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【残り4日:金曜日・残照の密室,指先の刻印】
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今日を最後に,午後まで学校に居残れる日々が終わる。 土曜日は午前授業のみ。そして週が明ければ,私たちはもう「生徒」ではなくなる。
放課後の図書室は,昨日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 三年生たちの返却は終わり,カウンターの上に積み上げられていた本もすべて元の棚へと戻された。 返却期限を守らなかったのは,一人だけ。貸出リストには「七海結」の名前だけが白く浮き上がっている。
「……閉めなきゃ」
時計の針が閉館時刻を回った。 図書室にはもう,私以外の誰の気配もない。窓の外からは,部活動を終えた生徒たちの遠い笑い声が,薄い膜を通したような不明瞭な音となって届くだけだ。 夕闇が忍び寄る室内は,本棚の影が長く伸び,まるで巨大な墓標の群れのように見えた。
私は重い腰を上げ,出口の扉に手をかけようとした。 その時,図書室の重い木製の扉が,外側からゆっくりと押し開けられた。
「……遅くなって,ごめん」
逆光の中に立っていたのは,七海くんだった。 廊下の照明を背負い,彼の表情は深い影に沈んで見えない。けれど,そのシルエットから放たれる圧倒的な存在感に,私は射すくめられたように動けなくなった。
彼は室内へ足を踏み入れると,背後にある重い扉を,音もなく静かに閉めた。 カチリ,と硬い金具の噛み合う音が,鼓膜を直接叩くように静寂に響く。 その音を合図に,外界との繋がりは無残に断たれ,広い図書室は,呼吸さえ憚られるほど濃密な密室へと変貌した。まるで世界に二人きりしかいなくなったような,逃げ場のない沈黙が私の肌にまとわりつく。
彼は迷いのない足取りで,私しかいない室内の,そのさらに奥にあるカウンターまで歩いてくる。 コツ,コツ,と床を叩く上履きの音が,私の早まる鼓動を執拗に追い詰めていく。 彼がカウンターを回り込み,逃げ道を塞ぐように私のすぐ目の前に立った。
「誰も,いないんだね」
囁くような声。確認するまでもない事実を彼が口にすると,ここが世界から切り離された二人だけの檻になったような錯覚を覚える。 私は震える手でリュックを開け,底に沈んでいたあのノートを取り出した。
「これ……返します」
差し出したノートを,彼はすぐに受け取ろうとはしなかった。 代わりに,私の手首を冷たい指先で掴み,自分の方へと引き寄せる。
「…………っん」
喉の奥で,熱い音が鳴った。 彼はノートを掴んでいる私の指を,一本ずつ,剥がすようにしてなぞっていく。 人差し指,中指。節の一つひとつを,まるで自分の所有物であることを確かめるような,執拗で粘り気のある愛撫。
「昨日,明日には返してって言ったよね」
彼の指が,私の爪の先を小さく弾く。その微かな刺激さえ,今の私には電流のような熱となって背徳的に響いた。
「…………っ,……」
音にならない呼吸が,彼とのわずかな隙間に霧散する。 彼は私の指先を弄びながら,もう片方の手でポケットから一本のペンを取り出した。
「忘れないように,印をつけておこうか」
ノートを受け取る代わりに,彼は私の手のひらを上に向かせ,剥き出しになった柔らかな皮膚にペンの先を落とした。 じりりと,インクが肌に染み込んでいく感覚。 夕闇の中で,彼が私の手に何を書き込んでいるのかははっきりとは見えない。ただ,ペンの先が皮膚をなぞる鋭い感覚と,彼が吐き出す熱い呼気だけが,私の意識を白く塗りつぶしていく。
彼はようやくノートを手に取ると,私の指先に残った熱を振り払うようにして,背を向けた。 残された私の手のひらには,彼が刻んだ筆跡が,黒い刻印のように残っていた。
卒業まで,あと,四日。 誰もいない図書室に,私の乱れた呼吸の音だけが,いつまでも虚しく反響していた。
放課後の図書室は,昨日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 三年生たちの返却は終わり,カウンターの上に積み上げられていた本もすべて元の棚へと戻された。 返却期限を守らなかったのは,一人だけ。貸出リストには「七海結」の名前だけが白く浮き上がっている。
「……閉めなきゃ」
時計の針が閉館時刻を回った。 図書室にはもう,私以外の誰の気配もない。窓の外からは,部活動を終えた生徒たちの遠い笑い声が,薄い膜を通したような不明瞭な音となって届くだけだ。 夕闇が忍び寄る室内は,本棚の影が長く伸び,まるで巨大な墓標の群れのように見えた。
私は重い腰を上げ,出口の扉に手をかけようとした。 その時,図書室の重い木製の扉が,外側からゆっくりと押し開けられた。
「……遅くなって,ごめん」
逆光の中に立っていたのは,七海くんだった。 廊下の照明を背負い,彼の表情は深い影に沈んで見えない。けれど,そのシルエットから放たれる圧倒的な存在感に,私は射すくめられたように動けなくなった。
彼は室内へ足を踏み入れると,背後にある重い扉を,音もなく静かに閉めた。 カチリ,と硬い金具の噛み合う音が,鼓膜を直接叩くように静寂に響く。 その音を合図に,外界との繋がりは無残に断たれ,広い図書室は,呼吸さえ憚られるほど濃密な密室へと変貌した。まるで世界に二人きりしかいなくなったような,逃げ場のない沈黙が私の肌にまとわりつく。
彼は迷いのない足取りで,私しかいない室内の,そのさらに奥にあるカウンターまで歩いてくる。 コツ,コツ,と床を叩く上履きの音が,私の早まる鼓動を執拗に追い詰めていく。 彼がカウンターを回り込み,逃げ道を塞ぐように私のすぐ目の前に立った。
「誰も,いないんだね」
囁くような声。確認するまでもない事実を彼が口にすると,ここが世界から切り離された二人だけの檻になったような錯覚を覚える。 私は震える手でリュックを開け,底に沈んでいたあのノートを取り出した。
「これ……返します」
差し出したノートを,彼はすぐに受け取ろうとはしなかった。 代わりに,私の手首を冷たい指先で掴み,自分の方へと引き寄せる。
「…………っん」
喉の奥で,熱い音が鳴った。 彼はノートを掴んでいる私の指を,一本ずつ,剥がすようにしてなぞっていく。 人差し指,中指。節の一つひとつを,まるで自分の所有物であることを確かめるような,執拗で粘り気のある愛撫。
「昨日,明日には返してって言ったよね」
彼の指が,私の爪の先を小さく弾く。その微かな刺激さえ,今の私には電流のような熱となって背徳的に響いた。
「…………っ,……」
音にならない呼吸が,彼とのわずかな隙間に霧散する。 彼は私の指先を弄びながら,もう片方の手でポケットから一本のペンを取り出した。
「忘れないように,印をつけておこうか」
ノートを受け取る代わりに,彼は私の手のひらを上に向かせ,剥き出しになった柔らかな皮膚にペンの先を落とした。 じりりと,インクが肌に染み込んでいく感覚。 夕闇の中で,彼が私の手に何を書き込んでいるのかははっきりとは見えない。ただ,ペンの先が皮膚をなぞる鋭い感覚と,彼が吐き出す熱い呼気だけが,私の意識を白く塗りつぶしていく。
彼はようやくノートを手に取ると,私の指先に残った熱を振り払うようにして,背を向けた。 残された私の手のひらには,彼が刻んだ筆跡が,黒い刻印のように残っていた。
卒業まで,あと,四日。 誰もいない図書室に,私の乱れた呼吸の音だけが,いつまでも虚しく反響していた。
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