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パンイチ ◆ルイ
しおりを挟む狭いテーブルの上に並べられたのは、大根と豆腐の味噌汁、目玉焼き、ウィンナー、それとご飯。
真木はこれらを配膳し「先に食べてて」と言い、僕の尻に塗る軟膏を買いにドラッグストアへと向かった。
松田のメッセージや日付のことなど、気になることはあったが真木の作ってくれたご飯に心を奪われた僕は急いで服を着て、無心で箸を口に運んだ。
美味しくて、思わず涙が出た。
卵とウィンナーは焼いただけ、味噌汁は溶かすだけのだし入り味噌を使っていて、ご飯は炊きたてじゃなくて冷凍をレンジで温めたもの。
それでも、真木の手作りご飯は今まで食べた料理の中で一番美味しく感じた。
今まで僕が真木に料理を作ってあげたことは何度かあった。
真木のバイトが終わる頃を見計らって『夕食を作りすぎたから』と言って隣の部屋に料理を届けた。
真木は『ラッキー、ちょうど腹減ってたんだよ』なんて言って僕の作ったものを美味しそうに食べてくれた。
その時も嬉しかったが、今も凄く嬉しい。
満腹と幸福感で呆けつつも、自分の使った食器を洗った。
そこで食器が増えていることに気付いた。
この部屋には食器棚なんてものはない。
食器は水切りカゴに入れっ放しなのだが、その水切りカゴの中に見慣れない皿数枚と味噌汁椀、真木愛用のマグカップとご飯茶碗が増えていた。
そして見慣れない鍋つかみが冷蔵庫に付けられたマグネットフックに引っ掛けられていて、その横にはスーパーのレシートも貼り付けられている。割引券が付いているから取って置いているのだろう。すごく生活感が出ている。
それらはあまりにも自然にその場所に収まっていて、昨日今日始めた同棲じゃないみたいだな。という感想を持った。
昨日今日じゃなければどれくらいだろう。少し考えて9月13日という日付が頭を過った。
ちょうど二ヶ月。
僕は流しの傍の壁に貼り付けてある鏡を見た。前髪を結ったおでこ丸出しの自分が映っている。後ろやサイドの髪は記憶よりも伸びていた。2、3センチほど。
次に居室に戻りテレビを点けザッピングをした。ほとんどが朝の情報番組だ。他国の大統領選の話や、芸能人の結婚、パンダの赤ちゃん……。自分には興味の無い情報で溢れている。
テレビを消して自分のスマホを手に取る。
開いたままだったメッセージアプリの松田とのやり取りを遡ると、覚えのないものがあった。
それはどれも僕の命日以降のものだった。
8月の半ばまでは気になるメッセージはなかった。いつも通りの独り言みたいな文章がぽつりぽつりと届いていた。僕の返信は無い。
だが、8月末からメッセージのやり取りは頻繁になっていた。
内容は僕の体調を気遣うものだったり、今しがた届いたような昔の写真だったり。
『なんか思い出せたらいいな』
『記憶があっても無くても俺らはダチだ。なんかあったら頼れよ』
この文章の意味とは――
僕は死んだのではなく、今日まで二ヶ月間、記憶喪失になっていたのではないだろうか。そして今度は記憶喪失中の記憶を失くしている。
僕にはもう一人同じ高校だった友人がいる。そいつとのメッセージのやり取りも調べたが似たような流れになっていた。どうやら二人と僕は記憶喪失中に一度会っているらしい。
記憶喪失説は自分の中で間違いないものとして認識された。しかし、もう一つくらい何か確信を得たくてスマホを弄り続けていた。すると一本の動画を見付けた。
僕らしき人物が真木を撮った動画で、撮ったのは最近のようだ。
真木はパンツだけを履いた状態で布団の上で胡座をかいて、こちらを見ている。
『もー、撮んなって』
『どうして?』
『パンイチは恥ずかしいだろうが』
『パンイチ?』
『パンツ一枚しか履いてないってこと。今の俺みたいに』
『パンイチでも真木君はかっこいいよ』
『ハイハイ、それ、保存すんなよ?』
『ダメ?』
『だーめ』
真木の手が伸びてきてそこで動画は終了していた。これが残っているということは、消したつもりが保存を押してしまっていたのだろう。
覚えが無いのが悔しいくらいの動画だった。
真木の纏う空気が優しくて、『僕』は真木に受け止めてもらえるのが当然のように甘えている。僕なら絶対に言えないことを『僕』は口に出来ていた。
――羨ましい。
記憶が戻ったのは喜ばしい。
第一、死んでいなかったことがわかったのだから大喜びすべきだ。それはわかってるし、単純に嬉しくはある。
でも、記憶喪失中の記憶が無いことが不安だった。
僕は「記憶が戻った!」と真木に言っていいのだろうか。
僕が記憶を失くさなければ、こんな関係にはなれていなかっただろう。
きっと真木は記憶喪失になった僕を不憫に思って面倒を見てくれていたのだろう。その生活の中で何かが作用して僕と体の関係を持つようになった。
とすれば、記憶が戻ったことを知れば、二人の関係はどうなってしまうのか。
予定通りに距離を取られてしまうのか、このまま僕を恋人のように扱ってくれるのか。
――いっそ、記憶喪失の振りをしてしまおうか。そうすれば、真木が離れていくことはない…?
と、そこまで考えて、真木が今、何をしに出掛けているのかを思い出して自己嫌悪に陥った。
真木は僕の為に軟膏を買いに行ってくれている。
朝食も作ってくれた。
おそらく僕が記憶喪失になってからずっと、こうやって面倒を見てくれていたはずだ。仕事以外に興味の無い母に代わって。
きっと沢山心配も掛けたし、記憶が戻るように尽力もしてくれていたはず。
そんな相手を欺くなんて、してはいけない。
少しすると真木がドラッグストアから戻ってきた。
「お、おかえり」
玄関で待ち構えていたら、真木は僕を見てにっこり笑って「ただいま」と返事をしてくれた。結ってある前髪を揺らすようにちょんと指で撫でるコミュニケーション付きで。
自然な仕草はまるで恋人同士のようで、幸福感で胸がきゅうと絞られるように甘く痛んだ。
決心が鈍りそうになったが、心の中で自分に喝を入れて気を持ち直した。
「……あの、僕、真木に話したいことが――」
「お? なんだ、君付け、やめたのか?」
「え、えっ、あ、うん?」
「松田達に感化されたんだな。確かに君付けはちょっとガキっぽいよな」
なんのことだか一瞬理解が遅れたが、確か動画の中の『僕』は真木のことを真木君と呼んでいた。それが急に真木、と呼び捨てたのだから引っ掛かったのだろう。
これを足掛かりに「実は…」と話そうとしたのだが、それより先に「薬塗ろうぜ」と真木に言われてしまった。話したいことがある、と言ったことは僕が『真木』と呼んだことでうやむやになってしまったようだ。
真木は買ってきた軟膏を僕の尻に塗ろうと服に手をかけてきた。
そしてパンツを剥かれ尻が露出しそうになったところで僕は真木を止めた。
「じ、じじ自分で塗れるからっ」
「そうか? じゃあ、俺は朝飯食うからな」
真木は心配そうな顔をしたが僕に軟膏を渡してくれた。
シャワーを浴びて、そのまま浴室で軟膏を塗ることにしたのだが、塗っている最中に今朝のことを思い出してしまった。
今朝、腫れを確認する為に真木にここを触られた時、性的なことなど一切考えていなかったのに声が出た。
気持ちよくて恥ずかしくて。
自分で触るのとは感覚が全然違った。
記憶は無いが、僕はもう真木と経験済みなのだ。あの触れ合いが些細なことに感じるような濃密な時間を過ごしている。
これから先、そんなチャンスが僕にあるのだろうか。
記憶が戻ったことを言わなければ確率は格段に上がるだろう。
せめてキスだけでも。
そんなことを考えてしまう自分を卑しいと思った。
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