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二章
混沌にして静寂
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ブブッ、とマナーモードに設定したままのスマホから着信が来た。俺がわざとそれを無視すると、またスマホが震えた。
連続してくるということは、いつものアレが来たことを意味している。気だるくスマホを開くと、案の定高峰からの安否確認メールが届いていた。
「またいつものかぁ。もー、ほんと毎日よくやるねぇ」
あははーと呑気にコハクが笑う。
あの件、所謂アレルギー事件が発生した後、彼の警戒心はより一層高まってしまったようで、それまで短調な文かスタンプだったのが今ははてなマークにびっくりマーク諸々を含んだストロングな文ばかりが揃うようになった。
例えば今日のは、
『今日も何もしていないだろうな??首に痣でも付けてみろ、休み明けたらどうなるか覚えとけよ』
「こっわ、どこぞのヤクザかよ」
既読のマークがつくので彼からは返信は不要だと言われているが、たまに思った事を適当に返してみている。だから今呟いた言葉をそっくりそのまま返信した。
してるかしてないかとなると、『自殺行為』はしていない。ただし、『自傷行為』はしている。それを上手く隠しているだけであった。
高峰はあの通り勘が鋭いけれど、身近な悪事に気づく可能性はちょっとばかし低めだ。つまり、俺で言えば、自殺行為はあっという間に感知されるが、自傷行為には焦点をそこまで持たれていないから気づかれにくいという事。首に痣をつけるなというのも首吊りをする事を前提とした警告である。
その特性を良いことにどうにか邪魔されず自害する方法を探っているのだが、小さな悪事も、方法一つで高峰に勘づかれるスケールに膨張してしまう。それを回避する方法は、頭を相当捻らないと思い浮かばない。
そうして日々が過ぎて、気がつけば現在は十月も半ばを過ぎていた。今日は十九日。もうじき我が校は、某最大行事の日を迎えようとしていた。
学生ならほとんどがその到来を楽しみにして打ち震えて夜も眠れなくなる、修学旅行だ。
この高校は大阪か東京のどちらかを選択するシステムとなっている。数年前まではハワイなんて贅沢なコースもあったようだが、何らかの理由で大阪に変わったらしい。
これではまるで大阪や東京が贅沢でないと言っているみたいだが、俺自身はけしてそう思っていない。そもそも両方に一度も行ったことがないのだから、優劣付ける脳は備わっていない。
それにいずれにせよ、俺が心からこの旅行を楽しむなんて有り得ない事なのだ。友人も楽の感情も一つさえ持ち合わせていない上、名前の記憶も曖昧なクラスメイトと無理矢理グループを作らされて内心嫌がられながら過ごす事になる。そんな状態で、一体誰が心待ちにしていられるだろう。
ならば最初から行かず家にいれば良いのではという意見は、的確だが無責任だ。その意見が通せるならこんなにも考える事はない。
その簡単な回避の方法を阻止する原因はじいちゃんにある。じいちゃんは俺がごく普通に学校生活を送っていると勘違いしている。というより、させているのだ。余分な心配をかけたり本来の姿を暴かれぬよう努めて穏やかに過ごしている為、突然奇怪な事を吐かせば忽ち質問責めを食らう事となるだろう。相手をするのも面倒だし、言い訳も通用しないと分かっている。
その事だけを避ける為に何日もの日を犠牲にする羽目に遭うなんて酷なものだ。でもそれは今に始まった事でない。今になって文句を垂れてみたってどうしようもないだろう。
愚痴紛いはこれまでにして、行き先の方は大阪を選択した。東京は人だらけモノだらけでどうにも行きたいという気が湧かなかった。その分娯楽は山程あるのだろうが、人が多すぎるという汚点には勝らない。無論大阪も多いに越した事はないのだが、東京に比べれば幾分かはマシであろう。それに、大阪の方が選択した人数も少ない。
ちなみに高峰はどうかって?
・・・生憎、彼も同じ行き先となっている。
「あっ、そうだ。お前はついてこなくて良いからな」
はしたなく壁に足を広げてリラックスモードになったコハクにそう言うと、コハクがいきなりこっちに振り返って足をばたつかせ始めた。
「なんで!?私高校の修学旅行行ったことないのに!!」
「行ったとして、寝るのどうすんだよ。男子ばっかの部屋でお前寝てられるか?」
重要なのはそこだ。行って遊ぶ自体に支障は無い
のだ。だが、ホテルでは流石に幽霊とはいえ少女
を男だけのむさ苦しい部屋に置くわけにはいかな
い。仮にコハクが良くても俺が許せない。
が、コハクはあっさりとした表情で答えた。
「寝れるー」
「寝れるー、じゃないの。コハクには恥じらいというものは無いわけ?」
「無いわけじゃないよ。そんなんに興味無いってだけって感じ」
そんなん、というのは男だという事を指しているのだろうか。
「コハクって・・・そっち系?」
半分冗談で訊くと、コハクが目を丸くして首を横に振った。
「ノーノー!私が言うのはね、人間に興味が無いって事だよ。恋情とか性だとかいう、人間に対する欲求が全く湧かないってことよ」
「恋情や性?コハクは、誰かに恋した事はないのか」
「そーね。少なくとも、好きだって自覚した経験はナシかな。男女や関係問わずにね。元々人嫌いってのがあるんだわ」
「・・・それなのによく俺と暮らせてられるな」
「んー、いやぁね。君は別。君からは人間らしい臭いがしないんだよね。だから一緒にいやすいの。あ、これ褒めてるんだよ、喜んで」
「え、あ、ああどうも・・・」
どうも褒められている気がしないのだが、一応礼を言っておく。
「だからさー、連れてってよ。お願いー」
「でも寝るとこ・・・」
「なら女性の先生達の部屋で寝るよ!それなら良いでしょ?」
何を言っても反抗しようと言葉を考えていたが、急な彼女の提案に口を渋らせた。
「・・・うーん、なら良いのかなぁ」
それにしても、同性とはいえ真っ先に出た案が生徒ではなく先生に何となく闇を感じた。何故先生なのかと訊く必要は皆無であろう。
それにコハクは既に嬉々とした様子でガッツポーズをしている。これ以上余計な会話は作らないようにしよう。
問題点は寝床だけの話だったから、あとは好き勝手に個人の旅行を楽しんでもらえれば良い。コハクもこんな狭苦しい領域の中ではいつも退屈だろうし、じいちゃんと二人きりにさせておくのも、心底ではかなり心配であった。
とにかくトラブルを起こさなければコハクは大丈夫。トラブルさえ起こさなければ。
・・・いや、分かってるんだ。トラブルに関しては俺に説得力が無いということを。
高校生は何かと忙しい。思春期の後半、大人の境界の何割かを身に染み込ませる三年間では、もこもこと筍を生やす如しに次から次へと行事が催される。特に二年生の後期というのは、三年生に向けての下準備が盛んに行われ始める。
三年生へスムーズに進級出来るようにする為には何をするのか。
それは、そう、進路決定。
修学旅行のしおりと共に配られた、この進路希望調査のプリントに何を記入すべきか。という課題が残っているのだ。
当然俺は進路について何も決めていない。あえて言うとすれば、あの世行きを希望したいところだ。
とはいえ、そんな事をプリントに書いてしまえば忽ち職員室へ連行されることは明確だ。その上叱責を受けて真面目な答えに訂正させられるのがオチである。しかもこう書いた事を高峰に知られればいよいよ彼の逆鱗に触れてしまう事となる。痛い痛いダブルパンチだ。
しかしながら、あの世行きが却下されるならそれ以上の希望なんて何一つ思い付かなかった。将来の夢というものの持った記憶も無く、好きな事を仕事に、なんていうのも無欲だった。
その結果、プリントはまだ名前すら記入されていない手付かず状態だった。
「何も浮かばないの?」
俺が机に向いてプリントとにらめっこしている背後から、財布を片手に持ったコハクが顔を出した。シャーペンを握ったままの手が貼り付いたプリントをまじまじと眺め、開口そう言った。
彼女が持つこの財布は正真正銘本人の物だ。今日は買い物に出掛けると伝えたら、途端にどこからかそれを持ってきてついていく意志を表示してきたのだ。しかも服装だってちゃっかり私服を用意して着替えも済ませている。
他人に見えはしないのにわざわざそんな格好しなくたっていいのに。その時にそう言うとコハクは、「それは関係無いの!あくまで自己満だから」と主張し、他にも何着かごそっと持ってきた。どうやら修学旅行用にも持ち込んでいるらしい。
今着ている物以外はじいちゃんの目につかない場所に隠しておけと言いつけた。じいちゃんが自室に出入りすることは滅多に無いが、万が一の備えは必要だ。
「だって夢なんか無いし・・・」
「そもそも、進学したいとか就職したいとか、そこはどうなの」
「どっちも無い。でも就職はやだ・・・」
「それなら進学にするしかないじゃん。その辺の適当な大学の名前書いときゃ良いんじゃない?」
「その辺ってどこ」
「ハルやんの高校の近くにあるじゃん。ほら、私立高校と併設してるってとこ」
「あれは併設っていうのかなぁ。まぁでも入りやすい大学ではあるかも」
「それ書いとけ書いとけ~。学科もマシなのにすりゃ良いんだし」
「はぁぁ、もうそうする」
投げやりになりながらスマホでその大学を調べて、欄に適当に校名と目に付いた科を書き入れておいた。不本意を本意として提出するなんて気分が良いものではないが、致し方無い。
「高校生となると大変なのねぇ。ならなくて良かったわ」
他人事のようにはは、と呑気に笑うコハク。確かに中学生のままの身体と精神なら高校生の立場なんて理解し難い話だろう。
「でもお前が生きてたら、高校なんてとっくに卒業してるよな」
「まぁね。でもその後の私がどうなっていたかは想像つかないね。けど、確かに理想はあった。行きたい高校も、夢もあったよ」
軽く机に腰掛けたコハクの口調が大人しく変わった。
「お前の夢って・・・?」
「私の夢はお医者さんだった。それも、精神科の」
幼い子供にみせるような、中学生には不釣り合いな大人の笑顔をコハクは見せた。その笑みには、自分に対する諦観や過去への憧れがじっとりと滲んでいた。謎めいたこの少女の周囲には、透けた色以外にも何か薄暗い靄がかかっているような気がした。
「・・・羨ましいな、夢があるって」
そんな大事なものを持っているのに、どうして俺と同じ行動をしたのだろう。
しかも俺と違って、あっという間に成功しているなんて。
「そうかな。夢を持ってるから人生どうとか変わるわけじゃないし。結局はあれ、気持ちの問題なんだわ」
「自殺する時には、もうその気持ちも無かったってことか?」
「そうだね。その時にはそれも邪魔でしかなかったから」
全てを捨てた結果が、今ということか。
まさか、俺が死ねないのはそのせいなのか?
まだ全部を捨てていないから?
でも、何を?
俺もコハクと同じように、何もかもを葬っている筈なのに。
何が残ってる?俺を邪魔する、何が。
不意に、頭でヒヤリとした冷気が渦巻いた。次いでシャーペンを握る俺の手に、雨上がりの雫のような指先が伸びてきた。何事かと思う間にはその指はシャーペンを指してきて、俺は反射的にそれを差し出した。コハクの手に取られたシャーペンは物体であることを忘れたかのように彼女に合わせた透明に変わり、それがプリントの上に移動すると、コハクがポソッと言った。
「名前忘れてるよ。これ書いたら、早くお買い物行こ」
コハクがシャーペンを俺の指に返してくる。
「ああ、ごめん」
言われるがままに名前を書くと、プリントを素早くファイルの中に挟んで鞄に押し込んだ。
それから軽くストレッチして、コハクに振り返る。
「コハクはどこに行きたかったんだっけ?」
まるであちこちの店に廻るみたいな訊き方だが、行くのは一箇所だけだ。その行き先が某大型ショッピングモールということで、俺が訊いているのは、その中の店舗のことであった。
「あっ、あそこあそこ。専門店街んとこの『シュガーララバイ』って服の店あるじゃん」
「シュガーララバイ・・・二階の奥にある雑貨屋みたいなとこか?」
「雑貨屋じゃなくてお洋服だってば!」
「でも、服ならもうあれだけ持って来てるじゃんかよ」
四泊もするものだからその分にコハクが持ち込んだ服はそれなりにあった。あれ以外にだって実家に帰ればまだまだあるらしいし、何も新しい物を買わなくたって充分だろうに。
「どーしても欲しい服があるの!それを着て大阪の街を歩きたいの!」
「なんだそりゃ・・・」
どうせ誰に見せるわけにもないのに、なんて言い出せばまた弁解が返ってくるだけなので、ここまでで一度口を慎む。そして頭を掻きながらため息を吐いて反応を示した。
「もう、分かったよ」
ただ、そこには大きな疑問があった。
「でも、買う方法は?お前幽霊だから人に見えないだろ」
次の瞬間、コハクが怪しげな笑みを浮かべた。ギラリと目の黄金が光り、その目が此方に一心に狙いを定めているのを見た俺に、突然嫌な予感が襲った。
「・・・なぁ、まさかとは思うけど俺が行くとか無いよな」
その選択肢はナシだ。論外にしてくれないと、一応俺も男だからそのメンツを簡単に捨てるわけにはいかなかった。
「ん?そのつもりだよ」
これが常識であるというような安い口調で予感を的中させるコハク。セットになった、誰が見ても分かるあっさりとした表情が少し怖い。
だが、流石に首を縦には振れない。
「無理だって。俺男だし・・・絶対変な目で見られるだろ」
人から余計な視線は欲しくない。意図的に人の冷たい目を浴びるなんて御免だ。
しかし、コハクは全く悪びれる様子が見られない。むしろ何だか楽しそうだった。
「ノープロブレム!一瞬で解決出来る秘策があるのデース」
「えっ、ちょっと、」
俺が尋ねる前にコハクはさっさとベッドの下へと行ってそこに隠した服を引っ張り出した。
その行動で刹那、何となく察してしまった。
「まさか、おい」
コハクが一通りを揃えて、ジリジリと此方に近づいてくるのが分かった。
「・・・なぁ、これ絶対バレるよな」
俺の全身を纏う違和感の塊。頭の重み、化粧品の匂い。
頭を下げればフリフリの襟と黒いリボンのついた可愛らしいブラウスがあって、その上から普通にぴったし着れるジャケットを着せられている。下は申し訳程度にズボンだが、勿論これも女物。ガウチョパンツと呼ばれるブカブカのズボンらしい。ピンクの小さな花柄がついている。
頭の重みはカツラで、俺に似た髪色の長い三つ編みが左右の肩にぶら下がっている。コハク曰く、このカツラは自前で、俺が着ている服諸々はほとんど母親の物だという。要は俺に着せる為にこっそり窃盗してきたという事だ。カツラに関しては一体どこから入手して何の為に使おうとしていたのだろうかと思う。
大体を着せ終えたコハクは仕上げに覚えたてのメイクを俺に塗して、現在はマニキュアを爪に塗っている最中であった。
「大丈夫大丈夫。どっからどう見ても女の子だよ」
「いや、どこが」
こんな格好をしたところで声で一発だ。俺は生憎それらしい声は持っていない。むしろ普通より低いかもしれない。
なのにコハクは人の気も知らないで「黙ってさっと買えばオッケーっしょ」なんて答える。しかしながらデパートの中の服屋で一概に黙って買うなんて事は難しい。セルフレジなら楽だろうが、そんなハイテクが全店に導入されてるわけがない。
「じゃあハルやんさ、裏声で「お願いします」って言ってみ?」
俺の爪が全部マニキュアの色で鮮やかに塗り替えられた後、コハクが不意に切り出した。まだ塗りたてで乾いていない爪先を周りの空気がまとわりついてきて落ち着かないのに、そんな事を言われて急に無に戻った。
「・・・お願いします?」
喉をゴロゴロ巡らせて、普段刺激の来ない奥から声を出してみた。すると、いきなりとんでもなく変な音程の声が飛び散った。勢い余ったその後、う、とか、え、とかいう声までも出た。
「んーまぁ、遠くからじゃ男の声には聞こえないかな」
コハクは若干間を空けておきながら淡々とそんな感想を呟いた。
「てか遠くからじゃまず声届かんだろ・・・」
アリなのかナシなのか曖昧な感想に反応が困る。せめてどっちかくらいはっきり教えてほしい。
「まぁそんな長く喋らなきゃ平気っしょ。ほら、これ持って鏡見てごらんよ」
これまた可愛らしいリボンの手提げの鞄を持たせて、コハクが強引に俺を鏡の前に連れて来る。
埃まみれの鏡には、こんな汚い部屋には月とすっぽんの差の華やかな色が映し出されていた。ピンク色やら黄色やら、そんな柔らかで愛らしい色合いを纏って動かしているのは紛れもなく自分自身で、その自分の顔も随分と派手だった。それと同時に、清潔でもあった。見慣れない道具であちこちやられたが、そのおかげでそれなりに女性っぽくはなっていた。俺が細身の体格であることも役に立ったようだ。コハクはなるべく男だとバレないよう特に目に力を入れたと言っていたが、安心は出来ない。女性っぽさはあっても、あくまで『っぽい』ということを前提にしないといけない。
「結構良いでしょ?」
コハクが俺の横に立ち、鼻を高くして俺に訊いた。
「これ、バレないかな・・・」
目の前の物体は確かに小綺麗だけど、顔はずっと塩をかけられたようにしなれたままだ。
「だいじょーぶだって!バッチリ可愛いから」
そう言いながら、コハクも自分の鞄を肩に掛けた。俺が進路プリントに頭を悩ませている内に自分の身支度は終わらせていたようだった。彼女もしっかりメイクをして、良い意味で見違えていた。
「よっしゃあ~、レッツらゴー!」
「あっ、おい!」
俺が慌てて引き止めるも、コハクはあっという間に部屋から姿を消していってしまった。
「はぁ・・・」
楽しみにしている事は分かるが、コハクにはもう少し慎重になってほしいと願う。
特にこういう・・・異様な真似をするならば。
部屋を出る前に、再度鏡に振り向いた。
自分に対して何かを警告したかったが、ただ唇を噛み締めることしか出来なかった。
…いつもより、やたらと自意識過剰になるのは、やっぱりこの服装のせいだろうか?
自意識過剰の人間を宥める時に使う決まり文句のように、多分俺が思っている以上に俺に視線を寄越す奴なんている筈ないのだが、何せ、この日は一味も二味も悪い意味で違う装いなのだ。一歩間違えれば変態扱いされて捕まる可能性もある。まぁそれはそれで、死刑にしてもらえば自分の得になるけど。
兎にも角にも、せめて店にいる間は、この姿の人間として振る舞い、やり過ごさないといけない。俺の後ろでエスカレーターガン無視でふよふよと上っていくコハクは、あの後からことごとく、誰も見てない、だとか、似合ってる似合ってる、だとかと笑い混じりで投げかけてくる。多分この姿を面白おかしく思っているのだろう。自分でやって自分で笑うだなんて。
この子の事だから何となくこういうリアクションだろうなとは思っていたけど、予想していてもやっぱムカつく。けど反発しようという意思が最初の頃より失せてるのは、もう半分以上この子のペースに自身も浸ってしまっているからなのだろう。
最近考えると、一見何となく彼女のやってる行動は一部いじめのようなものを彷彿とさせるように思ったが、そんなのはあまりにも過剰な言い方だ。暇をそんな事で謳歌する彼らのように、相手の嫌がる顔を見て喜んでいるのではなく、コハクは相手と何かで関われているという事を喜んでいる、そんなものが含まれているような顔をいつもしている。それに、俺自身も、どこかこの子と同じような感覚を味わっているような気もしていた。何の根拠もない、直接コハクに聞いたわけでもないのだから、もしかしたら都合の良いように妄想しているだけかもしれないが。しかし、少なくともこの子が俺の前で、かつての同級生の、あの頃のような嘲笑をするような真似はけしてしていないと思う。
最近はやたらと、脳内でコハクについての弁解を進ませている。今日はどの日以上にもそんな事に気を取られてはいけないのに。
「ねーハルナちゃん、最初はどこ行くの?」
最初は他客の声かと思った。だから特に意に介さずそのままエスカレーターに運ばれていたのだが、もう一度、今度は確実に近くから聞こえてきたので、俺は突然知り合いとかに落とし穴に落とされた時みたいな顔をして、ちらりと俺の背を見た。
「…おい、ハルナちゃんって誰なのさ」
薄々とは分かっている。というより、この子の気持ち悪いくらいのスマイルを見れば犬でも気づけるだろう。
「可愛いでしょ?」コハクはそれだけ言って、俺が着ているフリフリのカーディガンをゆさゆさと揺らした。
可愛いと言われましてもね…。確かにハルナって名前は可愛いと思うけども。自身を包む可愛いブラウスのさらさらとした感覚と共に、そんな複雑な気分になり、俺はコハクの言葉に答える事は出来なかった。
その代わりにため息をついて、エスカレーターを降りた後、客人の数の少ない日用品売り場に足を運んで、1000円以内の値段を付けられ並べられた水筒を背に、俺はコハクと打ち合わせをした。
万が一に聞こえたらまずいので、部屋でやった時のみたいな声で。
「…最初は百均でシャンプーとかボディソープが入ってるやつ買う。それと小さいくしと、あったらハンドタオル」
「ほいほい。次は?」
「次は何か、暇な時用の本買いに本屋に」
「本屋行くの?やった、私の分の本も買ってよ!」
本屋と聞いてパッと顔を明るくさせたコハクが俺にそうねだる。俺は「はいはい」と短く答えて、続けた。問題はここからなのだ。
「…後は、……下着売り場」
一瞬この場が凍りついたみたいに静かになったような気がした。でもそれはただの錯覚で、実際、コハクは何かに納得したみたいに頷いて、俺の不安に染められていく顔色を眺めているだけだった。
それからコハクは静かに手を出すと、親指を立て、小さく、「グットラック」と情のような笑みとセットで言いかけた。
グットラックじゃないだろ…あんたのやった事だろ…
それを強情に拒まずすんなり受け入れてしまった自分もどうかと思うけど。
「と、と、とにかく行くよ」
今更になって、さっき以上に事の異様さと重大さに気づいてしまった。
ここでもし知り合いとか、まさかと思うが高峰に鉢合わせなんて事になってしまったら、それはもう異様とか重大さとかの話じゃなくなる。なるべくそういうフラグを立てたくはないのだが、万が一を考えていないと、特にこういうデパートは誰がいるか分からない。
高峰なんか神出鬼没で、俺がここで自殺しようとすればたちまち突然どこかから現れてくるのだろう。そうでなくともこういう場にいない可能性はゼロではない。まぁ、例の事以外では滅多に姿を見ないのだが。
(まぁ…いるわけないか)
そう信じて、俺はコハクを連れて三階の百均に向かった。
ここのデパートは県の都市にあるデパートみたいな風に大きいわけではない。階は四階までだけどそこまで広くはないし、入ってる店はそこそこチェーン店を構えるものがあるけど、特にめぼしいものもない。大体俺はそこまで物欲が刺激されない質で、たまに出るゲームとか本とか以外、必要最低限のものくらいしか買わない。
そもそも買い物という行動を楽しんだ覚えは今まで一度もなかった。じいちゃんとはごく稀にここに来るけれど、それはあくまで食品だけが目当て。それ以外の人間と来るだなんて勿論有り得なかったし、自らの意思で行こうだなんてことも高校になったのが初めてだ。
しかも現在、人間ではない俺の知人が、俺なんかと共に買い物という行動を楽しんでいる。普段行かない店にもせがまれて寄ってみたし、フードコートのアイスクリーム屋で久しぶりに高めのアイスを買って食べた。コハクは何だか幸せそうだった。薄く透けていて、アイスよりも冷たいのに、その顔は確かに熱がある。そして、確かに彼女はここにいる。生きている。その不可思議な姿に、どうしても疑問を抱く。恋情などではない、身内ともいえない得体の知れない気持ちで彼女と接しているけど、向こうはこっちをどんな視点で見つめているのだろう。
そう考えたのはその時だけで、後はとりあえず女性になりすましている事を一心に考えて、緊張したガチガチになっていた。
目当てのものを買って、面白そうな本を選んで、ついでにコハクの欲しいという本も買って、ごく平和な買い物を済ませた後、いよいよ例のものを買いにいざ、俺達は二階の専門店ではない衣服コーナーに陳列されている男物の下着の数々の目の前までやって来た。ここまで来るのるには相当な時間と、コハクの説得があった。
ある意味長旅をしていたようなものだ。
「でもさ、プレゼント用とかで買う女の人って
いるよ?恋人じゃなくて、既婚者でも旦那さんに買ってるっぽい人もいるし」
さっきからそんな感じな言葉を投げかけられる。女の子であるこの子が言うのなら正論なのかもしれないが、今衣類コーナーには女の子の姿の俺以外、女性はいなかった。かと言って男性もいないのだが。けどそれはこちらにとっては好都合である。人が来ない内に適当に選んで買ってしまえばいい。俺は意を決しておもむろに下着の詰められた袋を一つ、フックから抜き取った。そしてそれを一目散にレジの方に持っていく。レジでの店員からの視線はもう気にしないようにする事にした。店員なんかあくまで金儲けが目当てで、誰が何を買おうが、お金をいただき商品を消費していただけてれば関係ないのである。俺はバイトとかした事ないし、そんな風な知り合いなんかも勿論いないから、分からないけど。しかし、それは人が思う以上に当たり前の事であり、人間の短所と呼ぶには適当ではない。人間は皆、自分の好きなことと生きるのに必要なもの以外には無関心で、それでいて強欲だ。どうでもいいようなやり方をする中でそれ以上のものを貰おうとしている。そんな事、知能の発達のいい人間という生物にとっては酸素を吸っていることと同じ、ごくごく、普通の事なのだ。本当に優しさを持った人間なんか存在しない。優しさを見せびらかす人間は、必ず何かの見返りを求めている。どんな人間においても、自らの利益は自分の足や手や脳を動かす為にとてつもなく必要なものだ。いい事をすればいつか自分にも利益が返ってくる。そんな都合の良い言い伝えを信じているのだ。
そんな理屈を並べた脳を忘れないようにして、俺は「お願いします」と小さく言って、店員に下着を渡した。店員は何の顔の変化も見せず、専らに営業スマイルと営業ワードをシールのように貼り付けて、慣れた手つきで下着の商品のバーコードを読み取って値段をわざわざ伝えた。俺は黙って代金をカウンターにあるトレーに置く。それからあっという間に下着を詰めたビニール袋とレシートが手元に渡された。受け取って、店員の「ありがとうございました」と丁寧なお辞儀を見送ってから、俺は足早々にその場から離れた。いくら理屈を掘り起こして並べても、やはり見当違いなのかと思って行動力が過敏に出る。レジカウンターから離れたところで、若干、冷や汗までかいていたのに気づいた。
けどこれで終わる訳では無い。まだ、この子の買い物が終わっていない。しかも代用として、俺が買いに出る。その為だけに、こんな格好させられているのだ。
専門店街への道を歩きながら、俺は先程以上の不安と緊張感を覚えていく。今度はもしかしたら会話になってしまうかもしれない。しかも相手も空間も女性。男である自分がどうすればいいのやら…
先程同様の精神で行けば何とかなればいいけれど、それに対話がプラスされるのには流石に適わない。あの作った声は、コハク曰くナシではないらしいけど、アリでもないのだろう。
(無理無理無理…)
ここまで来といて、こんなにも準備満タンな状態で今る。その為だけに、こんな格好させられているのだ。
専門店街への道を歩きながら、俺は先程以上の不安と緊張感を覚えていく。今度はもしかしたら会話になってしまうかもしれない。しかも相手も空間も女性。男である自分がどうすればいいのやら…
先程同様の精神で行けば何とかなればいいけれど、それに対話がプラスされるのには流石に適わない。あの作った声は、コハク曰くナシではないらしいけど、アリでもないのだろう。
(無理無理無理…)
ここまで来といて、こんなにも準備満タンな状態で今コハクは顔を不安でベタベタに塗ったままの俺を残し、遊園地にてマスコットキャラクターを見つけた子供みたく、目を輝かせながら一目散に店内へと一人入っていった。
コハクがお目当てらしい服を見つけている間、俺は不安定な体温を感じながら、何か余裕でもあるみたいに、頭上にある店の看板を眺めた。
専門店街の服屋特有の、英語でも日本語でもない、何語で書いてあるか分からない言葉の名前が洒落れな雰囲気を滲み出している。店内もそこそこ良く作られている。少しアンティーク調で、所々に、服と関係の無い動物の石像とか、100円で売ってるような造花を、ワックスみたいなので古くリメイクしていたりしてるような感じの飾りが程よく配置されていた。
商品棚に、綺麗に列を成していたり、某怪獣よろしく、目当てのものを物色するのに夢中だったのだろう客人によってぐちゃぐちゃに崩された服たちは、その内装のノスタルジックなものとは違い、さっきからずっと並んでいる同じような服屋と同じ、若者向けの可愛らしいものばかりだった。
もう時期寒くなるっていうのに、生地の薄そうなブラウスとか、肩を思い切り出しそうなトップスとか、余計なような気がする飾りの花がついたミニスカート、ショートパンツ…可愛いとかそういうのではなく、まず俺が思ったのは、10月なのによくこんなにも寒そうな格好が出来るな、だった。それをやっていて平気な奴なんて、どこの小学校にも一人はいる、年がら年中半袖半ズボンのイカれた男子くらいしかいないと思っていた。あれは苦々しい思い出の中で、理解出来なかった事上位ランクの光景だった。風邪も引かずそれで平然と一年を過ごすヤバい奴もいれば、当然のように高熱を出すような奴もいた。それでそいつは、一体何を得していたのだろうか。今から考えても、男子である自身でも、そいつのような種族の人間の考える事は謎である。
いや、そもそも女子の習慣とか好みとかを、この阿呆で馬鹿馬鹿しい例えと一緒にしたら、コハクに一発ゲンコツでも貰うことになるだろう。あの子も何やかんや話をしていたら、小学校や中学校が話題の話になると不愉快そうな態度を取るから、それに触れてしまっても困る。それは俺も同じだし、コハクにはあまり、俺と同じような悲しい顔をしてほしくないから、最近は全くしなくなった。小さい頃のエピソードくらいは、微笑ましい程度で話す。まぁ、それは一方的にコハクだけなんだが。
その時の様子と、たった今、目当てのものを見つけてきた様子がちょっとだけ一致していた。それを見た瞬間、思い出したみたいに渦巻く不安が雪崩を起こした。
「あれ、あの服!」
再び冷や汗を引き起こしそうなのを感じながら、俺はコハクの指差す方向に向く。店内に並んだ多くの衣類の中の隅っこ、そこに静かに置いてある薄紫色の服が目に入った。あれか?と訊くと、コハクは頷いて答えた。
俺は店員が遠くにいる事や、その場所の死角にいる事を確認して、沼から這い上がる時のような力を足に入れ、そして早足でその場所まで。目的の服を手に取り、広げる。なるほど確かに綺麗な色をしている。控えめに入ったレースとか、服の端に付いた水色と赤色の刺繍が良いアクセントになっている。一体何のアクセントなのかは知らないけど、多分コハクには似合うのかもしれない。しかし、今はあまり感想など言っていられない。店員が俺に気づきそうな勢いを見せたような気がしてきていた。いくら死角にいるからといって侮れはしない。
は、早く行こう、と身体が反応を示し、促す。値段だとかはもう後回しだ。コハクの案内でレジの方へと急ぐと、空いたレジカウンターには、染められた茶髪をカールした若い女性がいた。普通にどこにでもいる若者という雰囲気のこの人は、此方に気がつくと、女装した男と陽気な幽霊に向けて「こちらへどうぞ」と笑顔で子招いてきた。
たった今カチコチに硬直してしまった思考をそのままに、俺は恐る恐る、カウンターの前へと進む。
服を差し出し、忙しない動きで財布を取り出す。
「1940円になります」
慌てて1000円札と小銭を出す。お札はあまり使いたくないので、小銭で済ます。節約とかそんな事でなく、単に気分でそうしただけだ。俺は特別お金に執着しているわけではない。けして粗末にも扱ってるわけでもないが。
「ポイントカードはお持ちでしょうか」
そんな事まで考えているから、心臓が飛び出るかと思った。笑顔で優しくそう問われ、ジュースを注ぐスピードでゾワゾワと最高潮の焦燥を感じた。不安という不安はこの時になると固まって死んでるみたいになる。そこにある焦りはまた一段と俺を困らせてくるのだ。
「え、え、あ、の・・・い、いいえ」
焦りすぎで、あの裏声が出なかったような気がした。今度はゾッと、恐怖心を覚えた。コハクは俺の様子ではなく、店員の方を見ていた。やはり俺の素の声に聞こえたから、この子もこの人の顔色を伺っているのだろうか。
心臓の音が僅かに聞こえた。焦りや恐怖心を巻いた心臓の音は、まるで現実的ではない音に聞こえた。
「ではお作り致しましょうか」
まだ疑われていないのか。それとも確認の為にか、店員の声は特に先程と変わっていなかった。
「い、いえ・・・また、今度」
あの声が思い出せなくて、別の感じで出してみる。声量もうんと下げた。幸いその声は聞こえたようで、店員は笑顔を崩さずそれに承諾し、テキパキと会計を進めていった。
レシートを受け取った後、先程同様に袋詰めされ、手渡される。店専用のデザインには、きちんと店名が目立っている。
ありがとうございました、とそこまで流れて、ようやく俺はホッと肩を撫で下ろす。いつの間にか生き返ってきた不安も、カウンターに背を向けるとほぐれてきた。後は店を出て、そのまま自宅に向かえばいいだけだ。
早足で店内を抜け出すと、元来た入口の方まで足を進める。不安が安心に変わると気分がすっとする。歩きながら、俺はこっそりとコハクに袋を渡した。
「あんがとー!これで修学旅行に行ける」
「お前の修学旅行じゃないのに、すっごい喜んでるな」
「まーね、でも、せっかくだしお洒落したいじゃん?」
「そんなもんなのかね」
やっぱり、女の子のしたい事は分からない。別に修学旅行で洒落たものを着ようなんて思わないけどな。
「ハルやんは楽しみじゃないの?ぼっちじゃないのに?」
「俺は・・・別に。ていうか、ぼっちだよ」
多分コハクは、高峰がいるからぼっちではないと思って言っているのだろうけど、そんな期待、俺は一切してるつもりなんてない。高峰は確かに俺と同じ班で、寝るのも同じ部屋だけど、ずっと一緒なんて有り得ない。高峰は人気で、カーストも高い方のやつだ。あいつと楽しくしたい奴は沢山いるし、俺のいる班にもいくつかいたと思う。班を決めた時、その班の一人が高峰を誘っているのも見たし、俺がぽつりと、皆についていくだけなのは確実だ。
隣にはコハクがいるが、他人の肉眼では見えない幽体とずっと話しているのも、後から困る。
「嬉しくないのに行く必要ないと思うけどな」
「んなの今更だよ。それにお前、行く気満々だからそんな服欲しがったんだろ」
「あはーっ、そーなんだけどねー」
いつものように暢気に言って、コハクは袋の中の服を覗いた。
「この服、可愛いと思わない?」
俺は頷き、素直に答えた。
「うん、それ可愛いと思うよ。綺麗な色してるし」
それを聞いたコハクは共感を貰えたことが嬉しかったのか、頬まで笑顔で満たして「でしょ!」と無邪気に返した。
「この色を綺麗だと思えるとは・・・ハルやん、女の子っぽいとこあんのね~」
「それだけで女の子っぽいというの?」
「だって大抵の男って、色を素直に綺麗だって言わないんだもん。彼氏でも言う人は少ないよ」
流石にそれは偏見ではないか?と思ったが、だからといってそれを打ち消す根拠なんて何も持っていない。彼氏になるだなんて以ての外だ。
コハクは「大抵、の男はね」と強調して言った。その言葉に何故か疑問が生まれる。
「お前は彼氏でも作ってたのか?」
「まさか!アホな事言わんといてよ、言ったでしょ?私は男にも女にも興味ないって」
「まぁ、そうだよな・・・」
よくよく考えてみると、彼氏がいなくても別に男がどういう生き物なのかくらいは分かるのかもしれない。女性は男性よりも圧倒的に脳内に情報量が詰まっているとどこかで聞いたことがある。だから別に、疑問に思うような程の事ではないのだろう。この話はこの辺りで頭の隅の方に寄せておいて、俺はこの今の姿について尋ねた。
「なぁ、本当に怪しまれてないよな・・・」
「怪しまれてたら今頃、警察が目の前にでもいるよ」
冷静にそう、的確な返答をされる。その後、俺が有無を言う前にコハクが続けた。
「でも、今時珍しくないよ、そういうの。田舎じゃ珍奇なだけでさ。こういうのが理解できない奴は古いよ」
コハクの言う、そういうの、こういうのというものの正体が何なのかは何となく察した。しかし、残念ながらそれは俺には当てはまらない話だ。多分。
「俺はそういうのではないからアウトじゃないか?」
「そうだって、答えりゃいいだけさ」
「んな失礼な事言えるか!」
「じゃないと本当に怪しまれるよ」
「・・・」
さっきからのこの子の冷静な返答は何なんだ。いつもならおちょくるような口調で答えてくるのに。
「まぁ、でも別に誰にも目をつけられなんかしないんだから、後は帰ればいいんだよ」
「・・・てか、逆になんで目をつけられなかったのかが不思議だ」
「んー、多分あれだ。ハルやんがガチで女の子に見えたんじゃない?」
「んなバカな・・・」
セルフで鏡を見て確認しても、この姿は確実な女の子、という姿ではなかったような気がしたが・・・。
「それとも、単に俺の存在が薄かっただけかもな」
他に唯一考えられる事はそれだ。影の薄い人間が変な行動をとったって、誰も興味なんか湧かないだろう。
「そうだねぇ・・・でもさ、ほら」
コハクは立ち止まり、丁度通りかかった近くのジュエリーショップのショーケースの上に飾ってある鏡に指を指した。
「ん・・・?」
埃もゴミもほとんど付いていない鏡には、いかにも誰からも好かれなさそうな死んだような顔をした女装の男が映っている。部屋の時と比べても、その表情がより鮮明に伺えた。
「表情変えたら、結構女の子みたいに見えるし、存在もしてるよ」
俺は目を数回瞬きさせて、コハクを見た後、再び鏡に視線を移した。
コハクの言葉を、モビールの如くに脳と頭の周りでふわふわと浮かばせる。
・・・別に女の子みたいに見えなくてもいいし、表情を変えたところで存在を示せるだなんてそんな簡単な事があるものか。俺は、どう足掻いても存在の価値がない。────
どれだけ考えを生んでも、その並んだ先入観の言葉で全てを確定させ、片付けてしまった。自分で呆れた。まるで自分の別の人格に対してやっているみたいだ。けど俺は多重人格者ではない。地獄の果て程にどこまでも暗くネガティブなのも、成るまで永遠とやり続けようとする程に死にたいという気持ちと執念も、それに呆れるのも、全て俺という奴の人格だ。そのたった一つの人格さえもこんな風に別々の気持ちを持っている。けど、この呆れるという感情はどの感情よりも弱い。天の羽衣を着せられた瞬間のかぐや姫の心のように、すぐに消える。
期待なんかない。その分やって来る苦しみが、それを付け加えただけでどれ程に重さが違うか。
「・・・バーカ」
鏡の中の自分に向けて言うと、相手も同じようにしかめっ面を向けてきた。馬鹿らしくなって、俺は鏡から視線を外すと、一人でに先へと進んだ。
後からついてきたコハクは、苦いような笑みを浮かべた。
「期待なんかしたら、駄目よね」
控えめな言い方で、コハクは俺にそれだけ言った。
それからまた、服の話になる。次は帽子やアクセサリーを買ってほしいだとか、この服を着てる自分に惚れるなよ、だとかといつも通りな会話を繰り返して、やがてエスカレーターの近くまで辿り着いて、俺は不意にある光景を目にして、立ち止まった。反射的に影の方へと隠れる。コハクはその後にその存在に気づき、おとぼけな声で「あー、高峰クンだ」
とわざわざその正体を明かした。
そう、コハクの言った通り、俺達のいる場所からすぐの店に、我が宿敵(?)である高峰浩介の姿があった。
フラグを回収した事を確認した。
「自殺行動する時以外にも出くわす事ってあるのねぇ」
マジかよ・・・。
コハクは相変わらず暢気にそう呟くが、俺は再び身体が硬直していくだけだった。何故か、顔を合わせてはいないのに、心臓がバクバクと音を立てて、身体を動かすあらゆる部分の内側で緊張が循環する。知り合いに出くわした時、必ず俺は情緒不安定になる。焦りとか、恐怖とか、負の感情が忙しなく動いていく。下着や服を選んで買う瞬間よりもこれは質が悪い。
・・・落ち着け。少しでも冷静になろう。幼さのある鞄のリボンを握りしめる。その心地の良い感触を手にしてから、俺はコハクを連れて、少し遠回りの為に婦人服のコーナーの間へと入っていく。
花柄だとかシマシマ模様だとかのシャツに交えて進みつつ、時々、高峰の様子を伺った。
(・・・あれって、アクセサリーの店か?)
高峰のいる店は専門店街ではない、モールオリジナルのアクセサリーショップで、陳列棚には女物も男物も、どちらも沢山並んであった。しかし、それよりも確認出来る事があった。
「なぁに、高峰クン、彼女いたの?」
様子に気づいたコハクが面白そうなものを見た、というような顔をした。
高峰の隣に、パステルカラーのシュシュに垂らしたツインテールを揺らす一人の少女の姿があった。いや、少女と言っても青年期の少女で、見た目だと高峰よりも下か同じかくらいの年頃のように感じられた。太ももまで見えるミニスカートとトップスに身を包み、高峰にあれこれとアクセサリーを見せていた。当然の事ながら顔は見えない。
「そりゃ、あれだけイケメンなら彼女の一人二人、いるだろうよ」
白けたようにそう冷たく言ってやる。けど嫉妬とか、羨望とか、何とも思わないし、寧ろあれは当然な事実だ。だからこそ俺はこういう態度を影でとる。何故かなんて知らない。自らやっている事の理由を自ら知らないだなんてよくある事だ。
「どんな顔の女なんだろね」
コハクは何やら身を乗り出す程に興味津々そうだが、対照的に、俺は全く興味なんか持てなかった。彼女の顔とかどうでもいいし。
「ねー、気にならない?」
共感が欲しいのか、コハクはそう確認するように尋ねてきた。そうは言われてもやはり全く感興のかの字も湧かない。素直に「気にならない」と一言告げた。
「ま、確かにどーせ、イケメンは美人しか選ばないからあの女もそれなりなお顔をなさってるんでしょうね」
そう悟ってるなら気にしなくてもいいのに。
もう行こう、と俺が促すが、コハクはまだ見ると言ってそこから離れない。
俺としてはここで突っ立っているのはちょっと避けたいのだが・・・。
「・・・なら俺、先に出てるぞ」
無理矢理連れていく事も出来ないから、大人しく俺はコハクをほっといて、先にその場から離れる事にした。
婦人服コーナーを抜けて、出口の方へと歩いていく最中、俺は一瞬だけ、高峰の方に振り返る。久々に見た私服姿の高峰は、今は円環の形をしたアクセサリーを手に、いつにもないような真剣な顔をしていた。
誰かにプレゼントするのだろうか。まぁ高確率で一緒にいる女の人へだろうけど、ああいうのを見るとどうにも自分よりずっと上層の存在なのだと要らぬ劣等感を感じてしまう。
・・・早く帰ろう。
今死ぬ事を考えたら、気づかれてしまうだろうから。
定期テスト後、修学旅行当日になると、まず全員グラウンドに集合させて荷物点検が行われた。これから数日間の楽しい日々に期待を膨らませた生徒達のがやがやと騒がしい声が耳障りで、その後の校長や学年主任の先生の話はあまり聞こえなかった。別に聞きたくもなかったが、周りの同年の声を聞くよりはマシだ。
朝の段階の全てを終えると、早速バスに乗るように言われ、皆がぞろぞろアリのように校門の方へと歩いていく。俺はタイミングを見計らい、横で荷物にもたれてぐっすり眠っていたコハクを起こして自分達も向かう。高峰は室長という事もあり、先に行って色々しないといけない事があるみたいだから、もうこの場にはいない。
しかし、バスに乗ったらすぐ目の前だ。何せ彼は俺の隣の席に座る事になっている。席を決める時、黒板に書かれた席の間取り図に、本来なら別の人の隣になればいいものを、余って一人だけ名前の書いてある俺の隣をわざわざ取ったのだ。
あれはお情けなのだろうか。それともまた、所謂ヒーロー気取り?別に一人ぼっちの人の隣を選ぶのがヒーローというわけではないと思うが。
「・・・高峰って、馬鹿なのかな」
「さー?でも私の座席を取っちゃうのはいただけないよねぇ」
「いや、それは関係ないだろ・・・」
「関係あるよぉ~、そうじゃなきゃ私、荷台で寝ないといけないじゃないの」
荷物を片手に、酔っ払った中年男性のようなねっとりした口調で愚痴るコハク。しかしまぁ、幽霊だからそんな配慮出来るはずがない。ここに幽霊いるので席を置いといてくださいだなんて、よっぽど頭おかしい奴くらいしか言い出さないだろう。
「そこは我慢してくれよ。連れていくだけありがたいだろ」
本来ならついていかない方がいいのに。せめてこれが、同性の幽霊だったらまだ簡単な話になっただろうのに。
いくらコハクが男勝りな部分があっても、仮には女の子だ。一応、身体としては年下だし。
「まーねー。高校生の修学旅行なんて絶対有り得ない話だから、連れてってもらえるだけ、あんたにゃ感謝かな」
「偉そうな口叩いてると、ここでお別れするぞ」
妙に上から目線のコハクへ少しでも強気にかかろうと、足を進めてコハクから離れる。すると背後で、慌てたような声と足音が聞こえてきた。
「わーん、待ってよお兄ちゃーん」
誰がお兄ちゃんだ。
バスの中は独特な異臭と、クラスメイトの落ち着く様子のない高らかな声と、甘ったるい菓子の臭いで早くも満たされていた。乗車した瞬間、俺は顔をしかめた。コハクも眉を潜め、片手で鼻を覆っている。ポケットから席順表を取り出し、どの席かを確認して、窓際に座る。膝の上にカバンを置いて、コハクを荷台に乗るように指示する。荷台は意外と広い面積があり、コハクくらいの大きさの人間なら一人入れるくらいだった。けどコハクはちょっとばかし、不満げだ。
発車までスマホでもいじって待っていようとして、程なくして周りの声と密度が一層高くなった。空いていた席も次々埋め尽くされ、菓子の匂いとポテトチップスの咀嚼音がやたらと近くで鳴った。あまりに耳障りなものだから、逃げるようにイヤホンをスマホに刺して、音量を上げた。いつもは適当な音量の音楽が、変な音質になって耳を徘徊するが、まだ外の声はよく聞こえた。
ため息を小さく吐いて、外に視線を移す。外にはまだ、バスに乗っていない別クラスの生徒が毛虫みたいにうねうねともがいてる。早く乗りたいけど多すぎて乗れない。ぺちゃくちゃと話し声が止まない。
くだらないな。
あーあ。
今あるもの全てに嫌気と不快感を感じる。
やっぱやめときゃ良かったかな。
憎たらしいくらい光を放つ太陽を見上げ、俺は真逆の事を思った。
「おい、聞いているのか」
突然ぶつっと、左耳から無造作にイヤホンが外された。次いで、周りのノイズがまた近くに聞こえるようになった。
今度は横からも。けどそれとは違う。
俺はもう片方のイヤホンを外し、隣に座った高峰に向き合った。
「仕事は片付いた?」
「何とか。全員いる。あと、話を逸らすな」
「ごめん。全然聞いてなかった」
「まったく・・・」
高峰が呆れたように息を吐く。それで何?と促すと、彼は渋々に一から話した。
「あと5分ほどで出発するから、シートベルトしとけだとよ」
「なんだ、そんな事」
何を言い出すかと思ったら。俺は肩の気を緩ませた。
「別にしなくてもいいよ」
きっちりしなくたって、別に事故なんてそうそう起きやしない。仮に事故になってしまっても、死ねるなら本望であるし。
そう思った瞬間、俺の頬がつままれた。
「アホ。どうせまたとんでもない事を考えてるんだろ」
ちゃんとしとけ、と強く忠告され、俺は仕方なくシートベルトを着用した。高峰も同じように着用し、その後彼はこう言った。
「修学旅行くらい、そんな事は考えないでくれ」
・・・
・・・修学旅行だから、考えるんだよなぁ。
高速道路からの景色を眺めるのはこれが初めてだっただろうか。いや、一昔前、すっごい小さかった時に一度だけ、じいちゃんに連れられて高速道路を利用した事があったような覚えがある。確か、一度も行ったこと無かった水族館に初めて行ったのもその日だったか。多分水族館に行くために使ったのだろうが、もうあまり覚えていない。その時からこの景色は変わっていなかったのだろうか。見慣れない道路と看板、山々にトンネル、道路外の街並みや住宅地は通る度に違って、新鮮な気分になる。見ていて飽きないものだから、コハクや隣の高峰の存在を忘れそうになった。
外をひたすらに眺める俺の肩に、高峰の手が当たった。
振り向くと、高峰はいつの間にかクッキーの箱を抱えてこちらを見ていた。
「クッキー、食うか?」
あまり似合わないような可愛らしいものを持った高峰は、その時だけどこか幼い雰囲気を持っていた。
頭上から「可愛いもん持ってるねぇ」と茶化す声がする。俺はその声を無視し、小さく礼を言って、次いで差し出されたクッキーを有難く受け取った。
「ポテチよりは手を汚さなくて済むだろ」
クッキーの袋の端を開けながら、高峰は言った。
手を汚さなくてって・・・誰の配慮をしてるのだろうか。俺は別に手を汚すのが嫌なんて一言も言っていないけど。
まぁ確かに、手がギトギトになるのは何とも不愉快だ。だから俺はポテチは持ってきていない。多分、高峰も持ってきてはいないのだろう。
「何の菓子持ってきたの」
チョコチップのついた美味しそうなクッキーだった。小さく鳴るサクサク音を聞きながら、俺はそう尋ねた。
「皆みたいに、沢山は持ってきていない。このクッキーとフルーツの飴くらいだ」
「それくらいが丁度いいかもね」
お菓子を食べるのがメインではないのだから、それはそうだ。
「お前は何を持ってきたんだ」
話の流れ的に何となく聞き返されるのは分かっていた。俺は持ち込んだ菓子を思い出す。
「あー、チョコかな」
俺はリュックから色んな有名メーカーのチョコ菓子をいくつか見せた。
ビスケットのついたものとか、アーモンドが入ったものだとか、その内の一つを見せた時、高峰の表情が変わった。
「それ・・・」
目に留まったのは、一口サイズのビターチョコケーキだった。これは俺の好みでよく食べているものだ。
「これが何?」
「それ、俺の好きなやつだ」
「あ、そうなん?俺も好きだから持ってきたんだ」
二つ、ともう一個ケーキを取り出すと、高峰は羨ましそうな目で俺を見るもんだから、いつもの高峰みたいに子供に向けるような視線を送り、「食べたきゃあげるから」と差し出した。
「悪いな・・・自分で持ってくればいいのだが」
そう言って申し訳なさそうな顔をして受け取る高峰は、いつもより若干弱い。
「良いよ。それにしても、高峰もお菓子とか持ってくるんだ。甘いの微妙じゃなかったっけ?」
記憶が正しければ、高峰は前に甘い物がそれ程得意ではないと言っていた筈だ。
「生クリームとか、餡子とかそういう甘ったるいものはそうだ。けどチョコとか、甘いのばかりじゃないだろ。飴もシュガーレスのだし」
「あー、確かに。分かる気がする」
自分もジュースは飲むが甘ったるいスイーツはあまり得意ではないし、チョコだってビターな方が好みだ。だから、高峰の気持ちも何となく分かる。
「なぁ、北沢」
お互いにしばらく無言でクッキーを食べてる横で、高峰が不意に言った。
「ん?」
「北沢は一人っ子だったか?」
「え、あれ、言ってなかったっけ」
何ヶ月か前、他愛ない話の中に交えて教えたと思うが。
「いや、確かにそう教えてもらったと思うが・・・」
頭上から、お菓子のおねだり声がする。何やら考え込む高峰の隙を見て、チョコを頭上に差し出した。
「何、どしたの」
「いや・・・大したことではないのだが、以前、お前に似た人を見てな」
「ふーん。どこで?」
「ショッピングモールで」
その瞬間、心臓だけでなく身体中からドキッという物凄い音がした。
「ど、どこの?」
「ほら・・・あそこ。〇〇」
俺が以前行ったショッピングモールだった。それも、男としてではなく、女として。
まだちょっとしか聞いてないのに、この時点でもう動揺が隠せられない。
やばい。
次に何を言われるか、次々と色んな言葉を並べて予想するけど、返ってこないので俺がドキドキしながら続けた。
「・・・ど、どんな人だったんだ?」
「女の人だったんだが・・・三つ編みして、可愛らしい服着た。アクセサリーショップにいた時で、一瞬だけ顔を見たら、お前にそっくりだったんだ」
やばいやばいやばい。
これって地味に気づかれてるんじゃないのか?
俺みたいな顔の女の子なんて絶対見かけないだろうし、万が一いたとしたらあまりに可哀想だ。
心臓と身体中の音が鳴り止まない。
「もしかしたら、お前のご親族か何かかと思ったんだが。知ってるか?」
そうは言ってるが、何となく視線は怖いような気がする。
多分気づいていない。そう信じようと必死になって、俺は慌てて首を傾げて誤魔化そうとした。
「え、お、俺の親族に女の子なんかいないよ」
誤魔化しとはいえ、嘘は全く吐いていない。
「そうか。・・・じゃあ勘違いか。でも実によく似ていたんだよな、お前に」
「ゃ、やめろよ。そんな事言ったらその子が可哀想だろ」
「何故可哀想なんだ」
「だって俺の顔に似てるだなんて」
あまりにも失礼な話だ。
「確かに男の顔に似てるっていうのは可哀想だが・・・でも、お前の女の子版みたいな感じだったんだ」
いや、いやいやいや・・・それは多分遠くから見たからではないのか?それとも目がとうとう節穴になったからでは?と言いたい気持ちを抑える。
ここまで言うと流石に本当に気づかれてしまう。
他に答える言葉もないので、適当に「そりゃ珍しい事もあるもんだな」とだけ答えた。それから自らも、高峰の珍しい光景を思い出して、気づかれないような言い方に変えて訊く事にした。
しかし、訊くまでに少し勇気を持つ時間が出来てしまった。それとまた、嫌な空気にさせたくない気持ちとの葛藤も。
「・・・そういや、高峰って彼女いるの?」
「は?彼女?」
高峰の怪訝そうな顔に少し怯みながらも、続ける。
「だってお前、モテるし。女子も気になってるんじゃないかな」
「めんどくさい話だな」
彼女いるかでめんどくさいだなんて、贅沢な言葉だ。この言い方はまるで居るみたいではないか。いや、実際その存在を発見してしまったから、どう言い訳されようと信じはしない。
「俺だってさっき答えたんだから、答えてよ」
「・・・はぁ」
俺の対抗に一理あると思ったのか、高峰の反応が変わる。仕方ないなと言わんばかりのため息を吐いた後、俺にしか聞こえない声で答えた。
「彼女はいない」
は?
素直に答えてくれるかと思ったら。俺は少し不満げに顔をしかめる。
「おいおい、素直に答えろよ」
すると高峰も同じような顔をしてみせた。
「素直に答えたつもりなんだが?」
「嘘だあ」
「嘘吐く理由があるか?」
「照れ隠しとかじゃないの?」
「違う」
ならばあれは何だったのか。絶対隠してると思ったが、マジで、いない。と高峰は眼鏡越しからの凄い形相で訴えてくる。あれを見てしまっているから信じないつもりでいても、流石にこの様子の高峰には本当に彼女はいないのかもしれないという前提に変えた俺は、分かった分かった。と高峰を差し押さえて、次にこう尋ねる事にした。
多分、どうせこれも同等の答えが返ってくるのだろうが。
「彼女いないのなら、好きな人とかは?」
すると、表情こそ変わらないものの意外にも普通に答えてきた。
「それも皆無だ。それに恋愛には興味無い」
「・・・ありゃ、そりゃ勿体無い事で」
イケメンで尚且つ知的な高峰の告白が欲しい女子がいっぱいいるだろうに、恋愛に興味無いだなんて可哀想な話だ。興味無いのは俺もそうだけど、高峰と比べられたものではない。
「お前は?好きなやつとか」
「え」
不意に聞き返されて、俺は高峰と同じように否定しようとしたが、何となく魔が差した。
「いるよ」
そう答えてみせた瞬間、高峰の表情が変わった。目が何故か金魚が泳いでるみたいに揺らいでいる。
「・・・マジで?」
「嘘に決まってんだろ」
ふっ、と高峰の様子が元に戻る。
「人と交流なんてない俺が、好きな人なんか出来るもんか」
「・・・だろうな」
高峰はやれやれ、と言いたげに呆れていた。その中に、どこか安堵の影があるような気がして、言った。
「まぁ、君よりも先を越す事はないから安心しなよ」
それ以前、どうせ後々死ぬのだし。
「別にそんな事心配してないがな」
「心配する程のものでもないってか」
「やめろ」
高峰が突っかかるように俺を制止する。その姿が面白くて、思わず細い『笑み』が零れた。
これ以上調子づいて言うと、高峰がいよいよ拗ねそうなのでここで止めておこう。
ほら、もう視線を逸らしてる。
誰かと会話をするのには常に恐怖があるが、正直話が長くなればそれも薄らとしてしまう。とりわけコハクや高峰だと、長くても短くても恐怖も緊張もほとんどない。最初の内だけで、後は平気。それでもとりあえずの礼儀と失礼のないようにはしているが、これでやれているのかは不安な部分がある。
それ以上の事もあるのだがな。
ふと、黙り込んだ高峰をちらりと盗み見る。
(・・・?)
彼の頬がやけに赤い気がした。
(やっぱ好きなやつ、いるんじゃん)
やはり俺の言った通り照れ隠しだったのか。急に顔を赤くするなんてそれくらいしか考えられない。
けどもう何も言わなかった。高峰の様子が完全に元に戻るまで、寝た振りでもしておこうかと、俺は頭を背もたれに預けて目を閉じる。その前に、一瞬だけコハクの姿が見えた。コハクは何だか真剣そうな表情をしていて、どこかをじっと観察しているようだった。
とりあえずほっといて、俺はもう何度目かの自殺方法を頻りに考えた。
そうしている間に、いつの間にか眠ってしまった。暗闇の中に見える何かだけがぼんやりとあって、その後はどうだったか覚えていない。
ホテルという施設がどんな雰囲気のものだったかは覚えていない。もう何年も前に小中の修学旅行でどこかに泊まった気はするが、その記憶は頭には留まっていない。雰囲気を味わう余裕なんか無かったからだ。
けど今は何となくその雰囲気を味わえているような気がしていた。
バスから降りた先に、何十層にも連なった立派なホテルが建っている。高級マンションのような洒落た洋風の外見がよく目に付いた。玄関近くと自動ドアの頭上に、ホテルの名前が刻まれていたが、周りの濁流に呑み込まれて読めなかった。
広々としていて都会のような匂いのするロビーに、ぞろぞろと大量の人間の群れが入り込んでいく。それはもう詰めているものだから荷物を床に置く隙間もない。いくら広々としていても自由な位置にはいられないし、貸切ではないらしいので玄関や他客が通れる間隔は開けないといけない。まったくめんどくさいものだ。
学年主任から長いような短いような説明を受けて、生徒は確認と荷物を置きにそれぞれの部屋に向かう。大量の黒い頭が一斉にエレベーターや階段を利用して消えていく様を、隣にいた高峰とコハクと三人で見届けた。人混みがすいてきたのを見計らい、高峰と共に階段を登る。コハクは女性先生の部屋に行くようなので、ここで一度別れた。なるべく迷惑をかけない事を願うばかりだ。
「何階だったっけ」
「三階の310号室」
その通りに二人で三階に上がると、広い廊下が姿を現す。びっしりと設置された扉から特定の部屋を探すのは時間がかかりそうだったが、うろうろしている内に見つけた。と言うより、同じ部屋になっている同級生が高峰に話しかけてきて、それから案内された形だ。
部屋はシンプルな作りだけど結構綺麗な内装だった。ホテルの部屋らしい嗅ぎ慣れない香りのする清潔感のある空間にはベッドが三つと窓際にミニチェアとミニテーブル、端っこに何故か畳スペースが用意されていた。そこにタンスがあって、既に先にいた同級生の荷物が置いてある。
部屋には一部屋に四人程が泊まる事になっているが、ここは三人用だ。余計なゴミが一人いるせいだろう。きっとこの同級生は友達と同じ部屋で過ごしたかっただろうに。
原因である自分だって別にあんたと一緒にいたくているわけではない。一人で良いなら一人で寝てる。そうしたらコハクも呼べたのに。
埃一つ見当たらない透き通った窓の外からは大阪らしき景色が一面に広がっている。テレビで見た事あるようなものは見えないが、田舎者にはこれだけでも随分と価値観が違う。
「凄い景色じゃね?」
近くにいた高峰に話しかけようとして、言おうとしていた同じ言葉で同級生に遮られた。勿論俺ではなく、高峰に言っていた。
「そうだな」
少し素っ気ない返事が返ってきても、同級生は全く顔を歪めない。寧ろ、気持ち悪いくらいの笑顔だ。
「あ、そうだ。ベッドどうする?」
「どこでもいいぞ」
「じゃあ俺の隣に来いよ!」
ベッドは窓辺の位置から見て左側にあり、ドアの前に二つ、そして俺の目の前に一つだ。それなら、答えも一つだ。
案の定同級生はドアの前のベッドへと向かい、もう既に自分の領域として勢いよく腰をかけた。高峰もその隣のベッドに足を運ぶ。
─足から心の底の部分までが木の棒で砕かれているような気分と痛みが発生した。
いつもの倍以上の孤独感も、じわじわと身に染み込んでいくのが分かる。
ふと自分の頭上を見る。それから瞬時に思い出して、更に痛みが走る。
いつもはコハクがそこにいて、痛みを和らげていた。それに今気づき、それがどれ程助かっていたかを味わった。
特定の人物がいないと自分は本当に独りで、それは何よりも愚かな上に哀れだと感じる。
そうなんだ。俺以外の人間は仲良しという存在を幾度なく持っていて、独りになってもすぐに誰かが駆け寄ってきて仲間に入れてくれる。そもそも、人間の周りにいる三人に一人は仲良しで、すれ違う相手でさえも仲良しで手を振る。ある意味一般人の常識で、当然の事だ。
ただ一人その一般常識を持っていない俺は、もはや社会的に出るには相応しくなさすぎていた。
どうしてこうなるんだろうか。昔から指で数えられない程こういう場面に遭う度に思っていた。
窓から見える景色はちっとも綺麗じゃない。清々しい筈の空は薄暗くて曇っているように見える。
部屋の外からはがやがやと話し声がするけど、この密室の中での話し声の方が耳障りだった。
早く部屋から出たいとお経のように唱える。何か言い訳を決めて部屋を出て、集合の場所にすぐに行けるようにでもしようかと思って、とりあえず集合に必要なものだけ持って、ついでに自販機でジュースでも買おうと思って150円を握りしめる。
二人は気づいていない。それどころか俺の存在すらにも気づいていないのかもしれない。
それが好都合なのか不都合なのかの両儀は上手く判断がつかない。
まぁ、もうそんな事どうだっていい。
どうでもいい事で気分を更に悪くするだなんてごめんだ。
俺は静かに戸を開け、そして静かに部屋を出ていった。部屋の中の声は安定したままで、むしろ、俺がいなくなって声が大きくなった気がする。
ほんときついなぁ。
あらかさまに、そういうの示さないでほしいなぁ。
そんな想いとは裏腹だった。
いっそこの階から落ちようかな。
勢いづいてそう考えた。
ガッコン、と一瞬の音と共に落ちてきたオレンジジュースに、俺は驚愕した。
「あれ・・・俺、コーラ買ったよな」
けどどう見たって、拾い上げたそれはオレンジジュースで、でも美味しいやつ。俺は確かコーラのボタンを押した覚えがある。
その後出てきたお釣りは20円で、コーラは150円丁度。それをきちんと入れたからお釣りなんて有り得ない。
よく確認したら、オレンジジュースは130円と値段がつけられているのが分かった。それで初めて、本当に間違えてしまった事に気づいてしまった。
(アホか・・・)
自分の頭を小突く。
そうすると突かれた感覚がゾワゾワと身を徘徊していく。
「はぁ・・・」
胸のあたりを抑える。さっきからこの辺りと気分が落ち着かなかった。喉に魚の骨が刺さった時のような違和感と不快感が視界さえも滲ませていく。
自販機だからどうする事も出来ないオレンジジュースをとりあえずリュックのポケットに入れて、目の前のベンチに座る。一息吐いて、自販機の壁部分に寄りかかって時間を潰そうとして、そうしている内にあの学年主任が周りにいる生徒達に声をかけ始めた。それから程なくしてそれぞれの部屋にいただろう生徒達が階段やエレベーターを降りてきた。
おっと、こりゃまずい。
俺は立ち上がり、隅の方に移動する。あっという間に再び埋め尽くされたロビーで、同じような話を聞いて、それから担任が自分達の生徒を集めていく。俺もいつの間にか来ていた高峰に乱雑に手を引かれ、番号順に並ぶと、担任からうだうだした説明が入る。
一日目はクラスごとで事前に決めた場所へとあちこち行って過ごす日だ。最初は確か修学旅行お決まりのどこかの寺に行って、その後水族館とか、他にも有名なスポットには行くらしい。
俺はあまり決められた場所の名前を覚えていない。決めた時に高峰が教えてくれたり、しおりにも書いてあったけど、すぐ忘れた。どうせ楽しくない旅行の先など、覚えていても仕方がないだろう。とりあえず皆についていって、お土産だけ買う。修学旅行の目的なんか大抵それに限る。純粋に楽しめるだなんて、これっぽちもない。そんな事は有り得ないのだ。
バスに乗ろうとして、人混みの頭上からふよふよとコハクが此方に近づいてきているのが分かった。幽霊とはこんな所が便利なのかもしれない。肩には荷物の入ったリュックを提げている。とりあえず合流すると、再び先程と同じ位置につく。荷台に乗る前にコハクは、持ってきているリュックを見てから俺に言った。
「流石に下着とか服とかは置いとけないから、全部このまま持ってきちゃった」
「それが最善だな」
コハクが持っている時は良いのだが、持っていないと一応物体だからその存在が目に見えてしまう。そうなると色々ゴテゴテして面倒くさくなるだろう。
死者の世界と生者の世界の境界は極めて極端で、幽霊と化した死者が現世のものを持つと、それは突然色を無くし、重量さえも失われたもの、例えて言うと飲み干してしまって空になったペットボトルだとか、アイスのパッケージだとか、そんな風な雰囲気になる。その上その存在は肉眼では見えなくなる為、現世のものは完全に死者の世界へと移っている。ただし触れただけのものは変化が起きない。勝手に動いてるように見えるだけ。と、コハクは言っていた。現にコハクは現世にあった筈の食べ物や飲み物を食べて、現世に戻ってきた皿は綺麗に片付いてしまっている。ただし、それはあくまで無機物のみであって、常に忙しく動く人間や鳥なんかの動物は境界を跨いで死者の世界へはいけないらしい。仮にそれが可能であれば、俺はとっくにコハクと同じ世界に立っていることになっているだろう。
今まで見た通り、テレポートとか浮遊とか、幽霊には能力というファンタスティックなものがあるようだが、その能力を持った幽霊は数少ないらしく、余程の怨念や執念、未練がないとそういったものは生まれないらしい。コハク自身が少し前にそう語っていた。もしそれが自分だとしたら?と聞かれたが、俺は幽霊にはならない、と答えた。何故なら俺にはどの気持ちも残らないだろうから。誰にも悲しまれず、惜しまれず、消えた事にすら気づかれないのはもう目に見えてる。それに対しての恨み辛みなんてとっくに失せている。
そんな事を考えて、ふとコハクの透けた足が、一瞬だけ黒く見えた気がした。いや、全くコハクの身体に汚れはない。いつも通り、透明度の高いしなやかな姿があるだけ。
───あれ?
─────じゃあ、何だろう?
目が悪くなったのだろうか。
取り巻く何かが視界に曇ってきた。目に涙が浮かんでいる時のように周りも滲んで、痛い。ついでに言えば、潜むように恐怖心もある。
それから、ぼんやりと視点の合わない先に、黒い人影が数人程見えた。
───あれは。
しかし、それはほんの一瞬の事。考える間もなく、線香花火の末路のように突然として落ちて消えた。誰かに声をかけられた反動なのかもしれない。
「おい、眠いのか?」
いつも通りの高峰がいる。間の抜けたみたいな顔が取り巻くものを消していく。
「違う。ちょっと目にゴミが入っただけ」
その偽りの理由の中に、気のせいだという切実な願いを込めた。
コハクはいつの間にか荷台に寝っ転がり、まるで家にいるみたいに寛いでお菓子を食べていた。いつも俺の部屋にいる時と何ら変わりないその姿に、何となく安心感を覚える自分が、不思議でかなわなかった。
✣✣✣✣✣✣
そうした安心感をぐちゃぐちゃに噛み砕かれたのは、三日目の夜の事だった。その日のイベントを終えて食事と風呂を済まし、もう目一杯枕投げをしていた男子達さえもすっかり疲れて心地よい夢の中に行く頃になって、
───俺はとある夢を見た。
───見覚えのある教室。ミニチュアみたいに飾られた小さいサイズの無数の机、椅子、壁に磔にされた黒板、もう何年も使い古された木製ロッカー、それとランドセル・・・
そこに、誰かが立っている。空という空ではなく、ぶちまけられた黒いペンキの背景を背中に、それは幼い子供がぽつり、鉛筆を立てたみたいにそこにいた。整えられた何のくせっ毛もないこげた茶髪と、汚れの少ない白いポロシャツ。すこぶるどこにでもいるような姿の少年である。けれども、その少年の視線がどこを向いているのか判断が難しかった。虚ろで、光の混じり気もないその瞳は、もはやこの場所どころか、肉眼では見えない別の世界でも見ているかのような風だった。あるいは幽霊か、狐が化けたのかと思うほど、この少年の佇まいは不気味であった。
表情も変えず、微動だにしないその姿は皮肉にもこの孤独に静まり返った教室には良く似合った。触れると脆くて、後に何も残らない空虚に満ちたドールハウスの中に取り残された人形の如く。一言で表すと、ただのオブジェだった。
だけどもこの少年はまだ綺麗であった。
少なくとも、この状態が続いていたなら、まだ綺麗であった。
───────────
ぶわっと、たんぽぽの綿毛が弾け飛んだようにその場の空気が変わった。
────煩い。
人間の声がした。少年のものではない。それどころか無数、いや、無限にも存在する大量の人間の声が一斉に鳴り始めた。
それでも少年は動かない。だが先程よりも、表情が強張っている。それから何かに堅忍しているように、唇を噛んでいた。少年の焦点はいつの間にかその場に定まっていた。その視線の先には、固まった泥一つ無い真新しい箱に詰め込まれている林檎のような大量の人の幻影が、影と影の隙間に空いた場所をころころと転がるようにうねりながら、それはもう愉快で空っぽな笑い声を上げ、バシバシ、ドタドタ、パラパラ、ガタン、─────統一感のないオノマトペのオーケストラは途絶えることを知らない。一人だけの観客は延々と聞かされたままなのにも関わらず、耳を塞ぐ事をしなかった。俯き、まるで当たり前のように下を向く。噛み締めた唇から赤みが滲み、時折垂れた手がピクリと動く。時が過ぎ、少年はそうしたまま、再び表情を無に返した。それから目を瞑る。すると、あれだけひっきりなしに轟いていた楽器の声が、ぴたりと止んだ。だがすぐさま、上靴の擦れる音と迫り来る気配を感じて、ぞわりと身体をなぞるような恐怖と共に目を開けた。
ずさりと刺さる、獲物をしっかり捉えた鋭く殺意に満ちた視線。それが目に入ったかと思えば、突然、重く硬い音が響いた。繋げるようにどさりと音を立てて少年が床に落ちる。
倒れた少年の頬には唇ほどに赤い色を帯びた腫れが生じていた。見上げないと正体の分からなくなった相手の手は拳を構えていた。口角を大きく上げ、少年を見下ろしては愉快げに笑っている。だがそれ以上には声は出さなかった。代わりに、その力強く握られた拳が物語っている事を少年は既に知っている。
相手は少年の義務教育の間をずっとつきまとうように共に過ごした男だった。虚空の扱いの上の理不尽な暴行。その需要の有無を考えることは、少年にはけして容易くはなかった。
少年のみが分かるだろうただ一つの事は、この何層にも重なった一つ分の痛みが、後に二つ三つと増え続けていくだろうという事だろう。
悪夢は果てしない。
でも、この時の命は辛うじてそこにあっただろう。
ああ、また、痛みが─────
✣✣✣✣✣✣
───ぞくっと酷い寒気を感じた。
ぐるぐる廻る視界に、薄暗い天井が浮かぶ。開けっ放しのカーテンの窓の光に照らされて、その構想ははっきりと見えることが出来る。横の二つ分のベッドから二つ分の寝息が聞こえてきて、それから次に自分の心臓の音が耳に入ってきた。
──どっ。
その音はやけに大きい。それどころか痛い。まるで金槌で刺される釘のようなスピードで、その痛みが襲ってくる。
混じえて、ズギッと一瞬だけ激しい痛みが走る。それで小さく唸り声を上げたが、辺りは沈黙を保っている。心臓部に抑えた手を除けて、おもむろに起き上がってみると、目眩がした。あのまだ痛みはある。音もする。
しばらく呆然として、何故こうなっているのかを思い出すと、脳裏に突然過去の光景が浮かんできた。
あぁ、そうだ。俺は過去を見ていたんだ。あれがまとまって、何故か夢として形態されていた。
でも何故今更、そんな夢を見た?
夢なんかで確認しなくたって、自分はきちんと自覚しているというのに、あれはまるで再確認を求められているようだった。
今まであれだけリアリティのある夢は見てこなかった。一部の光景なら幾度となく夢に現れた。幼い頃の話なら特にそう。
「・・・・・・ぅぇ」
また突然、今度は吐き気がした。慌てて口を手で抑えると更に吐きたい衝動に襲われる。
もしかしたら只事じゃないかもしれない。
俺は二人を起こさないように静かに部屋を出る。無論部屋にも洗面所はあったが、もし起こしたりしたらばつが悪い。
足音は少しだけおぼつかない。幸い廊下は電気がついていて道は分かるが、上手く足に力が入らず、壁をつたっていかないと先には進めない。不気味な静けさに若干の恐怖を背に足を動かし、エレベーターに乗り込む。
降りた先にはロビーの休憩スペースが広がっていた。自分が立つすぐ目の前に自販機とソファがあるのを見て、少しだけ気持ちが落ち着く。けどもすぐ吐き気が増してきて、急いでトイレに向かった。
洗面所と顔を合わせ、幾分か吐き気が紛れたのを確認して、休憩スペースに戻ってくると、すぐさまソファに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
あの痛みは先程と比べるとマシにはなっていた。目眩はしていないが、視界が少しだけおかしくなっていた。
「・・・」
窓からの景色ははっきりとしていない。外の建物の光はぼんやりとしか光っておらずほとんど役に立っていない。その中に映る、ソファに深く腰掛けた自分の姿だけがはっきりとあった。
あの時とは全く違う姿。
あの時に期待したものとは全く違う姿。
泣いていたあの時とは、違う。
今はもう涙の味を覚えていない。
だけどあの血の味は改めて思い出していた。
血も涙も同じ類なのに、出る幕が違うだけでこんなにも違う。
何故こんなにも身体が狼狽し、こんなにも衰弱しているのだろう。
あんな夢を見たところで、今更・・・。
訳が分からず、眩む脳を動かして考えようとする。
ふと見れば無能な半分無機物が見るに耐えないその醜態を世間に晒している。
弱っちくてボロボロ。悪夢の中の自分そのものだ。
あぁ、滑稽な事だ。
ははは。
はは・・・?
・・・笑ってる?
窓の内側に映る自分は、情けなさそうに笑みを浮かべている。
待って。何故?
・・・まさか、とふと脳裏に浮かんだ節があった。
(高峰と・・・?)
彼が出てきてしまったということはその確率は高い。
彼と接触していく中で、何かの拍子で生き返ったのだろうか。
・・・?
なんで生き返ったなんて発想が生まれたのだろう。
それはまるで、笑う事のあるきっかけが出来たみたいではないか。
そもそも、今までの十数年間の人生の中で、自分が笑ったことがあったのだろうか?少なくともその経験は今の現実的な夢の中にも、自分の思い出せる範囲内にも、あまりなかったような気がする。多分、祖父に対しては作り笑いをしていたような気はするが。
それ以外、口角を上げたりすら自分はしてこなかった。それは断言出来る。無のまま、誰かにただ自らの身体を痛めつけられ、傷つき、そして自分でも痛めつけて、どうにか終わらせたいと願い、それでも尚現在に保たれたままの自分が、どうして今更笑うだなんて感情を出せるのだろうか。
分からない。
分からない?
・・・・・・・・・・・・。
急に、何か飲み物が飲みたくなる衝動に駆られた。
だが生憎、今はお金など所持していない。あの吐き気とふらつきでそれどころではなかったし、それを前提に暗闇の中から探すのは到底不可能に近い。
スーパーの休憩スペースではないので無料のお茶のサーバーなどあるわけがないのだが、一応探してみる。やはり無いことに脱力して、なるべく欲を抑えることに努める事にした。
そうしていると、ふと、自販機の方からガコンと飲み物が落ちる音がした。まさか先生か?と焦って体勢を整えたつもりを装って、音の方を確認した。
しかし、そこには誰もいない。
その事に疑問と同時に安堵した──かと思った。
ぞわりとした。唐突に、水気と今までにもないような冷たさが同時に、頬に差し掛かってきたのだ。
「なっ、な・・・?」
慌てて振り返って、俺は驚いてしまった。そこには先生ではなく、黒ストライプ柄の寝巻きに身を包んだ高峰が立っていた。片手には水滴の溜まったスポーツドリンクが握られている。
「た、か峰?」
名を呼ぶと、高峰は何故か無言で俺に圧力をかけて、隣の方に座り込む。それからドリンクのキャップを開けて、自分が飲むのかと思いきや、俺にそっと差し出してきた。
「自分で飲めるか?」
「・・・多分」
問いただす言葉もお礼も言えず、朧気な手で受け取る。腕力が弱くなってるからか、それとも虚ろなせいか、持っている感覚が少し感じられない。
残存する気持ち悪さが全身を覆い、一向に次の行動に進めない。
「後で飲むよ」
諦めて、テーブルにドリンクを置く。
すると高峰は黙ってソファから腰を上げ、自販機の方に向かい、ペットボトルではない、紙コップタイプの自販機からアイスコーヒーを買い、中身だけ捨てて戻ってきた。
一体何をしているのか分からなかったが、突っ込むような口出しする元気がなかった。彼は空の紙コップに付着したコーヒーの雫をティッシュで拭き取り、そして綺麗になったコップにスポーツドリンクを注ぎ込み始めた。
「・・・なんで俺が部屋にいないって、分かったよ」
コップに注がれるドリンクを眺めながら、俺は少しだけしかない力を振り絞って、静かに尋ねた。
ペットボトルのキャップをしめる音と共に、高峰は言った。
「お前がどこかに行く所を見たからだ。異様な動作だったから、まさかと思って」
「・・・あんたずっと起きてたのか?」
「ん、まぁ、そんなところだ。どうにもやはり、ホテルのベッドだと寝づらくてな」
「・・・それで、わざわざお金まで用意して俺の後をつけてきたんだ?」
よく俺の場所が分かったな、と言うと同時、俺の口元に紙コップが突き出された。ちらりと高峰を見ると、このまま飲め、と促してきた。つまりは高峰が持っていてくれるという事らしい。
まるで乳児に与えるとか、老人の介護みたいでかなり恥ずかしかったが、それでも手は動かないみたいだから仕方ない。
僅かにコーヒーの味が残っている。ある程度飲ませてもらい、俺の安否を確認されてから、会話が再開する。
「どうやって俺がここにいるって、分かった?」
気づかなかっただけで背後にいたのかもしれないが、もしそうであれば黙って見守っている筈がない。多分。この人は何となく。今までの経験から。
「エレベーターに乗ってるのが見えた。下に降りてたから、ここなのかと」
「・・・流石」
事が起きたらすぐ駆けつける。もうすっかり理解したように思える、こいつの特徴の一部。彼の中のアイデンティティを垣間見るようだ。
無自覚か自覚か、ヒーローのように無邪気で、一寸の闇も見当たらない。その特徴を生かして、彼があらゆる人間の手助けをしている所なんて見飽きたものだ。それは人間として、人間の先入観から、実に正しく美しい、彼こそがいわば正義と言っても過言ではない。それが彼の、世間からする評価であろう。
けど可哀想だと思う。
その特徴の活用方法を、高峰は間違っているのだから。
何割かは正常に使用しているけれど、きちんと有効的に使用する為には、その対象を選ぶ事を誤っていけない。
特に今の彼の使い方は最も誤った使用方法だ。
「・・・なぁ、高峰」
高峰は俺の背を、優しく摩っている。
「そろそろさ・・・俺に構うの、やめたら?」
その特徴を捧げるべき相手の一人に、俺はいらない。俺自身だって、本当はして欲しくなんかないのだ。同情も誠実さもいらない。出会わず、ずっと赤の他人でいる方が、お互いにとって幸せなのに。
意思、心、気持ちが、ぐしゃぐしゃになっていく。そうしていては、こっちまで誤作動を起こしてしまいそうで、また同じ事を繰り返しそうで。
高峰が眉をひそめた。
「何故そう言う」
「あんたは、俺といるべきじゃない」
「俺が誰といようとも俺の勝手だ」
強く言い返されるけど、俺は続ける。
「けど、俺だけはやめといてよ」
「だから何故お前といてはいけないんだ?何故やめておかないといけない?」
「・・・もう分かりきってるだろ?俺はずっと死ぬ事だけ考えてる。実行してる。あんたはその度に俺を助けて、損ばかりしてる。今もそう。この前もそう。あんたは何度俺を助けた?・・・もう、充分だろ。いい加減、やめようよ」
無意識に、自然と言葉が紡がれていく。
「仮にそうしたらどうする?お前は確実にいつか自殺するだろう」
「それで良いのさ」
「何が良い?一体何が良いというんだ?」
「それが俺のすべき事だからだよ」
そう答えた瞬間、高峰が俺の胸ぐらをつかんだ。視点が強制的に高峰の方へと向く。
高峰の鬼のような形相が、自身の瞳にばちりととまって、火花の幻覚を見たと同時に心臓が逸走強く鳴り始めたのが分かった。
「話がまるで噛み合ってない。お前は何かふざけているのか?俺を戸惑わせたいのか?それとも困らせたい?訳の分からない事を言うな!不快だ!」
今までにない程強い口調だった。彼の怒号に近い声が耳を劈き、頭の隅にまで行き届いていく。今にでも俺を殺しに襲ってきそうな勢いが、胸ぐらを掴む為に握り締めた指一本一本から靄を出している。
背筋を氷の欠片が流れるような冷気が滑り落ちていった。
高峰の腕力はそのほっそりした身体つきには似合わない強さがある。それは毎度毎度、俺の所業を邪魔する煩わしい対象物でしかないが、今は煩わしいのではなく、恐ろしいという気持ちで満たされていた。
そして何よりも、優しく背を摩っていた手が突然豹変し、俺を襲っている事が、たまらなく怖い。
「お前は何を課されているというんだ!死ぬ事で誰かに税でも払おうとしているのか!?」
「税だなんて・・・っ」
高峰の声に気圧されて、上手く言い返す事が出来ない。
別に他人に与えられた義務ではない。自らが自らに与えた義務だ。与えたのは自分なのだから、他者のせいにはならない。
そう言いたいのに、怖くて、言えない。
「早く答えろ!北沢!」
今まで高峰に対して恐怖心を抱いた事があっただろうか。
いや、そもそもただの人間に対して抱いた事があっただろうか?
「黙り込むな!」
怖い。
動けない。
何も答えられない。
──あぁ、あぁ。
恐怖に支配を許すと、益々思い出してきた。
その俺の胸ぐらを掴んでいる片手が、もうじき、俺の頬に飛んでくる。
あの頃のあれは怖くなかった。九年間、もう何度だって傷をつけられたか分からないくらいに痛めつけられた。その痛みが生まれる瞬間と痣の形を、精神と身体がしっかり覚えている。
なのに。
どうして、今更こんなにも怖い?
片手は一向に俺に飛んでこない。
けど不意に、高峰の表情が変わった。あれだけ眉間にしわを寄せ、復讐に燃えたぎる強い心を持っているみたいな瞳で俺を睨みつけていた彼の顔が、一瞬にして青ざめていった。眼鏡にさえ、怯えに近い色味が感じられる。
──あれ?
何か、違和感がある。
その時初めて気づいた。それから、久々にその感覚を、無意識に受け入れた。
目元が熱いもので曇っている。まっすぐ捉えていた高峰の顔が、徐々に滲んで見えていく。
何の前触れもなく、俺の頬を、瞳から一滴の雫が滑り落ちていった。ポタリという音も立てず、高峰の手の甲に落ちる。
「・・・え?」
何が起きたのか分からなかった。けども身体はその状況など全く気に留めず、雫が次々と瞳から零れ落ちていくばかりで、俺はただ呆然としているしか他になかった。
「お前・・・泣いてるのか?」
───泣いてる?
その言葉で、ハッとした。ようやく今の状態を理解し始めた。
泣いてる。
俺は今、泣いているのか。
ずっとずっと、死んでいた感覚。絶望に見舞われたあの日から、もう味わう事の無いものだと肯定し続けていた感情。
でも何故?
何故自分は今更この感情を蘇らせた?
「・・・・・・あ・・・あ・・・」
考えれば考える程、涙の雫が溢れては落ちていく。
「・・・俺、なんで、泣いて」
「悪い・・・っ!」
突然俺の身体が解放され、ソファの背もたれに落下した。それでも涙は止まらず、高峰から向けられる狼狽したような表情は、あまり視界には入ってこなかった。
「ひとまずこれで・・・っ」
高峰がズボンからハンカチを取り出し、俺に差し出すが、もはやもう、行動不能の状態にあった。体調不良の面もそうだが、久々の感覚にどうすればいいのか分からなかったという方が今度は大きい。
もどかしそうにしていた高峰は、遂に自らの手で俺の瞳や頬に濡れた涙を拭い始めた。その手つきはとてつもなく、優しい。穏便なる高峰の仕草が戻ってきて、少し安堵したのと同時に驚愕した。
一度は敵の眼差しを向けられたのに、また味方の優しい施しを受けている。
今までには有り得ない展開だった。
次々と未体験のものが身に入り込んでいく。
いよいよ頭が真っ白になっていくのが分かった。────
✣✣✣✣✣✣
涙が止まるのはその頭が色を除け、ぎこちなく動き出すのと同時だった。
俺の横に座り込み、ハンカチをか弱く手に持ったまま、高峰が苦しげな声で言った。
「・・・さっきは悪かった。あんな事、しようだなんて微塵も思っていなかった。自分でもあれは実に恥ずべき行為だったと思う」
「・・・もう良いとこけどさ。・・・なんで、あんな事するってなったの?」
間を置いて、彼は静かに答えた。
「お前の、その過剰な自虐だ」
「・・・過剰な自虐?」
「お前は明確で正当な理由も教えず、いつもひたすら自虐ばかりしている。一緒にいるべきじゃないだとか、自分は自殺するべきだとか、そういうのを聞く度、腑に落ちなかったんだ。理由を知らず俺に言える事があるか?お前のその諦めたような顔を変えられるか?なのに、お前は何も語らない。自殺するべきという、証拠を一切出さない。それが随分ともどかしくて、イラついてて、仕方がなかったんだ」
彼は項垂れ、手の平で顔を埋める。
「だがそれを無闇にさらけ出してしまうのは横暴だから、我慢していたのだが・・・まさかこんな場面で弾けてしまうだなんて思いもしなかった」
本当にすまない、と今にでも消え入りそうな声で呟く高峰を見下ろし、冷静さを取り戻しつつある頭をしっかり点検してから、俺も謝った。
「俺こそ。急に泣くだなんてどうかしてた。そんなつもりなんかなかったのに」
実際ではつもりどころの話ではない。もう二度と現れる事の無いだろう感情が、一抹の恐怖でこんな呆気なく目を覚ましたのだ。
「俺、お前を怖がらせてたか?」
「・・・まぁ、うん」
「確かに、暴力に持っていくだなんてな」
そう言って高峰は苦渋に満ちたような顔をするけれど、あの恐怖心は暴力から来た訳では無い。恐らく、過去のあれこれが再現されるような展開になってしまうのだという、その部分だと思う。それにあれは暴力ではない。ただその準備をしただけの事。だから彼に罪は無い。それどころか、高峰はかつての彼らのしなかった、俺も想像でもつかなかった事をした。
「あんまりそういう顔しないでよ。別に暴力で泣いたわけじゃない」
本能的に彼の表情は本意ではないという言葉がよぎるが、一応寂しく宥めておく。
高峰はまだ何か言いたげだけど、俺はそれを制したい程あの事についてを聞きたかった。他にだって山程あるし、本来なら一番最初に尋ねたかったのだが、たまたま先に別の事が出てしまった。
「そんな事より、お前、なんでさっき俺にハンカチなんか出したんだ?」
あの彼らなら行う事は有り得なかった。こんな要らない奴を助けたってどうにもならないと、小学校当時の担任にだって言われた事がある。
「なんでって・・・そりゃあ当たり前だろう。目の前の友達が泣いていれば、ハンカチでも何でも、出すのは務めだろう。しかも元凶は自分なんだから」
身体中に震えが走った気がした。その残響のようなものを感じた後、自らの顔は無意識に、しかめっ面に変わっていた。
友達だから、という言い訳の代名詞のようなその言葉は、まるで綺麗すぎている。そのあまりの清潔さに、気持ち悪くなる。
俺は彼の放った『友達』を打ち消した。
そして思い切って、言った。
「・・・お前は綺麗な奴だよな」
「綺麗な奴?」
「よくそういう事平気で言えるよね」
「逆に言えないものなのか?」
「そういう意味じゃなくてさ」
微動だにせず変わらない彼の表情と発言に、不審な気持ちになる。
「本心からじゃないだろ?そういうの。あくまでさ、自分が良い奴だって思い込む為の手段の一つなんじゃないか?駄目だと思うよ、それ。後から相手が辛くなるんだから」
「辛くなる?悪口ではないのにか?」
彼にしては珍しい、心底驚いたような顔が俺に突きつけられる。まるで世間知らずの蛙みたいな様子に若干苛立ち、俺はもういっその事言ってやろうと口を広げた。
「お前はいずれ、俺を裏切る。仲が良い奴がもっと出来れば、お前は何事も無かったみたいに、俺から離れていくんだ。そしたら・・・」
仲良しが出来た経験なんてどこにも無い。だけど、それ故の絶望を他人伝いに間接的に味わってはいるのだ。
それに、高峰が本心から俺と一緒にいて、友達になりたいなど思っていないと信じている以上、これ以降の進展は欲しくなかった。
「・・・だから、俺とはいるなって言ってるんだ」
少々躍起になって、高峰に訴えた。
「お前自身はお世辞や情けで俺と話してるんだろうけど、それでお前は俺に希望を期待させようとしてる。そして絶望を味わせようとしてるんだ。もう止めてくれないかな。もう本当に身が持たなくなる」
目の前で話をするこの高峰という男がやがて俺を思い切り突き放し、冷たい眼差しを向け、ついさっきのあれがいよいよ俺の頬に直撃してくるのを想像すると、本当に怖い。
暴力など容易い方だ。裏切られた瞬間の彼からの視線の方が余程人の心臓を潰しに来ている。
そうならぬよう、期待の心を殺した。なのに、いつの間にか生き返っている。高峰と出逢って色々な事を共にしてから、薄々とは感じてしまっていた。けどそれを易々と受け入れたくなくて、ずっと死んでいると肯定し続けていた。だけど、まさか笑顔や涙まで出るようになってしまうなんて。
「・・・北沢は、過去にそうされた事があるのか」
「いや・・・そもそも他人と仲良くだなんてのもした事今までなかったから、直接的な経験は無いけれど・・・、でも実情他所がそうなってる。それを、意図的に味わおうなんて俺は思わない、絶対に」
かつて目の前や横、いや、教室中の同級生が何人かグループで囲って話しているのを見ていた。それを眺めていたら、翌日かその明後日には誰かが抜けていたり、あるいは誰かが昨日の味方に散々に蹴散らされ、場所を失っていた。
その笑顔が背筋が凍る冷酷な瞳を宿すのを見た時、俺は思わず身体を竦ませた。
絶望の限界はとうに過ぎている。それに重なりを重ねられては関係無い内側の箇所までを削られてしまうであろう。
特にこの相手の高峰は後々裏切られた時の代償の底が見えない。
ただ、死にたくとも全く死ねない自分に対する苛立ちを更に募らせるような挑発の要素に成りうる事は目に見えて既に苦しくなる。
「一度の裏切りでも俺には耐えきれない。だから下手に寄ってこられても俺が困るんだよ。それに、あんたに良い影響なんかも与えられないぞ」
「・・・、それは置いとくが、それが原因で自殺しようとしているのではないんだな」
「それはもう最初からだよ」
「最初からって・・・どれくらい」
「・・・言い方悪かったかも。気がついたらって意味だよ。自分が不必要だって、気づいたりした時くらいじゃないかな」
誰かに自分自身の話をするだなんて初めてだった。その中の一部を語っただけで、不思議と身体のあちこちを圧迫していた何かが軽くなったような気がした。けど、それ以上に不安が募る。
高峰の問いには正直に答えたけど、次に何と言われるのだろうか。
「・・・とりあえず言っておくが、」
高峰の右手がぐっと握られる。
「お前も俺を知ってるわけではないだろう。勝手に他所と俺を同一視されては困る。それとも・・・俺はそいつらと同じ事をしようとしているように見えるのか?」
「・・・いや、そういうわけじゃないけど」
「なら勝手に決めつけないでくれ。いつか裏切る、とかそうじゃなく、北沢は、今ここでお前と喋っている俺と向き合ってくれ。俺を知れ。期待するんじゃなく、俺を試してみろ。そうすれば、俺がどうするのか、分かってくる。だがな、先に宣告しておくが、俺は裏切る行為などするつもりはないからな」
真剣な声色の高峰の真っ直ぐな瞳が、しっかりと俺を捉える。人間が誰かに対して、こんな目をするのかと考えてしまうくらい、彼の表情は本気を交えているように見て取れた。
「何かのきっかけがない限り、お前はこの先も自殺行為を続けていくだろう。俺はそれらを全て受け入れ、そして何度だって阻止する」
だが、と少しの間が空く。彼は複雑そうに口角をうねらせた。
「全てを受け入れるにはお前の視点の世界を多少は知っておかないと、俺もやりきれない。下手に言ってお前に嫌な思いをさせたくないんだ」
「・・・なんかほんと、変な奴だな。なぁ、君ってやつは」
今まで聞いた事も、ましてや言われた事もない言葉が次々と届いてきて、思わずそう零れた。他に言うべき事は沢山あるのに、もはや薄い苦笑いしか浮かべられない。
「・・・君は俺を彼女とかと間違えてない?普通は他人になんて言わないよ、そんな恥ずかしいの」
「俺は性別とか関係とかに囚われず、誰にでも分け隔てなく接したいんだ。こいつはこうだから、で対応を変えるだなんて出来ない」
「平等に扱いたいわけだね。人間が好きなの?」
それ程に言うのなら、この人は相当人間に対して好意を示しているのだろう。
しかし、高峰は首を傾げた。
「いや・・・そういうわけではない。俺はただ・・・本当に心から通える友達が欲しいんだ」
「でも、高峰なら友達なんて沢山いるんじゃないの」
「別に沢山いるわけではないが・・・、俺も上辺だけの関係にうんざりしていてな。ただお互いに楽を求めるだけで、それ以上の深入りを試みない。それを続けていればお互いいずれ独りになるだけだし、お前がそう言ったみたいに裏切りを働く事だってあるだろう」
「あぁ、・・・うーん、でも、逆に親しみを込めた心で誰とでも、も有り得ないよ。俺が言える立場じゃないけどさ、確かにあれは友情と呼ぶには難しいけど、本物のそれを形づけるのは、もっと難しい事だよ、きっと」
恐らく高峰は、意外にも所謂青春とかの類の輝かしい夢を見たいのだろうけれど、残念ながらそれに賛同は出来ない。けして高峰のスキルを見くびっているわけではないし、友達の一人もいない自分が意見を述べるのもお門違いなのだが、それでも本物の友情、友愛を既視感のあるようにはっきりと宣言する事が不可能なのは確かだと思う。
「それに皆、別にそんなのいらないんだと思うよ」
「なら何故、青春映画なんか作られるんだ?もし皆が友情を必要としていないのなら、あんなものを作る気になどなる筈がないだろう」
「あれは違うだろ、ただ有名な俳優がやってるからだよ。別に男女それぞれの熱い話が見たいんじゃない」
まぁ、でも。と、俺は口角を上げ、微笑むような顔を作った。恐らく向こう側からは間抜けな面をしているだけにしか見えていないのだろうが。
「俺と違って顔も性格も良いんだから、あんたならいつかそれに似たマシな友達が作れるんじゃない?」
根拠なんて何も無いけども、ここまでの良人なら生きている内は不可能ではないだろう。俺とは違うのだから。
「俺は、お前の友達じゃないけど、どうであろうとお前の求めるような奴にはなれないし」
「・・・いや、それでもお前はさっき俺に自分の事を少し話してくれたじゃないか」
「あれは、まぁ・・・勢いもあったけど」
「それに、無理になれだなんて俺は言ってないぞ。こっちがお前に寄ってるだけで、理想は押し付けない。お前はそのままでいればいい」
「わ、それって、俺に自殺行為を続けろって言ってるようなもんじゃないか」
茶化すように、小さく驚いたような反応を示してみせる。それを見た高峰は控えめに眉をひそめた。それから天井に向けてため息を一つ吐いた。
「そりゃあそのままとは言ったが、俺が言ってるのはお前の内面の事だ。・・・まったく、こっちは笑い話をしてるじゃないんだ。茶を濁すな」
「へいへい。それならまぁ、俺との交流は、今の状態で満足って感じ?」
「まぁ、そういうことだ」
「ふぅん」
「ただし、今のところはな」
「はぁ?」
納得した次の瞬間に、また新たなものがぶっ込まれてきて、少し動揺する。
「何それ、ずるくない?」
「ずるくない。友人関係に有限はないからな」
「えぇ・・・」
何だか腑に落ちない理由だ。
「・・・高峰は、最終的に俺とどうなりたいわけ?」
こっちが自分じゃ無理だと公言して、無理強いしないそのままでいいと言われたのに、今のではまるで全てを覆してしまうではないか。いずれかは彼の望む所謂『友人』になってもらう。そう言いたげだ。
何故自分なのだと先に尋ねるのは諦めた。もうこの話でこれを話題にするのは今更すぎる。聞きたいのは山々なのだが、そうするとまたうだうだと永遠な長話になるだろう。
またいずれ、別の機会に訊くことにしよう。
「あんたはさっきから友達っていうけど、俺達がしてる事って、死ぬか死なないかの攻防じゃないか。それで決着が着けば、そこで関係って終わっちゃうんじゃないの?そしたら、友達どころの話じゃないよ」
本気だと受け取れる脳はあっても、彼の言葉が丸々真実を語っているのかは未だ信じ難い。そもそもその本気とは何に対してなのか。気持ち悪くなる程の綺麗な言葉を並べる事か、自分よりも弱い奴にも平等に接したいという性分をあるがままに押し付ける事か、あるいは、純粋に自殺を阻止したいだけなのか。される側は彼の波に流されるだけでそこまで探るに余裕が足りない。
その上に、いずれ起こりうる未来を想像すると、彼が望むものを自らが与えることなど出来るわけなかった。仮に、彼がその未来を押し潰して、代わりに彼の望みを現実にするチャンスを強制したとしても、結果的には互いに残念なものを目の当たりにするだけだ。
それに、今の状態の発端はこのいたちごっこからであり、けして仲良くしようで始まったわけではない。そうした関係をギリギリの境界で繋ぎ止めているだけで、それすら無くなれば、環境も考え方も異なる俺たちが共にいるという理由はなくなる。
お前はこれからも自殺行為をし続けるだろうという発言から、高峰自身だって、この先の俺が望む行く末を想定外にしているわけではないだろう。その運命がはっきりするまでの期間では、一体俺とどこまでの範囲で距離を保ち、自分にどれ程影響が及ぶか、それくらいは把握しているのではないだろうか。
「いや、関係は終わらない。どんな形状であれ、一度知り合いとなればもうそこでそれが脳から外れる事はない。少なくとも俺はそうだ。他の奴らは違うかもしれないが」
間が空いて、返ってきた答えは、後に発したものが先だった。
その後、その目を俺に投影した高峰がこんな事を言った。
「お前は今まで仲良しがいた事がない、と言っていたな。・・・なら俺がお前の最初の友達になって、今度は普通に話が出来るようにしてやりたいな」
珍しく、高峰は僅かながらの微笑を浮かべた。真剣な雰囲気もそのままに、その笑みは、俺をしっかり射っている。ぐさり。と。溝色の脳や心には、撫でるように語りかけてきている。
それと共に放たれた彼の返答を、何度か心中で輪唱した。
高峰を『最初の友達』にさせる。
単純に見えて、とても難しい要求だ。
「それ以上に、まずはお前を死という概念から逃がしてやりたい」
とても高峰らしい、聞き慣れもしない狂ったような望みだと思った。
本当にそんな事が出来るはずないのに。
一度汚れた人の心は、そう簡単に変えられない。誰にも。自分でさえも。
出来ないよと断言したいのに、急に口は自由がきかなくなってしまった。
そのまま、身体から重いものが抜けていくような感覚がした。風船の空気が虚しくも徐々に抜けていくように、全身の気が緩んでいく。
眠気が来たのだろうか。いや、そんな様ではない。どれかと判断すべきなら、疲労感に近い。一時的に苦しみから逃れた際に咄嗟に現れる、何かもかもを消耗しきった時のものだった。
「・・・」
「北沢?どうした」
「・・・ぁ、えと、ごめん。高峰」
遅鈍な動きで、立ち上がる。
「大分落ち着いてきたし、そろそろ部屋に戻ろ」
高峰は瞬きをいくつかした後、立ち上がる前に「眠れるか?」と訊いてきた。俺が根拠もなく、「うん」と答えると、その後は何も言わず、紙コップをゴミ箱に捨ててから、俺の横に並んだ。
エレベーターに乗り込み、眠そうにする眼をこすりながら見回りをしている先生の目を避けつつ、部屋に戻ってベッドに入ってから、ふと、思い返した。
あれは、まるで夢の中の一部のような一時だった。
不快でもなく、愉快でもない。心が痛くなったり、痛くなくなったりもした。理解が難しくてずっと何かがざわめいていたし、耳にさえしたことも無い言葉も覚えた。
俺は彼と、一体何をしていたというのだろう?
それら全てを名では呼べないだろう。
だけどもこの後の夜、自分が再びあの夢を見ることはないと、何故だか確信出来た。
それは、俺がこれまでけして感じたことの無かったものだった。
その時見上げていた天井の暗闇と共に、はっきり、認めた。
認めたのは、それだけだ。
✣✣✣✣✣✣
結局、修学旅行中での挑戦は中止になった。いや、中止というより、出来なかったのだ。こっそり持ち込んだ凶器を手に握ることはなく、どこか高い位置から落下するということもなかった。
旅行中はとにかく忙しなく動かなければならず、挑戦どころか景色もほとんどゆっくり眺める暇も貰えず、やっとこさ全ての過程を終えてバスに乗り込んだ時にようやく、窓に目を向けられた。景色はそれほど綺麗でなかった。
忙しさに解放されて気が緩んでいるのと共にじわりじわりと残る物足りなさが俺の表情までも出ているみたいで、隣に座っている高峰が肩を竦めていたが、間を置いてひょっと盗み見ると、寝息を立ててすっかりと眠ってしまっていた。
なんというか、子供みたいな所もあるのだなと考えていると、頭上からこんな声がした。
「楽しかった?」
以前に買ったあの服を着たままのコハクが、荷台からひょっこりと顔を出していた。数日動きっぱなしだったはずなのに、この子は全くもって疲れを見せない。俺は声の音量を下げ、話を繋げた。
「分からないや。けど、全然楽しくなかったわけじゃないかも」
あの事が出来なかったり、思いがけない出来事があったりもしたけど、珍しく、最後まで安定した学校行事だったとは思う。そう思ってしまった。
素直にそう答えると、コハクは小さく笑った。
「やっぱりさ。それって、高峰クンがいたからじゃない?」
「なんでさ」
「えぇ、君なら分かってると思ったのにー」
「・・・それって、もしかして一人ぼっちじゃなかったからって言いたい?」
「そうだよ。もう、気づいてるなら訊かないでよぅ」
「いや・・・まぁ、」
俺が口ごもると、コハクは身を乗り出してこう囁いてきた。
「認めたくないから?」
「え」
「あっちがその気になって付き合ってきてるかもしれないって、認められないから、そう答えるんでしょ」
「・・・まぁ、そうだね。違うって言ったら嘘になるし」
俺からの正直な答えを聞くと、コハクは一瞬だけ俺の隣に目を向けてから、
「でも、迷ってるとこもあるでしょ」
再び、口ごもる。
コハクの言うことは確かに、ごもっともだった。
高峰は、あれ以来の旅行中ほとんど俺から離れなかった。時折、彼の友達が、こっちおいでと慣れた動作で彼を誘っていたが、適当に相手をしたらすぐ戻ってきた。余計な哀傷を催されることのなく、自然にそこにいられたのはきっとこの所業の賜物なのかもしれない。だけど、それを彼からのお情けだと固定しようとする、自らへの所見が妨害を続けているのは変わらなかった。
今までは、そこが完成品として、仕上げのテープを施していた。しかし、もうテープは施せない。施したくとも、どうしても高峰の行動と言動が頭をよぎり、心の中の手が止まる。
認めたくない。
認めたら、その後地獄を見るのは自分なのだ。
でも───本当に?
本当に、地獄を見るのだろうか?
かつての同級生の彼は、ここまでの展開を導いてきただろうか?
それは関係ないかもしれないだろう。
いや、関係があるのか?
それにお前は、幸せが欲しいのではないのか?
欲しいから、嘆くのだろう?
不幸だということを自らの個性にするつもりなのか?────
×××××××××××────?
生きたいのか?
─────────死にたいのか?
考えれば考える程、葛藤はそれらを詰めに詰めて、二度として離れないように、執拗に脳内で転がっていた。それは、今までのものとは比べられない強さであった。
「・・・」
次に呟くその言の葉を、思いつくことすら出来なくなる。
俯きそうになる俺を見下ろすコハクは、歪に顔のパーツを歪ませていた。やがて、彼女はおもむろに荷台から降りてきて、俺の顔を覗き込んだ。
「貴方は、残念ながら望みを叶えられないかもしれない。諦めようか」
幼子に語りかけるように、そう静かにコハクは告げた。
これで全てが終わってしまう。決まってしまう。先程の葛藤を跳ね除けて、認めてしまうことになる。それを受け入れろという命令が、彼女の金色の瞳から、伝わってくる。
「・・・俺は、」
そう、何かしらの一言を返そうとした時だった。
この場には不似合いな大人の声が遮った。
振り向くと、担任が自身のスマホを片手に狼狽したような表情を浮かべて、俺を真っ直ぐ見つめている。そこでふと気がついたが、バスはいつの間にか、サービスエリアの駐車場にどっしりと身を預けて動かなくなっていた。
「・・・何か用ですか」
次にこの担任の口から聞いた話に、俺の頭は脳ごと、冷たくなっていった。
「北沢くんのお爺様が・・・交通事故で病院に運ばれたそうです。すぐに病院に向かって」
連続してくるということは、いつものアレが来たことを意味している。気だるくスマホを開くと、案の定高峰からの安否確認メールが届いていた。
「またいつものかぁ。もー、ほんと毎日よくやるねぇ」
あははーと呑気にコハクが笑う。
あの件、所謂アレルギー事件が発生した後、彼の警戒心はより一層高まってしまったようで、それまで短調な文かスタンプだったのが今ははてなマークにびっくりマーク諸々を含んだストロングな文ばかりが揃うようになった。
例えば今日のは、
『今日も何もしていないだろうな??首に痣でも付けてみろ、休み明けたらどうなるか覚えとけよ』
「こっわ、どこぞのヤクザかよ」
既読のマークがつくので彼からは返信は不要だと言われているが、たまに思った事を適当に返してみている。だから今呟いた言葉をそっくりそのまま返信した。
してるかしてないかとなると、『自殺行為』はしていない。ただし、『自傷行為』はしている。それを上手く隠しているだけであった。
高峰はあの通り勘が鋭いけれど、身近な悪事に気づく可能性はちょっとばかし低めだ。つまり、俺で言えば、自殺行為はあっという間に感知されるが、自傷行為には焦点をそこまで持たれていないから気づかれにくいという事。首に痣をつけるなというのも首吊りをする事を前提とした警告である。
その特性を良いことにどうにか邪魔されず自害する方法を探っているのだが、小さな悪事も、方法一つで高峰に勘づかれるスケールに膨張してしまう。それを回避する方法は、頭を相当捻らないと思い浮かばない。
そうして日々が過ぎて、気がつけば現在は十月も半ばを過ぎていた。今日は十九日。もうじき我が校は、某最大行事の日を迎えようとしていた。
学生ならほとんどがその到来を楽しみにして打ち震えて夜も眠れなくなる、修学旅行だ。
この高校は大阪か東京のどちらかを選択するシステムとなっている。数年前まではハワイなんて贅沢なコースもあったようだが、何らかの理由で大阪に変わったらしい。
これではまるで大阪や東京が贅沢でないと言っているみたいだが、俺自身はけしてそう思っていない。そもそも両方に一度も行ったことがないのだから、優劣付ける脳は備わっていない。
それにいずれにせよ、俺が心からこの旅行を楽しむなんて有り得ない事なのだ。友人も楽の感情も一つさえ持ち合わせていない上、名前の記憶も曖昧なクラスメイトと無理矢理グループを作らされて内心嫌がられながら過ごす事になる。そんな状態で、一体誰が心待ちにしていられるだろう。
ならば最初から行かず家にいれば良いのではという意見は、的確だが無責任だ。その意見が通せるならこんなにも考える事はない。
その簡単な回避の方法を阻止する原因はじいちゃんにある。じいちゃんは俺がごく普通に学校生活を送っていると勘違いしている。というより、させているのだ。余分な心配をかけたり本来の姿を暴かれぬよう努めて穏やかに過ごしている為、突然奇怪な事を吐かせば忽ち質問責めを食らう事となるだろう。相手をするのも面倒だし、言い訳も通用しないと分かっている。
その事だけを避ける為に何日もの日を犠牲にする羽目に遭うなんて酷なものだ。でもそれは今に始まった事でない。今になって文句を垂れてみたってどうしようもないだろう。
愚痴紛いはこれまでにして、行き先の方は大阪を選択した。東京は人だらけモノだらけでどうにも行きたいという気が湧かなかった。その分娯楽は山程あるのだろうが、人が多すぎるという汚点には勝らない。無論大阪も多いに越した事はないのだが、東京に比べれば幾分かはマシであろう。それに、大阪の方が選択した人数も少ない。
ちなみに高峰はどうかって?
・・・生憎、彼も同じ行き先となっている。
「あっ、そうだ。お前はついてこなくて良いからな」
はしたなく壁に足を広げてリラックスモードになったコハクにそう言うと、コハクがいきなりこっちに振り返って足をばたつかせ始めた。
「なんで!?私高校の修学旅行行ったことないのに!!」
「行ったとして、寝るのどうすんだよ。男子ばっかの部屋でお前寝てられるか?」
重要なのはそこだ。行って遊ぶ自体に支障は無い
のだ。だが、ホテルでは流石に幽霊とはいえ少女
を男だけのむさ苦しい部屋に置くわけにはいかな
い。仮にコハクが良くても俺が許せない。
が、コハクはあっさりとした表情で答えた。
「寝れるー」
「寝れるー、じゃないの。コハクには恥じらいというものは無いわけ?」
「無いわけじゃないよ。そんなんに興味無いってだけって感じ」
そんなん、というのは男だという事を指しているのだろうか。
「コハクって・・・そっち系?」
半分冗談で訊くと、コハクが目を丸くして首を横に振った。
「ノーノー!私が言うのはね、人間に興味が無いって事だよ。恋情とか性だとかいう、人間に対する欲求が全く湧かないってことよ」
「恋情や性?コハクは、誰かに恋した事はないのか」
「そーね。少なくとも、好きだって自覚した経験はナシかな。男女や関係問わずにね。元々人嫌いってのがあるんだわ」
「・・・それなのによく俺と暮らせてられるな」
「んー、いやぁね。君は別。君からは人間らしい臭いがしないんだよね。だから一緒にいやすいの。あ、これ褒めてるんだよ、喜んで」
「え、あ、ああどうも・・・」
どうも褒められている気がしないのだが、一応礼を言っておく。
「だからさー、連れてってよ。お願いー」
「でも寝るとこ・・・」
「なら女性の先生達の部屋で寝るよ!それなら良いでしょ?」
何を言っても反抗しようと言葉を考えていたが、急な彼女の提案に口を渋らせた。
「・・・うーん、なら良いのかなぁ」
それにしても、同性とはいえ真っ先に出た案が生徒ではなく先生に何となく闇を感じた。何故先生なのかと訊く必要は皆無であろう。
それにコハクは既に嬉々とした様子でガッツポーズをしている。これ以上余計な会話は作らないようにしよう。
問題点は寝床だけの話だったから、あとは好き勝手に個人の旅行を楽しんでもらえれば良い。コハクもこんな狭苦しい領域の中ではいつも退屈だろうし、じいちゃんと二人きりにさせておくのも、心底ではかなり心配であった。
とにかくトラブルを起こさなければコハクは大丈夫。トラブルさえ起こさなければ。
・・・いや、分かってるんだ。トラブルに関しては俺に説得力が無いということを。
高校生は何かと忙しい。思春期の後半、大人の境界の何割かを身に染み込ませる三年間では、もこもこと筍を生やす如しに次から次へと行事が催される。特に二年生の後期というのは、三年生に向けての下準備が盛んに行われ始める。
三年生へスムーズに進級出来るようにする為には何をするのか。
それは、そう、進路決定。
修学旅行のしおりと共に配られた、この進路希望調査のプリントに何を記入すべきか。という課題が残っているのだ。
当然俺は進路について何も決めていない。あえて言うとすれば、あの世行きを希望したいところだ。
とはいえ、そんな事をプリントに書いてしまえば忽ち職員室へ連行されることは明確だ。その上叱責を受けて真面目な答えに訂正させられるのがオチである。しかもこう書いた事を高峰に知られればいよいよ彼の逆鱗に触れてしまう事となる。痛い痛いダブルパンチだ。
しかしながら、あの世行きが却下されるならそれ以上の希望なんて何一つ思い付かなかった。将来の夢というものの持った記憶も無く、好きな事を仕事に、なんていうのも無欲だった。
その結果、プリントはまだ名前すら記入されていない手付かず状態だった。
「何も浮かばないの?」
俺が机に向いてプリントとにらめっこしている背後から、財布を片手に持ったコハクが顔を出した。シャーペンを握ったままの手が貼り付いたプリントをまじまじと眺め、開口そう言った。
彼女が持つこの財布は正真正銘本人の物だ。今日は買い物に出掛けると伝えたら、途端にどこからかそれを持ってきてついていく意志を表示してきたのだ。しかも服装だってちゃっかり私服を用意して着替えも済ませている。
他人に見えはしないのにわざわざそんな格好しなくたっていいのに。その時にそう言うとコハクは、「それは関係無いの!あくまで自己満だから」と主張し、他にも何着かごそっと持ってきた。どうやら修学旅行用にも持ち込んでいるらしい。
今着ている物以外はじいちゃんの目につかない場所に隠しておけと言いつけた。じいちゃんが自室に出入りすることは滅多に無いが、万が一の備えは必要だ。
「だって夢なんか無いし・・・」
「そもそも、進学したいとか就職したいとか、そこはどうなの」
「どっちも無い。でも就職はやだ・・・」
「それなら進学にするしかないじゃん。その辺の適当な大学の名前書いときゃ良いんじゃない?」
「その辺ってどこ」
「ハルやんの高校の近くにあるじゃん。ほら、私立高校と併設してるってとこ」
「あれは併設っていうのかなぁ。まぁでも入りやすい大学ではあるかも」
「それ書いとけ書いとけ~。学科もマシなのにすりゃ良いんだし」
「はぁぁ、もうそうする」
投げやりになりながらスマホでその大学を調べて、欄に適当に校名と目に付いた科を書き入れておいた。不本意を本意として提出するなんて気分が良いものではないが、致し方無い。
「高校生となると大変なのねぇ。ならなくて良かったわ」
他人事のようにはは、と呑気に笑うコハク。確かに中学生のままの身体と精神なら高校生の立場なんて理解し難い話だろう。
「でもお前が生きてたら、高校なんてとっくに卒業してるよな」
「まぁね。でもその後の私がどうなっていたかは想像つかないね。けど、確かに理想はあった。行きたい高校も、夢もあったよ」
軽く机に腰掛けたコハクの口調が大人しく変わった。
「お前の夢って・・・?」
「私の夢はお医者さんだった。それも、精神科の」
幼い子供にみせるような、中学生には不釣り合いな大人の笑顔をコハクは見せた。その笑みには、自分に対する諦観や過去への憧れがじっとりと滲んでいた。謎めいたこの少女の周囲には、透けた色以外にも何か薄暗い靄がかかっているような気がした。
「・・・羨ましいな、夢があるって」
そんな大事なものを持っているのに、どうして俺と同じ行動をしたのだろう。
しかも俺と違って、あっという間に成功しているなんて。
「そうかな。夢を持ってるから人生どうとか変わるわけじゃないし。結局はあれ、気持ちの問題なんだわ」
「自殺する時には、もうその気持ちも無かったってことか?」
「そうだね。その時にはそれも邪魔でしかなかったから」
全てを捨てた結果が、今ということか。
まさか、俺が死ねないのはそのせいなのか?
まだ全部を捨てていないから?
でも、何を?
俺もコハクと同じように、何もかもを葬っている筈なのに。
何が残ってる?俺を邪魔する、何が。
不意に、頭でヒヤリとした冷気が渦巻いた。次いでシャーペンを握る俺の手に、雨上がりの雫のような指先が伸びてきた。何事かと思う間にはその指はシャーペンを指してきて、俺は反射的にそれを差し出した。コハクの手に取られたシャーペンは物体であることを忘れたかのように彼女に合わせた透明に変わり、それがプリントの上に移動すると、コハクがポソッと言った。
「名前忘れてるよ。これ書いたら、早くお買い物行こ」
コハクがシャーペンを俺の指に返してくる。
「ああ、ごめん」
言われるがままに名前を書くと、プリントを素早くファイルの中に挟んで鞄に押し込んだ。
それから軽くストレッチして、コハクに振り返る。
「コハクはどこに行きたかったんだっけ?」
まるであちこちの店に廻るみたいな訊き方だが、行くのは一箇所だけだ。その行き先が某大型ショッピングモールということで、俺が訊いているのは、その中の店舗のことであった。
「あっ、あそこあそこ。専門店街んとこの『シュガーララバイ』って服の店あるじゃん」
「シュガーララバイ・・・二階の奥にある雑貨屋みたいなとこか?」
「雑貨屋じゃなくてお洋服だってば!」
「でも、服ならもうあれだけ持って来てるじゃんかよ」
四泊もするものだからその分にコハクが持ち込んだ服はそれなりにあった。あれ以外にだって実家に帰ればまだまだあるらしいし、何も新しい物を買わなくたって充分だろうに。
「どーしても欲しい服があるの!それを着て大阪の街を歩きたいの!」
「なんだそりゃ・・・」
どうせ誰に見せるわけにもないのに、なんて言い出せばまた弁解が返ってくるだけなので、ここまでで一度口を慎む。そして頭を掻きながらため息を吐いて反応を示した。
「もう、分かったよ」
ただ、そこには大きな疑問があった。
「でも、買う方法は?お前幽霊だから人に見えないだろ」
次の瞬間、コハクが怪しげな笑みを浮かべた。ギラリと目の黄金が光り、その目が此方に一心に狙いを定めているのを見た俺に、突然嫌な予感が襲った。
「・・・なぁ、まさかとは思うけど俺が行くとか無いよな」
その選択肢はナシだ。論外にしてくれないと、一応俺も男だからそのメンツを簡単に捨てるわけにはいかなかった。
「ん?そのつもりだよ」
これが常識であるというような安い口調で予感を的中させるコハク。セットになった、誰が見ても分かるあっさりとした表情が少し怖い。
だが、流石に首を縦には振れない。
「無理だって。俺男だし・・・絶対変な目で見られるだろ」
人から余計な視線は欲しくない。意図的に人の冷たい目を浴びるなんて御免だ。
しかし、コハクは全く悪びれる様子が見られない。むしろ何だか楽しそうだった。
「ノープロブレム!一瞬で解決出来る秘策があるのデース」
「えっ、ちょっと、」
俺が尋ねる前にコハクはさっさとベッドの下へと行ってそこに隠した服を引っ張り出した。
その行動で刹那、何となく察してしまった。
「まさか、おい」
コハクが一通りを揃えて、ジリジリと此方に近づいてくるのが分かった。
「・・・なぁ、これ絶対バレるよな」
俺の全身を纏う違和感の塊。頭の重み、化粧品の匂い。
頭を下げればフリフリの襟と黒いリボンのついた可愛らしいブラウスがあって、その上から普通にぴったし着れるジャケットを着せられている。下は申し訳程度にズボンだが、勿論これも女物。ガウチョパンツと呼ばれるブカブカのズボンらしい。ピンクの小さな花柄がついている。
頭の重みはカツラで、俺に似た髪色の長い三つ編みが左右の肩にぶら下がっている。コハク曰く、このカツラは自前で、俺が着ている服諸々はほとんど母親の物だという。要は俺に着せる為にこっそり窃盗してきたという事だ。カツラに関しては一体どこから入手して何の為に使おうとしていたのだろうかと思う。
大体を着せ終えたコハクは仕上げに覚えたてのメイクを俺に塗して、現在はマニキュアを爪に塗っている最中であった。
「大丈夫大丈夫。どっからどう見ても女の子だよ」
「いや、どこが」
こんな格好をしたところで声で一発だ。俺は生憎それらしい声は持っていない。むしろ普通より低いかもしれない。
なのにコハクは人の気も知らないで「黙ってさっと買えばオッケーっしょ」なんて答える。しかしながらデパートの中の服屋で一概に黙って買うなんて事は難しい。セルフレジなら楽だろうが、そんなハイテクが全店に導入されてるわけがない。
「じゃあハルやんさ、裏声で「お願いします」って言ってみ?」
俺の爪が全部マニキュアの色で鮮やかに塗り替えられた後、コハクが不意に切り出した。まだ塗りたてで乾いていない爪先を周りの空気がまとわりついてきて落ち着かないのに、そんな事を言われて急に無に戻った。
「・・・お願いします?」
喉をゴロゴロ巡らせて、普段刺激の来ない奥から声を出してみた。すると、いきなりとんでもなく変な音程の声が飛び散った。勢い余ったその後、う、とか、え、とかいう声までも出た。
「んーまぁ、遠くからじゃ男の声には聞こえないかな」
コハクは若干間を空けておきながら淡々とそんな感想を呟いた。
「てか遠くからじゃまず声届かんだろ・・・」
アリなのかナシなのか曖昧な感想に反応が困る。せめてどっちかくらいはっきり教えてほしい。
「まぁそんな長く喋らなきゃ平気っしょ。ほら、これ持って鏡見てごらんよ」
これまた可愛らしいリボンの手提げの鞄を持たせて、コハクが強引に俺を鏡の前に連れて来る。
埃まみれの鏡には、こんな汚い部屋には月とすっぽんの差の華やかな色が映し出されていた。ピンク色やら黄色やら、そんな柔らかで愛らしい色合いを纏って動かしているのは紛れもなく自分自身で、その自分の顔も随分と派手だった。それと同時に、清潔でもあった。見慣れない道具であちこちやられたが、そのおかげでそれなりに女性っぽくはなっていた。俺が細身の体格であることも役に立ったようだ。コハクはなるべく男だとバレないよう特に目に力を入れたと言っていたが、安心は出来ない。女性っぽさはあっても、あくまで『っぽい』ということを前提にしないといけない。
「結構良いでしょ?」
コハクが俺の横に立ち、鼻を高くして俺に訊いた。
「これ、バレないかな・・・」
目の前の物体は確かに小綺麗だけど、顔はずっと塩をかけられたようにしなれたままだ。
「だいじょーぶだって!バッチリ可愛いから」
そう言いながら、コハクも自分の鞄を肩に掛けた。俺が進路プリントに頭を悩ませている内に自分の身支度は終わらせていたようだった。彼女もしっかりメイクをして、良い意味で見違えていた。
「よっしゃあ~、レッツらゴー!」
「あっ、おい!」
俺が慌てて引き止めるも、コハクはあっという間に部屋から姿を消していってしまった。
「はぁ・・・」
楽しみにしている事は分かるが、コハクにはもう少し慎重になってほしいと願う。
特にこういう・・・異様な真似をするならば。
部屋を出る前に、再度鏡に振り向いた。
自分に対して何かを警告したかったが、ただ唇を噛み締めることしか出来なかった。
…いつもより、やたらと自意識過剰になるのは、やっぱりこの服装のせいだろうか?
自意識過剰の人間を宥める時に使う決まり文句のように、多分俺が思っている以上に俺に視線を寄越す奴なんている筈ないのだが、何せ、この日は一味も二味も悪い意味で違う装いなのだ。一歩間違えれば変態扱いされて捕まる可能性もある。まぁそれはそれで、死刑にしてもらえば自分の得になるけど。
兎にも角にも、せめて店にいる間は、この姿の人間として振る舞い、やり過ごさないといけない。俺の後ろでエスカレーターガン無視でふよふよと上っていくコハクは、あの後からことごとく、誰も見てない、だとか、似合ってる似合ってる、だとかと笑い混じりで投げかけてくる。多分この姿を面白おかしく思っているのだろう。自分でやって自分で笑うだなんて。
この子の事だから何となくこういうリアクションだろうなとは思っていたけど、予想していてもやっぱムカつく。けど反発しようという意思が最初の頃より失せてるのは、もう半分以上この子のペースに自身も浸ってしまっているからなのだろう。
最近考えると、一見何となく彼女のやってる行動は一部いじめのようなものを彷彿とさせるように思ったが、そんなのはあまりにも過剰な言い方だ。暇をそんな事で謳歌する彼らのように、相手の嫌がる顔を見て喜んでいるのではなく、コハクは相手と何かで関われているという事を喜んでいる、そんなものが含まれているような顔をいつもしている。それに、俺自身も、どこかこの子と同じような感覚を味わっているような気もしていた。何の根拠もない、直接コハクに聞いたわけでもないのだから、もしかしたら都合の良いように妄想しているだけかもしれないが。しかし、少なくともこの子が俺の前で、かつての同級生の、あの頃のような嘲笑をするような真似はけしてしていないと思う。
最近はやたらと、脳内でコハクについての弁解を進ませている。今日はどの日以上にもそんな事に気を取られてはいけないのに。
「ねーハルナちゃん、最初はどこ行くの?」
最初は他客の声かと思った。だから特に意に介さずそのままエスカレーターに運ばれていたのだが、もう一度、今度は確実に近くから聞こえてきたので、俺は突然知り合いとかに落とし穴に落とされた時みたいな顔をして、ちらりと俺の背を見た。
「…おい、ハルナちゃんって誰なのさ」
薄々とは分かっている。というより、この子の気持ち悪いくらいのスマイルを見れば犬でも気づけるだろう。
「可愛いでしょ?」コハクはそれだけ言って、俺が着ているフリフリのカーディガンをゆさゆさと揺らした。
可愛いと言われましてもね…。確かにハルナって名前は可愛いと思うけども。自身を包む可愛いブラウスのさらさらとした感覚と共に、そんな複雑な気分になり、俺はコハクの言葉に答える事は出来なかった。
その代わりにため息をついて、エスカレーターを降りた後、客人の数の少ない日用品売り場に足を運んで、1000円以内の値段を付けられ並べられた水筒を背に、俺はコハクと打ち合わせをした。
万が一に聞こえたらまずいので、部屋でやった時のみたいな声で。
「…最初は百均でシャンプーとかボディソープが入ってるやつ買う。それと小さいくしと、あったらハンドタオル」
「ほいほい。次は?」
「次は何か、暇な時用の本買いに本屋に」
「本屋行くの?やった、私の分の本も買ってよ!」
本屋と聞いてパッと顔を明るくさせたコハクが俺にそうねだる。俺は「はいはい」と短く答えて、続けた。問題はここからなのだ。
「…後は、……下着売り場」
一瞬この場が凍りついたみたいに静かになったような気がした。でもそれはただの錯覚で、実際、コハクは何かに納得したみたいに頷いて、俺の不安に染められていく顔色を眺めているだけだった。
それからコハクは静かに手を出すと、親指を立て、小さく、「グットラック」と情のような笑みとセットで言いかけた。
グットラックじゃないだろ…あんたのやった事だろ…
それを強情に拒まずすんなり受け入れてしまった自分もどうかと思うけど。
「と、と、とにかく行くよ」
今更になって、さっき以上に事の異様さと重大さに気づいてしまった。
ここでもし知り合いとか、まさかと思うが高峰に鉢合わせなんて事になってしまったら、それはもう異様とか重大さとかの話じゃなくなる。なるべくそういうフラグを立てたくはないのだが、万が一を考えていないと、特にこういうデパートは誰がいるか分からない。
高峰なんか神出鬼没で、俺がここで自殺しようとすればたちまち突然どこかから現れてくるのだろう。そうでなくともこういう場にいない可能性はゼロではない。まぁ、例の事以外では滅多に姿を見ないのだが。
(まぁ…いるわけないか)
そう信じて、俺はコハクを連れて三階の百均に向かった。
ここのデパートは県の都市にあるデパートみたいな風に大きいわけではない。階は四階までだけどそこまで広くはないし、入ってる店はそこそこチェーン店を構えるものがあるけど、特にめぼしいものもない。大体俺はそこまで物欲が刺激されない質で、たまに出るゲームとか本とか以外、必要最低限のものくらいしか買わない。
そもそも買い物という行動を楽しんだ覚えは今まで一度もなかった。じいちゃんとはごく稀にここに来るけれど、それはあくまで食品だけが目当て。それ以外の人間と来るだなんて勿論有り得なかったし、自らの意思で行こうだなんてことも高校になったのが初めてだ。
しかも現在、人間ではない俺の知人が、俺なんかと共に買い物という行動を楽しんでいる。普段行かない店にもせがまれて寄ってみたし、フードコートのアイスクリーム屋で久しぶりに高めのアイスを買って食べた。コハクは何だか幸せそうだった。薄く透けていて、アイスよりも冷たいのに、その顔は確かに熱がある。そして、確かに彼女はここにいる。生きている。その不可思議な姿に、どうしても疑問を抱く。恋情などではない、身内ともいえない得体の知れない気持ちで彼女と接しているけど、向こうはこっちをどんな視点で見つめているのだろう。
そう考えたのはその時だけで、後はとりあえず女性になりすましている事を一心に考えて、緊張したガチガチになっていた。
目当てのものを買って、面白そうな本を選んで、ついでにコハクの欲しいという本も買って、ごく平和な買い物を済ませた後、いよいよ例のものを買いにいざ、俺達は二階の専門店ではない衣服コーナーに陳列されている男物の下着の数々の目の前までやって来た。ここまで来るのるには相当な時間と、コハクの説得があった。
ある意味長旅をしていたようなものだ。
「でもさ、プレゼント用とかで買う女の人って
いるよ?恋人じゃなくて、既婚者でも旦那さんに買ってるっぽい人もいるし」
さっきからそんな感じな言葉を投げかけられる。女の子であるこの子が言うのなら正論なのかもしれないが、今衣類コーナーには女の子の姿の俺以外、女性はいなかった。かと言って男性もいないのだが。けどそれはこちらにとっては好都合である。人が来ない内に適当に選んで買ってしまえばいい。俺は意を決しておもむろに下着の詰められた袋を一つ、フックから抜き取った。そしてそれを一目散にレジの方に持っていく。レジでの店員からの視線はもう気にしないようにする事にした。店員なんかあくまで金儲けが目当てで、誰が何を買おうが、お金をいただき商品を消費していただけてれば関係ないのである。俺はバイトとかした事ないし、そんな風な知り合いなんかも勿論いないから、分からないけど。しかし、それは人が思う以上に当たり前の事であり、人間の短所と呼ぶには適当ではない。人間は皆、自分の好きなことと生きるのに必要なもの以外には無関心で、それでいて強欲だ。どうでもいいようなやり方をする中でそれ以上のものを貰おうとしている。そんな事、知能の発達のいい人間という生物にとっては酸素を吸っていることと同じ、ごくごく、普通の事なのだ。本当に優しさを持った人間なんか存在しない。優しさを見せびらかす人間は、必ず何かの見返りを求めている。どんな人間においても、自らの利益は自分の足や手や脳を動かす為にとてつもなく必要なものだ。いい事をすればいつか自分にも利益が返ってくる。そんな都合の良い言い伝えを信じているのだ。
そんな理屈を並べた脳を忘れないようにして、俺は「お願いします」と小さく言って、店員に下着を渡した。店員は何の顔の変化も見せず、専らに営業スマイルと営業ワードをシールのように貼り付けて、慣れた手つきで下着の商品のバーコードを読み取って値段をわざわざ伝えた。俺は黙って代金をカウンターにあるトレーに置く。それからあっという間に下着を詰めたビニール袋とレシートが手元に渡された。受け取って、店員の「ありがとうございました」と丁寧なお辞儀を見送ってから、俺は足早々にその場から離れた。いくら理屈を掘り起こして並べても、やはり見当違いなのかと思って行動力が過敏に出る。レジカウンターから離れたところで、若干、冷や汗までかいていたのに気づいた。
けどこれで終わる訳では無い。まだ、この子の買い物が終わっていない。しかも代用として、俺が買いに出る。その為だけに、こんな格好させられているのだ。
専門店街への道を歩きながら、俺は先程以上の不安と緊張感を覚えていく。今度はもしかしたら会話になってしまうかもしれない。しかも相手も空間も女性。男である自分がどうすればいいのやら…
先程同様の精神で行けば何とかなればいいけれど、それに対話がプラスされるのには流石に適わない。あの作った声は、コハク曰くナシではないらしいけど、アリでもないのだろう。
(無理無理無理…)
ここまで来といて、こんなにも準備満タンな状態で今る。その為だけに、こんな格好させられているのだ。
専門店街への道を歩きながら、俺は先程以上の不安と緊張感を覚えていく。今度はもしかしたら会話になってしまうかもしれない。しかも相手も空間も女性。男である自分がどうすればいいのやら…
先程同様の精神で行けば何とかなればいいけれど、それに対話がプラスされるのには流石に適わない。あの作った声は、コハク曰くナシではないらしいけど、アリでもないのだろう。
(無理無理無理…)
ここまで来といて、こんなにも準備満タンな状態で今コハクは顔を不安でベタベタに塗ったままの俺を残し、遊園地にてマスコットキャラクターを見つけた子供みたく、目を輝かせながら一目散に店内へと一人入っていった。
コハクがお目当てらしい服を見つけている間、俺は不安定な体温を感じながら、何か余裕でもあるみたいに、頭上にある店の看板を眺めた。
専門店街の服屋特有の、英語でも日本語でもない、何語で書いてあるか分からない言葉の名前が洒落れな雰囲気を滲み出している。店内もそこそこ良く作られている。少しアンティーク調で、所々に、服と関係の無い動物の石像とか、100円で売ってるような造花を、ワックスみたいなので古くリメイクしていたりしてるような感じの飾りが程よく配置されていた。
商品棚に、綺麗に列を成していたり、某怪獣よろしく、目当てのものを物色するのに夢中だったのだろう客人によってぐちゃぐちゃに崩された服たちは、その内装のノスタルジックなものとは違い、さっきからずっと並んでいる同じような服屋と同じ、若者向けの可愛らしいものばかりだった。
もう時期寒くなるっていうのに、生地の薄そうなブラウスとか、肩を思い切り出しそうなトップスとか、余計なような気がする飾りの花がついたミニスカート、ショートパンツ…可愛いとかそういうのではなく、まず俺が思ったのは、10月なのによくこんなにも寒そうな格好が出来るな、だった。それをやっていて平気な奴なんて、どこの小学校にも一人はいる、年がら年中半袖半ズボンのイカれた男子くらいしかいないと思っていた。あれは苦々しい思い出の中で、理解出来なかった事上位ランクの光景だった。風邪も引かずそれで平然と一年を過ごすヤバい奴もいれば、当然のように高熱を出すような奴もいた。それでそいつは、一体何を得していたのだろうか。今から考えても、男子である自身でも、そいつのような種族の人間の考える事は謎である。
いや、そもそも女子の習慣とか好みとかを、この阿呆で馬鹿馬鹿しい例えと一緒にしたら、コハクに一発ゲンコツでも貰うことになるだろう。あの子も何やかんや話をしていたら、小学校や中学校が話題の話になると不愉快そうな態度を取るから、それに触れてしまっても困る。それは俺も同じだし、コハクにはあまり、俺と同じような悲しい顔をしてほしくないから、最近は全くしなくなった。小さい頃のエピソードくらいは、微笑ましい程度で話す。まぁ、それは一方的にコハクだけなんだが。
その時の様子と、たった今、目当てのものを見つけてきた様子がちょっとだけ一致していた。それを見た瞬間、思い出したみたいに渦巻く不安が雪崩を起こした。
「あれ、あの服!」
再び冷や汗を引き起こしそうなのを感じながら、俺はコハクの指差す方向に向く。店内に並んだ多くの衣類の中の隅っこ、そこに静かに置いてある薄紫色の服が目に入った。あれか?と訊くと、コハクは頷いて答えた。
俺は店員が遠くにいる事や、その場所の死角にいる事を確認して、沼から這い上がる時のような力を足に入れ、そして早足でその場所まで。目的の服を手に取り、広げる。なるほど確かに綺麗な色をしている。控えめに入ったレースとか、服の端に付いた水色と赤色の刺繍が良いアクセントになっている。一体何のアクセントなのかは知らないけど、多分コハクには似合うのかもしれない。しかし、今はあまり感想など言っていられない。店員が俺に気づきそうな勢いを見せたような気がしてきていた。いくら死角にいるからといって侮れはしない。
は、早く行こう、と身体が反応を示し、促す。値段だとかはもう後回しだ。コハクの案内でレジの方へと急ぐと、空いたレジカウンターには、染められた茶髪をカールした若い女性がいた。普通にどこにでもいる若者という雰囲気のこの人は、此方に気がつくと、女装した男と陽気な幽霊に向けて「こちらへどうぞ」と笑顔で子招いてきた。
たった今カチコチに硬直してしまった思考をそのままに、俺は恐る恐る、カウンターの前へと進む。
服を差し出し、忙しない動きで財布を取り出す。
「1940円になります」
慌てて1000円札と小銭を出す。お札はあまり使いたくないので、小銭で済ます。節約とかそんな事でなく、単に気分でそうしただけだ。俺は特別お金に執着しているわけではない。けして粗末にも扱ってるわけでもないが。
「ポイントカードはお持ちでしょうか」
そんな事まで考えているから、心臓が飛び出るかと思った。笑顔で優しくそう問われ、ジュースを注ぐスピードでゾワゾワと最高潮の焦燥を感じた。不安という不安はこの時になると固まって死んでるみたいになる。そこにある焦りはまた一段と俺を困らせてくるのだ。
「え、え、あ、の・・・い、いいえ」
焦りすぎで、あの裏声が出なかったような気がした。今度はゾッと、恐怖心を覚えた。コハクは俺の様子ではなく、店員の方を見ていた。やはり俺の素の声に聞こえたから、この子もこの人の顔色を伺っているのだろうか。
心臓の音が僅かに聞こえた。焦りや恐怖心を巻いた心臓の音は、まるで現実的ではない音に聞こえた。
「ではお作り致しましょうか」
まだ疑われていないのか。それとも確認の為にか、店員の声は特に先程と変わっていなかった。
「い、いえ・・・また、今度」
あの声が思い出せなくて、別の感じで出してみる。声量もうんと下げた。幸いその声は聞こえたようで、店員は笑顔を崩さずそれに承諾し、テキパキと会計を進めていった。
レシートを受け取った後、先程同様に袋詰めされ、手渡される。店専用のデザインには、きちんと店名が目立っている。
ありがとうございました、とそこまで流れて、ようやく俺はホッと肩を撫で下ろす。いつの間にか生き返ってきた不安も、カウンターに背を向けるとほぐれてきた。後は店を出て、そのまま自宅に向かえばいいだけだ。
早足で店内を抜け出すと、元来た入口の方まで足を進める。不安が安心に変わると気分がすっとする。歩きながら、俺はこっそりとコハクに袋を渡した。
「あんがとー!これで修学旅行に行ける」
「お前の修学旅行じゃないのに、すっごい喜んでるな」
「まーね、でも、せっかくだしお洒落したいじゃん?」
「そんなもんなのかね」
やっぱり、女の子のしたい事は分からない。別に修学旅行で洒落たものを着ようなんて思わないけどな。
「ハルやんは楽しみじゃないの?ぼっちじゃないのに?」
「俺は・・・別に。ていうか、ぼっちだよ」
多分コハクは、高峰がいるからぼっちではないと思って言っているのだろうけど、そんな期待、俺は一切してるつもりなんてない。高峰は確かに俺と同じ班で、寝るのも同じ部屋だけど、ずっと一緒なんて有り得ない。高峰は人気で、カーストも高い方のやつだ。あいつと楽しくしたい奴は沢山いるし、俺のいる班にもいくつかいたと思う。班を決めた時、その班の一人が高峰を誘っているのも見たし、俺がぽつりと、皆についていくだけなのは確実だ。
隣にはコハクがいるが、他人の肉眼では見えない幽体とずっと話しているのも、後から困る。
「嬉しくないのに行く必要ないと思うけどな」
「んなの今更だよ。それにお前、行く気満々だからそんな服欲しがったんだろ」
「あはーっ、そーなんだけどねー」
いつものように暢気に言って、コハクは袋の中の服を覗いた。
「この服、可愛いと思わない?」
俺は頷き、素直に答えた。
「うん、それ可愛いと思うよ。綺麗な色してるし」
それを聞いたコハクは共感を貰えたことが嬉しかったのか、頬まで笑顔で満たして「でしょ!」と無邪気に返した。
「この色を綺麗だと思えるとは・・・ハルやん、女の子っぽいとこあんのね~」
「それだけで女の子っぽいというの?」
「だって大抵の男って、色を素直に綺麗だって言わないんだもん。彼氏でも言う人は少ないよ」
流石にそれは偏見ではないか?と思ったが、だからといってそれを打ち消す根拠なんて何も持っていない。彼氏になるだなんて以ての外だ。
コハクは「大抵、の男はね」と強調して言った。その言葉に何故か疑問が生まれる。
「お前は彼氏でも作ってたのか?」
「まさか!アホな事言わんといてよ、言ったでしょ?私は男にも女にも興味ないって」
「まぁ、そうだよな・・・」
よくよく考えてみると、彼氏がいなくても別に男がどういう生き物なのかくらいは分かるのかもしれない。女性は男性よりも圧倒的に脳内に情報量が詰まっているとどこかで聞いたことがある。だから別に、疑問に思うような程の事ではないのだろう。この話はこの辺りで頭の隅の方に寄せておいて、俺はこの今の姿について尋ねた。
「なぁ、本当に怪しまれてないよな・・・」
「怪しまれてたら今頃、警察が目の前にでもいるよ」
冷静にそう、的確な返答をされる。その後、俺が有無を言う前にコハクが続けた。
「でも、今時珍しくないよ、そういうの。田舎じゃ珍奇なだけでさ。こういうのが理解できない奴は古いよ」
コハクの言う、そういうの、こういうのというものの正体が何なのかは何となく察した。しかし、残念ながらそれは俺には当てはまらない話だ。多分。
「俺はそういうのではないからアウトじゃないか?」
「そうだって、答えりゃいいだけさ」
「んな失礼な事言えるか!」
「じゃないと本当に怪しまれるよ」
「・・・」
さっきからのこの子の冷静な返答は何なんだ。いつもならおちょくるような口調で答えてくるのに。
「まぁ、でも別に誰にも目をつけられなんかしないんだから、後は帰ればいいんだよ」
「・・・てか、逆になんで目をつけられなかったのかが不思議だ」
「んー、多分あれだ。ハルやんがガチで女の子に見えたんじゃない?」
「んなバカな・・・」
セルフで鏡を見て確認しても、この姿は確実な女の子、という姿ではなかったような気がしたが・・・。
「それとも、単に俺の存在が薄かっただけかもな」
他に唯一考えられる事はそれだ。影の薄い人間が変な行動をとったって、誰も興味なんか湧かないだろう。
「そうだねぇ・・・でもさ、ほら」
コハクは立ち止まり、丁度通りかかった近くのジュエリーショップのショーケースの上に飾ってある鏡に指を指した。
「ん・・・?」
埃もゴミもほとんど付いていない鏡には、いかにも誰からも好かれなさそうな死んだような顔をした女装の男が映っている。部屋の時と比べても、その表情がより鮮明に伺えた。
「表情変えたら、結構女の子みたいに見えるし、存在もしてるよ」
俺は目を数回瞬きさせて、コハクを見た後、再び鏡に視線を移した。
コハクの言葉を、モビールの如くに脳と頭の周りでふわふわと浮かばせる。
・・・別に女の子みたいに見えなくてもいいし、表情を変えたところで存在を示せるだなんてそんな簡単な事があるものか。俺は、どう足掻いても存在の価値がない。────
どれだけ考えを生んでも、その並んだ先入観の言葉で全てを確定させ、片付けてしまった。自分で呆れた。まるで自分の別の人格に対してやっているみたいだ。けど俺は多重人格者ではない。地獄の果て程にどこまでも暗くネガティブなのも、成るまで永遠とやり続けようとする程に死にたいという気持ちと執念も、それに呆れるのも、全て俺という奴の人格だ。そのたった一つの人格さえもこんな風に別々の気持ちを持っている。けど、この呆れるという感情はどの感情よりも弱い。天の羽衣を着せられた瞬間のかぐや姫の心のように、すぐに消える。
期待なんかない。その分やって来る苦しみが、それを付け加えただけでどれ程に重さが違うか。
「・・・バーカ」
鏡の中の自分に向けて言うと、相手も同じようにしかめっ面を向けてきた。馬鹿らしくなって、俺は鏡から視線を外すと、一人でに先へと進んだ。
後からついてきたコハクは、苦いような笑みを浮かべた。
「期待なんかしたら、駄目よね」
控えめな言い方で、コハクは俺にそれだけ言った。
それからまた、服の話になる。次は帽子やアクセサリーを買ってほしいだとか、この服を着てる自分に惚れるなよ、だとかといつも通りな会話を繰り返して、やがてエスカレーターの近くまで辿り着いて、俺は不意にある光景を目にして、立ち止まった。反射的に影の方へと隠れる。コハクはその後にその存在に気づき、おとぼけな声で「あー、高峰クンだ」
とわざわざその正体を明かした。
そう、コハクの言った通り、俺達のいる場所からすぐの店に、我が宿敵(?)である高峰浩介の姿があった。
フラグを回収した事を確認した。
「自殺行動する時以外にも出くわす事ってあるのねぇ」
マジかよ・・・。
コハクは相変わらず暢気にそう呟くが、俺は再び身体が硬直していくだけだった。何故か、顔を合わせてはいないのに、心臓がバクバクと音を立てて、身体を動かすあらゆる部分の内側で緊張が循環する。知り合いに出くわした時、必ず俺は情緒不安定になる。焦りとか、恐怖とか、負の感情が忙しなく動いていく。下着や服を選んで買う瞬間よりもこれは質が悪い。
・・・落ち着け。少しでも冷静になろう。幼さのある鞄のリボンを握りしめる。その心地の良い感触を手にしてから、俺はコハクを連れて、少し遠回りの為に婦人服のコーナーの間へと入っていく。
花柄だとかシマシマ模様だとかのシャツに交えて進みつつ、時々、高峰の様子を伺った。
(・・・あれって、アクセサリーの店か?)
高峰のいる店は専門店街ではない、モールオリジナルのアクセサリーショップで、陳列棚には女物も男物も、どちらも沢山並んであった。しかし、それよりも確認出来る事があった。
「なぁに、高峰クン、彼女いたの?」
様子に気づいたコハクが面白そうなものを見た、というような顔をした。
高峰の隣に、パステルカラーのシュシュに垂らしたツインテールを揺らす一人の少女の姿があった。いや、少女と言っても青年期の少女で、見た目だと高峰よりも下か同じかくらいの年頃のように感じられた。太ももまで見えるミニスカートとトップスに身を包み、高峰にあれこれとアクセサリーを見せていた。当然の事ながら顔は見えない。
「そりゃ、あれだけイケメンなら彼女の一人二人、いるだろうよ」
白けたようにそう冷たく言ってやる。けど嫉妬とか、羨望とか、何とも思わないし、寧ろあれは当然な事実だ。だからこそ俺はこういう態度を影でとる。何故かなんて知らない。自らやっている事の理由を自ら知らないだなんてよくある事だ。
「どんな顔の女なんだろね」
コハクは何やら身を乗り出す程に興味津々そうだが、対照的に、俺は全く興味なんか持てなかった。彼女の顔とかどうでもいいし。
「ねー、気にならない?」
共感が欲しいのか、コハクはそう確認するように尋ねてきた。そうは言われてもやはり全く感興のかの字も湧かない。素直に「気にならない」と一言告げた。
「ま、確かにどーせ、イケメンは美人しか選ばないからあの女もそれなりなお顔をなさってるんでしょうね」
そう悟ってるなら気にしなくてもいいのに。
もう行こう、と俺が促すが、コハクはまだ見ると言ってそこから離れない。
俺としてはここで突っ立っているのはちょっと避けたいのだが・・・。
「・・・なら俺、先に出てるぞ」
無理矢理連れていく事も出来ないから、大人しく俺はコハクをほっといて、先にその場から離れる事にした。
婦人服コーナーを抜けて、出口の方へと歩いていく最中、俺は一瞬だけ、高峰の方に振り返る。久々に見た私服姿の高峰は、今は円環の形をしたアクセサリーを手に、いつにもないような真剣な顔をしていた。
誰かにプレゼントするのだろうか。まぁ高確率で一緒にいる女の人へだろうけど、ああいうのを見るとどうにも自分よりずっと上層の存在なのだと要らぬ劣等感を感じてしまう。
・・・早く帰ろう。
今死ぬ事を考えたら、気づかれてしまうだろうから。
定期テスト後、修学旅行当日になると、まず全員グラウンドに集合させて荷物点検が行われた。これから数日間の楽しい日々に期待を膨らませた生徒達のがやがやと騒がしい声が耳障りで、その後の校長や学年主任の先生の話はあまり聞こえなかった。別に聞きたくもなかったが、周りの同年の声を聞くよりはマシだ。
朝の段階の全てを終えると、早速バスに乗るように言われ、皆がぞろぞろアリのように校門の方へと歩いていく。俺はタイミングを見計らい、横で荷物にもたれてぐっすり眠っていたコハクを起こして自分達も向かう。高峰は室長という事もあり、先に行って色々しないといけない事があるみたいだから、もうこの場にはいない。
しかし、バスに乗ったらすぐ目の前だ。何せ彼は俺の隣の席に座る事になっている。席を決める時、黒板に書かれた席の間取り図に、本来なら別の人の隣になればいいものを、余って一人だけ名前の書いてある俺の隣をわざわざ取ったのだ。
あれはお情けなのだろうか。それともまた、所謂ヒーロー気取り?別に一人ぼっちの人の隣を選ぶのがヒーローというわけではないと思うが。
「・・・高峰って、馬鹿なのかな」
「さー?でも私の座席を取っちゃうのはいただけないよねぇ」
「いや、それは関係ないだろ・・・」
「関係あるよぉ~、そうじゃなきゃ私、荷台で寝ないといけないじゃないの」
荷物を片手に、酔っ払った中年男性のようなねっとりした口調で愚痴るコハク。しかしまぁ、幽霊だからそんな配慮出来るはずがない。ここに幽霊いるので席を置いといてくださいだなんて、よっぽど頭おかしい奴くらいしか言い出さないだろう。
「そこは我慢してくれよ。連れていくだけありがたいだろ」
本来ならついていかない方がいいのに。せめてこれが、同性の幽霊だったらまだ簡単な話になっただろうのに。
いくらコハクが男勝りな部分があっても、仮には女の子だ。一応、身体としては年下だし。
「まーねー。高校生の修学旅行なんて絶対有り得ない話だから、連れてってもらえるだけ、あんたにゃ感謝かな」
「偉そうな口叩いてると、ここでお別れするぞ」
妙に上から目線のコハクへ少しでも強気にかかろうと、足を進めてコハクから離れる。すると背後で、慌てたような声と足音が聞こえてきた。
「わーん、待ってよお兄ちゃーん」
誰がお兄ちゃんだ。
バスの中は独特な異臭と、クラスメイトの落ち着く様子のない高らかな声と、甘ったるい菓子の臭いで早くも満たされていた。乗車した瞬間、俺は顔をしかめた。コハクも眉を潜め、片手で鼻を覆っている。ポケットから席順表を取り出し、どの席かを確認して、窓際に座る。膝の上にカバンを置いて、コハクを荷台に乗るように指示する。荷台は意外と広い面積があり、コハクくらいの大きさの人間なら一人入れるくらいだった。けどコハクはちょっとばかし、不満げだ。
発車までスマホでもいじって待っていようとして、程なくして周りの声と密度が一層高くなった。空いていた席も次々埋め尽くされ、菓子の匂いとポテトチップスの咀嚼音がやたらと近くで鳴った。あまりに耳障りなものだから、逃げるようにイヤホンをスマホに刺して、音量を上げた。いつもは適当な音量の音楽が、変な音質になって耳を徘徊するが、まだ外の声はよく聞こえた。
ため息を小さく吐いて、外に視線を移す。外にはまだ、バスに乗っていない別クラスの生徒が毛虫みたいにうねうねともがいてる。早く乗りたいけど多すぎて乗れない。ぺちゃくちゃと話し声が止まない。
くだらないな。
あーあ。
今あるもの全てに嫌気と不快感を感じる。
やっぱやめときゃ良かったかな。
憎たらしいくらい光を放つ太陽を見上げ、俺は真逆の事を思った。
「おい、聞いているのか」
突然ぶつっと、左耳から無造作にイヤホンが外された。次いで、周りのノイズがまた近くに聞こえるようになった。
今度は横からも。けどそれとは違う。
俺はもう片方のイヤホンを外し、隣に座った高峰に向き合った。
「仕事は片付いた?」
「何とか。全員いる。あと、話を逸らすな」
「ごめん。全然聞いてなかった」
「まったく・・・」
高峰が呆れたように息を吐く。それで何?と促すと、彼は渋々に一から話した。
「あと5分ほどで出発するから、シートベルトしとけだとよ」
「なんだ、そんな事」
何を言い出すかと思ったら。俺は肩の気を緩ませた。
「別にしなくてもいいよ」
きっちりしなくたって、別に事故なんてそうそう起きやしない。仮に事故になってしまっても、死ねるなら本望であるし。
そう思った瞬間、俺の頬がつままれた。
「アホ。どうせまたとんでもない事を考えてるんだろ」
ちゃんとしとけ、と強く忠告され、俺は仕方なくシートベルトを着用した。高峰も同じように着用し、その後彼はこう言った。
「修学旅行くらい、そんな事は考えないでくれ」
・・・
・・・修学旅行だから、考えるんだよなぁ。
高速道路からの景色を眺めるのはこれが初めてだっただろうか。いや、一昔前、すっごい小さかった時に一度だけ、じいちゃんに連れられて高速道路を利用した事があったような覚えがある。確か、一度も行ったこと無かった水族館に初めて行ったのもその日だったか。多分水族館に行くために使ったのだろうが、もうあまり覚えていない。その時からこの景色は変わっていなかったのだろうか。見慣れない道路と看板、山々にトンネル、道路外の街並みや住宅地は通る度に違って、新鮮な気分になる。見ていて飽きないものだから、コハクや隣の高峰の存在を忘れそうになった。
外をひたすらに眺める俺の肩に、高峰の手が当たった。
振り向くと、高峰はいつの間にかクッキーの箱を抱えてこちらを見ていた。
「クッキー、食うか?」
あまり似合わないような可愛らしいものを持った高峰は、その時だけどこか幼い雰囲気を持っていた。
頭上から「可愛いもん持ってるねぇ」と茶化す声がする。俺はその声を無視し、小さく礼を言って、次いで差し出されたクッキーを有難く受け取った。
「ポテチよりは手を汚さなくて済むだろ」
クッキーの袋の端を開けながら、高峰は言った。
手を汚さなくてって・・・誰の配慮をしてるのだろうか。俺は別に手を汚すのが嫌なんて一言も言っていないけど。
まぁ確かに、手がギトギトになるのは何とも不愉快だ。だから俺はポテチは持ってきていない。多分、高峰も持ってきてはいないのだろう。
「何の菓子持ってきたの」
チョコチップのついた美味しそうなクッキーだった。小さく鳴るサクサク音を聞きながら、俺はそう尋ねた。
「皆みたいに、沢山は持ってきていない。このクッキーとフルーツの飴くらいだ」
「それくらいが丁度いいかもね」
お菓子を食べるのがメインではないのだから、それはそうだ。
「お前は何を持ってきたんだ」
話の流れ的に何となく聞き返されるのは分かっていた。俺は持ち込んだ菓子を思い出す。
「あー、チョコかな」
俺はリュックから色んな有名メーカーのチョコ菓子をいくつか見せた。
ビスケットのついたものとか、アーモンドが入ったものだとか、その内の一つを見せた時、高峰の表情が変わった。
「それ・・・」
目に留まったのは、一口サイズのビターチョコケーキだった。これは俺の好みでよく食べているものだ。
「これが何?」
「それ、俺の好きなやつだ」
「あ、そうなん?俺も好きだから持ってきたんだ」
二つ、ともう一個ケーキを取り出すと、高峰は羨ましそうな目で俺を見るもんだから、いつもの高峰みたいに子供に向けるような視線を送り、「食べたきゃあげるから」と差し出した。
「悪いな・・・自分で持ってくればいいのだが」
そう言って申し訳なさそうな顔をして受け取る高峰は、いつもより若干弱い。
「良いよ。それにしても、高峰もお菓子とか持ってくるんだ。甘いの微妙じゃなかったっけ?」
記憶が正しければ、高峰は前に甘い物がそれ程得意ではないと言っていた筈だ。
「生クリームとか、餡子とかそういう甘ったるいものはそうだ。けどチョコとか、甘いのばかりじゃないだろ。飴もシュガーレスのだし」
「あー、確かに。分かる気がする」
自分もジュースは飲むが甘ったるいスイーツはあまり得意ではないし、チョコだってビターな方が好みだ。だから、高峰の気持ちも何となく分かる。
「なぁ、北沢」
お互いにしばらく無言でクッキーを食べてる横で、高峰が不意に言った。
「ん?」
「北沢は一人っ子だったか?」
「え、あれ、言ってなかったっけ」
何ヶ月か前、他愛ない話の中に交えて教えたと思うが。
「いや、確かにそう教えてもらったと思うが・・・」
頭上から、お菓子のおねだり声がする。何やら考え込む高峰の隙を見て、チョコを頭上に差し出した。
「何、どしたの」
「いや・・・大したことではないのだが、以前、お前に似た人を見てな」
「ふーん。どこで?」
「ショッピングモールで」
その瞬間、心臓だけでなく身体中からドキッという物凄い音がした。
「ど、どこの?」
「ほら・・・あそこ。〇〇」
俺が以前行ったショッピングモールだった。それも、男としてではなく、女として。
まだちょっとしか聞いてないのに、この時点でもう動揺が隠せられない。
やばい。
次に何を言われるか、次々と色んな言葉を並べて予想するけど、返ってこないので俺がドキドキしながら続けた。
「・・・ど、どんな人だったんだ?」
「女の人だったんだが・・・三つ編みして、可愛らしい服着た。アクセサリーショップにいた時で、一瞬だけ顔を見たら、お前にそっくりだったんだ」
やばいやばいやばい。
これって地味に気づかれてるんじゃないのか?
俺みたいな顔の女の子なんて絶対見かけないだろうし、万が一いたとしたらあまりに可哀想だ。
心臓と身体中の音が鳴り止まない。
「もしかしたら、お前のご親族か何かかと思ったんだが。知ってるか?」
そうは言ってるが、何となく視線は怖いような気がする。
多分気づいていない。そう信じようと必死になって、俺は慌てて首を傾げて誤魔化そうとした。
「え、お、俺の親族に女の子なんかいないよ」
誤魔化しとはいえ、嘘は全く吐いていない。
「そうか。・・・じゃあ勘違いか。でも実によく似ていたんだよな、お前に」
「ゃ、やめろよ。そんな事言ったらその子が可哀想だろ」
「何故可哀想なんだ」
「だって俺の顔に似てるだなんて」
あまりにも失礼な話だ。
「確かに男の顔に似てるっていうのは可哀想だが・・・でも、お前の女の子版みたいな感じだったんだ」
いや、いやいやいや・・・それは多分遠くから見たからではないのか?それとも目がとうとう節穴になったからでは?と言いたい気持ちを抑える。
ここまで言うと流石に本当に気づかれてしまう。
他に答える言葉もないので、適当に「そりゃ珍しい事もあるもんだな」とだけ答えた。それから自らも、高峰の珍しい光景を思い出して、気づかれないような言い方に変えて訊く事にした。
しかし、訊くまでに少し勇気を持つ時間が出来てしまった。それとまた、嫌な空気にさせたくない気持ちとの葛藤も。
「・・・そういや、高峰って彼女いるの?」
「は?彼女?」
高峰の怪訝そうな顔に少し怯みながらも、続ける。
「だってお前、モテるし。女子も気になってるんじゃないかな」
「めんどくさい話だな」
彼女いるかでめんどくさいだなんて、贅沢な言葉だ。この言い方はまるで居るみたいではないか。いや、実際その存在を発見してしまったから、どう言い訳されようと信じはしない。
「俺だってさっき答えたんだから、答えてよ」
「・・・はぁ」
俺の対抗に一理あると思ったのか、高峰の反応が変わる。仕方ないなと言わんばかりのため息を吐いた後、俺にしか聞こえない声で答えた。
「彼女はいない」
は?
素直に答えてくれるかと思ったら。俺は少し不満げに顔をしかめる。
「おいおい、素直に答えろよ」
すると高峰も同じような顔をしてみせた。
「素直に答えたつもりなんだが?」
「嘘だあ」
「嘘吐く理由があるか?」
「照れ隠しとかじゃないの?」
「違う」
ならばあれは何だったのか。絶対隠してると思ったが、マジで、いない。と高峰は眼鏡越しからの凄い形相で訴えてくる。あれを見てしまっているから信じないつもりでいても、流石にこの様子の高峰には本当に彼女はいないのかもしれないという前提に変えた俺は、分かった分かった。と高峰を差し押さえて、次にこう尋ねる事にした。
多分、どうせこれも同等の答えが返ってくるのだろうが。
「彼女いないのなら、好きな人とかは?」
すると、表情こそ変わらないものの意外にも普通に答えてきた。
「それも皆無だ。それに恋愛には興味無い」
「・・・ありゃ、そりゃ勿体無い事で」
イケメンで尚且つ知的な高峰の告白が欲しい女子がいっぱいいるだろうに、恋愛に興味無いだなんて可哀想な話だ。興味無いのは俺もそうだけど、高峰と比べられたものではない。
「お前は?好きなやつとか」
「え」
不意に聞き返されて、俺は高峰と同じように否定しようとしたが、何となく魔が差した。
「いるよ」
そう答えてみせた瞬間、高峰の表情が変わった。目が何故か金魚が泳いでるみたいに揺らいでいる。
「・・・マジで?」
「嘘に決まってんだろ」
ふっ、と高峰の様子が元に戻る。
「人と交流なんてない俺が、好きな人なんか出来るもんか」
「・・・だろうな」
高峰はやれやれ、と言いたげに呆れていた。その中に、どこか安堵の影があるような気がして、言った。
「まぁ、君よりも先を越す事はないから安心しなよ」
それ以前、どうせ後々死ぬのだし。
「別にそんな事心配してないがな」
「心配する程のものでもないってか」
「やめろ」
高峰が突っかかるように俺を制止する。その姿が面白くて、思わず細い『笑み』が零れた。
これ以上調子づいて言うと、高峰がいよいよ拗ねそうなのでここで止めておこう。
ほら、もう視線を逸らしてる。
誰かと会話をするのには常に恐怖があるが、正直話が長くなればそれも薄らとしてしまう。とりわけコハクや高峰だと、長くても短くても恐怖も緊張もほとんどない。最初の内だけで、後は平気。それでもとりあえずの礼儀と失礼のないようにはしているが、これでやれているのかは不安な部分がある。
それ以上の事もあるのだがな。
ふと、黙り込んだ高峰をちらりと盗み見る。
(・・・?)
彼の頬がやけに赤い気がした。
(やっぱ好きなやつ、いるんじゃん)
やはり俺の言った通り照れ隠しだったのか。急に顔を赤くするなんてそれくらいしか考えられない。
けどもう何も言わなかった。高峰の様子が完全に元に戻るまで、寝た振りでもしておこうかと、俺は頭を背もたれに預けて目を閉じる。その前に、一瞬だけコハクの姿が見えた。コハクは何だか真剣そうな表情をしていて、どこかをじっと観察しているようだった。
とりあえずほっといて、俺はもう何度目かの自殺方法を頻りに考えた。
そうしている間に、いつの間にか眠ってしまった。暗闇の中に見える何かだけがぼんやりとあって、その後はどうだったか覚えていない。
ホテルという施設がどんな雰囲気のものだったかは覚えていない。もう何年も前に小中の修学旅行でどこかに泊まった気はするが、その記憶は頭には留まっていない。雰囲気を味わう余裕なんか無かったからだ。
けど今は何となくその雰囲気を味わえているような気がしていた。
バスから降りた先に、何十層にも連なった立派なホテルが建っている。高級マンションのような洒落た洋風の外見がよく目に付いた。玄関近くと自動ドアの頭上に、ホテルの名前が刻まれていたが、周りの濁流に呑み込まれて読めなかった。
広々としていて都会のような匂いのするロビーに、ぞろぞろと大量の人間の群れが入り込んでいく。それはもう詰めているものだから荷物を床に置く隙間もない。いくら広々としていても自由な位置にはいられないし、貸切ではないらしいので玄関や他客が通れる間隔は開けないといけない。まったくめんどくさいものだ。
学年主任から長いような短いような説明を受けて、生徒は確認と荷物を置きにそれぞれの部屋に向かう。大量の黒い頭が一斉にエレベーターや階段を利用して消えていく様を、隣にいた高峰とコハクと三人で見届けた。人混みがすいてきたのを見計らい、高峰と共に階段を登る。コハクは女性先生の部屋に行くようなので、ここで一度別れた。なるべく迷惑をかけない事を願うばかりだ。
「何階だったっけ」
「三階の310号室」
その通りに二人で三階に上がると、広い廊下が姿を現す。びっしりと設置された扉から特定の部屋を探すのは時間がかかりそうだったが、うろうろしている内に見つけた。と言うより、同じ部屋になっている同級生が高峰に話しかけてきて、それから案内された形だ。
部屋はシンプルな作りだけど結構綺麗な内装だった。ホテルの部屋らしい嗅ぎ慣れない香りのする清潔感のある空間にはベッドが三つと窓際にミニチェアとミニテーブル、端っこに何故か畳スペースが用意されていた。そこにタンスがあって、既に先にいた同級生の荷物が置いてある。
部屋には一部屋に四人程が泊まる事になっているが、ここは三人用だ。余計なゴミが一人いるせいだろう。きっとこの同級生は友達と同じ部屋で過ごしたかっただろうに。
原因である自分だって別にあんたと一緒にいたくているわけではない。一人で良いなら一人で寝てる。そうしたらコハクも呼べたのに。
埃一つ見当たらない透き通った窓の外からは大阪らしき景色が一面に広がっている。テレビで見た事あるようなものは見えないが、田舎者にはこれだけでも随分と価値観が違う。
「凄い景色じゃね?」
近くにいた高峰に話しかけようとして、言おうとしていた同じ言葉で同級生に遮られた。勿論俺ではなく、高峰に言っていた。
「そうだな」
少し素っ気ない返事が返ってきても、同級生は全く顔を歪めない。寧ろ、気持ち悪いくらいの笑顔だ。
「あ、そうだ。ベッドどうする?」
「どこでもいいぞ」
「じゃあ俺の隣に来いよ!」
ベッドは窓辺の位置から見て左側にあり、ドアの前に二つ、そして俺の目の前に一つだ。それなら、答えも一つだ。
案の定同級生はドアの前のベッドへと向かい、もう既に自分の領域として勢いよく腰をかけた。高峰もその隣のベッドに足を運ぶ。
─足から心の底の部分までが木の棒で砕かれているような気分と痛みが発生した。
いつもの倍以上の孤独感も、じわじわと身に染み込んでいくのが分かる。
ふと自分の頭上を見る。それから瞬時に思い出して、更に痛みが走る。
いつもはコハクがそこにいて、痛みを和らげていた。それに今気づき、それがどれ程助かっていたかを味わった。
特定の人物がいないと自分は本当に独りで、それは何よりも愚かな上に哀れだと感じる。
そうなんだ。俺以外の人間は仲良しという存在を幾度なく持っていて、独りになってもすぐに誰かが駆け寄ってきて仲間に入れてくれる。そもそも、人間の周りにいる三人に一人は仲良しで、すれ違う相手でさえも仲良しで手を振る。ある意味一般人の常識で、当然の事だ。
ただ一人その一般常識を持っていない俺は、もはや社会的に出るには相応しくなさすぎていた。
どうしてこうなるんだろうか。昔から指で数えられない程こういう場面に遭う度に思っていた。
窓から見える景色はちっとも綺麗じゃない。清々しい筈の空は薄暗くて曇っているように見える。
部屋の外からはがやがやと話し声がするけど、この密室の中での話し声の方が耳障りだった。
早く部屋から出たいとお経のように唱える。何か言い訳を決めて部屋を出て、集合の場所にすぐに行けるようにでもしようかと思って、とりあえず集合に必要なものだけ持って、ついでに自販機でジュースでも買おうと思って150円を握りしめる。
二人は気づいていない。それどころか俺の存在すらにも気づいていないのかもしれない。
それが好都合なのか不都合なのかの両儀は上手く判断がつかない。
まぁ、もうそんな事どうだっていい。
どうでもいい事で気分を更に悪くするだなんてごめんだ。
俺は静かに戸を開け、そして静かに部屋を出ていった。部屋の中の声は安定したままで、むしろ、俺がいなくなって声が大きくなった気がする。
ほんときついなぁ。
あらかさまに、そういうの示さないでほしいなぁ。
そんな想いとは裏腹だった。
いっそこの階から落ちようかな。
勢いづいてそう考えた。
ガッコン、と一瞬の音と共に落ちてきたオレンジジュースに、俺は驚愕した。
「あれ・・・俺、コーラ買ったよな」
けどどう見たって、拾い上げたそれはオレンジジュースで、でも美味しいやつ。俺は確かコーラのボタンを押した覚えがある。
その後出てきたお釣りは20円で、コーラは150円丁度。それをきちんと入れたからお釣りなんて有り得ない。
よく確認したら、オレンジジュースは130円と値段がつけられているのが分かった。それで初めて、本当に間違えてしまった事に気づいてしまった。
(アホか・・・)
自分の頭を小突く。
そうすると突かれた感覚がゾワゾワと身を徘徊していく。
「はぁ・・・」
胸のあたりを抑える。さっきからこの辺りと気分が落ち着かなかった。喉に魚の骨が刺さった時のような違和感と不快感が視界さえも滲ませていく。
自販機だからどうする事も出来ないオレンジジュースをとりあえずリュックのポケットに入れて、目の前のベンチに座る。一息吐いて、自販機の壁部分に寄りかかって時間を潰そうとして、そうしている内にあの学年主任が周りにいる生徒達に声をかけ始めた。それから程なくしてそれぞれの部屋にいただろう生徒達が階段やエレベーターを降りてきた。
おっと、こりゃまずい。
俺は立ち上がり、隅の方に移動する。あっという間に再び埋め尽くされたロビーで、同じような話を聞いて、それから担任が自分達の生徒を集めていく。俺もいつの間にか来ていた高峰に乱雑に手を引かれ、番号順に並ぶと、担任からうだうだした説明が入る。
一日目はクラスごとで事前に決めた場所へとあちこち行って過ごす日だ。最初は確か修学旅行お決まりのどこかの寺に行って、その後水族館とか、他にも有名なスポットには行くらしい。
俺はあまり決められた場所の名前を覚えていない。決めた時に高峰が教えてくれたり、しおりにも書いてあったけど、すぐ忘れた。どうせ楽しくない旅行の先など、覚えていても仕方がないだろう。とりあえず皆についていって、お土産だけ買う。修学旅行の目的なんか大抵それに限る。純粋に楽しめるだなんて、これっぽちもない。そんな事は有り得ないのだ。
バスに乗ろうとして、人混みの頭上からふよふよとコハクが此方に近づいてきているのが分かった。幽霊とはこんな所が便利なのかもしれない。肩には荷物の入ったリュックを提げている。とりあえず合流すると、再び先程と同じ位置につく。荷台に乗る前にコハクは、持ってきているリュックを見てから俺に言った。
「流石に下着とか服とかは置いとけないから、全部このまま持ってきちゃった」
「それが最善だな」
コハクが持っている時は良いのだが、持っていないと一応物体だからその存在が目に見えてしまう。そうなると色々ゴテゴテして面倒くさくなるだろう。
死者の世界と生者の世界の境界は極めて極端で、幽霊と化した死者が現世のものを持つと、それは突然色を無くし、重量さえも失われたもの、例えて言うと飲み干してしまって空になったペットボトルだとか、アイスのパッケージだとか、そんな風な雰囲気になる。その上その存在は肉眼では見えなくなる為、現世のものは完全に死者の世界へと移っている。ただし触れただけのものは変化が起きない。勝手に動いてるように見えるだけ。と、コハクは言っていた。現にコハクは現世にあった筈の食べ物や飲み物を食べて、現世に戻ってきた皿は綺麗に片付いてしまっている。ただし、それはあくまで無機物のみであって、常に忙しく動く人間や鳥なんかの動物は境界を跨いで死者の世界へはいけないらしい。仮にそれが可能であれば、俺はとっくにコハクと同じ世界に立っていることになっているだろう。
今まで見た通り、テレポートとか浮遊とか、幽霊には能力というファンタスティックなものがあるようだが、その能力を持った幽霊は数少ないらしく、余程の怨念や執念、未練がないとそういったものは生まれないらしい。コハク自身が少し前にそう語っていた。もしそれが自分だとしたら?と聞かれたが、俺は幽霊にはならない、と答えた。何故なら俺にはどの気持ちも残らないだろうから。誰にも悲しまれず、惜しまれず、消えた事にすら気づかれないのはもう目に見えてる。それに対しての恨み辛みなんてとっくに失せている。
そんな事を考えて、ふとコハクの透けた足が、一瞬だけ黒く見えた気がした。いや、全くコハクの身体に汚れはない。いつも通り、透明度の高いしなやかな姿があるだけ。
───あれ?
─────じゃあ、何だろう?
目が悪くなったのだろうか。
取り巻く何かが視界に曇ってきた。目に涙が浮かんでいる時のように周りも滲んで、痛い。ついでに言えば、潜むように恐怖心もある。
それから、ぼんやりと視点の合わない先に、黒い人影が数人程見えた。
───あれは。
しかし、それはほんの一瞬の事。考える間もなく、線香花火の末路のように突然として落ちて消えた。誰かに声をかけられた反動なのかもしれない。
「おい、眠いのか?」
いつも通りの高峰がいる。間の抜けたみたいな顔が取り巻くものを消していく。
「違う。ちょっと目にゴミが入っただけ」
その偽りの理由の中に、気のせいだという切実な願いを込めた。
コハクはいつの間にか荷台に寝っ転がり、まるで家にいるみたいに寛いでお菓子を食べていた。いつも俺の部屋にいる時と何ら変わりないその姿に、何となく安心感を覚える自分が、不思議でかなわなかった。
✣✣✣✣✣✣
そうした安心感をぐちゃぐちゃに噛み砕かれたのは、三日目の夜の事だった。その日のイベントを終えて食事と風呂を済まし、もう目一杯枕投げをしていた男子達さえもすっかり疲れて心地よい夢の中に行く頃になって、
───俺はとある夢を見た。
───見覚えのある教室。ミニチュアみたいに飾られた小さいサイズの無数の机、椅子、壁に磔にされた黒板、もう何年も使い古された木製ロッカー、それとランドセル・・・
そこに、誰かが立っている。空という空ではなく、ぶちまけられた黒いペンキの背景を背中に、それは幼い子供がぽつり、鉛筆を立てたみたいにそこにいた。整えられた何のくせっ毛もないこげた茶髪と、汚れの少ない白いポロシャツ。すこぶるどこにでもいるような姿の少年である。けれども、その少年の視線がどこを向いているのか判断が難しかった。虚ろで、光の混じり気もないその瞳は、もはやこの場所どころか、肉眼では見えない別の世界でも見ているかのような風だった。あるいは幽霊か、狐が化けたのかと思うほど、この少年の佇まいは不気味であった。
表情も変えず、微動だにしないその姿は皮肉にもこの孤独に静まり返った教室には良く似合った。触れると脆くて、後に何も残らない空虚に満ちたドールハウスの中に取り残された人形の如く。一言で表すと、ただのオブジェだった。
だけどもこの少年はまだ綺麗であった。
少なくとも、この状態が続いていたなら、まだ綺麗であった。
───────────
ぶわっと、たんぽぽの綿毛が弾け飛んだようにその場の空気が変わった。
────煩い。
人間の声がした。少年のものではない。それどころか無数、いや、無限にも存在する大量の人間の声が一斉に鳴り始めた。
それでも少年は動かない。だが先程よりも、表情が強張っている。それから何かに堅忍しているように、唇を噛んでいた。少年の焦点はいつの間にかその場に定まっていた。その視線の先には、固まった泥一つ無い真新しい箱に詰め込まれている林檎のような大量の人の幻影が、影と影の隙間に空いた場所をころころと転がるようにうねりながら、それはもう愉快で空っぽな笑い声を上げ、バシバシ、ドタドタ、パラパラ、ガタン、─────統一感のないオノマトペのオーケストラは途絶えることを知らない。一人だけの観客は延々と聞かされたままなのにも関わらず、耳を塞ぐ事をしなかった。俯き、まるで当たり前のように下を向く。噛み締めた唇から赤みが滲み、時折垂れた手がピクリと動く。時が過ぎ、少年はそうしたまま、再び表情を無に返した。それから目を瞑る。すると、あれだけひっきりなしに轟いていた楽器の声が、ぴたりと止んだ。だがすぐさま、上靴の擦れる音と迫り来る気配を感じて、ぞわりと身体をなぞるような恐怖と共に目を開けた。
ずさりと刺さる、獲物をしっかり捉えた鋭く殺意に満ちた視線。それが目に入ったかと思えば、突然、重く硬い音が響いた。繋げるようにどさりと音を立てて少年が床に落ちる。
倒れた少年の頬には唇ほどに赤い色を帯びた腫れが生じていた。見上げないと正体の分からなくなった相手の手は拳を構えていた。口角を大きく上げ、少年を見下ろしては愉快げに笑っている。だがそれ以上には声は出さなかった。代わりに、その力強く握られた拳が物語っている事を少年は既に知っている。
相手は少年の義務教育の間をずっとつきまとうように共に過ごした男だった。虚空の扱いの上の理不尽な暴行。その需要の有無を考えることは、少年にはけして容易くはなかった。
少年のみが分かるだろうただ一つの事は、この何層にも重なった一つ分の痛みが、後に二つ三つと増え続けていくだろうという事だろう。
悪夢は果てしない。
でも、この時の命は辛うじてそこにあっただろう。
ああ、また、痛みが─────
✣✣✣✣✣✣
───ぞくっと酷い寒気を感じた。
ぐるぐる廻る視界に、薄暗い天井が浮かぶ。開けっ放しのカーテンの窓の光に照らされて、その構想ははっきりと見えることが出来る。横の二つ分のベッドから二つ分の寝息が聞こえてきて、それから次に自分の心臓の音が耳に入ってきた。
──どっ。
その音はやけに大きい。それどころか痛い。まるで金槌で刺される釘のようなスピードで、その痛みが襲ってくる。
混じえて、ズギッと一瞬だけ激しい痛みが走る。それで小さく唸り声を上げたが、辺りは沈黙を保っている。心臓部に抑えた手を除けて、おもむろに起き上がってみると、目眩がした。あのまだ痛みはある。音もする。
しばらく呆然として、何故こうなっているのかを思い出すと、脳裏に突然過去の光景が浮かんできた。
あぁ、そうだ。俺は過去を見ていたんだ。あれがまとまって、何故か夢として形態されていた。
でも何故今更、そんな夢を見た?
夢なんかで確認しなくたって、自分はきちんと自覚しているというのに、あれはまるで再確認を求められているようだった。
今まであれだけリアリティのある夢は見てこなかった。一部の光景なら幾度となく夢に現れた。幼い頃の話なら特にそう。
「・・・・・・ぅぇ」
また突然、今度は吐き気がした。慌てて口を手で抑えると更に吐きたい衝動に襲われる。
もしかしたら只事じゃないかもしれない。
俺は二人を起こさないように静かに部屋を出る。無論部屋にも洗面所はあったが、もし起こしたりしたらばつが悪い。
足音は少しだけおぼつかない。幸い廊下は電気がついていて道は分かるが、上手く足に力が入らず、壁をつたっていかないと先には進めない。不気味な静けさに若干の恐怖を背に足を動かし、エレベーターに乗り込む。
降りた先にはロビーの休憩スペースが広がっていた。自分が立つすぐ目の前に自販機とソファがあるのを見て、少しだけ気持ちが落ち着く。けどもすぐ吐き気が増してきて、急いでトイレに向かった。
洗面所と顔を合わせ、幾分か吐き気が紛れたのを確認して、休憩スペースに戻ってくると、すぐさまソファに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
あの痛みは先程と比べるとマシにはなっていた。目眩はしていないが、視界が少しだけおかしくなっていた。
「・・・」
窓からの景色ははっきりとしていない。外の建物の光はぼんやりとしか光っておらずほとんど役に立っていない。その中に映る、ソファに深く腰掛けた自分の姿だけがはっきりとあった。
あの時とは全く違う姿。
あの時に期待したものとは全く違う姿。
泣いていたあの時とは、違う。
今はもう涙の味を覚えていない。
だけどあの血の味は改めて思い出していた。
血も涙も同じ類なのに、出る幕が違うだけでこんなにも違う。
何故こんなにも身体が狼狽し、こんなにも衰弱しているのだろう。
あんな夢を見たところで、今更・・・。
訳が分からず、眩む脳を動かして考えようとする。
ふと見れば無能な半分無機物が見るに耐えないその醜態を世間に晒している。
弱っちくてボロボロ。悪夢の中の自分そのものだ。
あぁ、滑稽な事だ。
ははは。
はは・・・?
・・・笑ってる?
窓の内側に映る自分は、情けなさそうに笑みを浮かべている。
待って。何故?
・・・まさか、とふと脳裏に浮かんだ節があった。
(高峰と・・・?)
彼が出てきてしまったということはその確率は高い。
彼と接触していく中で、何かの拍子で生き返ったのだろうか。
・・・?
なんで生き返ったなんて発想が生まれたのだろう。
それはまるで、笑う事のあるきっかけが出来たみたいではないか。
そもそも、今までの十数年間の人生の中で、自分が笑ったことがあったのだろうか?少なくともその経験は今の現実的な夢の中にも、自分の思い出せる範囲内にも、あまりなかったような気がする。多分、祖父に対しては作り笑いをしていたような気はするが。
それ以外、口角を上げたりすら自分はしてこなかった。それは断言出来る。無のまま、誰かにただ自らの身体を痛めつけられ、傷つき、そして自分でも痛めつけて、どうにか終わらせたいと願い、それでも尚現在に保たれたままの自分が、どうして今更笑うだなんて感情を出せるのだろうか。
分からない。
分からない?
・・・・・・・・・・・・。
急に、何か飲み物が飲みたくなる衝動に駆られた。
だが生憎、今はお金など所持していない。あの吐き気とふらつきでそれどころではなかったし、それを前提に暗闇の中から探すのは到底不可能に近い。
スーパーの休憩スペースではないので無料のお茶のサーバーなどあるわけがないのだが、一応探してみる。やはり無いことに脱力して、なるべく欲を抑えることに努める事にした。
そうしていると、ふと、自販機の方からガコンと飲み物が落ちる音がした。まさか先生か?と焦って体勢を整えたつもりを装って、音の方を確認した。
しかし、そこには誰もいない。
その事に疑問と同時に安堵した──かと思った。
ぞわりとした。唐突に、水気と今までにもないような冷たさが同時に、頬に差し掛かってきたのだ。
「なっ、な・・・?」
慌てて振り返って、俺は驚いてしまった。そこには先生ではなく、黒ストライプ柄の寝巻きに身を包んだ高峰が立っていた。片手には水滴の溜まったスポーツドリンクが握られている。
「た、か峰?」
名を呼ぶと、高峰は何故か無言で俺に圧力をかけて、隣の方に座り込む。それからドリンクのキャップを開けて、自分が飲むのかと思いきや、俺にそっと差し出してきた。
「自分で飲めるか?」
「・・・多分」
問いただす言葉もお礼も言えず、朧気な手で受け取る。腕力が弱くなってるからか、それとも虚ろなせいか、持っている感覚が少し感じられない。
残存する気持ち悪さが全身を覆い、一向に次の行動に進めない。
「後で飲むよ」
諦めて、テーブルにドリンクを置く。
すると高峰は黙ってソファから腰を上げ、自販機の方に向かい、ペットボトルではない、紙コップタイプの自販機からアイスコーヒーを買い、中身だけ捨てて戻ってきた。
一体何をしているのか分からなかったが、突っ込むような口出しする元気がなかった。彼は空の紙コップに付着したコーヒーの雫をティッシュで拭き取り、そして綺麗になったコップにスポーツドリンクを注ぎ込み始めた。
「・・・なんで俺が部屋にいないって、分かったよ」
コップに注がれるドリンクを眺めながら、俺は少しだけしかない力を振り絞って、静かに尋ねた。
ペットボトルのキャップをしめる音と共に、高峰は言った。
「お前がどこかに行く所を見たからだ。異様な動作だったから、まさかと思って」
「・・・あんたずっと起きてたのか?」
「ん、まぁ、そんなところだ。どうにもやはり、ホテルのベッドだと寝づらくてな」
「・・・それで、わざわざお金まで用意して俺の後をつけてきたんだ?」
よく俺の場所が分かったな、と言うと同時、俺の口元に紙コップが突き出された。ちらりと高峰を見ると、このまま飲め、と促してきた。つまりは高峰が持っていてくれるという事らしい。
まるで乳児に与えるとか、老人の介護みたいでかなり恥ずかしかったが、それでも手は動かないみたいだから仕方ない。
僅かにコーヒーの味が残っている。ある程度飲ませてもらい、俺の安否を確認されてから、会話が再開する。
「どうやって俺がここにいるって、分かった?」
気づかなかっただけで背後にいたのかもしれないが、もしそうであれば黙って見守っている筈がない。多分。この人は何となく。今までの経験から。
「エレベーターに乗ってるのが見えた。下に降りてたから、ここなのかと」
「・・・流石」
事が起きたらすぐ駆けつける。もうすっかり理解したように思える、こいつの特徴の一部。彼の中のアイデンティティを垣間見るようだ。
無自覚か自覚か、ヒーローのように無邪気で、一寸の闇も見当たらない。その特徴を生かして、彼があらゆる人間の手助けをしている所なんて見飽きたものだ。それは人間として、人間の先入観から、実に正しく美しい、彼こそがいわば正義と言っても過言ではない。それが彼の、世間からする評価であろう。
けど可哀想だと思う。
その特徴の活用方法を、高峰は間違っているのだから。
何割かは正常に使用しているけれど、きちんと有効的に使用する為には、その対象を選ぶ事を誤っていけない。
特に今の彼の使い方は最も誤った使用方法だ。
「・・・なぁ、高峰」
高峰は俺の背を、優しく摩っている。
「そろそろさ・・・俺に構うの、やめたら?」
その特徴を捧げるべき相手の一人に、俺はいらない。俺自身だって、本当はして欲しくなんかないのだ。同情も誠実さもいらない。出会わず、ずっと赤の他人でいる方が、お互いにとって幸せなのに。
意思、心、気持ちが、ぐしゃぐしゃになっていく。そうしていては、こっちまで誤作動を起こしてしまいそうで、また同じ事を繰り返しそうで。
高峰が眉をひそめた。
「何故そう言う」
「あんたは、俺といるべきじゃない」
「俺が誰といようとも俺の勝手だ」
強く言い返されるけど、俺は続ける。
「けど、俺だけはやめといてよ」
「だから何故お前といてはいけないんだ?何故やめておかないといけない?」
「・・・もう分かりきってるだろ?俺はずっと死ぬ事だけ考えてる。実行してる。あんたはその度に俺を助けて、損ばかりしてる。今もそう。この前もそう。あんたは何度俺を助けた?・・・もう、充分だろ。いい加減、やめようよ」
無意識に、自然と言葉が紡がれていく。
「仮にそうしたらどうする?お前は確実にいつか自殺するだろう」
「それで良いのさ」
「何が良い?一体何が良いというんだ?」
「それが俺のすべき事だからだよ」
そう答えた瞬間、高峰が俺の胸ぐらをつかんだ。視点が強制的に高峰の方へと向く。
高峰の鬼のような形相が、自身の瞳にばちりととまって、火花の幻覚を見たと同時に心臓が逸走強く鳴り始めたのが分かった。
「話がまるで噛み合ってない。お前は何かふざけているのか?俺を戸惑わせたいのか?それとも困らせたい?訳の分からない事を言うな!不快だ!」
今までにない程強い口調だった。彼の怒号に近い声が耳を劈き、頭の隅にまで行き届いていく。今にでも俺を殺しに襲ってきそうな勢いが、胸ぐらを掴む為に握り締めた指一本一本から靄を出している。
背筋を氷の欠片が流れるような冷気が滑り落ちていった。
高峰の腕力はそのほっそりした身体つきには似合わない強さがある。それは毎度毎度、俺の所業を邪魔する煩わしい対象物でしかないが、今は煩わしいのではなく、恐ろしいという気持ちで満たされていた。
そして何よりも、優しく背を摩っていた手が突然豹変し、俺を襲っている事が、たまらなく怖い。
「お前は何を課されているというんだ!死ぬ事で誰かに税でも払おうとしているのか!?」
「税だなんて・・・っ」
高峰の声に気圧されて、上手く言い返す事が出来ない。
別に他人に与えられた義務ではない。自らが自らに与えた義務だ。与えたのは自分なのだから、他者のせいにはならない。
そう言いたいのに、怖くて、言えない。
「早く答えろ!北沢!」
今まで高峰に対して恐怖心を抱いた事があっただろうか。
いや、そもそもただの人間に対して抱いた事があっただろうか?
「黙り込むな!」
怖い。
動けない。
何も答えられない。
──あぁ、あぁ。
恐怖に支配を許すと、益々思い出してきた。
その俺の胸ぐらを掴んでいる片手が、もうじき、俺の頬に飛んでくる。
あの頃のあれは怖くなかった。九年間、もう何度だって傷をつけられたか分からないくらいに痛めつけられた。その痛みが生まれる瞬間と痣の形を、精神と身体がしっかり覚えている。
なのに。
どうして、今更こんなにも怖い?
片手は一向に俺に飛んでこない。
けど不意に、高峰の表情が変わった。あれだけ眉間にしわを寄せ、復讐に燃えたぎる強い心を持っているみたいな瞳で俺を睨みつけていた彼の顔が、一瞬にして青ざめていった。眼鏡にさえ、怯えに近い色味が感じられる。
──あれ?
何か、違和感がある。
その時初めて気づいた。それから、久々にその感覚を、無意識に受け入れた。
目元が熱いもので曇っている。まっすぐ捉えていた高峰の顔が、徐々に滲んで見えていく。
何の前触れもなく、俺の頬を、瞳から一滴の雫が滑り落ちていった。ポタリという音も立てず、高峰の手の甲に落ちる。
「・・・え?」
何が起きたのか分からなかった。けども身体はその状況など全く気に留めず、雫が次々と瞳から零れ落ちていくばかりで、俺はただ呆然としているしか他になかった。
「お前・・・泣いてるのか?」
───泣いてる?
その言葉で、ハッとした。ようやく今の状態を理解し始めた。
泣いてる。
俺は今、泣いているのか。
ずっとずっと、死んでいた感覚。絶望に見舞われたあの日から、もう味わう事の無いものだと肯定し続けていた感情。
でも何故?
何故自分は今更この感情を蘇らせた?
「・・・・・・あ・・・あ・・・」
考えれば考える程、涙の雫が溢れては落ちていく。
「・・・俺、なんで、泣いて」
「悪い・・・っ!」
突然俺の身体が解放され、ソファの背もたれに落下した。それでも涙は止まらず、高峰から向けられる狼狽したような表情は、あまり視界には入ってこなかった。
「ひとまずこれで・・・っ」
高峰がズボンからハンカチを取り出し、俺に差し出すが、もはやもう、行動不能の状態にあった。体調不良の面もそうだが、久々の感覚にどうすればいいのか分からなかったという方が今度は大きい。
もどかしそうにしていた高峰は、遂に自らの手で俺の瞳や頬に濡れた涙を拭い始めた。その手つきはとてつもなく、優しい。穏便なる高峰の仕草が戻ってきて、少し安堵したのと同時に驚愕した。
一度は敵の眼差しを向けられたのに、また味方の優しい施しを受けている。
今までには有り得ない展開だった。
次々と未体験のものが身に入り込んでいく。
いよいよ頭が真っ白になっていくのが分かった。────
✣✣✣✣✣✣
涙が止まるのはその頭が色を除け、ぎこちなく動き出すのと同時だった。
俺の横に座り込み、ハンカチをか弱く手に持ったまま、高峰が苦しげな声で言った。
「・・・さっきは悪かった。あんな事、しようだなんて微塵も思っていなかった。自分でもあれは実に恥ずべき行為だったと思う」
「・・・もう良いとこけどさ。・・・なんで、あんな事するってなったの?」
間を置いて、彼は静かに答えた。
「お前の、その過剰な自虐だ」
「・・・過剰な自虐?」
「お前は明確で正当な理由も教えず、いつもひたすら自虐ばかりしている。一緒にいるべきじゃないだとか、自分は自殺するべきだとか、そういうのを聞く度、腑に落ちなかったんだ。理由を知らず俺に言える事があるか?お前のその諦めたような顔を変えられるか?なのに、お前は何も語らない。自殺するべきという、証拠を一切出さない。それが随分ともどかしくて、イラついてて、仕方がなかったんだ」
彼は項垂れ、手の平で顔を埋める。
「だがそれを無闇にさらけ出してしまうのは横暴だから、我慢していたのだが・・・まさかこんな場面で弾けてしまうだなんて思いもしなかった」
本当にすまない、と今にでも消え入りそうな声で呟く高峰を見下ろし、冷静さを取り戻しつつある頭をしっかり点検してから、俺も謝った。
「俺こそ。急に泣くだなんてどうかしてた。そんなつもりなんかなかったのに」
実際ではつもりどころの話ではない。もう二度と現れる事の無いだろう感情が、一抹の恐怖でこんな呆気なく目を覚ましたのだ。
「俺、お前を怖がらせてたか?」
「・・・まぁ、うん」
「確かに、暴力に持っていくだなんてな」
そう言って高峰は苦渋に満ちたような顔をするけれど、あの恐怖心は暴力から来た訳では無い。恐らく、過去のあれこれが再現されるような展開になってしまうのだという、その部分だと思う。それにあれは暴力ではない。ただその準備をしただけの事。だから彼に罪は無い。それどころか、高峰はかつての彼らのしなかった、俺も想像でもつかなかった事をした。
「あんまりそういう顔しないでよ。別に暴力で泣いたわけじゃない」
本能的に彼の表情は本意ではないという言葉がよぎるが、一応寂しく宥めておく。
高峰はまだ何か言いたげだけど、俺はそれを制したい程あの事についてを聞きたかった。他にだって山程あるし、本来なら一番最初に尋ねたかったのだが、たまたま先に別の事が出てしまった。
「そんな事より、お前、なんでさっき俺にハンカチなんか出したんだ?」
あの彼らなら行う事は有り得なかった。こんな要らない奴を助けたってどうにもならないと、小学校当時の担任にだって言われた事がある。
「なんでって・・・そりゃあ当たり前だろう。目の前の友達が泣いていれば、ハンカチでも何でも、出すのは務めだろう。しかも元凶は自分なんだから」
身体中に震えが走った気がした。その残響のようなものを感じた後、自らの顔は無意識に、しかめっ面に変わっていた。
友達だから、という言い訳の代名詞のようなその言葉は、まるで綺麗すぎている。そのあまりの清潔さに、気持ち悪くなる。
俺は彼の放った『友達』を打ち消した。
そして思い切って、言った。
「・・・お前は綺麗な奴だよな」
「綺麗な奴?」
「よくそういう事平気で言えるよね」
「逆に言えないものなのか?」
「そういう意味じゃなくてさ」
微動だにせず変わらない彼の表情と発言に、不審な気持ちになる。
「本心からじゃないだろ?そういうの。あくまでさ、自分が良い奴だって思い込む為の手段の一つなんじゃないか?駄目だと思うよ、それ。後から相手が辛くなるんだから」
「辛くなる?悪口ではないのにか?」
彼にしては珍しい、心底驚いたような顔が俺に突きつけられる。まるで世間知らずの蛙みたいな様子に若干苛立ち、俺はもういっその事言ってやろうと口を広げた。
「お前はいずれ、俺を裏切る。仲が良い奴がもっと出来れば、お前は何事も無かったみたいに、俺から離れていくんだ。そしたら・・・」
仲良しが出来た経験なんてどこにも無い。だけど、それ故の絶望を他人伝いに間接的に味わってはいるのだ。
それに、高峰が本心から俺と一緒にいて、友達になりたいなど思っていないと信じている以上、これ以降の進展は欲しくなかった。
「・・・だから、俺とはいるなって言ってるんだ」
少々躍起になって、高峰に訴えた。
「お前自身はお世辞や情けで俺と話してるんだろうけど、それでお前は俺に希望を期待させようとしてる。そして絶望を味わせようとしてるんだ。もう止めてくれないかな。もう本当に身が持たなくなる」
目の前で話をするこの高峰という男がやがて俺を思い切り突き放し、冷たい眼差しを向け、ついさっきのあれがいよいよ俺の頬に直撃してくるのを想像すると、本当に怖い。
暴力など容易い方だ。裏切られた瞬間の彼からの視線の方が余程人の心臓を潰しに来ている。
そうならぬよう、期待の心を殺した。なのに、いつの間にか生き返っている。高峰と出逢って色々な事を共にしてから、薄々とは感じてしまっていた。けどそれを易々と受け入れたくなくて、ずっと死んでいると肯定し続けていた。だけど、まさか笑顔や涙まで出るようになってしまうなんて。
「・・・北沢は、過去にそうされた事があるのか」
「いや・・・そもそも他人と仲良くだなんてのもした事今までなかったから、直接的な経験は無いけれど・・・、でも実情他所がそうなってる。それを、意図的に味わおうなんて俺は思わない、絶対に」
かつて目の前や横、いや、教室中の同級生が何人かグループで囲って話しているのを見ていた。それを眺めていたら、翌日かその明後日には誰かが抜けていたり、あるいは誰かが昨日の味方に散々に蹴散らされ、場所を失っていた。
その笑顔が背筋が凍る冷酷な瞳を宿すのを見た時、俺は思わず身体を竦ませた。
絶望の限界はとうに過ぎている。それに重なりを重ねられては関係無い内側の箇所までを削られてしまうであろう。
特にこの相手の高峰は後々裏切られた時の代償の底が見えない。
ただ、死にたくとも全く死ねない自分に対する苛立ちを更に募らせるような挑発の要素に成りうる事は目に見えて既に苦しくなる。
「一度の裏切りでも俺には耐えきれない。だから下手に寄ってこられても俺が困るんだよ。それに、あんたに良い影響なんかも与えられないぞ」
「・・・、それは置いとくが、それが原因で自殺しようとしているのではないんだな」
「それはもう最初からだよ」
「最初からって・・・どれくらい」
「・・・言い方悪かったかも。気がついたらって意味だよ。自分が不必要だって、気づいたりした時くらいじゃないかな」
誰かに自分自身の話をするだなんて初めてだった。その中の一部を語っただけで、不思議と身体のあちこちを圧迫していた何かが軽くなったような気がした。けど、それ以上に不安が募る。
高峰の問いには正直に答えたけど、次に何と言われるのだろうか。
「・・・とりあえず言っておくが、」
高峰の右手がぐっと握られる。
「お前も俺を知ってるわけではないだろう。勝手に他所と俺を同一視されては困る。それとも・・・俺はそいつらと同じ事をしようとしているように見えるのか?」
「・・・いや、そういうわけじゃないけど」
「なら勝手に決めつけないでくれ。いつか裏切る、とかそうじゃなく、北沢は、今ここでお前と喋っている俺と向き合ってくれ。俺を知れ。期待するんじゃなく、俺を試してみろ。そうすれば、俺がどうするのか、分かってくる。だがな、先に宣告しておくが、俺は裏切る行為などするつもりはないからな」
真剣な声色の高峰の真っ直ぐな瞳が、しっかりと俺を捉える。人間が誰かに対して、こんな目をするのかと考えてしまうくらい、彼の表情は本気を交えているように見て取れた。
「何かのきっかけがない限り、お前はこの先も自殺行為を続けていくだろう。俺はそれらを全て受け入れ、そして何度だって阻止する」
だが、と少しの間が空く。彼は複雑そうに口角をうねらせた。
「全てを受け入れるにはお前の視点の世界を多少は知っておかないと、俺もやりきれない。下手に言ってお前に嫌な思いをさせたくないんだ」
「・・・なんかほんと、変な奴だな。なぁ、君ってやつは」
今まで聞いた事も、ましてや言われた事もない言葉が次々と届いてきて、思わずそう零れた。他に言うべき事は沢山あるのに、もはや薄い苦笑いしか浮かべられない。
「・・・君は俺を彼女とかと間違えてない?普通は他人になんて言わないよ、そんな恥ずかしいの」
「俺は性別とか関係とかに囚われず、誰にでも分け隔てなく接したいんだ。こいつはこうだから、で対応を変えるだなんて出来ない」
「平等に扱いたいわけだね。人間が好きなの?」
それ程に言うのなら、この人は相当人間に対して好意を示しているのだろう。
しかし、高峰は首を傾げた。
「いや・・・そういうわけではない。俺はただ・・・本当に心から通える友達が欲しいんだ」
「でも、高峰なら友達なんて沢山いるんじゃないの」
「別に沢山いるわけではないが・・・、俺も上辺だけの関係にうんざりしていてな。ただお互いに楽を求めるだけで、それ以上の深入りを試みない。それを続けていればお互いいずれ独りになるだけだし、お前がそう言ったみたいに裏切りを働く事だってあるだろう」
「あぁ、・・・うーん、でも、逆に親しみを込めた心で誰とでも、も有り得ないよ。俺が言える立場じゃないけどさ、確かにあれは友情と呼ぶには難しいけど、本物のそれを形づけるのは、もっと難しい事だよ、きっと」
恐らく高峰は、意外にも所謂青春とかの類の輝かしい夢を見たいのだろうけれど、残念ながらそれに賛同は出来ない。けして高峰のスキルを見くびっているわけではないし、友達の一人もいない自分が意見を述べるのもお門違いなのだが、それでも本物の友情、友愛を既視感のあるようにはっきりと宣言する事が不可能なのは確かだと思う。
「それに皆、別にそんなのいらないんだと思うよ」
「なら何故、青春映画なんか作られるんだ?もし皆が友情を必要としていないのなら、あんなものを作る気になどなる筈がないだろう」
「あれは違うだろ、ただ有名な俳優がやってるからだよ。別に男女それぞれの熱い話が見たいんじゃない」
まぁ、でも。と、俺は口角を上げ、微笑むような顔を作った。恐らく向こう側からは間抜けな面をしているだけにしか見えていないのだろうが。
「俺と違って顔も性格も良いんだから、あんたならいつかそれに似たマシな友達が作れるんじゃない?」
根拠なんて何も無いけども、ここまでの良人なら生きている内は不可能ではないだろう。俺とは違うのだから。
「俺は、お前の友達じゃないけど、どうであろうとお前の求めるような奴にはなれないし」
「・・・いや、それでもお前はさっき俺に自分の事を少し話してくれたじゃないか」
「あれは、まぁ・・・勢いもあったけど」
「それに、無理になれだなんて俺は言ってないぞ。こっちがお前に寄ってるだけで、理想は押し付けない。お前はそのままでいればいい」
「わ、それって、俺に自殺行為を続けろって言ってるようなもんじゃないか」
茶化すように、小さく驚いたような反応を示してみせる。それを見た高峰は控えめに眉をひそめた。それから天井に向けてため息を一つ吐いた。
「そりゃあそのままとは言ったが、俺が言ってるのはお前の内面の事だ。・・・まったく、こっちは笑い話をしてるじゃないんだ。茶を濁すな」
「へいへい。それならまぁ、俺との交流は、今の状態で満足って感じ?」
「まぁ、そういうことだ」
「ふぅん」
「ただし、今のところはな」
「はぁ?」
納得した次の瞬間に、また新たなものがぶっ込まれてきて、少し動揺する。
「何それ、ずるくない?」
「ずるくない。友人関係に有限はないからな」
「えぇ・・・」
何だか腑に落ちない理由だ。
「・・・高峰は、最終的に俺とどうなりたいわけ?」
こっちが自分じゃ無理だと公言して、無理強いしないそのままでいいと言われたのに、今のではまるで全てを覆してしまうではないか。いずれかは彼の望む所謂『友人』になってもらう。そう言いたげだ。
何故自分なのだと先に尋ねるのは諦めた。もうこの話でこれを話題にするのは今更すぎる。聞きたいのは山々なのだが、そうするとまたうだうだと永遠な長話になるだろう。
またいずれ、別の機会に訊くことにしよう。
「あんたはさっきから友達っていうけど、俺達がしてる事って、死ぬか死なないかの攻防じゃないか。それで決着が着けば、そこで関係って終わっちゃうんじゃないの?そしたら、友達どころの話じゃないよ」
本気だと受け取れる脳はあっても、彼の言葉が丸々真実を語っているのかは未だ信じ難い。そもそもその本気とは何に対してなのか。気持ち悪くなる程の綺麗な言葉を並べる事か、自分よりも弱い奴にも平等に接したいという性分をあるがままに押し付ける事か、あるいは、純粋に自殺を阻止したいだけなのか。される側は彼の波に流されるだけでそこまで探るに余裕が足りない。
その上に、いずれ起こりうる未来を想像すると、彼が望むものを自らが与えることなど出来るわけなかった。仮に、彼がその未来を押し潰して、代わりに彼の望みを現実にするチャンスを強制したとしても、結果的には互いに残念なものを目の当たりにするだけだ。
それに、今の状態の発端はこのいたちごっこからであり、けして仲良くしようで始まったわけではない。そうした関係をギリギリの境界で繋ぎ止めているだけで、それすら無くなれば、環境も考え方も異なる俺たちが共にいるという理由はなくなる。
お前はこれからも自殺行為をし続けるだろうという発言から、高峰自身だって、この先の俺が望む行く末を想定外にしているわけではないだろう。その運命がはっきりするまでの期間では、一体俺とどこまでの範囲で距離を保ち、自分にどれ程影響が及ぶか、それくらいは把握しているのではないだろうか。
「いや、関係は終わらない。どんな形状であれ、一度知り合いとなればもうそこでそれが脳から外れる事はない。少なくとも俺はそうだ。他の奴らは違うかもしれないが」
間が空いて、返ってきた答えは、後に発したものが先だった。
その後、その目を俺に投影した高峰がこんな事を言った。
「お前は今まで仲良しがいた事がない、と言っていたな。・・・なら俺がお前の最初の友達になって、今度は普通に話が出来るようにしてやりたいな」
珍しく、高峰は僅かながらの微笑を浮かべた。真剣な雰囲気もそのままに、その笑みは、俺をしっかり射っている。ぐさり。と。溝色の脳や心には、撫でるように語りかけてきている。
それと共に放たれた彼の返答を、何度か心中で輪唱した。
高峰を『最初の友達』にさせる。
単純に見えて、とても難しい要求だ。
「それ以上に、まずはお前を死という概念から逃がしてやりたい」
とても高峰らしい、聞き慣れもしない狂ったような望みだと思った。
本当にそんな事が出来るはずないのに。
一度汚れた人の心は、そう簡単に変えられない。誰にも。自分でさえも。
出来ないよと断言したいのに、急に口は自由がきかなくなってしまった。
そのまま、身体から重いものが抜けていくような感覚がした。風船の空気が虚しくも徐々に抜けていくように、全身の気が緩んでいく。
眠気が来たのだろうか。いや、そんな様ではない。どれかと判断すべきなら、疲労感に近い。一時的に苦しみから逃れた際に咄嗟に現れる、何かもかもを消耗しきった時のものだった。
「・・・」
「北沢?どうした」
「・・・ぁ、えと、ごめん。高峰」
遅鈍な動きで、立ち上がる。
「大分落ち着いてきたし、そろそろ部屋に戻ろ」
高峰は瞬きをいくつかした後、立ち上がる前に「眠れるか?」と訊いてきた。俺が根拠もなく、「うん」と答えると、その後は何も言わず、紙コップをゴミ箱に捨ててから、俺の横に並んだ。
エレベーターに乗り込み、眠そうにする眼をこすりながら見回りをしている先生の目を避けつつ、部屋に戻ってベッドに入ってから、ふと、思い返した。
あれは、まるで夢の中の一部のような一時だった。
不快でもなく、愉快でもない。心が痛くなったり、痛くなくなったりもした。理解が難しくてずっと何かがざわめいていたし、耳にさえしたことも無い言葉も覚えた。
俺は彼と、一体何をしていたというのだろう?
それら全てを名では呼べないだろう。
だけどもこの後の夜、自分が再びあの夢を見ることはないと、何故だか確信出来た。
それは、俺がこれまでけして感じたことの無かったものだった。
その時見上げていた天井の暗闇と共に、はっきり、認めた。
認めたのは、それだけだ。
✣✣✣✣✣✣
結局、修学旅行中での挑戦は中止になった。いや、中止というより、出来なかったのだ。こっそり持ち込んだ凶器を手に握ることはなく、どこか高い位置から落下するということもなかった。
旅行中はとにかく忙しなく動かなければならず、挑戦どころか景色もほとんどゆっくり眺める暇も貰えず、やっとこさ全ての過程を終えてバスに乗り込んだ時にようやく、窓に目を向けられた。景色はそれほど綺麗でなかった。
忙しさに解放されて気が緩んでいるのと共にじわりじわりと残る物足りなさが俺の表情までも出ているみたいで、隣に座っている高峰が肩を竦めていたが、間を置いてひょっと盗み見ると、寝息を立ててすっかりと眠ってしまっていた。
なんというか、子供みたいな所もあるのだなと考えていると、頭上からこんな声がした。
「楽しかった?」
以前に買ったあの服を着たままのコハクが、荷台からひょっこりと顔を出していた。数日動きっぱなしだったはずなのに、この子は全くもって疲れを見せない。俺は声の音量を下げ、話を繋げた。
「分からないや。けど、全然楽しくなかったわけじゃないかも」
あの事が出来なかったり、思いがけない出来事があったりもしたけど、珍しく、最後まで安定した学校行事だったとは思う。そう思ってしまった。
素直にそう答えると、コハクは小さく笑った。
「やっぱりさ。それって、高峰クンがいたからじゃない?」
「なんでさ」
「えぇ、君なら分かってると思ったのにー」
「・・・それって、もしかして一人ぼっちじゃなかったからって言いたい?」
「そうだよ。もう、気づいてるなら訊かないでよぅ」
「いや・・・まぁ、」
俺が口ごもると、コハクは身を乗り出してこう囁いてきた。
「認めたくないから?」
「え」
「あっちがその気になって付き合ってきてるかもしれないって、認められないから、そう答えるんでしょ」
「・・・まぁ、そうだね。違うって言ったら嘘になるし」
俺からの正直な答えを聞くと、コハクは一瞬だけ俺の隣に目を向けてから、
「でも、迷ってるとこもあるでしょ」
再び、口ごもる。
コハクの言うことは確かに、ごもっともだった。
高峰は、あれ以来の旅行中ほとんど俺から離れなかった。時折、彼の友達が、こっちおいでと慣れた動作で彼を誘っていたが、適当に相手をしたらすぐ戻ってきた。余計な哀傷を催されることのなく、自然にそこにいられたのはきっとこの所業の賜物なのかもしれない。だけど、それを彼からのお情けだと固定しようとする、自らへの所見が妨害を続けているのは変わらなかった。
今までは、そこが完成品として、仕上げのテープを施していた。しかし、もうテープは施せない。施したくとも、どうしても高峰の行動と言動が頭をよぎり、心の中の手が止まる。
認めたくない。
認めたら、その後地獄を見るのは自分なのだ。
でも───本当に?
本当に、地獄を見るのだろうか?
かつての同級生の彼は、ここまでの展開を導いてきただろうか?
それは関係ないかもしれないだろう。
いや、関係があるのか?
それにお前は、幸せが欲しいのではないのか?
欲しいから、嘆くのだろう?
不幸だということを自らの個性にするつもりなのか?────
×××××××××××────?
生きたいのか?
─────────死にたいのか?
考えれば考える程、葛藤はそれらを詰めに詰めて、二度として離れないように、執拗に脳内で転がっていた。それは、今までのものとは比べられない強さであった。
「・・・」
次に呟くその言の葉を、思いつくことすら出来なくなる。
俯きそうになる俺を見下ろすコハクは、歪に顔のパーツを歪ませていた。やがて、彼女はおもむろに荷台から降りてきて、俺の顔を覗き込んだ。
「貴方は、残念ながら望みを叶えられないかもしれない。諦めようか」
幼子に語りかけるように、そう静かにコハクは告げた。
これで全てが終わってしまう。決まってしまう。先程の葛藤を跳ね除けて、認めてしまうことになる。それを受け入れろという命令が、彼女の金色の瞳から、伝わってくる。
「・・・俺は、」
そう、何かしらの一言を返そうとした時だった。
この場には不似合いな大人の声が遮った。
振り向くと、担任が自身のスマホを片手に狼狽したような表情を浮かべて、俺を真っ直ぐ見つめている。そこでふと気がついたが、バスはいつの間にか、サービスエリアの駐車場にどっしりと身を預けて動かなくなっていた。
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