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日常崩壊編
序章/徳倉 浩二
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「ほら、さっさと服を脱げ」
長く上っていた月が沈み、巨大都市ミックスセルドはもうすぐ静寂の朝を迎えようとしていた。
梅雨が明けたばかりで、微かに空気がじめじめしている。
小鳥のさえずりだけが不気味に響く閑静な住宅街<ブルースター>の一角に、一人の男の怒声が響き渡った。
彼の名は徳倉 浩二。
ヘレシー社の社員である。
錆付いたアパートの薄暗い部屋の中で、徳倉は仁王立ちになり、一人の女性に拳銃を向けていた。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、無骨な銃口を艶やかな銀色に光らせていた。
センターシティから隔絶されたこのアパートに、今や住人は彼一人しかいない。
その証拠に、建物の周囲には折れた枝が無造作に散らばり、仰向けになった虫の死骸が幾つも転がっていた。
「聞こえないのか? さっさとその服を脱げ。でないと撃ち殺すと言ってるんだ」
徳倉の大きく軋んだ声が、広く殺風景な室内で何度も反響する。
徳倉は肩まで伸びた脂っぽく癖のある髪の毛を揺らし、汗を吸って重たくなったタンクトップを、肥大した身体に食い込ませていた。
その肌に張り付いたタンクトップからは、酸っぱい体臭と、焦燥感が混じり合った不快な熱気が立ち上っている。
彼は既にズボンとパンツを床に脱ぎ捨て、醜く露わになった小さな局部をそこに露出させていた。
そんな世間の常識から滑落し、生きる人間としての尊厳を失った男の股間は、目の前で怯えている薄着姿の女を見て、卑俗に膨らもうとしていた。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
女は壁にもたれかかるように座り込み、男と目を合わせないように床をじっと見つめていた。
銃口を向けられているにも拘わらず、彼女は頑なに拒み続けた。
そして、女は震えた声で「小学生の息子が今頃お腹を空かせて待ってるの。だからお願いします。どうか見逃してください。あなたのことは誰にも言いませんから」と懇願した。
しかし、どれも服を脱がない理由にはなっていないだろ、と徳倉は思った。
抑えることのできない性欲が、彼の理性を脳の片隅へと追いやってしまっていたのだ。
「うるせえ! つべこべ言わずにさっさと服を脱ぐんだ! 俺は拳銃を持っているんだぞ!」
徳倉は生まれてこのかた、母親以外の女性に一度も触れたことがなかった。
そのため、自らの手で服を脱がすという考えは微塵も浮かばなかった。
銃口を向けているとはいえ、ここまで必死にお願いしているのだからこれは強姦にはならないとさえ、本気で信じ込んでいた。
「はやくしろ!」
徳倉は叫び声とともに引き金を引いた。
細い銃口から放たれた弾丸は、僅かに女の左耳をかすめ、後ろの壁へと直撃した。
まるでルビーで造られたピアスのように少量の血が耳の縁を滴って、そして静かに床へ落ちた。
感情の抑えようがなくなった徳倉は、彼女の真っ赤に染まった血でさえ美しいと思い、数秒ほど見とれてしまっていた。
なぜなら、徳倉はそれほど彼女のことを心の底から強く愛していたからだ。
初めて彼女と出会ったのは半年ほど前だった。
毎日仕事の帰りに通っていたファストフード店〈サンフラワー〉のドライブスルーで、窓越しに見える彼女の横顔に、徳倉は釘付けになった。
彼女は今まで見てきたどんな女性よりも美しく、女神のように尊かった。
それに声も透き通っていて綺麗だ。
彼女の声は限りなく透明に近いブルーみがかっていて、今にも消えてしまいそうだった。
徳倉はあまりの美しさに、彼女のことを密かに「ハニー」と呼んでいた。
本人に直接それを伝えたことはなかったが、もし伝えてもきっと彼女なら喜んで受け入れてくれるだろうとは思った。
あくまで現実での二人の関係は、店員と客という単純なものに過ぎなかったにも拘わらず、徳倉は頭の中でいくつものハニーとの思い出を築き上げていた。
例えば、二人で二時間ほどドライブをしたあと、海へ行った。
白いワンピースの裾を膝のところまでまくり上げ、波打ち際を歩く彼女の後ろ姿が愛おしかった。
麦わら帽子が風に飛ばされそうになって、それを咄嗟に手で抑える姿が、一枚の絵画のようだった。
彼女の後ろ姿と、夕陽が水平線の中に沈んでいく景色が重なったときは、彼女ごと水の中へ溶けて消えてしまうんじゃないかと不安にもなった。
それくらい海の儚い景色に馴染んでいた。
他にも、森へ行ったこともあった。
彼女は木の根元に生える紫色の花々を指さして、「これはハナニラだよ」と教えてくれた。
「普段は綺麗な見た目をしているけれど、ちぎれたり傷付いたりすると、ニラのような異臭を放つの。でもそれが私みたいで共感できるんだ」と笑っていた。
これも全て徳倉の妄想なのだけれど、徳倉はこれを未来の自分が見る景色なのだと確信していた。
自分には未来が見える能力があるのだ、と。
「チーズバーガーを五つ」
少しでも長くドライブスルーの窓からハニーの横顔を見ていられるようにと、到底食べられもしない量を毎日注文した。
来るたびに五つ頼むものだから、スピーカー越しに「今日も五つですか? 本当に大好きなんですね」なんて返してもらう日もあった。
ああ、大好きだよ。
君のことが。
徳倉は心の中でそう返した。
徳倉の身体は、数ヶ月で見る影もないほど醜く肥大していった。
もっと彼女と話したい。
親密な関係になりたい。
ドライブスルーの窓越しで、ほんの数回しか会話をしたことがないにもかかわらず、徳倉は彼女に特別な感情を抱いていた。
そして、それがそのまま肉体へと現れていたのだった。
***
徳倉がこの脅迫を計画したのは、わずか二時間前のことだった。
残業を終えて、いつもより遅い時間の帰り道だった。
もう既に〈サンフラワー〉は閉まっており、人通りも車通りもほとんどない状態だった。
徳倉は諦めて仕方なく車を進めていると、遠くの道で歩いて帰っているハニーの後ろ姿を見つけた。
徳倉の脳内にあの時の海辺の景色がよぎった。
それを現実にするチャンスが、まさに今そこにあると思った。
徳倉は彼女の横に車を寄せ、助手席側の窓を開けて話しかけた。
「やあ。今日はもう店じまいしたのかい?」
「あ、こんばんは。そうなんです。今日はもうおしまいで……、丁度今から帰るところなんです」
「今日は残業で疲れたから10個ほど食べようと思っていたんだけど、それは残念だなあ」
「ふふふ、いつもの倍ですね。今日はあのお客さん来ないねってみんなで話してたんですよ!」
薄暗い中でも彼女の笑みは輝いていた。
「あのさ、家まで送るからさ、ちょっとドライブしていこうよ」
徳倉は助手席のノブに腕を伸ばして、ハニーが歩いている方の扉を開けた。
「有難いですけど、家はもうすぐそこなのでまた今度お願いします」
ハニーは笑顔を絶やすことなく、なぜか歩みを早めた。
「どうしてだよ。今すぐ行こうよ」
徳倉は彼女と並走するように、アクセルを慎重に踏み続けた。
「すみません。急いでるので」
彼女が車のドアを閉めようとした瞬間、徳倉はグローブボックスに収納していた護身用の拳銃を取り出し、それを車内から見せつけた。
彼女は唖然とした顔で立ち止まった。
「ハニー。さっさと乗れよ」
流れでなってしまったとはいえ、彼女を強引に助手席へ乗せてしまった。
恐怖のあまり身体を震わすハニーを見るのも悪くはないな、と徳倉は思った。
そのまま自分の家へと連れ去って、今に至る。
これまでの経緯を思い出してもなお、徳倉のそれは萎えることなくまだ膨張を続けていた。
「なあ、ハニー。一回だけでいいんだ。ヤらせてくれよ。少し咥えるだけでもいいからさ。それですぐ帰すから、頼むよ」
「む、無理です。嫌です! そんなこと私にはできません。他の人を当たってください」
女は男の局部から目を逸らす。
「なぜだ! ま、毎日毎日、君に会いに行っていたんだぞ! どうしてそんな酷いことを言うんだよ! 俺はずっとハニーを愛していたんだぞ! 俺が今まで君に会うためにどれだけお金を使って、無理をして食べたと思ってるんだ。どうしてわかってくれないんだ! どうして、どうしてだよ」
徳倉の目尻に、身勝手な涙が溜まっていく。
「……私はあなたのことを全く知らないし、気にかけたこともありません。よく店に来てくれるお客さまのひとり程度の認識です。せめて、こういうことはもっとお互いのことを知ってからにしませんか」
「なぜそんなことを言うんだ! なぜ! なぜ! なぜそんなことを言う! ハニー! 一体なぜ! なぜなんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
現実を突き付けられた徳倉は雄叫びをあげる。
彼の声は超音波のように広がっていき、空気を激しく振動させた。
壁にかかっていた絵画はぱりんと割れ、床に勢いよく落下する。
ふたりの頭上にあった蛍光灯は何度も閃光すると薄いガラスが爆発し、残骸が床へと散らばった。
机に置かれていた花瓶は振動で床に倒れ、ぱりんと大きな音をたててハニーの白くて艶やかな脚を傷つけた。
徳倉の声が大きすぎるあまり、ハニーの鼓膜から血が流れる。
ルビーのピアスが、さらに大きく、赤く染まった。
ハニーは痛みに耐えながら、下唇を強く噛み締めていた。
そして、胸元にぶらさげていた金色のペンダントを握りしめていた。
「そのネックレスはなんだ?」
それを見た徳倉は、叫ぶのをやめて冷静に問いかけた。
「答えなきゃいけませんか?」
「当たり前だろ。それはなんだと聞いているんだからさっさと答えろ」
ハニーは一呼吸置いて、話を始める。
「これは大切な人がプレゼントしてくれたものです……。私の宝物です」
徳倉は拳銃を片手に構えたまま、ハニーの耳元にゆっくりと顔を近づける。
「外せ」
手のひらを差し出して、何度か指を内側に折り曲げた。
「だめ。近寄らないで。やめて」
「うるさい! さっさとよこすんだ! ハニーのそばにいる男は俺だけでいいんだよ」
徳倉は右手に握りしめていた拳銃のグリップで、彼女のこめかみを勢いよく殴りつけた。
悲鳴すらあげる間もなく、ハニーは床に倒れ込む。
「あ、ああ。ご、ごめんよハニー。悪気はなかったんだ。ついカッとなって」
徳倉はおどおどしながらその場へしゃがみ込み、ハニーの頭を撫でようとした。
そのときだった。
彼女は朦朧とした意識の中で、床に散らばっていた花瓶の破片を手に取って、それを徳倉の左目へと素早く突き刺した。
どぷゅ、という鈍い音が聞こえた。
眼球の中にガラスの破片が沈む。
左目から滝のように真っ赤な血液が溢れだした。
痛い。
痛すぎる。
徳倉は引き攣った声をあげながら、左目に刺さった花瓶の破片を引き抜くと、そのまま片手に持っていた拳銃でハニーの頭を三発ほど撃ち抜いた。
静まり返る町の中に銃の音が拡がった。
徳倉は起き上がることなく倒れ込むハニーの姿を見ながら、キーンと劈く耳鳴りの音に苛立っていた。
「ああ、ハニー……。ごめんよ……。でも君が悪いんだ。君がこんなことをするから」
徳倉はぴくりとも動かなくなってしまった彼女を見て、目に血と涙の融合物を浮かべた。
視界が赤黒く染まっていて見えづらい。耳鳴りもまだ止まらない。
徳倉は手を震わせながら、両手をそっと彼女の頬に当てる。
そして、目を瞑り、分厚くて茶色い唇を静かに彼女の唇に近付けようとした。
「あーあ。殺しちゃった」
いきなり背後から男の声がした。
徳倉は慌てて振り返るが、そこには誰もいなかった。
気のせいのような気もしなくはないが、幻聴にしてはあまりにも鮮明に聞こえた。
徳倉の脳内に「見られたかもしれない」という不安が、冷たい汗とともに駆け巡っていく。
「やばい。ここから逃げないと……」
徳倉は、冷たくなった彼女をそのまま部屋に置き去りにし、ボロボロのサンダルを履いて部屋を飛び出した。
廊下に血を滴らせながら、急いで駐車場へと走る。
街灯の周りを飛び回っている蛾の羽音が、まるで自分を嘲笑っているかのように聞こえた。
徳倉は、駐車場の中央で斜めに放置された自分の車に駆け込んで、イグニッションキーに手を伸ばした。
キーを二度、三度、回転させるが、ぶるんっと微かに機械音が鳴る程度で、車が進む気配は微塵も感じられなかった。
ただ心臓の鼓動だけが、故障したエンジンのようにうるさく耳元で跳ねていた。
「くそっ、なんだよ! こんなときに!」
徳倉はハンドルを拳で叩きつけた。
ひび割れたダッシュボードから埃が舞い、閉め切った車内に彼の荒い呼吸音だけが反響する。
諦めずに何度も何度も挑戦するが、やはり一向に車の動く気配はなかった。
その間も、左目から溢れる血だけが絶え間なく流れ落ちていた。
「逃げようとしても無駄だよ、おじさん」
誰もいないはずの後部座席から、再びあの男の声がした。
背後から粘りつくような視線が首筋を撫でる。
徳倉は頭上にあるバックミラーをゆっくりと覗き込んだ。
後部座席には極めて薄暗かった。
しかし、彼の目には、ウサギの仮面を付けた男が座っているように見えた。
男は黒いパーカーを纏い、顔を隠すようにして深くフードを被っている。
「誰だお前」
「いいから、静かにしろ」
男はどこからともなくジャックナイフを取り出して、それを徳倉の首元へそっと押し当てる。
「人を殺したのはこれが初めてじゃないな?」
仮面の男は言った。
続けて、「お前のことは全て調べてある。2年前の殺人が冤罪になって難を逃れたようだな。だからといって、また人を殺すのは何とも頂けない。今回はそんな上手く行かないよ」と話す。
うさぎの仮面を纏ったその奥で、男が鋭く険しい目つきをしているのが分かった。
徳倉は小刻みに身体を震わせながら「わ、わざとじゃないんだ……」と言い返すが、仮面の男は「わざとかどうかなんて心底どうでもいい。他になにか言い残したことはないのか?」と言う。
すると、徳倉は子供のように大粒の涙を流しながら「や、やめてくれ。頼むから殺さないでくれ……。俺が悪かった……」と情けない声を漏らした。
「ああ、分かっているじゃないか。その通りだ。お前が悪い」
そう言って仮面の男は微笑しながら、徳倉の首にナイフを強く食い込ませて、横へスライドさせた。
徳倉はあまりの苦痛に声をあげようとするものの、肺から押し出された息は喉から隙間風のように漏れ出す。
真っ赤な液体が噴水のように湧き出しては、フロントガラスを覆うほど飛び散った。
そのどろどろとした血を眺めながら、ウサギの仮面を付けた男は上着の胸ポケットから携帯電話を取り出し、「任務完了……」と小さく呟いた。
長く上っていた月が沈み、巨大都市ミックスセルドはもうすぐ静寂の朝を迎えようとしていた。
梅雨が明けたばかりで、微かに空気がじめじめしている。
小鳥のさえずりだけが不気味に響く閑静な住宅街<ブルースター>の一角に、一人の男の怒声が響き渡った。
彼の名は徳倉 浩二。
ヘレシー社の社員である。
錆付いたアパートの薄暗い部屋の中で、徳倉は仁王立ちになり、一人の女性に拳銃を向けていた。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、無骨な銃口を艶やかな銀色に光らせていた。
センターシティから隔絶されたこのアパートに、今や住人は彼一人しかいない。
その証拠に、建物の周囲には折れた枝が無造作に散らばり、仰向けになった虫の死骸が幾つも転がっていた。
「聞こえないのか? さっさとその服を脱げ。でないと撃ち殺すと言ってるんだ」
徳倉の大きく軋んだ声が、広く殺風景な室内で何度も反響する。
徳倉は肩まで伸びた脂っぽく癖のある髪の毛を揺らし、汗を吸って重たくなったタンクトップを、肥大した身体に食い込ませていた。
その肌に張り付いたタンクトップからは、酸っぱい体臭と、焦燥感が混じり合った不快な熱気が立ち上っている。
彼は既にズボンとパンツを床に脱ぎ捨て、醜く露わになった小さな局部をそこに露出させていた。
そんな世間の常識から滑落し、生きる人間としての尊厳を失った男の股間は、目の前で怯えている薄着姿の女を見て、卑俗に膨らもうとしていた。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
女は壁にもたれかかるように座り込み、男と目を合わせないように床をじっと見つめていた。
銃口を向けられているにも拘わらず、彼女は頑なに拒み続けた。
そして、女は震えた声で「小学生の息子が今頃お腹を空かせて待ってるの。だからお願いします。どうか見逃してください。あなたのことは誰にも言いませんから」と懇願した。
しかし、どれも服を脱がない理由にはなっていないだろ、と徳倉は思った。
抑えることのできない性欲が、彼の理性を脳の片隅へと追いやってしまっていたのだ。
「うるせえ! つべこべ言わずにさっさと服を脱ぐんだ! 俺は拳銃を持っているんだぞ!」
徳倉は生まれてこのかた、母親以外の女性に一度も触れたことがなかった。
そのため、自らの手で服を脱がすという考えは微塵も浮かばなかった。
銃口を向けているとはいえ、ここまで必死にお願いしているのだからこれは強姦にはならないとさえ、本気で信じ込んでいた。
「はやくしろ!」
徳倉は叫び声とともに引き金を引いた。
細い銃口から放たれた弾丸は、僅かに女の左耳をかすめ、後ろの壁へと直撃した。
まるでルビーで造られたピアスのように少量の血が耳の縁を滴って、そして静かに床へ落ちた。
感情の抑えようがなくなった徳倉は、彼女の真っ赤に染まった血でさえ美しいと思い、数秒ほど見とれてしまっていた。
なぜなら、徳倉はそれほど彼女のことを心の底から強く愛していたからだ。
初めて彼女と出会ったのは半年ほど前だった。
毎日仕事の帰りに通っていたファストフード店〈サンフラワー〉のドライブスルーで、窓越しに見える彼女の横顔に、徳倉は釘付けになった。
彼女は今まで見てきたどんな女性よりも美しく、女神のように尊かった。
それに声も透き通っていて綺麗だ。
彼女の声は限りなく透明に近いブルーみがかっていて、今にも消えてしまいそうだった。
徳倉はあまりの美しさに、彼女のことを密かに「ハニー」と呼んでいた。
本人に直接それを伝えたことはなかったが、もし伝えてもきっと彼女なら喜んで受け入れてくれるだろうとは思った。
あくまで現実での二人の関係は、店員と客という単純なものに過ぎなかったにも拘わらず、徳倉は頭の中でいくつものハニーとの思い出を築き上げていた。
例えば、二人で二時間ほどドライブをしたあと、海へ行った。
白いワンピースの裾を膝のところまでまくり上げ、波打ち際を歩く彼女の後ろ姿が愛おしかった。
麦わら帽子が風に飛ばされそうになって、それを咄嗟に手で抑える姿が、一枚の絵画のようだった。
彼女の後ろ姿と、夕陽が水平線の中に沈んでいく景色が重なったときは、彼女ごと水の中へ溶けて消えてしまうんじゃないかと不安にもなった。
それくらい海の儚い景色に馴染んでいた。
他にも、森へ行ったこともあった。
彼女は木の根元に生える紫色の花々を指さして、「これはハナニラだよ」と教えてくれた。
「普段は綺麗な見た目をしているけれど、ちぎれたり傷付いたりすると、ニラのような異臭を放つの。でもそれが私みたいで共感できるんだ」と笑っていた。
これも全て徳倉の妄想なのだけれど、徳倉はこれを未来の自分が見る景色なのだと確信していた。
自分には未来が見える能力があるのだ、と。
「チーズバーガーを五つ」
少しでも長くドライブスルーの窓からハニーの横顔を見ていられるようにと、到底食べられもしない量を毎日注文した。
来るたびに五つ頼むものだから、スピーカー越しに「今日も五つですか? 本当に大好きなんですね」なんて返してもらう日もあった。
ああ、大好きだよ。
君のことが。
徳倉は心の中でそう返した。
徳倉の身体は、数ヶ月で見る影もないほど醜く肥大していった。
もっと彼女と話したい。
親密な関係になりたい。
ドライブスルーの窓越しで、ほんの数回しか会話をしたことがないにもかかわらず、徳倉は彼女に特別な感情を抱いていた。
そして、それがそのまま肉体へと現れていたのだった。
***
徳倉がこの脅迫を計画したのは、わずか二時間前のことだった。
残業を終えて、いつもより遅い時間の帰り道だった。
もう既に〈サンフラワー〉は閉まっており、人通りも車通りもほとんどない状態だった。
徳倉は諦めて仕方なく車を進めていると、遠くの道で歩いて帰っているハニーの後ろ姿を見つけた。
徳倉の脳内にあの時の海辺の景色がよぎった。
それを現実にするチャンスが、まさに今そこにあると思った。
徳倉は彼女の横に車を寄せ、助手席側の窓を開けて話しかけた。
「やあ。今日はもう店じまいしたのかい?」
「あ、こんばんは。そうなんです。今日はもうおしまいで……、丁度今から帰るところなんです」
「今日は残業で疲れたから10個ほど食べようと思っていたんだけど、それは残念だなあ」
「ふふふ、いつもの倍ですね。今日はあのお客さん来ないねってみんなで話してたんですよ!」
薄暗い中でも彼女の笑みは輝いていた。
「あのさ、家まで送るからさ、ちょっとドライブしていこうよ」
徳倉は助手席のノブに腕を伸ばして、ハニーが歩いている方の扉を開けた。
「有難いですけど、家はもうすぐそこなのでまた今度お願いします」
ハニーは笑顔を絶やすことなく、なぜか歩みを早めた。
「どうしてだよ。今すぐ行こうよ」
徳倉は彼女と並走するように、アクセルを慎重に踏み続けた。
「すみません。急いでるので」
彼女が車のドアを閉めようとした瞬間、徳倉はグローブボックスに収納していた護身用の拳銃を取り出し、それを車内から見せつけた。
彼女は唖然とした顔で立ち止まった。
「ハニー。さっさと乗れよ」
流れでなってしまったとはいえ、彼女を強引に助手席へ乗せてしまった。
恐怖のあまり身体を震わすハニーを見るのも悪くはないな、と徳倉は思った。
そのまま自分の家へと連れ去って、今に至る。
これまでの経緯を思い出してもなお、徳倉のそれは萎えることなくまだ膨張を続けていた。
「なあ、ハニー。一回だけでいいんだ。ヤらせてくれよ。少し咥えるだけでもいいからさ。それですぐ帰すから、頼むよ」
「む、無理です。嫌です! そんなこと私にはできません。他の人を当たってください」
女は男の局部から目を逸らす。
「なぜだ! ま、毎日毎日、君に会いに行っていたんだぞ! どうしてそんな酷いことを言うんだよ! 俺はずっとハニーを愛していたんだぞ! 俺が今まで君に会うためにどれだけお金を使って、無理をして食べたと思ってるんだ。どうしてわかってくれないんだ! どうして、どうしてだよ」
徳倉の目尻に、身勝手な涙が溜まっていく。
「……私はあなたのことを全く知らないし、気にかけたこともありません。よく店に来てくれるお客さまのひとり程度の認識です。せめて、こういうことはもっとお互いのことを知ってからにしませんか」
「なぜそんなことを言うんだ! なぜ! なぜ! なぜそんなことを言う! ハニー! 一体なぜ! なぜなんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
現実を突き付けられた徳倉は雄叫びをあげる。
彼の声は超音波のように広がっていき、空気を激しく振動させた。
壁にかかっていた絵画はぱりんと割れ、床に勢いよく落下する。
ふたりの頭上にあった蛍光灯は何度も閃光すると薄いガラスが爆発し、残骸が床へと散らばった。
机に置かれていた花瓶は振動で床に倒れ、ぱりんと大きな音をたててハニーの白くて艶やかな脚を傷つけた。
徳倉の声が大きすぎるあまり、ハニーの鼓膜から血が流れる。
ルビーのピアスが、さらに大きく、赤く染まった。
ハニーは痛みに耐えながら、下唇を強く噛み締めていた。
そして、胸元にぶらさげていた金色のペンダントを握りしめていた。
「そのネックレスはなんだ?」
それを見た徳倉は、叫ぶのをやめて冷静に問いかけた。
「答えなきゃいけませんか?」
「当たり前だろ。それはなんだと聞いているんだからさっさと答えろ」
ハニーは一呼吸置いて、話を始める。
「これは大切な人がプレゼントしてくれたものです……。私の宝物です」
徳倉は拳銃を片手に構えたまま、ハニーの耳元にゆっくりと顔を近づける。
「外せ」
手のひらを差し出して、何度か指を内側に折り曲げた。
「だめ。近寄らないで。やめて」
「うるさい! さっさとよこすんだ! ハニーのそばにいる男は俺だけでいいんだよ」
徳倉は右手に握りしめていた拳銃のグリップで、彼女のこめかみを勢いよく殴りつけた。
悲鳴すらあげる間もなく、ハニーは床に倒れ込む。
「あ、ああ。ご、ごめんよハニー。悪気はなかったんだ。ついカッとなって」
徳倉はおどおどしながらその場へしゃがみ込み、ハニーの頭を撫でようとした。
そのときだった。
彼女は朦朧とした意識の中で、床に散らばっていた花瓶の破片を手に取って、それを徳倉の左目へと素早く突き刺した。
どぷゅ、という鈍い音が聞こえた。
眼球の中にガラスの破片が沈む。
左目から滝のように真っ赤な血液が溢れだした。
痛い。
痛すぎる。
徳倉は引き攣った声をあげながら、左目に刺さった花瓶の破片を引き抜くと、そのまま片手に持っていた拳銃でハニーの頭を三発ほど撃ち抜いた。
静まり返る町の中に銃の音が拡がった。
徳倉は起き上がることなく倒れ込むハニーの姿を見ながら、キーンと劈く耳鳴りの音に苛立っていた。
「ああ、ハニー……。ごめんよ……。でも君が悪いんだ。君がこんなことをするから」
徳倉はぴくりとも動かなくなってしまった彼女を見て、目に血と涙の融合物を浮かべた。
視界が赤黒く染まっていて見えづらい。耳鳴りもまだ止まらない。
徳倉は手を震わせながら、両手をそっと彼女の頬に当てる。
そして、目を瞑り、分厚くて茶色い唇を静かに彼女の唇に近付けようとした。
「あーあ。殺しちゃった」
いきなり背後から男の声がした。
徳倉は慌てて振り返るが、そこには誰もいなかった。
気のせいのような気もしなくはないが、幻聴にしてはあまりにも鮮明に聞こえた。
徳倉の脳内に「見られたかもしれない」という不安が、冷たい汗とともに駆け巡っていく。
「やばい。ここから逃げないと……」
徳倉は、冷たくなった彼女をそのまま部屋に置き去りにし、ボロボロのサンダルを履いて部屋を飛び出した。
廊下に血を滴らせながら、急いで駐車場へと走る。
街灯の周りを飛び回っている蛾の羽音が、まるで自分を嘲笑っているかのように聞こえた。
徳倉は、駐車場の中央で斜めに放置された自分の車に駆け込んで、イグニッションキーに手を伸ばした。
キーを二度、三度、回転させるが、ぶるんっと微かに機械音が鳴る程度で、車が進む気配は微塵も感じられなかった。
ただ心臓の鼓動だけが、故障したエンジンのようにうるさく耳元で跳ねていた。
「くそっ、なんだよ! こんなときに!」
徳倉はハンドルを拳で叩きつけた。
ひび割れたダッシュボードから埃が舞い、閉め切った車内に彼の荒い呼吸音だけが反響する。
諦めずに何度も何度も挑戦するが、やはり一向に車の動く気配はなかった。
その間も、左目から溢れる血だけが絶え間なく流れ落ちていた。
「逃げようとしても無駄だよ、おじさん」
誰もいないはずの後部座席から、再びあの男の声がした。
背後から粘りつくような視線が首筋を撫でる。
徳倉は頭上にあるバックミラーをゆっくりと覗き込んだ。
後部座席には極めて薄暗かった。
しかし、彼の目には、ウサギの仮面を付けた男が座っているように見えた。
男は黒いパーカーを纏い、顔を隠すようにして深くフードを被っている。
「誰だお前」
「いいから、静かにしろ」
男はどこからともなくジャックナイフを取り出して、それを徳倉の首元へそっと押し当てる。
「人を殺したのはこれが初めてじゃないな?」
仮面の男は言った。
続けて、「お前のことは全て調べてある。2年前の殺人が冤罪になって難を逃れたようだな。だからといって、また人を殺すのは何とも頂けない。今回はそんな上手く行かないよ」と話す。
うさぎの仮面を纏ったその奥で、男が鋭く険しい目つきをしているのが分かった。
徳倉は小刻みに身体を震わせながら「わ、わざとじゃないんだ……」と言い返すが、仮面の男は「わざとかどうかなんて心底どうでもいい。他になにか言い残したことはないのか?」と言う。
すると、徳倉は子供のように大粒の涙を流しながら「や、やめてくれ。頼むから殺さないでくれ……。俺が悪かった……」と情けない声を漏らした。
「ああ、分かっているじゃないか。その通りだ。お前が悪い」
そう言って仮面の男は微笑しながら、徳倉の首にナイフを強く食い込ませて、横へスライドさせた。
徳倉はあまりの苦痛に声をあげようとするものの、肺から押し出された息は喉から隙間風のように漏れ出す。
真っ赤な液体が噴水のように湧き出しては、フロントガラスを覆うほど飛び散った。
そのどろどろとした血を眺めながら、ウサギの仮面を付けた男は上着の胸ポケットから携帯電話を取り出し、「任務完了……」と小さく呟いた。
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