです」
「それは昨日聞いた。だけど俺はその肝心の行き先を聞いていないぞ」
「寺です」
「寺ぁ?」
尾坂の行き先、つまり例の仔猫達の引き取り手がいる場所が寺だったとは思わず、戸田は反射的に聞き返す。というのも、尾坂と寺という組み合わせが違和感しか無かったためだ。彼の顔立ちは日本人とも西洋人とも言い難い曖昧なものだが、それでも彫りの深い端正な顔立ちは、寺より教会の方が似合う。
「あそこの寺の住職とは前々から知り合いでしたので。それに住職は顔が広いので飼い主のアテがいないか探してくれるか頼んでみたら、快く承諾してくださいました」
「寺……」
寺、という単語。そして隼三郎閣下から頼まれたという状況。
この二つのヒントを元にして戸田は考察を広げ、十秒ほど固まっていたかと思えばポンと手を打って合点がいったように短く声を出す。
「なるほど、そういうことか」
「ええ、そうです。納得していただけましたか」
「あー、うん。そういうことね」
尾坂の「用事」とやらがなんだったのか察した戸田がバツの悪そうな顔で後頭部をかいた。
その時、鋏で茎を切る音の代わりに何かが弾ける音が聞こえて尾坂は手を止める。どうやら、赤く立派な花を付けていた鳳仙花を切った際に、隣にいた別の鳳仙花を刺激してしまったらしい。実が弾けて種が飛んできた。
「あ」
「……」
物言わぬ植物と言えども地味に痛かったらしい。尾坂はしばらくの間手を止めて、自分を攻撃してきた鳳仙花の株をじっと睨めつける。
「……花に怒るなよ」
「別に怒ってなどおりません。元気が良い、と。思っただけですよ」
ジャキジャキ、と立て続けに花が切られていく。と、尾坂が鋏を置いた。
どうやら今日はこの辺りで勘弁してやるつもりらしい。切った鳳仙花を纏めて麻縄で縛り、慣れた手つきで古新聞を巻いていく。
「それにしても、なんでまたわざわざ鳳仙花なんだ。もっと他に日持ちする花があっただろ」
「閣下のご希望です。できるだけ鳳仙花にしてくれと仰られていたので、その希望に添う形で選んでおります」
「はあ……なんでまた次長は鳳仙花が良かったんだろ」
「………」
ガサガサと古新聞が纏め上げられた。尾坂はどう答えるのが一番良いのか考えを巡らせている。
「……さあ。知りません。お好きな花だったのでしょう」
「おいおい……いくらなんでも冷たすぎないか? 一応、相手と血の繋がりは無いとはいえどもお前の親戚だろうに」
「………」
血の繋がりは無い。その一言が思いの外、深く刺さったらしい。尾坂は戸田の発言には一切返さず、鋏を置きに納屋の方まで引き返した。
(……無い、はずだよなぁ。あいつと尾坂家との血の繋がり)
尾坂は養子だ。母親は不明だが、父親があの九条院侯爵だということは誰の目から見ても明らか。
侯爵と尾坂。二人を見たことがある人間は口を揃えて言っていた。尾坂の目元と髪色は、侯爵の若い頃にそっくりだ、と。
それに尾坂自身、侯爵と同じく天才肌という奴で、血の繋がりが窺える。若い頃の侯爵を知る人間が、彼の息子である尾坂が海外留学をしてきたことを知ると、まだ欧州各国を回って学んでいた頃の侯爵にそっくりと当然のように捉えるのも知っていた。
尾坂の実父が九条院侯爵だということは間違いない。
では、彼の母親の方は?
(でも……)
彼の母親については徹底的に詳細が伏せられている。横浜の芸者だったとかいう話だが、定かではない。昔、華族の不祥事の気配を嗅ぎ取ったどこぞの記者が、侯爵が溺愛している三男の出生の秘密を探ったこともあったらしいが、結局真相は暴けず数年粘って退散したそうだ。
参謀本部で情報を専門的に扱っている戸田の考察では、おそらく複数の人間がまったく別々の方法と目的で隠したのではないかと思うのだが、物的証拠は何一つ存在しない。真相は闇の中だ。尾坂本人も知らないのか、それとも知ってて口を閉ざしているのか、その話題を避けたがる傾向にある。
(………似ている。赤の他人にしては)
戸田が脳裏に浮かべていたのは、陸軍省次長を務める人物。そう、尾坂の養父である隼三郎閣下のこと。
当然ながら養子と養父という関係であるため、世間的に見れば尾坂と隼三郎閣下との間に血縁関係は存在しないことになっている。
存在しない、はずだ。なのに───似ている、そう感じ取ることが度々あった。
思春期という多感な時期に養子縁組を結んで、長期休暇の際に身を寄せていたために多少は影響を受けるだろうが……それを考慮しても二人の間には、義理の親子ということ以外に何か特別な繋がりがあるような気がしてならない。
ふとした仕草が、時折見せる表情が、そして何より他人を惹き付けていつの間にか虜にしている魔性とも呼べる性が。
とてもじゃないが無関係とは思えないほど似通っていた。
(そういえば、閣下の姉君は瑞典から来日していた技師とご結婚なされたとか言っていたような……)
それが縁で瑞典の駐在員になられた経験もあるのだから間違いない。そして隼三郎の姉には娘が、つまり隼三郎にとっては姪に当たる人物がいたそうだ。しかしその女性は若くして病死している……
(あれ……ちょっと待てよ、出来すぎていないか?)
カチリ、と何かが噛み合うような音がした。恐ろしいことに気付いて戸田は思わず口許を抑える。
尾坂の実母は北欧系の血を引いていた、ということ以外の情報がどう粘っても出てこない。横浜の芸者だったとかいう話もあるが、全て推測でそうだったという証拠は存在しない。
そして、隼三郎閣下の姉君は北欧の国である瑞典から来た技師と結婚して一子授かっている。その子は隼三郎閣下の姪に当たっている女性で、病死したとかでこの世にはいない……
いくらなんでもこんな偶然あるだろうか。当時からそれなりに数のいたであろう英吉利人や独逸人ならともかく、明治時代に瑞典人は十名程度しか来日していない。通商条約が結ばれていた瑞典でその数なのだから、他の北欧の国々の人間が来ていたとしても数えるほどしかないだろう。
だというのに、なぜこんなにも特徴の似ている女性が二人も尾坂の周辺にいるのだろうか。
そこから導き出せる答えはただ一つ───
「……何を固まっていらっしゃるので?」
急にかけられた声に驚き、ハッと顔を上げる。そこには訝しげな表情をする尾坂が。
「あ、いや。なんでも無いよ」
「そうですか。待たせて申し訳ありません。では参りましょうか」
鋏を納屋に置いてきたらしい。鳳仙花の花束を抱えながら、物入れから取り出した手套を器用に着けて促す。
まるで戸田の様子になど気付いていないとばかりの態度を取る尾坂に硬直を解かれ、早鐘を打つ心臓のあたりをぎゅっと抑えながらも戸田は歩きだした。
「一度、駐屯地に寄ってから行くんだよな」
「ええ。千歳と猫を回収してから寺に向かいます」
昨夜、奥池の妻が引き取っていった雌の黒猫を除き、残り四匹になった仔猫達。軍獣医長から「曲者」という嬉しくない称号を賜った一匹については嫌な予感しかしなかったが……
「…………」
「何か?」
「……なあ、仙」
────お前、自分の母親についてどう思っているんだ?
「…………………………」
その質問を聞いた瞬間、尾坂は黙り込んだ。
朝の目映い日差しの中で、遠くの方から蝉の鳴き声が嫌に大きく響いてくる。
「………母親?」
「うん」
「別に、興味などありません。故人は所詮、過去の人間ですから」
どれほど足掻いても、過去は変えられないでしょう?
普段の彼からは想像もつかないような、諦観に満ちた台詞。淡く揺れる瑠璃色の瞳が伏せられ、表情はすぐに見えなくなった。
一方で戸田の方は思いもよらない反応を返されて固まるしかない。
「会ったことも無いような人間にどうやって情を抱けと言うのですか。私は、生きて今、目の前にいる人間の心でさえ判らない化け物なのですよ。たとえ一時でも母親がいた貴方たちと一緒にしないでください……!」
ただ、吐き捨てるように呟かれた囁くように震える小さい声だけが、尾坂の本音を物語っていた。
てっきそのまま駐屯地に行ってしまうのだとばかり思っていた戸田は、尾坂の突然の寄り道に出鼻を挫かれて口許をひきつらせる。
いったいどうしたというのだろうか。何やら尾坂が消えた庭の方でゴソゴソと物を探るような音がしたかと思えば、戻ってきた彼の手には園芸用のハサミと細い麻縄、それに古新聞が握られていた。どうやらそれを取りに行っていたらしい。
「仙よ、お前なにする気だ」
「さあ。鋏を持ってきてすることなど限られておるでしょう」
戸田の困惑などまるで意にも返さない。尾坂は古新聞を広げたかと思うと鋏を手に取り、無言のまましゃがみこんで足元に生えていた鳳仙花の茎をそっと摘まむ。
シャキ、という朝露をたっぷり吸い込んだ植物の茎が鋏で切られる音。地面に降ろされた根から切り離された鳳仙花は、赤い花弁を揺らしながら古新聞の上に横たえられる。
「おおい……いくら俺が植えすぎだろって苦情を言ったとしてもなぁ。なにも出かける前に手入れなんぞしなくても良いだろ?」
「いいえ。お言葉ですがこれは手入れではありませんよ。切り花にして持っていくだけです」
「は? 鳳仙花を?」
想像もしなかったことを唐突に言われ、戸田はきょとんと目を瞬かせた。
鳳仙花という植物は、実は乾燥に弱いそうだ。確かに鉢植えだったら初夏の時期にいくらでも売っているが、切り花になって売られている所など見たこともない。
鳳仙花を切り花にしてどこに持っていくというのだろうか。
「……もしかして、女か」
「………」
ショキン、という軽快な音。今度は赤と白のまだら模様だ。
図星だったのか、尾坂は急に黙りこむ。
「……まあ、そうですね。女性であることには違い無いでしょう」
「お前なぁ……もしかして、俺との会談を断ってまでやらなきゃいかん用事って女関係のあれやそれだったのか」
「別に……言ったでしょう。閣下に頼まれた、と」
次に採った紫の鳳仙花を古新聞の上に積み上げて、今度尾坂が目を付けたのは桃色の鳳仙花。それも鋏で切ってしまう。
「あの謹厳実直で身持ちが異様に堅い閣下が、お前に? 女関係の頼み事を?」
「事実ですがなにか。疑われるなら直接閣下本人にお聞きください」
「うーむ……どういう事なんだよ、いったい」
本気で判らなくなった戸田は、尾坂の作業を見ながら腕を組んで考え込む。
尾坂の言う「閣下」というのは、陸軍省次長の尾坂隼三郎閣下のことだ。つまり尾坂の養父。
今は奥方を亡くされて独り身だが、それでも女遊びのひとつもしない真面目で実直な男である。寡黙ではあるが部下のことをよく気にかけてくれて、戸田とも面識があった。そんな隼三郎が自分の女関係のあれそれを養子である尾坂に頼むとは、にわかに信じがたかったのだ。
「これから行く場所に答えがあるのでそれで察してください。私の口からは何も言いたくありませんので」
「言いたくないのかよ」
「口に出すだけでも労力がいるので。無駄な動きはなるべくしたくないだけです」
「それは昨日聞いた。だけど俺はその肝心の行き先を聞いていないぞ」
「寺です」
「寺ぁ?」
尾坂の行き先、つまり例の仔猫達の引き取り手がいる場所が寺だったとは思わず、戸田は反射的に聞き返す。というのも、尾坂と寺という組み合わせが違和感しか無かったためだ。彼の顔立ちは日本人とも西洋人とも言い難い曖昧なものだが、それでも彫りの深い端正な顔立ちは、寺より教会の方が似合う。
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「寺……」
寺、という単語。そして隼三郎閣下から頼まれたという状況。
この二つのヒントを元にして戸田は考察を広げ、十秒ほど固まっていたかと思えばポンと手を打って合点がいったように短く声を出す。
「なるほど、そういうことか」
「ええ、そうです。納得していただけましたか」
「あー、うん。そういうことね」
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その時、鋏で茎を切る音の代わりに何かが弾ける音が聞こえて尾坂は手を止める。どうやら、赤く立派な花を付けていた鳳仙花を切った際に、隣にいた別の鳳仙花を刺激してしまったらしい。実が弾けて種が飛んできた。
「あ」
「……」
物言わぬ植物と言えども地味に痛かったらしい。尾坂はしばらくの間手を止めて、自分を攻撃してきた鳳仙花の株をじっと睨めつける。
「……花に怒るなよ」
「別に怒ってなどおりません。元気が良い、と。思っただけですよ」
ジャキジャキ、と立て続けに花が切られていく。と、尾坂が鋏を置いた。
どうやら今日はこの辺りで勘弁してやるつもりらしい。切った鳳仙花を纏めて麻縄で縛り、慣れた手つきで古新聞を巻いていく。
「それにしても、なんでまたわざわざ鳳仙花なんだ。もっと他に日持ちする花があっただろ」
「閣下のご希望です。できるだけ鳳仙花にしてくれと仰られていたので、その希望に添う形で選んでおります」
「はあ……なんでまた次長は鳳仙花が良かったんだろ」
「………」
ガサガサと古新聞が纏め上げられた。尾坂はどう答えるのが一番良いのか考えを巡らせている。
「……さあ。知りません。お好きな花だったのでしょう」
「おいおい……いくらなんでも冷たすぎないか? 一応、相手と血の繋がりは無いとはいえどもお前の親戚だろうに」
「………」
血の繋がりは無い。その一言が思いの外、深く刺さったらしい。尾坂は戸田の発言には一切返さず、鋏を置きに納屋の方まで引き返した。
(……無い、はずだよなぁ。あいつと尾坂家との血の繋がり)
尾坂は養子だ。母親は不明だが、父親があの九条院侯爵だということは誰の目から見ても明らか。
侯爵と尾坂。二人を見たことがある人間は口を揃えて言っていた。尾坂の目元と髪色は、侯爵の若い頃にそっくりだ、と。
それに尾坂自身、侯爵と同じく天才肌という奴で、血の繋がりが窺える。若い頃の侯爵を知る人間が、彼の息子である尾坂が海外留学をしてきたことを知ると、まだ欧州各国を回って学んでいた頃の侯爵にそっくりと当然のように捉えるのも知っていた。
尾坂の実父が九条院侯爵だということは間違いない。
では、彼の母親の方は?
(でも……)
彼の母親については徹底的に詳細が伏せられている。横浜の芸者だったとかいう話だが、定かではない。昔、華族の不祥事の気配を嗅ぎ取ったどこぞの記者が、侯爵が溺愛している三男の出生の秘密を探ったこともあったらしいが、結局真相は暴けず数年粘って退散したそうだ。
参謀本部で情報を専門的に扱っている戸田の考察では、おそらく複数の人間がまったく別々の方法と目的で隠したのではないかと思うのだが、物的証拠は何一つ存在しない。真相は闇の中だ。尾坂本人も知らないのか、それとも知ってて口を閉ざしているのか、その話題を避けたがる傾向にある。
(………似ている。赤の他人にしては)
戸田が脳裏に浮かべていたのは、陸軍省次長を務める人物。そう、尾坂の養父である隼三郎閣下のこと。
当然ながら養子と養父という関係であるため、世間的に見れば尾坂と隼三郎閣下との間に血縁関係は存在しないことになっている。
存在しない、はずだ。なのに───似ている、そう感じ取ることが度々あった。
思春期という多感な時期に養子縁組を結んで、長期休暇の際に身を寄せていたために多少は影響を受けるだろうが……それを考慮しても二人の間には、義理の親子ということ以外に何か特別な繋がりがあるような気がしてならない。
ふとした仕草が、時折見せる表情が、そして何より他人を惹き付けていつの間にか虜にしている魔性とも呼べる性が。
とてもじゃないが無関係とは思えないほど似通っていた。
(そういえば、閣下の姉君は瑞典から来日していた技師とご結婚なされたとか言っていたような……)
それが縁で瑞典の駐在員になられた経験もあるのだから間違いない。そして隼三郎の姉には娘が、つまり隼三郎にとっては姪に当たる人物がいたそうだ。しかしその女性は若くして病死している……
(あれ……ちょっと待てよ、出来すぎていないか?)
カチリ、と何かが噛み合うような音がした。恐ろしいことに気付いて戸田は思わず口許を抑える。
尾坂の実母は北欧系の血を引いていた、ということ以外の情報がどう粘っても出てこない。横浜の芸者だったとかいう話もあるが、全て推測でそうだったという証拠は存在しない。
そして、隼三郎閣下の姉君は北欧の国である瑞典から来た技師と結婚して一子授かっている。その子は隼三郎閣下の姪に当たっている女性で、病死したとかでこの世にはいない……
いくらなんでもこんな偶然あるだろうか。当時からそれなりに数のいたであろう英吉利人や独逸人ならともかく、明治時代に瑞典人は十名程度しか来日していない。通商条約が結ばれていた瑞典でその数なのだから、他の北欧の国々の人間が来ていたとしても数えるほどしかないだろう。
だというのに、なぜこんなにも特徴の似ている女性が二人も尾坂の周辺にいるのだろうか。
そこから導き出せる答えはただ一つ───
「……何を固まっていらっしゃるので?」
急にかけられた声に驚き、ハッと顔を上げる。そこには訝しげな表情をする尾坂が。
「あ、いや。なんでも無いよ」
「そうですか。待たせて申し訳ありません。では参りましょうか」
鋏を納屋に置いてきたらしい。鳳仙花の花束を抱えながら、物入れから取り出した手套を器用に着けて促す。
まるで戸田の様子になど気付いていないとばかりの態度を取る尾坂に硬直を解かれ、早鐘を打つ心臓のあたりをぎゅっと抑えながらも戸田は歩きだした。
「一度、駐屯地に寄ってから行くんだよな」
「ええ。千歳と猫を回収してから寺に向かいます」
昨夜、奥池の妻が引き取っていった雌の黒猫を除き、残り四匹になった仔猫達。軍獣医長から「曲者」という嬉しくない称号を賜った一匹については嫌な予感しかしなかったが……
「…………」
「何か?」
「……なあ、仙」
────お前、自分の母親についてどう思っているんだ?
「…………………………」
その質問を聞いた瞬間、尾坂は黙り込んだ。
朝の目映い日差しの中で、遠くの方から蝉の鳴き声が嫌に大きく響いてくる。
「………母親?」
「うん」
「別に、興味などありません。故人は所詮、過去の人間ですから」
どれほど足掻いても、過去は変えられないでしょう?
普段の彼からは想像もつかないような、諦観に満ちた台詞。淡く揺れる瑠璃色の瞳が伏せられ、表情はすぐに見えなくなった。
一方で戸田の方は思いもよらない反応を返されて固まるしかない。
「会ったことも無いような人間にどうやって情を抱けと言うのですか。私は、生きて今、目の前にいる人間の心でさえ判らない化け物なのですよ。たとえ一時でも母親がいた貴方たちと一緒にしないでください……!」
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