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 理性と言うものは、人が社会的な生活をおくる上で必要不可欠であり無くてはならない大切なもの。

 なのに自分の事を軽々と抱き上げて膝の上に乗せたその男はその理性が保てないと、熱い眼差しでこちらを見つめながら宣ってきた。

 ……引きこもりの中に眠る、ほんの僅かな野生の本能がこれは危険だと警鐘を鳴らす。

 だからアイリスはそろりと、自分の事を包み込むように抱きしめているラファエル公爵から逃げ出そうと身動ぐが。

 しっかりとアイリスは抱きすくめられていて、その膝の上から全く逃げ出せそうな気配がない。

「……どうした、アイリス?」

 そんなアイリスの行動を不審に思ったのか、ラファエル公爵は余計にしっかりとまるで囲うようにその逞しい腕で抱きしめた。

 アイリスはラファエル公爵のその行動に、身の危険を感じてしまい。

「ひゃあっ……!」

 情けない声を出してその腕から逃げ出そうするが、貧弱なアイリスでは抜け出せなくて。

 くりっとしたチョコレート色の瞳は潤み、顔を少し赤らめて上目遣いするという精神攻撃をアイリスはラファエル公爵にするから。

 二人が乗る馬車がフォンテーヌ公爵家に到着するまでの間、ラファエル公爵は理性と戦うはめになった。

 

「おかえりなさいなさいませ、アイリス様!」

 にっこりと微笑んでフォンテーヌ公爵邸の前で出迎えてくれたのは、アイリスの専属メイドジェシカで。

「っジェシカただいま!」

 花が咲くような笑顔でアイリスは、出迎えてくれたジェシカの元へ一目散に駆け寄っていく。
 
 そんなアイリスの後ろ姿を、少しやつれたような顔でラファエル公爵は見守りながら一息つく。

 ラファエル公爵は耐えきった、そしてどうにか己との苛烈な戦いに勝利した。

 何度その誘惑に負けそうになっただろうか、これならば近衛隊の訓練のほうが余程楽だとラファエル公爵は思った。

 
「ああ、ジェシカ? 君は他の仕事をしていてくれ、アイリスは私が部屋に連れていくから」

 そうラファエル公爵は、アイリスとの再会を喜ぶジェシカに命令するから。

 ちらりとアイリスの専属メイドジェシカは、雇い主であるラファエル公爵を横目に見て。

「……はい、かしこまりました。ではアイリス様、また後程湯浴みのお手伝いに参りますので、私はこれにて失礼いたします」

 と、アイリスだけにジェシカは恭しくお辞儀をしてその場を去っていく。

 そして取り残されたアイリスは、やっと危険から解放されたのにと肩をがっくりと落とす。

 たしかにアイリスはラファエル公爵に、恋をしていると自覚している。

 ……でも、ソレとコレとは話が違う。

 そりゃ一応アイリスは、ラファエル公爵と契約結婚した三年前にたとえお飾りの妻でも夫婦になるのだから、があるかもしれないと覚悟はしていた。

 でも……今さら? 

 だがそんな覚悟、アイリスは三年前の初夜に小躍りしながら投げ捨てた。
 
 だから今さらそんな熱い眼差しをラファエル公爵に向けられても、正直困るのである。

 いくらラファエル公爵に恋をしたとしても、まだアイリスはそんな事は全く望んでいない。

 だってそれは本当の夫婦がする事だから。

「私が君の部屋までエスコートしよう、……さあアイリス、おいで?」

 ……いやいや、『おいで?』じゃ、ないし!

 スッ……っと腕を出して来ないで?!

 使用人達がじぃっ……と見てるからその腕を、ラファエル様のエスコートを拒否出来ないっ……!

「っ……お願いいたします、ラファエル様」

 渋々とアイリスはラファエル公爵にエスコートされて、フォンテーヌ公爵家の公爵夫人の部屋に向かう。

 十日ぶりのフォンテーヌ公爵家は、アイリスの実家ヴァロア男爵家とは天と地ほど違っていて、とても広くて洗練されていて豪華。

 廊下には美術品が飾られていて、屋敷内を歩くだけで美術館にでも来たような気分になれる。

 同じ貴族なのに、貧乏男爵家の令嬢として転生したアイリスとは住む世界がラファエル公爵とはあまりにも違い過ぎた。

 でもここは貴族の屋敷だし、まあそんなもんか?

 と、この豪華な屋敷の女主人で、今は貧乏男爵家の令嬢ではなく公爵夫人なのにアイリスは他人事。

 いくらラファエル公爵に『本当の夫婦になりたい』と言われても、恋をしても。

 まだアイリスは自分の事をお飾りの妻と認識して、王都のフォンテーヌ公爵邸をただの仮住まいだと思っていた。



「さあ、……どうぞ? アイリス」

 カチャリ……と、ドアノブをラファエル公爵は回して公爵夫人の部屋の扉を開ける。

 そこには見慣れた前公爵夫人が使っていた内装そのままのモスグリーンにオフホワイトの色彩の壁紙で落ち着いた質実剛健な雰囲気の部屋が広がっているはずだった。

 ……だけどそこには。

「え……?」

 アイリス好みの水色の壁紙に、可愛らしい調度品の部屋に様変わりしていた。

「アイリスはそのまま使っていただろう? ここはもう君の家で、君の部屋なのだから好みの部屋に変えていいのに……だから君が実家に滞在している間に改装させた……余計だっただろうか?」

「あ、ここ……私の……家?」

 ポロリ……と一粒の涙がアイリスの頬を伝う。

「……ああ、君は私の愛する妻だからな?」

 アイリスはこの時初めて、フォンテーヌ公爵家が自分の家だという認識に変わった。
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