浪漫談義

海室

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夜景に成長を想うこと

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 幽霊の正体見たり枯れ尾花。幽霊とばかり思っていたものがよく見ればススキであったという慣用句である。しかし、裏を返せばよく見ることのできない暗闇のなかでは、枯れ尾花は幽霊として存在することができるのである。
 人類は暗闇を恐れる。夜眼が利かないためだ。五感の内大きく占めるものは視覚である。見えないことは、つまり敵襲などの危機を察知できないということ。火の使用から始まり、人類は闇夜を生き抜くために多種多様な試行錯誤を凝らしてきた。
 その最たる例は電気であろう。発展した都市には眩いばかりの夜景がつきものだ。街の光は人の心を安心させる。同胞の存在が確認できるばかりでなく、暗闇という本能レベルの恐怖から脱することができる安堵が大きな理由であろう。



「見ろよ。東京の夜景はきれいだろ?」
 榎本武士えのもとたけしはそう言いながら、白ワインの入ったワイングラスを自身の腰かける椅子の右側にある大窓いっぱいに広がる、夜景に翳してみせた。
 グラスの中のワインは東京都港区の夜景を反射してキラキラと輝いた。白ワインが向こう側を見通せる色であることもあいあまって、ワイングラスの中に夜の街を閉じ込めたような輝きだった。それをうっとり見つめる武士は、普段のボサボサ頭をワックスでべったり固めて前髪を横流しにしており、背広を着て一等いい黒色のネクタイを締めて鼈甲のフレームの眼鏡をかけていた。彼に対面するドラゴンの逢川綾おうかわあやは、いつもながらくの全裸のまま口吻の先の鼻をふうんと鳴らした。
「アタシは料理の方がいいなあと思う」
 綾は自身の左側に広がる夜景に一瞥もくれず、目前のテーブルに置かれた白色のスープをスプーンで掬って舐めた。
「時に、せっかくの賞与、アタシに使っちゃっていいの?」
「俺の金だよ。俺の思うように使うとも」
 武士はそう言いながら夜景を横目に白ワインを口に入れた。ぶどうのみずみずしさを残しながら、程よい甘さとアルコールが口内を刺激した。
 武士が転職活動を成功させて半年、彼は生まれて初めての賞与を手にした。支えてくれた綾にお礼などと言いながら、本日は普段は絶対に入れないような港区のビル24階の高級レストランにてフランス料理のフルコースをいただくことになった。武士が衣装に着られているのも、ドレスコードのある当地に入場するためだ。
「アタシはよくわかんないけど、最初の賞与は親に使うもんなんじゃないの?」
「いいんだよ。ウチには金はあるが俺には期待がないんだ」
 鼈甲の眼鏡を人差し指で上げる武士を見ながら、綾はスープをもう一口舐めた。ジャガイモがペーストになっている白いスープは、口の中でゆったり溶けていった。その口どけのよさの余り、綾の背中の一対の羽が遠慮がちに小さく羽ばたいた。
 ふたりの他の客層は、人間においては夫婦揃って高収入の所謂パワーカップと思しき比較的若い男女に、恐らく浮気であろう初老の男性に不釣り合いな若い女、身なりのいい老夫婦、コーカソイドの男女などふたりが普段目にすることのない所謂セレブティの着飾った人々だ。
 対するドラゴンはドレスコードがないので全員全裸だ。一瞥しただけでは、社会的階層おろか性別もわからない。しかしこういった場所にいるため、所得はこのビルのフロアのように高いのだろう。ふたりの所得故の肩身の狭さだけでなく、何より人間とドラゴンの組み合わせはふたりの他にいなかったため浮いているように思えた。
「つか、ドラゴンって服着ねえの?」
「見栄を張る必要がないから」
 綾はそう即答して白ワインに口をつけた。
「こないだ富士に総合火力演習見に行ったときは迷彩服着てなかったっけ?」
「自衛隊は職業柄要るでしょ。いくら丈夫とはいえドラゴンも怪我するときはするし裸だとできないこともある。自衛隊に限らず街でも工員や警察官もドラゴンは着衣してるでしょ」
 武士はああと相槌を打ちながら、自身らのテーブルの傍を横切っていくドラゴンのウエイターを見た。背広を着て蝶ネクタイを締めたドラゴンは40センチはあろう革靴をコツコツ鳴らしながら歩いて行った。ジャケットはドラゴンが着れるようにデザインされており、背中からは一対の翼が突き出していた。
「発情期は性器を露出するのはよろしくないってんで、服着てること多いけどね。アタシは家にいるから着ないけど」
「こういうところでそういう話しないで」
「振ってきたのはタケでしょうに」
 綾はそう言いつつ白ワインを飲み干した。



「でもさ、やっぱ夜景はきれいだよ」
 武士は再びグラスの白ワインを窓の夜景に翳してみせた。白ワインが再び夜景の光を吸い込み、小さく瞬く。
 綾も同じように右手のグラスを夜景に翳して、紅い瞳で覗き込んだ。
「どうでもいいけど、アタシは赤ワインのが好きかな」
「瞳の色だからか?」
「肉のが好きなんだよ」
 今夜は魚だからなあと言って、武士は前菜のサラダのレタスを口に運んだ。
「しかしタケは夜景好きだよね」
「見てると落ち着くんだよ」
「あー、それはわかる」
 綾がそう言い終えると同時にサラダを大口に放り込んだ。赤色のパプリカが綾の奥歯に噛みつぶされ、みずみずしい音を立てた。
「青色の光が落ち着くっていうしね。誘蛾灯に誘われてコンビニに寄ってくるのは蛾も人間も同じなのかも」
「蛾と同列は腑に落ちないが、まあ青色の光が落ち着くってのはそうだな」
 武士は空のワイングラスを小さく振って見せた。それを視認したドラゴンのウェイターがワイン瓶を持って小走りで寄ってくる。
「鉄道自殺者の多発する踏切には、夜は青い光を灯してるんだ」
「それ逆に引き寄せちゃってる感じじゃない?」
 武士にワインを注ぎ終えたウェイターに、綾は未だ半分ほど残ったワイングラスを小さく振って見せる。ウェイターは静かに綾のグラスにも白ワインを注いだ。
「大学二年の時、ニューヨークに行ったんだけどさ、夜は白と青の光が基調で見てて落ち着いた気持ちになったんだよな。慌ただしく、眠らない街だが、でも眠りを誘引する」
 武士はワインを一口含むと、フォークでクルトンの乗ったレタスを口に運んだ。
「アタシらドラゴンは赤い光のが落ち着くの」
「瞳の色か?」
「火の色だよ。昔はドラゴンは火を吹いたからね。ていうか欧州圏のドラゴンの瞳は碧眼だし、中華圏は金色じゃん」
 綾は紅の瞳を淡い黄色の電灯が灯る天井に向けて、ふうと小さく吐息を漏らした。
 過去、ドラゴンは戦闘において火を吹いた。現在は一芸や煙草に着火する程度で吹くものもいるが、武士は綾を含め火を吹くドラゴンをついぞ見たことがない。勢いの調整が難しく安易に吹くことが危険であるということ以上に、備蓄した脂肪分を瞬時に燃焼して肺内の酸素を逆流させて吹きだすというのは存外体力を使うらしく、また綾をして腹が減るためあまりやりたくないとのことであった。
「アタシは大学時代ヴェトナムに行ったんだけども、ホーチミン市の夜景のが落ち着いた気持ちになれたかな。雑多でギラギラでさ、混沌とした中にエネルギーを感じた」
 国旗の色だよね、カナダも白かったし。と言いながら綾はワインを二口飲んだ。
「そう考えてみれば、日本の夜景はアジア的だね」
 綾はそう言いながら武士を真似てグラスの白ワインを窓の外の夜景に翳してみせた。ワインが夜景の光を捉え、グラスの中で小さくキラキラ輝く。
「言われてみりゃそうかもな。俺ら日本人は白人様の真似事をしてきたが、どうあがいても結局はアジアの一員ってこった」
 武士は右手で付いた頬杖で頬を支えると、右隣から見える東京の夜景に視線を走らせてみせた。
 港区は栄えた都内でも頭一つ抜いて発展した場所だ。発展の象徴たる夜景は、必然的に見栄えの良いものとなる。
 故郷の群馬県では、遥か遠い夢物語と思っていた東京タワーが、赤い光を湛えて掴みとれるのではないかと思える大きさで立っている。その少しばかり手前では浜松町の貿易センタービルが黄色い光を放っている。昨日武士は18時に定時退勤したが、あの光の下では20時を迎えようとしている今も忙しなく人々が働いているのだろう。
 そして東京タワーの足元には首都高速道路。車の赤色のテールランプが集まり、川の流れよろしくゆったり流れていくのが見えた。そしてその遥か向こうには六本木ヒルズ。落ち着いた橙の灯は、そこに住まう人の優雅な生活が見て取れた。
「確かに、赤いな」
 武士は左側に視線を流し、向こう側に座っているコーカソイドの男女に目を向けた。先ほど便所で用を足す際に横をすれ違った時に、フランス語で会話をしていたのが聞こえたのでおそらくフランス人であろう。
「アタシの実家、足柄の山の上だけどさ、ぼんやり見えた小田原市の光を思い出したよ。小さい光だったなって」
「小田原は結構栄えてる方だけどな。ていうか目ェいいな」
「飛ぶからね」
 綾はそう言いながらサラダ皿に残った最後の一口の黄色いパプリカを平らげた。
「タケは街の光を見ると落ち着くって言ったけどさ、アタシは同意はしたけどその小田原の光見て頼りないって思ったよ」
「そりゃ遠くから見て小さく見えたからじゃねえの? 流石に東京の光は見てて落ち着くんじゃねえの?」
「ギラギラしてて、うっとうしい」
 苦笑する武士を尻目に、綾はグラスに残された白ワインの最期の一口を煽った。



 ドラゴンのウェイターがふたりのテーブルに本日のメインディッシュを運んできた。白身魚のソテー。白い皿に置かれた小さく湯気の立つ手のひらサイズの魚の切り身に、レモンと塩のソースがかけられ、ニンジンとアスパラガス、ブロッコリーが添えられていた。
「いつも食べてる秋葉原のギトギトラーメンと比べると量が見劣りするね」
「比べるのが無粋だ。先ず料理のジャンルが全然違うし、何より高級フレンチは量じゃなく味で腹を膨らすんだよ」
 なるほど、と呟きながら綾は右手にナイフ、左手にフォークを握った。
「時にアヤ、さっき夜景がうっとうしいって言ったよな」
 武士は一度握ったナイフとフォークを、皿に立てかけた。
「ああ、度が過ぎれば鬱陶しくなるってことだよ。何事も適度が一番。適度な夜景だとアタシも落ち着く」
 綾はそう言い終えて切り取った魚の身を口に運んだ。口内に塩とレモンが程よく合わさった風味が広がり、また魚の肉は瞬く間に蕩けていく。綾は小さく背中の翼を動かした。
「ホーチミン市の夜景がほどほどとは思えんけど」
「赤色が多いからかな。だから落ち着いたのかも」
 綾はそう言うと、ふと何かに気が付いたかのように朱い瞳を橙の光の灯る天井に向けて、ナイフを口元で止めてみせた。
「なんか論理的じゃないよね。東京の灯も赤色が多いわけだし。でもなんか東京は好きじゃなくてホーチミン市は好きなの。うまく言語化できないな」
「それが感情ってもんだよ」
 ほう、と息を漏らしながら綾は白ワインを一口口に含んだ。
「何と非合理的な」
「そういうもんだよ」
 武士はそう言いながら自身も白身魚を一口口に入れてみせた。
「うまい。俺はもちろんギトギトラーメンが好きだが、こういった高級フレンチも好きだ。どっちが好きとは甲乙はつけられん。まあ比較条件が全然違うってのもあるが、それ以上に合理的に言語化できんからな」
「好きなものは好きでいいってこと?」
「好きじゃないものも好きじゃないでいいってこった」
 その武士の一言に、ふたりは弾けるように笑った。武士は両手を上げ、勢い余って拍手をしようとしたが向こう側のテーブルのフランス人の男が碧眼をこちらに向けているのが見えて静かに両手を下ろした。
「まあしかしホドホドってのはやっぱり大事だとは思うよね。ギトギトラーメンはおいしいけど、無論好きじゃないひともいるよね。ギトギトすぎるから」
「何より食いすぎると、こうだ」
 武士は自身の腹を右手で叩いて見せた。それと同じ動作を、綾もまったく同じタイミングに行った。小気味のいい腹鼓の音が上品なレストラン内に響き渡り、ふたりははじけるように笑った。武士が視線を泳がせた先で今度は左側のテーブルに座る老紳士と目が合った。
「場末の居酒屋のがよかったか?」
「うーん、確かにアタシらのキャラだと港区の優雅なフレンチより上野や赤羽の立ち飲み居酒屋のが性に合ってるかもね」
 綾は伏し目がちに言う武士に返答しながら、付け合わせのニンジンをフォークで刺して口に放り込んだ。
「でもさ、たまにはいいんじゃない? こんなところ来ないでしょいつもだと。社会勉強だよ」
「見識を増やせと」
「吉原に行ったときみたいにね」
「そういう話しないで」
 武士の一言に、ふたりは小さくふふふと笑ってみせた。膝の上のナプキンで口元を拭いながら、武士は周囲に視線を走らせてみる。老紳士もフランス人の男も、こちらに目もくれずメインディッシュのソテーに向き合っていた。



「街ってのは生き物みたいだよな」
 武士の一言に、綾は突き出した口吻の先からフォークの柄を覗かせたまま視線を投げた。
 メインディッシュのソテーは実に美味であった。ふたりが主食にしているギトギトラーメンや大盛チャーハンのペースで食べ続けると瞬く間に皿から消えてしまう。武士は文字通りかみしめるかの如く味わったが、それは綾も同じだったようだ。育ちがいいくせ存外貧乏性なんだなあと武士は思った。
 デザートは白色の小さなチーズケーキ。ケーキの上には新鮮な血液のように真っ赤なイチゴジャムと、小さなイチゴが所せましとハーブの一枚葉と一粒のブルーベリー、そしてホイップされたクリームと場所を譲り合っていた。皿にはどう食していいやら皆目見当のつかない、チョコレートの賑やかしの模様が彩られていた。
 先月、特売のホールケーキを刃物も入れずそのままフォークを突き刺してふたりで肉食獣のように平らげた後だと、絶望的に少量ではあるものの、メインディッシュをゆっくり食したためか満腹感があった。武士がもったいぶっている間に綾はひとかけらもう口に運んだらしい。
「時間を経て、発展して、大きくなる。成長してるみたいだ」
「いつぞや話したけど、社会全体が生き物みたいなもんだしね」
 経済成長って言うでしょ、と、綾はフォークを口から抜いて武士に向けて見せた。淡い橙の光を、フォークに付着した唾液が反射して同じく淡く輝く。
「そんで時間経すぎたら衰退してズタボロになるのも生き物っぽいよね」
「盛者必衰の理を現す……か」
 武士は自身の故郷からほど近い沼田市に想いを馳せた。かつて江戸時代は城下町として栄えたかの国も、今や日本中に数多存在する過疎地の一つにすぎなかった。
「ホーチミン市は成長の過渡期にある。見守ってるって意味で安心感があったのかな」
 綾は思いついたように言った。それが少しうれしかったのかやや力を込めて皿に立てかけたフォークが小気味の良い音を響かせた。
「最近上海行ったじゃん? ピカピカしてしんどかったよね」
 ああ、と、武士は言った。あの時は夜市の出店でふたりして豆電球の下酸辣湯を啜った記憶があるが、そういえば夜の長江の水面に映る夜景は大変美しかったように記憶している。
「中国政府の方針でさ、夜の夜景の見栄えで国庫支出が決まるみたいな話を聞いたことがある」
 ざっくりとした内容で覚えてるなあと思いながら武士はチーズケーキの端を切り取って口に運んだ。ソテーのようにケーキも口の中で蕩けて、口内を上品な甘さで彩った。
「夜景はその街の発展度合いなんな」
「そうだね」
 綾はそう言いながらフォークで皿の上を走るチョコレートを掬って口に入れた。
「タケが夜景見ると落ち着くのは、それだけ発展したものがそこにはあって、自身がそこで落ち着いて生活できるっていう安寧からだよね。群れを作る人間的な心理だよね」
「じゃあ綾は小田原の夜景を頼りなく思いつつもホーチミンの夜景を見守るのは、小さな子を見守る母性的な何かが働いてるってことか?」
「うーん、母性かァ……」
 綾はそう言って右手のフォークを口元に持ってきて見せた。
 ドラゴンは現在一般的には、鳥類と爬虫類の中間のようなものであると認識されている。人間社会に適合するまでは、ドラゴンは子供が産まれてから番が解消され、子供はほとんど放置状態で育てられるような成育状態が続いていたものの、現在は人間と同じく家族の単位で生活を行い、子を育てる様式を取っている。
「まァ……ドラゴンが人間的な家庭を持ち始めたのは歴史が浅いからなあ。アヤ、ピンとこないかやっぱ」
「いや、そうでもないんじゃないかな。タケがアタシにいつもいうことを踏まえれば、自分が成した子が愛しいってのはどんな生物も大なり小なり考えてはいるもんだと思う。愛の形はそれぞれって感じでさ」
 あくまでも厳しい自然界を生き抜くうえで、それが合理的か否かってわけで、と、綾は続けた。
「愛ってのはよくわかんないけどさ、一介のドラゴンの雌たるアタシがそれについて思考するってことは、まあ数千年後くらいには本能レベルでドラゴンにも子を慈しむ愛ってのが根付くんじゃないかな。わかんないけど」
「愛について考えることがそれはもう愛じゃないかなと」
「わかんないよ」
 綾は短くそう言うと、半分になっていたチーズケーキにフォークと突き刺し、一口で大口に放り込んだ。
「愛をはじめとする感情について考えられるようになったアヤは成長したわけ」
「じゃあ賞与もらえるようになって、お高い店にアタシを招待できるようになったタケも成長したわけね」
「そうだ、成長は大事だ」
 武士は大き目の声でそう言うと、高らかに手のひらを二回叩いた。フランス人の男と老紳士が驚いた様子で武士に視線を投げかける。
 武士の手の音を合図に、ドラゴンのウェイターが新しいワインを持ってやってきた。東京の街の光と同じ、赤いワインだ。
「アヤ、誕生日おめでとう」
 目の前に新しいグラスを置かれるのを見ながら、綾はあーと小さく呟いた。どうやら自身の誕生日をすっかり忘れていたようだ。
「アヤの瞳の色と同じ、赤いワインだよ」
「アタシの瞳はこんなに深い色してないよ。もっと透き通ってる。よく見て……」
 綾は最後の一言を呟くように言いながら、武士を見た。自身のグラスに赤いワインが注がれるのを尻目に、武士は鼈甲の眼鏡の向こうから綾の瞳を見つめた。ルビーのような透き通った眼孔に、おめかしをした自分の姿が一対映った。
 ワインを注ぎ終えたウェイターが一礼してテーブルから去っていく。
「20年ものかな。この店で一番高いやつ」
「値段とか、年代とかいいんだよ。なんか、その、安いワインでもなんか胸の辺りがソワソワするっていうか……」
「喜んでくれて何よりだよ」
 武士はそう言ってにっこり微笑むと、グラスの足を持って綾に向かって掲げて見せる。
「アヤと俺の成長に」
 武士がそう言うと同時に綾は自身のグラスを武士のそれに軽く打ち付けた。透き通った音が小さくフロアに響いた。
 ふたりはお互いの表情を見ながら、もったいぶるかのようにワインを喉に流し込んだ。熟成された葡萄が口内に深みを残し、食道にアルコールの痕跡を引きながら胃に落ちていった。
「おいしい」
 綾はそう言うと、半分ほどワインの残ったグラスを窓の夜景に翳してみせた。赤ワインが港区の夜景を捉え、白ワインとは異なり鈍い輝きを醸してみせた。
 21時の東京都港区は未だ眠らない。東京タワーの足元にはテールライトの川が流れ、それを見守るように貿易センタービルと六本木ヒルズの光がぼんやりと闇夜を彩る。
 レストランの淡い橙の光もディナーを続ける人々を照らし続けた。ひとりの青年と、若い雌のドラゴンを、各々のこれからの絶え間ない、そして輝かしい成長を照らすかのように。

fin
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