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表情筋 ◆ルイ

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結局、記憶が戻るきっかけの話を医師とはすることにはならなかった。

二ヶ月間の記憶喪失中の記憶が全く無いことを伝えた為、前兆や、きっかけのようなものを聞いても分からないだろうと判断されたのかもしれない。
真木に対しても、外的ショックがあったかどうかの確認はあったものの、それ以上は深く追求されることはなかった。

医師が聞いてくるのならば正直に答えなければならないと覚悟していたが聞かれなくて安堵した。
看護師もいる中、赤裸々な行為を暴露するなど、僕はともかく真木にそんな思いをさせるのは申し訳ないと思っていたから。


病院での検査は一日かかった。
検査結果は異常なし。
医師に「元通り大学に通えますね」と言われホッとした。

母が休学届けを大学へ提出してしまっていたが、夏休み中ということもありまだ受理はされていなかった。
医師の診断書があればすぐに撤回が出来るようなので、診断書を直接大学へ送付してもらう手続きをした。

二ヶ月間の記憶のことは、医師からは「思い出せる日がくればいいな、くらいの気持ちでいた方が案外思い出せるかもしれませんね」というアドバイスをもらった。


僕たちは病院を後にしたのは夕方の4時半で、少し早いが夕飯を食べてからアパートに戻ることにした。

昼食は病院の売店でパンを買って食べただけだった為、二人とも腹が減っており、目に入った町中華の店に入った。

半端な時間の為か、僕たち以外に客はおらず頼んだ料理はあっという間に出てきた。
真木はレバニラ定食と餃子、僕はムースーロー定食だ。

「うわ、ルイの、うまそー」
「一口、食べる?」
「いいのか? ルイも餃子食えよ」

真木は卵とキクラゲと豚肉をバランスよく箸で掴むと白米の上にのせ、白米ごと口に運んだ。

「うまい!」

美味しいものを食べている時の真木の顔が好きだ。
咀嚼の為に動く顎や頬は力強くて生命力を感じるし、飲み込んだ後に見せる満足そうな笑顔はいつだって僕を幸せにする。

幸せな光景をじっと眺めていると、真木が箸を置いて小さく咳払いをした。
どうしたのだろうと思っていると、小さく囁かれた。

「その顔、今はやめろ」
「顔?」

自分はどんな顔をしていたのだろうと、両手で頬を包むように自分の顔に触れた。頬は熱い。店のエアコンの効きは良い。残暑のせいではないだろう。口角も上がっている。
おそらく僕は蕩けそうな顔で真木を見ていた。

完全に無自覚だった。

恥ずかしくなり無表情を作ろうと試みるが、何故かうまくいかない。
僕は何年もかけ完璧な鉄仮面を完成させていた。
どんな真木を見ても動揺しないように、クールに見えるように慎重に顔の神経をコントロール出来ていた。
それが、今はどうやっても無表情を維持できない。真木が傍に居るだけで、目尻は下がり、逆に口角は上がっていく。
考えてみれば昨日の朝から僕は感情を隠せていなかった気がする。
恥ずかしいが、焦れば焦るほど、焦った感情まで顔に出てしまう始末だった。

もしかしたらこれは、僕の死んでいる表情筋を『僕』が二ヶ月間、散々動かせ復活させた結果なのだろうか。

感情が漏れてしまうことに心もとなさを感じ、途方に暮れて真木を見ると、真木は笑いを噛み殺していた。

「……笑わないでよ」
「悪い。百面相してんのが可愛くて、つい」

可愛いに反応して、また頬がふにゃりと緩み出す。
正面に座っている真木にはその表情も見えてしまっているはずで、僕は一刻も早くここから出てせめて横並びになりたいと思いムースーローを猛スピードで食べ始めた。
今度は噛み殺せなかったのであろう真木の笑い声が聞こえたが、構ってはいられなかった。


夕飯を食べ終わり、二人揃って僕の部屋に帰ってきたのは6時半頃だった。

検査結果は異常なしで、大学に行くことも問題ないと言われた為、もしかしたら真木は自分の部屋に戻ってしまうのではないかと思っていた。しかし真木は「ただいま」と言いながらこの部屋に入った。
それが嬉しくて僕はまたニヤニヤと顔を緩ませてしまった。
最早、鉄仮面を持ち出すことは不可能で、せめて顔を見られないようにスマホをポケットから取り出して眺めた。
真木はエアコンの前に立ち、Tシャツの首もとを引っ張りパタパタと風を送り込んで涼んでいる。


9月14日。

スマホ画面の日付が目に入り、夏休みがあと3日しかないことに今更ながら気がついた。
真木に対する申し訳なさが込み上げてきた。

「あの、ごめん、真木、せっかくの夏休みだったのに」
「あー? なんだよ急に」

真木が記憶喪失の僕を引き取った経緯は真木からも医師からも聞いた。
真木は僕を放っておけなかったし『僕』も真木以外を拒絶していて、母は通常通りだった。
母はバイト代を出したようだが、それは他のバイトが出来なくなるから当たり前のことで、19歳の夏を丸ごと没収された対価に見合うとは思えない。
本当は僕からもお金を払いたいくらいだが、真木は受け取ってくれないだろう。

「僕が転んだせいで、真木にはすごく迷惑をかけた。ちゃんと謝ってなかったから。……本当にごめんなさい」

僕が頭を下げると、真木はエアコンから離れ僕のすぐ近くまでやってきた。

「いいって。別に迷惑なんて思ってねーし。バイト代だって貰ってるしな」
「時給に換算すれば雀の涙だよ」
「んなことねーよ。じゃ、逆に聞くけどルイはさ、俺が同じようなことになったら助けてくれねーの?」
「そんなワケない!!」
「だろ? だから謝んなって。それに幼くなったルイと昔に戻ったみたいに遊べて楽しかったし。それに、何より……」
「……?」

続きの言葉を待つ為に真木を見つめていると腕を掴まれて体を引き寄せられた。
太陽の香りのする胸に抱き留められ、急な触れ合いに一気に体の熱が上がった。

「ルイが生きててくれたんだから、それだけで…良かった」

真木の声は少し震えていた。

僕は転んで頭を打った。下手をすれば死んでいてもおかしくはなかった。
真木には本当に心労を掛けた。

「ごめんね、真木」
「……だから、謝んなって。でも、悪いと思ってんならさ、あと三日、俺に付き合え」
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