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王都編
2.娘が花が美しいと言ったので①
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この日、ヴァーミリオン邸には客があった。末娘リリアンの友人達が招かれ、お茶会が開かれている。
リリアンの交友は広かった。人柄を重視した結果、爵位に関係なく友人を持つようになった娘に、ならば皆が集まれる場所が必要だろう、と当主である父アルベルトが庭を整備したのは有名な話だ。年若い彼女達のドレスはパニエでボリュームを持たせているため、ドレスを植物に引っ掛けることがないよう、生垣の間の通路は幅が広く取られた。段差も限りなく平され、華奢なヒールでも転ばないよう配慮がされているとか。他にも、庭に使われている花は、娘の好みで統一されているとか、その広さはガーデンパーティーが同時に三つ開けるほど広大だとか。とにかくそんな風に、大改造が施されたという。
そのうちのいくつかは、噂に尾ひれがついたものだったが、「あの公爵ならそのくらいのことはやるだろう」と言われれば、皆納得してしまうのだった。
その日噂の庭にいたのは、そんな噂をほほほ、と笑って流す、分別のある少女達だった。噂を吹聴するでもなければ、庭の様子をあちこちで流布するでもない。もっとも、噂の否定もしなかったが、公爵家の当主は王弟である。自分が不用意に話せば、あらゆる場所に迷惑がかかると、彼女達はよく承知しているのだ。
そういったわけで、公爵家に招かれる御令嬢は「真っ当な常識人であり真っ当な貴族」だった。同時に、彼女達はふらっと娘の様子を見に現れる公爵本人に、きちんと挨拶ができる貴族令嬢でもある。咄嗟の対応もできるほど行儀作法が身に付いているわけだ。
まあ、そういった人物でなければ、愛するリリアンに近寄らせないわけだが。
朗らかな笑みはそのまま、眼光だけが鋭い視線をちらりと投げつける公爵に、令嬢達は心の内で「承知しております」と唱えて、笑みを返した。
友人達とのお茶会中、ふらりと父アルベルトが現れるのはいつものことだ。当たり前に仕事中の息抜きにリリアンの元を訪れる。友人が来ている時でも構わずにやってくる父に、リリアンは最初慌てていたが、今はもう友人達も慣れたもの。さっと親愛のキスをして仕事に戻る父の背中を見送ったリリアンは、友人達に向き直った。
「ああ、父がごめんなさい」
いつまでも小さな子供にするように愛情を示す父に、友人の前では控えて欲しいとは伝えているものの。実際には控えてもらった試しがない。思春期を迎えて気恥ずかしくはあるが、リリアンは拒むことはしなかった。拒んだ後、アルベルトの落ち込みが激しく三日間部屋から出てこなくなったことがあるからだった。
「いつまでも子離れしないんですのよ」と溢すリリアンに、友人達は「リリアン様を深く愛していらっしゃるんですね」と返した。実際、彼女達に向けられた視線は厳しいものだったが、リリアンを見る眼は柔らかかった。口元も、自然に綻んでいたように見える。立場のある人なので、感情を顔に出すことはしないと、そう思っていたので、彼女達は驚いたものだ。そして同時に息が止まった。思わず気が遠くなる子もいた。リリアンは、とても愛らしい顔立ちをしている。そしてその父である公爵本人も、当然整った顔立ちをしているのだ。
王族特有の銀の髪、澄んだ紺碧の瞳。鼻筋はすっと通っていて、形の良い唇は愛する娘の名を呼ぶ時、一等嬉しげに端が上がる。目元も同時に和らいで——これは、世のマダム達が放っておかないわけだわ、と少女達は思った。成人前後の年齢の彼女達は、アルベルトの後妻に収まることはないけれど、彼女達の親の世代はそうではない。妾でもなんでもいい、側に居れたらそれだけで僥倖だ、と品のない囁きを聞いたことがあるが、この笑みを向けられたらと考えてしまう。
リリアンを愛おしげに見やるアルベルトの姿は、この場を切り取って額に収めたら、それだけでもう宗教画になるような神々しさがあった。何があってそうなったかはわからないが、ちょうどその時親子に陽射しが降り注いだのも良くなかった。父たる主神が地上へ降りた愛娘の女神に会いに出向いたという、有名な一節を再現しました。そんな風に説明されれば納得しただろう。思わず「神よ……」という呟きが漏れたのは仕方ないと思う。なんなら落涙もした。一生忘れることができない光景だった。
思い返しただけでぼうっとして息が詰まってしまう。そんな友人達には気が付かず、リリアンはお茶とお菓子をどうぞ、と勧めて、おしゃべりを再開させる。
そうなれば後はあっという間だ。はっ、と正気に戻った少女達はおしゃべりに没頭する。なにしろお年頃の彼女達は、色恋も話題の一つでしかない。神々しい一瞬は心のアルバムに焼き付けて、「そういえばご存じ?」と口々に言えば、いつも通りの雑談という名の情報交換会がはじまったのだった。
うふふ、ほほほ、と会話は進む。世間の噂話という形で、懇意にしている御令嬢にさり気なく情報を提供するのが貴族子女の務めだ。どこぞの令息の不義理や、どこかの役人の不正なんかを、どこからともなく仕入れる。それをいかに自然に会話に潜ませるか。彼女達は幼い頃からお茶会でそれを学ぶ。
この日は、大きな事件の情報もなく平和なものだった。流行のお芝居やお菓子、髪型など、年頃の女の子らしい会話が続く。
話題は新鋭の画家から季節の花に変わった後、いったん会話が途切れて——その時一人が表情を翳らせたのを、リリアンは見逃さなかった。ブラウンの巻き髪の彼女はヴァイオレット・プレート。プレート伯爵家の長女だ。
「どうかしまして?」
リリアンの声に、ヴァイオレットは慌てて首を振る。
「いいえ、大したことでは」
「なにもなければ、そんな顔はしないわ。……なにか困り事でも?」
ヴァイオレットは逡巡し、視線を泳がせ、迷いに迷ってから口を開いた。
「その……領地のことなのですが。皆様ご存知の通り、我が家の領地にはたくさんの花畑があります。丘一面に、色々な花が咲いて、とても華やかなんですよ」
「春だけでなく、夏も秋もずっとお花が咲いているのよね」
別の令嬢の言葉に、ヴァイオレットは表情を和らげる。
「そうなのです。季節で植える種類を変えて整え直して。秋なんかは、そのどれもが香りの強い種類ですから、街道を行くだけで、馬車にも香りが届くのです。それも風物詩となって、有難いことに旅行客も増えているのですが」
ふう、と頬に手を添えると、ここだけの話にして下さいましね、と付け加えて、
「実は、その……ならず者に、花畑を荒らされているのです」
そう、目を伏せた。
少女達はそれぞれ小さな悲鳴をあげる。
「まあ、それは……」
「一体どうして?」
「父が言うには経営妨害ではないか、と」
それだけで各々勘付くことがあったようだ。少女達の目つきが険しいものになる。
プレート伯爵家の領地は王都からそう離れていない。それもあって人気のスポットになっていた。元々は王都の貴族を相手にした、生花の販売をしていた土地だ。それをヴァイオレットの父親が花畑を観光客向けに開放したのだという。立地が良かったようでこれが大当たり。今では春の宿は一年以上前から予約を入れないと取れないくらい、一大観光地となっていた。
それだけの人が押し寄せるから観光地としてそれなりに苦労はあるらしいが、領民からはおおむね好意的に受け取られている。だから経営妨害となると、商売敵によるものだろう。
伯爵家相手に喧嘩を売るほどだ。下手に手出しはできず、かと言って現地の領民では手に余る。商売敵がならず者に関わっている証拠も無いため、手をこまねいているのだという。
「伯爵家で対策をされているのであれば、わたくしたちにお手伝いできることはありませんね」
「もちろんですわ、リリアン様。皆様にどうにかしていただくてお話ししたわけではありませんもの」
ヴァイオレットは控えめに微笑んだ。
「父も兄も解決のために動いています。でも、やはり不安で」
「当然よ。どんな被害が出るかわかったものじゃないもの」
ちょっと強気の令嬢がはっきり言うと、そうよねえ、と皆が同意する。それに気が抜けたのか、ヴァイオレットの強張っていた肩が、ふっと下がった。
それにリリアンも安心した。その後は誰もその話を蒸し返すことなく、刻限になるとお茶会は解散された。帰りは皆いつも通りに、賑やかに帰っていく。それを見送るとリリアンは踵を返し、父への面会を求めるのだった。
◆◆◆
アルベルトはリリアンからの面会の申し込みに目を瞬かせる。
「リリアンが? 茶会で何かあったのか?」
「問題はございませんでした。御令嬢方との会話で、なにか気になることがあったのかと」
「ふむ」
執事のベンジャミンにはすぐにリリアンを呼ぶように伝える。仕事中だったが、リリアンからの申し出を断るという選択肢は、アルベルトには無い。今日中に判が必要なものもあるが、今日中に見ればいいだけだ。これは後回しにしておく。
やがてリリアンがやってくる。が、その表情は硬い。
「お父様。お仕事中にごめんなさい」
その声色で、アルベルトはリリアンが何か思案していることがあって、それを実行できないことに葛藤があることを把握した。
「それは構わないさ。なにかあったのか?」
「お父様は、プレート伯爵領のお花畑を覚えていらっしゃる?」
「もちろん。庭の花を選ぶ参考にするのに行ったね。リリアンと出掛けた場所は全て覚えているよ。伯爵領へ行ったのは春に二度、夏に一度だ。春の時はさすがに華やかだったな。覚えているか? 折角だからと新調したドレスが風に靡いた時、花びらが一斉に舞って空を覆い尽くすようだったろう。あの時のリリアンはまさに地上に降り立った天使のようだった。あの場に居た幸運に天に感謝したよ。夏は様相が一変していたな。やはり夏のドレスも新調して良かった。眩い太陽、向日葵畑の中のリリアン。リリアンはどの向日葵よりも輝いて見えた。春と夏、どちらが良いかと言われると選び難い。どちらのリリアンもとても綺麗だった」
「ありがとうお父様、でも今はそれどころではないの」
長くなりそうなアルベルトの語りをリリアンが遮る。少しシュンとしたように見えて、リリアンは「思い出話はまた今度聞かせてくださる?」と伝え、こほん、と姿勢を正す。
「ええ、春は当然のこと、夏の花も見事だったわ。……そのお花畑がね、荒らされているのですって」
「ほう?」
リリアンは、さっきのお茶会でヴァイオレットから聞いた話を語った。アルベルトはそれを最後まで聞くと、そうか、とだけ言う。
「伯爵家で動いているのであれば、できることは無いな」
「ええ、それはわかっています。わかっているのですが……」
目を伏せるリリアンは、心底残念そうな声をあげる。
「あの一面の菫畑が無惨に踏み潰されていると思うと、残念でならないのです……」
思案に暮れる娘の姿にアルベルトは天を仰ぎそうになる。
(花畑が荒らされていると聞いて心を痛めるリリアン。なんて優しい子なんだ。天使か? いや天使だ。地上に遣わされた一条の光。間違いない。ああ、私の娘はやはり天使だったのか……)
真顔で娘リリアンを称賛する男、それがアルベルトである。
思案するリリアンを尊いと見ていることはできるが、いつまでもリリアンが悩んでいる状況はアルベルトの望むところではない。それで、ようやく事件について、意識を向けた。
いくら荒らされているとはいえ、所詮花である。時間はそれなりにかかるが、植え直せばまた元通りになる。その間観光客が減ってしまうかもしれないし、もしかするとならず者に目をつけられるのを厭った観光客は寄り付かなくなるかもしれない。が、それまでと言えばそれまでだ。責任者がきちんと対応しているのであれば外野が手出しするわけにはいかない。ましてや、ヴァーミリオンは公爵家だ。いくら娘同士が友人であることを差し引いても権力差がありすぎる。ヴァーミリオン公爵家が手を出すべきではない。
「お父様、伯爵家が取れる手段で、他にどんなものがありますか?」
娘の言葉に、アルベルトは施政者の顔で答える。
「目星を付けているという、商売敵とやらが実行犯を使っている証拠が見つかるのが一番だが……中央騎士団に依頼を出すのがいいかもな。警備を強化したいという名目で陛下に騎士を派遣して貰い、捕まえて裏で糸を引いている連中の情報を騎士団で引き出す」
「でも、それは時間がかかりますよね」
「それなりにな」
ひと月か、ふた月か。それ以上かかるかもしれない。その間にどれだけの花が踏みにじられるだろうか。
リリアンは、そうですよね、と呟いて力無くソファに座った。
「リリアン……」
とたんアルベルトは娘を溺愛する父親の顔になる。リリアンの隣に腰掛けると、そっと肩を抱き寄せた。心優しく賢い子だ。リリアンは、ヴァーミリオン家が手出し出来ないことを十分承知している。
「良い子だね、リリアン。君を友人に持てたプレート家の令嬢は幸運だ。その気持ちだけでも、と彼女は言うだろうね」
その言葉に多少慰められたらしい。悲しそうではあるが、ちょっとだけ気持ちが浮上したらしいリリアンは、そうだといいけれど、と言って、力なく笑む。
アルベルトはその顔を見て思った。やはり、リリアンには笑顔こそ相応しいと。
ひとたびそう思ってしまうと、あとはもう条件反射のように、アルベルトの頭は算段を始めていた。なに、ようはヴァーミリオン家が手を出すことが自然なら、問題にならない。そう、例えば——たまたま向かった旅先で、荒事に巻き込まれて、正当防衛でならず者を引っ捕える、とか。そいつらを締め上げたら、たまたま不正をしている商人との繋がりが見つかってしまう、とか。
その間三秒。アルベルトはちらっと執事ベンジャミンに視線を送った。やはりベンジャミンはそれだけで察して、部屋を出ていく。
「さあ、もうそんな顔をしないで。……それはそうとリリアン、どうだろう、久しぶりにお父様と散歩に行かないかい?」
「お散歩、ですか?」
「ああ。差し当たっては花が見たい。花がたくさん咲いているところにしようか」
そう言うとアルベルトは、リリアンに三日分の外出準備を進めるよう、促したのだった。
◆◆◆
一週間後。よく晴れた日の昼下がり、親子は揃って件のプレート伯爵領の花畑にいた。
「見事なものだな」
なだらかな丘を、一面花が覆っている。今の季節はビオラやパンジー、コスモスが見頃だ。ひと昔前は代わり映えのない地味な色のものばかりだったが、近年は華やかな色味のものが増えている。花弁の形状もゴージャスなものがあったりして、近くで見ても見応えがあった。だが特筆すべきは、やはり全体の景観だろう。見渡す限りの花畑は色合いが肝要とばかりにグラデーションが続いている。紫や黄色、白、濃い緑の葉の向こうに背の高いコスモス。大ぶりのダリヤも存在感がある。
「こうして見ると、あちこちに工夫が施されているのがわかりますね」
花をより見やすくするための工夫はもちろんだが、徒歩で見て回ることも前提としているらしく小道がきちんと整備されていた。立ち入りを防ぐフェンスも、景観を遮らないよう設置されている。
だが残念なことに、丘の三分の一、花畑全体で見てもかなりの範囲で土が露出してしまっている。
「……ずいぶん広範囲ですのね」
リリアンの声には、残念だ、という思いが滲み出ていた。
「これでも一部修正したと聞いた。コスモスなんかは、今は規模が半分になってしまっているそうだ」
「そうなんですの? でも、そうとは見えないわ。……たいへんな苦労があったことでしょうね」
それなのに景観を提供し続けるなんて素晴らしい。リリアンはそう続けた。
基本的に花畑は無料で楽しむことができるのだ。ごくごく限られたエリアだけ、入るのに料金がかかるそうだがそれ以外はお金は必要ない。近くに畑の管理者が滞在する施設があって、そこへ申し出だけすれば、なんと花を摘むこともできるのだという。これも無料なのだから驚きだ。苗を抜くのは御法度だが、家に花を飾る機会がほとんどない庶民には無料で綺麗な花を持ち帰ることができて大好評なのだとか。今は不届き者がいて危険なので、花を摘むことはできない。解決を望む声は多い。
「さあ、リリアン。今日のところは宿に戻ろう」
父に背を押され、リリアンは馬車に戻った。豊かな花の香りは、少しだけリリアンを慰めてくれた。
リリアンの交友は広かった。人柄を重視した結果、爵位に関係なく友人を持つようになった娘に、ならば皆が集まれる場所が必要だろう、と当主である父アルベルトが庭を整備したのは有名な話だ。年若い彼女達のドレスはパニエでボリュームを持たせているため、ドレスを植物に引っ掛けることがないよう、生垣の間の通路は幅が広く取られた。段差も限りなく平され、華奢なヒールでも転ばないよう配慮がされているとか。他にも、庭に使われている花は、娘の好みで統一されているとか、その広さはガーデンパーティーが同時に三つ開けるほど広大だとか。とにかくそんな風に、大改造が施されたという。
そのうちのいくつかは、噂に尾ひれがついたものだったが、「あの公爵ならそのくらいのことはやるだろう」と言われれば、皆納得してしまうのだった。
その日噂の庭にいたのは、そんな噂をほほほ、と笑って流す、分別のある少女達だった。噂を吹聴するでもなければ、庭の様子をあちこちで流布するでもない。もっとも、噂の否定もしなかったが、公爵家の当主は王弟である。自分が不用意に話せば、あらゆる場所に迷惑がかかると、彼女達はよく承知しているのだ。
そういったわけで、公爵家に招かれる御令嬢は「真っ当な常識人であり真っ当な貴族」だった。同時に、彼女達はふらっと娘の様子を見に現れる公爵本人に、きちんと挨拶ができる貴族令嬢でもある。咄嗟の対応もできるほど行儀作法が身に付いているわけだ。
まあ、そういった人物でなければ、愛するリリアンに近寄らせないわけだが。
朗らかな笑みはそのまま、眼光だけが鋭い視線をちらりと投げつける公爵に、令嬢達は心の内で「承知しております」と唱えて、笑みを返した。
友人達とのお茶会中、ふらりと父アルベルトが現れるのはいつものことだ。当たり前に仕事中の息抜きにリリアンの元を訪れる。友人が来ている時でも構わずにやってくる父に、リリアンは最初慌てていたが、今はもう友人達も慣れたもの。さっと親愛のキスをして仕事に戻る父の背中を見送ったリリアンは、友人達に向き直った。
「ああ、父がごめんなさい」
いつまでも小さな子供にするように愛情を示す父に、友人の前では控えて欲しいとは伝えているものの。実際には控えてもらった試しがない。思春期を迎えて気恥ずかしくはあるが、リリアンは拒むことはしなかった。拒んだ後、アルベルトの落ち込みが激しく三日間部屋から出てこなくなったことがあるからだった。
「いつまでも子離れしないんですのよ」と溢すリリアンに、友人達は「リリアン様を深く愛していらっしゃるんですね」と返した。実際、彼女達に向けられた視線は厳しいものだったが、リリアンを見る眼は柔らかかった。口元も、自然に綻んでいたように見える。立場のある人なので、感情を顔に出すことはしないと、そう思っていたので、彼女達は驚いたものだ。そして同時に息が止まった。思わず気が遠くなる子もいた。リリアンは、とても愛らしい顔立ちをしている。そしてその父である公爵本人も、当然整った顔立ちをしているのだ。
王族特有の銀の髪、澄んだ紺碧の瞳。鼻筋はすっと通っていて、形の良い唇は愛する娘の名を呼ぶ時、一等嬉しげに端が上がる。目元も同時に和らいで——これは、世のマダム達が放っておかないわけだわ、と少女達は思った。成人前後の年齢の彼女達は、アルベルトの後妻に収まることはないけれど、彼女達の親の世代はそうではない。妾でもなんでもいい、側に居れたらそれだけで僥倖だ、と品のない囁きを聞いたことがあるが、この笑みを向けられたらと考えてしまう。
リリアンを愛おしげに見やるアルベルトの姿は、この場を切り取って額に収めたら、それだけでもう宗教画になるような神々しさがあった。何があってそうなったかはわからないが、ちょうどその時親子に陽射しが降り注いだのも良くなかった。父たる主神が地上へ降りた愛娘の女神に会いに出向いたという、有名な一節を再現しました。そんな風に説明されれば納得しただろう。思わず「神よ……」という呟きが漏れたのは仕方ないと思う。なんなら落涙もした。一生忘れることができない光景だった。
思い返しただけでぼうっとして息が詰まってしまう。そんな友人達には気が付かず、リリアンはお茶とお菓子をどうぞ、と勧めて、おしゃべりを再開させる。
そうなれば後はあっという間だ。はっ、と正気に戻った少女達はおしゃべりに没頭する。なにしろお年頃の彼女達は、色恋も話題の一つでしかない。神々しい一瞬は心のアルバムに焼き付けて、「そういえばご存じ?」と口々に言えば、いつも通りの雑談という名の情報交換会がはじまったのだった。
うふふ、ほほほ、と会話は進む。世間の噂話という形で、懇意にしている御令嬢にさり気なく情報を提供するのが貴族子女の務めだ。どこぞの令息の不義理や、どこかの役人の不正なんかを、どこからともなく仕入れる。それをいかに自然に会話に潜ませるか。彼女達は幼い頃からお茶会でそれを学ぶ。
この日は、大きな事件の情報もなく平和なものだった。流行のお芝居やお菓子、髪型など、年頃の女の子らしい会話が続く。
話題は新鋭の画家から季節の花に変わった後、いったん会話が途切れて——その時一人が表情を翳らせたのを、リリアンは見逃さなかった。ブラウンの巻き髪の彼女はヴァイオレット・プレート。プレート伯爵家の長女だ。
「どうかしまして?」
リリアンの声に、ヴァイオレットは慌てて首を振る。
「いいえ、大したことでは」
「なにもなければ、そんな顔はしないわ。……なにか困り事でも?」
ヴァイオレットは逡巡し、視線を泳がせ、迷いに迷ってから口を開いた。
「その……領地のことなのですが。皆様ご存知の通り、我が家の領地にはたくさんの花畑があります。丘一面に、色々な花が咲いて、とても華やかなんですよ」
「春だけでなく、夏も秋もずっとお花が咲いているのよね」
別の令嬢の言葉に、ヴァイオレットは表情を和らげる。
「そうなのです。季節で植える種類を変えて整え直して。秋なんかは、そのどれもが香りの強い種類ですから、街道を行くだけで、馬車にも香りが届くのです。それも風物詩となって、有難いことに旅行客も増えているのですが」
ふう、と頬に手を添えると、ここだけの話にして下さいましね、と付け加えて、
「実は、その……ならず者に、花畑を荒らされているのです」
そう、目を伏せた。
少女達はそれぞれ小さな悲鳴をあげる。
「まあ、それは……」
「一体どうして?」
「父が言うには経営妨害ではないか、と」
それだけで各々勘付くことがあったようだ。少女達の目つきが険しいものになる。
プレート伯爵家の領地は王都からそう離れていない。それもあって人気のスポットになっていた。元々は王都の貴族を相手にした、生花の販売をしていた土地だ。それをヴァイオレットの父親が花畑を観光客向けに開放したのだという。立地が良かったようでこれが大当たり。今では春の宿は一年以上前から予約を入れないと取れないくらい、一大観光地となっていた。
それだけの人が押し寄せるから観光地としてそれなりに苦労はあるらしいが、領民からはおおむね好意的に受け取られている。だから経営妨害となると、商売敵によるものだろう。
伯爵家相手に喧嘩を売るほどだ。下手に手出しはできず、かと言って現地の領民では手に余る。商売敵がならず者に関わっている証拠も無いため、手をこまねいているのだという。
「伯爵家で対策をされているのであれば、わたくしたちにお手伝いできることはありませんね」
「もちろんですわ、リリアン様。皆様にどうにかしていただくてお話ししたわけではありませんもの」
ヴァイオレットは控えめに微笑んだ。
「父も兄も解決のために動いています。でも、やはり不安で」
「当然よ。どんな被害が出るかわかったものじゃないもの」
ちょっと強気の令嬢がはっきり言うと、そうよねえ、と皆が同意する。それに気が抜けたのか、ヴァイオレットの強張っていた肩が、ふっと下がった。
それにリリアンも安心した。その後は誰もその話を蒸し返すことなく、刻限になるとお茶会は解散された。帰りは皆いつも通りに、賑やかに帰っていく。それを見送るとリリアンは踵を返し、父への面会を求めるのだった。
◆◆◆
アルベルトはリリアンからの面会の申し込みに目を瞬かせる。
「リリアンが? 茶会で何かあったのか?」
「問題はございませんでした。御令嬢方との会話で、なにか気になることがあったのかと」
「ふむ」
執事のベンジャミンにはすぐにリリアンを呼ぶように伝える。仕事中だったが、リリアンからの申し出を断るという選択肢は、アルベルトには無い。今日中に判が必要なものもあるが、今日中に見ればいいだけだ。これは後回しにしておく。
やがてリリアンがやってくる。が、その表情は硬い。
「お父様。お仕事中にごめんなさい」
その声色で、アルベルトはリリアンが何か思案していることがあって、それを実行できないことに葛藤があることを把握した。
「それは構わないさ。なにかあったのか?」
「お父様は、プレート伯爵領のお花畑を覚えていらっしゃる?」
「もちろん。庭の花を選ぶ参考にするのに行ったね。リリアンと出掛けた場所は全て覚えているよ。伯爵領へ行ったのは春に二度、夏に一度だ。春の時はさすがに華やかだったな。覚えているか? 折角だからと新調したドレスが風に靡いた時、花びらが一斉に舞って空を覆い尽くすようだったろう。あの時のリリアンはまさに地上に降り立った天使のようだった。あの場に居た幸運に天に感謝したよ。夏は様相が一変していたな。やはり夏のドレスも新調して良かった。眩い太陽、向日葵畑の中のリリアン。リリアンはどの向日葵よりも輝いて見えた。春と夏、どちらが良いかと言われると選び難い。どちらのリリアンもとても綺麗だった」
「ありがとうお父様、でも今はそれどころではないの」
長くなりそうなアルベルトの語りをリリアンが遮る。少しシュンとしたように見えて、リリアンは「思い出話はまた今度聞かせてくださる?」と伝え、こほん、と姿勢を正す。
「ええ、春は当然のこと、夏の花も見事だったわ。……そのお花畑がね、荒らされているのですって」
「ほう?」
リリアンは、さっきのお茶会でヴァイオレットから聞いた話を語った。アルベルトはそれを最後まで聞くと、そうか、とだけ言う。
「伯爵家で動いているのであれば、できることは無いな」
「ええ、それはわかっています。わかっているのですが……」
目を伏せるリリアンは、心底残念そうな声をあげる。
「あの一面の菫畑が無惨に踏み潰されていると思うと、残念でならないのです……」
思案に暮れる娘の姿にアルベルトは天を仰ぎそうになる。
(花畑が荒らされていると聞いて心を痛めるリリアン。なんて優しい子なんだ。天使か? いや天使だ。地上に遣わされた一条の光。間違いない。ああ、私の娘はやはり天使だったのか……)
真顔で娘リリアンを称賛する男、それがアルベルトである。
思案するリリアンを尊いと見ていることはできるが、いつまでもリリアンが悩んでいる状況はアルベルトの望むところではない。それで、ようやく事件について、意識を向けた。
いくら荒らされているとはいえ、所詮花である。時間はそれなりにかかるが、植え直せばまた元通りになる。その間観光客が減ってしまうかもしれないし、もしかするとならず者に目をつけられるのを厭った観光客は寄り付かなくなるかもしれない。が、それまでと言えばそれまでだ。責任者がきちんと対応しているのであれば外野が手出しするわけにはいかない。ましてや、ヴァーミリオンは公爵家だ。いくら娘同士が友人であることを差し引いても権力差がありすぎる。ヴァーミリオン公爵家が手を出すべきではない。
「お父様、伯爵家が取れる手段で、他にどんなものがありますか?」
娘の言葉に、アルベルトは施政者の顔で答える。
「目星を付けているという、商売敵とやらが実行犯を使っている証拠が見つかるのが一番だが……中央騎士団に依頼を出すのがいいかもな。警備を強化したいという名目で陛下に騎士を派遣して貰い、捕まえて裏で糸を引いている連中の情報を騎士団で引き出す」
「でも、それは時間がかかりますよね」
「それなりにな」
ひと月か、ふた月か。それ以上かかるかもしれない。その間にどれだけの花が踏みにじられるだろうか。
リリアンは、そうですよね、と呟いて力無くソファに座った。
「リリアン……」
とたんアルベルトは娘を溺愛する父親の顔になる。リリアンの隣に腰掛けると、そっと肩を抱き寄せた。心優しく賢い子だ。リリアンは、ヴァーミリオン家が手出し出来ないことを十分承知している。
「良い子だね、リリアン。君を友人に持てたプレート家の令嬢は幸運だ。その気持ちだけでも、と彼女は言うだろうね」
その言葉に多少慰められたらしい。悲しそうではあるが、ちょっとだけ気持ちが浮上したらしいリリアンは、そうだといいけれど、と言って、力なく笑む。
アルベルトはその顔を見て思った。やはり、リリアンには笑顔こそ相応しいと。
ひとたびそう思ってしまうと、あとはもう条件反射のように、アルベルトの頭は算段を始めていた。なに、ようはヴァーミリオン家が手を出すことが自然なら、問題にならない。そう、例えば——たまたま向かった旅先で、荒事に巻き込まれて、正当防衛でならず者を引っ捕える、とか。そいつらを締め上げたら、たまたま不正をしている商人との繋がりが見つかってしまう、とか。
その間三秒。アルベルトはちらっと執事ベンジャミンに視線を送った。やはりベンジャミンはそれだけで察して、部屋を出ていく。
「さあ、もうそんな顔をしないで。……それはそうとリリアン、どうだろう、久しぶりにお父様と散歩に行かないかい?」
「お散歩、ですか?」
「ああ。差し当たっては花が見たい。花がたくさん咲いているところにしようか」
そう言うとアルベルトは、リリアンに三日分の外出準備を進めるよう、促したのだった。
◆◆◆
一週間後。よく晴れた日の昼下がり、親子は揃って件のプレート伯爵領の花畑にいた。
「見事なものだな」
なだらかな丘を、一面花が覆っている。今の季節はビオラやパンジー、コスモスが見頃だ。ひと昔前は代わり映えのない地味な色のものばかりだったが、近年は華やかな色味のものが増えている。花弁の形状もゴージャスなものがあったりして、近くで見ても見応えがあった。だが特筆すべきは、やはり全体の景観だろう。見渡す限りの花畑は色合いが肝要とばかりにグラデーションが続いている。紫や黄色、白、濃い緑の葉の向こうに背の高いコスモス。大ぶりのダリヤも存在感がある。
「こうして見ると、あちこちに工夫が施されているのがわかりますね」
花をより見やすくするための工夫はもちろんだが、徒歩で見て回ることも前提としているらしく小道がきちんと整備されていた。立ち入りを防ぐフェンスも、景観を遮らないよう設置されている。
だが残念なことに、丘の三分の一、花畑全体で見てもかなりの範囲で土が露出してしまっている。
「……ずいぶん広範囲ですのね」
リリアンの声には、残念だ、という思いが滲み出ていた。
「これでも一部修正したと聞いた。コスモスなんかは、今は規模が半分になってしまっているそうだ」
「そうなんですの? でも、そうとは見えないわ。……たいへんな苦労があったことでしょうね」
それなのに景観を提供し続けるなんて素晴らしい。リリアンはそう続けた。
基本的に花畑は無料で楽しむことができるのだ。ごくごく限られたエリアだけ、入るのに料金がかかるそうだがそれ以外はお金は必要ない。近くに畑の管理者が滞在する施設があって、そこへ申し出だけすれば、なんと花を摘むこともできるのだという。これも無料なのだから驚きだ。苗を抜くのは御法度だが、家に花を飾る機会がほとんどない庶民には無料で綺麗な花を持ち帰ることができて大好評なのだとか。今は不届き者がいて危険なので、花を摘むことはできない。解決を望む声は多い。
「さあ、リリアン。今日のところは宿に戻ろう」
父に背を押され、リリアンは馬車に戻った。豊かな花の香りは、少しだけリリアンを慰めてくれた。
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