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第3章 Intervention in Corruption

第57話 奴隷の扱い

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「すいませーん、武器を作ってもらおうと思ってー……」
「……!」

 商業区画のには頑固で面倒な親父によって営まれている鍛冶屋がある。 しかしこの鍛冶屋の人気は地の底だ。 腕だけは立つのだが、いかんせん親父の性格が災いして客は集まらず、結果的に他の鍛冶屋に客は流れている。

 ハジメは早速第一関門に差し掛かっていた。

 目の前には、眼帯で片目を隠し、手拭いを頭に巻いた上裸の筋肉ダルマが鎮座している。 彼の左肩には魔導印が見えるが、到底魔法使いには見えない。

(こえー……。 なんでこの世界のおっさんって、どいつもこいつも巨大なんだ?)

 腕を組んで見下ろす親父の圧を感じつつ、次の言葉を待つ。

「……名は?」
「あ、えっと、ハジメ=クロカワです……」
「そいつはどこで手に入れた?」
「そいつ……?」
「背中の武器だ」
「これはベルナルダンでオルソー=ベルナルダンって人に作ってもらいました」
「見せろ」
「はい……」

 折れた武器を見せるのはオルソーにも申し訳なかったが、ハジメは圧に屈して武器を出し出す。

「雑な扱いでもしたか?」
「丁寧に扱ってたつもりなんですけど……」
「頻繁に使用する魔法は近距離か? 遠距離か?」
「え、なんですか……?」
「答えろ」
「遠距離、ですけど……」
「それなら近距離武器を持て。 予算は?」
「え?」
「予算は?」
「金貨100枚以内であれば……」

(このおっさん俺の話聞かねぇ……。 ドミナさんから聞いてた通りだけど、即座に追い出されなかった時点で当たりか? てか、そうまでしてこのおっさんを頼る必要はあるのか?)

 ハジメが武器を欲していると聞いてドミナはこの鍛冶屋を勧めたわけだが、ついぞその理由を教えてもらえることはなかった。 とりあえず最初はここを訪れると良いらしい。

 ハジメがモルテヴァで生活を始めて三ヶ月弱。 一人で稼ぐことにも慣れ、ようやく武器を購入するだけの元手が得られるようになってきた。 しかし金貨100枚など中堅以上のハンターにとっては端金でしかなく、装備一箇所揃えるだけで消えてしまう程度のもの。 魔弾を撃てるだけの魔杖が金貨50枚と考えれば、武器に金貨100枚というのは大した課金額でもない。 とはいえ、駆け出しのハンターであるハジメには大金で、持ち歩くのさえビビってしまうくらいの額である。

「請け負った。 説明は他の者がする。 物資が揃ったらまた来い」
「え?」
「エマ! 客だ、説明しろ!」

 それだけ言うと、親父は背を向けて作業場に戻っていく。 ハジメが彼の背を眺めていると、ドタドタと階段を鳴らして降りてくる女性が。

「「あ」」

 お互いに面識はあった。 話したことはなくとも、三ヶ月も生活していれば見たことくらいはある。 ハジメにとっては、モルテヴァに到着早々跳ね飛ばされた記憶があるのでよく覚えていた。

「お前、あん時の!」
「あー、見たことあるっすね! お兄さん、客っすか?」
「そうだよ! ……って、大丈夫か?」

 エマと呼ばれた女性がハジメの前にやってきたが、彼女の様相に思わず心配の声が漏れた。

「心配無いっす。 転んだだけなんで」

 彼女の肌の見える範囲、全身どこを見ても擦り傷切り傷が絶えない。 彼女が女性であることなど関係ないように、顔面にもあざが広がっていてかなり痛々しい。

「転んでそうはならないだろ」
「いやぁ、まぁ……とりあえず仕事の話をするっす」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫っす。 いつものことなんで」

(さっきのおっさんにやられたのか? 随分とこの鍛冶屋がきな臭くなってきたんだが……)

「必要なら回復ポーションを渡すぞ?」
「心配無用っす」
「返す必要ないから使えよ」
「いや、受け取れないっす。 貰っても逆に迷惑なんで。 お兄さんがあたしの身体目当てって感じなら仕方ないっすけど」
「いや、なんでそうなるんだよ」
「じゃあ大丈夫っす。 お兄さん、そういうのやめた方がいいっすよ。 偽善はお兄さんのためにならないんで」

 真剣な眼差しで言われると、ハジメもそれ以上言葉を重ねるのは難しかった。

(住民が公然と誰かを殴る蹴るして、それを止める奴がいないって状況を何度か見たな。 この娘もその被害者だったりするのか?)

 立ち入るな──そう言われているのは間違いない。 ハジメの行動はエマにとって無用な干渉であるらしい。

「そこまで言うなら何も言わないけどよ……。 今日会っただけの他人だけど、辛かったら言えよ?」
「……」
「まぁえっと、とりあえず親父さんには金貨100枚で請け負うって言われて、エマ……君が内容を説明してくれるのか」
「そうっす。 依頼内容は了解したっす。 お兄さんは、えっと……」
「ハジメ=クロカワだ」
「ハジメさんっすね。 金貨100枚の内容なんで、希望に応じて魔石と金属の割合を決めるっす」
「その内容ってのがまず分からないんだけど」
「ああ、そっすね。 お客さんの希望がマナ伝導率を重視したものなら魔石配分多めで、実質的な武器としての強度を望むなら金属配分多めで作らせていただくっす。 特に希望がなければ半々でやるっすけど、親方にどんな武器って言われたっすか?」
「俺の話も聞かずに近距離武器って言ってたな。 ここはいつもそんな感じなのか?」
「うちは全部親方の感性で作るっすから、お客さんの希望なんてほとんど通らないっすよ。 それでも結果的に満足してくれるお客さんが大半っす」
「聞いてた通り偏屈な親父ってことか」
「それで、どうするっすか?」

 エマは自然な様子でそう聞いてくる。 表情ですら動かすたびに痛むはずなのに、そんなことをなるべく感じさせないように気を遣って表情筋を駆使している。 それが目に見えてわかるだけに、ハジメの心は痛くなる。

(過干渉はエマに嫌がられるってのは分かるんだけど、こうして傷だらけの女の子を見て平気じゃいられねぇよ……。 どうにかして話だけでも聞きたいな。 偽善だとしても、できればポーションだけでも受け取って欲しいんだが……)

 そんな内心を隠しつつ、ハジメも普通のやりとりを心掛ける。

「例えば半々だと、どんなのが出来上がる?」
「可もなく不可もなくって感じっすね。 うちで作るならどっちかに配分を寄せたものの方がいい感じっす」
「なるほど。 俺は武器に魔法を纏わせて使うつもりなんだが、それだと7:3か? それとも8:2か?」
「武器メインで戦わないならどっちでもいいっすけど、7:3の魔石多めで良いと思うっす」
「じゃあそれでお願いするか。 ああそれと、武器に刻印魔法って入れられるか?」
「別料金になるっすけど、親方の火属性に関わるものなら可能っすよ。 いくつか提示するので、お金に余裕があるなら見てってくださいっす」

 そう言ってエマはハジメにカタログを見せてくれた。 そこにはいくつかの魔法効果と、それぞれの料金が示してある。

「なになに……」

『《火弾バレット》』、『《火刃ブレード》』、『《火爆エクスプロード》』、『《火域スペース》』、『《火属性耐性レジスト》』、『《火属性付与エンチャント》』、……──。

「耐性ってのは?」
「武器に属性魔法を纏わせるならあったほうが良いっす。 ハジメさんが火属性じゃないなら不要っす」
「じゃあ、付与は?」
「それは触媒みたいな効果っすね。 魔法を発動する時、それぞれの属性に因んだ魔導具とかを所持してると効果が上がるみたいなんで、そういう効果を期待して使うっすね」
「へー」

(なんだか俺の知らないことが多いな。 これはこれで勉強になる)

「複数の刻印魔法を入れるのって珍しいのか?」
「そっすね。 いっぱいあると競合して武器に悪影響なんで、それぞれの効果を付与した武器・防具を用意するのが一般的っす。 一つに集約してたら失った時に痛手なんで、同じ武器でも異なる刻印を入れたものを別々に持つ人もいるっすね」

(じゃあ黒刀は結構無茶をした作品だったんだな。 それにしても惜しいな。 少なくとも“強化”くらいは刻印したかったんだけど、カタログにある火属性関連の魔法にはそれに相当するものがない。 そうすると、戦い方も変わってくるな。 “減軽”とか“過重”も無理そうだから、これからは《強化リインフォース》と《重量操作コントロール・ウェイト》を武器に付与して使うのが主流になりそうだな)

「火属性は俺の適性じゃないし、今回は刻印無しでお願いするか」
「了解っす。 じゃあハジメさんには、ギルドで金貨70枚相当の魔石を購入してきてもらうっす。 金属はこっちで用意するんで」
「購入? 魔石って個人で購入して使用できるのか?」
「許可証出すんで、それ持って行ってもらえれば可能っす」
「まぁ、問題ないならいいか。 今から行けば良いのか?」
「そっすね。 あたしはこの後仕事があるんで、急いでもらえると助かるっす」
「承知した。 あとは必要なものとかあるか?」
「特にないっす」

 ハジメは言われた通りにハンターギルドへ。 何か相談事があればドミナがいるので安心して向かうことができる。

「武器の件、うまくいった?」
「はい、おかげさまで。 とりあえずこれ持って金貨70枚相当の魔石を買ってこいって言われたんですけど、上の買取カウンターに行けばいいんですか?」
「魔石管理部門があるから、そこでの購入になるわね」
「そうなんですか。 魔石の購入って、金貨70枚相当を複数買う感じですか?」
「武器とか防具に使用するなら、単一の魔石じゃないとダメね。 魔石って言っても本来全部が全部細部で異なるものだから、マナ伝導率を考えると複数使用はおすすめできないの。 複数使用は、魔石を魔鉱と混ぜ合わせる段階で色々不具合が出るって言うし。 効果な装備ほどそれに対応した魔石も入手しづらいし、それも面倒な要因ね」
「金貨70枚相当の魔石って手に入れづらいんです?」
「単一でそれってなかなか見ないわね。 多分無いんじゃない?」
「え、ないんですか!?」
「金貨100枚相当の魔石って10メートル超の魔物、もしくはそれに類する危険度の魔物から取れるくらいだし、金貨70枚でもそれなりの魔物が必要よね。 最近そんな魔物が倒された報告はないわ」
「じゃあ、すぐには武器は作れないってことか……」
「あとね、そういった魔石って注文が殺到してるはずだから、誰かが流してもハジメ君が手に入れられる可能性は低いわね」
「あー……魔石ビジネスなめてました。 それじゃあ入手は無理そうですね」
「だからみんな無茶して未開域に出向くのよ」

 ハンターが危険な場所に赴くのは名誉のためではなく、金銭だったり強力な装備を入手するためというのが大きい。 下手に複数の魔導具を揃えるよりも一つの強力な武器などを持っていた方が遥かに個人の価値は高くなり、それだけで一生食べていけるほどの立ち位置を確保できるという。 それだけ強大な力を持った人間というのは重宝されており、引く手数多だ。

「ウルのパーティ、知ってるでしょ?」
「あ、はい。 一回だけ一緒に仕事したことがあります」
「あの三人組の装備だけで合計金貨3000枚くらい。 確かゲニウスの持ってる魔導具が一つで金貨1000枚くらいの価値だったかな。 求め始めたらキリがないけどね」
「金貨100枚でヒィヒィ言ってる俺って……」
「地道にやるしかないわね。 一応確認にだけ行ってみたらどう?」
「そうしてみます」

 ハジメはギルドにある魔石管理部門を訪れたが、やはり金貨70枚相当の魔石というのは現状保管されていないらしかった。

(魔石って用途が多いんだな。装備にも使うし、腕の魔導具にだって使われてる。 俺の知らない運用方法がまだまだありそうだ)

「あらー、やっぱり無かったっすか」

 エマは軽い調子でそう言いながらハジメを出迎えた。

「知ってたのかよ」
「大体の人は自分で手に入れてくるんすけどねー。 まぁ、無いものは仕方ないっす。 魔石が手に入るまでは別の武器で我慢するしかないっすね。 親方が許可したなら安い武器でも作れるっすよ」
「いきなり高価な武器を買おうとしたのが間違ってたな。 金貨20枚程度の魔石ならあるって言われたし、そのあたりで探すしかないか」
「それでも十分高価っすけどね。 それだと全部で金貨30枚くらいの武器が出来上がるんすけど、それでも大丈夫っすか?」
「金貨100枚の話はまた今度ってことで、そのプランでお願いするわ」
「了解したっす。 じゃあ金貨30枚で組んどくっすね。 細かい値段の増減は最終的に伝えるんで、少しはお金に余裕持ってもらえてると嬉しいっす」
「よろしく頼んだ。 完成はいつ頃になるんだ?」
「親方の気分次第なんで、一週間から一ヶ月くらいで見てくれたら良いっす」
「随分幅があるな」
「うちはこんな感じなんで。 でも良いものはお届けできるっす」

 現時点で信頼もクソもないためお金を預けるのは微妙な判断だが、ドミナに勧められた店舗のため

「それなら良いんだけど……。 ところでエマ、お前はここに住んでるのか?」
「屋根裏を間借りしてるっす。 それがどうしたんすか?」
「……いや、なんでもない」

 エマの腕輪は緑。 それなのに商業区画で生活しているということは、何かしらの力が働いているのだろう。 ハジメもドミナが何やら申請したことで彼女の部屋での生活を許可されている。

「じゃあ、また来るわ」
「それではー」

 ハジメは金貨30枚をエマに預け、今日のところは退散とした。

(すぐに動けると思ってただけに、少し計画が狂ったな。 これでしばらくは同じような生活を続けなくちゃいけなくなった。 金貨70枚相当の魔石を入手するにも最低限の武器は必要だし、それ無しで戦えるほど俺の魔法は万能じゃない。 んー、どこから手を付けていいか悩むな。 《過重弾タフェン・バレット》以外にも、もう一個くらい切り札は必要だな。 とりあえずドミナさんに相談してみるか)

「おかえり、ハジメ君」
「ただいま戻りました。 今日の夕飯って何ですか?」
「海産物が入ってたみたいだから、それ買ってみた。 すぐ食べる?」
「あ、はい。 そうします」
「じゃあ少し待っててね」

 ハジメはドミナとの性的接触以来、彼氏彼女のような関係性に落ち着いている。 どちらかが告白したというわけでもなく、かといって単なるセフレというわけでもない。 自然に二人で生活することとなっていた。 しかしこれは二人だけの秘密で、他に二人の関係を知っているのはドミナの妹のリセスくらいである。

 どうしてハジメがこうなったかといえば、単純に人恋しさによるものだ。 この世界にやってきてからは誰かしらと生活を送ってきたわけだが、ここにきて一人での生活を余儀なくされた。 なおかつ宿暮らしで友人ができるわけでもなかったため、女を欲するようになった。 稼ぎも出てきて風俗にすら行けるほどの余裕は生まれたわけだが、そのような施設に対する嫌悪感があったため、悶々とした気持ちを抱えつつ仕事に従事することで性欲を抑えていたわけだ。 そこに現れたドミナという誘惑。 酔いもあり、ハジメの中の様々な条件がクリアされたことで、最終的に欲に溺れることとなった。

(レスカには申し訳ないけど、俺は堕落したわけじゃない。 快適な生活を送るために必要な行為なんだ、許してくれ)

 ドミナと初めてまぐわった頃こそ、ハジメはレスカに対する謝罪と後悔に押しつぶされそうだったが、今ではそれも薄れている。 なぜかといえば、ドミナがハジメの全てを受け入れて包み込んでくれるからだ。 モルテヴァの生活について一緒に色々と考えてくれるし、ほぼ毎日肌を重ねているため、今ではすっかりドミナに依存してしまっている。 ハジメはそれを理解しつつも、その泥沼から抜け出したいとは思えないほど彼女に籠絡されていた。

「ハジメ君、お風呂入ろっか」
「あ、はい」

 食後は風呂で交わり、ベッドに行くまでの間で交わり、ベッドでもしっかり交わる。 二人でいる間は、食事と睡眠以外は基本的に繋がってばかりである。

 どれだけ中に精を放出しても妊娠しないとドミナは言うので、ハジメはもはや当然のように毎度彼女の内側に欲望の迸りをぶつけ続けた。 ハジメはそれを受け入れ続けるドミナに若干の違和感を持ちつつも、快感が全てを塗りつぶした。

「ハジメ君、奴隷区画の人探しは順調?」

 ちゃんと会話ができるのは食事中か、性行為後のひと時の休憩時間だけ。 吐息が掛かる距離で鼻を突き合わせながら言葉を交わす。

「定期的に行ってるんですけど、連絡を取り合ってたジギスって奴も失踪しちゃって。 次々に消えるんじゃ、捜査の意味もあまりないですね……」
「そうなの? あまり給金も良くないなら、やめてしまって自己研鑽に費やしたら?」
「それはそうなんですけどね。 でも一度手を付けたからには最後までやりたいんですよね」
「……危険よ?」
「どうしてですか?」
「だってほら、人が消えてるのよ。 ハジメ君にも同じことが起きたら嫌だわ」
「そうですね、心配させてごめんなさい」
「いいのよ」
「あと、今日気になることが──ああ、いや、何でもないです」

 ハジメはエマのことを思い出した。 しかし男女の営みの場で他の女性の名前を出すのはどうなのかと思い直し、それ以上は続けなかった。

「ほんと? じゃ、続きしよっか?」
「はい」

 ハジメとドミナはこれまで散々触れ合ってきたため、互いの弱点も分かりきっている。 二人はそれを愉しみ、今日も夜は更けていく。


          ▽


 陽が落ちて、夜に差し掛かってきた頃──。

「エマ。 今日も多いけど、処分をお願い」
「了解っす……」

 エマはいつものように大量の荷物を詰め込んだリュックを抱えながら平民・奴隷区画間を行き来する。

「あの、これを……」
「チッ……! 残飯の配給は済んだかよ、ゴミ女」
「臭せぇ、臭せぇ! さっさと行っちまえ」

 エマが奴隷区画から平民区画への検問所で通行証を提示したが、衛兵はそれを見もせず侮蔑の言葉を浴びせるのみだった。

 エマは特別な権限を与えられて区画間の物資運搬を生業としている。 モルテヴァでそんな仕事に携わっているのはエマ以外に少数いる程度で、だからこそ奴隷区画への物資の流入は乏しい。

「はい……きゃっ!?」

 検問所を通過しようとしたエマだったが、突如派手にすっ転んだ。 それによって荷物がぶちまけられるが、衛兵たちは軽蔑した様子で嗤うのみ。

「俺の靴にゴミが付いちまった! 買い替えないといけねぇじゃねぇかよ、畜生め!」
「ははッ、運のねぇやつ!」
「だっせぇ」
「おい女ァ……」

 荷物を集めるエマの元にぬらりと歩み寄る一人の衛兵。 彼はエマに脚を引っ掛けた張本人であり、同僚から馬鹿にするような声をかけられてすでに怒りは頂点に達している。

「ひっ……! す、すいま──んぎッ!?」

 右手が衛兵により踏みしめられ、エマは悲鳴を漏らす。

 エマが怯えた目で恐る恐る見上げると、そこには怒りを湛えた男の顔が。

「テメェのせいでよォ!」
「ぐっ……!?」

 エマの腹部の中央、柔らかい部分が蹴り上げられた。

「俺の靴がよォ!」
「ぅ、げェ……ッ」

 転がったエマの腹部が踏み潰された。 思わず悶絶してその脚を外しに掛かるが、それさえも衛兵を不快にさせる。

「触んじゃねぇよ! 汚れちまっただろうがァあああ!」
「や、やめ──」

 エマの懇願も虚しく、衛兵は脚を後ろに振りかぶっている。

 ぐぢ──っ……!

 衛兵のつま先がエマの横っ腹に刺さり、嫌な音が聞こえた。 直後、エマの腹部を衝撃が広がり、浮遊感が彼女を襲った。

 石畳を転がり、壁に叩きつけられるエマ。

「ィ……あ゛ぁああ……」

 エマは胃内容物を撒き散らし、苦悶の表情でただただ痛みに呻く。 衛兵たちや道ゆく者がその姿を見ても汚いものを見るような視線を送るのみで、誰一人として彼女に手を貸そうとはしない。

「あーあ、余計に汚しやがって。 ゴミ女がまた散らかしてるぜ」
「お前派手にやったなぁ。 死なれても面倒だし、ほどほどにしとけよ」
「ただでさえテメェが歩くだけで町が汚れるんだから、ちっとは気ぃ遣って殴られろっての」

 これがエマの日常。 これがモルテヴァでよく見られる風景である。

 モルテヴァの住民は奴隷を──下を見ることで、そうはなるまいと努力をする。 また奴隷区画の者たちを蔑み貶すことでフラストレーションを解消し、それが住民の精神衛生を保つ一助となっている、

 モルテヴァにおいて奴隷区画は汚染区域という認識だ。 実際に奴隷区画は汚れているし、美化清掃に励む者などは居ない。 そこに住む彼らは自己中心的な人間たちの成れの果てであり、その集まりだ。 そんな場所へ頻繁に出入りするエマももちろん侮蔑の対象であり、だからこそこのような暴力が彼女の身に降りかかっていると言える。 エマからすれば迷惑極まりない話だが、警察組織でさえその暴挙を止めないし、それどころか嬉々として加担しさえする。

 奴隷は基本的な人権こそ辛うじて認められているものの、一般には人間未満の労働力だ。 奴隷を使って仕事をするハンターは、未開領域の探索の先遣隊としてだったり、単なるなぶりものとして彼らの存在価値を認識している。 そこに奴隷への配慮などなく、消耗品という程度の感覚でしか彼らを見ていない。 したがって外部の任務で利用される奴隷が五体満足で帰還する可能性は低く、何かしらの障害を抱えて戻ることが多い。 そういう背景もあって、奴隷が身分を取り戻す機会は限りなく低いとされている。

 誰しもストレスの捌け口が必要で、奴隷区画においてその対象が奴隷であれば、平民区画での対象がエマである。

「う……うぅ……。 ぁぐ……ッ!?」

 エマが動けるようになるまで数十分は要した。 その間に陽は完全に落ちて、彼女が転がっている外壁付近は遮光によって完全に暗闇に包まれている。

 エマは溢れる涙を肩で擦りながら、声を殺して衛兵に見つからないようにそろりと立ち上がった。 それでも痛みによって真っ直ぐ立ち上がることは難しく、それによって外壁に身体がぶつかり、それがまた痛みを生む。

「ふ、ぐっ……。 痛、い……痛いよぅ……」

 壁伝いに進み、完全に周囲から人の気配がなくなったところでエマは腰を下ろした。 そして荷物の中から丁寧に何重にも布で覆われた回復ポーション入りの小瓶を取り出すと、数滴口に含んだ。 それだけで痛みの何割かは軽減し、思考が回る程度には回復を見せ始めた。

「はぁ……はぁ……」

 エマは這々の体で商業区画にある鍛冶屋の自室へ。 途中、商業・平民区画間の検問所にも衛兵は居たが、彼らは傷だらけのエマを見てニヤリと嗤って嗜虐心を満足させるだけで、そこから暴力が飛んでくることはなかった。 彼らは下の階層の衛兵ほどはあからさまな暴力は振るわず、言葉で愚弄してくることが多い。

 エマが全ての人間から暴力を受けていたのなら自室へなど辿り着けないし、そうでなくても自室に戻る体力すらなく平民区画の端で過ごすことさえある。 だから今日は運が良い方だったと言える。

「うぐ……ぅうっ……」

 エマは狭い屋根裏部屋のその端で、布を被って泣き震えながら眠りにつく。

 寝落ちする少し前、エマは今日会ったハジメのことを思い出していた。 彼はエマの事情を知らないからだろうか、普通の人間のように彼女に接し、心配までしてみせた。 この町ではエマに人間らしい扱いをする者は皆無で、公然の奴隷としての認識が強いため、なおさら彼のことは彼女の記憶に刻まれた。

 本日、ポーションを差し出そうとするハジメをエマは止めるしかなかった。 もしエマが施しを受けたり元気な姿で生活していようものなら、それは彼女への暴力を加速させる要因にしかなり得ない。 だからこそエマは常に暴力の痕を残した状態で生活し、それによって無用なダメージを回避しようと心掛けている。

「ハジメさん、次いつ来るかなぁ……」

 ボソリと呟くと、エマは疲労から完全に意識を消失させた。

 奴隷区画の奴隷と、平民区画の公然の奴隷──“被虐民”。 それらの存在は住民の不満を解消させ、町の発展に寄与している。
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