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第一章 サイレント・マドンナ
第四話 姉弟
しおりを挟むガレージに黄色の軽自動車を確認して家に入る。
「息吹、お帰りー」
来た。躊躇なく距離を詰めてくる。
姉さんは俺より先に帰宅した時は必ず玄関まで出迎えて抱擁してくる。俺が先に帰宅した時は部屋まで来て抱擁される。
姉さんは兎に角俺に甘い。傍から見れば溺愛していると言われても仕方がない程だ。
両親の離婚の際、姉さんは親父、俺は母さんに引き取られ俺達は別々に暮らす事となった。姉さんは月に一度、母さんと俺の住むマンションに泊りがけで遊びに来ていたが、俺が十歳小学校五年生、姉さんが十四歳中学校二年生の夏休みを最後に会いに来なくなった。
姉さんが俺に激甘になったのは俺が小学校五年生の時、母さんが病気療養の為入院することとなり、親父に引き取られ今の入間川姓を名乗るようになってからだ。親父に連れられ今住む家の玄関を跨ぐと、待っていた姉さんは泣きながら俺を抱擁した。それ以来毎日姉さんの抱擁は続いている。
俺は未だにあの日、姉さんが何故あれ程号泣したのかわからない。
「姉さん、聞きたい事がある」
「何、女の子のこと。息吹もやっと興味持つようになったのね。お姉ちゃん嬉しいよ」
抱擁する両腕に、更に力を込めて顔を摺り寄せてくる。
姉さんは底抜けに明るい。俺の前では笑顔を絶やさない。俺がどんなに冷たい態度を取っても姉さんは笑っている。どんなに罵声を浴びせても決して怒らない。
姉さんは常に俺を最優先に考える。風邪を引いた時も、大学受験の時も、俺の食事が用意されていなかったことは一度もない。
俺が心配で高校の修学旅行に行かないと言い出した時は親父と説得するのに随分と苦労した。なんとか説得には成功したが、旅立つ朝も俺の朝食は用意されていた。
「いや、そうじゃない。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部について聞きたいんだ」
「・・・そっか・・・うん、わかった。じゃあ珈琲入れて息吹の部屋に行くから、着替えておいで」
やっと抱擁から開放され姉さんはキッチンへ、俺は自室へと向かった。
洋間八畳の俺の部屋はいつも清潔に保たれている。姉さんは俺の部屋の掃除を欠かさない。脱ぎ散らかした服はいつの間にか洗濯され、綺麗に折りたたまれてクローゼットに戻ってくる。ゴミ箱に捨てたゴミは翌日には全てなくなっている。
コン、コン
俺が部屋着に着替え終わった頃を見計らって姉さんがドアをノックする。
「息吹、入るよ」
「ああ、どうぞ」
俺が部屋に居る時、姉さんは突然ドアを開けたりしない。酔っ払って帰って来た時だけは例外で、寝ている俺のベッドに潜り込んできて顔を嘗め回すようにキスをしてくる。そんな時は問答無用で叩き出すが、翌日にはケロッとした顔で抱擁してくる。
大学の付き合いで飲みにいく時でも、一度家に帰ってきて俺の食事を用意し、どんなに二日酔いでも翌朝俺の食事は用意されている。
高校の修学旅行以来、姉さんが外泊したのは一度もない。
「今日ジジイに、姉さんもあの部の部員だったって聞いたよ」
「うん・・・お爺ちゃんに無理やりね」
俺と同じだ。俺の前では常に明るい姉さんが、あの薄暗い部屋で高校三年間を過ごしたなんて想像できない。
姉さんが淹れてくれた珈琲を一口啜り、話を続ける。
「数日前あの部屋に、初めて俺以外の生徒が来た」
「・・・・・・・そっか」
姉さんは俺の前では笑顔を絶やさない。
だが、その殆どは作り物だ。
「姉さんがあの部屋に居たときに来訪した生徒は・・・」
「居たよ。四人・・・」
姉さんは俺の前では笑顔を絶やさない。
だが、それは外面だけであって内面とは乖離している。
「その内、何か問題を抱えていた生徒は何人」
「・・・・・・・全員」
姉さんは俺の前では笑顔を絶やさない。
俺が居ない時、姉さんはどんな顔をしているのだろう。
「その人達の問題は解決出来た」
「みんな元気でやっている。でも、問題が本当に解決したかはわからない。心の傷が癒えたかは本人にしかわからないよ。ううん・・・心に負った傷が完全に癒える事は無いと思う・・・みんな傷を負ったまま、それでも前に進もうと思ってくれたんじゃないかな」
姉さんは俺の前では笑顔を絶やさない。
今、こんな話をしている時でも俺の前では暗い顔をしない。
「俺は、救いたい」
「息吹ならそう思うだろうね・・・血の繋がった姉弟だから・・・・仕方ない」
姉さんは俺の前では笑顔を絶やさない。
心に傷を負っているのに・・・その原因は、きっと俺だ。
「救いたい。守りたい。だけど方法がわからないんだ」
「それは私にもわからないよ。私がアドバイスしてあげられるのは、どんなに相手にされなくても、どんなに拒絶されても、見ていてあげる、気にしいてあげる、傍にいてあげるってことぐらい。そこから解決方法を見出すしかないと思う」
姉さんは俺の前では笑顔を絶やさない。
だから、俺は姉さんが苦手だ。俺の前ではいつも無理をしているから。
「色々聞かせてくれてありがとう。もう一度よく考えてみるよ」
「うん、慎重にね。息吹なら出来るよ。息吹なら・・・」
姉さんは俺の前で笑顔を絶やさない。
その姉さんを、俺はいつか裏切ることになる。
何も言ってはくれないが、姉さんは俺に負い目を感じている。
母さんの許に返したくない一心で、俺に尽くしている。
だが、その努力は報われない。
俺は母さんの復帰を心待ちにしている。
母さんのもとに帰りたい。
母さんと一緒に暮らしたい。
母さんには俺が必要で、俺には母さんが必要だ。
姉さんがどんなに俺を愛してくれても、俺は母さんの傍に居たい。
だから、俺はいつか・・・姉さんを裏切る。
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