森の魔女と小さな幸せ

棚丘えりん

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森の魔女が生きた理由(日常編)

第4話 名前

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「ところで少年、君の名前を訊いても良いだろうか……?」

 朝食の途中で魔女は唐突に言った。

「あ、いやその、嫌でないのなら……の話だが……」

 今朝の魔女は、いつもと少し様子が違う。
 最初はあれだけ恐ろしかったはずなのに、名前を聞くだけでもじもじと身体を揺らしている魔女の姿は面白かった。

「クリロだよ。全然訊いてくれないから、一生訊いてくれないのかと思った!」
「いや……すまない。名前とは、人間同士で呼び合うものだろう? でも、いつまでも少年と呼ぶ訳にもいかないと思って……だから……つまり……」

 散々言葉を探してから、私は魔女だから……と肩をすくめる。
 変なところで遠慮をするんだなとクリロは思った。

「クリロ……良い名前じゃないか。これからは、名前で呼んでも良いだろうか?」
「名前で呼んじゃいけないなんて、そんな人いないよ」

 クリロは、変な事を言うなぁ。という顔をした。

「じゃあ僕も訊くけど、君の名前はなんていうの? 流石に、魔女が名前じゃないよね」

 クリロの問いに、魔女は少し寂しそうに答えた。

「名前は……無いんだ。ずっと昔に、取り上げられてしまったから」

 ……クリロも聞いた事があった。
 異端の烙印を押された者は、教会によって名前と記憶を取り上げられる。
 一度失った名前と記憶は二度と取り戻せず、思い出すことも出来ない。
 名前を取り上げられた者達がどうなるか。
 子供ですら想像に難くない程、それは大きな罪だった。

「つまり……何も、覚えていないの?」
「あぁ。名前も、過去も。犯した罪すら分からぬままだ。ただ人々が私を『森の魔女』と呼ぶ事以外は」

 魔女は申し訳無さそうに俯いた。

「罪を償う事も出来ず、死ぬ事も出来ず、私は今も生きている。すまないな、こんな私で……。やはり君を名前で呼ぶなど、申し訳無いと思えてきた」

 魔女は人を殺すし、過去にはもっと大きな罪を犯したのだろう。
 しかしクリロは、魔女を嫌いになれなかった。
 出会ってから僅かな日々を共にしただけ、まだ名前で呼ばれた事すら無い関係でも、クリロは魔女を救いたいと思った。
 償うことも、後悔すら許されない魔女の罪を、クリロは癒したかった。
 魔女は、魔女として生きている。
 それが本人の選択か、背負わされた宿命か、クリロには分からない。
 しかし、魔女は己のルールに従って生きている。
 どんな行いをしようとも、そこには魔女のルールと正義を感じた。
 魔女を悪だとは、クリロには思えなかった。

 縛られなくていい。
 そう言える程の強さも、正義もクリロは持っていなかった。
 しかし、ただ傍に寄り添おうと思った。
 魔女の為に何かをしたい。
 クリロは自分に出来ることを探した。

 目の前に座る魔女は、すっかり落ち込んでしまっている。
 無言の時間、ただスープだけが冷めていく。

「あのさ、もし良かったら僕が君の名前を考えるっていうのはどうかな。僕が君を名前で呼ぶ。だから申し訳無いなんて言わないで、君も僕を名前で呼んでくれないかな」

 精一杯の笑顔で、クリロは魔女に語り掛ける。
 魔女は俯いていた顔を上げ、クリロを見る。

「名前を、私に名前を付けてくれるのか? 本当に?」

 魔女は戸惑いながら、しかし嬉しそうに言った。

「あぁ、君にぴったりの名前を見付けたんだ」
「教えて欲しい、その名前を! ……いやしかし、やはり私なんかがこのような……」

 なおも自身を卑下する魔女を無視してクリロは言った。

「君の名前はリエース。名前を付けるなんて初めてだけど……どうかな?」
「……リエース……私は、リエース……! ふふっ、リエースか……」

 リエースはすっかり元気を取り戻し、とても嬉しいようだ。
 名前を何度も繰り返しては、一人で笑っている。

「気に入って貰えたの……かな?」
「あぁ、素晴らしい名前だ……私なんかの為に、勿体無いくらいだ」

 リエースは帽子の鍔を両手で掴むと、ぎゅっと深く被った。

「……アリガトウ」

 帽子に隠れて表情は見えないが、クリロにはリエースの表情が分かった。
 
 ありがとうなんて、今まで言ったことも、言う相手もいなかったのだろう。
 初めて覚えた単語かのように下手な発音で、しかしはっきりと言った。
 青白かった顔も今は紅潮し、口元には作り慣れない笑顔を、ひきつりながらも嬉しそうに浮かべていた。
 肩をぷるぷると震えさせ帽子で顔を隠しながらも、リエースは喜びを隠せていなかった。
 
「……こんな気持ち、初めてだ……」

 クリロには聞こえなかったが、ぽつりとリエースが呟く。
 喜びを隠せないリエースの姿を見ていると、クリロまでなんだか愛おしく、そして照れくさくなってきて、二人は一緒に笑い合った。

 何でもない、ただの朝。
 しかし二人にとっては、これまでの人生で最も幸せな朝だった。
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