月が追いかけてくる

唄うたい

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月が追いかけてくる

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 見上げた夜空には、背の高い木立の隙間からこちらを窺うように、黄色い満月がひとつ浮かんでいた。
 中秋の名月というだけあり、今宵は特に大きく美しく見える。澄んだ空気の中で真っ直ぐに光を放ち、山叢さんそうを分け歩く私のことを、付かず離れず追いかけている。そんなふうに感じられた。

 もうどれだけ歩いただろう。進めども、進めども、視界に映るのは切り絵のように奥行きのない草木ばかりだ。
 登山道はとうにれてしまった。登山客の少ない日暮ひぐれ前を狙って、山に足を踏み入れたのがそもそもの間違いであったと、何度後悔してもしきれない。
 古の大学時代は山岳部に身を置き、険しい日本アルプスの峰を歩いた経験もある私だ。標高1,000メートルに満たない低山ならば、20年程度のブランクなど大したことはないと、おごりがあったのだ。

 装備していたヘッドライトは役に立たない。アップダウンの激しい深い森の中、こんもりと盛り上がった土山を乗り越えようとした際にバランスを崩し、私は不運にも崖下へと滑落した。
 額を強く打ち付けた衝撃でヘッドライトは壊れ、私の意識もそこで一旦途切れた。
 次に意識を取り戻した時には、辺りはすっかり闇に包まれていたという顛末てんまつだ。口にするのも愚かしい。
 中古のスマートフォンのバッテリーは半分を下回り、おまけに圏外。外部との連絡手段として、極力使用を控えていた。
 時折、コンパスの針を確認するため、しばらく歩いてはスマートフォンのライトで照らし、またしばらく歩いてはコンパスを照らし、という行動を繰り返した。

「うう、痛い……」

 滑落の際、足首を捻ったらしい。痛みで思うような歩行ができない。
 天上の満月は、私の進路の少し後ろにある。大体の方角は合っているはずだ。しかし、いくら歩いても一向に登山道に合流できなかった。
 焦り、口の中が渇いて熱くなる。僅かばかりのゼリー飲料は、少しずつ大切に飲んだ。
 私の焦りを煽るのは、食料問題だけではない。足首の痛みがますます酷くなっていたのだ。
 幹の細い林に差し掛かったところで、私はたまらず、一本の木に体を預けて座り込む。靴を脱ぎ、靴下を脱ぐ。スマートフォンのライトで、足首を照らす。肌の一部が、熟れた桃のように真っ赤に腫れ上がっていた。

「……あぁ……」

 痛みと絶望感とが合わさり、とうとう口をついて溢れた嘆息。
 右も左も分からない。麓への帰り道を求めていくら歩いても一向に変わらない景色。どこまでも続く暗色の世界。
 その中で、頭上の満月だけは変わらずそこにあった。白と銀と金の光が交互に現れる不思議な色彩。普段なら、こんなにもじっくりと、月を見上げることはない。

 物心つくかつかないかの幼い頃、母に手を引かれあぜを歩いた帰り道、同じ月がずっと私の後を追いかけていた。
 だだっ広い田んぼの背後に聳える城塞のような山々の、その峰から顔を覗かせた満月は、暗闇にぽっかり空いた穴を思わせ、幼い私は恐れに似た落ち着かなさを抱いたものだ。

「かあちゃん、月が追いかけてくる」

 それを母に話すと、母は笑って「あんたのことが好きなのよ。だから追いかけてくるの」と言っていた。
 生き物でもない月にそんな感情があるものか。と思った私はなんて可愛げのない子どもであったろう。しかし今となっては、その慰めが少し気を楽にしてくれた。
 母はとうにこの世から旅立ってしまったが、まるでその魂がそのまま月に宿ったようで、私は無性に、背中を追い立てられている気がした。
 「こんなところで道草食いなさんな」と、亡き母の声が聞こえるような気さえした。

「ああ、もうひと踏ん張り、頑張るよ。無事に帰り着けたら、こんな馬鹿息子を叱ってくれ。かあちゃん……」

 和室の仏壇に立てられた小さな遺影に、最後に手を合わせたのはいつだったか。
 亡き母との思い出の月を見上げて、私は身の内に活気を湧き上がらせる。どうせ空元気であろうが、関係なかった。
 ゼリー飲料を再び口に含み、満月に背を向けて、私は片足を引きずり歩き出した。
 母の念を宿らせた満月は、どこまでも、どこまでも、私の歩みについてきた。


 ***


 空を覆う薄曇りが、早朝の光を含んで白く浮かび上がってきた頃だ。
 月はいつの間にか天上から姿を消し、私は亡霊のように前へ前へ歩みを進めるだけだった。
 比較的なだらかな道を進んでいた私の前方に、ふと、オレンジ色の人影が小さく動くのを見つけた。

「おぉーい、おぉーい」

 人影が声を上げながら、こちらに手を振っている。
 私は、ほとんど感覚の薄れた足を引きずって近づく。相手の男性も、腰辺りまで伸びた草を掻き分け、こちらへ近づいてくる。

「よく生きておられましたな。もう大丈夫ですよ」

 相手は、目立つオレンジ色のベストと帽子を身につけた初老の男性だった。胸の名札に「秋川」とある。
 秋川さんは、今にも倒れ込みそうな私に肩を貸してくれた。それから注意深く辺りに目を配り、元来た道を引き返す。
 
「私を捜してくださったのですか。あぁ、良かった、ありがとうございます」

 念の為にと入山前に登山届を提出していたのが功を奏したのだ。あれがなければ私は今頃、この秋深い低山の中でのたれ死んでいたに違いない。
 秋川さんは恐らく、民間のボランティアの方なのだろう。
 人の温もりを、息遣いを肌で感じる。助かった。そう実感すると、私は込み上げてくるものを抑えられなかった。

 秋川さんに発見された地点は、幸いなことに、入山口から目と鼻の先にある雑木林であった。
 入山口には何人かのオレンジベスト姿が集まっており、警察官の姿もある。ただ一人の捜索にここまで大掛かりな人員を割くというのも、申し訳ない限りだ。
 私は近くに設営されたパイプテントの下で、毛布に包まり温かい飲み物をいただいた。
 すっかり灰色に染まった空からは、ぽつりぽつりと小粒の雨が降り始めて、森の葉を打つその微かな雨音は、未だ興奮気味の私の心をゆっくり溶かしていった。

「落ち着きましたかな。しばらくここでお待ちください。じきに救急車が到着します」
「ありがとうございます、秋川さん。あなたは命の恩人です。なんとお礼を申し上げたらいいのか……」
「よいのです。命あっての物種ものだねですからな。我々は引き続き捜索にあたりますので、ここで失礼いたします」

 そう言うと秋川さんは、私に背を向ける。
 発見された時は気づかなかったが、彼はオレンジベストの上に、長さが20インチはありそうな、物々しい猟銃を背負っていた。

「捜索? 私の他にも、遭難者がいるのですか?」

 実際に遭難を経験した今となっては、もう他人事とは思えない。
 無事を祈りながら訊ねたが、秋川さんは予想外そうにこちらを振り返った。

「何をおっしゃいますか。くまですよ。昨夕さくゆう人里に降りた大熊が、人を襲って逃げたのです。この山に」
「え?」

 さも当然のような声音で話すものだから、私は自分の耳を疑ってしまった。

「熊? この山に、いるんですか?」
「そりゃあ山ですからな。いて不思議はありません。しかし貴方は一晩さまよったというのに、よく遭遇しませんでしたな。先ほど山中捜索で、真新しい土饅頭つちまんじゅうが見つかったそうですから、もう駄目だと思いました」
「土饅頭とは?」

 字面から何となく察しがついたが、せめて『それ』であってくれるなと、強く祈る。
 しかし無情にも、秋川さんの答えはこうだ。

「熊が食べさしの餌に、盗られないよう土や草なんかを被せて隠すのです。砂場の山のようにこんもりとした形をしています」

 それを聞いて、私の足首の怪我が急に痛みだした。
 そうだ。元はといえば散策中、『こんもりと盛り上がった土山』を無理に乗り越えようとして、バランスを崩したのが原因だ。
 あの中身が何であるかなど、今の今まで気にも留めなかったが、一度意識してしまうと、胃の腑に冷たいものを押し込まれたような息苦しさに襲われた。
 黙り込んでしまった私に、秋川さんはこれを最後の世間話にするつもりで、思い出したことを付け加えた。

「昨晩はずっと雲が掛かっておりましたから、雨に降られなかったのも幸いですな。秋とはいえ、気温が下がれば体が冷えます。いやあ、貴方は本当に運の強い方だ」
「……ご冗談でしょう。昨晩は綺麗な月夜だったではありませんか」

 妙なことを言う。私は確かにこの目で見たのだ。暗色の空に浮かんだ、煌々とした満月を。
 意外にも秋川さんは困惑する。持ち場へ戻ろうとしていた足を、すっかり私の方へ向けた。

「何かの見間違いでしょう。昨晩からここら地域一帯曇っていて、雨の予報も出ていたのです。ほら、ご覧なさい。今になってやっと雨が降ってきたでしょう」

 最初は小降りであった雨も、次第に量を増していく。体を芯から冷やしそうな雨に比例して、私の胸騒ぎはどんどん喧しさを増していった。

「では、では、私を追いかけていたあの月は……」

 その時、秋川さんの持っていた携帯電話が鳴った。
 失礼、と一言断ってから電話に出て、彼は少しの間神妙な顔で通話をしていた。
 やがて通話が終わり、携帯電話を元にしまった秋川さんは、ホッと安堵したような顔で私に言った。

「狩猟組合が熊を仕留めたそうです。体長2.5メートルに迫る巨体と、隻眼。木の上に潜んでいたところを見つけたようで。これで一安心ですな」

 2.5メートルと聞いて、私は思わず近くの木を見上げた。もし仁王立ちで襲いかかってきたら、人間なぞひとたまりもないだろう。
 それに、私の恐怖を誘ったのはもうひとつ。

「片眼が無いのですか」
「ええ、以前狩猟組合が同じ熊の駆除に乗り出した際、片目を撃ち抜いたのです」

 飢えた獣のぎらぎらとした眼。
 それが、遥か木の上から、私に狙いを定めていたとしたらどうだ。

 大熊は、有用な食料として、もしくは自分の餌を横取りしようとした人間を、『狩る』瞬間を狙っていたのやもしれん。そのために、怪我をした私をずっと背後から追いかけていたのやも。
 もし『こんもりと盛り上がった土山』に足を取られ滑落した時、目を覚ますのが遅れていたら…。
 もし、足首の怪我を見て、歩くことを諦めていたら…。
 一歩間違えれば、襲われていたのは私かもしれない。

「当時は逃げられてしまいましたが、とうとう決着がつきました。相手も生きるためとは言え、人間を襲うのはいただけません」

 無意識にぶるぶると体が震えだす。雨の寒さが容赦なく体を刺した。
 けれど、あの満月に似た瞳の光に、私は少しも恐怖を感じなかったのだ。
 もしあの瞳が…くだんの熊のものだったなら、なぜ負傷した私を襲うことなく、どこまでも付け狙うに留めたのか。
 そう、あれはまるで、亡き母が遭難した私の無事を、遥か高みからずっと見守ってくれていたように感じられたのだ。

『あんたのことが好きなのよ。だから追いかけてくるの』

「……あぁ、かあちゃん、かあちゃん、かあちゃん…」

 私はせきを切ったように、その場にうずくまって泣き出した。
 秋川さんは私の背中をさすりながら言う。

「無理もありません。ひどく怖い思いをしましたからな。ですが、もう危険な熊はおりませんよ。ご安心なさい」

 私の感情は混沌と化していた。
 一歩間違えれば確実に死んでいた恐怖。しかしそれと相反する、自分を絶望の淵から掬い上げてくれた亡き母の言葉と…月の懐かしさ。あの『月』が無ければ、私はきっと歩むことを諦めていた。当然、今ここにこうしていることもなかったのだ。

 私は、我が家で埃を被っているであろう、仏壇が恋しくなっていた。
 そこに立てられた写真の中で、朗らかに笑う母の顔を、今すぐに見たくてたまらなかった。


〈了〉
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