死にたがりと真の終焉

リグス

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二章

橙に溺れる

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突然だが、俺はいつになく死にたくなっている。
身体中に冷たいものやら何やら詰め込んで、ぐるぐるとした思考で机に潰れる俺の右手には、学校で使用するからと持ってきたハサミがある。それを今にでも自身の腕なんかに刺したい気分に陥っている。
思い返す前に、当たり前のように高峰が近づいてきた。呆れた表情で腕を組み、目の前まで歩を進めると、静かに手を伸ばしてハサミを俺から引き抜いた。
「どうした、お前。随分お疲れな顔をしているな」
聳え立つ高峰を見上げ、唸り声を上げた。
「あぁ、高峰。だってうちのクラス・・・ダンスなんかするんだぞ?」
そう。それはつい五分前までの授業でのことだ。
夏休みも儚く白の闇に飲み込まれ、現在は九月を迎えていた。この時期何があるかというと、連想される通りである。かの有名な地獄の二日間だ。
この二日間はある層には我ら青春の為の大事な大事な一時であり、ある層には退屈で疚しくて熾烈さに目眩さえ起こしそうな期間なのだ。
こんなことなら座学を土日にやらされる方がずっとマシだ。座学は座学で面倒なのだが。
今さっきの授業では、その出し物についてを相談していたのだ。
一年の頃は爪楊枝に色を塗ったものを刺すだけの簡単なモザイクアートだったから、他に何もせずただ先輩達の出し物や模擬店を見てるだけで済んだのだが、二年に上がるとやはりそれで掻い潜れる筈もなく、あえなくダンスに決まってしまった。
女子と男子で別々のダンスを披露し、最後に男女一斉に踊って終了という流れなのだが、男子の部のその選曲が最悪なことに激しい踊りが特徴の韓国アイドルのものなのだ。それに加え、男女兼用のポップなダンスもあるとくれば、気が遠くなって元々皆無の気力がとうとう抜け殻になりそうだ。
「何だ。不満なのか」
何が不満かって、踊るのはさながら、ステージに立って全校生徒の注目を浴びるだなんて真っ平御免である。人前に立つこと、運動神経の悪さが仇となっているというのに、誰が落ち込まずにいられようか。
「高峰は嫌じゃないのかよ」
「それはまぁ・・・嫌じゃないと言えば嘘になるな。だが決まったものは仕方ない、やるしか他にないだろう」
「そう考えられるのが羨ましいや」
「お前こそ、そんな事でもハサミを構えられる程の性根があって羨ましい限りだ。その性根をここでも活かせばいい」
そんな事って・・・。
「その性根とこれは別だろ」
高峰が徐ろにハサミを机に置いた。
「確かに嫌だという気持ちは同じだがな・・・とにかく、深く考えず適当に練習して踊っておけば大丈夫だろう」
「だと良いんだけど・・・室長なら、もっと反対でもすれば良かったのに」
「流石にそれは無理だろう。自己中心的な意見で皆の青春を壊すわけにはいかない」
「青春、ねぇ」
俺は周りの相変わらず楽しそうなだけのクラスメイト達を盗み見た。
「そういえば、体育祭の方は特に何も思わないのか?」
「うっ、・・・言わんといてよ。思わないようにしてたのに」
それまで案じていたらもう座ってすらいられなくなりそうだ。
「どっちの方が嫌なんだ」
それは当然、
「どっちも」
「だろうと思った」
さらりと高峰がそう続ける。
「・・・ところで、今日は寒くないな」
その言葉の意味を瞬時に理解し、傍をこっそり確認してから言った。
「今日は冷えてないんだ」
コハクは一応学校には来ているのだが、ただいま校内を散歩中でここにはいなかった。確か体育が見たいと言っていたから、きっと今は外の方にいるのかもしれない。
もうすっかり学校の雰囲気に慣れてきたらしく、それが災いというのかは不明だが、時々嫌な生徒を見かけるとイタズラをして小さな騒ぎを起こしたりしていた。でも、そのおかげでいじめが発覚して被害者が救われた、なんて話を彼女から聞いたりもする。それなら別に気にする事もないのだろうか。
まぁそれは良いのだが、コハクの口は大事な面では意外にも俺より堅いようで、中々その生い立ちを語ろうとはしなかった。俺もしつこくは尋ねたりしないのだが、大抵誤魔化されて次の話題で壁を張られてしまうのだ。
俺と同じような理由で言いたくないのかもしれない。今はそんな勝手な想像で片付けている。
それに、それどころではない。
当日が来る前に、何とか死ねる方法は無いかと、思い悩むしかなかった。

翌週になり、魔の練習期間が到来した。
普通授業はおざなりに、とにかく体育の部とダンスのレッスンばかりの日々が続いた。この日は他のクラスが体育館を全面使用しているせいで、残暑厳しいグラウンドで一日を過ごさなければならなかった。
運動部の為だけに拡大されたグラウンドに集まり、ダンス係のクラスメイトの指示に従って練習が始まった。
最初は振り付けを慣らすだけで時間を潰せたのだが、この日は水曜日で、もうそろそろある程度覚えていないとマズい状況下であった。焦燥感に胸焼けを起こしそうになりながら、カップ一杯にも無い体力を限界突破で消費していく。
「くるっと回って・・・?で、ポーズ?」
この部分はどうにも覚えられそうになかった。
この曲の振り付けはどうやら高難易度のものらしい。一部は覚えやすいようにダンス係が簡単なものに置き換えてくれているようだが、それでも素人には一週間で身につく代物ではないように思えた。
とにかく動く、動く。脇役でも、あちこち移動しては素早く踊らなければならない。
もう一度全部通すこととなり、遅れを取らぬよう、苦手な部分で慌てて無理矢理ポーズを決めようとするものだから、その場に情けなく尻もちをついてしまった。
遠くで見守るコハクの目が痛い。
「もっと集中しろー、ファイトー!」
そう煽りを入れてくるコハクを恨めしく睨んで、練習を続ける。
皆は俺と違って並行して運動神経も容量も良い。何事も無いように、難しくても手際良く覚えていく。そのおかげでこういう少数が起こすミスは精神に堪えきれないくらい目立つのだ。
何故脳の作りまで皆そっくりなのだろう。無意識に皆と同じ行動と取るなんて、間違って作られた失敗作には気味が悪くて仕方ない。
まるで製造工場で同時に作られた時計・・・いや、時計は物によってはすぐ壊れる。だとすれば何で表せばいい?
ロボット、植物、食品・・・
どれも作られた時の見た目は同じ。だけど、人間とは違って短期間で意思も性質も変わってしまう。
ならば、魚だ。イワシの群れだ。
彼らはいつだって群れを離れず、絶対列を崩さない。全員同じ形の素材で出来た脳だから、上下左右を勝手に進んでくれる。苦悩の無い窮屈な生き物だ。
その踊るイワシの大群に紛れ、メガネをかけた一尾が華麗に舞っているのが目に止まった。些細なミスも動揺せず、ひたすらに動き続けている。
高峰は完璧な素質持ちではないらしいけれど、顔が良いから何をしても様になっているようだった。
彼に好意を寄せる女子も少なくはないのだろう。そいつらとつるんで万々歳にリア充を謳歌すればどんなに幸せか。
勿体ないな、と思いながらも、練習にとにかく身体を酷使させている内に係から休憩が告げられた。喜んで水筒を置いた日陰に行き着いて、その場にへたばった。盲目にお茶を飲み、びしょびしょに汗を溜めた顔にタオルを浸して、グラウンドに残る係の奴らを眺める。いち早く水分にありつきたいだろうに、係揃って次の計画の会議をしなきゃならないのだから、ご苦労なことである。
その視界にやがて高峰が映り、彼らの事などどうでも良くなった。顔を真っ赤にし、襟を扇ぎながら此方に近づいてきている。でも、表情に疲労感は見えなかった。
「・・・やぁ、超人。お疲れ」
高峰が「は?」と言いたげに眉をひそめる。
「何言ってるんだ。疲れすぎておかしくなったのか」
「違いますけど!・・・貴方さんが全然お疲れさんな様子を見せないからですよ」
「いや、俺も中々疲れてるんだが」
「全然見えないよ。だから超人」
「まぁ超人でも何でも良いだろ。・・・それより、ダンスは順調か?」
「全然。苦手な所克服出来てない」
高峰との会話は以前と比べてかなり楽になった。軽くなら冗談も言えるようになり、そのおかげで高峰の圧にも対応出来るようになった。
「あぁ、そういえば躓いていたな。だがそれは仕方ない。自分のペースで、覚えられる範囲で覚えれば良い」
「気楽だねぇ。・・・ま、そうだね、ごもっともだ」
そう言いながら、急に強烈な劣等感を感じた。休憩で緩んだ口元が、ぐっと強ばる。
俺は、その自分のペースがけして通用されないことを知っている。仮にそのペースの許容範囲があるとすれば、イワシの平均に見合った頃合いだ。瓜二つの脳が無ければその労いも浅はかなものだ。
劣等のクラスター、普遍の弾圧。重なり重なり、どんどん俺を焦らせてくる。
それでも、身体も脳も思い通りに動かなかった。
「・・・でも、それじゃ済まされないよね」
「?  何か言ったか」
独り言、と優しく誤魔化しておいた。
少し経って、笛が鳴る。もうじき練習が再開されるみたいだった。タオルと水筒を隅に置いて、高峰と共に戻る途中、ふとこんな話を耳にした。
「私、この前間違えてピーナッツのチョコ食べちゃってさ、手が真っ赤になっちゃったんよね」
「真矢、ピーナッツアレルギーだっけ。うわぁ、大丈夫なん?」
「一応何とか。でも、治りが遅くてちょい辛かったかなぁ」
「気をつけてよー、アレルギーやばいんだから」
俺の傍でついてくるコハクが、俺に怪しげな笑みを向ける。
もしかしたら、俺が考えている事を察知しているのかもしれない。


俺には、はっきりと言える程度のものなのだろうが、病弱な点がある。体力精神共々はご存知通りのこと、風邪を引きやすかったり、腹痛や頭痛を起こしやすい傾向にあった。
それだけに留まらず、難儀なことにアレルギーまである。それが、甲殻類。海老と蟹だ。それらを口に含めば、全身が蕁麻疹を起こし、酷い時には呼吸困難になることがある。
それ故、小中では苦労した。給食に海老が出たら、必ずそのおかずは食べずにいるように心がけた。時折、嫌がらせに白ご飯に海老のおかずを入れられたりして、その日の給食は何も食べられなかった、という事もあった。そもそも自分が甲殻類アレルギーだと知ったのは、彼らに無理矢理それぞれが嫌うメニューの給食を食べさせられた時に発覚したものだった。それに味をしめた彼らが、気分で仕向けていたのだ。
小学生の頃は苦しくて辛いと何度思ったか分からなかった。だが中学生になれば、その時既に死にたいと望んでいたので、されるがままの玩具だった。でも、今があるのは、それも失敗に終わっていたという事を意味する。
蕁麻疹は出るものの、給食の海老に殺傷能力は無かったみたいだった。かなり小ぶりで味の抜けた冷凍の物なので、エキスの加減も弱かったようだ。
高校生になればもうそれから解放され、こうしてじいちゃんの弁当を携えていっているわけだが、伝えさえすれば作らずにいてくれることもきっと可能なのだ。
イコール、その日は何を食べても文句は言われない。仇である食物だってその気になれば試すことも出来る。
・・・なのだが、すぐに実行には至れない。
怖いという理由は論外だ。そんなの今更。
何故?と問われるのが面倒なだけだ。元々じいちゃんと喋る機会がそこまで無いのもあり、言葉を交わすだけの工程にも、肉眼では見えきれない隔たりがある。
言えなくはないけど、遠慮がちになる。まるでただの知り合いのように。
体育祭と文化祭が終了した後にしようか。などと、時間を遅めよう遅めようと検討している間には、もう金曜日だった。ダンスは相変わらず上達には向かわなかったが、それでも一式誤魔化しのいく形にはなってくれた。
その日の過程を終えると、俺は即座に制服を着て教室を後にする。
この五日間の事があって、溜め込んだ疲労は大きい。とりわけ散々使い回した足は、筋肉痛にぎしぎしに締め付けられていた。
足取り重く校門を抜けた所で、コハクが校舎を見上げてこう言い出した。
「あれ、そういや高峰クンは来ないんだね」
いつもならここに並ぶのは三人。俺が当たり屋にならぬよう、警備を兼ねて一緒に帰ることが日頃の習慣だ。
「今日は体育祭の事で室長の集まりがあるんだとよ」
「ふーん、室長やってると大変なのね~」
コハクが他人事のように相槌を打つ。
久々にほぼ一人の下校だ。ほとんど話さず、たまにコハクのおさげがリズミカルに揺れ動くのを目で追って進む。コハクはいつも髪を下ろしているのだが、今日は気分を変えてか三つ編みを両肩に垂らしていた。
「コハク、それ明日もしてるのか」
「ん?あー、多分しないかな」
三つ編みを上下に軽く持ち上げてから、何を思ったのか俺を見てニヤリと笑んだ。
「なぁに、もしかしてこの髪型お好み?それとも私に惚れちゃったのかしら~?」
「全然だから安心してくれ。見慣れないから言っただけ」
「えー、残念!男の子のハートを鷲掴み出来ると思ったのにぃ」
「・・・それ本気で言ってんの?」
尋ねると、コハクが大きく口を開いて笑い声を上げた。
「冗談に決まってるじゃーん。勘違いも良いとこよ!」
「ああ、そう・・・」
先方の横断歩道の信号が赤に点灯した。待つ合間に、俺は人がいないのを確認してこう切り出した。
「次はアレルギー作戦でいこうと考えてるんだ」
唐突な切り出し方だった。しかし、コハクはちっとも戸惑いの色を見せなかった。この子は話が通用すれば冒頭など関係無いのかもしれない。そもそも既に言わずもがなな話なのだ。そこまで顔に出す必要も無いだろう。
「結構ドス黒い方法考えるよねぇ、君も。でも何のアレルギーなの?それで死ぬってなったら、致死のレベルの物じゃないと意味無いよ」
「甲殻類は間違えたら命取りなんだ。とりわけ海老はヤバいだろうな」
「いやぁ、ゾッとするね。怖いと思わないの」
「怖い事なんてないさ。やると決めたらやる」
失敗続きでも、もう何年もやって来ている行為だ。痛くても、願望の為ならどうってこともない。
「まるであの時のハルやんみたいだ」
「あの時?」
「ほら、高峰クンとの初対面の時だよ」
「あ、ああ・・・あれはまぁ、煽られたし」
「彼がここにいたら、きっと『全力で止めてやる』って言い返してただろうね」
「確かにな」とその時の高峰の声音を再生させる。
馬鹿らしい。全力で止めるだなんて。
信号が青になり、知らぬ間にやって来た下校中の小中学生に混じって流れるままに渡る。
人混みに紛れてしまったことにより声が出しづらくなったので、歩く速度を落として彼らが離れていくのを待ってから言葉を繋ぐ。
「コハクって、アレルギーとかあるのか?」
「特に酷いってものは無いね。花粉はちょっぴりあるけど」
「幽霊になったら流石に無くなるよな」
訊くまでもないが、一応問い出してみる。
「そりゃ死んでも反応出たら、何の為の霊体なのよ!幽霊になれば、食べられなくてもどかしかった物も好きなだけ食べられるよ」
「幽霊って不便、無さそうだよなぁ」
だからと言って、望むわけではないが。
「それで、作戦としてはどういうプラン?」
「祭りが終わった後の日からだな。じいちゃんに前日に弁当いらないって伝えて、コンビニでそれらしい物を買って隠れて食べる、って筋かな」
無論コンビニ弁当の食品も冷凍がほとんどなのだろうが、給食のような質素な代物は使われていないだろう。それなりの味が出せるように冷凍といえどエキスの量は半端ではない。きっと。実際にアレルギー持ちの人間がそういった商品を口にして死んだ、なんて記事も最近チェックしたばかりだし。
「それらしいって、海老の入ったやつ?エビフライ弁当とか?」
「そうだな。そうじゃなくても、パスタやおにぎりにも入ってる。選択肢は色々あるだろ」
「あれって普通に食べようと買おうと思ったら辛いだろうなぁ。食べたいのに難敵が入ってるから買うに買えないなんてさ」
それはそうだ。比較的出現率の低い落花生や蕎麦はまだしも、その他の食物はどこに含まれているか、繊細な判断がいる。海老は時々安いラーメンや鍋つゆにこっそり入れられていることがある。アレルギー持ちにはその見極めが不可欠なのだ。
「躊躇ったりしないんだね。自らアレルギーの基を見据えて買う事」
「全然ってわけではないけど、妥協だよ」
自分の指がそれに触れていると想像しただけで少し鳥肌が立つが、振り切る。
「じゃあ楽しみだね。今度は高峰クンに知られないようにね~」
身内に言うようであって、他人事のようにも言っているような口振りでコハクが告げる。
「分かってるよ」と、コハクの妙な口調に応じたのだった。
抜けるような青空が憎たらしい程に今日という一日をはっきり染め上げる。対して地上は、人という名の暗雲で覆われ荒れていた。
定期的に謎に上げられる奇声は雷、笑い声に潜在する胸の高鳴りは霰、台の傍で旗を構える生徒は太陽と風。それぞれが著しい動きで駆け巡り、予報するにも追いつかない。このまま行けば、このグラウンド、いや学校丸ごと地割れで滅んでしまいそうだ。
覆われた雲の中で、薄く雨が振っている。それは多分俺だ。露になっている言葉で表現しづらい嫌悪感が、一つ雨雲を作って雨粒を振らせていた。
あぁ、とうとう現実が来た。
朝から体操服に身を拘束され、すっかり装飾されたグラウンドのテントの中で、俺は背中に岩石を背負う想いで座っていた。遠方にも近辺にも見える微妙な位置では、高峰がクラスメイトと何人かと話をしていた。ここに来てからかれこれ二十分程経つが、未だに微塵も離れずそこで口だけ動かしているようだった。
流石にこの密集テントでは空と話すわけにはいかないので、たまに顔を見合わせるだけでお互い黙っていると、その内に話を終えてきた高峰が俺の横にある僅かな隙間に座った。
「もうじき始まるぞ」
どかぁぁぁ、と盛大にため息を吐き出した。
この前から散々嫌々となっているのを知っているくせに追い打ちをかけるようなことを言ってくるなんて。
「もうやだ帰りたい・・・」
この一週間疲れ果て過ぎて過労死を刹那期待したが、当日も何事も無く生きている。それが更に嫌悪感に拍車をかけた。
「あぁ・・・今日はどう耐えよう」
答えがすぐ見つかる訳もなく淀むと、高峰が半ば諦めたように言った。
「耐えようと考えないことだ。俺はもう無心だ」
「んなこといってもさぁ」
「それくらいお前の性根でやれるだろ」
「んもう、高峰クンったら冷たーい」
ちなみに今のは俺じゃない。コハクが代わりに個性ある返しをしてくれた。
「・・・それで、開始まであと何分?」
高峰がスマホで時間を確認した。周りの空気が一層重く強まっているのが感じられた。
「あと数秒だな」
「えっ!」
思わず高峰の方に振り向いた瞬間、魔のチャイムが鳴って、ノイズの入り組んだ放送が流れた。力んだ声のせいで驚いた周りが慌ててスマホをしまっていく。
そして全校生徒が一斉に入場門にぞろぞろと向かい、バラバラと整列していく。俺も高峰に引っ張られて自分達の列に並び、遠くで手を振るコハクをまた恨めしい目で眺めた。
再び力の入った放送が響き渡り、校内中を騒然に仕立てあげた。



「やー、ハルやんお疲れっ!」
ごちゃごちゃに掻き回された思考の中を彷徨いながら自分の種目の大部分を終え、テントに戻った途端、誰も振り返ることのない中でそんなハツラツと声をかけてくるのは、コハクしかいない。
いつの間にかなぎ倒されている自分の水筒を手にし、勢いよく喉に流し込んでから、自分が出場する種目の残機の確認をした。
二年は他の学年より種目が多い。しかもそれがとりわけ、男子に降り掛かってくるのだ。
足が遅い理由でリレーは免れたけど、それ以外の種目は余った男子は強制で参加させられることになっていた。明るいタイプの男子もまたリレーのアンカーを同時に行ったりと、結局どういうタイプでも大疲れな結果なのだ。
俺が、いや、二年男子が参加の種目は、この後午後の部に一つだけまだ控えていた。
それは騎馬戦だ。学校で個人差があるだろうが、うちは二年がそれをすることになっていた。
下でただ動いていればまだ楽なのだ。そう、足が遅くても走れれば良いだろうから。
なのに、俺は面倒な大役を押し付けられてしまった。
体重の軽さだけで、まさか上で帽子を取らなければならないだなんて決められて。
こんな重要な責任をそんな軽率な理由で擦ろうとするなんて、彼らは勝ちたいと思っていないのだろうか。
・・・いや、グループ分けから見て、単に余りものを生贄として差し出すつもりなだけか。
「あぁ、なんで俺が騎馬戦なんか・・・」
もし体格の良い奴に狙われたらどうしよう。
・・・確実に真っ先に叩き落とされてしまうだろうな。
あぁぁぁ、と心の中で憂鬱に呻いた。

駿馬が駆けていくようなスピードで午後の部が到来してしまった。
呻きが叫びに変わり、アナウンスが聞こえてもテントの支柱にギリギリまで粘りついた。が、ある者にあっという間に剥がされて列に並ばされた。しかし、当の彼は仕切り役として出ることになっているらしく、あっさりと場外へ抜け出てスタンバイを始めた。
この時のみ共に協力し合うというクラスメイト達と言葉無しに場内へと向かい、奥の方で既に威厳を構える別の組に若干怖気付きながら、胸に空気を詰まらせその時を呪った。
俺はあまり騎馬戦のルールを知らないが、俺にとってはそこまで重要ではない。早く犠牲になってしまえば後はそこで見ているだけで良い。でもそれまでがどうしようもなくかったるくて何よりの面倒事だ。
俺がいるペアは二番手グループなので、まずは先手グループを何の緊張感も持たず眺めているだけだったが、不意に俺の前にいた同じペアの奴が俺に振り向いた。
「顔は攻撃しちゃ駄目だからな」
そう唐突に忠告され、おどおどと頷くしか出来なかった。
何故急にそんな事を言われたのか理解出来ないが、まず触れることすら出来ないだろうに、そう告げられても困るだけだ。
困るし、変なプレッシャーがかかってくる。
あーいやだなぁ。
そう思う頃には既に一回戦は終わっていた。どうやらうちが勝ってしまったらしい。その為、自分達の出番は一層早まってしまった。
遂に出番がやって来ると同時に、ペアの二人が俺をひょっと担ぎ上げる。この二人はわりかし大人しい性格っぽいのだが、どうにも思考は違うらしい。
視界が高く、時々おぼつかない。練習は何度かしてはいるが、これには未だに目眩を起こしそうだった。
同じ目線にいる味方と敵を交互に見る。不安が最高潮にピークを迎え始めるのを感じる。
それをよそに、審判が開始のピストルを撃った。下で担ぐ二人が勢いよく敵の方へと駆け出していく。
他の奴らも一斉に闘牛の如く猛進していき、テント中から歓声が溢れた。
ぐわんぐわんとなって安定しない体勢をやっと持ちこたえ、二人に連れられるまま戦場をあちこちまわり始める。
メインの敵は雑魚相手には目もくれない。一番手に俺の目の前に立ち塞がったのは、細々とした見た目の出で立ちをした男だった。
じりじりと睨み合い、だがお互いに手を出せずに時間だけが刻一刻と過ぎていく。ようやく此方が隙を見て手を伸ばそうとするが、男と目がばっちり合うと、反射的に手が一瞬震えて、サッと引っ込ませてしまった。
じゃれあいにも満たない謎の間を見せられて苛立っているのだろう。足元の一人が叫ぶように言った。
「北沢!早く取れ」
「あ、うん、」
焦りで頭を真っ白にしながら、無理矢理身を乗り出して攻撃を試みようとした。
が、その時にはもう男の頭にある筈の帽子は消えていた。
男とそのグループ二人は時が止まったように硬直していた。それからすぐ、ハッとなってがらがらと地面に崩れ落ちていく。
その姿にゾッと感じたその時、崩れた土石を踏むようにして聳える巨大な影を見た。顔を向けると、味方のグループの大玉が帽子を手にし、ニカッと爽やかに笑っていた。
彼はうちのクラスメイトではない。同じ組に組み分けされた別クラスの奴だ。どこかの運動部の名の知れたエースらしいが、知る限りはかなり抽象的だ。名前自体も知らない。ただうちのクラスに度々遊びに来ているのを見かけたことがあるので、顔とその噂だけははっきりしていた。
彼らは俺や他二人が何事か発する前に新しい敵に狙いを定めて去っていってしまった。
「俺らも行くぞ」
その後も少なからずにも攻防戦を仕掛け仕掛けられ、運良く(?)最後の方まで生き残ることが出来た。こんな弱いペア組みでもここまで残留しているのが意外なのか、帽子を取られた仲間がそれぞれに目を見張っていた。
敵はもう強者しか残っていないようだ。対する此方にも俺らを除けばそれらしいグループしかいない。それを見れば、これは本当に奇跡なのだろう。
でもそろそろ取られて終わりにしたいというのが本音だった。体力はとうに絞り出して、その残骸さえも消耗してしまいそうな域まで到達していた。
誰かさっさと取ってくれないかと彷徨いていると、そこで出くわした敵に無意識に肩を弾ませた。
年季のありげなキズ入りの坊主頭にいかつい体格の男。柔道部に入っていない方がおかしいと感じるその風貌が俺の頭の上を捉えている。
その一度握り締めただけであらゆる物を破壊する剛腕を持っていそうな手が荒ぶりながら次々と伸びていく。
あまりの勢いに、泣きそうになりながらそれに抵抗する。ただ避けるだけの貧弱な野ねずみを捕らえるのに、豪然なゴリラが長く時間を有することはなかった。
ただそれが、どうも力余ってしまったようだった。
「うおぉらぁぁ!!」
その咆哮と共に、再びゴリラの手が、俺の頭へと。
「────ぇ」
その声の持ち主は、今のゴリラのものだった。彼が咆哮を上げて間もなくの事だった。
伸びた手が、頭ではなく、俺の左の頬に直撃したのだ。
突然の精鋭な激痛と、角張った彼の手の感覚が迸る。それと同時、下の二人がバランスを崩して倒れ、俺はその後に続いて落下していった。
周りの熱気、霞む視界、叫び声、砂埃。
急に灰色になった空へ感想も述べる暇もなく、ただ記憶が飛んでいくことだけを映して、ゆっくり、ゆっくりとフェードアウトしていった。



じんじんとする頬の痛みが、目覚めと共に徐々に開けてくる。手や足を少し動かすと、一瞬力んで、すぐ抜けた。影の先にある光を辿って、役に立たないそよ風が顔を吹き付けた。
まだ朦朧とした意識は、痛覚がある事実を無視しここが天の国だと錯覚しようとしていた。
「北沢、大丈夫か」
死を期待する気持ちが芽生えたところなのに、その声のせいでそれが隅に跳ね除けられてしまった。
汗を滴らせながら、彼は団扇を俺に向けて扇いでいる。
「・・・あれ、なんで、」
寝た状態のまま周辺を見渡すが、ゴリラの姿はなかった。それどころか土台役もいなかった。その際に、ここが救済用のテントの中ということに気がつく。
「地面に派手に落ちたんだ。それを俺がここまで運んだ」
そう答え、そっと俺の上半身を起こさせた。次いで俺の水筒を手渡す。
「・・・運んできた?」
水筒を受け取って、訊く。
高峰の顔は、日焼けのせいか、耳まで赤く染め上がっていた。
「なんだ、まさかこの期に及んでも不満があるのか」
高峰が顔をしかめる。恐らく、死ねなくて残念だと俺が考えていると予想しているのだろう。アタリだ。
「無いです無いです。それより・・・騎馬戦終わったの?」
「ああ。あの後も引き続き行われて、結果的にはうちは二位だった」
「一位はやっぱり、さっきの組かな」
「いや、意図的ではないとはいえ怪我を負わせたから失格になったみたいだ」
「あらら、それは気の毒に・・・」
別に俺なんか放ったらかしでそのまま続けてしまえば良かったのに。何だか俺より彼が可哀想だ。
「だがそれは妥当な判断だ。人を殴って叩き落としたんだ。気の毒なのはお前の方なんだからな」
珍しく無慈悲に言い放つ高峰は、グラウンドの方に目を向け、そのどこかをじっ、と睨んでいるように見える。
俺もグラウンドに振り向く。現在は一年生による毎年恒例の地域ダンスが披露されているようだ。
「高峰、もしや運んでからずっとここにいたりする?」
このテントの中には俺と高峰以外誰もいなかった。自分の組のテントはこの角度からは見えそうにない。
「ああ。先生に任されたからな。ついでにテントの留守番も兼ねている。やる仕事もなくなったから、閉会式まではここにいるぞ」
「・・・そりゃあご苦労様」
よっこらせ、と横になると、床についた方の膝から傷みが来た。頬以外にも、足も擦りむけてしまったらしい。
一度身体を休ませると、その場から離れたくないと反応を起こし始めた。気だるく、重々しい。熱に浮かされたように、へばりついたままだ。
「なぁ、北沢。お前は自らだけではなくて、周りからも危害が及びやすいんだな」
妙な質問をしてくる高峰を見上げた。
「え?そりゃあ、自虐も元は周りからの危害が一因ってのが定番だろ。あんな一回殴られたくらい、慣れたもんさ」
それ無くして自分の存在価値を見出せる人もそうそういないだろう。それに、たった数年前まで俺はあれ以上の悪業を仕向けられてきた。さっきのは不慮の事故というだけで、恨もうとも頭に浮かばなかった。
高峰が手を顔に埋め、分かりやすく呆れた時のため息を吐く。
「・・・お前、事情を教えないくせに意味深に唆してくるな」
「唆す?なんでよ、ただ答えただけじゃん」
「俺としては聞き慣れん言葉ばかりだ」
「高峰が違う人種だから慣れないだけだって」
「はぁ?なんだその違う人種って」
こいつには案外疎い部分があるのかと哀れに思いながら、視線を外した。
「さあね。別に知らなくても良いんじゃない。ついでに俺も捨て置いてくれれば良いのに」
「何、何だって?」
見ずとも高峰がかなり不機嫌な表情を浮かべている様子が如実に伝わる。熱にやられた汗と冷や汗が混ざり、けして目を合わさぬようにコソッと言う。
「お気になさらず・・・」
そんな事はさておき、明日に控えた苦行の事に身を案じることにした。
この体育の部が始まった時点で地獄までのカウントダウンもどんどん進んでいる。明日になって全校の前でどんな恥をかくのだろうと悩んでいると、ふとこの足の事に気がついた。が、虚しいことに、足をばたつかせると膝の痛み以外どこにも異常無さそうだった。
それに、この事は高峰以外知る由もない上、知ったとしても三秒くらいで忘却されてしまうだろう。都合の悪い事には急に鳥頭を装うのが彼らだ。
あぁ、今日の内にインフルエンザにでもならないだろうか。
或いはいっその事明日までにあの作戦を実行してしまおうか。
帰りに買って、夜こっそりコロッと倒れたら間に合うだろう。
そうしようそうしよう。そもそも最初からそうすれば良かったのだ。
んーー、と喉奥から声を出しながら顔をちょっと上げると同時、高峰がメガネのガラスを光らせながら一言放った。
「今日は片付け終わるまで待っとけよ」
その意味は概ね察したが、軽く先延ばしにする。
「えぇ、今日も一緒に帰るの」
「今日は迎えか?」
「いや、違うけど・・・」
「なら良いだろう。それに、この期間中のお前は何を仕出かすか分からない。明日が嫌で当たり屋みたいにでもなったら大迷惑だろ」
予定とは違うが、彼には大体動きを予測されているらしい。
「高峰も大変だなぁ」
「お前が行動を起こそうとしなければこんな苦労も無い」
他人事のように言うな、と正論を返される。
心中で、そう言われても、とそれ以上を諦めた。


結局何も成すことは出来ず、残酷に翌日を迎えてしまった。そして言うまでもなく、練習の時と同じ要領でステージという名の断頭台に上がり身体を動かした。
それでもどうにか成功に終わり、後遺症の筋肉痛に身を滲ませながらも午後の終了まで学校にいることが出来た。
だが肝心の拠り所である出店にはほとんど目に止めなかった。そこまで買う意欲が湧かなかったから、代わりにコハクに小遣いを少々やって自分の分も飛び回ってこいと校内中に放り出すことにしたのだ。
恐らくコハクにとっては良い思い出になったのではないだろうか。妹や自分の子供を見下ろす目線で、その時そう思った。

さて、今年の魔の二日もこれでおしまい。ようやく予定していたアレを執行する時を迎えられる。
事の始まりは、まずはじいちゃんへの伝達からだ。
前日の夜、自室で言い訳をあれこれ作成してから、じいちゃんのいる一階へとコハクと共に降りる。どこにいるのかとリビングへ向かうと、目的の相手はすぐ発見出来た。俺の気配には気づかず、ソファーに横たわり野球にくらいついているようだった。
じいちゃんは大人しい性分のわりに昔はバリバリのスポーツマンだったらしい。高校まで野球部で、五十過ぎまではスポーツクラブにも通いつめていたのだという。七十を超えた現在は身体の老朽が進行し、走るにも辛そうだ。自分が運動を出来なくなる代用として、野球以外にも様々なスポーツ観戦に熱を入れることに夢中なようだ。
缶ビールを片手に顔を赤くしてテレビにかじりついているじいちゃんに何と声をかけるべきかと躊躇い、しばらくスマホをつついて待機すると、CMに入ってくれたようだった。やれやれ、と緊張を抜いた今がチャンスだとじいちゃんに声をかける。
「じいちゃん、明日弁当いらないから」
すると、じいちゃんはおもむろに俺に振り向いて目を丸くした。
「なんで?」
「えっと、明日は買い食いしたくて」
不審感を持たれないように、いつも話す際のもの以上に自然な口調になるよう努める。
じいちゃんはうーんと唸って考えた後、間を空けてこう答えた。
「まぁ、ええだろ。わしもたまには買って食べようかな」
「ごめん、我儘言って」
「ただし栄養。偏らんようにな。パンだけとかはならんぞ」
「分かった」
無事許可を貰えたことにホッと肩を撫で下ろし、部屋へ戻る。クッションの上に座って、パソコンでもしようかと身を乗り出そうとしたところで、何故か急にあちこちがむず痒くなってきた。
「アレルギー作戦決定したから身体が嫌がってんじゃない?」
悪戯っぽく笑いながらコハクが茶々を入れる。
冗談のつもりなのかもしれないが、それはあながち間違ってもいないだろう。
実際に口に含まなくたって、その対象の実物や絵を目に入れるだけで痒みは簡単に発生する。
「ここまで反応来てるなら人体への影響も凄いだろうな」
「あー恐ろしい。ソーゾーしただけで震えるね」
それが世間一般でいう感想だろう。
だけど俺は、それを平然とやってみせる自信が謎に湧いていた。何故今までやらなかったのかを影で疑問に浮かばせる程の余裕さえもある。
俺の脳はこんな方法を思いついてしまう狂気じみた変形を遂げてしまっている。もうここまで来ると、誰にも止められることは出来ないだろう。
どれ程失敗を繰り返しても執拗にまた新しい方法を探る。探って見つけたら実行して、失敗して。それが多分五年以上保ってきたライフスタイルだ。
〝死にたがり〟俺の代名詞に相応しい。
それが無ければ、俺は何にも形容出来ない、名前さえ贅沢な空蝉だ。

翌日の日の目を見るまではとても早かった。それからは変わらず朝食を済ませて、普段はあまり手持ちに入れない財布を鞄に放り込むのを忘れずに、学校へと出向いた。
駅に着くと、かつての小中の頃の顔見知りがわんさか集結していた。これ変哲の無い、通常通りのことだ。朝っぱらから盛んな皆を掻き分けてホームに出ると、一気に人が少なくなる。目立たない歩道橋の柱の影に隠伏して、電車が来たところにさっと乗り込む。この場で待機していると比較的人口密度の低い二両目が停車する。早く乗って運が良ければ席を取ることが可能だ。しかし、生憎今日は例日より人が多く留まっていた。席は取れない上、俺の後から乗ってきた奴らが押し寄せてくるから変な位置に立つ羽目になってしまった。
ちなみに同じ方面の電車に乗る高峰を朝に見かけることはあまりない。というのも、高峰は俺が乗る時間の便より少し早い便に乗っていくのだ。それでも稀にこれに乗っていて、気づけばそこから学校までお供が付く形になる。
それに反対して毎日見かけるサラリーマンのおじさんは、今日は俺が立つ目と鼻の先の席でゆらゆら揺られながら眠りこけていた。イヤホンを片方取ると、若干、顔を覆う腕の隙間からいびきが漏れ出ているのに気がついた。
こんなにも密着した空間でいびきだなんて、肝が据わった人だ。
彼を横目に、周りに合わせてスマホを取り出す。呑気に宙に浮いて混雑を逃れているコハクが、こっちに注目しているのを感じた。
この場で声を出すのはまずい。俺はさっとメモアプリを立ち上げ、コハクの元にずらした。
『アレルギーのやつ、成功するかな』
「ん、今更弱気になった?やめる?」
『違うよ。何となくだよ』
「まぁ、ただじゃ終わらないことは覚悟しといたら」
こっそり首を傾けると、コハクが苦く笑って、肩を竦めていた。


駅に着くと電車を降りて、付近のコンビニへと足を運ぶ。まだまだ残暑の漂うその下では、施設内は冷房がその力をこっぴどく利用されているようだ。おにぎりコーナーで立ち尽くす客の傍を通って、弁当のコーナーに行くと、朝だというのに既に棚には幾多もの種類の弁当が陳列されていた。
「こんなに種類あるんだなぁ」
棚の弁当にぐるりと目を通しながらそう呟く俺を見兼ねたコハクが言った。
「ハルやんってコンビニ行かないよね」
「まぁそこまで用無いからな」
コハクが横からまじまじと俺を見つめた。
「うーん、ハルやんは色々と損してるねぇ」
「どういう事だよ」
ムッとなって訊くと、いいや、とコハクは首を横に振って温厚に誤魔化した。
まぁそれは置いておいて、とりあえず今日の昼食兼自殺証拠品を決めなければいけない。
お目当ての海老系の弁当は主張こそしないものの、姿形の異なったよりどりみどりの数がそこに売られていた。海老チリや八宝菜、蕎麦やちゃんぽん麺のトッピング、海老のつみれの具沢山スープなどもある。無論のことロール状のおにぎりの具にも海老は必須だろう。
目で辿って、一番即死させる能力の高そうな弁当を探す。すると隣の棚に、やたらと大きなエビフライが二尾、どどんと添えられたものが置かれているのを発見した。
「うっわぁ、大きいエビフライだね~!しかも二匹!致死量の限界突破してるんじゃない?」
「かもな・・・これは多分海老好きの為の弁当なんだな」
どれでも中々致命的だが、露骨に確信のつきそうな見た目をしている方が保証も付いて良いだろう。
パックを持つ手がもさもさと蠢いているようで気持ち悪かったが、辛抱して会計まで済ませた。
あとは学校に行って昼休みを待つだけだ。



かさっ、と弁当の入った袋を床に置く。人の気配に警戒しながら自分も腰掛け、後からコハクもふんわりと座る。
待ちに待った昼休み、クラスメイトと喋り込む高峰の目を盗んでこっそり教室を抜け出て、校舎の隅に置き去りになっている倉庫の裏に身を潜めた。勝手口の段差をこうしてベンチ代わりにし、いよいよ執行が整う頃合いとなった。
このコンディションなら高峰にも気づかれることはないだろう。伏線も張っていないし、よもやこんな所にまで探しに来るなんてあるまい。少なくともそう信じたい。
でもなぁ、と高峰の本質を思い返して、弁当を開ける前に一度メールなど何かしらのアクションがないか確認してみた。受信は全く無い。これなら今日は楽しく友達と食べるつもりになるだろう。それこそが本来あるべき姿だ。
足元をぬるい風が渦を巻きながら通り過ぎる。空はこんなにも鮮やかなコバルトブルーを見せびらかしてるというのに、裏腹に地上に面した周囲は奇妙にふためいるようで落ち着きがない。
胸いっぱいに淀んだ空気を溜め込んで息を殺すようにして、袋を膝の上に置く。弁当の蓋を取ると密着したむさ苦しい油っこい匂いが俺に襲いかかって、海老の匂いともセットで俺の鼻を脅かした。身体のどこかが疼き出しているのがはっきりと感じられた。それでもこんな事に負けていられない。
意を決して箸を向けようとしたところで、コハクが目を輝かせながらそれを制した。
「その前に先に一本私にちょうだーい」
「えっ」
少し戸惑ったが、よくよく判断を凝らすとこの弁当はせっかく美味しく作られたのに一人の人間の自殺行為で一瞬の内に廃棄になってしまう。それなら先に勿体ない部分だけ食べてもらう方がベターなのかもしれない。流石のコハクはそこまで考えてはいないだろうけれども。
「一本だけフライ残して、後食べてもいいぞ」
そう言って弁当と箸を彼女に手渡す。
「良いの?箸も使っちゃうよ?」
「その時は裏側で使うよ」
「おっけぃ。ちゃんと一本残しとくからね~」
これから惨たらしい事態を起こそうとしているのに、コハクは意にも介さず楽しそうに鼻歌を歌いながら大部分を平らげた。コンビニ弁当はこんな味だったんだなぁ、なんて老人のように感慨深くなりながら満足したようだ。
そして、食べきったコハクが箸を裏にして、同時に巨大なエビフライを予め避難させていた蓋を差し出した。
これで安泰な時間は終わりだ。もう後はグズグズしていられない。
箸を持った手が、急激な重圧感に縛られて動作を鈍くする。浸透するその蓋の中の華美な毒物の触感の柔軟さに、思考さえも痺れさせられる。
「これね、すっごく美味しかったよ」
なんて横から場違いな言葉が耳に入り込んでくるが、構わず集中する。
肺の奥底から深呼吸して、その後息をぐっと止め、ゆっくり目を閉じる。
唇に衣の部分がつくかつかないかの寸前の位置で、途端に催促されたように心を無にした。
そして、遂にそれを口にがっと放り込んだ。それも一口を出来る限り大きくして。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
快晴の中、遠方から聞こえる生徒の騒ぎ立てる声以外、ここには沈黙しか流れない。
俺の口内に海老の感触と香りが広がって、とても懐かしい気分を覚えた。かつてアレルギーだと発覚する間際に食べたあの海老よりは、ずっと海鮮の味が強いけれど。あの時の俺はこれをどれほど美味い食物だと感じただろう。それが己にとっての最大の危険因子だということにも知らずに。
そんな昔の事を思い返すのは束の間だった。
体内に入れた量が多かったのだろう。間もなくして、俺の身体が異様なまでに疼き始めた。
「ハルやん・・・顔、」
コハクが絶句した。珍しく目を見開いて、驚きを隠せないようだった。
正常に全ての能力が動いていたのはそこまで。
支えを失くした箸と蓋が地面に落ちる。
全身が、痒い。痒い。痒い。
両手を見ると、既に血塗れになったように真っ赤に広がっていた。
腕や首元、次いで顔中に酷いぶつぶつが現れる。
症状は刹那の内に加速していく。痒みが強まって溢れて、震えさえも引き起こしていた。
勿論これだけでは終わらない。
「っ、・・・かっ、う・・・!」
────苦しい。
呼吸が、出来ない。
痒みと苦しさに冒されて座っていられなくなり、段差に頭をぶつけながら地べたに倒れ込んだ。
「・・・・・・っ、くっ、ぅ・・・っ、はっ」
本人の意思とは関係無く、ままならない息の荒々しさが何とか呼吸をしようしようと抗っていた。
しかし、そんなのは無駄なこと。身体が嫌がっても精神は全くそうではない。
俺は苦しみ悶える最中、喜んだ。
今回こそはいける。そんな希望がある。
こんなにも極端な危機を晒しているのだ。これで心臓が耐えられる訳もない。
「・・・ねぇ、ハルやん、」
コハクが細く言いかけた刹那の事だった。
歪曲してみえる視界の中で、こんな声がした。
「───北沢っ!!」
すっかり耳に馴染んだ声だった。
だけど、今のは俺が聞いたことのないような、過去最大級に感情をさらけ出したような叫びだった。
慌てたような駆け足で気配が近づいてくる。その次に、手荒く抱き起こされた。俺の全身を見た高峰が青ざめる。
「今度は何をした!!こんな・・・っ」
そう怒号を散らす高峰だが、すぐ言葉を止めた。そして俺を力強くおぶって、そのままどこかへ走っていった。
やめてと言って離してもらいたかった。せっかく成功する寸前なのに。邪魔しないでくれ。
暴れてでもそう訴えたい気持ちはあるのに、身体が思うように動くことはなくて。
助かる前に、高峰の背中ででも、命が途切れてしまえば良い。
そう切に願うしかなかった。





それから気がつくと、いつの間にか痒みと呼吸困難による苦痛からは解放されていた。
あれ以来俺は気を失っていたというよりは、半分意識があって、半分無いといった状態にあった。そんな曖昧な境界では、これまでの記憶を辿るには不十分であった。脳内のどこかでは、この経緯に至るまでに何らかの事が進んでいたということだけは明白であるのだが。
記憶のことは後回しに、試しに息を吸ってみる。すーっと酸素が吸い込まれ、無事に二酸化炭素だけが空気中に戻されていくのを確認すると、一気に気が沈んだ。
・・・また生き延びてしまった。
意識は確かに取り戻したが、目を開くのがとても億劫だった。盲目なまま、何となしに耳を済ましてみると、すぐ傍から寝息が聞こえた。
冷たい空気が首から額を伝って、その額から流れ出た冷気は目をじくじくと刺激した。そうすると瞼が僅かに開きそうになるけれど、現実へ一気に釈放されそうでぐっと目を閉じて抵抗する。
「やぁ。おかえりなさい」
コハクは俺が目覚めている事を見透かしているようだった。非現実のギリギリの境目をいつまでも彷徨く俺を嘲笑するみたいに明るく言って、俺の頬に手を添えて鋭い冷気をわざとらしくあてがった。
「・・・やめろって。今はまだ、目を開けたくないんだ」
眉をひそめながら、静かに言った。
「あ、そう?おっけぃ。まぁ気持ちは分かるよ、よぉくね」
どんな状況におかれてもコハクの調子は何一つ変わらない。ついさっき、いや、さっきと呼ぶべきかは知れないが、実行直後の顔に動きはあったけれど、それを幻覚かと置き換えてしまう平常心がそこにはあった。
「・・・俺、何があったのか覚えてないんだけど、」
「お気楽やねぇ。こっちは色々あったんだからさぁ」
「・・・ここ、病院なのか?」
家でもなく学校でもない、得体の知れない空気が感じ取れる。この二つでもなく、あの事があった後の行く先など周知の事実だろう。
「そ。で、ここまでの経過を簡単にお話するとね、あの後高峰クンは君を保健室に運んで、急いで先生に救急車を呼んでもらったのね。それまではベッドに寝かせて、そこからもずっと高峰クンは君に付きっきり。顔面蒼白で、こうやって落ち着くまでもひたすら祈ってた」
「・・・祈る?まさか、俺の安否を?」
それが反対の意味であったら幸せなのに。
「そりゃそうに決まってんじゃん。今はほら、・・・そろそろ目を開けてみた方が良いんじゃないの」
「・・・・・・」
急に声音を変えたコハクに反応してしまって、不本意ながら、瞼をそっと開いた。
視界に一番、細かな点々の穴の空いた天井が月光で姿を青白く映している様が見えた。
これが現実。呼吸の動作が極端に重々しく変わる。
右の方にコハクはいて、苦笑しながらある方向の一点に顔を向けた。
ここは病室の個人用の部屋のようで、その窓際の椅子に高峰が座り、壁にもたれてかかって眠っていた。コハクが言う経緯を感じられるように、彼の寝顔には疲労だけが滲んでいた。栄養失調の人のように、酷くやつれているようにも見える。
それを見た俺は、コハクに力を借りて起き上がり、彼の前へと足を持っていく。
高峰をじっとりと見下ろし、顔を歪めた。
「・・・なんで、また助けるんだよ」
こんなになってまで救済するような価値の人間じゃないことなんてとっくにはっきり肯定している。
死ぬことが今の全てで、それこそが本来の俺の為の救済なのに。
何故邪魔ばかりする?あと一歩の手前で、何故行動に勘づいてしまう?
死んだ方が幸せなんだ。なのに、ほんとに、────なんで。
「・・・どういうつもりなんだ、一体」
全身の力が抜けて、すぐにでも立ちくらみがしそうだった。
「これでも・・・ハルやんは、まだ死にたい?」
そんなの、そんなの・・・当たり前だ。
何を言われたって俺は頑なに意を貫いてやるんだ。
どうせ砂より薄い薄い、軽い軽い、綺麗事の塊なんて、すぐ汚らわしい本性を現す。こいつにだって、本当はそんな汚れた裏がある。そうだそうだ。そう言い聞かせるんだ。
もしくはこれは楽しくて恐ろしい夢なのだ。俺を当惑させてばかりの、質の悪い夢の中だ。
そう思わないと。
思考が激しく揺れ動き、上手く働かない。発熱を呼んだ時のように、体温が熱くなっていく。
その時だった。
ガラッと突如、扉が開いた。
同時に、暗かった部屋に電気が灯る。
「・・・春哉。起きたのか」
おもむろに振り向くと、扉の前には仕事服のままのじいちゃんがペットボトルのお茶を両手に一つずつ持って立っていた。
じいちゃんは目を丸くしながらも俺の前まで来て、ペットボトルを台の上に置いた後、
「まだ寝ていないと駄目だろう」
そう言って、俺をベッドに誘導して座らせた。
それから俺にこう問いかける。
「お前は、そこまでして海老が食べたかったのか」
じいちゃんは俺が自殺行為をしていることを知らない。悟られないよう、今まで隠し通してきているのだから当たり前のことだ。ただ今回の事では流石にばれてしまうのかと対面した瞬間不安に思ったが、そうではないらしい。
彼の脳内では、清々しく間抜けた解釈がなされているのだ。それは俺の印象を確実に下げに来ているのだろうが、そこは大して触れる必要はない。とにかくバレなければ他はどうだって構わいはしない。どうせ初めから彼に好かれているわけではないのだし。
「あ、あぁ・・・うん」
脳を空っぽにして返事をすると、困った表情でじいちゃんが俺の横に座り、肩を柔らかく叩いた。
「代わりのものを用意してやるから、こんな事はもうするんじゃない。お友達にも相当な迷惑をかけてしまってるんだからね」
じいちゃんがすっと高峰へと身体を曲げる。俺もつられて見た後、複雑に感情を巻き取られながらも頷いた。
「この子にはきちんと礼をしないとな。聞いたところこの子は高峰君というらしいな。この台の下に品の入った紙袋があるから、それとこのお茶一本、渡してくれ」
「分かったよ。・・・じいちゃんはこの後、どうするんだ」
「わしは一旦家に帰る。高峰君が明日までついていると言って利かなくてな・・・仕方ないから、彼に任せることにした。明日の昼過ぎに迎えに来るからな」
さっとそう告げて、じいちゃんは荷物を持って部屋を出ていった。
本音を言うと、今すぐにでもリベンジして説得して高峰を帰らせてほしかったのだが、じいちゃんはどうにも諦めが早いらしい。俺とは正反対だ。
不意に、コハクがベッドに飛ぶようにして座って「ねぇ」とこの空間の温度をガラリと変えた。
「死ねなくて残念?」
俺は一瞬息を詰まらせた後、「残念だ」となだらかに答えた。
「そっか」
それから僅かな間が置かれて、彼女はこう切り出した。
「このまま寝る?」
俺は小さく首を横に振った。
「寝たけりゃ、ベッド使ったら」
「や、いいや。あの棚にある毛布だけ貰うね」
コハクがその通りにテレビ台の下の棚から毛布を出すと、空いたスペースに持っていってそれを床に敷こうとした。
「やっぱほんとにベッド使えよ」
いくら幽霊といえど、流石に絵面的な面でも床で寝させるわけにはいかない。何とか言って、コハクにベッドの足を向ける方向を大幅に使うようにさせた。
目はすっかり冴えてしまった。この後なんてとても眠れそうにないだろう。着慣れたパジャマの袖口からひっそりと顔を出すぶつぶつを呆然と見つめてから、音を立てぬようそっと立ち上がり、窓際へと歩を進めた。高峰のすぐ傍にあった椅子を寄せて腰を下ろし、無心で窓の外を眺めた。現在の時刻は不明だが、まだ外の光はどこもかしこも煌々と輝きを放っているようだ。世間はまだ夜中にないのに、この病院だけまるで時差があるかのように光が無い。月明かりさえ無ければ駐車場の電灯なんてままならない。
こうやって、こんな結果が待ち受けることを想像出来なかった自分は一体何に甘えていたというのだろう。いや、分かってる。その正体が元は憎悪の肉塊だというのに、それを味方につけようなんて、己の神経を疑う。
でも、だからといってその反対の行動が出来るかなんて、絶対無理だ。
それが狂ってる。世間で言う、頑なな狂気。
もういい加減にしろよ。そこまで死にたいならとっとと死んでしまえばいい。
そう言って罵りたいし、言われてしまうことだって覚悟の上だ。
「・・・・・・」
自分でも聞こえない微量の声が口から零れた。
それから目を閉じ、額を縁に引っつけて、そのままでいる。何かを考えるのが億劫で、ため息すら出なくなる。
その代わりピクリと無意識に手が動いた。顔を上げて、動いた手を目の前にかざした。幾分は引いているものの、まだまだその跡は俺自身に圧力をかけてくる。
この作戦まで失敗となれば、今度は何を試せば良いのだろう。なんてぼんやり考えていると、横から咳き込む声が過敏に飛び込んできた。
まさかと思って振り向くと、知らぬ間に目を覚ました高峰と目が合った。目を開けていればやはりその疲労感に潰されたような姿は如実にそこに現れている。
起きたのかと声もかける力が湧かず、代用して台からお茶を一本手に持って、それを目線を合わせぬように差し出した。
高峰がまた何かを文句を言い出すのではと構えるが、彼は何も言わず素直にお茶を受け取った。そしてそれをすぐに飲んでいたけれど、それ以降一切口を開こうとはしなかった。
「・・・」
「・・・」
静寂だけが、この一時のみの密室の番人だった。
俺はしばらくの間変わらず外を見続けていたが、この状況で何か出来る事はあるかと考えて、やがて突然にポソッと言った。
「・・・お前さ、」
ぐっと腕を鷲掴みにして続ける。
「なんで、そんなに俺を助けようとするんだよ」
彼からの返答はなかった。
もし返ってこないなら、とボソボソと本音を呟いた。
「・・・いつも、俺なんかと一緒にいて。今まで話したこともなかったのに、ある日突如に。今更だけど、こんなのおかしいじゃないか。一体どういうつもりなのさ」
見ると、高峰は直向きに此方に焦点を定めていた。俺自身も、じっとその星の光を灯した瞳に服従する。
「・・・つもりも何も。人を助ける事に理由も目的もいるのか」
「いるに決まってるじゃん。何が望みなんだよ。俺をこんだけ付け回して止めようとして、何の利益がある?」
「そんなもの考えたことがない」
「ここに綺麗な人間はいないだろ。思いきり白状しなよ」
「考えた事ないと言っているだろう。無理矢理に理由など作りたくない」
不機嫌に眉を捻った高峰が頑なに否定しているが、俺にはどうしても信じ難かった。
「・・・本当に理由無いのかよ?」
「いくら病人といえど、あんまりしつこいといい加減怒るぞ」
「・・・あー、もう。分かった分かった。無いんだね」
口喧嘩する元気など湧かないので、内心疑いつつ妥協で押し殺した。
その代償として、こう訊いた。
「じゃあ・・・これくらいなら答えられる?」
「何だ」
「あんたのそれ、どっから来たよ」
「はぁ?」
「だから、きっかけとか。あんたのそのヒーロー気質の」
「ヒーロー、か」
その言葉に反応したのか、高峰が少し口元を緩めた。
「ヒーローなら嬉しいがな」
「で?どうなんだよ」
食い気味になって答えを促す。
高峰はその表情のままで答えた。
「幼い頃に、父親に人には優しくするよう言われていたんだ。その言いつけを自分自身でも守ってるだけだ」
「じゃ、昔っからずっと善人だったんだ」
「いや・・・完璧に善人というわけではなかっただろう。昔の記憶では、子供らしい悪事を働いたかもしれない」
ヒーローと言われた以来の高峰が妙に機嫌が良さそうに喋るので、視線を窓に向けてこう言ってみた。
「ヒーローって言われて、そんなに嬉しかった?」
「・・・いや、今考えるとある程度は昔のヒーロー番組に影響されていたのかもしれないなって」 
その時の俺がこれに気づくのはかなり先になった。久々なその感覚の刺激を思い出すには、この頃ではどうにも頑固だったのだ。
「・・・ははっ、なるほどね」
高峰が言って、その表情を見た瞬間、俺は思わずか細い『笑い』が出た。
「そこまで長く影響されるのも珍しいけどね。あぁ、なら今は俺が悪役ってところかもなぁ」
高峰が急に無言になった。鈍感な自分が不審に感じて、顔を傾ける。彼はポカンと口を開けて俺をまじまじと見ていた。
「・・・高峰?ちょっと」
人差し指で肩をつつくと、高峰は弾かれたようにハッとして我を取り返した。
「あ、ああ、悪い。ぼーっとしてしまった」
「余計な事するからお疲れなんだろ。寝とけよ」
こんな言い方をすればまた叱られるだろうと予想したが、高峰は冷静だった。
「いや、そうじゃないんだ。お前こそ寝ていなくていいのか」
「もう眠くないし。適当に時間潰すよ」
「そうか。・・・なら、此方も北沢に訊こう」
「・・・何?」
高峰が一旦お茶を飲んで息を整える。
「お前はどうしてそこまで死にたがる」
途端に嫌悪感が身体の内側を巡回し始めた。
「またそれ?今は話さないって言ったじゃん」
高峰が目を伏せる。
「だって、こんな惨いやり方、それをしっかり成し遂げようとするなんて。・・・流石にもう何も知らずにはいられないだろう」
彼とはこんな訳の分からない対立をし始めて早三ヶ月以上経つ。高峰はきっと意味も分からずこうして俺を制止することに壮絶なもどかしさと苛立ちを募らせているのだろう。ならばもうそんな無駄な事止めてくれれば楽なのに、彼の気持ちも多少は分かる反面、その違和感に納得がいかなかった。
「・・・やはりどうしても、話せないのか」
上手く言葉を返せない俺を、高峰が急かした。
自然か不自然か、土砂のような焦りが肌にまとわりついて離さない。
頭を掻いてから体勢を直して、彼に言う。
「そんなにすぐ言わせたい?」
「無理か・・・?」
俺はキッパリと言い放つ。
「悪いけど今は無理だね。マジで。焦らすと余計言いたくないね」
「・・・分かった」
内心では、質問に答えさせておきながらと自分の人間性を疑ったが、今更だ。第一彼に好かれようだなんて微塵のつもりも無いわけで。
高峰は変な奴だ。それも今更。だけど、今の時点での印象はそれだった。
「そんな事より、お礼の粗品、そこに置いてるからね。明日持って帰って」 
「お礼なんて・・・そういうつもりでやったわけじゃないのに」
「まぁまぁ、じいちゃんの気持ちだよ。ご家族と一緒にどーぞ」
そこで、高峰が大きなあくびをした。否定しながら、やはり生理的な作りには逆らえないのだろう。事件の日が月曜日だったから、明日もまだ学校だ。俺は恐らく休むことになるのだろうが、生真面目な高峰は登校の選択をするに違いない。
気遣うわけではないが、再度勧める。大丈夫だの一点張りだったが、黙り込んでいる内にいつの間にか窓の角にもたれて眠っていた。
俺は一つ息を吐いて、高峰の脇を手で支え、半端引きずるようにしてベッドに運んだ。病人の使用済みで悪いが椅子で寝てもらうよりかはマシだと思ってもらおう。
高峰は同い年と感じられないくらい重かった。それが体格か身長の差のせいなのか、人間の生身の感覚を知らぬが故なのか。当てはまることは全てだとすぐ悟った。
人肌、細胞から内臓や筋肉なんかの中身全体の重圧。
さっき肩に指を触れただけでもそうだ。
気味が悪いくらい、生々しかった。
(人って、こんなにも奇妙なんだな・・・)
それから、俺はその感覚を忘れずにいるようになってしまった。



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