フェアリーテイルの終わりに

トモハシ

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フェアリーテイルの終わりに

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 その日、遥か南東の海(わだつみ)から吹いた緩やかな風は、街の気配を変えてみせたとともに、新しい季節の色付けも添えた。
 風薫る。
 そっと静かに流れ去って。
                    *
 インチキ臭い方言を話す葉巻をくわえたオジサンが、頻繁にこの公園に出没する。
 その噂は篠田琴美(しのだことみ)も前々から承知していたので、実際、当のオジサンが目の前に現れても、別段動じる気配は彼女にはなかった。
 腐ったバナナのような臭気を全身から放ち、どうしてか身なりばかりは薄汚れてはいるがスーツを着込んでいる、眼前の浮浪者風の中年男性。つまり、その出で立ちには不釣合な懐具合のよさそうな葉巻をくわえた、土褐色の肌をしたオジサンをうつらうつらと見ているだけの、少女がそこにいるだけ。
 さらに公園のベンチに座っている琴美は、すぐ側でゴミ箱から古雑誌や空き缶を漁っている、およそホームレス然としたオジサンの行為を怯む事なくむしろ凝視する。
 一方、やはり側のブランコで遊んでいた子供らは鼻をつまむジェスチャーをすると、「うわあ、何か公園がくさーくなってきた」と、わざわざ大きな声を上げ、嬉々とした様子で公園から走り去ってしまった。その声に反応してか、オジサンはやおら上半身をゴミ箱から起こすと、駆けて去っていった子供達の後ろ姿を覇気のない目で、手に持つコンビニのビニール袋とは別に薮(やぶ)睨(にら)みする。
 子供達が帰途を急ぐ夕刻の頃。公園に残っているのは琴美とオジサンのみ。傍らで文庫本を片手にベンチで読書にふける……のではなくてゴミ漁りをしているオジサンを見つめている少女の瞳と、当のオジサンの眼が重なった。オジサンはくわえていた火の灯っていない葉巻をいったん口から離すと琴美に近づいていき、
「何ね、そんなに珍しいもんかね。この風体(ふうてい)が」
 とイントネーションもたどたどしく彼女に話しかけてきた。それは荒らげた調子ではない平坦な声音。まるで感情がこもっていない。琴美はそう直感すると同時に、葉巻のオジサンは暇を持て余して誰それ構わず話しかけてくる、という情報も事前に知っていたので、特に怪訝な態度も取らず、
「そんな事ないです」
 と淡白に答えた。オジサンが発した「風体」という意味は分からずとも。彼女のびん底メガネの奥の双瞳(そうしょう)は瞬きもせず、ただ切実にオジサンの眼を捉えている。オジサンはヨレヨレの葉巻をくわえ直すと、
「だったらそんなにワイを見つめるなや。若いオナゴにそんなに見られたら照れるがや」
 と眉間の辺りをポリポリと掻きながら胡散臭い訛り声で琴美に話しかけた。琴美は目を逸らすと、
「す、すいません」
 と言ってすぐに傍らの文庫本を手に取りそれに目をやった。オジサンは葉巻をキリキリと噛みながら破顔すると、
「はは、そんな真に受けてもらっても困るべな。お嬢ちゃん、あんまり見ない顔だな。ここら辺の子か?」
 琴美は本から目を逸らすとはにかんで頷き、
「はい。最近、この辺りに、引っ越して……きました」
 とか細い声で途切れ途切れに答えた。
「ふうん、そうなんか。名前は?」
「篠田琴美、です」
「良い名前じゃの。歳は?」
「十二、あ、いえ、もうすぐ十三歳に、なります」
「ほうほう。じゃあ中学生かね?」
「はい、中学一年です」
「良い学年だの。年頃だ。お、ずいぶん厚いレンズのメガネだけど、目ぇが悪いんか?」
「はい。両方とも視力が0.1以下なんです」
「良いメガネでのぉ。コンタクトじゃない所にこだわりを感じるわい。うんうん」
 オジサンは一人頷首(がんしゅ)し満足げ。
 噂通りのインチキ臭い口調に、いちいち「良い」という形容詞を交えて、琴美の答えに応じるオジサン。一方、オジサンが喋るたびに饐えたような口臭が琴美の鼻を掠るが、その意味不明にも「良い」という冠言葉を添えて返してくれるオジサンに、彼女は疎ましい感を抱かなかった。
 草むしりを手抜きしたような中途半端な顎鬚をオジサンは撫でながら、黄色いシミが点在するくたびれた青白のストライプのワイシャツの胸ポケットに葉巻を突っ込んだ。胸ポケットには他にも数本の古びた葉巻が入っている。
「タバコ、吸わないんですか?」
 と琴美は言うと一度本をベンチに置き、俯きがちにオジサンの胸ポケットを指差した。
「ん? ああ、葉巻ね。こいつらはもうシケちゃって火が点かないんよ」
「だったら持っていても仕方ないんじゃありませんか」
「お嬢ちゃん。男っていう生き物は見栄を張っていかなきゃならんのだよ。ダンディズムってヤツをハートに孕ませてさ。マッカーサーやチャーチルも葉巻を愛用していたべ」
 オジサンは自らの心臓辺りを叩いて言った。ちょうどその部分に葉巻が入っている胸ポケットがある。
「んでな、葉巻ちゅうのはワイにとっての男の嗜みなんや。吸える、吸えないの実用的な問題とはちゃうんやで。男はよい葉巻を吸うと心が和み、女は思い切り泣くと心が和むっちゅう言葉があるけど、男はいくら落ちぶれてもスタイルは大事にせにゃいかん。そう、ポリシーってヤツやな、アンダースタン? あ、まだお嬢ちゃんにはこんな難しい話分からんか」
 琴美は下唇をかみ締めながら首を傾げた。オジサンは金歯の前歯をむき出しニヤリと笑うと、
「ええって、ええって。まだ嬢ちゃんぐらいの年頃の子は、オッチャンの言うような難しい事は分からんでエエ。ただ男っていうのは生き様にこだわる輩(やから)だっていうのを覚えとってくれたらエエ。そや、男とは性別ではない、言わば職業なんや。男という仕事をこなす職人なんや。そこん所だけはお嬢のハートに刻んでおいてくれや。今後の嬢ちゃんの男の捉え方にも参考になるしな」
 オジサンは独り合点よろしく語ってはみせたが、琴美は余計分からなくなり、苦笑いして誤魔化しがちに頷いた。オジサンは興が乗ってきたのか、だらしなく首に垂らしていただけのネクタイを締め直すと、さらに一歩琴美に近づき、
「隣に座ってもよろしいか?」
 と明快な声で、一方で琴美の機嫌を窺うように尋ねてきた。冗舌な割にはどこか遠慮がち。また、相手の目をいちいち覗きこむ神経質なオジサンの語りに、琴美は奇妙な親近感を寄せ始めていた。
「どうぞ」
「エエんか。オッチャンの事を嬢ちゃんは怖がらないんか?」
「怖いんですか?」
「そんなの本人に言わすがな。まいったな、お嬢には」
 オジサンは決まりが悪そうに鼻の頭を掻き、
「そやな、オッチャンは怖くはないけど……クサいべ、ニオうべ。イヤじゃないかい?」
「別に気にしてないです」
 琴美が即答すると、オジサンは目頭を押さえ、
「かあっ、お嬢ちゃんは良い子やなあ」
 と感極まったポーズを大仰に取った。だが、そんなオジサンの様子とは裏腹に、その台詞をしても相変わらず感情がこもってない語調。声に抑揚がない。琴美はオジサンの喋り方に様々な食い違いを覚える。もっともそれらを踏まえた上で、琴美はオジサンに好感を持ち始めているのだが。
 琴美は腰をずらすとベンチの空きを広げ、オジサンに着席を促した。オジサンは「あ、どうも」と素の発音で、申し訳なさそうに一言呟くと琴美の横に座った。するとオジサンは気まずい感じに眉間を掻く。
 やたらと眉の方に指を持っていくけど、クセなのかな?
 と琴美は察し目を細めた。
 片やオジサンは咳払いを一つした後、
「いやあ、今日も一日中空き缶拾いと新聞や雑誌集めで肉体労働をこなしたから、肩こって、腰こって、足こって。この辺りは住宅街でダンボールには恵まれてないから、なかなか一日の収入が千円に満たないんだべ。最近じゃスーパーとかコンビニでもうるさいから、どうにもまとまったモノが取れなくてさ。工場とかが近くにあったらまた話が変わってくるんだけどな。いやな、以前はこの辺り、倉庫とか印刷工場がたくさんあってのお」
 と先ほどまでの胡乱(うろん)な訛りを交えつつ滑舌よく話し始めた。琴美はそんなオジサンを不思議そうに眺めながらも、その目の中に彼を疑うような色は持っていなかった。ただ純粋にオジサンの語りに耳を傾けているだけ。
「ホンマ、この辺りは最近になって立派な集合住宅に変わっちまったぞい。一頃の前は若いファミリーなんぞあまりおらんかったよ。お嬢ちゃんのパパ、ママは幾つだべ?」
「二人とも、えーと、三十八歳です」
「やっぱり若い。昔はここら一帯、工場だけでなく古い公営住宅もたくさん並んでおって、身寄りのない年寄りばっか住んでおった。それもお金がない人らばっかや。公営住宅に住むっちゅうのは稼ぎが制限されていてな、あんまり儲かっていると住めないんや」
「どうしてですか?」
「オッチャンは知らん。そういう法律なんや。だから収入、まあ、お金がその決まり事以上にあるとダメなんや。例えば親と子が一緒に住んでいて、その子が学校を卒業して働き出すと、その分お金が入る。そうしたら法律で決められた一家で稼いでよいお金を超えてしまった。となるとその子は家を出る。んで若い連中はいなくなる。そんな具合で年寄りばかりが増えていったんや。それでも家族がどっかにいるジッチャン、バッチャンは幸せかも知れん。身寄りがないモンに比べれば」
「そう、なんですか」
 いまいち的を射ない表情を浮かべる琴美。一方でオジサンは深いため息を交えながら語る。
「それに公営住宅っちゅうのは建物が古くなれば古くなるほど家賃が安くなってな。それもあってお金がない人らにとってはなかなか抜けられん。逆にそんな古くなった建物に若い家族は寄りつかんよ。今日日(きょうび)の若者はオシャレさもこだわるからの。そんなこんなで都会の過疎化みたいなおかしな現象が起こって、老人の孤独死なんかもあっての。そう、限界集落やったな。そういった問題を踏まえて行政が促したかどうか知らんが、何処ぞの企業が入ってきてビシビシと値段もそこそこのマンションを乱立させてのお。まあ、そのおかげで嬢ちゃんトコのような若夫婦も来るようになって、賑やかにはなったんやが、追いやられた人らもおったし。ワイも何か仲間がいなくなったようで寂しい気になったのお」
「は、はあ」
 メガネのテンプルを上げたり下げたりする事に勤しみ、あからさまに複雑な面持ちになる琴美。かたや瞬き一つせず喋るオジサンの声色は、ドキュメンタリー調のナレーションのようにシリアスになっていく。
 カソカ? コドクシ? ゲンカイシュウラク? ギョウセイ? 
 自分の知らない単語が徐々に増え始め、さらにオジサンが話している内容が分からなくなった琴美は腕を組んで唸り出した。するとオジサンは急に自らの額を大げさに叩き、
「あっちゃあ、すまんね、嬢ちゃん。お嬢の幼いピュアなハートも考えず、こんな小難しい大人の理屈をごねちまって。でも、お嬢ちゃんも聞き上手やわ。ついつい、オッチャンに長話させて。憎いで、コノコノ」
 一人無邪気に突っ込みを入れるオジサン。琴美はリアクションに困り、とりあえず困り笑顔。
「ん? 何だ、嬢ちゃん。本なんか読んでるのか」
 オジサンは一頻り喋ると溜飲を下げたのか、琴美の傍らに置いてある包装紙のカバーが覆った文庫本に気づいて指摘した。
「え、ええ、まあ」
「若い連中の活字離れが進んでいる昨今にしては殊勝な心がけや。さすがお嬢。んで、何を読んどるん?」
「星の王子さま、です」
「お、サン=テグジュペリやな。良い本を読んどるな、嬢ちゃん。良いセンスをしてる。うんうん」
「知ってるんですか?」
「当然やがな。こう見えても若い頃はオッチャン、文学青年やったんやで。お嬢も本を読むのが好きなんか?」
 オジサンにそう質問されると琴美は、どうしてか突然体をビクっと震わせて、
「あ、いえ、そんなことはありません。そういんじゃないんです」
 と言い訳するように顔を紅潮させて答えた。オジサンはそんな琴美の様子に唇を尖らせて訝しげに見つめたが、琴美は口を真一文字にして俯いてしまった。そして、彼女はしばらくダンマリを決め込んだ後、
「夜空とか、宇宙とかが、私、好きなんです」
 と軟風に揺れる蝋燭の灯のような頼りない声で呟いた。さらに、
「特に、星、が好きなんです」
 と弱々しい響きの言葉を添えて。
 オジサンはポン、と手を叩くと、
「あいや、とことんお嬢ちゃんとワイは話が合うなあ。ワイも昔は望遠鏡を担いで天体観測なんかしたりしてな。宇宙、星空が大好物やねん。そうか、お嬢は一見文系少女に見えるけど、実は理系少女の一面もあるんやな。星の王子さまはSF小説か何かと勘違いしたんか。まあ、SFちゅーたら、SFかも知れんが」
「SF小説なんですか?」
「何だ、嬢ちゃん。まだ読んでいないんか」
「はい、まだ最初の方しか」
「じゃあ、本の話はできんし、お互い本について語る事もできんな。ワイが先に内容を教えちまったら、気抜けしたビールや。読むウマ味がなくなるべ。だったらワイと宇宙やら科学についての事でも……」
 啖呵売りのように歯切れの良いオジサンの喋りが突然止まった。オジサンの目線が琴美の頭上の空に向いている。
「月や」
 オジサンがポツリと呟くと、琴美は振り返り上空を見つめた。澄んだ夜空の中、十六夜の月が煌々と浮いている。オジサンは膝を一つ叩くと立ち上がり、
「よっしゃ、今日はここまでや。遅くなったらお嬢ちゃん所の家族が心配するさかいな。はよ帰り」
「はい」
「うん、良い返事や。素直な子やな、お嬢は。本も忘れずに持って帰り」
 オジサンはそう言うとその場から立ち去ろうとした。琴美は文庫本を片手に徐に立ち上がると、お尻を軽くはたきオジサンの背に話しかけた。
「あの」
 オジサンは歩みを止めて顔だけ後ろに向けた。
「何だべ、嬢ちゃん」
「また会えますか?」
「そやな、寂しくなったら口笛を吹きいな。そしたらオッチャンと会えるかもよ」
「私、口笛が吹けないんです」
 真顔で答える琴美。オジサンは吹き出して、
「はは、そんな真剣に答えるなや。オッチャンはボチボチこの公園に来るさかい。この時季ならたいてい夕方はここにおるよ」
 オジサンは再び歩き始めると、琴美の方を振り返る事なく背を向けたまま、片腕だけをトレヴィの泉にコインを投げるように上げ、それを別れの合図とした。再び帰ってくる。そんな意を込めて。
 一方、遥か西の空に広がる飴細工を溶かしたような黄昏を背景に、肩で風を切って去っていくオジサンの後ろ姿は、どこか力なく儚げに琴美には映った。
                    *
 後背湿地の地形に則った高層団地が立ち並ぶこの街に、篠田琴美が引っ越してきた日と、彼女が初潮をしたその日が重なったのは、もちろん何の因果関係もなかった。
 当時は琴美自身も深く勘ぐる事もなく、女子の成長過程の生理現象の一つとして、考えていたが、環境の変化が少なからず肉体の方にも影響を及ぼしたのではないか、とも翻って推し量る部分があった。
 ただその頃、街路や緑地で咲き誇っていた桜に対して、必要以上にヒステリックになっていた自分がいた事だけは、しっかりと記憶している。無造作に薄桃色が散らばっているそれらバラ科の木々に理由もなく苛立っていたことを。
 自分自身、複雑な感慨に琴美は囚われながら、教室の窓からすっかりと花を散らした校庭の桜木を所在無く今は見つめていた。色を失ったそれらは冬の佇まいさえ感じさせ、五月晴れの青天の下でも寂寥を覚える。むしろコントラストとなって物悲しさが際立つ印象を受ける。
 晴れ渡った青空でも禿げた木の寂しい雰囲気は誤魔化せない。
 琴美はそう思いつつも、ぽつねんと教室の隅に自分がいる状況を濁すために、本を手に取った。昼休みの優雅な有閑の過ごし方として。
 だが、苛立ち、というか何処か心が落ち着かない。それは再び巡ってきた月経のためか。着慣れぬサニタリーショーツのフィット感がそうさせるのか。
 違う、と思う。
 琴美は直感する。この胸のざわめき。ハンモックに揺らされているような、心地よい精神の踊りの依拠。それは窓際、琴美の席より二つ前の席に座る少年の風姿(ふうし)。先ほどクラスメイトに「おい、外でサッカーしようぜ」と誘われたにも関わらず、「今日は本を読む日だから、ゴメン」とすまなそうな面持ちで言ってスマートに断り、諍いなく場を過ごした彼、星(ほし)清一郎(せいいちろう)のせい。クラスメイトは「ちぇっ、星はブンガクが好きなんだもんな」と皮肉っぽく言っては見せたが、特に気持ちを害した気配なく去っていった。星清一郎による拒否をやんわりと示し、それをうまくいなす姿勢によって。
 私もあんな風に上手に人付き合いが出来ればな。
 同じ時期、共に転入してきた者同士として見習わなければならない。琴美は星の巧みな処世術、というか身から醸し出す温かなオーラを羨ましく思った。
 星は近隣の街から。琴美は地方を隔てた寂れた都市から。共に中学一年の一学期が始まった頃に転入してきた。小学校から中学校へ。児童から生徒へ。皆が皆、学校や学年の総入れ替え期。そのような中の転入だからすぐに友達の輪に入れるだろうと琴美は決め込んでいたが、ほとんどのクラスメイトは小学校からの連れ合い。各々の小学校グループから人脈は形成し、他所者の琴美はうまく入り込めず孤立してしまった。
 だが、星は琴美とは違った。
 すぐに皆と馴染んでしまった。気さくに周りに話しかけ、それでいて聞き上手でもある。。まるで昔からいるクラスメイトのように馴染んでいった。りんごジュースがリトマス試験紙を赤色に染めるように、自然と。
 まるで昔からみんなと友達でいるみたい。
 琴美は怪訝な思い半分と妬みの気持ち半分で星を見ていた。だが、皆に接する際の柔和な態度、当たり障りのない口利き。そして、平素は端正な面持ちだが、笑うとパグ犬のようにクシャっとした顔になるギャップの差。それが彼の愛敬のある所となるのかな、とも彼女は慮(おもんばか)り始めていた。常に落ち着きがある。以前、琴美は自分の母親から、星は基本的に女手一つで育てられた、と聞かされていた。
 だからしっかりしているのかしら?
 琴美は穿って考えてみた。大人っぽい印象はそんな家庭環境に影響があるのでは、と。兎に角、他の男子らとは一線を画した感がある。実際、ステンドグラス画のような静かな佇まいを見せ、かつ印象派の絵のような躍動感を併せ持つ星清一郎に、黄色い声を送る女生徒は少なからずいる。他の男子達と精力的にサッカーやバスケット・ボールに興じる一方、時折教室の窓際で一人読書にふけるスタティックなその姿に、年頃の彼女らはトキメキを覚えていた。
 私もその一人なのかな。
 胸の内で琴美は自分に相談する。遅ればせながらやって来た初恋という感情の確認をするために。びん底メガネを通して見た、肉体の一部である目では分からない。心眼。それを駆使して意識を探る。トクトク、と鼓動の高鳴りを自覚する琴美は、きっとそうなんだろう、とあっさり納得する。
 だって私が星の王子さまを読んでいるのは、星君が読んでいたから。
 琴美は微かに頬を紅潮させ手元の文庫本、星の王子さまのページを捲る。目線は星の後背に向けたまま。琴美が傍から覗くに、今はどうやら星は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んでいるようだが、つい最近までは彼はテグジュペリの星の王子さまを読んでいた。
 星君が星の王子さまを読むってダジャレ? と当初は妙な勘ぐりをしていた琴美だったが、今では彼の後を倣うようにそれを読んでいる。それは多分、星君と話すキッカケが欲しいから? 琴美は自問する。そして、やっぱり星君の事が好きなんだろうな、と他人事のように自答する。
 奇妙な距離間のある自己の対話は戸惑いのせい。
 月経の濃い赤と、初恋の淡い紅が琴美の中で交錯する。
 琴美の視線は相変わらず星の方に向いたまま。遅々として読書は進まない。目は泳ぎ、心は揺らぐ。文庫本を持つ指も微かに震える。待ち針を薬指に刺したかのような、チクリとした感傷気分に浸っているのは、自分と星が昼下がりの教室で二人きりの状況にあるからか。
 それは、否。
 二人きりじゃない。
 琴美は急に我に返り廊下側の後方の席を一瞥した。尖った視線を投げかける女子の一団がいる。特に厳しい眼光を放っているのは、その群れの中でただ一人席に座らず腕を組み、中学生ながら姉御肌的な雰囲気を醸す細川(ほそかわ)恵理子(えりこ)。アイブロウペンで整えたキリっとした眉毛が、艶かしさとともに鋭利な刃物をも連想させる大人びた彼女。
 琴美は思い出す。
 つい先日の昼休み教室で一人所在無さげに読書している琴美の元にツカツカと足音を立ててやってきた恵理子の一言を。一緒に遊ばない? という台詞を投げかけられるかも知れない。そう期待した琴美の思いを容易に裏切った彼女の所作を。
「ねえ、篠田さん」
「は、はい?」
「あなた最近昼休みに一人で本とか読んでるけど、ソレってズルくない?」
「え?」
「ホントは星君が目当てなんでしょ。今日は星君、外でサッカーしているけど、たまに星君も昼休みに教室で本を読んでるから、それを狙って篠田さんも読書してるんでしょ。分かってるんだから。でもズルくない、ソレって」
「え?」
 自己紹介もロクにしてない間柄に飛び出した、突然の「ズルくない?」発言に戸惑う琴美。とはいえかなりストレートな敵意だけは掴めた。何か私、嫌われているぞ、と。
 恵理子らの間では密かに星清一郎のファンクラブ的会合が営まれ、彼女らのルールによると勝手にフライングして星清一郎に近づかない、という規約があるとのこと。彼女らから見れば教室の昼休みの空間で星と同一の行為、つまり読書をするという事は戦犯モノの不敬罪になるらしい。そんな暗黙の決まりを知らない琴美は恵理子らの反感を買った。ついでに琴美が星と同時期に転入してきた「つながり」的な部分もその対象になっていた。それは琴美の所為ではないのだが。
 昼休みに私が読書をしようが何をしようが勝手じゃない。
 無論、その言辞(げんじ)は胸の内の台詞。その場では特に強気に言い返す事も無く、謝る由縁はないのだが、琴美は「ごめん」と曖昧に答えるのみだった。ただ実際、昼休みに教室で読書をしている理由としては、遊ぶ友達、話せる友達がいないこと、だけではなく星がこの時間、この場所にいる事実が大きい。それは琴美自身も認めている事なので全否定はできない。
「まあ、イイけどさ」
 と捨て台詞を吐いて踵を返して去って行った時に揺れた、ポニーテールの恵理子の髪が琴美の印象に強く残っている。以来、ポニーテールの髪型の女性の後ろ姿を見るとビクっとするほど。兎にも角にも、その日から自分がクラスで孤立している原因が、引っ込み思案の性格の他にまた存在する事を、琴美は知らされる羽目になった。事実、恵理子のグループは今日も定期的に、小姑が嫁を睨みつけるような冷たい視線を琴美に浴びせている。仲間内で昨晩のTVドラマの話題でさえずっている合間、チラリと瞥見して琴美の方をけん制する。そのような具合で。
 星の背を茫然と眺めていた琴美は条件反射的に視線を本に向けて、ただ純粋に読書をしているポーズを繕った。だが、星と同一の空間にいる時点で彼女らのやっかみの目がある。それに琴美は気づくと文庫本を持って、肉食動物に狙われた草食動物よろしく、おずおずと教室の前方の出入り口から去っていった。琴美が教室から一度去ると、ひそひそ話気味だった彼女らの声が俄然大きくなり、周りを気兼ねする事のない主婦達の井戸端会議に似たかしましさに転じた。
 琴美は、これからは何処で読書をしようかな? と瑣末な悩みを抱えつつ、昼休みも終わりに近づいた人気のない廊下を、当て所もなく歩いていた。
 
 放課後。多くの生徒は終礼後、三々五々教室から出て行き部活動へと励む。何のクラブにも入っていない琴美は、授業が終わったらただ帰宅するだけ。担任の教師からも母親からも、部活動をした方が友達も増えるから、と勧められたのだが、琴美は元来の内気な性分もあり、頑なになって人の輪に溶け込む事が出来なかった。ただでさえ転入生の身で友達がいないのだから、こちらから積極的にコミュニケーションをとらないと、と琴美も焦れてはいるのだが、逆に外様意識が増すばかりで人付き合いに怖気づく始末。
 これじゃダメなんだよね。
 琴美は省みつつも頬杖をつき、部活の準備に精力的な周りのクラスメイトを無聊に眺める。琴美が深い嘆息を吐き一人帰ろうとすると、その横を体育着とジャージに着替えた星が、得意気に口笛を吹いて通り過ぎていった。
 あ、『虹の彼方に(オーバー・ザ・レインボー)』だ。
 さり気無く星が皮笛(かわぶえ)したそのメロディは、オズの魔法使いの劇中歌の「オーバー・ザ・レインボー」だった。星の奏でた音色は明快でせせらぎのように聞こえた。自然と琴美の視線は星の背を追う。星はクラスメイトの同じ部活の男子にヘッドロックをかけられ、「今日の紅白戦は負けねーからな」と絡まれつつ和気あいあいと教室を出て行った。
 星君、サッカー部に入ったんだよね。
 不意に琴美はグランドでサッカーに興じるユニフォーム姿の星を見たくなった。校庭の芝生の丘陵から体育館座りをして、星がサッカーボールを追う姿を眺めたいという衝動に駆られた。だが、すぐにその気持ちを払拭する。もしそんな所を見られたら恵理子達からどんな仕打ちを受けるか。それを危惧したから。彼女らが常に琴美の一挙一動を監視している訳ではないが、いつ何処で難癖をつけられるかは分からない。特に恵理子はソフトボール部だから星と同じグランドでの部活。ただでさえクラスの女子のグループから村八分を受けている感が否めない琴美は、細心の注意を払って星と接しなければならないと自覚する。恐らく女子グループのヒエラルキーの頂点に君臨するだろう恵理子のご機嫌を窺わなければならない事も含めて。
 琴美はその幼い体躯の張りには似合わない、満員電車帰りのOLの溜め息のようなそれを吐くと、屋内活動、屋外活動、それぞれの部活に励む生徒達とすれ違いながら、校門をくぐり学校を後にした。耳にそよいだ星の口笛を小さな胸に刻んで。
 琴美は暗渠(あんきょ)された小道を一人、制服のスカートを軽やかになびかせ歩を進める。いわばこの通りは知る人ぞ知る裏道。この街に引っ越してからだいぶ時も経ち、生来方向オンチの琴美にも土地勘が備わってきた。学校から家までのショートカットのルートや、路地裏の野良猫出没スポット。くすんだ気分を和ませてくれるコリンゴの並木道に、商店街のおいしいお饅頭屋さん等々。この街の風景と自分が同化していく錯覚、いや、同化していきたいという請う思いを琴美は抱く。
 だが、琴美が住むニュータウンの様相を呈した集合住宅地。今まで住んでいた父親の社員寮のアパートより、格段のグレードアップをした快適空間であるにもかかわらず、高山病のような息苦しさを琴美は時に覚える。新しい街の奇妙な異質さに対して、風邪気味にも似た身震いを時に起こす。
 それはまだ私がこの街に住み慣れていないため?
 琴美はそのように忖度してみるが、人が密集しつつもそれに反比例するかのように、地域の関係性が薄く感じるのも事実。
 いえ、人が多いからこそ逆にそうなるのね。
 人口密集もまばらな都邑(とゆう)の僻地から、冷めた殷賑に涌くこの郊外の街に越してきた琴美は、自分なりの都市批評をもって現代社会にメスを入れてみた。一人得心した様子の琴美、だったのだが小道のT字路の突き当たりに差し掛かると、どうしてか立ち止まった。右に進めば我が家への帰宅路。しかし、すぐに家に帰る事に琴美は躊躇を覚える。三人家族にして冬はコタツも窮屈な手狭な社員アパートから、薄型プラズマ・テレビが入るぐらいの広壮な団地型マンションに変わったにも関わらず。
 父の会社の都合による引越し。今住んでいるマンションの方が、以前暮らしていた会社のアパートよりも間取りが広く、設備も快適なのだが父は不満げだった。普段は温厚な琴美の父。だが、引っ越して以来会社から帰る時間が早くなり、時折家であまり飲めない酒をあおるようになった。その際によく琴美は父親から「マドギワゾク」やら「サセン」やらと、彼女には聞きなれない単語の愚痴を耳にする。「まったく、体(てい)の良い厄介払いだよ」と日本酒片手に自虐的に零す父の姿を見ていると、琴美はやり切れない気持ちになる。小さな胸が痛くなる。ほろ酔いの父の声は決して荒らげた調子ではない。だが、側で晩酌する母親の苦笑いがどうにも琴美には痛々しく映る。
 引っ越してきてからの妙な息苦しさは周囲の環境だけが原因ではなく、すぐ身近な自分の状況の変化にもあるかも知れない。少なくとも笑顔の団欒は前に住んでいた、駅も国道もコンビニにも不便だったユニットバスの住処の頃の方が多かった、と琴美はつい最近までの生活を、懐かしい夏の思い出を探るように顧みる。
「ちょっと寄り道しようかな」
 誰にでもなく琴美は呟くと左手へと進んだ。
 件(くだん)のオジサンのいる公園へ。
 家に長く居る事に気まずさを予感し、それを紛らわす為に訪れた公園。言わば気まぐれにやって来た公園。むしろ公園に行くという目的に、気まぐれ以外の何かを求める方が難しい。ふらりとやって来てはそぞろに去っていく場所。それが公園というもの。しかし、琴美は公園の入り口の前で立ち尽くす。腕を組み、顎を擦って非生産的にも哲学に耽ってみる。何故、私は真っ直ぐ家には帰らずこの公園に寄る事を選んだか? 家にすぐ帰るのが嫌なだけが本当の理由なのか? 数秒後、時待たずしてその答えは出た。
 家に帰るのが嫌というよりも、結局はヒマだから来ちゃうんだろうなあ。
 それにボケっとできるし、という思いを添えて、琴美は結局深い弁証法に至らぬまま公園のいつものベンチに腰かけた。
 学校帰り、手持ち無沙汰の琴美が公園に来るのは最近では日常行事と化しているので、別段珍しい事ではない。実際、琴美の目の前に広がる風景はTVコマーシャルのリピートした画のように瞳に焼き付いている。ウェルシュ・コーギーを引き連れた老紳士、太極拳の舞踊を興じる一団、いつも缶ケリで鬼役になっている半ベソ状態の少年、コントの練習をしているお笑い芸人のタマゴらしき二人組、男の子とゴムボールでキャッチボールをするびっこを引いた中年女性……この時間、それらの眺めはすでに琴美にとっては、公園内の小慣れた日々の叙景になっている。
 ただ時折、琴美は思う。
 巡礼するように訪れるこの公園は、単純に閑居云々の理由だけではなく、もしや自分にとって重大な意味が隠されているのではないか、と。大仰にも中学生の身ながら意味論を求めてしまう。いや、何か運命論的な解釈で考えてしまう。それはロマンチシズムに昇華する勢いで。
 何にも変わる事なんかないのにね。
 琴美は一人照れ笑うと、靴のつま先で砂利の地面に「星」という文字を書いている自分に気づいた。その後何やら気まずい間を埋めるかのように、「~の王子さま」と長々と言葉を連ねると、結局は消した。
 そういえばあのオジサン見かけないな。
 インチキっぽい訛りで気さくにも琴美に話しかけてきたオジサン。星の王子さまを良い本だと脈絡なく賞賛してくれたオジサン。学校や近所でも評判で、暇を持て余しては何かと子供たちに話しかけ、妙な理屈や虚実混淆とも取れる身の上話を聞かせるオジサン。概ね子供達からは煙たがられてはいるが、一部ではそんなオジサンをからかい半分にチョッカイを出す連中もいる。地元の親達は、オジサンは子供らに話しかけてくる以外はこれといって迷惑をかけないので、彼の行動を黙認してはいるものの、衛生的によくないから何処かへ行ってほしい、というのが本音。
 ともあれオジサンは特に問題として取り沙汰される事もなく公園に居ついている。だが、最近そのオジサンの姿が見受けられない。夕方頃にはよくこの公園に出没する、と本人言ったにも関わらず。
 そうか。口笛を吹いていないからだ。
 琴美はオジサンの「口笛を吹きいな」という台詞になぞり、口笛を吹こうとした。『虹の彼方に』のメロディを。しかし、タコのように唇を尖らせて出た音色は、タイヤのチューブがパンクして空気漏れしたそれ。時折放屁のような間の抜けた音を絡めては、目を瞑り梅干の酸っぱさに堪えているかのような必死の形相の琴美。付近のシーソーで昆虫カードのゲームに歓を尽くしている子供らも、思わず怪訝な表情を浮かべて琴美の方を見る。そんな場の空気も構わず琴美はヘタな唇の楽器を奏でる。とその時、琴美の鼻孔に側の花壇に植えられたパンジーの芳しさとは違う、不快ながらも懐かしい異臭がかかった。
「何やっとんねん、嬢ちゃん」
 オジサンが葉巻をガリガリと噛みながら、琴美の背後から声をかけた。琴美はその声に反応し振り返ると、驚く素振りも見せず平素の表情で、
「あ、オジサン」
「やっぱりメガネのお嬢ちゃんか。制服姿もエラくめごい、あ、可愛いけど、折角のプリチーな顔を変にして何やってんねんな」
「え? 私、おかしな顔してました」
 琴美はオジサンから目線を逸らし、顔を下に向けた。
「そやで、お猿が唇を尖らしてエサくれ~って言ってるみたいやった。お嬢は腹が減ってんのかい?」
「ち、違いますよ。口笛を吹こうとしてたんです」
「口笛?」
「はい。最近、オジサンをこの公園で見かけないのは、私が口笛を吹いていないからだと思って」
「どうして口笛を吹かないとオッチャンに会えないんや?」
「オジサン言ったじゃないですか。寂しかったら口笛を吹け。そうしたらオジサンに会えるかも知れないって」
「え、そんな詩人みたいな事をワイ言ったんか。なかなかキザったらしい台詞をヌかしたな、ワイも。んじゃ、お嬢ちゃんはワイに会いたかったんか?」
「はい」
 何の迷いもなく澄んだ声で琴美は返事すると、オジサンは首を横に振りながら目頭を押さえ、
「くう、泣かせるなあ、お嬢ちゃんは。五臓六腑に染み渡るわ」
 とオーバーにリアクションをした。ただその感激の言葉とは裏腹に声色は単調。琴美はオジサンの口調はその出鱈目な語法に対して、乾燥的で無機質な印象を度々覚える。その辺りがまた琴美がオジサンに惹かれる一つではあったが。
「いやな、前にも言ったかも知れんがこの辺はダンボールや空き缶や古雑誌に恵まれてない土地柄でな、わざわざ隣りの隣りの、またまた隣り街まで行って出張しているんや。だからちょいと時間がかかって、戻ってくるのが夜になっちまう場合が多くてな。まあ、いわゆるビジネスが理由や、ビジネスが」
 オジサンは火の灯っていない葉巻を口から離すと、いかにも考え込んだ様子で煙のない息を吐いた。
「ビジネス? お仕事ですか」
「ま、そうや。でもそれはお嬢ちゃん、考えなくてエエ。ちっちゃな嬢ちゃんにはまだまだ難しい話や。大人の世界は複雑やさかい」
 オジサンは一人唸りながら何度か頷く。琴美もオジサンをマネて度々頷いて返す。
 オジサンは突然両手をパチンと合わせると、
「そや。どうよ、星の王子さまは読んだんけ?」
「いえ、まだです」
「まだ読んでないのかい。短い話だべ、アレは。若い時は一気読みでいかんと、一気読みで」
「若い時は一気読みなんですか」
「あっちゃ、またお嬢はワイのエスプリの効かした一言一言を突っつくなあ。その辺はテキトーに受け流しんさい」
「はい」
 真顔で答える琴美。オジサンはそのかしこまった様子を見てふき出すと、年季のはいったワイシャツの袖を捲り上げ、
「はっはっ。相変わらず嬢ちゃんは真面目な良い子やなあ。んで……隣に座ってもよろしいか?」
 と弱々しい声に一転、注意深く、また慎重に琴美に尋ねてきた。琴美は無精髭と無造作ヘアのワイルドなオジサンが、小動物のようにオドオドしている姿が滑稽に見えて、思わず、クスリ、と笑みを零した。
「どうぞ」
 琴美は表情を緩ませて答えた。オジサンは先ほどまでの砕けた語調を濁し、
「あ、どうも」
 と遠慮がちに言うと琴美とは距離をおきベンチの隅の方に座った。オジサンはいったん座るとまた快活に口を開き、
「いやあ、またお嬢ちゃんと再会できたのは、神様の思し召しやな。日頃の行いが良いからな、ワイは。相変わらずお嬢ちゃんは良いメガネをしてるし。今日はあったかいし、ツイてる日やのお」
 半ば支離滅裂な内容の台詞を弄する。琴美はそんなオジサンの話に疑問を持たず耳を傾ける。
「今日は嬢ちゃん、読書しないんかえ。星の王子さまを」
「あ、本は持ってます」
 琴美は紙のカバーのかかった文庫本を鞄から取り出した。オジサンはそれを自然と琴美から受け取るとペラペラとページを捲りながら、
「おお、やっぱ読み易い本やで。児童文学、いやさ、大人も読めるファンタズーの傑作やな、これは。こんな面白い本、普通すぐ読めるんちゃうんかい?」
 まさか、星清一郎の背中が気になってなかなか読み進められない、とは琴美は言えず、
「今までは漫画ばかりで、最近小説とか読み始めて、だから字ばかりの本って慣れてないんです」
 と適当に濁した。
「ふうん、やっぱお嬢も子供らの活字離れの影響ってヤツは受けてたんやな。まあ、無理に急いで読んでも折角の良い文章がもったいないさかい。文字は一字一字愛でながら読まんと。そう、ゆっくりと味わって読まんといかん。お嬢もそう思わんか?」
「そうですね」
「だべ」
 オジサンは得意顔で頷くと栞の挟んであるページまで書を進めた。
「王子が六つの星を旅して、とうとう地球にやって来た所まで読んだんかい」
「はい」
「まだ半分くらいやな。これじゃまだこの本について語れんな。ワイが内容について言っちまったら、湿ったビーフジャーキーや。文の噛み応え、読み応えがあらへん」
 オジサンは舌も滑らかに琴美に語る。だが、時々不安そうな表情で周りを見回したり、琴美が少しでもオジサンに近づこうとすれば、一定の間隔を保とうと地味に後ろにずれたりする。それに何よりもその長広舌はあくまで説明的な調べで、軽快な台詞とは背反し言葉一つ一つに起伏がない。そんなオジサンの口先一つ身なり振る舞いも含めて、謎めいていて神秘的な印象を琴美は受ける。極端に言えば人知を逸した超常的な存在として。
「とは言ってもお嬢ちゃんと久々に会えたんやしなあ。何か粋な会話でも……そや、お嬢は実は理系少女やったんよな。宇宙とか科学とか好き言うてなかったっけ?」
 琴美は俯きかげん、両手の指を絡ませると、
「そ、そうですね。宇宙、科学とか、その夜空とか。特に……星、とかは、はい、好きです」
 とまごついて答えた。
「星か?」
「は、はい」
「そっか。じゃあ嬢ちゃん、一つ質問や。夜空に輝く星ってのはすっごく遠くにある事は知っとるよな」
「はい」
「なのに何でそんな遠くにある星の光が、ワイらの目に届くか分かるかい? 分かったらアメちゃんあげるで」
「え、光が目に、ですか? どうしてって、うーん」
 オジサンからの突然の奇妙な質問。
 そんなの考えた事がない。
 こめかみ辺りをポリポリと掻いて悩んでいる琴美の傍ら、オジサンは「カチ、コチ」とメイトロノームの音を口で真似て制限時間よろしくプレッシャーをかける。琴美はペロリと舌を出して、乾いた上唇を舐めると、
「えーと、それは、その、星がそこにあるから。すごく、眩しいから、です」
 と首を傾げながらぎこちなく答えた。オジサンは口角を上げ表情を壊した。だが、目は笑っていない。
「はは、残念やなお嬢ちゃん。お嬢らしい可愛い答えやけども、それじゃダメや。科学的じゃあらんもん。答えはな、嬢ちゃん。光というものが光子という物質で出来ていて、それでいて光子は波と粒の二つの性質を併せ持つからなんや。アンダースタン?」
「光子? 波? 粒? な、何ですか、それ」
「あ、お嬢ちゃんは知らんか。量子(りょうし)論ってヤツ」
「漁師(りょうし)論? 何でお星様の話でお魚を獲るんですか」
 宇宙を海にたとえる事があるから、夜の漁師が星の明かりを掬い上げているのでは? と瞬刻おかしな妄想を浮かべる琴美。オジサンは鼻で笑うと、
「はっはっは、ちゃうちゃう。リョウシ論ってのは物理学の話や、魚獲る方のリョウシやない。知らんかな、嬢ちゃんは。難しい話やしな。まだちっちゃいお嬢ちゃんには分からんかも知れんが、この量子論ってヤツはアインスタインの相対性理論と並ぶ二十世紀最大の理論の一つで、それまではニュートン力学で済んでいた世の中を、ビビビっと震わせちまったもんなんや。ミクロの世界っちゅう所を分野としてるんやが、これがけったいな理屈がいっぱいあってな……」
 オジサンは困惑気味の琴美を他所に、件(くだん)の「量子論」に対して得意の多弁を披露し始めた。何を話しているかさっぱり理解できない琴美。だが、「せやから量子論によればワイらが壁をすり抜ける確率は、完全にはゼロではないんや」とか、「せやから量子論によればワイらがいる宇宙とは異なった宇宙が在って、別の自分がいるかも知れないんや」などの言葉を聞き取るに、何やらオジサンはとんでもなく風呂敷の大きな事を言っているのだろう、と琴美は慮った。
 葉巻のオジサンはウソっぽい変な話ばかりするって、みんなは言ってたけど。
 これがその嘘話なのか、と琴美は勘繰ってみる。不確定性原理やらベータ崩壊やらトンネル効果やら、と小難しい単語を並べる一方で、「同じ物が同時刻に複数存在するんや」といった常識はずれの事をオジサンは言う。結果的に言っている事は突拍子もないのだが、琴美のあずかり知れない量子論をオジサンが前面に押し出すと、変に説得力が出てきて、よくは分からないけどオジサンはスゴい事を語っているのではないか? と茫洋に彼女は了承してしまう。虚構的な感じではない、と。
 もしかしてみんなは理解できないから、全部が全部ウソだと思っているんじゃないかしら。
 厭世の感を漂わす奇妙な語り部の不可思議な話。そこに琴美はある種荘厳な佇まいすら覚える。まるで宇宙の真理を知っている、と。
 その思いが琴美の中で星の王子さまとつながる。
 もしかして?
 琴美はメガネのブリッジを中指で上げた。
「せやから量子論によれば……」
「オジサン!」
 突然、琴美は喚声に似た声をあげると、量子論について滔々と語っているオジサンに詰め寄った。不意を突かれたオジサンは、急に近づいてきた琴美との距離をはかれず、後退りする間もなかった。二人の距離は近い。
「な、何や嬢ちゃん。何かオッチャン、悪い事言ったかえ? だったら謝るばってん。堪忍してさかい」
 オジサンは琴美が言い分する前に勝手にペコペコと頭を下げた。
「違います、オジサン。私、分かっちゃったんです。あ、でも、言っていいのかな」
「な、何やねん。エエよ、言ってみいな」
「じゃあ、はい。あの、その、間違っていたら、すみません。オジサンって実は……星の王子さま、じゃないんですか?」
「へ?」
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするオジサン。
「あ、えーと、オジサンは、その、宇宙人さんで、あの、宇宙からいらっしゃった方、ではないかと、私、思いまして、はい」
 琴美は呆気に取られた様子のオジサンに気づき、語尾を弱めつつ迷い迷いそう告げた。オジサンは口を半開きにしながら彼女を見つめている。琴美は制服のスカートの膝小僧の辺りをギュっと掴み、
「す、すみません。き、気にしないで下さい」
 と赤面して顔を横に振った。オジサンはしばらく体を硬直させ黙した後、
「……さすがや、嬢ちゃん。よくワイが宇宙人だって事に気づいたな。たいしたもんや。さすが良いメガネをしたお嬢だけの事はある。よくぞ見抜いたわ」
 といたって真面目な表情で返すと、ワナワナと小刻みに震えていた琴美の肩の揺れが止まった。
 琴美はオジサンの目を覗くと、
「え?」
「そうなんや、ワイは宇宙人なんや。その、何や。そう、ワイはテグジュペリの星の王子さまのように愛する花やないけど、そういったモンとちょいと仲違いして、色んな星を渡り歩いているうちにたまたまこの地球に降り立ったんや。それで世を忍ぶ仮の姿としてずっとこういう生活をしているんや。もうかれこれここに来て、地球の年月で言ったら五十年近くになるかのお。そんでも見事にワイの正体に気づいたのはお嬢ちゃんだけや」
 オジサンはこんこんと語りつつ、密かに琴美との隔たりを広げベンチの隅へと腰を据えた。琴美はそんなオジサンの動きに気づかず、おもちゃコーナーのショーウィンドウを眺めているような眩い瞳の色を醸し、
「ほ、本当ですか? やっぱり、そうだったんだあ。私、この公園に来た時から、良い予感がしてたんです。こういう事だったんですね。そういえば、この公園で以前、UFOを見た事があるなんて話が……」
 琴美はオジサンの「ワイは宇宙人や」発言に対して、何の疑いも抱くこと無くイキイキと語りだした。やっぱり私がこの公園に来ている事って意味があったんだ、と真摯に受け止めて。オジサンは遠くを覗く目をしながら、嬉々として喋り続ける琴美を黙って見つめる。こけた頬を窪ませ。
 琴美は一通り喋り終えると、
「やっぱりいるんですね、宇宙人さんって」
 と一人満足そうに大きく頷いた。オジサンはワイシャツの胸ポケットから湿気た葉巻を再び取り出すと口に放り、
「そや、お嬢ちゃん」
 マフィアのボスのように悠然な態度をもって言ってみせた。その後、プハっと煙のない息を吐く。
「ねえ、オジサン。オジサンの星の話とかして下さいよ」
「へ? 星、ワイの星の話、かい。そ、そやなあ」
 興味津々、目を輝かせてオジサンの話を待つ琴美。一方、オジサンは唐突な琴美からの質問に辟易した様子になり、葉巻片手の尊大な身構えも一転して急に身をすくめた。そして、眉間を徒然にボリボリと掻くと、
「あ、もうダメや嬢ちゃん。こんな時間や。これ以上遅くなったら親御さんが心配しちゃうぞ。学校からそのままで家にはまだ帰ってないんだべ?」
 オジサンはそう言いながら左手首に目を向けた。だが、そこに腕時計は巻かれていない。
「え、まあ、そうですけど……」
 琴美は残念そうに呟くと周りを見渡した。日はまだ没してはいないものの、公園に残っている人影は少ない。唯一残っているお笑い芸人見習いらしき二人組も「やばい、バイトの時間に間に合わない」と言いつつ、切り株のベンチに置いてあった台本を慌てて纏め公園を出ようとしている。
「だべ?」
 オジサンは胸を撫で下ろす様に言った。琴美は唇を得意の真一文字にして小さく唸っている。そんな琴美の姿を見るとオジサンは立ち上がって、
「暗くなってお嬢が変なオッチャン、あ、ワイの事やないべ。ワイ以外のデンジャラスなオッチャンが、嬢ちゃんにチョッカイ出したらワイの責任や。今日はもう帰り」
 と諭すように帰宅を促した。琴美は唇を尖らして、
「はぁい」
 と口惜しそうに吐いて立ち上がった。
「オジサン、またこの公園で会えますよね」
「うん? そやな」
「じゃあ、今度はオジサンの星の話を聞かせて下さいね」
「え? お、おうよ。ま、任せときいな」
「私も口笛、練習しときます」
「お、おう」
 積極的に話して来る琴美とは対照的に及び腰で答えるオジサン。困惑そうな面持ちのオジサンは、
「さ、お嬢ちゃん。忘れずに鞄持ってスキップして帰りな。上を向いてな」
 と言って顎でしゃくって公園の出口を示した。琴美は「分かりました。じゃあ、またね」と、同年代の友達に話しかけるように別れを告げた。そして、早足で公園の出口まで向かうと「オジサーン、バイバーイ」と言って手を振った。オジサンは照れ臭そうにうなじ辺りを掻きながら手を振って返した。マーマレードのジャムを塗りたくったような残陽を背にして。
                   *
 麦畑が色づく小満(しょうまん)の候。
 本日は琴美の中学、日帰り行事の野外オリエンテーション。一学期も半ばを過ぎてクラスメイト同士、仲も打ち解け始めた頃のこの企画は、後に控える夏休みの林間学校の演習も兼ねている。中学校に入って以来の初めての屋外イベントに、観光バスの車中、生徒達はバスガイドの話もロクに聞かず、皆一様に浮き足立っていた。
 各々が狭い車内、思い思いの会話を隣席、前後部座席問わず自由に楽しんでいるのだが、その中で一人、篠田琴美その人は虚ろな目で窓際の席から、外の景色を忘我的に眺めている。
 山間の渓流に向かう最中の風景は田園と村落と森林のグラデーション。牧歌的趣があるといえばあるが、都会の景観に幾らか退屈さを感じている子供でも、緑豊かな田舎の鄙びたそれを一時間も見ていれば単調になってくる。事実、琴美も景色に風情を覚えているわけではない。単にお喋りする相手がいないのである。隣の席の女生徒は背もたれを越えて、後ろの席の細川恵理子との会話に夢中。琴美の座席の一帯は恵理子を中心として話題が展開している。
 まあ、分かっていたけれど。
 琴美は会話に加われない自分の孤立した状況を肯定しながら、読み終わりかけの星の王子さまの文庫本を手にした。だが、動く車内で本を読むと乗り物酔いしそうなので止める。結局は目を向ける先、気の紛らわしの処方は、外の景色の鑑賞。琴美は溜め息を吐こうとしたが、それが恵理子らに対していかにもあてつけがましい行為に映ると思い、慌てて欠伸にして誤魔化した。そんな神経質に周りを窺う琴美を他所に、恵理子ら一同、他の級友達は元気にはしゃいでいる。健全な中学生。その一風景として。
 本当、こうなるとは予感していたけど、実際になってみると、つらいなあ。
 野外オリエンテーションでのグループ決めの際から琴美には、自分がどういう状況に陥るかはだいたいの予測は出来ていた。班決めの折、担任の先生は生徒の自主性を重んじるとの事で、各人仲の良い者同士で班編成をして構わないと指示。それがある種の生徒にはとても有効で、ある種の生徒にはとても残酷な仕打ちになる、という事を先生は分かっていない。後者に属する琴美はそう思う。案の定、女子グループで周りの空気的に余ってしまった琴美。先生もそれに気づき、やってしまった、という表情になった。すぐに学級委員の恵理子を先生は呼びつけ何やら耳打ちすると、恵理子は一瞬面倒臭そうな顔をしてその後、ツカツカと琴美に近寄り「篠田さん、私のトコに来る?」の一言を浴びせた。琴美は眉間に川の文字の皺を浮かばせる恵理子を前に、「う、うん。あ、ありがとう」と気後れしながら答えるしかなかった。
 学級委員の責務として義務的に琴美を恵理子は自らの班に迎え入れる。その時点で本日の小旅行の展開は琴美には見えていた。つまらなくても恵理子と同じグループである以上、最低限の愛想笑いはしていかないと……と。
 でも、これを機にみんなと仲良くなれれば。
 一方、琴美はポジティブにも考えてみた。だが、今の周りの状況から想像してみれば、事態は好転しそうにない。
 別に琴美は皆から総スカンをくらっているわけではなかった。ある級友が周りの友達にポッキーを配っていた際は琴美も一緒になって貰った。その時、琴美はお礼ついでの流れで、その子に話しかけようとしたのだが、ポッキーをくれた子はチラリと恵理子を見ると早々と琴美から離れていった。グループの筆頭の恵理子が睨みをきかせている琴美と関係を持つのはタブー。それの証左に見える。これでは友達は作れない。琴美は諦念する。いつだったか恵理子から「はっきりしない子って私、嫌いなのよね」という台詞を琴美は耳にした事がある。ならば引っ込み思案の自分はその対象になっているのか。だが、そうそう恵理子に対してはっきりモノゴトを言える女子もいないだろう、とも考える。
 うーん、それに……。
 琴美は窓の桟の部分に頬杖をつきながら、後方の席から聞こえる星清一郎の声に耳を傾けた。星は周りの男子達と好きなサッカー選手について語っているようだった。他の級友達は自分の好きなサッカー選手については感情の赴くまま手放しで褒めちぎっているのだが、自分の好きな選手以外の意見は認めずやたらと熱っぽく否定している。一方で星は他の友達が好きな選手を肯定した上で、論理的に自分の好きな選手を述べている。説得力ある静かな声音で。彼らの話の流れはそんな具合だった。自分はサッカーの事など全然分からないけど、星ならばきっと優しく説明してくれるに違いない。琴美は薄ら笑みを浮かべて想像した。そう、あくまで妄想。琴美は実際に今まで星とは何の接触もない。ただ幾つかの昼休みの時間、同じ空間で読書を共有しただけ。
 星君とはそれだけなのになあ。それだけでも細川さんは私を許さないのかな。せめて本当に星君との間でよからぬ事実があったなら私も納得するんだけど。
 琴美は目を閉じて星と一緒に下校する姿を空想してみる。微妙な間を空けながら両者は歩き、好きなサッカー選手、好きな本、そして、好きな夜空について語る二人の姿を、夕陽を背景にして。
 琴美は一人笑いする自分に気づき、恵理子らを気にしてそちらに反射的に目を向けた。恵理子たちはそんな琴美には構わず、川に到着してから炊く飯盒炊爨のカレーの具の中身について話し合っていた。ジャガイモをルーに入れる派か入れない派か、と。
 琴美は表情を素に戻すと、目を瞑っていた延長線上、そのまま眠るポーズをとる事に腐心した。そうやって遠路を乗り切ろうと。だが、「星、はすっごく遠くにあるのに、その眩しさは目に届くのよね」と再び妄想にふけると、やはり両度(りょうど)その貌(かお)は笑みを浮かばせる羽目になった。
 それに私には宇宙人さんの友達もいるんだから。
 琴美は目を閉じたまま鼻歌交じりに口笛を吹こうとした。だが、尖らした唇は相変わらず口先のままで、肌の楽器にはなりえなかった。

 今日の野外オリエンテーション。日帰りの突貫工事的なスケジュールのため、夜のキャンプファイヤー等のイベントの類いは用意されているわけもなく、目的地の渓流にバスが着いたらお約束的な川遊びの後、すぐさま本日のクライマックスの飯盒炊爨のカレーに取り掛かる。もっとも一人岩場に座り、素足をブラブラとさせ川に漫然と浸していた琴美にとっては、テキパキとコトが進んでくれた方が具合は良かったので、手早い炊事は歓迎した。
 だが、問題はその飯盒炊爨。
 琴美を含め女子四人、男子三人の班なのだが、とりあえず男子が動かない。まあ、男の子は料理とか好きじゃないしな、と琴美は思い、その流れは想定していたので、さほど気にはかけなかった。しかし、女子の方もまな板に鶏のもも肉を乗せる素振りも、包丁を握る気配もない。周囲の雰囲気から察するに、琴美は料理の全てを自分に任せられる感じがした。
 ちょっとした嫌がらせかな。でもこれぐらいならいいや。
 当初はそう高を括っていた琴美だったが、それは違った。ただ一人、野菜を川で洗っていた恵理子だけは、現場に帰ってくると率先して飯盒炊爨に参加してきた。つまり琴美は恵理子とマンツーマンで料理をする羽目になった。
「ちょっと、篠田さん。ニンジンの皮はちゃんと剥いてくれなきゃ駄目じゃない」
「ご、ごめんなさい」
「ちょっと、篠田さん。お肉は角切りにするより、さいの目切りの方が味は染み込むんだから、もっと小さめに切ってくれなきゃ」
「う、うん」
 姑に小突かれる新妻の如き様子の琴美。だが、琴美はそんな恵理子の小言にもめげず、ちょっとしたシンデレラ気分に浸りながら調理を続ける。意地悪な義姉にいじめられてもきっと王子様が迎えに来てくれる、と。
 星の王子さま。そうだ、宇宙人さんかな。あのオジサンの姿をした宇宙人さん。
 オジサンの格好を思い出すに、どうにもハンサムな王子様とは程遠いルックスではあるが、その辺りは現実として、とリアルに割り切りアンリアルな空想に琴美はふけてみる。
 でも、もしかしたら……。
 不意に琴美は星清一郎のサッカーのユニフォーム姿を想像した。いけない、いけない。琴美は頬を微かに火照らせる。ほくそ笑む琴美を他所に恵理子は具材を鍋に入れ始めた。チクチクと恵理子は琴美に愚痴をこぼしてはいるが、その手は確実に動いている。ジャガイモの皮は透き通るほど薄く剥きあげ、且つ流れ落ちる滝のように皮を垂らせて決して切り落とさない。さらに「ジャガイモをカレーに入れたくない人もいるから」と言って、自前で持ってきたポテトマッシャーを片手にジャガイモをすり潰し、カレーのルーにすり込ませる手際の良さ。家事に慣れている。琴美は段取りよく料理を進める恵理子に対してそう直感する。
 言うだけの事はあるなあ。女王の貫禄ってヤツかな。
 琴美は妙な感心の仕方をしつつ、一時恵理子の包丁捌きを見入っていた。
「ちょっと、篠田さん。ご飯の方の火はちゃんと見てる?」
 恵理子はサイドメニューのサラダに入れるキャベツを千切りしながら、琴美とは目を合わさず絡むように尋ねる。
「あ、う、うん。もうそろそろ炊けたみたい」
「オコゲが付くぐらいが調度良いのよ。ちょっと見てみて。飯盒が熱くなっているから気をつけてね」
「う、うん」
 恵理子はちょくちょく琴美にダメ出しをする他は、黙々と作業を続けていた。料理をさぼっている男子は勿論、その男子らと談笑しやはり調理を手伝わない女子らにも不平を言わず。
 結局、料理のほとんどは恵理子がしてしまった。琴美はてっきり恵理子が司令塔となり他の女子に料理をやらせると思っていたのでそれは意外に感じた。
「おいしーい! さっすが恵理子だよね」
「恵理子って料理上手だもん。私なんかがヘタに手伝えないよ」
 出来上がったカレーを前に他の女子達は恵理子に次々と称賛を浴びせる。男子達も「あ、うめえ」と言ってガツガツとたいらげていく。琴美も実際口にしてみてそのおいしさに舌鼓を打った。
 本当においしい。
 琴美は素直にその思いを口にしようとした。だが、止めた。もしここでそれを口にしたら、他の女子達と同じで恵理子におもねっている態度を見せると思えたから。
 恵理子は淡白に「ありがとう」と応えるだけで、皆の賛辞を鼻にかける素振りは見せなかった。ただその時恵理子が見せた笑顔が、いつもの精悍なそれではなく、どこか覇気がなく琴美には映った。
 食事が終わった後の洗いものも率先して恵理子が進めてしまった。他の男子、女子は気兼ねする様子もなく川遊びに興じている。琴美の方もほとんど手伝う事がなくバツが悪そうに恵理子の周りをうろうろするだけ。恵理子は大きく息を吐くと、
「篠田さん。洗いものを拭いてくれる」
 と例の如く目線を合わさず琴美にそう言い放ち、ナフキンを突きつけた。琴美は黙って頷くとそれを受け取りせっせとボールや皿を拭き始めた。その間、二人は無言で川辺の備え付けの洗い場で作業を続けた。琴美は時折川の方に目をやり、既に洗いものを終え友達と川で水の掛け合いをしている星清一郎の姿をぼんやりと眺めていた。知らず知らずのうちに顔を綻ばせながら。
 あ、いけない。
 強迫観念にも似た条件反射で琴美は恵理子を一瞥した。恵理子はそんな琴美の態度も気づかず、わき目も振らず黙々と念入りに鍋を洗っている。鍋にこびり付いたカレーと洗剤が混ざり独特な不快臭を放つ。なかなか取れない汚れに対して恵理子は、
「雑巾を濡らしてその上から直接爪で取ってみよう」
 と一人呟くと、やはり持参してきたタオルの切れ端を取り出し、それを水で濡らし始めた。細かい性格なのか神経質なのか。琴美はそう勘繰ると同時に、手馴れた調子で雑巾を絞り上げる恵理子の、普段は大人っぽい横顔に疲れた気色を垣間見た。

 帰りの車中。
 来た時と同じ景色が逆に流れていくだけか。
 琴美は焦点の合っていない目線でバスから車窓の景色を眺めている。行きのバスでさんざんにらめっこしていた森林風景、田園風景。それらに飽きもせずただ頬杖をつき視線を落とすだけ。
 車内は行きのバスほどの殷賑はない。多くの生徒が遊び疲れて眠っている。隣席の女子や恵理子も一緒。スヤスヤと寝息を立てる彼女らの表情に険はない。担任の先生も眠っており、バスガイドも周りに気を遣い積極的にマイクで喋る事もなく、時折運転手と静かに談話を交わす程度。とはいえ妙に懇意に話しているバスガイドと運転手。もしかしたら二人は恋人同士なのでは? とその様子を窺うに琴美は穿って考えてみた。だが、すぐに首を横に振り、そんな事より何で私は眠れないかな、とそちらに思いを向ける。
 行きのバスでは結局眠る事が出来なかった琴美。それはこれから始まるオリエンテーションの不安が強かったから。恵理子達からどんな仕打ちを受けるか分からなかったから。琴美はそう解釈していた。だが、チクチクと恵理子に小突かれたぐらいで、特に懸念していた嫌がらせを受ける事もなく、オリエンテーションは終わった。どちらかというと拍子抜け。
 何事もなくて良かったじゃない。
 琴美は納得してみる。月並みなハッピーエンドに。一方で漠然とした寂寥感が琴美の胸に広がっている。確かに能動的な、それこそいじめ的な行為はされなかった。何の被害も受けてない。
 ただ、よりいっそう自分が孤立している事が分かった。
 それは皆が口裏合わせて自分を無視しているという感覚ではない。実際、恵理子がそんな指示を皆に出している気配はなく、むしろ自らが考えていた村八分は杞憂だったのでは? と思うほど。どちらかというと恵理子が命令云々を出す、というより周りの女子が恵理子を気遣って勝手に琴美をけん制している状況。しかし、それも振り返ってみればそれほど意識的な行為ではなかった。案外、他の女子も恵理子から離れてのびのびとやっている。恵理子の顔色を窺っている様子はあるものの、それが絶対的なものでもない。
 つまり、みんなは私にあんまり興味がないのかな?
 琴美は疑う。いや、自覚する。恵理子が何らかの通達を出し、自分を疎外しているならある意味諦めはつく。だが、そうではなくただ単純に、自然の成り行きとして誰も自分の方に関わってこないとなると、それは救い様のない話だ。一人ぼっちの理由が分からない。原因不明の孤独病を抱えているだけ。
 いえ、やっぱり細川さんがみんなに私を無視しろと告げ口しているからよ。だって私は細川さんらが作ったルールを破って、星君に勝手に近づこうとしている、極悪人なんだから!
 琴美は内心、奇妙な強がり方をもって憎憎しく恵理子を見つめようと試みた。そこに悪意があると思おうとした。だが、すぐ後ろに座する恵理子の寝姿にその面影がどうにも見当たらない。きっちりと中学生時分の淡いメイクをきかせている細面の一方、所々ささくれている恵理子の指先を見るに決定的な奸(かん)心(しん)が求めにくい。
 琴美は再び目を窓の外にやると鼻をズズっと鳴らし、
「ううん、のけ者にしろって言ってるからよ、やっぱり」
 と誰にも聞こえないほどの小さな声で、ただし力強く呟いた。鼻水が微妙に上唇の方に垂れている事に気づくと、琴美はティッシュを取り出し無造作にそれを拭った。目頭に溜まった涙も誤魔化しがちに払って。どちらにしても、今回のオリエンテーションでみんなと仲良くなれるかも、という甘い夢想は成りえなかった。琴美はその点の事実は把握する。
 祭りが終わった後の侘しさにも似た雰囲気の車内。頬杖をついてそぞろに窓の景色を眺める琴美の姿はまるで傷心一人旅の乙女。琴美は耳を後方に澄ませてみた。星の喋り声は聞こえない。やはり寝ているのだろうか。琴美は星の寝顔を見たい衝動に駆られ、腰を浮かせて後ろの席を見ようとした。だが、どうしても恵理子の存在が気にかかる。恵理子が寝ているにもかかわらず、視線ならず彼女が発散するそのオーラに琴美は威圧感を受ける。琴美はすぐに腰を下ろした。
 私ってダメだなあ。
 そう省みつつも琴美は星の姿を妄想する事で溜飲を下げた。無論、その心象は手を繋いで一緒に下校する茜色の風景。それをイメージすれば自然と胸が温まるのを知っているから。
 座席の目前の籠の中に星の王子さまの文庫本が入れてある。結局、車の中で読むと気持ち悪くなってしまうと思い、移動中に読む事がなかったその本。しかし、ただその本が側に置いてあるだけで安心する。琴美はそう覚える。
 お守りみたい。
 琴美は籠から文庫本を取り出した。そして、それをそっと膝の上に置くと、さらに両手を重ねた。その後、ページを捲る事はなく瞼をゆっくりと閉じてみる。するとバスの揺れがゆりかごの様に心地良くなり、緩やかな眠気が自ずと彼女を包み始めた。

 オリエンテーションは家に着くまでがオリエンテーションです。バスが学校に到着した後、解散する際に先生が言ったお座なりの台詞。三々五々、生徒達が疲れた表情をして学校を去っていく中、琴美もおやつの余りのバナナチップを片手に、その言葉を遵守して真っ直ぐ家に帰宅しようとした。オリエンテーションの感想を語る相手も連れず一人で。
 夕暮れ時。昼間の晴天はなくなり、空は褪色した赤が広がっている。
 この夕焼け空、何だかやつれている気がする。
 メガネに反射する西日の色調に、琴美は太陽の衰えを見出す。それは自分自身のオリエンテーションの疲れもあってそう見えるのか。少なくとも普段見る夕陽よりも物悲しげに琴美の瞳には映った。ただ夕焼けを見て思い出すのはあの公園、あのオジサン。上を向いてな。ふとオジサンの言った台詞が琴美の頭をよぎる。
 上を向いてるよ、オジサン。
 琴美は軽く頷き目を見開くと、バナナチップを一気食い。そして、疲れているにもかかわらず突然駆け出した。宇宙人のオジサンに会いたい。その一心で。
 真っ直ぐ家に帰るつもりだったのに急遽公園に行く事に決めた。太陽がそうさせた、夕焼けがそうせた。何やら文学的表現にした理由を胸に、琴美はリュックサックをガポガポ揺らしながら走った。しかし、息を切らして公園に来たものの、肝心のオジサンの姿は見当たらない。
「あ、口笛か」
 琴美は唇を尖らして口笛を試みたものの相変わらず音色は奏でない。ずっと唇を尖らせていて唾が口先から垂れ始めると、
「ペッペッ、やっぱり駄目かあ」
 とさっきまでの鼻息も忘れ、涎を払い口笛をあっさりと諦めた。人もまばらな公園をもう一度よく見回してもオジサンがいる気配はない。それならば本来はオリエンテーションで疲れた体。早く家に帰って体を休めるのが道理。だが、一度この公園に来てしまうと、どうしてか家に帰るのがまごつく。どうにも居づらい我が家だからか。いや、わざわざ公園に来たのだから、何らかの用事を課さなければこの「巡礼」が無意味になるから。琴美は公園に来た行為を、そんな位置付けで内心に留める。つまり、理由を求める。
 そうだ。星の王子さまをここで読みきっちゃおう。もうすぐ終わるし。
 太陽が沈みきる前には読破できる。琴美はそう踏むと、お守りがてらの星の王子さまの文庫本を取り出し、ベンチに座って一心不乱に読み始めた。日が沈むまでの時間に読みきる。そう自分に巡礼の意味を課すと、不思議と疲れも忘れ読書に集中できた。とはいえ明かりとしては乏しい夕焼けの陽光。自然のランプは時が進むにつれ薄暗くなる。琴美は残光と公園に設けられている外灯を頼りに本を読み進める。見えづらくなる文字にメガネを上下し、本を目の前に手繰り寄せ黙々と耽読する。読書の間は琴美の中に学校の事も、今日のオリエンテーションの思い出も、家の雑事も入り込む余地はなかった。
 物語が終幕に近づくに従い、琴美の脳裏に星の王子さまの幾つかのフレーズがよぎり始める。『ヒツジの絵を描いて!』、『悲しくてたまらないときは、夕陽が見たくなるよね』、『でもぼくはまだ、あまりに子どもで、あの花を愛することができなかった』、『いちばんたいせつなことは、目に見えない』……この本で経た読書という旅。それらの記憶を反芻しながら琴美は最後のページを捲った。
 読了。
 しばらく琴美は瞳を閉じる。余韻に浸る。目に薄っすらと涙が溜まっている事に気づきハンカチで拭う。そして、深呼吸。
「良いお話だった」
 ポツリと一言。とその時、琴美の足元にゴムボールが転がってきた。琴美がそれを拾い上げると、びっこを引いた中年の女性が近づいて来た。女性の後方からは少年が走ってくる。幼稚園の年長か小学校に入ったばかり位の男の子。琴美がこの公園でよく見かける母子。琴美は立ち上がって女性にゴムボールを手渡すと、
「どうもありがとう」
 と言って女性は微笑んだ。目は凛としているけど、力ない笑顔。琴美はその表情を今日、どこかで見た覚えがした。さらにボールを渡した時に彼女のタートルネックのカーディガンの袖から覗いた、手首に痕(のこ)る幾つかの横線の切り傷が鮮明に映る。
 私のお母さんと同じぐらいの年かな。
 改めて近くで見ると意外と老け込んだ印象を琴美は受けた。それにこんなに暖かいのにとっくり襟の上着を着ているのも妙に引っかかった。女性は駆け寄ってきた男の子を抱きとめると、
「じゃあ、お姉ちゃんも帰ってきただろうから、晩御飯の用意しに帰ろっか」
 そう言って片足を地面にすらせながら公園を出て行った。男の子は手を繋ぎ母のペースに合わせ歩む。琴美はしばらく二人の後ろ姿を見つめていた。まるで知り合いを見送るかのように。
 ボール遊びをしていた母子が公園から去ると、琴美一人が園内に取り残された。陽はすっかり沈んでいるが月は出ていない。
「今日は新月の日か」
 月が出ていない分、星の明かりがよく見える。郊外の薄明かりから覗く夜空は意外と眩しい。琴美はメガネのブリッジを直すと空を見上げた。
 一際明るいあの星は金星かな? 火星かな? それに空一面に散らばっている小さな光の星々の何処かに、宇宙人さんが、星の王子さまが寄ってきた星があるんだろうな、きっと。
 琴美は渡り鳥を使って宇宙(そら)を巡る画を想像する。
「私も連れていってほしいなあ」
 深い溜め息を琴美はつくと、公園の周りを見回した。
 オジサン、いないかな?
 琴美は葉巻のオジサン、いや、宇宙人のオジサンの姿を探したがその気配はなかった。今日はビジネスで忙しいのかもしれない、と琴美は得心する。そして、ためらいがちに歩き始めた。家に帰る。だが、その徒歩は牛歩。
 ま、今日は星の王子さまを全部読む事ができたし、イイか。
 琴美は無意味に頷くと歩の速度を気持ち速めて公園から出て行った。
「せめて今夜のゴハンがシチューだったら良いのに」
 拠り所のない独り言をすると琴美は無理にスキップして見せた。星の王子さまを読み終えた感動もだいぶおさまってきて、今日のオリエンテーションの疲れを再び自覚し始める。リュックサックの重みも気にかかる。けれども琴美は鼻歌まじりに軽快に駆けた。カラ元気でもその方が気持ちは幾分楽になる。星の王子さまの文庫本を片手にすれば、なお。
 不意に琴美は走っている自分と先ほどの男の子が母親に駆け寄っていった姿をダブらせた。駆ける少年。そんな少年を優しく抱きとめた母親。一見して仲睦まじい親子の関係に映る。一方でその時の彼女の笑顔に陰りが見えたのは、自分自身の思い違いだったのだろうか?
 琴美はだしぬけに起こった自らの心情に戸惑いを感じ始めた。
                    *
 川縁に構える家の庭に紅紫の花を咲かせた花菖蒲(はなしょうぶ)の花壇がある。湿り気の多い場所で花菖蒲はよく育つのよ。琴美は下校途中、川の土手からそれらの花を眺めていると、かつて園芸を趣味としていた母の台詞を思い出した。だが、この街に引っ越して以来、母はプランターを手にしていない。ベランダで苗を愛でる姿も見せない。
 前に住んでいた時は、休みになればよくお母さんと一緒にホームセンターで家庭園芸用品を買っていたのに。
 琴美は懐旧する。と同時に、夏服に変わったばかりの半袖の白のブラウスの腋へ湿った風が入り込む事を気にする。
「あ、大丈夫かな」
 今までのサイズが合わなくなり新しく買ったブラジャー。それがブラウスから透けて見えないか琴美は気になり、無意味にも肩を揺すってみたりワザと服にタルみを出して誤魔化したりしてみた。ブラジャーの肩紐に汗が染み込んでいくのが分かる。暑くなってきた。琴美は実感する。
 もうすぐ夏、か。
 襟元に巻いてある水色のリボンを琴美は気持ち緩めて通気をよくした。だが、汗が染み込んだブラウスに意識はいっていなかった。心持ちはこれから来る夏休みへの不安。もしかしたら夏休みが終わった後、学校に通わなくなるかも。不登校。そのような危惧を抱くあまり。
 来月で一学期も終わるというのに、結局クラスに溶け込めなかった琴美。転入当初に抱いていた過度の「仲間はずれ」はなかったものの、地元の小学校に通っていた頃の自然体の学校生活が送れていない。素の自分ではない。他所者意識からか過剰に周囲の目を気にしている。琴美はそんな自分に気づく。
 ううん、私だけじゃない。お母さんも引っ越して以来、周りのお母さん達とのお付き合いに、やけに気を使っている気がする。本当はあまり人付き合いが得意じゃないのに、ここに引っ越してからは誰かにお呼ばれしたら必ず集まりに行っているし。今日だって他のお母さん達とお茶をしにいくって言ってたな。いつも終わったらすごく疲れた顔をしてるのに。
 それでいてやたらと下世話な事を言うようになった琴美の母。あの子の家のダンナさんは浮気している、あの子の家のお兄さんはどこどこに勤めていて年収がどうの、等と。母親連中の風聞(ふうぶん)を嬉々として家に報告してくる。
『琴美のクラスに星君っているでしょ。あなたと同じ時期に引っ越してきた子。あの子はね、引っ越してくる寸前までお母さんが一人で育ててきたのよ。いわゆる母子家庭ってやつね。それで最近再婚してこっちに引っ越してきたらしいのよ。ほら、星君が前に住んでた家って意外と近くじゃない。だから同じ学校のお母さん繋がりですぐにそういう話が伝わってくるのよね。何でも前のお父さんはすごくお金にいい加減な人で、お人好しというか、そんなんで騙されちゃって、結局借金が原因で星君が小さい頃に離婚しちゃって……』
 そんな星の家庭の事情も他の母親達からの微に入り細を穿つような情報から。俗っぽい話をする時に見せる母親の顔に、昔の街に住んでいた頃の柔らかさはなかった。余裕が見えない。
 お母さんも必死なんだな。
 琴美は母の強張った笑顔を見る度、そう納得するようにした。学校生活だけが変わったのではない。家そのもの。普段の生活すらも変わってしまった。環境の変化は全てを飲み込んでしまう。住む場所が変わるという、それは。
 それとも私自身が変わってしまっているの?
 琴美は胸に手を当てた。膨らみ始めた小さな胸。さらにその中で膨らみ続ける星清一郎への想い。それはまぎれもなく初恋。小学校時代には覚えがなかった異性への憧れ。その新しく芽生えた感情に対しては琴美自身ひどく救われた感覚を抱く。だが、裏を返せばその点だけしか新境地での高揚感はない。居心地の良かった小学校時代を偲ぶ都度は増えるばかりで。だから夏休み、長期の休暇に一度入り込むと、そのままずるずると学校に行かなくなってしまうのでは? 夏休みの林間学校すらも参加せず。そんな予想をしてしまう。
 琴美は歩きながら視線を落とし、四つ葉のクローバーを探している自分に気づいた。決まりが悪く感じ目線を川の方に変えてみる。すると川辺に設置された特設グランドで野球をしている生徒達の姿が見えた。恐らく琴美の学校の野球部員。部活動をしていない琴美の午後は長い。
「今頃、星君はみんなとサッカーボールを蹴っているのかな」
 私は一人で歩くだけ。四つ葉のクローバーを探しているだけ。空を見上げているだけ。やや自虐気味な思いに浸る琴美の瞳に三日月が映る。明るいうちから見えるその月は、くすんだ海を漂うクラゲのよう。そんな月を見ていると、一時期は天文部に入ろうとしていた事を琴美は思い出した。月を見たり、そして、星を見たり。だが、結局は入部しなかった。本格的に天体観測とかをやるとなると、天体望遠鏡を買わなくてはならない。だけど天体望遠鏡は高い。だから諦める。そんな方程式をもって琴美は自分に言い聞かせる。みんなの輪に入る事が怖いからではない。決してそうではない、と。野球ボールを打つバットの金属音がやにわに琴美の耳に虚しく響く。
 お母さんがいないから、早く帰って留守番しなくっちゃ。
 琴美は手提げの学生鞄を肩に背負うと勢いよく駆け出した。制服に滲む汗も忘れて。
 
 とある工業団地の五階の一室。そこが篠田一家の住まい。
 琴美が引っ越してきたこの土地はかつて物流倉庫や印刷工場、メッキ工場が立ち並んでいた工業地帯であり、低所得者層に向けて住居を提供していた公営住宅地でもあった。だが、不況の煽りを受け町工場はどんどん衰退していき、工業団地であった建物は大幅なリフォームを始める。その流れに乗じて自治体は逼迫する地方財政から、公営住宅を企業に身売りし、「子供にやさしく、家族が住みやすい住宅地」を名目に大規模な土地開発を進めた。格差社会による弱者切り捨てとして地元住民の批判はあったが、結局はそれが功を奏して新しい入居者の呼び込みは達成し、一方で古くから居をかまえる多くの住人は去っていった。
 半ば強引な再開発計画の裏には、ジェントリフィケーション(富裕地域化)の狙いもあった。投機的には労働者や自営業者向けの住宅よりも、都市勤めの高収入富裕層をターゲットにした新興の集合住宅の建設の方が効率的。広がる格差の追い打ちとともに、貧困層はさらに隅へと追いやられてしまった。
 中流階層以上の住人は、地方公共団体は街の活性化につながったと行政を評価したが、その実は貧困層と富裕層の転換。結句、街の復興は即ち地方財政の潤沢からという理屈の行政判断であった。
 無論、この街に越してきた人々はそのような事情は知らないし、知る必要もない。
 琴美もまた例外でなく。
 今では都市で働く家族のための瀟洒(しょうしゃ)な集合住宅になった郊外のマンモス団地。琴美はより広大になった生活範囲の中で、隣人の顔も見知らぬ状況にいる。この棟に同級生が何人か住んでいるのは分かっているが、誰が何号室に住んでいるかまでは把握していない。折節、琴美はそんな状況に屈託を募らせる。
 成長するに従い、生活空間は広がり、環境は変わり、周りにも自然と人は多くなっていく。琴美自身、年を経るにつれ自分一人で活動出来る事が増え、言うなればよりいっそう自由になっていく。
 だが、一方でひどく不自由極まりなく、漠然とした不安と焦りに見舞われる。
 変わりゆく、何か。
 それが曖昧ではあるが心許ない原因なのかも知れない。琴美はそう慮る。しかし、それ以上のはっきりした答えは、ぼんやりとした今日(こんにち)の日常の中で見出せる事は出来なかった。実体のない「何か」の真意までは。
 斜陽が琴美の部屋をセピア色に染める中、彼女は窓の景色をぼんやりと眺めていた。
 登校する時とか、同じ制服の子とか見かけるんだけどな。
 琴美は姿見に目を移すと首元の水色のリボンを解き始めた。襟周りに溜まった汗のにおいが鼻孔をくすぐる。露になった琴美の上半身。白のブラジャーの胸元が鏡に映る。するとどうしてか悪心(おしん)が走った。奇妙な違和感に襲われた。自分が自分でない。そんな齟齬が。
 琴美はブラジャーとメガネをはずすと、素早く部屋着のTシャツとキュロットに着替えた。
「まだ新しいブラに慣れてないし」
 琴美はそう呟くと電気もつけないまま薄暗い部屋の中、机の上に置いてあった本に無意識的に手を伸ばした。それは星の王子さま。普段は星の王子さまは鞄に忍ばせておくのだが、今日は昨晩の寝る前に読んだまま机に置き忘れてしまっていた。
 琴美は星の王子さまは一読した後も就寝前に読んでみたり、また読まずとも鞄の中に入れていた。この本が側にあると何だか落ち着く。星清一郎。ひいては宇宙人のオジサンの温もりがある。琴美の中で星の王子さまはお守り以上に、書のアロマテラピーとなっていた。実際今も薄暗い部屋でメガネをはずした琴美にとって、それは読む物ではなくただ手元に置くだけでその効用を覚えている。毛布に包まれているような安心感。母もまだ帰らない一人だけの我が家。物静かな空間で琴美は、星の王子さまに一縷の安らぎを覚える。だが、そんな寂しさの中で、父も母もいない家の方が、妙な居心地の良さを感じている自分にも気づく。矛盾した思い。琴美は戸惑う。さらにもう一つ。今の自分と以前の自分。知らないうちにそのような線引きをしていた自らをも悟る。やはり引越しという行為が分水嶺だったか。琴美の思いは混迷するばかり。
 その時、リビングの電話が鳴った。琴美は電話をとる気にならず一瞬留守番電話に任せようと考えた。だが、父からの帰りの時間の報せかも知れないと思い直し、星の王子さまを机上に戻し居間のコードレスの子機を手にした。
「もしもし」
「あ、竹宮ですけど……」
 竹宮。その名を聞いた時、琴美は懐かしさと同時にその相手が自分に用件がある人間だという事に気づく。
「え、怜奈ちゃん?」
「あ、やっぱりコトちゃんか」
 電話の相手、竹宮(たけみや)怜奈(れな)。小学校時代のかつての地元の同級生。そして、もっとも親しかった友人。
「久し……」
「コトちゃん昨日、私のケータイに電話かけたよね。なーに?」
 琴美が旧友との久々の会話に興じようとすると、それを遮るかのようにその旧友本人が言葉を挟んできた。妙に素っ気ない切り返し。琴美は親友とじっくり会話を楽しむために、電話を持って自室に戻り、電気をつけてベッドに横になろうとしたが、ベッドの前で直立不動になった。
 琴美は昨晩、竹宮怜奈の携帯電話に電話をかけた。特に用件はない。ただ近頃募っている、ホームシック的な煩いを紛らわそうと久方ぶりに電話をしただけ。だが、竹宮怜奈は携帯電話には出ず、琴美の家の電話の着信履歴が彼女の携帯電話に残った。
「え、えーと、それは……」
「何? もしかしてスマホかケータイをやっと買ってもらったとか」
「携帯電話? ううん、まだ買ってもらってないけど」
「この前言ってなかったっけ。もうすぐケータイ買ってもらえるかもって」
「あ、そういえばそんな事を言ったかも知れないけど、それはまだ……」
 受話器越しに溜め息の音が聞こえた。
「ああ、そうなんだ。私さ、あんまり電話とか出ないんだよね。メール、というかLINEのやりとりの方が多いんだ」
 竹宮怜奈は語尾を上げて早い口調で話す。面倒臭がっている様子がその声から窺える。琴美は昔からの友達、懐かしい友人相手にかしこまってしまった。
「あ、ごめん……」
 謝る理由はないが反射的それを口にする琴美。竹宮怜奈は琴美の台詞も気にせずつっけんどんに尋ねてくる。
「で、なーに?」
「別に用ってほどの事じゃないけど……」
「じゃさ、今度ケータイ買ったら電話してきてよ。あ、もうすぐ夕飯だから切るね。バイバイ」
 一方的に相手は電話を切ってしまった。小学校の卒業間近、「もうすぐ携帯電話を買ってもらえるんだ。中学に入ったら今の子たちには必要だからって。そうしたらコトちゃんは引っ越して学校が変わっちゃうけど、いっぱいお話できるから寂しくないね」と満面の笑みを浮かべて語る、竹宮怜奈の顔を不意に琴美は思い出す。久しぶりの電話。地元で変わった事はないか聞きたかったし、転校した自分の状況も聞いて欲しかった。それに話がはずんだら、夏休みには地元のみんなで山に行ってキャンプがてらに星空を見よう、と提案もしたかった。だが、それらは成しえなかった。竹宮怜奈は忙しかったのか。疲れていたのか。それとも時間と距離と環境によってお互いがズレてしまったのか。
「…………」
 竹宮怜奈との間に言いようのない溝を琴美は覚える。だが、携帯電話は竹宮怜奈との隔たりを埋めるものではなかった。それだけは直感的に理解する。一緒に携帯電話のストラップを買いに行ったのに。そんな思い出を胸に。
 何か、おかしいな。
 琴美は子機をリビングに戻すと自室に帰り、もう一度部屋の電気を消した。そして、ベッドの上に横になり手枕したまま天井を見つめた。すでに日は没し、室内に色はない。薄い闇が広がるばかり。琴美は目を横に逸らした。かろうじて机の上の星の王子さまは見える。だが、手にとる気力はなかった。疲ればかりが進行している。このままベッドに寝転がっていたい気持ちの方が強い。
 住んでいる場所が変わったから、とかじゃなくて、何かこう、勝手に色んなものが変わっていっているような……。
 琴美は、引っ越さなくても細かい差違はあれ、その芯の部分は同じではなかったか、と考えてみる。結局、変わることは同じ。そのような不可思議な答えを添えて。
「何だか、よく分からなくなってきた」
 琴美はお腹を抱えたまま顔をベッドシーツに埋めた。もうすぐ生理が始まるかも知れない。そんな予感を抱きながら。

〈迎えに来たんだよ。さあ……〉
 誰かが私に手を差し伸べている。誰だろう。顔が見えない。
〈星の船で君を迎えに来たんだよ〉
 男の人の声だ。優しい声だ。それに星の船って……もしかして、星君?
〈ワイと一緒に行こうべな、嬢ちゃん〉
 あ、なーんだオジサンか。もう、ロマンチックじゃないなあ。でも、オジサンは宇宙人だもんね。オジサンなら連れて行ってくれるの?
〈ワイとなら遠い星に行けるでえ〉
 そうだよね。オジサンとなら……。

 まどろみの中、琴美の鼻に香ばしい匂いが掠った。カレーの匂いだ。琴美は寝ぼけ眼のままそう判断する。ベッドに横になりそのまま眠ってしまった琴美。ベッドシーツに染みた涎を軽く手で拭うと、うつ伏せだった状態からあお向けになり辺りを見回した。カーテンを開けたままの自室。何処か見慣れぬ感じがする。他人の部屋と錯覚する。引っ越してから三ヶ月は過ぎているのにどうして? 寝ぼけているから? 琴美は目をこすり直す。
 あ、そうかメガネをかけてないからだ。
 半ば強引にそう決めつけ無聊に虚空を見つめる。すでに部屋は闇に支配され、月明かりや星明りは射していない。夜空は曇っている。ただ純粋な黒が広がっているだけ。知覚できるのは恐らく今夜の夕食であろうカレーの匂いと、リビングで会話しているドア越しからの両親の声。琴美は目覚まし時計の方に目をやる。蛍光色の時計の針は午後八時を示していた。
 お父さんも帰ってたんだ。
 琴美は寝そべりつつ適当に手を伸ばすと、枕を手繰り寄せ抱きしめた。そして、大きく息を吐くと、
「変な夢を見たなあ」
 寝ぼけ声の独り言を呟いた。しかし、その夢の記憶が曖昧で断片的にしか思い出せない。
 宇宙人のオジサンが出てきた事だけは覚えているんだけど。
 再びカレーの匂いが琴美の鼻をくすぐる。
 うーん、ま、いいや。今夜はカレーだし。
 琴美は眠気もそこそこ、身を起こそうとした。その時、琴美の耳に甲高い母の声が鮮明に入り込んだ。
「ねえねえ、あなた知ってる?」
「ん? 何が」
「細川さん、ほら、琴美のクラスの学級委員長の細川恵理子さん。知らない?」
「いや、知らないな。どうかしたのか?」
「ええ、その恵理子さんのお母さんの事なんだけどね。今日クラスの奥さん方とお話して聞いたんだけど……あ、でもなあ、あんまり大きな声じゃ言えない事なんだけどな」
 そう話す母の口調は困惑気味というよりはそれとなく水を向けるように、また、愉悦の印象をも琴美は受けた。実際、母の顔は見えないのでどうなのかは分からない。ただやたらと張りのある声をしているのは確か。しばらく琴美は自分の部屋で聞き耳を立てていた。
「何だよ、もったいぶって。話してみなよ」
「あんまり周りの人には言ってはダメよ。そう言っても前からここに住んでいる人達にとっては周知の事実らしいんだけど。あのね、細川さんの所の奥さんって前に一度自殺未遂したんだって」
 琴美は思わず手元の枕を強く握った。
「自殺未遂? そいつは穏やかな話じゃないな」
「ええ、何かだいぶ前から自傷癖というか、リストカットとかはしてたらしいんだけど、私たちが引っ越してくる半年くらい前にとうとう自宅で首を吊ったんだって。すぐに恵理子さんが発見して命には別状なかったらしいんだけど、その後遺症で足がびっこになっちゃったの」
 足がびっこ?
 琴美は公園でよく男の子とキャッチボールをしている中年の女性を連想する。
「障害が残っちゃったのか」
「そうなの。首の辺りにもロープの線条痕が残っちゃったみたいで、普段は襟周りの大きな服を着ているんだって。細川さん、ほとんど奥さん達の会合に顔を見せないからあまり印象になかったんだけど、私、近くのスーパーで足を引きずって歩いている女の人をよく見かけていたのよね。それで、そういえばあの人が細川さんなんだ、と思って」
「ふうん、でもどうしてまたそんな事をしたんだろう」
「詳しい事情はよく分からないんだけど、意外と細川さんの所って問題があるみたいよ。もともとは郊外の高級住宅地に住んでいたんだけど、経済的なアレで数年前にここに引っ越してきたとか。それに恵理子さんには弟さんがいるんだけど、いじめか何かにあって不登校気味だとか。小学校の低学年らしいんだけど、その時点で不登校なっちゃうっていうのもねえ。お姉さんは学級委員長もして優秀なのに。結局は旦那さんの浮気が自殺未遂の引き金になったって周りでは言っているけど」
「おいおい、耳が痛いな」
 鼻で軽く一笑する父の声が聞こえた。
「あら、あなたはまさか浮気なんてしてないでしょうね。兎に角、細川さんの奥さんはそうらしいわ。まだ私もこの団地周辺にとけ込みきれてないから、色んな情報が整理しきれてなくてアレだけど。それでさ、そこで相談なんだけど、もっと私もこの地域に入り込みたいから、そういうのを兼ねて地元のスーパーでパートのお仕事をしたいなあ、と思って。他の奥さん方に誘われているのよ」
「パートの仕事?」
 尋ね返す父の声は怪訝な口調、といより一変して不快感を漂わす語調になっていた。
「そう、レジ打ちのお仕事なんだけど」
「何だよ。僕の稼ぎだけじゃ足りないからやりたいの?」
「え? そ、そんなんじゃないわよ。奥さん達とももっと仲良くなりたいし、確かにこれから琴美の進学のためにもお金は必要にはなるけど……」
「ああ、もういいよ。好きにすればイイじゃないか。それよりも早くメシにしてくれないかな」
 母の言葉の上に投げたような父の声が重なる。
「え、ええ」
 母は力なく返しその後しばらく居間は沈黙に包まれた。テレビの野球中継の音だけが微かに琴美の耳に伝わる。
 もうすぐ母親が夕食の用意のために呼びに来る。それを考えると琴美は先ほどまでわき始めていた食欲がなくなっている事に気づいた。お腹をさする琴美。チクチクとお腹の中で針が刺さってきている感じ。やはり生理の前兆なのか? それともこの微妙な痛みはストレス的なものなのか? 琴美は暗闇の中、いきなり顔を枕に押し当てた。
 もうしばらく寝たふりをしていたい。
 瞼を閉じて顔を強く枕に埋める琴美は窒息状態。息の詰まりも関せず、僅かに垂れる鼻水も厭わず琴美は顔を隠す。ドア越しから母親のスリッパの足音が近づいて来る。すると琴美はひどく脅えている自分に戸惑った。
                   *
 一学期も終わりが近づくにつれクラスでは夏休みの予定が話題に持ち上がってくる。
 そういえば私の家では何の予定も立ててない。
 例年なら父方の実家に海があるのでそこで海水浴を楽しむ。たとえ海に行くイベントがなくても母の趣味がてら、近場の植物園や庭園などに出かける事があるのだが、今年は何の話も持ち上がってない。
 今年は私の家は何処にも出かけないのかなあ。
 琴美は昼休み時、机にうつ伏せになったまま顔を隠し、周囲の雑音を耳にしていた。額の下に両手を交差させ、それを枕にして寝てはいるが別に眠いわけではない。そぞろな気持ちに従い顔を伏しているだけ。頭の重さが交差した手首を徐々に圧迫し始める。額に赤く跡がついちゃうなあ、と不意に琴美は考える。
 夏至も過ぎた梅雨の最中、曇天下の教室内は一様に蒸し暑く、各々は下敷きを団扇代わりに扇ぐ。琴美もうなじからおぼろげに発生する汗を感じつつも、眠気がないまま机をベッドにして強引に半身を委ねる。廊下側の席で陣取っている細川恵理子ら一団の会話に耳を傾けて。
 恵理子の周りの友達は夏休みの林間学校の他に、家族との旅行の計画の話に夢中になっている。だが、肝心の恵理子はその話題に加わっていなかった。いつもなら恵理子は話の中心に入りMCよろしく取り留めのない女子の会話を引っ張っていくのだが、この時ばかりは「へえ、そうなんだ」とか「いいなあ」など彼女の相槌の言葉しか琴美の耳には入ってこなかった。琴美は交差した腕枕に埋めた顔を僅かにずらし、横目で恵理子の方に視線を移した。恵理子は腕を組みながら、水飲み鳥のような正確さをもって、一定間隔に頷いているだけ。口元は緩んでいるが目は笑っていない。口数も少ない。
 細川さんの所も旅行に行かないのかな。
 細川恵理子の母親が自殺未遂をした。その話を聞いて以来、琴美の恵理子を見る目が多少変わった。他の子らはその事を知っているのだろうか? それともそのような事実は皆の間ではたいしたものではないのか? 話の内容上、誰かに聞くことも躊躇われ、琴美はずっと胸襟に閉まっている。だが、普段、強い眩さを放つ夜の猛禽類の目のような恵理子の両眼、凛として背筋を伸ばしている彼女の歩き姿。そして、柱時計の振り子のごとく揺れるポニーテール。琴美にとって脅威に見えていたそれらが、今では細川恵理子の存在証明に感じている。彼女自身が確立している強さの証として。
 私なら精神的にへこんでしまって、とても普通を装えないよ。
 琴美は恵理子を見ながら、細川さんってしっかりしてるんだなあ、と思うと同時に、時折彼女が見せるやつれた表情に、公園で男の子とキャッチボールをしている例の女性の顔の面影がある事に気づいた。
 やっぱりあの人が細川さんのお母さんなのかな?
 琴美は再び瞼を閉じて顔を隠した。周囲の出鱈目な雑音ばかりが琴美の蝸牛(かぎゅう)に伝わる。
 曇り空の今日、ほとんどの生徒は外に出ず教室内で昼下がりを過ごしている。多くの声が乱れ飛ぶ中、琴美は星清一郎の声だけを探し出そうとした。視覚をシャットアウトして聴覚を澄ます。だが、元来声量のない星清一郎。二つ前の席で星はクラスメイトらと会話をしているのは分かっているが、その声は周りの殷賑に阻まれ琴美の耳に届かない。それでも時折聞こえる星の笑い声に琴美は、冬に掌で揉み解す即席カイロの心地よさに似た安堵を覚える。仄かな温もりを、梅雨の蒸し暑い最中に。
 これだけ人がいれば、別に私だけが狙って星君と昼休みに一緒にいるってわけには見えないもんね。
 細川恵理子率いる星清一郎非公認ファンクラブも、さすがに文句はつけてこないだろう。琴美は森に紛れる木の葉よろしく自分を潜めて、星とのひと時の憩いの空間を共有する。机の引き出しにある星の王子さまの文庫本を傍らに。
 昼休みも終わりに近づく頃、琴美は緩やかな眠気に包まれ始めた。と同時に窓の外から糠雨(ぬかあめ)のざわめきが聞こえる。琴美はぼんやりとした頭を上げて外を見た。するとしとしとと雨が降り始めていた。
 やっぱり降り出したか。
 俄かに降り出した雨。それらは窓の側の花壇に咲く紫陽花の香を焚いたような匂いを際立たせる。琴美はその薫りを鼻に捉えると、折り畳み傘を鞄に忍ばせている事をふと思い出した。

「雨で今日は部活が中止だって」
 帰りの会が終わると室外の部活動をする生徒らが各々その台詞を口にし始めた。皆、口を揃えて「骨休み、骨休み」と言って喜色満面教室を出て行く。
 雨が強くなってきたな。
 琴美は雨が降り続き道路に水溜りが出来ると靴が染みる、と思いいそいそと帰り支度をして昇降口へと向かった。傘を持ってこなかった幾人かの生徒は玄関口で外に出るのを躊躇っていたが、すぐに男子生徒らは一つ掛け声をした後走って飛び出し、居残っていた女子生徒らも傘を持っている友達と一緒になって帰っていった。琴美は鞄から用意していた折り畳み傘を取り出そうとする。
「まいったな」
 その声に琴美は無条件に反応する。そよ風のように自然と琴美の耳に、肌に染み込むその声の主は星清一郎。星は生徒用玄関口の庇の下で、雨とにらめっこをしながら隣にいるクラスメイトと話している。
「何だよ、星。これぐらいの雨」
「嫌なんだよ俺、雨に濡れるの。傘持ってきてなくてさ。止むのを待とうかな」
「うわ、そんなのやだよ。俺だって傘はないけど、折角の休みだってのに、雨が止むのを待っていたら日が暮れちゃうよ。とっとと帰ってゲームしたいから先に行くからな、んじゃ」
 クラスメイトはそう言い残すと走って玄関を後にした。星は眉をひそめて雨を睨んでいる。そして、幾つかの静寂と雨の音だけが彼を包み、また、琴美を抱く。周りに人はいない。二人きりの状況。琴美は胸の高鳴りを覚えた。
 今、私が傘を出したら。
 一緒に帰る、というのも自然な流れになるのでは? 琴美は星と相々傘をして下校する姿を想像した。
 ダ、ダメだ! 私には刺激が強すぎる。
 琴美は傘を取り出すのを逡巡した。鞄に入れた手は折り畳み傘ではなく星の王子さまの文庫本を掴んでいた。
 だけど、星君、困っているしな。
 琴美は鞄の中に入れたその手を、しばらくまごつかせた後、折り畳み傘の方へと移し始めた。とその時、
「あ、星君。どーしたの?」
 聞き覚えのある声が重なって聞こえた。それは細川恵理子ら一団の斉唱。星はこめかみを掻きながら、
「いや、傘持ってこなくてさ」
「え、そうなの。じゃあ、私達と一緒に帰ろうよ。傘持っているからさあ」
「ええ? 傘持ってるって言われても、ちょっと、何ていうか……」
「同じクラスだし運動部仲間、イイじゃん。気にしないで」
「いや、だから、そういうんじゃなくて。一緒に傘に入るってのはどうも……」
 星は面映(おもはゆ)く眉間を掻いた。その仕草をどこかで見た。琴美は不意に直感する。
「あ、相々傘が恥ずかしいんだ。星君、カーワイイ」
 恵理子は屈託のない笑顔でそう言った。その顔に琴美が見ている普段の鋭い恵理子の表情はない。笑窪を含んだ少女らしい喜笑。周りの取り巻きも嬌声を上げて星をはやしている。星が困ったような顔をしていると恵理子は、
「分かった。じゃあ星君には私の傘を貸すから、私は他の子の傘に入れてもらうね」
 恵理子はすぐさま自分の傘を星に手渡した。「イイって、悪いって」とバツが悪そうに言う星を他所に恵理子ら一同は、半ば強引に星を連れて一緒に下校していった。帰り際、恵理子は琴美の存在に気づくと琴美を一瞥して、
「さ、行こ行こ」
 と言い恵理子の傘を手にした星の二の腕に軽く触れて見せた。呆然と琴美は、賑やかに話す星と恵理子らの小さくなっていく後ろ姿を眺めていた。そして、大きな溜め息を吐くと鞄から乱暴に傘を取り出した。
「雨、なんだよなあ」
 琴美は無意味な独り言をすると、この世の終わりのような、もしくは、死にたくなるような感覚に襲われている自分を許容した。

 雨脚は強くなったり、弱くなったり。不規則に降る雨が琴美の傘に打ちつける音色は下手なパーカッション。琴美は傘を気持ち回してみてその響きを誤魔化す。そして、雨の日はイヤだな、と考える一方、だけど小学校の頃は雨の日はそんなに嫌いじゃなかったな、とも顧みてもみる。雨の日はすき好んで自分の方から水溜りに足を踏み入れていった、と。
 ま、あの頃は長靴とか履いていたし。
 だからピチピチ、ジャブジャブ、ランランラン、と楽しめたんだろう。さらに琴美はクサい思慕にふけてみる。
 雨の日はブルー。そして、私の気持ちもブルー。なんちゃって。
 簡単なカタルシスに琴美は浸りつつも、あの時傘を出すのを迷わないでいれば星君と一緒に帰れたかも知れないのに、と現実的な反省をするのも忘れない。
「でも、星君とは家の方向が逆だったかも知れないから、一緒に帰れなかったんじゃないかな。うん、きっとそうよ」
 自分を納得させるように独り言をして頷く琴美。だが、しつこく何度も頷く琴美の顎の動きは次第に鈍くなる。
 ああ、だけどもし星君と相々傘しちゃったら、家が全然違う方向でも遠回りして一緒に帰っちゃってるよ。
 強がるための強引な得心はすぐに未練に変わり、琴美はその場に塞ぎこんでしまいたい衝動に駆られた。
 微風が吹き、雨がメガネにかかる。レンズに付着した雨は水滴に転じた。それは仮の涙か。悔しい心の汗のメタファーか。センチメンタルな気分に沈んでいる琴美の足は、知らぬ間にいつも来ている公園に向かっていた。いや、最近は来ていなかった。久しぶりの公園めぐりにして、雨の日の公園は初めて。実際、その公園を目の前にすると懐かしさと新しさがまじった複雑な感情を抱く。
 公園の入り口付近に咲くスイートピーがだしぬけに伏し目気味の琴美の瞳に入った。雨に濡れるクリーム色のスイートピーは健気で可愛らしく見える。琴美はしゃがみこんで触れてみようとした。だが、その動きが止まる。
 スイートピーの花言葉って、別れ、じゃなかったっけ?
 琴美は立ち直すと首を横に振り、
「ああ、イヤだ、イヤだ」
 と言いスイートピーから目を背けた。
 星君と離れ離れみたいになりそうで縁起が悪いよ。
 もともと星とはほとんどコミュニケーションをした記憶はない。だが、元より隔てた感のある星との距離がさらに遠ざかる錯覚を琴美は抱く。いや、星だけではない。父親や母親。昔の友達。今の学校。思い出。そして、自分自身。何もかもが漠然と遠くに去っていく。琴美は周りだけではなく、自らに対しても言いようのない距離感を感じてしまう。
 雨のせいであろうか。琴美は止めどなく落ち込んでいく自分を認知する。直感する。また理解してみようとする。
 だが、答えは見つからない。
 透徹した雨が容赦なく琴美を濡らす。体ではなく、心をただただ湿らせていく。居た堪れない思いを宿した琴美は公園を見渡してみた。案の定、人の姿は見えない。それでも琴美は蜘蛛の糸にすがるように雨で曇るメガネから覗いてみる。
「あ……」
 公園の隅のベンチに誰かが見える。ただ一つの公園の人影。それは琴美にとっての宇宙人のオジサン。傘を差している気配はない。うな垂れるようにベンチに腰を下ろしているだけ。雨にも動じず。雨中、捨てられた仔犬のように弱々しい……というとキレイに聞こえるが、その姿は仔犬のそれよりも儚く見える。
 まるで濡れ雑巾じゃない。
 語彙が少なく想像力に乏しい琴美は、失礼にもオジサンをそう形容する。どしゃ降りという程ではないがこのまま雨に身を晒していては体を悪くするのは必至。琴美はオジサンの元へと駆け寄った。水でぬかるんだ地面は琴美の足音を顕著にさせてはいたが、琴美の傘がオジサンの頭上に掲げられても、オジサンは琴美の存在に気づいてはいなかった。
「オジサン」
 たまらず声をかける琴美。オジサンは琴美の一言から一拍置くと振り返り、
「おお、お嬢ちゃんじゃないけ。どうしたね、こんな雨の日に」
 と言いつつ眉間を中指で二,三度掻いた。
「どうした、じゃないですよ。オジサンこそこんな雨の日に傘も差さないで。風邪、ひいちゃいますよ」
「はは、そやな。でもオッチャン、ジーン・ケリーの『雨に唄えば』の気分なんや。雨の中、陽気にダンスして唄うジーン・ケリーのな。だからちょいと雨に濡れても平気なんや」
 陽気にダンスして唄う、とオジサンは言っているが、肩を落として目の焦点も合わさず座っていたオジサンのその姿は、琴美にはとても溌剌とは見えなかった。
「ワイの事はエエとして、嬢ちゃんこそわざわざ雨の日の公園に来て何ね?」
「あ、えーと、私は……」
 そういえば思い浮かばない。知らないうちにこの公園に来てしまった。ただ誰かに会いたい、という気持ちは強かった。
「そうですね、誰かに会いたくて、この公園に来たのかな?」
「誰かに会いたくて……わざわざ人気のなさそうな雨の日の公園に来るもんかね」
「そ、そういえば、そうですね。何でだろう」
「はは、自分でも分からないんか。そやな、じゃあ、きっとお嬢ちゃんも寂しいんやな」
 お嬢ちゃん『も』と言ったオジサンの台詞が琴美は気にかかる。琴美は声を張ってみせて、
「きっとオジサンに会いたかったんですよ、私」
「おお、相変わらずお嬢はワイを喜ばすツボをおさえとんの。じゃ、口笛はうまく吹けたんか」
「あ、そういえば、口笛吹いてないです、私。それにまだ口笛が吹けないんですよ」
「口笛なんて簡単じゃろうが」
 オジサンはそう言うとさり気無く口笛を吹いてみせた。その音色は『虹の彼方に』だった。それを吹くオジサンの横顔は少しだけ若々しく琴美には見えた。
「あ、虹の彼方に……」
「そや、この曲はどっかで聞いた事があるやろ。元々はミュージカル映画のオズの魔法使いでジュディ・ガーランドが歌っていたもんでな。そういや雨に唄えばもミュージカルやけど、今度機会があったらビデオで見てみんさい、ミュージカルもの。あ、今はビデオじゃなくデー・ブイ・デーか」
 琴美は口を尖らせるて唸ると、
「オジサン、虹の彼方にって口笛にしやすいメロディなんですか?」
「うん、まあ、そやな。何でそんな事聞くんや?」
「いえ、前に見た事があるんですよね。その曲の口笛を吹く友達……という程親しくないかも知れないけど、男の子を」
「ほう、そいつは良い趣味してる子やの。嬢ちゃんもそういったセンスの良いボーイと付き合うのがよろしいな」
 琴美ははにかんだ顔をするとコクリと頷き、
「……だと良いですよね。口笛、うまくなるように練習します。今日は運よく口笛を吹かなくてもオジサンと会えたけど、やっぱり口笛を吹かないとそうそうオジサンに会えないですもんね」
 オジサンは片眉を僅かに吊り上げると、
「あ、う、うん。まあ、そやな。でも。あんまり気にする事でもないべな」
 と気まずそうに答えた。そして、間の悪さからオジサンは地面に目を落とすと、泥水が付いている琴美の白のスニーカーが目に入った。
「嬢ちゃん。ワイの事は気にせんでエエから傘をもっと自分のそばに引きいな」
「そんなのダメですよ。オジサン、濡れちゃいます」
 オジサンはそう言った琴美を見上げてみると、すぐに目線を逸らし琴美に背を向けて、
「ほんま、嬢ちゃんは優しい子やな。良い子や。本当にかわいらしい良い子や……」
 そして、鼻をぐずつかせた。
「あ、オジサン。タオル貸しますね」
「そんなもん要らへん、要らへん。小汚いオッチャンには必要あらへん」
「何言ってるんですか、オジサン。さっきお鼻ぐずつかせたでしょ。本当に風邪ひいちゃいますよ」
「風邪とはちゃう。風邪とは違うんよ、嬢ちゃん」
「え?」
 ベンチに座っているオジサンは琴美から背を向けているので表情が分からない。妙に弱々しい声。ただオジサンの猫背がかったその背がどうにも小さく琴美には映る。琴美はオジサンの肩に手をかけようとした。
「そや、お嬢ちゃん。星の王子さまは読んだんけ?」
 とその時オジサンは、先ほどまでの張りのない声とは打って変わって、明るい口調になり琴美の方を振り返って告げた。琴美はオジサンの肩に手を乗せようとした動作を止め、
「あ、はい。読み終わりました」
「そうか、そうか。エエ話やったろ。何か好きな場面とか、台詞とかあったかいな?」
「うーん、そうですね。王子とバラの花が別れる所かな。花が泣く姿を王子に見られたくなくて強がるシーンとか」
「おお、さすが嬢ちゃんや。良い感性をしとる。グッドなチョイスや」
「オジサンは?」
「え、ワイか」
 オジサンは逆に質問されるとしばらく考え込み、
「そやな。しっかりと読んだのはだいぶ前なんで記憶に乏しいんやが、確か王子が訪れた三番目の星、やったと思うんだけども、そこにいた酒に溺れている男の台詞が何か引っかかるかのお。恥を忘れるために飲んでいる、と言いつつも、飲む事を恥じている、と言う男の台詞。そんな言葉やったと思う。ま、今になって……今の我が身になって考えればやけど」
「だけどオジサン、お酒を飲んでいる風には見えないけど」
「いや、酒云々やないんや。ワイの場合、生きる事それ自体を恥じているというか……ま、ワイの事はエエよ。お嬢がバラの花と王子が別れる場面がエエといったらそれでエエんやし」
「あ、そういえば、オジサン。オジサンも星の王子さまみたいに花とケンカして地球にやって来たって言ってましたよね」
「え? ワイがケンカして地球に来たって、どういう意味……」
「だってオジサン、ワイを宇宙人だと見破ったのは私だけだって……」
 オジサンは「あ」と小声を出すと、
「そや、そや。オッチャンの正体を見破ったのはお嬢ちゃんだけやで。凄いでぇ、お嬢の審美眼は。オッチャン、そら腰抜かしたわ。インド人もビックリや」
 琴美は傘を持つ指に多少力を入れると、
「そんなことないですよ」
 と照れ臭そうに言った。そして、腰を屈めオジサンの顔に近づくと、
「で、で、オジサン。何ですか、花とケンカしたって?」
 興味津々に尋ねる琴美。オジサンは不用意に顔を接近させてくる琴美に僅かに後退りしながら、
「そ、そんなことまで、ワイ言ったっけ」
「言いましたよ。教えて下さいよ、オジサン。今度会ったら星の話をしてくれるって約束したんだし」
「う、うーん。そやっけなあ、まあ、その厳密に言うとケンカして地球に来たんではなく、その、何や、そうや。ワイは地球人になりすましている宇宙人やんか。それでずっと地球人として暮らしてたんや。普通の地球人の生き方、つまり学校行って、就職して、結婚して、家族つくって、そんな人並みの生活や。だけども何やろうなあ、うまいこと続かなかった、という事やな」
 オジサンは何度も頷きながら言葉を選ぶように話す。
「へえ。じゃ、何でオジサンは地球に来たんですか? 何で地球人になりすましたりしてるんですか?」
 オジサンは背中をピンと伸ばすと、
「う、うーん、さすが嬢ちゃんや、ズバリ的を射たクエスチョンや」
 と言いながら握り拳で顎を叩きつつ、
「実はな、お嬢ちゃん。ワイは壮大なプロジェクトのため、地球に来て地球人になりすましてたんや」
「壮大なプロジェクト?」
「そや。宇宙人であるワイが地球に来て、果たして地球人になりきれるか。地球の生活に慣れ平均的な地球人のライフスタイル、とどのつまり家族の営みを成功させられるか。そや、言ってみれば宇宙人と地球人の間に愛っちゅうもんは生まれるかや。それを試すため五十年近くこの地球にいて実験してたんや」
 宇宙人と地球人の間に愛が生まれる。その言葉に琴美の乙女回路のスイッチが入った。
「すっごいじゃないですか、オジサン! すごく素敵なことじゃないですか」
「はは、そうかい」
 嘆声交じりの琴美とは裏腹に、オジサンは素っ気なく返す。琴美はぬかるんだ地面も構わず、つま先をグイと押し込んでさらに屈み、
「それでオジサン、実験の成果はどうなんですか?」
 と顔を上気させて尋ねる。オジサンは熱い吐息を吹きかけてくる琴美の様子も気にせず、
「そやな。ワイもこの地球で長いこと地球人らしい生活をしてたわな。そら色んな地球人と会ってきたがな。色んな友達とすれ違ったし、それに恋ってやつかの。そういうのもしてみたわな、若い頃は。んで、一度その地球でいう恋愛って類いのヤツで、オッチャンな、一回挫けそうになった、いや、実験やめようかと思った時期があってな」
「失恋、しちゃったんですか?」
「うーん、その方がよっぽどマシやったな。その、何や。好きだった相手が事故で死んでしもうたんや」
「え?」
 琴美は一瞬声を詰まらせた。するとすぐにオジサンは手を振って、
「いやいや、辛気臭くならんでもよろしい。もう大昔の話や。まあ失った『花』は大きかったけど、しばらくしたらまた実験再開したし。地球人としての暮らしに戻ったんや。そんでその後は社会に出て、家族もつくったんや。そう、今はこんなんやけどオッチャンにも家族がおってな。奥さん一人に、子供が一人。だけどもう何年も会ってへんのや。ワイがその……いや、もうエエか。話がダラダラと長くなるだけや。ま、だから言ったらつまり、そうやな、実験は失敗になるんやろうな」
 と素面のまま淡白に語った。琴美は「ええ」と小さく短い喚声をあげると、
「そんなあ、何でですか?」
「複雑な事情や。まあ、一言では説明できへんけど、多分悪いのはワイの方やろ。そんで何だかんだあって、ワイの家族、今はワイの家族とは違うけど、昔のワイの家族がこの街にいるっちゅう事を知って未練がましくもワイは……いや、再調査という意味でちょっと会い行こうとしたんや。でも、実際会えへんかった。探す事は出来たけど、遠くから見るのが精一杯やった。新しい旦那さん、そう、地球人の旦那さんと奥さんと子供は仲良くしてたわ。オッチャンの子も元気そうやったし。そういえば嬢ちゃんと同い年になるのかなセイ……いや、あの子は。お嬢みたいな可愛らしい女の子でなく、生意気盛りのやんちゃな男のガキやけど」
 オジサンはチラリと琴美の方を見た。琴美はベンチに腰掛けようとした。オジサンは「おケツ濡れるで」と注意を促したが、琴美は即座に座って「いいんです」と答え、オジサンの横に座した。琴美はオジサンの横顔を見つめ、
「オジサン、会って話とかしなかったんですか?」
「そやな。もうその必要はない、再調査は終了と思ってな」
「家族の人はオジサンが宇宙人だという事は知らないんですか」
「そや、知らへん。そうや、言ってしまえばずっとワイは騙してたんやな。何もかもを偽ってたんやな。だから当たり前の報い、いや、実験結果なんや」
「そんな……」
 琴美の声が萎んでいく。琴美の顔が色褪せていく。琴美のメガネに奥に隠れた瞳に愁いを覚えたオジサンは、
「何や、何や嬢ちゃん。そんな弱々しい声出したらあかんって。お嬢みたいなキュートな子は元気ハツラツでないと。そんなんじゃオッチャンがへこんでしまうわ。確かにしんどい結果やけれども、これが事実なんやよ。結局、ワイは宇宙人やったんやな。地球人になりきれんかったんや。宇宙人のままやった。そんでその答え、地球人と宇宙人は一緒になれない、という事になるんや。やっぱり地球人は地球人同士が一番エエんやな」
 と明るく努めて言って見せた。琴美は下唇を噛んだ後、
「そんなの悲しすぎますよ、オジサン。頑張ってみてくださいよ」
 と請うように言った。だが、オジサンは首を横に振り、
「いや、もうイイんや。もう、全ては終わったんや。だから長いことこの地球にいたけど、もうそろそろワイはワイの星に戻ろうと思ってな。そや、今日お嬢と会えてちょうど良かった。実は帰り支度をしてたんや」
「ええ、オジサン帰っちゃうんですか」
「そや。最近までビジネスで忙しくてこの公園に来てなかったんやが、それは自分の星に帰るためのブツを買う、というか手段のための資金稼ぎのためやったんや。そんで晴れてブツが手に入ったんでな。もうこの星に居座る理由はあらへん。ま、さよならだけが人生や」
「帰るん……ですね」
 琴美はゆっくりと顔を俯かせていった。そんな琴美の横顔をオジサンは黙って見つめた。琴美の気色は窺えない。曇ったメガネから覗く彼女の様子は、無表情にオジサンは感じた。小雨が傘に擦れる音のみが二人を包む。ひと時の寂寞。
「……私もオジサンの星に連れていってもらえませんか」
 それは絞りだしたような琴美の言葉だった。
「え?」
 オジサンは一瞬顔を強張らせると、反射的に琴美の方を向いた。メガネの空隙から僅かに琴美の瞳の様子が覗けた。瞬きをせずじっと一点の虚空を見つめている。まるで人形の目のように。
「私も行きたいんです。オジサンの星に」
「な、何言ってんねん、嬢ちゃん。オジサンの星は遠いぜよ。それに……そや。オッチャンの星に行くには、星の王子さまが蛇に咬まれて自分の星に帰ったように、そんな痛み、というか、ちょっとした眠りがともなうんやで。怖いべ」
「いいんです。大丈夫です。一緒に連れていってください」
 ゆっくりではあるがはっきりとした琴美の口調。オジサンはしばらく口をアワアワと半開きにさせると、
「本当か」
 今までの訛りのイントネーションがない真顔の一言を発した。膝小僧に手をかけていたオジサンの手が握り拳になる。さらに、
「本当に、俺と一緒に来てくれるのか?」
 やや身を前に乗り出し標準語で念を押して尋ねる。琴美は黙ってコクリと頷いた。そして、
「私、よく分からないんです。知らないうちに何もかもが変わっていくようで……分からないんです。私が勝手に変わっちゃっていってるのかも。だけど、それも分からないんです。何が何だか分からないんです、オジサン! お父さんもお母さんも分からなくなっちゃったし、自分の事も分からなくなっちゃったし。学校はつまらないし、友達もいないし、好きな人ができても一人ぼっちだし。私、ここから、この街から出て行きたいんです、オジサン」
 時に語気荒く、時に声をひそめて思いのたけを吐き出す琴美。それは悲しくも力強い叫びとしてオジサンの耳に届いた。
「もう、嫌なんです。もう、ここに居たくないんです」
 琴美は力を込めて傘の柄を握る。そして、小刻みに肩を震わせる。メガネの奥から涙が止めどなく流れる。かみ締める唇。鼻のすする音。幼子のように琴美は泣きじゃくる。オジサンは琴美の肩に手をまわそうとした。抱き寄せようとした。だが、止まった。いや、止めた。オジサンは止めてみせた。
 オジサンは首を何度も横に振ると、
「駄目だ……」
 と呟いた後、
「いや、ダメなんや。ダメなんや、お嬢ちゃん。ワイはお嬢を連れていけないんや。ワイではお嬢ちゃんを連れ出していけないんや。俺では……ワイでは無理なんや」
 オジサンは琴美の肩にまわそうとした手を、空中で止めたその手を、強く握り締めて歯軋りしながら答える。さらにギュっと手を握り締めた後、それを膝に戻す。そして、
「そや、実はちょっとした眠りというのは嘘でな、オッチャンは普通にロケットで星に帰るねん。それでそのロケットちゅうのは一人乗りでな、嬢ちゃんが乗ると定員オーバーになるんや」
 おどけた感じで喋った。だが、琴美はそんなオジサンとは対照的に思いつめた表情のまま言葉を返す。
「お願いします、オジサン。私も連れて行ってください、オジサンの星に。私、宇宙人のオジサンと一緒がいいんです。私は一人なんです。友達ができないんです。宇宙人のオジサンじゃないと……」
「ダメや!」
 懇願するようなその台詞を遮って突如オジサンは言った。いや、怒鳴った。琴美はオジサンのその一言に一瞬身をすくめた。するとオジサンは琴美の顔をじっと見つめ、
「いいかい、嬢ちゃん。ワイは一人で帰るんや。一人で帰らなきゃならないんや。ようく覚えとき、お嬢ちゃん。ワイがこの星から出て行ったらもうこの星には宇宙人はいなくなる。ワイが最後の宇宙人なんや。宇宙人というのはいないんやで、お嬢ちゃん」
「そんな。だったら私、本当に一人ぼっちになっちゃう」
 諭すようなオジサンの口調。それに対して迷子のような嘆きで返す少女。
「確かにこの星から宇宙人はいなくなる。だけど寂しくなったら星空を見上げるんや。星の王子さまも言ってたやろ。たくさんあるその星の何処かに僕がいるからって。ワイも数多の星のどっかにおるから。いつでも嬢ちゃんを星の光で照らしているから」
 鼻をぐずつかせる琴美にオジサンは、ポケットにしまってあった雨で湿りきったティッシュを手渡す。琴美は濡れたティッシュで構わず、チーン、と大きな音を出して鼻をかんだ。オジサンは微笑し、元気な音や、と呟くと、
「ワイとお嬢ちゃんは、そやな。星の王子さまとキツネの関係なんや。仲良くなり始めたから別れなきゃいけない。そんなセツなーい関係なんやな。それはきっとワイが宇宙人で、嬢ちゃんが地球人やからかも知れん。だけどお嬢の学校の子らは地球人だべ。お嬢ちゃんと同じ地球人同士だべ。友達になるなんてわけあらへん」
「だけど……どうやって?」
「簡単や。まずは話しかけてみるんや。ワイがこの公園でお嬢に話しかけたようにな。ワイらは友達やろ?」
 琴美は徐に頷く。
「だべ。簡単なことなんや。嬢ちゃんはワイが見込んだ素直な良い子や。そんなお嬢に友達ができないわけがあらへん。あとは嬢ちゃんのガッツや。何も怖がることない」
 琴美は手の甲で頬に跡ひく涙を拭うと、
「でも、私、今になって上手に話せそうにない」
「何を弱気になってんねん、嬢ちゃん。こんな小汚いオッチャンが嬢ちゃんに話しかけて友達になれたんや。それを考えたらよっぽどハードルが低いわ。お嬢の優しい心はみんなにも伝わるし、みんなも嬢ちゃんみたいな優しい心は持っとる。嬢ちゃんが友達をほしいと思ったら、みんなもそれは一緒と考える。そう信じるんや」
 琴美はしばらくオジサンを見つめると、躊躇いがちに頷いた。ホンマに素直なエエ子や、とオジサンは囁くように言う。琴美は大きく唾を飲み込むと、
「オジサンとは、もう会えないんですか?」
「え? う、うーん、そやなあ。まあ、会えへんやろうな。だけどさっきも言ったように遠くの星の一つから嬢ちゃんを見守っているし、それに……」
 オジサンは眉間をポリポリと掻くと、
「別に地球での実験が失敗したから、後ろ向きな感じで帰るわけやないんや。星の王子さまが花と会うために帰ったように、ワイの星には失ったはずのワイの花が待ってるんや。もうワイは自分に嘘をつかん。いわばポジテブ・シンケングで帰るんや。だからそんな悲しい事はあらへんよ。ちょっとの間だけ嬢ちゃん、寂しいだけや。ほんのちょっとの間だけな」
 オジサンは琴美にウィンクして見せた。老木の樹皮のような皺が目尻に寄る。そして、胸ポケットにある湿りきった葉巻を口にくわえると、
「お嬢ちゃん、もう傘はたたみな。雨は止んだで」
 琴美は手のひらを傘から差し出してみた。水滴がかかる感触がない。いつの間にか雨は止み、ホコリがかった木綿のような雲間から、薄い橙色の西日が注いでいる。それはまるで宗教画の天使が舞い降りてくる射光にも見えた。琴美が傘をたたむとオジサンは立ち上がり、
「キレイな夕焼けや。ワイと嬢ちゃんには夕焼けがよく似合うの」
 と言って琴美に背を向け歩き始めた。琴美はたまらずオジサンの背に話しかけた。
「オ、オジサン」
 オジサンは立ち止まると、
「ワイは宇宙人や。借り物の地球人の体なんて落花生の殻みたいなもんやろ。星の王子さまも言ってたやないけ、肉体なんて古い抜け殻だって。お嬢ちゃん、星空を見上げたら時々オッチャンを思い出してくれや」
 と後ろを向いたまま答えた。そして、
「老兵は去るのみ。さらばや、お嬢ちゃん」
 ゆっくりと宇宙人のオジサンは歩き始める。穴の開いた水浸しの革靴をガバガバと音を立たせて。また、決して琴美の方は振り向かず、片腕を上げる事もなかった。
 別れ、を琴美は予感する。
「オジ……」
 琴美は言葉を投げかけようとした。だが、声が出なかった。さよならの一言も告げられなかった。
 オジサンは肩をすくめて両手を抱えると、小走りして去っていった。一筋の夕陽に向かっていくその姿は小さくなり、そして、見えなくなった。呆気ない暇乞い。琴美は雨後の公園に独り佇む。一瞬の青嵐(あおあらし)が琴美のうなじを掠った。生温い追い風のそれは層雲を分けさらに斜日をもたらす。やがて琴美の上空に茜空が広がる。
「さようなら、オジサン」
 誰もいない公園で琴美はそう独り言を残すと、ぬかるんだ土をしっかりと踏みしめ歩き始めた。不思議と別離の寂しさや悲しみは少ない。頬に伝わった涙の跡はもうない。胸は晴れている。琴美はそれを実感する。ただ公園を出て行く際、足元に咲いていたクリーム色のスイートピーが鮮やかに目に映った事だけは、一つ気持ちに引っかかっていた。
                   *
 梅雨明けの目処がたったある初夏の午後。
 川の下流河口付近の土手に取り残されてあった廃品状態の車の中で中年男性の死体が発見された。閉めきった車内では大量の睡眠導入剤と酒が散乱していた。検視官が調べた結果、多量の睡眠薬のアルコール服用による自殺としてそれは簡単に片付けられた。身元不明の浮浪者の、恐らくは生活苦のあまりの根を詰めての事件性のない自殺。そのように。
 年間自殺者三万人超の昨今。現在の不況の世の中、よくある「社会現象」の一つとして括られたこの自殺は、流行りの硫化水素自殺でもなく、周囲に被害が出なかった分、付近住民の噂に持ち上がる事はなくすぐに風化してしまった。
 ただ一介の浮浪者にしては身なりが小汚いわりに、全身をスーツで着込んであったり、ワイシャツの胸ポケットに湿気た葉巻が所持してあったり、また、ホトケの寝顔が自殺体に多い苦悶の表情がなく穏やかであったり等、少々気になる点があった……と現場の警察官は記憶していた。
                   *
 寝ぼけ眼、朝の歯磨きの最中、富士山開きのニュースをテレビで聞いた琴美は部屋の窓を眺めてみた。今日の蒼穹下、遥か彼方、僅かに富士山の稜線が覗ける。雲一つない日曜の澄んだ朝。時計の針は十時を指している。不意に琴美は外に散歩へ出かけたくなった。ただ寄る辺なく。
 久しぶりの晴れた空だ。
 琴美は早々と寝巻きを着替え朝食も軽くすますと、日曜の朝から忙しく動く娘の姿を訝る両親の目を他所に、外へと出て行った。エレベーターを使わず早足で階段をおりていく琴美。普段は見知らぬ団地の住民に対しても、すれ違う際には挨拶が自然とこぼれる。どうしてか心が柔らかく軽快だ。琴美は思う。晴れている空がそうさせるのか、と。懐かしい太陽の光が気分を高揚させるのか、と。
 うーん、爽やかな朝だもんね。
 駐車場の茂みを琴美は駆ける。昨晩の雨で溜まった水溜りを彼女は飛ぶ。新緑の香りがまだ息づいている。琴美は道端に生える雑草の匂いすらも鮮やかに覚える。メガネに映るいつもの景色が新しく見える。
 何だか街が息づいているな。
 琴美は何の脈絡もなしに、私はこの街に受け入れられた、と感じた。
 ううん、もしかしたら私がこの街をやっと受け入れたのかも。
 どうして急にそんな思いが浮かんだのか琴美には分からない。ただ直感する。麦秋(ばくしゅう)の風を頬に受けながら。
 小道を通り、裏道を抜け、土手を越えて琴美がたどり着いたのは公園。葉巻の、宇宙人のオジサンと別れて以来ぶりの公園の訪問。こんな綺麗に晴れた日ならオジサンが帰ってくるかも知れない。琴美は根拠のない思いを胸に公園を見渡してみた。だが、オジサンの姿は見当たらない。
「ちぇっ」
 琴美は小さく舌打ちすると足元にあった小石を蹴飛ばした。そして、デニムのハーフパンツのポケットに手を突っ込んで踵を返そうとした。だが、振り返ろうとしたその時、琴美の瞳に幾つかの人影が見えた。
「あれ」
 公園の隅に置かれたブランコを男の子が漕いでいる。その男の子は普段、ゴムボールで母親とキャッチボールを興じている少年。彼の傍らに細川恵理子の姿が琴美に映った。恵理子はブランコを漕いでいる男の子の背を軽く押して弾みを補助している。そして、恵理子と男の子の側にはびっこの中年の女性がベンチで座っている。またその横には彼女と同い年ぐらいの中年の男性が座っていた。肩を寄り添いながら。その四人以外、琴美を除いてこの公園には誰もいない。そこには四人だけの景色があった。
「…………」
 男の子の背を押す恵理子の姿が琴美には眩しく見えた。力強く映った。また、その強さがほしい、と一瞬思った。
 琴美は急遽、逃げるようにしてその場から去った。特に意味はない。ただ恵理子をけん制して、というよりも四人の邪魔をしたくないという意識が強かった。ブランコが勢いよくなり、それに喜ぶ男の子の声が、いくらか公園を離れた琴美の背に届く。おいおい、そんなに押すと危ないから止めなさい、恵理子。そんな中年男性の低い声も重なって聞こえる。それでもキャッキャッと喜ぶ男の子の笑い声は絶えない。
 不意に琴美は立ち止まった。
「良かった」
 だし抜けに漏れた独り言。琴美も自分自身、どうして「良かった」などと言葉が出たか分からない。だが、胸が仄かに温まっている。そして、一つだけ琴美は確信する。
 この街を好きになり始めた、と。
                   *
 夏休みまで一週間。
 蝉の鳴き声もまばらの中、教室内は熱気に満ち、授業中には多くの生徒が下敷きを団扇代わりにあおいでいる。だが、雲一つない夏晴れの午後。昼休みともなれば蒸し暑い教室から各々校庭へ、野外へと飛び出していく。結局は皆、暑いながらも快活に外へ出て汗を流す。
 幾人かの生徒を教室に残して。
「なーんだ。今日は星、ブンガクの日かよ」
 サッカーボールを持った男子生徒がそう言うと、星清一郎ははにかみながら小声で、ワリぃな、と答え静かに読書をし始めた。校庭の賑わいに比べて静謐さが残る教室内。ほとんどの生徒が屋外で昼休みを満喫する中、星清一郎は時折首筋に溜まる汗をタオルで拭きながら読書している。
 その窓際後方の席で篠田琴美も同じく読書を。
 琴美は星清一郎の影響もあってか、別段、星が読む本に沿って同じ本を読むのではなく、自分自身が読書したいと思って自選した本を読むようになった。つまり、星とは関係なく自分の一個の趣向として読書が好きになっていた。今、読んでいる本は「赤毛のアン」で、ちょうどアンとギルバートが仲直りをするくだりのセンテンスであった。
 その場、その空気で、お互い、琴美も星も何の深意もなく読書していた。
 そして、そんな二人の距離間に対してヒソヒソ話を交え、怪訝な面持ちで廊下側、窓際の反対の席から見張っている細川恵理子ら一団。三者はピタゴラスの定理を活用できる配置。直角の箇所で琴美は恵理子達の視線も気にせず読書にふけている。上履きを時々脱いで、汗で蒸した紺のハイソックスの通気をよくしながら。
「あつ~」
 星は小さくそう独言すると本をいったん机に置き、教室を出てトイレに向かった。星が教室を出て廊下を曲がったのを確認すると、恵理子のグループから一人の女生徒が琴美の方へ向かった。別段、恵理子がけしかけた様子はなく、自発的に彼女は琴美の方へ歩み寄ったようだった。彼女は琴美の側に寄ると、
「ねえ、篠田さん。そうやって読書して何となーく星君の気を惹こうとするのは、いい加減に止めてくれないかしら。それってやっぱりズルいと……」
「何がズルいの?」
 琴美は本に目線を向けたまま、彼女には一瞥もくれず、はっきりと彼女の台詞を遮って即答した。
「え?」
「そうよ。私は星君が好き。だから本を読んでるの。星君に近づきたいからそうしてるのよ。でも、あなたには、あなた達には関係ないでしょ」
 毅然とした態度で意見する琴美。相手の女生徒は目を丸くして戸惑っている。予想外の反撥に。
 一方、凛とした面持ちの琴美ではあるが、机の下に隠れた大腿部は小刻みに揺れている。僅かに踵を鳴らしている。琴美は唾を飲み込む。本を掴んでいる指にギュっと力を入れる。強くなれ、と心の中で念じる。
 両者は沈黙を余儀なくされた。遠くで見守っている恵理子らも同じ。
 しばらくすると琴美は溜めた息を吐いて、
「私は、星君が好きなの」
 と声を震わせながら強調して言った。平静を装いメガネのブリッジを上げてみせる。女生徒は我に返り、
「ちょっと、篠田……」
「もう、いいわよ。行こう由紀江(ゆきえ)」
 二人に近づき止めに入ったのは恵理子だった。
「え、恵理子……」
「休み時間がもったいないよ、由紀江。みんなで外に行ってバスケしようよ。暑いけどさ」
「え? でも……」
「ユーキエ。ほらほら、行って行って」
「う、うん」
 恵理子に軽い口調でたしなめられて引き下がる女生徒。彼女がグループの輪に戻ると皆は琴美を遠目から見て、一斉にヒソヒソ話を始めた。琴美はそれらの視線や側にいる恵理子の存在も気にせず読書にふける。奥歯をキリキリと強くかみ締めながら。そんな琴美を恵理子は腕を組んだ状態で見下ろす。琴美は呼吸が僅かに乱れている事に気づき息を止めてみた。
「随分とはっきり言うじゃない」
 恵理子がそう言うと琴美は息を止めたまま彼女を横目で瞥見した。と同時に恵理子は踵を返した。その時、恵理子は一瞬微笑んだように見えた。そして、琴美に背を向けたまま、
「私たち、休み時間は体育館裏でバスケっていうかスリー・オン・スリーをやってるからさ、本ばっか読んでるのに飽きたら来れば」
 とぶっきら棒に告げると、躊躇している他の女子らを連れて一緒に教室を出て行った。琴美は目を点にして彼女らを見送る。彼女らが視界から消えると、止めていた息を大きく吐いた。
「はあ、はあ」
 僅かな呼吸の乱れが余計に乱れてしまった。だが、琴美はそんな息苦しさの中でも、汗ばんだ手に、奇妙な心地よさを覚えていた。
「ふう」
 琴美は一息つくとメガネをはずした。そして、そのレンズをハンカチで忙しく拭きながら、一人喜色を露わにした。
 一連のやり取りは恵理子の取り巻き以外、教室に残っていた幾人かの生徒には気づかれていないようだった。しばらくすると星が濡れた手をズボンで拭きながら戻ってきた。席につくとさらに念入りに半袖の裾辺りで手を拭き、そして、本を手にする。一方、琴美は素知らぬ態度をとり、自分の本に目を落とす。額縁に入れられた「読書する女」の威風をもって。だが、さくらんぼの表皮のように、ほんのりと火照った頬は、パレットの絵の具のカラーよりも、鮮やかに彩られていた。

 終礼の前の清掃時間。夏休み前の日頃、一学期の最後の登校日には教室の床をワックス掛けするので、念入りに床拭きをする琴美。ゴシゴシと雑巾を乾拭きする。後日の大掃除の下準備に自ずと手にも力が入る。だが、その力がこもった手のひらは、ただ掃除をするための使命感からではない。執拗に力強く床を拭き取るそれは、琴美にとって自信の証明。
 今なら何でも出来そう。
 琴美は一心不乱に床を雑巾で拭きながら、説明しがたい自負を抱き始めた。そして、勝手に体が動いた。まずは立ち上がる。次に歩く。向かった先は同じ教室でベランダ側の窓掃除をしている、天文部所属の小山内(おさない)胡桃(くるみ)の元。胡桃はガラス拭きスプレーの泡が肌に付くのを嫌い、何やら神経質そうに雑巾を手に覆うようにして擦っている。
「小山内さん」
 琴美は胡桃に近づき、乾いた喉、舌、唇で呼びかけた。胡桃は小さく「え?」と声を上げると、不思議な生き物と接するかのように琴美を見つめる。そして、縁なしメガネに隠れた目をパチパチとさせた。その様子に一瞬怯んでしまった琴美。
 同じクラスにいながら琴美が転入して以来、ほとんど初めての会話。どちらかというと胡桃も自分と似ていて引っ込み思案な感じだったし、と琴美は踏まえてみるが、それにしても初めての直接的なコミュニケーション。まるで宇宙人とのファーストコンタクト。琴美は胡桃の訝しそうな表情を見ながら大仰にそう解釈もしてみた。
 あ、宇宙人さんなら初めてじゃないか。
 葉巻のオジサンの顔が脳裏によぎる。途端に勇気が湧いてくる。元気が出てくる。
 そうだ、初めてなんかじゃない。
 琴美は多少顔を引きつらせながらも、今一度口を開こうと試みる。まずは話しかけてみる。オジサンのその言葉を思い出して。
「あ、あの小山内さん」
「な、なあに、えーと、篠田さん?」
「あ、えーと、小山内さん」
「ど、どうしたの、篠田さん?」
 ぎこちない二人のやりとり。胡桃は突然の来訪者に戸惑いながら、手持ち無沙汰に会話の合間、目線を逸らし誤魔化しがちに窓に息を吹きかけ雑巾で拭く。
「あ、小山内さん。実は私、今になってなんだけど、て、て、天文部に入りたくて、その……」
「え?」
 胡桃の窓を拭く動作が止まった。キョトンとした顔で琴美を覗く。琴美が身振り手振りで、
「あ、あのね、私ね、実はね、宇宙とかお月様とか、特に星とかが好きで、あ、別に星が、お星様が好きっていうのに他意はないんだけど……」
 とどこか言い訳がましく喋っていると、胡桃はメガネのテンプルの部分を押し上げて、
「え、ほ、本当、篠田さん?」
 と詰まりがちな声を出した。すると今度は窓から体を向き直し琴美の側に寄った。
「へ? う、うん」
 呆気にとられて返事をする琴美を他所に胡桃は、
「やったあ、本当に? 良かったあ。天文部ってクラスでも私一人だけだし、一年生全体、というより部員数自体がすごく少ないのよ。だから寂しくってさ。それにあまりにも少ないから夏休みのペルセウス座流星群観測の合宿も頓挫(とんざ)してて、あ、トンザって計画が中止になりかけてたっていう意味ね。難しい言い方でごめん、ごめん。でも、篠田さんが入ってくれれば盛り上がるよ。みんなも張り切れちゃう。顧問の吉村先生には私の方から言っておくからさ。じゃ、今日の放課後に早速一緒に部室に行こう。ま、部室っていっても部員が少ないから第二理科室を借りてるだけなんだけど。十人もいないんだ、天文部。後はもうちょっと男の子が入ってくれれば良いんだけどねえ。だって天文部って女子ばっかりでさあ。というか女子だけなんだけど……」
 と堰を切ったように話し始めた。一人冗舌な胡桃。時に愚痴っぽく、甘ったれた口調で彼女は語る。
 まるで近所のスーパーで井戸端会議をするおばさんみたいだ。
 胡桃に内向的な印象を持っていた琴美は、そのギャップにおかしくなり顔を綻ばせた。頷くように胡桃も笑って返す。その後も掃除そっちのけで二人は会話を弾ませた。つい先ほど緊張した面持ちで胡桃に話しかけた事が、遠い思い出のように変わっていくのを、琴美は抱き始めていた。
 
 帰りのホームルームが終わり、生徒達はそれぞれ放課後の部活へ向かう。少女二人もそれは一緒だった。
「あ、ごめん。教室に忘れ物しちゃった。ちょっと取ってくるね。先に第二理科室、じゃなくて部室にいってて」
 琴美は「うん、分かった。じゃあ、先に篠田さんのことみんなに紹介しておくから、待ってるね」という胡桃の台詞を背に受けながら、
「ありがとう」
 と言い残し小走りで教室へ向かった。一連の会話や動作がまるで昔からの友達みたいだ。琴美は胡桃に対してそんな気持ちを抱きつつ駆け足禁止の廊下で身を飛ばす。
 そういえば今日はさり気無くだけど、色んな事があったな。ううん、色んな事を私がしたんだ。
「ふう」
 やにわに気を許した瞬間、琴美は疲労を伴った溜め息を吐いた。だが、それは心地よい疲れの吐息。スキップする両脚がそれを表している。身も心も不思議と軽い。
 何かが変わった気がする。
 今日自分がした事、自分なりに前向きにやった事が、明日へと繋がっていく予感を琴美は抱く。今日自分が起こした変化が、また明日の変化へと繋がっていく期待。それを琴美は孕ませる。それには今まで学校に対して見出せなかった「楽しさ」の兆しがある。
 本当、上出来なぐらい。もうこれ以上今日は望まないよ。
 あとは部室でみんなと仲良くなる事に頑張ろう、と琴美は殊勝にも心がける。
 とりあえず今日は胸いっぱい。大満足。だけどお腹はもう空いちゃったかな。
 琴美は腹の虫を抑えて教室のドアをくぐった。恐らく部活に皆は出ていて、誰もいないであろう無人の教室に。琴美がそう予期した教室に。
 だが、一人。たった一人、生徒が残っていた。
 その生徒は星清一郎。
 琴美は星に気づいた瞬間、その軽やかなステップを反射的に止めた。
 ほ、星君?
 内心焦り、自分の席に戻るのを躊躇した琴美。だが、教室の中には入ってしまっているし、星と目も合ってしまった。星は琴美を一瞥した後、自らの席の方に目をやると、その机の脇に吊り下げてあった試合用のスパイクを手に取り、
「やっぱ紅白戦にはこれ使うか」
 と独り言を小声で漏らした。琴美は緊張した面持ちで、星の席の列の背後に離れた自分の机に、ピンと背筋を伸ばし、指先を伸ばして歩いて寄った。ロボットのようなぎこちない動きで。さらに不自然な発汗。それは夏の暑さからではない。一目瞭然な緊張のための生理現象。蝉(せみ)時雨(しぐれ)すら聞こえない。顔の火照りも感じる。だが、やはりそれも小暑を越えた頃の暑さからではない。琴美はそう自覚する。そして、七夕の日は既に去った、織姫と彦星は時期ではない、と認めてみる。一方で顧みる。もしかしたら、まだ織姫と彦星は天の川で対峙しているのでないか、とも。勘違いというそれを受け入れて。
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 一方で星は「星の王子さま」に委ねる琴美の切なる思いを他所に、スパイクのゴムの硬度を指で確かめている事に腐心している。琴美の存在も気にせず。
 偶然、だよね。
 琴美は唇を多少尖らしそう括ると、平静を装い机の中に入ってあった文庫本を取り出した。
「ふう」
 諦観気味の嘆息。琴美は本を鞄にしまおうとした。ボロボロの紙のカバーで、表紙がむき出しのその文庫本を。とその時、星清一郎が琴美の横を通り過ぎた。
「お、星の王子さまじゃん。篠田って本とか読むんだ」
 その声が琴美の耳に入った瞬間、一気に蝉の声が彼女の頭に鳴り響いた。静寂と思っていた教室に音が生まれた。いや、音があった事を思い出した。心なしか黒板の黒とも緑ともつかぬ色が、原色を放っている錯覚にもとらわれた。
 琴美は機械的に首を縦に何度も振ると、
「う、うん。こ、これ星の王子さま。ほ、本とかも、うん、読む。あ、でも、た、他意はなくて……」
 と答えかけて止めた。
 な、何を言ってるのよ、私!
 唇をかみ締める琴美。だが、突然の星からの一声。思えば星とは一度もまともな会話をした事がない。もちろん「篠田」と名を呼ばれたことも。
 混乱するのも無理はない。
 琴美は冷静に判断するが表情は微妙に泣きっ面。
 星は黙って琴美の顔を見つめて返した。だが、しばらくすると、
「ふうん、そっか」
 とあっさり告げて琴美の側を通り過ぎようとした。琴美は俯いたまま動けない。目を合わせない。
 今日は満足なんだ。これ以上を望んじゃダメなんだ。欲張りしちゃダメなんだ。そうそう、お腹がちょっと空いてるだけなんだ。胸はいっぱい、いっぱい。
 琴美は内心、幾度も「今日は満足。贅沢はダメ」と祈祷のように繰り返す。
 これでイイんだ。
 琴美は納得したつもりだった。
 その刹那、教室の窓から吹いた夕風が琴美のうなじをなぞった。
 雨の上がったとある夕刻……似たような風を感じた。琴美はそれを思い出す。そして、「だから私は不意に、無意識のうちに自然と声をかけてしまった」と寸刻後の自分の所作を予知し、また、認める。
「あ、あの星君」
「ん?」
 星清一郎は琴美の頼りない呼びかけに振り向いた。琴美が初めて面と向かって星に伝えた「星」という名に対して。
 だが、琴美にはそれからの言葉が浮かばない。何を言っていいのか分からない。何を語るべきか考えつかない。ただ徒に気まずい沈黙が広がっていく。二人の華奢(きゃしゃ)な空間が一層離れていく。錯覚。それに近い思いを琴美は抱く。
 黙って待つ星の視線が痛い。仔鹿のような優しい眼差しを放つ星のそれが怖い。自分が星に見つめられている。普通なら嬉しい事なのに、どうしてこんなにも辛いのか? 琴美は戸惑い後悔する。星に話しかけてしまったこと。それは心の奢りだった、と。たった一言、ただ一言声をかけた事が全ての終わりになる。琴美は底知れぬ危機感に怯えた。
 やだ、そんなのは嫌だ!
 切羽詰った琴美。その時、星が何気なく口笛を「ヒュー」と軽く吹き、
「どーしたんだよ?」
 と悪戯っぽく問いかけた。琴美は不意に、そして咄嗟にあるワードを思い出し、また、自動的に口を開いた。
「あ、あの、星君。に、『虹の彼方に』って、その、それを口笛とかで吹いてたりして……だから私、上手だなって思って、それだから私、口笛を吹きたくて、あの、私、口笛上手になりたくて、あ、あの、私、星君に口笛教えてもらいたくて……」
 しどろもどろの口調。それは琴美も分かっていた。自分自身、何を伝えたかったのか分からない。いや、伝えたかった、というよりただ繋げたかった。その想いが琴美を先走らせた。琴美は顔を俯き何度も下唇を噛む。
 すると星は怪訝な様子も見せず、自然と諳んじるように『虹の彼方に』を口笛してみせた。そして、
「オーバー・ザ・レインボー、だろ。何かクセで時々吹いちゃうんだよね。でもよく知ってんね、俺の口笛」
 とやはり自然な調子で琴美に話しかける。琴美はただただ黙ってコクリと頷く。
「これってさ、昔ウチの親父が口ずさんでてさ、それで何か俺も小さい頃に聞かされて、自然と吹くようになっちゃったんだよ。ま、その親父ってのは今の父親ではなく前の父親の事で、何つーか俺ん所ってちょいと複雑な家庭なんだけど……それはイイとして、篠田は口笛を吹けるようになりたいのか?」
 再度無言で頷く琴美。星はスパイクを肩にかけ直すと、
「ふうん、でも、どうして?」
「口笛が吹けるようになったら、大事な人と会えるかも知れないから」
 琴美は言葉を詰まらせる事なく、その台詞だけは流暢に述べてみせた。
「口笛が吹けるようになったら、大事な人に会える?」
 星は琴美を不思議そうに眺めたが、琴美の視線は下に向いたままで、目を合わせようとしない。すると星は、
「まあ、それで篠田が大事な人に会えるんなら、良いかもしれないよな」
「え?」
 琴美はやにわに星の顔を見つめた。星は眉間を一度親指で掻き、
「口笛。良いぜ、教えるよ」
 と言って唇を親鳥からエサを貰う雛のように尖らせた。そして、笑って見せた。琴美は目頭にこみあげるものを覚え、再び視線を星から逸らした。琴美のメガネが僅かに濡れる。
「あ、でも考えてみれば不思議だよな。俺たちって同じ頃に転校して来た者同士だっていうのに、今までロクに話した事なかったもんな」
 琴美は徐に首を縦に振って返した。顔は相変わらず俯いたまま。そんな琴美の様子も気にせず星は明るく話しかける。
「はは、変だよな、ホント」
「ありがとね、星君」
 震えながら押し出すように発した琴美のその一言。それに対して星は「ん? 何か言ったか」と問い返した。琴美は自分の声があまりにも小さく弱々しい事は承知していたので、星が聞き返してくるのは想像していた。ただ『口笛が吹けるようになれば、またオジサンと会えるかも知れない』と一方でそんな思いだけは強く膨らんでいた。
 すると篠田琴美は「ありがとう」と今度は星清一郎の耳に、胸に、心に届くような強い想いを、声を大にして告げてみせた。いや、伝えてみせた。
 青天下、澄んだ夕焼けを予感させる、斜陽の砌(みぎり)に。

            
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