死にたがりと真の終焉

リグス

文字の大きさ
5 / 8
三章

リセット

しおりを挟む
白い壁の一室と、橙の色を放つ電灯の灯だけが平常心を保つ。電気も消された上に、カーテンも隙間なく締め切られたこの部屋はすっかりと密室状態となっていた。
椅子に座ったままの俺の目の前には、太い柵に挟まれた病院ベッド。そこに、じいちゃんが横たわり、時折腹に息を溜めては吐いていた。ほとんど見かけることのなかったじいちゃんの寝顔は、もはやそのほとんどの中にあった機会の思い出を消滅させてしまいそうになるほど哀れな姿であった。顔面以外の身体は包帯に縛られ、大怪我をした部分の包帯のあちこちから血が滲んでしまっていた。なるべく視界に入らないように努めているが、ふとした時、それが目に止まって思わず顔をしかめてしまう。それほど、痛々しいものだったのだ。
息をしている通り、奇跡的に頭に負傷は無かった為命に別条はなかった。胴体は先程から言う通り大きく負傷しているが、それは主に下半身であり、腕はさほどのものではないらしい。
事故の方は飲酒運転が原因であったらしい。運転手の容態は擦り傷程度のもので済んだらしいのだが、酔いが酷いらしく取り調べは明日以降に行われるそうだ。
今の時点での情報はこれのみで、後はよく知らない。
ちなみにあの時、バスから降りる際に、コハクにはついてこなくても良いと言っておいた。荷物の件もあるし、同棲しているとはいえ他人である彼女を家庭の事情に巻き込むわけにはいかなかった。察してくれたのかどうかは不明だが、コハクはそれにすんなりと承諾してくれた。
 医者と看護師からはとりあえず今夜はここで過ごせと言われた。窓際の方にある一人用ソファーには、その為に用意された毛布もある。しかし、この様で寝られるわけもなく、ただ、呆然と椅子の上で岩になっているしか他なかった。
つい先程までの葛藤などは隅に追いやられてしまった。俺が感じているのは、自身が状況に対して困惑を覚えている事と、身内の変貌ぶりに絶句している事と、彼の親族という名の親族が誰一人としてここにいない空虚感である。
それもそうだ。彼の身内は、ここに唯一置かれている俺、ただ一人なのだから。
親族の存在が皆無なのは幼い頃から承知済みだった。物心がついた頃になった俺を見かねたじいちゃんと生前のばあちゃんが、その当時の正月に不意に打ち明けてきた。親族の存在の無い理由は簡単。結婚を反対された若き日の二人がそれぞれの親の縁を切り、駆け落ちした故の事。そこまでして互いの愛を享受しようとしていた二人が辿った未来は、ある意味これしか残されていなかったのだ。
彼らは孤独だ。そして俺も、孤独である。
しかしながら、俺とは違い、彼らには一定の期間、運命を変えるチャンスというものがあった。
それは彼らの子供を授かることである。子を作りさえすれば、二人には申し訳程度の親族の存在を得ることが出来た。だが彼らは、残念ながら子を産むことが出来なかった。何度も妊娠しては、流産を繰り返していたという。この話を語った時、ばあちゃんは疲れたような声でこう言っていた。
「私たちが子供を授かれなかったのは、罪を犯した罰があるからだ」と。
その頃の俺はまだ未就学児で、彼らの語った真実を理解し頭に入れることは難しいことであったが、意味が分からなくとも彼らの言葉を覚えておくことは容易であった。
そうして無数の言の葉を習得し、それらもすっかりと飲み込めるようになった時、ようやく、俺は目が覚めたようになった。
その原因は何か?
恐らく皆はとっくに気がついている。
では何故俺は彼の唯一の身内なのだろう。気がついていればすぐに、この疑問が生まれるはずだ。
・・・しかし、今更にそれを咎めようと思ったとしても、咎めたところで見出すものは何もないのだ。いつも通り、彼の平凡な孫である事を証明し続ける事こそが最良のやり方である。
だからこそ、俺が密室でこの老人の顔を見下ろしていることには何ら違和感がないわけなのだ。
今まで気にしていなかった時計の針の刻む音がやけに耳についた。目をやると、二つの針は深夜一時過ぎを指していた。ゲームやネットサーフィンなどで普段からこれぐらいの時間帯に就寝することは度々あるのだが、身体は状況を弁えて、慣れのこない気だるさを催してきた。
「はぁ」
どうしようもないため息は、もはや自分の耳にすら響いてこなかった。
別に助け舟を出したわけではないのだが、どうにもやるせなくて思わずスマホに手を伸ばす。ホーム画面を開き、機内モードをオフにすると、何通かメール通知が届いていた。
差出人は例のやつ・・・ではなく、意外な人物からであった。
その名に目を丸くして、すぐにアプリの登録表を確認すると、なんとしっかりその名が登録されてあった。
次いで内容を確認する。
『おじいちゃんの様子どう?』
『明日には帰るの?』
俺はそれらの返信にはすぐに答えず、先にこの事についての疑問を返した。
『なんでコハクのが登録されてんだ』
彼女からの返信は早かった。
『だって必要なことすぐ伝えられるじゃん!実家に帰ってみたら、私の携帯まだ使えてたからね、ハルやんが寝てる間に入れときました♡』
『なんで寝てる間に入れんだよ…陰湿だな』
『ま!陰湿だなんてそんな!ってそんな事より!おじいちゃんは?』
『ああ。なんとか。大怪我してるけど、命に別条はないってさ』
『それなら良かったよ』
メールはそこで終わるのかと思ったが、画面を消した瞬間、再び通知が届いた。
『ねぇ、さっきの事、覚えてる?』
『さっきの事?』
『バスの中でさ、言ったじゃん。勝負はナシまでの事』
『あぁ、あったね』
今の一言まではほとんど考えもしなかったその事を、今の状態にある情報に混ぜ入れる。
そうすると、驚いたことにあの混沌とした葛藤の中での片方の情感が、思いの外薄くなっていた。代わりに、もう片方が勢いに身を任せて主張を繰り返すようになった。
返信はすぐに返ってこなかった。その間で、俺はベッドの方に視線を傾け、呟いた。
「・・・俺、家に戻ったらどうなるんだろう」
誰かに訴えたわけではない。ただ、その疑問が無意識に浮かんできただけのことだった。そうして苦しくなって吐くと、その文字はどす黒い色味を帯びて口内へと戻ってきた。
バイブ音が鳴る。
『これからどうなるのか、楽しみだね』
彼女のそこ打たれた文字から、何故かいつもの無邪気な笑い声が聞こえてくる気がした。
その翌日の昼前、じいちゃんが目を覚ました。彼とポソポソと話をしていたところに医者がやって来ると、タクシーを呼んだから一度家に帰れと告げられた。言われたままに大人しく病棟を出て、診察室などを構える待合室付近のトイレに向かった。鏡の前に立ち、そこでいつも以上に目立つようになった隈を発見して、そういえば昨晩はほとんど眠れていなかったことを思い出した。
その隈の形をなんとなく指でなぞって、少しでもいいから消えてくれと暗示してみるものの、特に意味はなかったらしい。くたびれた旅行カバンを肩に玄関に出ると、停留所にタクシーが一台止まっていて、運転席側の扉の前で白髪禿げの男性がこちらに手を振っていた。その時点で例のタクシーだと察したが、人違いだと困るので人差し指を自分に向けて確認を試みた。案の定男性は大きく頷き、頬のしわを目立たせた。
「お代はお医者が払ってくれるようでね、気にせんでええからな」
タクシーを走らせる前に、運転手の男性はそう告げた。それを聞き、申し訳ない気持ちが顔に滲んだ。普通の医者はまずそんな事しないというのに。
「ここの病院のお医者は優しい人が多いみたいだ。だからいつも患者の足が絶えんのだろうなぁ」
優しい笑い声と重いエンジンのかかる音が同時に響く。
俺は彼の言葉にあまり返事が出来なかった。単なるコミュ障の発揮どころだからではない。俺が何かを口に出せば、この人の雰囲気を壊して台無しにしてしまいそうでならなかったのだ。
数時間程しか経っていないのに、腐る程に見慣れた帰路がやたらと久しく感じた。しかも、目で見るにはあまりに重すぎる気もしていた。俺はなるべく外を避けるよう、じっと膝の上の荷物を見つめた。
家に帰ると、我が家の幽霊がヒーターの前に胡座をかいて座っていた。その穏やかな佇まいは恰も老人に近い。しかし彼女が老人になる日が訪れることはけしてないだろう。
コハクは此方に気がつくと、餅のような柔らかな笑みを浮かべた。
「やぁ、おかえり」
「・・・あぁ、うん」
俺は曖昧に返事をして、荷物をソファに放り込んでからコハクの隣に腰を下ろした。ヒーターの心地よい暖が身体の半分だけを包み始める。
「寒くなくていいだろう?」
「ヒーター、つけられたのか」
「幽霊だからって無力ってわけじゃないってこと」
そう言ってから、コハクは手慣れた動作でリモコンを手に取り、テレビを付けた。
「・・・今日は何か良い番組あるのか?」
コハクは返事の代わりに、黙ったままテレビに顎をしゃくる。
テレビには、昼のニュース番組が映し出されていた。中央に存在を示したアナウンサーがしばらくして読み上げた内容に、目を見開いた。

『昨日午後四時頃、○○市××の道路で七十代男性がトラックに撥ねられ、意識不明の重体です─────────逮捕されたトラック運転手の□□容疑者(○○)からは強いアルコールが検出され、今朝行われた取り調べでは「何も覚えていない」と供述しています。警察は今後も調べを続けるとのことです─────────』

想像より短くまとめられていた。それが一つの感想だ。
これは間違いなく俺のじいちゃんの件だ。この地方だけのニュース番組かと思ったら違う。チャンネルは全国放送のものだった。
「意識戻ったのまだ知らないみたいだね、メディアの方は。これだからメディアなんて当てにならないね」
コハクが悪い顔をしてひひ、と小さく笑った。
テレビをつけたのはこのニュースを見せるためだったのだろうか。彼女のやることにまともなものは数少ないが、これは冗談にならないような気がした。嫌味を帯びたわざとらしさが滲みに滲んでいた。
「もう放送しなくていい」
そう言い、俺はやけになったようにチャンネルを変えた。
隣では更に悪戯っぽい笑い声がする。
・・・何だか不審だった。いつもと様子が違う。
言葉にするものは変わりない。しかし、今の雰囲気がどこか違和感を作り出しているような気がした。隣にいて、変に緊張感が高まった。
「・・・コハク、なんかいつもと違くないか?」
「え?どうしてそう思うのかな」
「根拠があるわけじゃないけど、その、なんて言うか、雰囲気が違う」
「うーん、まぁどうでもいいじゃんか。・・・それより、早く着替えたら?嫌でしょ、制服」
「あぁ、うん。そうなんだけど・・・」
気のせいだと言い聞かせ、立ち上がろうとする。その時だった。

「それとも、オレがあんたの望むようにしてやろうか?」

──コハクから出た言葉に、耳を疑った。
聞いたことの無い男の声がした。穏やかなのに、ドスの効いたような声。
それが、コハクから流れてきていることは明らかだった。
そしてその口が、恐ろしく歪み始める。
「嫌なんだろ、生きてんの?ずっとあんたが願ってたことさ。何のデメリットもない」
コハク、いや、男は勢いよく立ち上がり、俺を睨むように見下ろした。
そのままの状態で、男はまだ続ける。
「あんたは幻想を見て、それから戻ってきた。あんたの人生は地獄のようだって、改めて感じただろ?」
男が放った毒の矢がぐざりと刺さる。
「良いことばかりが人生じゃないって、よく言うじゃんか。でもあんたに良いことって、ばかりと付けるほど無かっただろ?むしろさ、良いことが少しでも起きればその何倍ものの不幸が訪れる。君は特にその運命が根強いんだと思うよ」
まるで自分の中に入り込んでいるようだった。自分が死ぬべきだとずっと考え保つのに必要な言葉たちが、別の人間によって次々と現実になっていく。
「結局あんたは不幸を常に身に纏って生きていくことになる。この先も同じ。そんなのは嫌なんだろ?だから死にたいんだよな」
男はじりじりと俺との距離を詰め始めた。反射的に後ずさるが、気がつくと男の顔がすぐ目の前まで来ていた。
大きく開かれた赤い眼光が、俺の死んだ心を更に抉り出そうと試みていた。
逃れたいと脳が欲を作り出すが、その為の行動に足どころか指一本も曲げられなかった。
「君の友達・・・あぁ、自称だよな。そいつの言葉に惑わされてんじゃねーぞ。そいつだって、あんたが死んだってほんとは構やしないんだからよ。この世に心から友達の身を案じる奴なんていないんだって事、あんたが一番知ってるだろ」
バキッ、と体内のどこかでへし折られたような音がした。
それと同時に、脳裏にあの夜の高峰の姿が浮かんだ。
完全に高峰を信頼しているわけではない。けども、他人に彼のことを言われるとどこか落ち着かなかった。俺は震える声で一言主張した。
「・・・でも、あいつは死なせたくないって言った」
「そんなもん、自分の優しさの引き立て役がいなくなったら困るだけだから言ってるに決まってるだろ」
主張はいとも簡単に跳ね返されてしまった。同時に男の返答までも身体に突き刺さり、離れなくなる。脳裏にいた高峰は跳ね返された衝撃で消えてしまった。
「このまま生きてしばらくしたら、そいつは絶対あんたとの関わりを断ち切るね。そしてあんたを取り残して新たな友を作り、あんたの存在を記憶から削除する。もしかしたら暴行も待ってるかもしれない。その時あんたはどうすんの?裏切られたって思って悲しんで、でも死ねきれなくてどうしようもない。やりたい事もない、それってもう人生詰んでるよな」
息を吸う如くに容易く、次々と図星の雨を男は降り注いでいく。
避けることもなく打たれ、ずぶ濡れになって更に生を失ったようになった己の心と頭で、彼の言動を再現するように、その一つ一つの未来の情景が現れては暗転して消えていった。
──ピリッ。
今度は突然、一瞬だけ電流が走った。無意識に両手が耳にいく。痛みよりも音が煩わしかった。
この空間はさながら、過去現在未来・・・あらゆる自分を洞察しているようだった。
もうどの方向にも逃れられる出口がない。
そう感じた時には、何かに怯えるかのように既に全身に震えが生じていた。
怖い。
思い返す過去の一から全部までも怖い。
「もう、良いよな?」
その後の男の行動のスピードは予想しきれなかった。
俺はいつの間にか床に押し倒され、両手で首を強く掴まれていた。
「か・・・っ、ぐ・・・!」
──苦しい・・・!!
迸る危機感が自然に身悶えを起こす。
咄嗟に男の手を掴んだ俺を見て、男は不服そうな表情をした。
「ちょっと、なんで抵抗してるんだよ。オレはあんたの望みを叶えてやろうとしてるだけなのに」
「・・・っ、・・・!」
「それともこのやり方じゃ嫌?うーん、でもさ、これが一番手っ取り早いと思わないか?まぁ多少は痛いだろうけど、望みに犠牲は必要だろ!」
高笑いを響かせながら、男は力を強め始めた。息苦しさが加速し、意識が遠のいていくのが感じられた。男の顔が歪曲し、どろどろに溶けているように原型が見えなくなる。抵抗などをする力はもう残っていない。
「そうそう、そうやってたら良いんだよ」
自分は今度こそ本物の死というものを体験する。それは確かに以前から待ち望んだことであり、この場面こそが俺の人生の中で最も至高の瞬間であろう。現在の俺が、昔のような姿であれば男の奇行を有難く受け取っていただろうに。
嬉しい。その気持ちは確実にあるのに、何かつっかえたものがある。
死にたくない?いいや、その気持ちはどこを見回してもない。
 では、何だ?

・・・・・・
・・・いや、もういい。

どっちみち俺は死ぬ。やっと願いが叶うのだ。
今までの過去も、高峰のことも、じいちゃんが入院していることも、もう何もかも放棄できる。
俺はただ、幸せを感じていればいい。
俺の全身が闇に包まれる。
その心地良さに、もう何も考えられなくなった。


                  ✣✣✣✣✣✣


幸せはそう簡単に訪れない。
自らは何も犠牲などしていなかった。
だから俺は目を覚ましてしまったのだ。
「おはよう、ハルやん」
もう男の声はしない。聞き慣れた幼さの残る声だけが耳を通っていった。
視線を動かすと、寝間着のままのコハクが見守るような眼差しを俺に向けていた。あの狂った表情などまるで嘘のように穏やかである。
起き上がっても、目の前は雲の上ではなく、古臭い臭いのするリビングが広がるだけだった。色の禿げたソファーの上で、呆然として生きていることを確認する。続けて首元に手を置くが、後遺で残っているかと思っていた痛みはない。
「随分と長い眠りだったね。寝不足?」
「長い眠り・・・?」
疑問に思い、壁の時計を見る。
「朝の九時過ぎだよ。十月二十一日、月曜日のね」
読み取りの遅い俺に、近くからそう伝えられた。日数を知った瞬間、少しだけ目を丸くした。
「あれ・・・?俺、帰ったのって十九日じゃなかったっけ」
「そうだね。だからハルやんは昨日は一日中寝てたってことになる」
「え・・・一日中!?」
「うん。何だか、ずーっと苦しそうに寝てたね。何か悪夢でも見てたの?」
「悪夢・・・」
・・・だったのだろうか。
だが、あれは夢というには難しいほど生々しかった。首を掴まれた時の感覚も何となく覚えている。
「何か飲み物取ってくるよ」
そう告げて、コハクがこの場を離れようとする。その瞬間、俺は謎の衝動にかけられ、勢いでコハクに声をかけた。
「なぁ、コハク」
「ん?」
「俺は・・・昨日、生きてた?」
「生きてたって、息をして寝てたってこと?」
「まぁ・・・」
コハクの解釈はあながち誤ってはいないので、小さく頷いておく。
考える間が空いてから、コハクはこう答えた。
「別に死んではなかったね。ただまぁ・・・何だか、生きてる心地もしてなさそうだったけど」
彼女はきっと、俺がまた死ねなかったことに気を落としていると思っているのだろう。かなり遠慮がちな口調であった。
「そうか・・・」
「いくらなんでも、一日寝てたくらいで死ぬ事はないでしょ」
はは、と薄い苦笑いをしてから、コハクは台所へと消えていった。
一人取り残されると、ソファから降りてスマホを探した。最後にどこにしまっただろう。ぐしゃぐしゃのシワになった制服のポケットに手を突っ込むと、すぐ目当てのものの感触があった。
(でも先に着替えときたいな…)
今日は月曜日らしいが、もう今更学校に向かおうと思えなかった。でも向こうには欠席とはついていないのだろう。連絡してくれる相手も今はいないし、後で自分で言うしかない。
・・・めんどくさいな。
スマホを置き、深いため息を吐いて自室からスウェットに着替えてくると、渋々再び手に取って開く。
「・・・あ、あいつから」
電話を寄越す前に、確認する。

『先生から聞いた。大丈夫なのか?』
『月曜は来れたら時間割変更で二時間目が化学だそうだ』
『メールは見れる時に見てくれ』

このメールは昨日届いたものらしい。返答は直ぐ様した方が良さそうだろうか。でも何と返す?大丈夫だと返すべきなのだろうか。でも、正直を貫いてみれば大丈夫ではなかった。目が覚めたその瞬間から現実は再び時を刻み始めている。外観に二度として目を送りたくないと思いたくなる程の絶望が目の前にあるのだ。こんな状態で、一体誰が大丈夫だと自信ありげに言えようか。
とりあえずお礼だけでも言っておこうと思い、『ありがとう』の文字だけを彼に伝えることにした。
「・・・高峰もマメだよな、ほんと」
その人柄の良さに何度舌を巻いただろうか。
どうしたらこんな人間が出来上がるのか、不思議で適わない。
そんな風に何となく考えた。
──その時。
『そいつの言葉に惑わされるんじゃねーぞ』
『そんなもん、自分の優しさの引き立て役がいなくなったら困るだけだから言ってるに決まってるだろ』
『しばらくしたら、そいつは絶対あんたとの関わりを断ち切るね』

不意に、あの男の放った言葉が過ぎった。
スマホに触れる指が硬直する。
(あ・・・)
一気に我に返った俺は、振り切るようにスマホをソファーに叩きつけた。
スマホを持っていた方の手の温度が下がっていくのを感じる。
期待をするな。
期待をするな。
生きることを否定し続けろ。
頭痛を起こしそうになる頭に、これでもかと必死に言い聞かす。
なのに、なんで、なんで。
つっかえた何かが取れないんだ。
もどかしさと焦りが目に刺激を催す。
「う、うわ、あああ」
唸り声を上げ、静かに項垂れる。
「・・・ハルやん?どうしたの?」
「ああああああああぁぁぁ!!」
コハクのその声が聞こえた途端、何かに促されるままに、狂ったような叫び声を上げて泣き出した。
泣いている事に対しての疑問もコハクがいるからという遠慮もない。とにかく泣いた。コハクが何か言っても泣き声で遮った。全てを遮断し、俺の泣く様だけを見せつけた。

この涙がいつ枯れるかなんて、そんなことを考えられる余地はなかった。


「ハルやん、今聞けるかな」
完全に泣き声が聞こえなくなったのを見兼ねたコハクが俺の横に座り、そうポツリと言い出した。
すっかりと体力を消耗して疲れ切ってしまった俺は床に倒れ込み顔を手に埋めたまま、「うん」と力無く頷く。
「今おじいちゃんは入院してるし、他の親族もいないわけじゃん。そうなると、どうするのか知ってる?」
「知らない」
「あれ、おじいちゃん、意識戻ったんだよね?何か言ってなかった?」
コハクには帰る前にメールでその事を伝えておいていた。というよりは、コハク側が執拗に聞いてきたから、仕方なくともないのだが、答えただけの事だった。
「いや。特には何も・・・」
それもその筈だ。じいちゃんは意識が戻って間もない状態だった。わけも分からない状況の中で、よしこれからお前の行く先を考えようじゃないかとはいかないだろう。
「じゃあしばらく高校生一人だけで家を管理しろっての?そんなの可能なの?」
「さぁ・・・」
「もー、曖昧だなぁ」
肩を竦め、コハクは盛大なため息を吐いた。ため息を吐きたいのはこっちの方である。
「別にコハクが気にすることじゃないだろ」
「まっ!じゃあハルやんは気にならないの?」
「そ、そういうわけじゃないけどさ」
そう。気にならないのではい。寧ろ不安で不安で仕方ないのが事実だ。これからまた自分はどのような不幸に出くわすのか、何の苦悩を味わうのか。考えただけで急いで崖から落ちたくなる衝動にかけられてしまう。
「・・・・・・。まぁ、気にしてても気にしてなくても、次の運命は変わらないからね。・・・それまでに、死んでたら別だけど」
幻覚の痛覚を持った首を掴むようにして擦りながら、最後にはそう呟く。
「次は絞殺?」
純粋無垢な子供が友達に訊くみたいに言っているような気軽な言い方だ。俺は一瞬、もしやあの男なのかと考えてたじろいたが、顔も声もコハクのままだったことから、もうあまり気にしないでおくことにした。
あくまでもそれは、男の顔と声、のみであるが。
黙って立ち上がり、転がったままのスマホに手を伸ばすと、隣室へと引きこもるようにして入った。
そして、学校から一週間の休暇の許可を貰うことに成功した。

その甘えたような一週間は、ひたすらソファーに伏せる日々が続いた。テレビ代わりに動画に勝手に喋らせたり、時折刃物をじっと見つめたりすることを繰り返すのがほとんどで、ろくに腹も空かなかったので家に残っていた少量の菓子とジュースだけを入れていたせいか、ふと乗った体重計の数値は以前よりも低くくなっているようだった。
その最中でも当然じいちゃんの様子見に病院へ訪れることがあった。容態に回復の変化はないものの、全く乱心していないようで看護師にジョークまでかましていた。一応彼に今後の自分の行く先を尋ねると、施設に入れという答えは返ってこなかった。『わしの回復はまだまだ先になるから、それまでは一人で辛抱してくれ。』そう告げられた後、銀行でのお金のおろし方や、水道代や電気代なんかの支払い方を教えられた。特に此方が何かを言う必要もなく、言われたことを覚えて適当に相槌を打っていたら、いつの間にか家に帰ってきていた。玄関に立ち尽くすと、ジョークを口ずさむあのじいちゃんが頭に浮かんできて、馬鹿らしく思えてきてしまった。
別にじいちゃんの件で気が沈んでいるわけではない。元々から自分が常日頃から抱えている問題にちょっと入り組んでしまっただけの事。それに対しての彼のあの姿からは、どこか酷い悔しさを味わせられた。
自分とは違って、とても楽しそうだ。
それがとてつもなく──許せない。
欲しくもない苛立ちが募る。
ついにいたたまれなくなると、急いでソファーに駆け込み、顔を埋めて鎮めるように努めた。その後は無意識に近い状態で台所から包丁を取ってきて、いつものように見つめた後、手の甲と腕のあちこちを切りつけた。自分の手が血塗れになれば、ようやく落ち着いたと分かった。
その直後だった。突然、普段はけして鳴ることのない音楽がスマホから流れてきた。紛れもない、電話の音だった。
しかし、全体が赤くなった手でスマホを持つわけにいかず、慌ててティッシュで拭き取るも、その間に音は切れてしまった。と、思ったらまたた同じ音楽が鳴り始めるので、今度はサッと出た。
「はい、北沢ですけど・・・」
『ああ、北沢。俺だ、高峰』
薄々と気づいていたので、今更驚く必要はない。
『ここのところ毎日休んでるから、死んでるかと思ったぞ。ちゃんと生きてるみたいだな』
「まぁ、ね。不本意だけどさ」
拭き取った片手から再び血が垂れてきている。近づけると、当たり前だが、鉄の錆びた匂いがしていた。ソファーに血の雫が垂れ落ちてくる。
『そういう事を言うな。・・・ところで、生活は大丈夫なのか?今はお母さんもいてくれるのだろう』
「あ、うーん・・・いいや。一人だよ」
正直に言うと、耳から、え?と驚いた声が聞こえた。
『一人?嘘だろ、こんな時にまでお母さんはいないのか?』
俺は高峰の偽りで仕組まれた言葉をはっきりと否定した。
「いるはずないじゃないか。だって、親なんて元々いないんだから」
『・・・は?』
「ごめん、あれは嘘なんだよ。本当は、親も親族も誰もいないんだ」
『おい、何故今まで隠して・・・じゃあお前、この数日間ずっとそのままなのか?』
「うん。まぁ、そんなところ。理由は何となく分からない?」
高峰は恐らく、あの日の事を思い出しているに違いない。それを思わせる空気と間が電話越しに静かに流れ込み、これからの発言を躊躇しているみたいなため息とがさがさという雑音だけがその時だけに起こった。
『分からないことはない。あれはお前にとって致し方ないことだ。でも、この件は後で詳しく聞かせてもらうからな。──それで、一人だけでここ最近どうしてるんだ』
「いや、何もしてない。今日は病院に行ってきたけど。後はずっと家に籠ってた」
『そうか・・・お爺さん、特に変わりなかったか?』
「変わりないどころか。看護師にくそ寒いギャグ言ってたんだよ。あれ見りゃ、もう心配の余地もなかったね」
『ギャグか、あんな事故に遭ったばかりなのに、もうそこまでお元気なんてメンタルの強い人だな』
「まったくだね。俺とは正反対だ」
笑えもしない、これはまるで皮肉だ。
俺と高峰のやり取りの内容はこれ以降は学校からの連絡などばかりだった。来週の時間割とか、持ち物とか、それらのワードを聞く度に、あと数日したらまた制服を着て家を出ないといけないと気が沈みそうになる。一通り伝えてもらっておいて申し訳ないのだが、溜めていた重い息を吐き出すと、向こう側から案の定それを指摘されてしまった。
それから話はまた角度を戻して移行する。彼の予告通り、親族の件については長く続いた。己のいたる場所に潜み続ける不要な遺産のたどたどしい説明をしてやると、高峰はあらゆる感情を持った相槌を打ってそれを聞いた。やがて、彼はある事に辿り着いたのだろう。突然声を大きくして言った。
『待て。お爺さんとお婆さんに子供がいないという事は、お前は・・・?』
俺は小さく笑って出迎える。
「やっぱ気づくよね。実はさ、俺は養子なんだよ。実子じゃない。じいちゃん曰く、赤ちゃんだった頃に山の中で置き去りにされてたんだって。それを偶然見つけたじいちゃん達が色々手配をして、自分達の子供にしたらしい。でも息子じゃなく、孫としてね」
『置き去りにって・・・赤ん坊を山の中に捨て置くだなんて、そんな事をする親がいるというのか』
彼は明らかに動揺していた。彼にとって信じ難い話なのは少々ながら予測していた。疑いをかける高峰に、一言言い放つ。
「いるから、俺がこうなってるんじゃんか」
両親が何を思ってそうしたのかは知る由もない。意図的だったのか、仕方なくそうしたのか。知ろうとする意思などないし、かえって知りたくもなかった。ただ分かるのは、北沢春哉という子供は彼らの人生において不必要な存在であった。という事だけだ。
「・・・そりゃあまぁ、生まれた子がこんな子供だったら誰だって捨てたくもなるよ。早く消えてほしいって思ったなら、捨て置くよりそこで殺してしまえば良かったのにね────」
『馬鹿かお前は!』
高峰が叫ぶように一喝した。
『お前もその親も命を軽視し過ぎている!自分にはもう要らないからと簡単に捨てるだなんて、命はそんな甘ったれた扱い方をするものじゃない!けしてそんな事許されないんだ!それがお前には分からないのか?お前は仮に生まれた自分の子供が気に入らなかったら、何の躊躇いも罪悪感もなくその子を見殺しにするのか!?』
(は?)
好き勝手に怒鳴る高峰に、此方も黙ってはいられなかった。
「・・・ちょっと。別に自分の子供とかの話なんてしてないだろ。俺みたいな奴は捨てられて当然、命なんてそんなもの関係ないって言ってるんだよ。あんたこそ分かんないの?」
『捨てても良い命などこの世にはないだろう!全ての命には生まれた意味を持っているんだ!それを無下に捨てるだとか関係ないとかだなんて無神経にも程がある!』
その時、ブツッと理性の有線が一気に切れた。闇を取り巻くように息を吸い込む。
「・・・じゃあお前はさ!その全ての命の意味ってのを一生尊重できるの?一点の汚れもなく、清廉潔白に生きていられるか?そこら辺に沢山いるハエや蚊すらも殺さずにいるんだよ?そいつらを守る為に自分の命を捨て置けるのか!?いつ誤ちを犯すかも分からないのに、それで生き抜ける自信があるのかよ!」
『それは・・・っ』
高峰の威勢が止まった。そこで自分もやめておけば良かったのに、愚かにも此方の勢いは加速してしまった。
「大体あんたに何が分かるというんだよ!あんたは負け組の俺とは違う!俺みたいに、昔からこんな苦労をして生きてきたわけじゃないだろ!?孤独を味わうこともなく、その見た目だけでも、何をしても受け入れられてきたんだろ!だから命を大切にする余裕があるんだ!そんな奴に俺の心情が分かってたまるかよ!分かりもしないお前が偉そうに言ってんじゃねぇよ!」
ありったけの心底を強引に散らせたせいで、その後に酷い息切れを生じさせた。そのせいなのかは不明だが全身が苦しくて堪らなかった。唇が震え、意識が蚊帳の外にいるようだ。
しん───と誰もが何事も言わなくなる。
スマホの奥からも、物音はほとんどしていない。
その状況に置かれ、俺はようやく我に返る。しかし時は既に現実の先を越し、二度として踵を返すことはない。
腹の底から息を吸い込む音がする。
『────やっぱり、俺がお前と分かり合える事はないんだな』
すっかりと力の抜け落ちてしまった声。もうお手上げだと匙を投げ、楽になりたいという投げやり感がこの一瞬で俺に理解を求めた。
ぶつっ。
そして、短いようで長いこのコネクションは、得体のしれないまま、遂に終止符が打たれた。
もう何も聞こえないスマホを耳に当てたまま理解を終えた俺は、刹那張り巡ってきた恐怖と後悔に身を縮こませた。
俺は自らの手で捨てたのだ。
今まで人から見捨てられ、離れられた分、今度は自分が引き離してしまったのだ。
あの時、本来ならば自制することだって出来たはずだ。だが、一度解放した心の鬱憤は異なる生き方をする相手をどうにも責め立てたくて、勢いに拍車をかけてしまった。
(・・・いや)
そんな言い訳という名の持論。
聞くはずなどない。
それに、俺は捨てた代わりに、強い安堵を手に入れた。
部屋の奥から、話を聞いていたらしいコハクが顔を出した。彼女にしては珍しい複雑に歪んだ表情を目立たせ、俺の側まで歩み寄ると、「大丈夫?」と俺の背中に寂しく触れた。
「あぁ。君も可哀想なくらいの愚か者だね」
触れたその手を心臓のある位置へとずらすと、人差し指で刺すようにつつく。
「これで君を邪魔する奴はいないのね」
細く呟くコハクの声は、少し悲しげだった。
「・・・うん」
応じる俺自身も、その後壊れそうな程の悲しみを感じたのだった。



                ✣✣✣✣✣✣



次に学校へと足を運んだその日から、自分は「苦楽」という熟語に似つかわしい生活を記録した。
高峰はもう自分の知る高峰ではない。話しかけるべき人間にのみ話しかけ、彼らとの談笑を謳歌するだけのただの生徒の一部に過ぎなくなった。言い換えるならば、いわば人工保育から野性へと還った動物。その動物が過去に行われた人間との生活を営むことがないように、あの人間がつい最近まで紡がれていた時空間を再び過ごすことはないのだ。
しかし、これこそがあるべき姿だ。自分は邪魔をする存在を排除出来たし、彼ももう身勝手に損をしないで済む。お互いにプラスもマイナスもなく、元の状態へと戻ることが出来た。
あの日の最後に放った高峰の一言は確かに、俺との関わりをこれ以上は続けられないと確信した故からのものだったのだと思う。それもそうだ。こんな奴の為だけに散々損をした挙句、本人から酷い八つ当たりを受ければ結果は誰だって同じに決まっている。
それに、仮にあのような場面が無くてもいずれは同じ道が待ち構えるだけだったのだ。その期間が早くなっただけ。早くなった分、俺を圧迫していた高峰からの影響を受けなくなり、俺の願望が一層に膨張していった。
日を追うごとに感じていた、検索をかけて見つけたあらゆる自殺の方法を記した文字を見た時の高潮。以前はそれほど感じていなかったのだが、今になるとどうにも魅入ってしまって仕方ない。
・・・なんて、それは意図的で、実際には魅入っていないと自分がおかしくなってしまいそうだったのだ。
俺の中から彼の存在が消滅したことに安心はしたのだが、それと同時にこの治まりきれない孤独感が俺をズタズタに引き裂こうと足掻いていた。
何度も共に過ごし、指では数えられないくらいに話をしてきた相手と縁が断ち切られても尚、変わりも無く同じ空間に居なければならないという義務がどれほどに辛いのか、恐らくそこらにいる生徒や先生なんかには理解のし難い事だろう。
無論、高峰にだって。
しかしながら腑に落ちない。何故、今更ここまでの孤独感を味わなければならないというのだ。
俺は高峰の事を友達など思っているつもりなど欠片も無かった筈だ。そう思っては後からが怖いと怯えていたからという正当な理由だってあるのに、思っていなくても結局似たような目に遭ってしまっている事に、それは如何なものだろうかと癪に障ってしまった。だがそこはお門違いだ。単に自分を完全たる被害者に見立ててみただけの話で、実際は自分自身こそがこの状況のほとんどを作り出したのだから、文句を言う権利など無い。そんな事をしている間にはもっと喜ぶべきなのだ。
「楽」と「苦」のジレンマは今に始まった事ではないけれども、今のものが過去の中で一番辛苦していると感じた。
それ以外の余計な事は避けたくて、全てにおいての現実から目を逸らし続けている。ろくにテレビを付けても番組も見ず、勉強も程々なせいで脳はあの日から時の進行を休止してしまっていた。学校では授業中は除いて、とにかく机に伏せて寝たフリばかりしていた。コハクは以前に比べると学校についてくる頻度が少なくなった。時々気まぐれに来た時は、彼女はいつも気の毒そうな瞳で俺にボソボソと話を持ちかけた。
そうしてとうとう二学期が終わる頃に差し掛かったとある日、いつも通り固く冷たい机に顔を委ねている俺に、傍らにいたコハクがぽつりと投げつけた。
「寂しい?楽しい?」
俺は間を置いて、微動で首を二つ分横に振った。その際に、何か興味のひくものを捉えたのかコハクが俺の顔をじっくりと覗き込んだ。反射的にコハクへと視線を寄越した瞬間、また瞼から一雫、徐ろに頬の奥底へと消えていった。暗闇に潜めていた視界に窓からの生温い陽光が差し掛かり、じわりと浮かび上がった痛々しい水溜まりを焦がそうと試みている。
「最近よく泣くね」
特に顔色を変えず、コハクが冷静に呟いた。指摘されたと感じて急いで拭うような真似はせず、水気に徐々に溺れていく視界にとにかく身を任を任せたままコハクに向かう。
「止まらなくなっちゃってさ」
至ってシンプルで、一番素直な回答。
その通り、あれほどに凍てついていた涙腺はすっかりと見違えってしまった。もはや凍りついていた頃を見失いそうになる程どろどろに溶けて、その跡の水滴がぼたぼたと零れ落ちているような、そんな感覚。一度栓で止めても、なんでもない場面で容易に抜けてしまう。
「私が初めて会った時より可愛くなったもんだねぇ。ちゃんと生きてるって感じ」
コハクがシニカルに呟き、俺はすかさず口を横合いさせる。
「やめろよ、そういうの」
「はは。ごめんよ、それがハルやんにとって悪いことなら。・・・ね、それより今日の晩ご飯どうする?」
「どうするって・・・いつものようにコンビニのとかだろ」
俺もコハクも料理は出来ないため、もう一ヶ月余りの食事はコンビニの弁当やパン、スーパーの惣菜、カップ麺や近くにある某チェーン店のジャンクフードなどをルーティンさせて済ませていた。時にはお腹が空かない時もあり、その日はもう何も食べず次の朝を迎える事だってある。
自由にすればする程両極端になり、体重もどこか減った気がするし、貧血に似た症状もちらついていた。
「人の手作りってありがたいもんだよな」
「そーだそーだ。ありがたい」
深々と頷きながらコハクも便乗した。
それから暢気に、
「今日も良い天気だねぇ」
といった独り言を繰り返した。



              ✣✣✣✣✣✣


   沈みかけた太陽の陽光が背に這い蹲り、その持っている自慢の色でどうにか全身を覆い尽くそうとしている。それが例日目覚める方向を見れば、そこにはぽっかりと浮かんだ三日月の型がある。電柱のスズメたちは仲間を連ねて大人しく地上を見下ろしていて、その中に一羽だけ俺の向いているところと同じ方向を眺めている奴がいた。歩みを止めず目で追って、見送ったところで、不意にコハクがこんな事を言い出した。
「あっ、そうだ、ハルやん。前からずっと訊きたかった事があるんだけどさ」
「何?」
「歩きながら訊くのもなんだけどさ。ハルやんは今まで数々の自殺方法を試してみたんだろうけど、全部失敗してるんだよね?」
「あぁ、そうだね。何度か捻挫とか骨折もしたけど」
「それって、凄い奇跡じゃない?どうして死ななかったの?」
「どうしてかって・・・」
どうしてかって?
すっと容易に答えが出てこず、思わず足を止める。
幸い辺りに俺とコハク以外の人影は無く、足を止めていても誰にも迷惑はかかっていない。考える有余も与えられていた。
どうして死ななかったのか?
・・・何度考えてもそれに見合った答えは浮かんでこなかった。
「分からないや。どうしてなんだろ」
答えよりも疑問が湧き上がる。
過去から今に至るまで数多の手段を手に入れては実行を繰り返してきたが、それらしい手応えはどれからも感じられなかった。
無論、極めて危険な方法だって試した事がある。特に首吊りは一度だけに留まらず何度も挑戦した。何が原因なのかは不明なのだが、あと一歩のところで紐が引きちぎれたり、バッドタイミングでじいちゃんが部屋に入ってきたりして結局断念してしまった。
道草しよう、とコハクが誘ってきたので、この道の先にある公園へと足を運んだ。かつての子供が散々に使用していたのだろうこの公園は、今は撤去され忘れた錆びの酷い遊具と腐りかけた木製のボロボロのベンチだけが取り残されている。
流石にベンチには座れなかったので、何とか腰を下ろせそうなブランコに座り込んだ。
そうしてすぐ、コハクが続けた。
「理由はともかく、それは本当に幸運な事よ。誇りに思っても良い」
そんな誇り微塵もいらない。寧ろ厄介だ。
「だって、普通そこまでやってて死なないだなんて有り得ないじゃん!私だって一度の首吊りで自殺出来たんだから」
「そう言われてもな・・・」
望んでもいない本人が一番不明なのだから反応に困ってしまう。
お互いに言葉が見つからないからか妙な沈黙が流れた後、不意にコハクが俺にある物を差し出した。
その物を見た瞬間、ビクリと肩を揺らした。
「な、何・・・?」
コハクが持っているそれは、なんと包丁だった。刃先はこっちに向いていないものの、少女がこれを持って俺を見つめている姿には少し怯んでしまう。
それ以前にこんな物をどこから取り出したのだろう。それともあの合間にまたテレポートでもしてどこかから取ってきたのだろうか。
コハクがそのままの状態でポソリと言った。
「一つ試してみてくれないかな」
「えっ?」
これで、と俺の右手に包丁を握らせる。
「自分の心臓を突き刺してみて」
唐突な要求に、不審に包丁とコハクを交互に見つめた。
包丁はまだ真新しいのか傷は見当たらず、指紋も無い透き通った銀色に霞の茜色が重なって、まるで別空間の物体であるような錯覚を起こしそうだ。
見慣れている筈なのに、こんな刃物なら高潮する筈なのに、変な躊躇が右手に軽く汗を滲ませる。
息を呑んで、これまで通りの要領を作って刃先を心臓の部分に当てる。
それを後ろに引いて、勢いをつけ心臓目掛けて振り下ろそうとして────────寸前で止まった。
「・・・・・・あれ、」
包丁を持つ両手が震え始める。それも小刻みではない。肉眼でしっかり分かる震え方だ。
驚いて、再び包丁に視線を向けた瞬間、急にそれがとんでもなく脅威を催す代物に思えてきて、途端に心臓から離して、同時に起こるもどかしさを紛らわす為に代わりに腕を出してそこを切りつけて、仕舞いには包丁を地面に落としてしまった。
両手に残るきつい痛覚と躊躇の残響が波打ち、胸の奥をきつく締め付ける。
何故こんなにも躊躇っている?
声にならずのまま、その疑問が浮かぶだけ浮かんだ。
それから一つ、答えに近い気持ちがこう脳裏で呟いた。
『怖い。死ぬのが怖い。』と。
「・・・簡単に死なないってのは、こういう事なのかもね」
ふと、コハクがそんな事を口にした。
「どういう事だよ・・・?」
コハクは冷めたような笑顔をする。
「ううん。個人的にね、死っていうのは、本来はこうやって恐れなきゃならないものなんだろうなぁって。私は忘れちゃったけど、私もきっとあの時相当怖かったんだと思う。初めから死んだような気でいちゃ、駄目なんだって感じただけ」
その言葉の意味を十分に理解するには、この停止しかけたような脳では難儀であった。
しかし、その中に隠れて要約された結論は勝手に脳に貼り付いてきて、恐る恐るにその事を尋ねた。
「じゃあ・・・今なら確実なのか?」
死を恐れたり、生きている心地を日頃とするような人間らしい像としている様が理想とするならば、俺もそれに近い存在になっていると認めざるを得ない。
正直こんなにも痛々しく感じて拒絶反応までも起きるなんて事は一度足りとも無かった。
その感覚を持った自分になら、皮肉にも長年の望みが叶えられるという事か?
「死に恐怖心を持つ事は人間の本能。人って、異常だと逆に死なないものみたいだね。今まで人間らしくない人生だったのが、今は素直になって涙まで流せるのなら、きっとね」
でも、とコハクは立ち上がってから包丁を拾い上げて、刃を俺の額へと向けてきた。
その瞬間、さっきと同じようにビクリと全身が跳ねた。
「でも・・・今の君には無理でしょう」
すっと包丁を降ろす。
「それでも抜けないその欲の為に、怖いと思う事を前提に、何でも立ち向かって、もう一度勇気を持ってごらん」
大人の声音で、コハクがそう告げた。
コハクは、そのあどけない目の奥で何を発想した上で言霊として放っているのだろう。
彼女に潜伏した過去の内側にそれを連想させるような出来事や経緯があったのだろうか。その考えに道理や科学的根拠があるかどうかなんて未知でしかないけれども、それでももう他に縋る宛も無いのは事実の上。
恐怖を抱え同時に望む己の『死』に早く結末を与えなければならない。
「君が持つ『希望』、全部捨てなきゃね」
「・・・『希望』を、捨てる・・・」
それが勇気を持つのに必要になるというのだろうか。
だとすると自分には既に無い。
・・・とは、言い切れない。
どこかに、心や胸や脳裏の最奥の辺りだろうか、その辺がそのクリアな証明を音を鳴らして打ち付けている。
『それ』を捨てる為の術は、あれだけには不十分であるとでも言いたいのだろうか。
新たな障害が立ち塞がった代わりにその背後にゴールが隠れているのなら、早く壊してしまわなければ。
急かされる想いと未だに残る恐怖心に全身を浸しながら、俯いた。
コハクが隣に座り直し、背中を優しく叩いた。
「大丈夫よ、きっとね」
その時のコハクは心做しか自分よりずっと年上のように感じられ、十七にもなっていながら己の幼さを痛感した。
「でも、焦ってもどうにもならない。正常になったなら、素直に自分の気持ちに従っていた方が良い」
それは死の欲を忘れずにいれば良いという事だろうか。
訊くと、コハクは頷きながらもこう告げた。
「それは当然の事だし、後は感情や感じた事、何かに対する見方、色々だね」
特に、と付け加えたコハクはどこかしんみりとした目をしていた。
「誰かや、その誰かに対する自分の本心なんかは、例え死ぬ勇気が出来ても、考えた方が良いね。それをその人に伝えるのもアリじゃないかな」
「・・・」
「まぁ一気にそう言ったって難しいしさ、とにかく勇気を持つ為にアクションを起こせば良いんだって!」
執拗にも納得が喉につっかえている自分を切り替えさせるように、コハクが結論をまとめた。
俺はその助言を、今は半信半疑に受け止めておく事しか出来なかった。


「ねぇ、ハルやんが一番最初にやった自殺方法って何?」
唐突に問われ、別世界にでも飛ばされそうになっていた俺は慌てて振り返った。
「一番最初?ええっと、何だっけな・・・」
そんな事を覚えているだろうか。初めての当時の年齢などは明確だが、その時の俺が少ない知識の中で引き出したやり方が一体どれだったのかは覚えていなかった。
しばらく記憶を辿ってみて、ふと、やっと思い出した。
「あっ、思い出した。最初はしゃっくりだった。ほら、百回やると死ぬってやつ」
「あ~、なるほど。普通の奴なら子供時代誰だって恐れてたまらなくなる、あれね」
「コハクもそういう時があったのか?」
「んにゃ。私はそういうのは迷信だって知ってたからね。恐れなんかしなかったさ」
妙に得意げにコハクは言った。別にこれは胸を張って言える事でもないと思うが。
「なぁ、コハク」
いつもの田舎町はもうじき夕闇を越えて、不揃いに振りかけられた星粒を携えた本物の黒を連れてくる。コハクの薄い全体がこの時からはよく目立ち、この周辺の電灯より役に立ちそうなくらい、よく光って見えた。
穴の開きかけた土まみれのタイヤに登って遊んでいたコハクに声を掛けると、遊ぶのも止めずに「何?」と反応をした。
「死んだ感覚って、どんな風なんだ?」
その瞬間、コハクの動きが止まった。が、それは一瞬だけで、すぐ別のタイヤへと移動してこう答えだした。
「そうだな・・・簡単に言えば、起きたままの昏睡状態って感じかなぁ」
「それって、何にも出来ない状態とかと同じなのか?」
「まぁそんなとこかもね。もうちょい詳しく言うと、身体あちこちの存在の感覚や体温、視覚や聴覚なんかも、なーんも無くなっちゃって、意識だけが不自然にプカプカ浮かんでるの」
「その後は・・・?」
彼女の答えにしっかりと耳を傾けて、食い入るように催促する。
「私の場合は、幽霊になったからなぁ。一般の死人は多分、言い伝えみたいに、三途の川を渡ってから、あの世に行ってるんじゃないかな」
「一応、見た事もない事はないし」と、コハクはタイヤから降りた。次いでブランコの柵に腰を掛ける。
「コハクは川には渡ってないのか」
「いや、渡ったよ。でもあの世へは連れて行ってもらえなかったね。私の内側にある未練がズルズルと現世に引き戻しちゃったから」
「でも、幽霊は未練や執念を持っているとなるって聞くけど・・・コハクは全部割り切ったんじゃなかったのか?」
凄く今更かもしれない。自殺するには希望を全部捨てないといけないというのに、それだとどうにも矛盾してしまう。
すると、途端にコハクの顔色が変わった。視線を逸らし、砂利を相手代わりにする。
「そうだよ。でも、それはあくまで『希望』だけの話なんだよね。それさえ捨てて、死ぬ気さえあれば死ねる。未練や執念って、それとはまた別なのよ。そのせいで私は、厄介事を増やしちゃった」
「・・・厄介事?」
コハクの異変を不審に思い、これ以上聞いていいものかと一旦戸惑ったが、恐る恐るに続けた。
「だからさっき、人や自分の本心なんかを考えた方が良いって言ったんだよ。私も大概馬鹿だったから、まあ、ちょっとした失敗をしちゃったわけ」
「そうか・・・」
『これ』というのが一体何なのか気になったが、コハクの表情が徐々に曇りつつあるのを見ると、それ以上ズカズカと詰め寄ることは出来なさそうだった。けれどもこれで、少しはコハクの事情も分かった気がする。
「ハルやんはそういう未練なんて作らないようにね」
そう言って笑うコハクを見た瞬間、背筋を生ぬるいざわめきが通り過ぎて言った。
「俺に未練なんてないよ」
そうならなければならない。
確実に死ぬ為に。

・・・でも、何だろうか。この胸を覆う虚しさは。

          ✣✣✣✣✣✣

「───資料などはこちらの封に入れておきます。では、以上で懇談を終わらせていただきます」
「すみません、お忙しい中・・・先生どうもありがとうございました」
「いいえ。来年は北沢君も三年生ですから、お二人で進路について再度検討なさってください」
そう台詞じみた言葉を吐き、先生が病室を後にする。
今年の最後の三者懇談は病院の中で行われた。じいちゃんがこの様なのだからそれも当然なのだが、学校でないというだけで大人の中の虚無の極まった社交辞令の一部始終がよくよく目立った。
進路について、『とりあえず』仮定しているのは、以前プリントに書いた通りの大学の文学部だ。無論行きたい所でも何でもない。大学はおろか文学など微塵も興味がなかった。そもそも大学にある部所すらどうでもいいわけで、これはあくまで、俺が生きていたなら、の内の話にしていた。
しかしそうとなると、焦燥を感じるのは当然の事。
俺はこの未来をやって来ないよう防ぎ守らないといけない。
タイムリミットはもう一年しかない。それどころか受験だなんて言っていれば一年の話ではなくなってしまうのだ。
望みの道まではそう遠くはないとはいえ、間に合わなくなる日の期限が侮れはしない。懇談中先生がごちゃごちゃと馬鹿みたいに喋っている間もその事で頭がいっぱいだった。
「先生も大変だ、こんなところまでわざわざ来てね」
俺がベッドの脇のテレビ台に封を置くと、じいちゃんが苦笑いでこの場の雰囲気を作り直した。
「仕方ないだろ。怪我だらけのじいちゃんを無理に学校に行かせるわけにはいかないんだから」
「まぁ確かになぁ。流石に階段の上り下りはこれじゃあ無謀だな」
「それに、これも先生の仕事ってものだからね」
「はは、そうだなぁ」
時々痛そうな顔をするも、じいちゃんの調子は相変わらず良好であった。聞けば同じ患者仲間との間で友人が出来たらしく、俺が来ない日にはその人達とひたすら話をしたり窓の外を眺めているらしい。
「ところで春哉、学校は最近どうだ?」
鞄から飲み物を取り出そうとして、急にそんな事を訊かれ耳を疑った。ついさっきも同じ質問をされた気がする。
「じいちゃん、それさっきも言ってたよ」
「あぁ。それは知っておるんだが、ちょっと今一度訊いておこうと思って」
自覚済みという事は認知症ではないようだ。少し安心する。
「なんでそれを今一度訊くの」
「いやぁな、お前は学校では全く元気がないと聞いたから」
「え?そんなん誰から聞いたんだよ」
じいちゃんが他人から俺の情報を聞き出してくるなんて滅多に無い事だった。でもそんな機会、そもそも伝達する人物すら最近に存在していただろうか。指で数えるくらいには精々歴代の担任しか当てはまらない。
とはいえ、さっきの担任はそれらしい事はほとんど口にしていなかったが。
「お前の友達だよ。えっと、・・・なんて名前だったかな。あれ、ああそうだ、高峰君だ」
お前の友達、というところで既に目を見張り、その後どうにか出し抜かれたその名に、承知していながら身が凍りついた。
「た、高峰?なんであいつから?いつ?どこで?」
訴えるように必死に尋ねる。
「実は一昨日、彼がわしの見舞いにわざわざ来てくれてな。後で食べてくれと饅頭まで頂いているんだが、その時にわしが彼とお前の事について色々話をしたんだ」
他人の身内の為に病院に出向くなんて、これまた驚いてしまった。
「話・・・?」
「高峰君が、北沢君はいつも元気がないって言っていてな。喧嘩かと訊いたが何も答えなかったから、お前の調子が悪いのかと思って」
「・・・はっ」
息の枯れた声が出た。
目の前にいる孫の事情の欠片も知らない、その子犬のようなアホ面に呆れてしまう。
あんたの視点で見た俺と、実の俺は違う。
俺は、あんたの学生時代と瓜二つの時間を過ごしていないのだ。
苦しく首を横に振る仕草をしてみた。
「・・・いや、別に。喧嘩してるだけ」
喧嘩だけで済むならば良いけれども。
「あぁ、やっぱり喧嘩か・・・高峰君、酷く沈んだ顔で、こうなったのは俺のせいだって言ってたから、ちょっと心配になったよ」
俺のせい?
この期に及んでまで、なんたるいかれた発言だろうか。煩わしささえも覚える。
「まぁその内どうにかなるって。大袈裟なんだよ、あいつが」
実にわざとらしく無責任である。宥める時によく使う、友達知ったかぶりが一番信用ならない。だけど鈍感な彼には、それを読み取ることは容易ではないようだった。
「そうか」とじいちゃんが息をついた。
「仲直りしたら、お前からお見舞いありがとうと伝えておいておくれよ」
「・・・うん」
掠れた声で、また無責任な約束をしてしまった。
「それにしても、高峰君は本当に良い人だね。他人の見舞いにも来てくれるんだから」
「あぁ、ほんと。まったくだ」
厚い皮肉を込めて、じいちゃんに便乗した。




この頃は宵闇が深くなっていく様を見る機会が多くなる。
じっと見ていると、ほぼ変化のないようで実はじわじわと変色していて、そうして気がつけば辺りの明かりが随分と眩しく感じるようになっている。とはいうものの、それは明かりの欠かせないバスや電車、汽車や室内特有の現象で、タクシーでは見られない。
車内はずっと暗いままで、外の景色は走らせるにつれて姿が見えなくなっていった。いつも目にする疎らの家屋や連なる水田がどこにあるのかを探している内に、タクシーはいつの間にか家のすぐ側まで到着していた。
降りた瞬間、激しい風が俺を包み込んだ。暖房のついた車内にいたおかげで暖まりつつあった身体が一気に冷め始めていく。タクシーが元の行路へと戻ろうと走り出すと同時に、坂道を駆け出した。坂がやけに遠くにあった。通例自転車で駆け上がるせいか、直接の足で走るには違和感があるようだった。
それでもとにかく、今は家に帰りたかった。何も寒いからだけではない。この複雑な感情を速攻にどうにか始末してしまいたいのもあるのだ。
家に着き、鍵を開けようとポケットに手を突っ込む。と、その前に自動的に扉が開かれた。
「おっす、おかえりんちょ」
足音で分かったよ、とご機嫌に笑いながら、俺を家の中へと押し込むように迎えた。
「今日はですね、ちょっとお誘いをしたくて」
「お誘い?」
「まぁしばし待て。話はお着替えの後だよん」
コハクのわけの分からない語尾に首を傾げつつ、とりあえず大人しく従う。
着替えを済ませ、アツアツのほうじ茶を手にリビングに向かうと、コハクがきちんとソファーに座って待っていた。
「コハクさ、住み慣れたな、この家に」
人の家に幽霊が住み慣れるなんて、まるでここに昔から取り憑いているかのようで本来なら気味が悪いのだが。
「そりゃもう、半年以上経ったからね。間取りもすっかり覚えちゃったよ」
やっぱりここは広いね、と天井を仰ぎ、目を徐ろに移動させる。
この家は近所の家々のものと比べるとちょっとばかし広い。細やかな話は知らないが、この家はじいちゃんとばあちゃんが将来生まれてくる実子の為に貯めていたお金で買った物らしい。ご存知の通り流産を繰り返していた為に、一向に増えるばかりのお金に虚しさを感じたのだろう、それをほとんど使ったのだと思う。
そのおかげでこの家は古民家に作られていながらまだまだ新築のような雰囲気がある。その当時に、まさか捨て子を拾う事になるだなんて予想、二人に出来る筈もなかったのに。
そう思い返すと、今のこの養育費はどこから引っ張り出しているのだろう。二人は駆け落ちした身の上で、現在までにも金持ちであった経緯も聞いた事がない。実子の為の貯蓄は大学までの費用で、その金額はこの広い家を買うに十分なくらいだというのは聞いていた。だとすればほとんど残りも無い筈なのに、どうしているのだろう。
いつかそれも無駄になってしまう日も来てしまうのに。
「・・・」
ふと。この家の、このソファーで、テレビにかじりついているじいちゃんの姿が脳裏に浮かんだ。
俺が死んだ後、じいちゃんはこのサイズの合わない箱の中で、自分だけの世界を織り成す事になる。それはどう足掻いても寂しさから逃れられない運命だ。
可哀想。無慈悲。その二つが俺の決意への板挟みを試みようとするが、俺にはこの人をどうにかしてやれる力を持っていない。こんな事親不孝の他に知れたものではない。でももうこのエゴを止める事など出来ないと、分かっている。
俺は相当な人でなしなのだ。
「ちょっと二人で行ってみたい場所があるんだ」
ほうじ茶を飲む手を寸前で一度止めた。
「行ってみたい場所?」
「そっ。君の自殺のちょっとした参考になったら良いかなって思ってさ」
「参考になる場所って、どこかの事件現場とか?」
「そーゆー事~、そこに行くのにさ、あの電車で乗り継いでいけば行ける距離なんだよね」
「・・・つまり?」
この子の事だから次には経費の出費を申し出るのだろう。聞くまでもないが、わざと長引かせるように尋ねた。
コハクがさっとお金を示すポーズをする。
「マネーマネー!出してくれるよね」
「嫌って言わせるつもりねぇんだな・・・」
「だってこれは君を想っての事なんだよ?アシスタントの私がそんな無駄な提案はしないよ」
そうは言いながら変に口がにやけているコハクを見逃せない。
「・・・その場所に、何か良い店でも見つけたんだろ」
半年と付き合うとコハクの隠れた企みも多少は暴けるようになる。表情やら仕草やら、元から分かりやすいナリではあったが、俺自身が人を間近な視点から観察する機会が無かった為に生じていた鈍さが鍛えられたおかげでもあるだろう。
図星をつかれたのかコハクが小さく声を上げた。だが否定はせず、寧ろとびきり笑ってすんなりと白状した。
「ついでにですよ、ついでー。その場所の近くを調べたらたまたま美味しそうなパンケーキのお店があってさぁ」
さぁ」
「それも奢りでいるつもりかよ」
「まー出来ればそうして欲しいけど、私もそこまで鬼じゃないからね。そこは出すよ」
パンケーキの代金が払えるなら交通費も出せば良いのに・・・。
心でそう思いながら、情けなくもコハクの頼みを無下に断れない自分をあやした。
「分かったよ、それくらいなら。でも他のとこは絶対行かないからな」
コハクの非日常的な色が一層煌めいた。
「イエーイ!ハルやん最高!」
コハクがこの家に響くくらいの笑い声を上げた。こんなにもハスキーで生き生きとしているのに、この声は俺にしか聞こえていないのかと今更知ったように思えた。
ところが次の瞬間、急に大人しくなってこう言い出したのだ。
「ハルやんは全然私に意地悪しないよね。私が我儘言っても結局許してくれるんだから」
「え?何だよ、藪から棒だな」
コハクは、んふふとはにかんで足を軽くバタバタとさせた。
「深い意味は無いんだ。でも、君は私が出会った人の中で一番優しい人格の人間だと思うよ」
「優しいなんて、俺は・・・」
そんなの息が詰まるような褒め言葉だった。今になって、そんな落ち着いて言われたら、どう捉えれば良いのか分からない。これまでの自分ならきっとすぐ否定を繰り返して言葉を制してしまうのに、反応に困って仕方ない。
確かにコハクには散々振り回されたし、女装までさせられた事までもあったけど、本質の目的で言えば、一人だけでは曖昧に宵闇を彷徨っているばかりで、自殺までの道を如実には切り開けずにいた。
自分というものが変わったのも高峰だけの影響ではない。おおよその何割かは彼女の悪意の見えない口調と対応と説得力があっての故だろう。
幽霊であり、同じ欲望を抱いた元人間で、俺の頑固な主張も顔色一つ変えず受け入れてきたコハクはまるで現実に身を寄越した死神の姿をした天の使いだ。俺を死へ導いてくれる、ドロップアウトした天使だ。
「コハクこそ、よくこんなゴミ相手に出来るな」
「君は全然飽きさせないんだよ。そこらで病んでる奴とは違って、ちゃんと死ぬ努力をしてるし、その意志の強さも人一倍。そんな人を放っておけるなんて出来るわけがないじゃん」
君こそ、と返された。
「人と関係を持つ事をかなり躊躇しているし、私にだって裏切られる可能性もあったのに、高峰クンみたいに警戒しないでいたよね。どうして?」
俺は間を置いて、極力伝わるような言葉を頭で紡いでから答えた。
「コハクはな、幽霊だっていうのもあるけど、他の奴とは何となく違う気がしていたんだよ。勿論最初は疑うばっかだったし、コハクの野望も考えたりしたけどな、それも徐々に薄れていった」
聡明な根拠なんて自分でも明白ではない。
でもコハクが悪人だという偏見は、無意識というに自然なくらいに消えていった。何よりそれを基づくに近いものがあるとすれば、それは「死」が共通しているという点なのだろう。
「これから私が裏切っちゃうかもしれないのに?」
その責め気味な問いに、若干冷たい汗が出そうになった。
「・・・裏切る予定あるのか?」
コハクは晴れやかに口角を上げた。
「それがある人はこんな事言わないし、君っていう面白い逸材がいるのに、他所に行くなんて有り得ないっしょ」
「じゃあ変な事言うなよ・・・」
呆れつつ、すっと胸を撫で下ろす。
「ふふふ、ごめんごめん」
コハクは上機嫌に笑って、次の話題を出し始めたのだった。



今日もとにかく風の強い日だった。ただでさえ地上にいても至る隙間に風の通り道が出来て、防寒をする無意味さを知らされているというのに、階の多く連なった屋上で佇んだままでいれば、いよいよそれが不快な痛みになってくる。
それでも、ここから今すぐ離れようとは思わなかった。
ここはじいちゃんが入院している所とはまた別の、南に位置するとある病院だった。外装も内装もあの病院と比べると古くて、この屋上の柵も錆びてボロボロになっていた。手で握ると錆の部分がザラザラと肌に刺さる。
真下に見える花瓶の中の枯れた花の弁が、もうじき最期を迎えそうな勢いで揺れていた。その瞬間を見届けようともなんとなく考えつつ、花の宛先に思いを馳せた。
「この花を送られた自殺者は、どんな人か知ってるのか?」
隣で同じ方向を眺めていたコハクが頷く。
「うん。ある家族のご親族の一人がね。多分大黒柱だったんだと思うけど、その人がこの病院で病死して、後を追って自殺した人がここから落ちたんだって」
「身内が死んだら、自分も死ぬのか」
目を丸くして言うと、コハクも困ったように眉をうねらせた。
「なんでかは知らないけどね、病死した人はその家にとってとてつもなく大きな存在だったみたいよ」
「とてつもなく、大きな」
やはり存在価値のある人間というのは俺と違う。場合によればこのように周りにまで死を呼び寄せることもあるようだ。
「その親族一家は皆次々と死んでいった。娘や息子、おじいちゃんおばあちゃんも、ここ以外の色んな場所で自殺を遂げた。そして最終的に、一家は全滅してしまった」
「え」
一瞬だけ言葉が詰まった。
「一人が死んだら皆死ぬなんて。そいつらにとって大黒柱しか生きがいがなかったわけ」
一人だけが死ぬだけならまだしも、一家総出で自殺を図るだなんて。
驚く俺を横に、こう続けた。
「ちなみにその大黒柱の、奥さんね。その人は家の中で首を吊って亡くなったの。娘とおばあちゃんは海に入水、息子は電車に撥ねて、おじいちゃんは刺殺。変なもんよね、みんな死に方が違うんだから」
何故そこまで知っているのか、その家族とは何者なのかを尋ねた。
「もう随分と昔のニュースで見たのを覚えてるだけ。知らない?十年前何日もずっとテレビでやってたやつ」
「さぁ・・・」
「あれ、知らない?ざっと七年前の事件なんだけど、その時ニュースで話題だったんだよ」
七年前となればもう記憶も古い。傷を抉る記憶以外に、流石にテレビの内容まで覚えていられるわけがない。
「やっぱり分かんないや。覚えていないだけだとは思うけど」
「まぁ、七年も前だしねぇ。世間にもきっと忘れられちゃったんだろうな」
コハクが悲しそうでありながら大半を他人事のような振りでそう言って、花瓶を再度見下ろした。
「この家族の名前は『寺野さん』っていうらしいよ。頭の良い人達ばかりだったみたい。お父さんもお母さんもかなり難関な大学の出みたいだし」
「・・・そのわりには気味の悪い事をやるんだな」
「大黒柱が一番の宛てだったんだろうね。収入でも、家庭の云々でも。もう自信が無かったんだよ」
「別に柱がいなくても、どうにか出来ただろうにな」
何となくそう呟くと、コハクが徐ろに此方に振り向いた。
「そこは君と同じだよ。死の欲にやられていったわけ。でもこの人達だって最初は死にたくなかったんだよ。だから柱がいなくなってすぐに死んだわけではないらしいね。でも限界を知った故に起こした悲劇、ってわけ」
再び風が吹き始めた。生温く、不快に思えるきつい強度だ。
ゆっくり視線を下へと向けると、花は既に虚しく地べたに散った後だった。
そう、死の瞬間は、本当に呆気ない。
息絶え朽ち果てれば、二度として蘇生することはない。ごく当たり前の事だ。例えその生命体の本体が現世に残っていたとしても、生者はそれが腐りきるまで、体温にも満たない温度で見守る事しか出来ない。
「どんな経緯があろうとも、逝くべき所へ逝ってしまえば何も残らないんだ。誰かがそれを止めるなんて、夜空の星を掴むくらいの難題なんだよ」
死についての思想と共にそう独り言のように言っておきながら、今の表情はこれを言い切るに相応しいとは思えなかった。もう慣れきった感覚だ。今更に乱心することはないけれども、だからこそ悔しくてたまらなかった。
今の自分にこんな事を駄べる説得力があるだろうか。
何度だって確認する。もうあの壁はいなくなった。自らで壊した。
多少なりには退いて楽になったけども、その後処理がどうにも落着せず、それどころか、入れ替わるように質の悪い不要物が舞い込んでしまっているのが現状だ。
ほとんどの感情と心を殺めた幼少期、あれ以来から俺は生きるという言葉の皮を被って死を夢みていた。時を経て、人の手が触れた事で殺した二つの本能が徐々に息を吹き返し、現実を微睡みを挟みながら動いている。肉眼で見える心臓より、外から感じるだけの心の生命力の方が高く、今の自分はそれで生かされているのだとはっきりと全身に言い聞かせ鮮明にさせた。
もうこれらを殺してはいけない、とそう感じ始めた。
不要物の始末は、心に急かさぬように、でも油断させないよう、紛れ込ませておくしか出来ない。
そうする事が意のままに出来たなら理想なのにな。
「ハルやんは、もしこの家族みたいに君を追いかけて死のうとする人がいたらどうする?」
俺の心情を多少なりに崩しながらも察したのか、コハクがそんな事を訊いた。
脳裏には不自然な影がぼんやりと浮かぶけど、さっと頭を振って打ち消した。だがその影はすぐに蘇って、後に脳に浮かべた死体の自分に倣ってその隣に倒れ込もうとしたのだ。
(・・・!)
その影の死に顔が見えてしまった気がして、今度は強く頭を振ってそれを払った。
こんな未来、起こる筈ない。
こんな事を想像してしまう自分にさえ畏怖を覚える。
「・・・いないよ。いない。そんなの有り得ない」
自分に言って聞かせるよう意識した。
柵を握り締める手に、嫌に力が入る。
「じゃあ、質問を変えても良い?」
先程よりゆっくりとした口調で尋ねられた。
「君は、君の大事な人が死んだら悲しい?」
「え、」
「君の大切に想う人が気がついたら死んでいて、次に会った時には棺桶の中。それを、ハルやんは悲しいって思える?」
「・・・・・・それは、」
きっと、悲しいんじゃないだろうか。
俺も何も死を軽視しているわけではない。
死がどれ程悲しくて愚かで辛いものか。
それはいくらの狂人でも知って然るべきだ。
だけど死ぬ側で、逆の立場になるなんて想像を出来る場など今まで無かった。
その対象があの影だとすると、ただの先入観なのだろうけど、辛かった。悲しいのもそうだけど、辛い。
素直に答えると、コハクは「それなら大丈夫ね」と空を仰いだ。
何が大丈夫なのだろう。疑問に思ったが、後から何故か何となしに理解出来た気がした。
「なぁ、参考って、その事だったのか?」
「まー、そうね。そういうパターンもある、って事も言いたかったんだけど」
「これ、参考になるのか・・・?」
「死の重さを尊ぶ事も正常な人間の本能よ。幽霊が言うのもアレだけどさ」
「・・・・・・、そうか」
その後、俺は日が暮れるまで黙々とその果てた花びらを眺めていた。
寒いのも、寒風も、まるで結界でも張られているみたいに、その時は感じられなかった。



「ん、ハルやん。何か鳴ってるよ」
普段なら車内ごしに通り過ぎるだけの見慣れない駅。その待合室の色褪せた座布団の敷かれたベンチで、ストーブの空気にうとうととしていると、突然そんな声が振ってきた。
意識が遠くに行きかけていたからか、その音が耳に届いてこずにすぐ気づけなかった。
惚けたように手探りでスマホを手に取ると、強くしつこい振動を感じた。これはメールではなく、電話のようだ。
「じいちゃん、何か用なんかな」
その時の俺は相手の名を確認せずに応じたのだろう。じいちゃんだと思って緩ませた気が、予想外な事に固く結ばれることになってしまった。
「もしもし、じいちゃん?何だよ」
『・・・おい、俺はじいちゃんじゃないぞ』
強制的に目が開かれた。
同時にぞわりと鳥肌が立つ。
嘘だと強く願うしか他なかった。
「なっ・・・!?た、お前なんで」
声を何度も反芻させても、その声は確かに彼のものだった。とはいえ電話がかかるなんてじいちゃんか彼しかいなかったのだから、他に候補もあがらないのだが・・・。
いや、それでもこの状況はおかしい。もうあってはならないことだ。
一体何のつもりでこんな、電話なんて。
『今日空いてるか』
「・・・は?」
予め用意した身構えがすっと解けてしまった。そして彼の言葉に戸惑い、すかさず疑いをかける体制になる。
「何、どういうこと」
『空いてるなら俺がいつも乗降してる駅に来い。少し話したい』
「な、なんでさ。もうあんたと話すことなんて」
動揺する俺の言葉を高峰が遮った。
『お前はなくとも俺がある。・・・だが無理は承知だ。それに今日じゃなくとも、お前が好都合の時でもいい』
「・・・」
ここの時点ではっきりと断っていても良かった。あの時のような高圧的な態度を表そうかとも思ってしまったが、これ以上後からの余分な障害物を残したくないというのもあって、一度冷静になるように努めた。
「・・・別に今日は予定無いけど、今話すのは駄目なの?」
『いや・・・電話より直接の方がいいんだ』
「そこまでの大事な話?」
『そうだ』
「・・・はぁ、そう」
強く押すように言われ、困ってしまった。
こういう時、どういう選択をすれば良いのだろう?
何をどうすれば俺も彼も傷つくことなく、丸く収まる?
冷静に。冷静に。怒りで収めようとするな。何か策を・・・。
スマホから流れる雑音と生々しい物音が焦燥感をかき立てて、息すら楽に吸えなくなる。
「・・・・・・わ、分かったよっ」
無に返りそうな脳から、必死に答えを繰り出した結果だった。
他に思いつく言い訳も思いつかず、断ることにも躊躇いを見せるというならば、もういっその事話を聞きに行って、それ以降は断ち切れるよう仕向けるしかない。
「そんなにも大事なら今日の夜聞くよ。何時に行けば良いのさ」
向こう側から、安堵したような微量の声を聞き取った。
『そうか。集合は六時半だ。〇〇駅は知ってるよな』
「うん。前にあんたが教えてくれたからね。そこで待ってりゃ来る?」
『ああ。お前が来る前には駅で待っておくから』
「ん、じゃあ、とりあえずその時にまた」
通話を切ってから、意味の有無が分からない後悔が広がるが、もう後戻りは出来ない。
もう彼に絆されないよう、誠実さに負けないよう、腹を括り挑むしかない。
(・・・高峰、俺はあんたを『友達』とは呼べない。どうかこの期を最後に、俺を完全に遮断してくれよ)
あんたは初めて出会った時、全力で止めると宣告していた。
でもあんたにはそんな事をする暇も、まして俺を改心させようと関わりを持つ必要性も義務もない。
既に手遅れなのだ。俺という物体は完全に破壊しているのだ。
誰にも出来っこないことを、あんたが出来るだなんて有り得ない。
ぎっ、と唇を噛んだ。







網の上でじゅうじゅうと肉が焼ける音がする。煙が程よくたち、そこから肉の匂いが辺りを包み込むように漂う。
ほれ、と向かいの席の高峰がトングで焼けた肉を俺の手前の小皿に放る。
しかし、俺は食べようと箸を手に取ったりする気分にはならなかった。そんな気分になるやつの方が頭がおかしいだろう。
「・・・ちょっと。高峰」
きっ、と高峰を睨みつける。
彼は動じることなく肉の管理を続けている。
「なんだ、早く食え」
「食えじゃないよ、何なのこの状況は」
「何って、焼肉だろ」
「いや、さも当たり前みたいに言うなよ。それになんでそんなに平然としてるわけ?」
約束通りにその駅で待ち合わせ、ついて来いと言われ着いたのがこの焼肉屋だった。戸惑う俺を他所に食わぬ顔で入っていってちゃっちゃと注文していくので、聞くタイミングが逸れてしまい、今でやっと話せた。
高峰はトングを手に持ったまま、逆に此方を睨むように見た。
「・・・お前、最近絶対ろくなもの食ってないんだろう。とりあえず先に食ってくれ」
「な、なんであんたが俺の健康気にしてんの。関係ないじゃ・・・」
「お前のお爺さんから聞いた。春哉は日に日に痩せていって心配だって。今度は餓死でも挑戦するつもりか?」
電話の時と同じように、高峰が意見を捩じ込んでくる。その声には密やかな怒りのようなものが含まれていた。
「別にそうじゃないよ。てか、そもそもなんで俺のじいちゃんの見舞いにあんたが行くんだよ」
高峰から説明を欲することは色々ある。先に聞いておきたいこともあったが、仕方なく順を追った。
「なんだ、行っちゃ悪いことでもあるのか。あっちとは一応顔は知ってるから、普通に話をさせてもらえたが」
「悪かないけどさ、よく他所様の見舞いなんて行こうと思えるな」
「俺がそういう奴だって、お前はもう知ってるだろ」
「あぁ・・・それは知ってるけど」
「他に言いたいことはあるだろうが、とにかく食え。肉が溜まってくる」
気づくと小皿の中には肉の山が出来かけていた。
「肉はすぐ焼けるから、早く食わないと次があるんだぞ」
そう言って自分の分を食べ始める高峰に俺は何も言い返せず、その姿をただ眺めているしかなかった。
ちらりと肉を盗み見る。美味そうに煙を散らしてそこで食べられるのを待っているのを見ると、謎の意固地も薄れて箸に手が伸びそうになる。
(うぅ)
我慢したくとも、それを妨げるように腹の虫が鳴った。
腹が鳴ったのは非常に久しぶりな気がした。
うぅぅ、仕方ない・・・。
警戒しながら箸を取り、肉を口に運ぶ。
(・・・あ)
その純粋な味がひたすら美味しかった。カップラーメンやレトルト食品なんかとは違う、汚れの一切無い味。焼きたてというのもあって、胃に入れ込むとその温かさが身体中を満たした。
一切れでやめようとも思っていたが、腹はそれだけでは足りないと文句のように痛みをばら撒き、今日に限って食欲を促してきた。
二枚目の肉を飲み込んでから、「美味い」とポツリと零した。
「気に入ったようだな」しっかり聞き取った高峰が優しく言った。
「ちゃんとしたの食べたの凄い久しぶり」
「だろうな。いつもはインスタント系ばかりなんだろ」
「・・・それか食べないかのどっちか」
「そんなんでよく生きてこれたな」
「本望じゃないけどね」
などと会話をしてしばらく黙々と貪り、やがて生肉の乗った皿が空になってきたところで、ハッとなった。今の状態の異常さを思い出し、タレのついた口元を拭いてからすっと箸を置いた。
高峰も腹が落ち着いてきたのか、暢気に烏龍茶を飲んでいた。
「それで?順番に質問したいんだけど」
一声かけると、高峰も表情を変えてコップを机に置く。
「話があるから来たのに、どうして焼肉屋にいるのかな」
「それはさっきの通り、お前の栄養不足の為もあるし、ちゃんと話せる場所を作りたかったからだ」
「・・・なんで疎遠になった奴が栄養不足かどうかなんて気にするんだよ。自分でおかしいと思わないのか?俺、あんたに酷い事言ったのに、会おうとする事だっておかしい」
それからだって高峰は話しかけてこなかったし、目が合うことさえなかった。これでもう縁が切れたのだと思っていたのに、見舞いの件だって、誰がどう聞いたっておかしい。
「・・・それは、」
それだけ言いかけ、一息置く。
「・・・確かに、あの時は少しショックだった。だがお前にあんなことを言わせた原因は紛れもなく俺だ。俺も、お前の胸懐を知りもしないで怒り余って叫んでしまったのだから同罪だし、その責任だってある」
高峰が顔を歪ませ、おもむろに項垂れる。
「最後に言ったあの一言は・・・ショックで動揺して、正しい判断を下すことが出来なかった結果だった。自暴自棄を起こして、どうにでもなってしまえと思って・・・あんな言葉を吐いてしまった」
「・・・」
「電話を切ってから酷く後悔してしまった。だが・・・すぐに謝る勇気が出なかった。お前に言われた通り、誤ちを犯さずこの世を渡るなんて出来ないとはっきり実感した。結局持論だけを無理矢理押し付けていただけで、お前の気持ちを少しでも楽にさせようと思う意識が足りなかった」
「・・・そんな事しなくたって、別に・・・」
高峰の見せる過剰な弱々しさに、言葉が喉につっかえる。
楽にさせたいなら、放っておいてくれれば良いのに。
そう思いながらも高峰を見ていたら、不意にまたその時の俺の発言を思い出して、彼と類似した責任感を感じた。
「そうである自分が恥ずかしくて、この数ヶ月、お前に話しかける資格はないと思って過ごしていた」
「し、資格って・・・まさかそれでずっと口をきかなかったわけ」
「あぁ」
たかが一粒ほどの形しかない知り合いとの口論でそこまで考えるなんて。
そんな考えだったから、話しかけなかった。なんて普通の友達の間で言っても嘘としか捉えられないだろうに。
(マジかよ・・・)
心中で改めて彼に衝撃を受けた。同時に、妙に心地の悪くない感覚も入り組んでくるのが分かる。
(あぁ、駄目だってば)
その感覚を受け入れたくなくて、心を塞ぎこもうとする。
「本当にすまなかった。許せとは言わない。でもせめてこういう話だけでもしておきたかったんだ」
話がしたいというのはつまりこの事だったのか。
「・・・いや、こちらこそ・・・あの時、怒鳴って悪かった。ついカッとなって、歯止めが利かなくて・・・」
謝った後、半分責めるように尋ねた。
「でも、許しを請うのが目的じゃないなら、高峰は俺にどうして欲しいの」
彼の本音はこの耳で聞き入った。そして互いに非を詫びた。
そしてそれからは?
北沢春哉と高峰倖佑という人間の行く末は?
その結末を、高峰はどう望む?
それが明瞭にならないなら、いつまでも二進も三進も行かない。
「一体、どうしたいの?それで和解したつもり?話だけしておきたいだけ?これからも自分の羞恥と資格無しとかで俺を避けていたい?」
感情よりも言葉で圧倒させた。恐らく彼の答えは出ているのかもしれない。(急に焼肉に誘って、話をしようと思う時点で次は決まっていたのかもしれない。)けれどもそれを濁しているのは此方からすれば好都合であった。
「もし答えが無いのなら、別にそれで良い。それが互いの為になるからね」
これで高峰と向き合えて、無事に関係の糸を断ち切る事が出来るなら俺はこの瞬間から清々しい想いで満たされるだろう。
彼が何か口にする前に席を立とうとする。
早々に切り上げないと、また何事か言われて心が鈍くなってしまう。
しかし、ぐっと腕を掴まれ行く手を阻まれてしまった。
「待て。無いだなんて誰も言ってない。自分の都合ばかりで断ち切ろうとするな」
掴まれる手の強度を噛み締めながら、俺は悲しく目を伏せた。
「・・・変に促す事言ってて悪いけど、何回も言ってるように俺は和解してもあんたの思う人間にはならない。なれないんだよ。いくら説得しても、綺麗な言葉を並べても、・・・結局、決めるのは俺なんだから」
「違う」と高峰の言葉が重なる。
「和解は求めてない。俺はそれでも無理強いはしないと言った筈だ。理想なんかいらないと。・・・けれど、お前にこれ以上の自傷はさせたくないという思いだけは、退けられない」
高峰が腕を引き寄せ、顔を近づけた。
「もう誰かが死ぬのを見るなんて真っ平だ。絶対に。・・・俺は、この自分の醜い歴史を全て拭い、もう一度宣告しよう」
──もう?
高峰は過去に誰かを失った事があるのか?
考える余裕は無さそうだった。
彼の真っ直ぐな瞳が逃がさない。
そして美しく、強く言ったのだ。
『全力を投資して、必ず生かしてみせる』と。
彼は穏やかな和解や決別ではなく、己の挽回と、そして変わらぬままの俺への宣戦を選んだ。
その時の俺がろくに返答する言葉を見つけられず、呆然としていたのをはっきり覚えている。
だが、心はきっぱりとその姿に抗った。
今の俺は、いつでも死ねる状態を保ったまま、彼が敵対する馴染み深い死の欲を具現化する力を失った状態にある。
それでも良い。執拗に、必要に残るこのデストルドーで、高峰に立ち向かおう。
「いつか本当に無駄だって思う日が来る。全部自己責任だよ。それでも良いのなら、勝手にしたら良い」
高峰がぐっと頷いて応じた。
「承知の上だ」
彼の意思はよく分かった。今の彼が、俺が何かを問いかけたり責めたり突き放したりしたところで、容易に引き下がる道に甘んじる事は無いと。
無駄口を叩いても自分を守護する事には繋がらない。
ならもう余分な物と思わず、彼がしたいように放しておこう。
その代わり、こっちも容赦しない。
全力で、もう一度死ぬ気を起こしてこの世を去ってやる。
・・・もしこれが、皮算用の『希望』になったとしても、最終的にそれを諦めれば良いだけ。
それまで俺は、お前と戦い続けよう。

お前が望んだこの先を、俺が追い越してしまうまで。


焼肉の代金は彼が全て支払った。店を出て、駅までやって来てから、互いに睨み合ってから解散した。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

煙草屋さんと小説家

男鹿七海
キャラ文芸
※プラトニックな関係のBL要素を含む日常ものです。 商店街の片隅にある小さな煙草屋を営む霧弥。日々の暮らしは静かで穏やかだが、幼馴染であり売れっ子作家の龍二が店を訪れるたびに、心の奥はざわめく。幼馴染としてでも、客としてでもない――その存在は、言葉にできないほど特別だ。 ある日、龍二の周囲に仕事仲間の女性が現れ、霧弥は初めて嫉妬を自覚する。自分の感情を否定しようとしても、触れた手の温もりや視線の距離が、心を正直にさせる。日常の中で少しずつ近づく二人の距離は、言葉ではなく、ささやかな仕草や沈黙に宿る。 そして夜――霧弥の小さな煙草屋で、龍二は初めて自分の想いを口にし、霧弥は返事として告白する。互いの手の温もりと目の奥の真剣さが、これまで言葉にできなかった気持ちを伝える瞬間。静かな日常の向こうに、確かな愛が芽吹く。 小さな煙草屋に灯る、柔らかく温かな恋の物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あやかし警察おとり捜査課

紫音みけ🐾書籍発売中
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。 【あらすじ】  二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。  しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。  反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。  

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...