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賢者の教え
しおりを挟む「ありがとう。また明日ね、ルカ」
ルカの部屋で少しだけ落ち着きを取り戻した僕は、彼に別れを告げ、地下にあるメハイル先生の研究室へと足を運んだ。先程の騒動の報告と、何より自分の体の中で暴れ回る黒い魔力をどうにか制御する術を知りたかったからだ。
「先生……失礼します」
「あぁ。ヴァレリウスくん。……聞いたよ。中庭で派手にやったらしいね」
メハイル先生は相変わらず丸眼鏡の奥の鋭い眼光を向けていたが、その声には責めるような色はなかった。
「……すみません。自分が情けなくて」
「状況から見て、負の感情に触発された魔力暴走だろう。君の器はすでに限界まで他人の魔力で満たされている。コップの縁まで水が張っているようなものだ。少し感情が揺さぶられるだけで、表面張力が切れて溢れ出してしまう」
「暴走させない方法はありますか? このままだと、僕は……」
「……悪魔」とささやかれた時の、あの内側から食い破られるような恐怖を思い出し、指先が震える。
「ひたすら感情を抑えるしかない。だが、これはあまり健全な道ではないよ。心を閉ざすことは、君自身の魂を摩耗させるからね。私が教えるのは『心を失くす』ことではなく、『動じない心を持つ』ための技術だ」
「動じない……心?」
「そうだ。瞑想の中で、心の中に底の見えない『巨大な穴』を思い浮かべるんだ。周囲からの悪意や、自分の中から湧き出る怒り、それらすべてをその穴に放り込み、ただ落ちていく様を眺めるイメージを持つ。そうすれば、君は自分の感情の渦中から抜け出し、冷徹な『傍観者』になれる」
「……傍観者、ですか」
「この方法は、自分自身の心さえも切り離してしまう危うさがある。あまり多用しないようにね。……君が君でなくなってしまっては、意味がない」
メハイル先生の教えは、どこか寂しげだった。僕は教えられた「穴」のイメージを脳内に描いてみる。すべてを飲み込む暗闇。これこそ、悪役が持つべき冷酷さの基盤になるかもしれない。
---
授業がひと段落した後、先生が淹れてくれた苦いお茶を飲みながら、僕は気になっていたことを口にした。
「先生。……同室のハーディルはどう見えますか?」
メハイル先生は茶器を置き、少しの間を置いてから答えた。
「あの子か。……一言で言えば、極めて優秀で、極めて危険だ。魔力量の多さもさることながら、その制御技術はすでに成人した魔術師を凌駕している」
「やっぱり、凄いんですね。僕の暴走も止めてくれましたし」
「……だがね、ヴァレリウスくん。あの子には欠落している部分がある。強大な力を持ちながら、他者を想う共感性が希薄だ。世界が滅びようが、隣人が死のうが、あの子は眉ひとつ動かさないだろう。……君という『例外』を除いてはね」
「僕が、例外……?」
「あの子の執着は、友愛というよりは所有欲に近い。君という存在を自分の世界の一部として固定しようとしている。……仲良くするのは構わないが、あまり深くのめり込みすぎないことだ」
先生の言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。ハーディルのあの過保護なまでの優しさ。僕が苦しんでいる時、彼は周りの生徒たちをゴミを見るような目で見ていた。
ルカと一緒にいる時に感じる「等身大の友情」とは明らかに違う、重く熱い何か。
(僕はハーディルと、本当の意味で『友達』になれているのかな……)
けれど、学園に来て最初に僕を丸ごと受け入れてくれたのは彼だ。その事実だけは、今の僕を支える大切な柱の一つだった。
---
メハイル先生との時間を終え、夕闇が迫る廊下を一人で歩いていた。寮の門限まではまだ少し時間がある。
「ヴァレリウス!」
まただ。この数日間、一日に一度はこの声に呼び止められている気がする。
「……アルフレッド様」
夕陽を背負って立つ彼は、相変わらず物語の主人公のような神々しさがあった。けれど、今日の彼はどこか調子が狂っているように見える。
「ヴァレリウス、昼間のことは……すまなかった。私の不徳の致すところだ。あのような心無い言葉を投げつけられるなんて……君を傷つけるつもりはなかったんだ」
「……僕の方こそ、申し訳ありません。公爵家の者として、己の力も御せぬ醜態を晒しました。アルフレッド様を驚かせてしまったこと、お詫び申し上げます」
僕は先生に教わった「穴」のイメージを意識した。感情を穴に落とし、淡々と、礼儀正しく。それが公爵令息としての、そして悪役としての正しい振る舞いだ。
しかし、アルフレッド様は僕のそんな壁を感じ取ったのか、形の良い眉を八の字にして、情けないほど悲しそうな顔をした。
「……謝らないでくれ。君にそんな風に、遠い場所から話されるのは耐えられない。私はただ、君と……昔のように笑い合いたかっただけなのに」
普段、全生徒の憧れの的であり、完璧な王子として君臨している彼が、僕一人の前で今にも泣き出しそうな顔をしている。
そのギャップが、そして「国の重鎮である王子様が、僕ごときにここまで必死になっている」という状況が、不意におかしく感じられた。
(……なんだ、この人。かっこいいのに、すごく不器用だ)
「……ふふっ」
「……え?」
こらえきれず、小さな笑いが漏れた。メハイル先生に教わった「傍観者の心」が、皮肉にもアルフレッド様という人間を「面白い観察対象」として映し出してしまったらしい。
「あ、すみません。……アルフレッド様が、あまりにも必死な顔をされているので。なんだか、意外だなと思って」
「……ッ! ヴァレリウス、今、笑ったな」
「本当ですか……? 無意識でした」
僕が少しだけ意地悪く首を傾げると、アルフレッド様の顔がみるみるうちに耳まで真っ赤に染まった。
「あ、あぁ。……そうか。笑ってくれたのなら、いいんだ。……では、私はこれで!」
「え? 顔が真っ赤ですよ? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だ! 失礼する!」
彼は自分の顔を隠すように翻すと、風のような速さで去っていった。
廊下に一人取り残された僕は、ポツンと立ち尽くす。
「……急にどうしたんだろう。やっぱり、変な人だな」
悪役を目指しているはずなのに、王子の顔を真っ赤にして逃げ出させてしまうなんて、一体どういう展開なのだろう。
小説の知識を辿ってみても、ヴァレリウスが王子を笑わせるシーンなんて一行もなかったはずだ。
(まあいいか……。とりあえず、ハーディルが待ってる。早く帰らなきゃ)
僕は少しだけ軽くなった足取りで、夕暮れの学園を歩き出した。
体内の魔力は相変わらず不穏な熱を帯びているけれど、今日覚えた「穴」のイメージと、友人の怒り、そして王子の真っ赤な顔が、少しだけ僕を死の運命から遠ざけてくれたような気がした。
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