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日常崩壊編
炎の薔薇と聖なる夜/紫村 彰研
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「なんだかんだあったけれど、さっきは楽しかったね」
彰研は廊下を歩きながら、和葉に話しかけた。
二人とも片手にリコーダーが入った袋をぶら下げ、もう片方の手には楽譜が挟まれたファイルを抱えていた。
もちろん、音楽室を目指して歩いているのだが、二人の教室から音楽室までは真逆の方向にあるため、本来なら他の選択科目の生徒たちより少し早めに出なければならなかった。
そのため、二人と同じように音楽を選択しているであろう生徒たちは周りに誰一人としていなかった。
シーン、とした廊下に二人の声が反響していた。
「楽しかった……? はあ? どこが? 全く楽しくなかったけど?」
和葉は不貞腐れていた。
彼女は怒ると眉間に皺を寄せる。
彰研はその皺を和葉のチャームポイントだと思っていた。
怒っている和葉を見ると、ついその皺に目が行ってしまう。
でも、きっと皺のことを指摘すると本人は嫌がるだろうから、彰研はそのことずっと黙っている。
「もしかして、まだ怒ってるの?」
「別に怒ってるわけじゃない。ただ楽しくなかっただけ」
明らかに機嫌が悪かったが、先ほどのことを踏まえればそれも無理はないか、と彰研は思った。
もし海良と和葉の間に険悪な空気が流れてしまえば、きっと自分の学園生活は地獄と化すだろうと考え、「まあまあ、海良も悪気があって言ったわけじゃないだろうから、許してあげてよ」と思ってもいない言葉を口にした。
「悪気がなかったわけないでしょ! あんなの悪気の塊よ。彰研だって、蜘蛛が消えた後のあの態度、見てたでしょ? あんなの逆ギレと一緒じゃない」
「ははは、言われてみればそうだね……」
認めるしかなかった。
どうにかして機嫌を取り戻してくれないかと彰研は頭を回転させた。
和葉の好きなものといえば。あれしかない。
「あ、そうだ。今日って13日の金曜日だよね。明日の朝まで四人でホラー映画とか観ない? 気分転換にさ」
「ホラー映画!?」
和葉の重くなっていた眉が勢いよく上がる。
さっきとは見違えるほどに目を輝かせていた。
なんと言っても和葉は屈指の映画好きで、この話題を口にすれば必ず機嫌が良くなることを彰研は思い出した。
「ねえねえ、何見る? 最近のホラー映画は豊作らしいから、いっぱい見たいのがあるんだよね」眉間の皺がなくなった。
「そうなんだね。和葉のおすすめは何?」
「私のおすすめかぁ。そうだなぁ、今年は『空飛ぶゾンビたち』がすごく流行ったよね。私はまだ観てないんだけど、きっと面白いはずだよ!」
きっと風船を括り付けられたゾンビ集団が、ふわふわと宙に浮きながら襲ってくるあの映画のことだな、と彰研は記憶の断片を漁った。
「あ、ああ!あれね。確かにあの映画は面白そうだと思った。ちょっとコメディっぽいやつだよね」
「そうそう!なんてったってミックスセルド映画賞に10部門でノミネートされて6部門受賞した傑作だからね! 元々は低予算のインディーズ映画だったのに、異例の大ヒットで社会現象になったし、絶対面白いよ」
「和葉は本当に詳しいね」
和葉と出会うまでは映画なんてほとんど観なかったため、彼女の熱量にはいつも圧倒された。
「なんか他にはないの? グロくないやつとか」
「じりじり来る怖さが良いんだったら『ローズマリーの赤ちゃん』とか『ゲット・アウト』がいいんじゃない? 2つともね、人間不信になるよ」
「人間不信には、なりたくないな」
和葉が映画の話に盛り上がっていると、背後からある男が近寄ってきた。
「あれ? 黒羽と紫村じゃないか。次の授業は何だ? 音楽か? あまりちんたらしてると遅刻するぞ~」
二人が後ろを振り返ると、そこには担任である飛鳥千尋の姿があった。
相変わらず黒縁のメガネを掛けて、紺色のスーツを着こなしている。
前髪を上げるようにセットされた天然パーマがふわふわと揺れていた。
少し髭が生えてきている様子だったが、なぜか不潔感はなかった。
「成績優秀なお二人さんが遅刻なんてしたら、先生泣いちゃうからな」
「心配しなくてもまだ2分ありますよ」彰研が言う。
「おう、そうかそうか。なら安心だな。そういえば、ふたりはブルースターに住んでるんだよな?」
彼の言うブルースターとは、ミックスセルドの東側に位置する住宅街の名前だ。
他の町に比べて標高の高い場所にあるため、そこに住んでいるだけで「お金持ち」というレッテルを貼られてしまう。
「ええ。そうですけど、それがどうかしましたか?」
「今朝、ブルースターでヘレシー社の社員が"ヤツら"に殺されるっていう事件があっただろ?」
飛鳥は小声で囁きながら、険しい表情を浮かべた。
「ヤツら? 何のことですか?」
「なんだ紫村、お前もしかしてテレビ見てないのか? ナナホシだよ、ナナホシ」
「ナナホシ?」
知らない言葉だった。
彰研は家柄もあって普段からテレビやSNSに触れることがない。
新聞はたまに読むけれど、家にあるのはスポーツ紙だったため、情報の収集が人より遅れていた。
「ああ。ナナホシって言うのはな、無差別に人を殺し回る頭のイカれた集団なんだよ。そんなやつらが、このミックスセルドに潜んでるんだってさ。と言っても、まあ。お前らなら他の生徒に比べてロウズもうまく使いこなせている方だし、自分の身は自分で守れそうから大丈夫だと思うがな。がはははっ」
飛鳥千尋は一通り笑い終えると、「おっと、このままだと遅刻しちまうな。とにかく気を付けるんだぞ。じゃあな」と言いながら、和葉の尻を二回ほど叩いたあと、廊下の奥へと姿を消してしまった。
「あの変態教師、本当に最低。あいつこそナナホシに殺されてしまえばいいのよ」和葉が言う。
彰研は苛立つ和葉を他所に「ねえ、和葉はナナホシのこと知ってたの?」と問いかけた。
「当たり前でしょ。あんな不快なニュースが連日報道されてたら嫌でも目に留まるわよ。だいたい何よ、ナナホシって名前。そんな良いもんじゃないわよ」
和葉は床に転がっていた消しゴムを蹴り飛ばしながら言う。
消しゴムは廊下の壁に激突し、再び和葉の方へと転がった。
「はははっ、今日の和葉は怒ってばかりだね。もっと笑ってたほうが絶対かわいいのに」
「余計なお世話です。あんたこそ一日中笑ってばかりじゃない。やめてよ、そういうの。ほんと男って疲れる」
「あれ? もしかして今日って笑ったらダメな日だっけ?」
「そんな日あるわけないでしょ」
彰研のきょとんとした表情を嘲笑うかのように、サクラソウにチャイムの音が鳴り響いた。
***
今日の授業は合唱の練習だった。
せっかくリコーダーを持ってきたのに、それを使わないなんて酷い話だと思った。
要らないなら事前に報告してほしい、彰研は心の中で憤りを感じていた。
深呼吸しながら上を見上げると、音楽室特有の波打った天井があった。
そして視線を下ろすと、真っ黒で艶やかなグランドピアノが置かれていた。
そのピアノの前に片手を置いて身体の重心を寄せている大柄な女性が、彰研のクラスを担当している音楽の教師・中曽根 美穂子だ。
白髪混じりで、くせっ毛の黒髪が肩の下まで伸びており、ラージサイズのワンピースを身に纏っている。
彼女が声を発するたびに、その服が脈打つように靡いていた。
その声は非常に大きい。
そして喉が太いため、大柄の体格と合わせて、誰かが「中曽根クジラ」などというひどいあだ名を付けていた。
しかし、なぜか彼女はそのあだ名が気に入っている。
彼女の歌声は、まるでひとつの山の端から端まで届くような力強さがあった。
決してロウズのパワーではなく、全ては彼女が鍛え上げた実力だというから驚く。
実際、彼女はとにかく歌が上手い。
地響きのような低音から、モスキート音のような高い声まで、自在に操ることができた。
初めて彼女の歌声を生で聴いたとき、あれは古いジャズの曲だったが、彰研は涙が止まらなくなった。
彼女の歌声には、人々を引き込む魅力があった。素晴らしい歌手である。
リコーダーがいらないという報告がなかったことに対しては不満こそあるものの、彼女に対しては尊敬の念の方が大きいため、ひどく責める気にはなれなかった。
「今日から練習する曲は〈炎の薔薇と聖なる夜〉よ。歌詞はみんな知っていると思うけれど、パート分けが少し複雑だから覚悟しておいてね。それに、一部の人には演奏もしてもらうわ」
ああ、毎年クリスマスに街中で流れるあの曲か。
彰研の脳裏には冬のショッピングモールの景色が浮かんだ。
親子が一緒に歌詞を口ずさみ、手を繋いで歩くカップルの姿が目に浮かぶ。
きっと、ミックスセルドの住人なら、この曲を聴いただけで、それぞれの冬の思い出が蘇るはずだ。
まさに、この曲はこの街に根付いた象徴的なものだった。
この曲の誕生は、かつての王国時代にさかのぼる。
王の独裁に不満を抱いた一人の市民が反乱を起こし、その出来事を《炎の薔薇戦争》と呼ぶようになった。
また、その市民が王を討ち、革命を起こした夜は《聖なる夜》と名付けられた。
その市民の男を讃えるために作られたのが〈炎の薔薇と聖なる夜〉という曲だった。
〈小さく輝く希望へ向けて 振り上げた剣が宙を舞う 希望の光は道を示した まるで虹を架ける雨のように〉
この歌詞の一節が好きだ。
彰研はそのフレーズを聞くたび、なぜか海良が剣を構えて鎧を纏う姿が浮かんでしまう。
それは、現実の海良とは似ても似つかない、あまりに高潔で孤独な勇者の姿だった。
しかし、なぜか違和感がなかった。
自分でも分からないこの感覚が、胸の奥で小さな棘のように刺さっていた。
それが痛いのではなく、くすぐったかった。
ふと隣を見ると、和葉が冷たい視線を向けていた。
顔を見てみると、怪訝な顔で「なに笑ってんの?」と口パクで言っていた。
きっと、にやにやしていたのだろうと思って、彰研は表情を固くした。
「なんでもないよ」
彰研は誤魔化すけれど、和葉の怪訝そうな表情は変わらなかった。
「それじゃ、ええっと、ピアノを演奏できる子は……いるかな? いないよね? 今回も紫村くんでいいかな?」中曽根先生が言った。
その瞬間、彰研の背筋が伸びる。
「え、またですか!?」
彰研の声が上ずった。
3ヶ月前にも全く同じことがあった。
あの大会では最近流行りの恋愛ソングを合唱したのだが、当日の彰研が体調が万全ではなかったため、惜しくも準優勝になった。
きっと、そのリベンジも兼ねて中曽根先生は再び自分を選んだのだろう、と彰研は思った。
「流石に2大会連続は難しいか」
「別に難しくはないですけど……」
「じゃあ、ピアノは紫村くんで決まりね」
中曽根先生はそう言うと、カバンの中から分厚い楽譜を取り出して、それを彰研に渡した。
受け取った楽譜には、複雑な音符が並んでいる。
それを見た瞬間、彰研はしばらく練習に明け暮れることを覚悟した。
「また覚えなきゃいけないのか。大変だね」和葉が言う。
「仕方ないよ。他にピアノを弾ける人がいないんだから。それに、僕は小さい頃からピアノを習わされていたから、きっとこれも運命なんだよ」
「運命、か。確かに前回も彰研のピアノのおかげで準優勝できたようなものだもんね。私は彰研のピアノの音色がすごく好き。彰研みたいに繊細で綺麗だなって思う」
「はは、ありがとう。そう言ってもらえるとやる気が出るよ」
みんなが「できて当たり前」と思っているなか、和葉のように素直に伝えてくれる人がいるのは嬉しかった。
「うん!応援してるからね」
「ああ、頑張るよ。だから、和葉もちゃんと歌うんだよ」
「任せてよ。私、歌には結構自信があるんだから!」
過去に何度か和葉とカラオケに行ったことがあるが、言われてみれば彼女の歌は上手だった。
中曽根先生の透き通るような歌声とは違って、和葉の歌声は力強く、太陽のように明るい。
天まで突き抜けるような声をしている。
一方で、海良の歌はお世辞にも上手いとは言えないが、いつもビジュアル系のバンドの曲ばかり歌っているので、たぶんそれが原因だろう。
歌いたい曲と歌える曲というのは別物なのだ。
深槻に関しては、彰研と同じく流行りの曲をあまり知らないらしく、可愛い声で童謡を歌っている。
『もりのくまさん』が十八番だとかなんとか言っていたのを覚えている。
彰研も歌には自信がなかったが、少なくとも海良よりは歌えると思っているし、自分にはピアノがあるからそれで十分だと考えていた。
歌うことに比べれば、演奏している方が楽だった。
「それじゃ、一度合わせてみましょう」
中曽根先生が言うと、彰研は慌ててその場を離れ、ピアノの椅子に座った。
先生が人差し指を指揮棒のように見立てて合図を送ると、彰研はそれに合わせて演奏を始めた。
ここで失敗したら大変だ。
たかが練習にも関わらず、緊張感がピリッと空気を支配していた。
彰研は、さっき渡されたばかりの楽譜を何度も弾いているかのように軽快な指さばきで音を奏でた。
その音に合わせて、生徒たちは歌い始める。
〈広大な大地に生まれし英雄を 如何に褒め称えるべきか 有難く生きることこそが 我々が汝に出来ること〉
ここが嫌いだ、と彰研は思いながらピアノを弾く。
自分が生きているのは他人のためではなく、ただ自分のためだ。
生きることに対して理由や目的を作ってしまうと、いつかそれが死ぬ理由に変わってしまう気がするからだ。
―― ダァンッ。
ピアノの不協和音とともに、全員の歌声が止まった。
そして、全員の視線が一斉にこちらに向けられた。考え事をしていたせいで、指が回らず、無意識に手を止めてしまった。
「あ、す、すみませんっ。間違えました」
彰研らしくないミスに、みんなの表情が少し曇った。
みんなを不安にさせないように、彰研はあえて照れくさく謝ったが、空気は戻らなかった。
その様子を見て、和葉が「なーんだ。彰研も人間らしいところあるじゃん!」と笑いながら野次を飛ばした。
「あ、当たり前だろ!」
彰研が勢いよく返すと、みんなが笑い出し、音楽室の空気が一気に温かくなった。
中曽根先生は一息ついてから、ぱちんと手を叩きながら「はい、じゃあもう一度歌うわよー。彰研くん、大丈夫?」と言う。
「任せてください。次は間違えません」
「ほんとかよー!」
「もうミスるなよー!」
生徒たちの中からそんな声が聞こえてきた。
「今言ったやつら、覚えとけよー!」
彰研がそう言うと、再び中曽根先生は指揮棒のように人差し指を立て、合唱が始まる合図を送った。
彰研は廊下を歩きながら、和葉に話しかけた。
二人とも片手にリコーダーが入った袋をぶら下げ、もう片方の手には楽譜が挟まれたファイルを抱えていた。
もちろん、音楽室を目指して歩いているのだが、二人の教室から音楽室までは真逆の方向にあるため、本来なら他の選択科目の生徒たちより少し早めに出なければならなかった。
そのため、二人と同じように音楽を選択しているであろう生徒たちは周りに誰一人としていなかった。
シーン、とした廊下に二人の声が反響していた。
「楽しかった……? はあ? どこが? 全く楽しくなかったけど?」
和葉は不貞腐れていた。
彼女は怒ると眉間に皺を寄せる。
彰研はその皺を和葉のチャームポイントだと思っていた。
怒っている和葉を見ると、ついその皺に目が行ってしまう。
でも、きっと皺のことを指摘すると本人は嫌がるだろうから、彰研はそのことずっと黙っている。
「もしかして、まだ怒ってるの?」
「別に怒ってるわけじゃない。ただ楽しくなかっただけ」
明らかに機嫌が悪かったが、先ほどのことを踏まえればそれも無理はないか、と彰研は思った。
もし海良と和葉の間に険悪な空気が流れてしまえば、きっと自分の学園生活は地獄と化すだろうと考え、「まあまあ、海良も悪気があって言ったわけじゃないだろうから、許してあげてよ」と思ってもいない言葉を口にした。
「悪気がなかったわけないでしょ! あんなの悪気の塊よ。彰研だって、蜘蛛が消えた後のあの態度、見てたでしょ? あんなの逆ギレと一緒じゃない」
「ははは、言われてみればそうだね……」
認めるしかなかった。
どうにかして機嫌を取り戻してくれないかと彰研は頭を回転させた。
和葉の好きなものといえば。あれしかない。
「あ、そうだ。今日って13日の金曜日だよね。明日の朝まで四人でホラー映画とか観ない? 気分転換にさ」
「ホラー映画!?」
和葉の重くなっていた眉が勢いよく上がる。
さっきとは見違えるほどに目を輝かせていた。
なんと言っても和葉は屈指の映画好きで、この話題を口にすれば必ず機嫌が良くなることを彰研は思い出した。
「ねえねえ、何見る? 最近のホラー映画は豊作らしいから、いっぱい見たいのがあるんだよね」眉間の皺がなくなった。
「そうなんだね。和葉のおすすめは何?」
「私のおすすめかぁ。そうだなぁ、今年は『空飛ぶゾンビたち』がすごく流行ったよね。私はまだ観てないんだけど、きっと面白いはずだよ!」
きっと風船を括り付けられたゾンビ集団が、ふわふわと宙に浮きながら襲ってくるあの映画のことだな、と彰研は記憶の断片を漁った。
「あ、ああ!あれね。確かにあの映画は面白そうだと思った。ちょっとコメディっぽいやつだよね」
「そうそう!なんてったってミックスセルド映画賞に10部門でノミネートされて6部門受賞した傑作だからね! 元々は低予算のインディーズ映画だったのに、異例の大ヒットで社会現象になったし、絶対面白いよ」
「和葉は本当に詳しいね」
和葉と出会うまでは映画なんてほとんど観なかったため、彼女の熱量にはいつも圧倒された。
「なんか他にはないの? グロくないやつとか」
「じりじり来る怖さが良いんだったら『ローズマリーの赤ちゃん』とか『ゲット・アウト』がいいんじゃない? 2つともね、人間不信になるよ」
「人間不信には、なりたくないな」
和葉が映画の話に盛り上がっていると、背後からある男が近寄ってきた。
「あれ? 黒羽と紫村じゃないか。次の授業は何だ? 音楽か? あまりちんたらしてると遅刻するぞ~」
二人が後ろを振り返ると、そこには担任である飛鳥千尋の姿があった。
相変わらず黒縁のメガネを掛けて、紺色のスーツを着こなしている。
前髪を上げるようにセットされた天然パーマがふわふわと揺れていた。
少し髭が生えてきている様子だったが、なぜか不潔感はなかった。
「成績優秀なお二人さんが遅刻なんてしたら、先生泣いちゃうからな」
「心配しなくてもまだ2分ありますよ」彰研が言う。
「おう、そうかそうか。なら安心だな。そういえば、ふたりはブルースターに住んでるんだよな?」
彼の言うブルースターとは、ミックスセルドの東側に位置する住宅街の名前だ。
他の町に比べて標高の高い場所にあるため、そこに住んでいるだけで「お金持ち」というレッテルを貼られてしまう。
「ええ。そうですけど、それがどうかしましたか?」
「今朝、ブルースターでヘレシー社の社員が"ヤツら"に殺されるっていう事件があっただろ?」
飛鳥は小声で囁きながら、険しい表情を浮かべた。
「ヤツら? 何のことですか?」
「なんだ紫村、お前もしかしてテレビ見てないのか? ナナホシだよ、ナナホシ」
「ナナホシ?」
知らない言葉だった。
彰研は家柄もあって普段からテレビやSNSに触れることがない。
新聞はたまに読むけれど、家にあるのはスポーツ紙だったため、情報の収集が人より遅れていた。
「ああ。ナナホシって言うのはな、無差別に人を殺し回る頭のイカれた集団なんだよ。そんなやつらが、このミックスセルドに潜んでるんだってさ。と言っても、まあ。お前らなら他の生徒に比べてロウズもうまく使いこなせている方だし、自分の身は自分で守れそうから大丈夫だと思うがな。がはははっ」
飛鳥千尋は一通り笑い終えると、「おっと、このままだと遅刻しちまうな。とにかく気を付けるんだぞ。じゃあな」と言いながら、和葉の尻を二回ほど叩いたあと、廊下の奥へと姿を消してしまった。
「あの変態教師、本当に最低。あいつこそナナホシに殺されてしまえばいいのよ」和葉が言う。
彰研は苛立つ和葉を他所に「ねえ、和葉はナナホシのこと知ってたの?」と問いかけた。
「当たり前でしょ。あんな不快なニュースが連日報道されてたら嫌でも目に留まるわよ。だいたい何よ、ナナホシって名前。そんな良いもんじゃないわよ」
和葉は床に転がっていた消しゴムを蹴り飛ばしながら言う。
消しゴムは廊下の壁に激突し、再び和葉の方へと転がった。
「はははっ、今日の和葉は怒ってばかりだね。もっと笑ってたほうが絶対かわいいのに」
「余計なお世話です。あんたこそ一日中笑ってばかりじゃない。やめてよ、そういうの。ほんと男って疲れる」
「あれ? もしかして今日って笑ったらダメな日だっけ?」
「そんな日あるわけないでしょ」
彰研のきょとんとした表情を嘲笑うかのように、サクラソウにチャイムの音が鳴り響いた。
***
今日の授業は合唱の練習だった。
せっかくリコーダーを持ってきたのに、それを使わないなんて酷い話だと思った。
要らないなら事前に報告してほしい、彰研は心の中で憤りを感じていた。
深呼吸しながら上を見上げると、音楽室特有の波打った天井があった。
そして視線を下ろすと、真っ黒で艶やかなグランドピアノが置かれていた。
そのピアノの前に片手を置いて身体の重心を寄せている大柄な女性が、彰研のクラスを担当している音楽の教師・中曽根 美穂子だ。
白髪混じりで、くせっ毛の黒髪が肩の下まで伸びており、ラージサイズのワンピースを身に纏っている。
彼女が声を発するたびに、その服が脈打つように靡いていた。
その声は非常に大きい。
そして喉が太いため、大柄の体格と合わせて、誰かが「中曽根クジラ」などというひどいあだ名を付けていた。
しかし、なぜか彼女はそのあだ名が気に入っている。
彼女の歌声は、まるでひとつの山の端から端まで届くような力強さがあった。
決してロウズのパワーではなく、全ては彼女が鍛え上げた実力だというから驚く。
実際、彼女はとにかく歌が上手い。
地響きのような低音から、モスキート音のような高い声まで、自在に操ることができた。
初めて彼女の歌声を生で聴いたとき、あれは古いジャズの曲だったが、彰研は涙が止まらなくなった。
彼女の歌声には、人々を引き込む魅力があった。素晴らしい歌手である。
リコーダーがいらないという報告がなかったことに対しては不満こそあるものの、彼女に対しては尊敬の念の方が大きいため、ひどく責める気にはなれなかった。
「今日から練習する曲は〈炎の薔薇と聖なる夜〉よ。歌詞はみんな知っていると思うけれど、パート分けが少し複雑だから覚悟しておいてね。それに、一部の人には演奏もしてもらうわ」
ああ、毎年クリスマスに街中で流れるあの曲か。
彰研の脳裏には冬のショッピングモールの景色が浮かんだ。
親子が一緒に歌詞を口ずさみ、手を繋いで歩くカップルの姿が目に浮かぶ。
きっと、ミックスセルドの住人なら、この曲を聴いただけで、それぞれの冬の思い出が蘇るはずだ。
まさに、この曲はこの街に根付いた象徴的なものだった。
この曲の誕生は、かつての王国時代にさかのぼる。
王の独裁に不満を抱いた一人の市民が反乱を起こし、その出来事を《炎の薔薇戦争》と呼ぶようになった。
また、その市民が王を討ち、革命を起こした夜は《聖なる夜》と名付けられた。
その市民の男を讃えるために作られたのが〈炎の薔薇と聖なる夜〉という曲だった。
〈小さく輝く希望へ向けて 振り上げた剣が宙を舞う 希望の光は道を示した まるで虹を架ける雨のように〉
この歌詞の一節が好きだ。
彰研はそのフレーズを聞くたび、なぜか海良が剣を構えて鎧を纏う姿が浮かんでしまう。
それは、現実の海良とは似ても似つかない、あまりに高潔で孤独な勇者の姿だった。
しかし、なぜか違和感がなかった。
自分でも分からないこの感覚が、胸の奥で小さな棘のように刺さっていた。
それが痛いのではなく、くすぐったかった。
ふと隣を見ると、和葉が冷たい視線を向けていた。
顔を見てみると、怪訝な顔で「なに笑ってんの?」と口パクで言っていた。
きっと、にやにやしていたのだろうと思って、彰研は表情を固くした。
「なんでもないよ」
彰研は誤魔化すけれど、和葉の怪訝そうな表情は変わらなかった。
「それじゃ、ええっと、ピアノを演奏できる子は……いるかな? いないよね? 今回も紫村くんでいいかな?」中曽根先生が言った。
その瞬間、彰研の背筋が伸びる。
「え、またですか!?」
彰研の声が上ずった。
3ヶ月前にも全く同じことがあった。
あの大会では最近流行りの恋愛ソングを合唱したのだが、当日の彰研が体調が万全ではなかったため、惜しくも準優勝になった。
きっと、そのリベンジも兼ねて中曽根先生は再び自分を選んだのだろう、と彰研は思った。
「流石に2大会連続は難しいか」
「別に難しくはないですけど……」
「じゃあ、ピアノは紫村くんで決まりね」
中曽根先生はそう言うと、カバンの中から分厚い楽譜を取り出して、それを彰研に渡した。
受け取った楽譜には、複雑な音符が並んでいる。
それを見た瞬間、彰研はしばらく練習に明け暮れることを覚悟した。
「また覚えなきゃいけないのか。大変だね」和葉が言う。
「仕方ないよ。他にピアノを弾ける人がいないんだから。それに、僕は小さい頃からピアノを習わされていたから、きっとこれも運命なんだよ」
「運命、か。確かに前回も彰研のピアノのおかげで準優勝できたようなものだもんね。私は彰研のピアノの音色がすごく好き。彰研みたいに繊細で綺麗だなって思う」
「はは、ありがとう。そう言ってもらえるとやる気が出るよ」
みんなが「できて当たり前」と思っているなか、和葉のように素直に伝えてくれる人がいるのは嬉しかった。
「うん!応援してるからね」
「ああ、頑張るよ。だから、和葉もちゃんと歌うんだよ」
「任せてよ。私、歌には結構自信があるんだから!」
過去に何度か和葉とカラオケに行ったことがあるが、言われてみれば彼女の歌は上手だった。
中曽根先生の透き通るような歌声とは違って、和葉の歌声は力強く、太陽のように明るい。
天まで突き抜けるような声をしている。
一方で、海良の歌はお世辞にも上手いとは言えないが、いつもビジュアル系のバンドの曲ばかり歌っているので、たぶんそれが原因だろう。
歌いたい曲と歌える曲というのは別物なのだ。
深槻に関しては、彰研と同じく流行りの曲をあまり知らないらしく、可愛い声で童謡を歌っている。
『もりのくまさん』が十八番だとかなんとか言っていたのを覚えている。
彰研も歌には自信がなかったが、少なくとも海良よりは歌えると思っているし、自分にはピアノがあるからそれで十分だと考えていた。
歌うことに比べれば、演奏している方が楽だった。
「それじゃ、一度合わせてみましょう」
中曽根先生が言うと、彰研は慌ててその場を離れ、ピアノの椅子に座った。
先生が人差し指を指揮棒のように見立てて合図を送ると、彰研はそれに合わせて演奏を始めた。
ここで失敗したら大変だ。
たかが練習にも関わらず、緊張感がピリッと空気を支配していた。
彰研は、さっき渡されたばかりの楽譜を何度も弾いているかのように軽快な指さばきで音を奏でた。
その音に合わせて、生徒たちは歌い始める。
〈広大な大地に生まれし英雄を 如何に褒め称えるべきか 有難く生きることこそが 我々が汝に出来ること〉
ここが嫌いだ、と彰研は思いながらピアノを弾く。
自分が生きているのは他人のためではなく、ただ自分のためだ。
生きることに対して理由や目的を作ってしまうと、いつかそれが死ぬ理由に変わってしまう気がするからだ。
―― ダァンッ。
ピアノの不協和音とともに、全員の歌声が止まった。
そして、全員の視線が一斉にこちらに向けられた。考え事をしていたせいで、指が回らず、無意識に手を止めてしまった。
「あ、す、すみませんっ。間違えました」
彰研らしくないミスに、みんなの表情が少し曇った。
みんなを不安にさせないように、彰研はあえて照れくさく謝ったが、空気は戻らなかった。
その様子を見て、和葉が「なーんだ。彰研も人間らしいところあるじゃん!」と笑いながら野次を飛ばした。
「あ、当たり前だろ!」
彰研が勢いよく返すと、みんなが笑い出し、音楽室の空気が一気に温かくなった。
中曽根先生は一息ついてから、ぱちんと手を叩きながら「はい、じゃあもう一度歌うわよー。彰研くん、大丈夫?」と言う。
「任せてください。次は間違えません」
「ほんとかよー!」
「もうミスるなよー!」
生徒たちの中からそんな声が聞こえてきた。
「今言ったやつら、覚えとけよー!」
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