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【3章】伯爵家侍女メアリーの場合
7.心の準備
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ジェラルドはそれからしばらくの間、メアリーのことを抱き締めてくれていた。
はじめはそれで良かったものの、段々と精神状態が落ち着いていくにつれ、メアリーは居たたまれない気持ちになっていく。
(どうしよう……これ、どうしたら良いの?)
背中を、頭を優しく撫でられ、ちっとも止まる気配がない。放って置いたら、ジェラルドは延々とメアリーのことを甘やかし続けるだろう。
嬉しい――――けれど恥ずかしい。
なんと言えば良いかも分からず、メアリーは真っ赤に染まった頬をジェラルドの胸に埋め続けた。
(……良い香り)
彼の服から香ってくるのは上品で甘いコロンの香りだ。王都で流行っているものだろうか? 昔はちっとも洒落っ気がなかったのに、いつの間にか色気づいてしまったらしい。
(一体何の……誰のために?)
思わずそんなことを考えて、メアリーの胸がツキンと痛む。
誰か好きな人でもできたのだろうか? その人のために変わったのだろうか?
――――仮にそうだとしても、平民の自分には関係ない。主人の私生活を詮索するなど侍女失格だ。愚かなことを考えた自分が、メアリーはひどく腹立たしかった。
「ありがとう、ジェラルド。もう大丈夫だよ」
胸を押し返そうとして、拒まれる。メアリーは先ほどよりも強く、ジェラルドに抱き締められていた。
「ジェラルド、あの……」
「せっかくだし、もう少しこうさせてよ。前にも言っただろう? お前のこと、抱き締めたいって」
「あ……」
ジェラルドを王都へ送り出したときの記憶がありありと蘇る。メアリーの全身がカッと熱を帯びた。
「だけど……」
「――――俺にこうされるの、嫌?」
耳元で響く掠れた声音。メアリーはゴクリと唾を飲み、小さく首を横に振った。
「嫌じゃない……けど、ダメだと思う」
「ダメ? なんで?」
相変わらず、ジェラルドの声音はどこか普段と違っている。甘えるような、縋るような――――それでいて、メアリーから何かを引きずり出そうとしているような、そんな印象を受けてしまう。
「だってわたしたちは……」
雇い主と侍女だから――――そう言おうとしたところで、メアリーははたと口を噤む。
ジェラルドは以前、メアリーのことを使用人とは思っていないと話していた。同じ話を繰り返すことは建設的ではない。第一、この話題を深掘りするのは危険だと直感していた。
「アカデミーはどう? 楽しい?」
「え? ……ああ、楽しいし充実してるよ。だけど、あそこにはメアリーが居ないから」
(~~~~またそういう……)
せっかく話題を変えたのに、甘い空気から中々抜け出せない。メアリーが小さく息を吐くと、ジェラルドがクスクスと笑い声を上げた。
「周りは俺なんて目じゃないぐらい優秀な人ばかりでさ。すごく勉強になるし、行ってよかったと思ってるよ。再来年には王太子も入学してくる予定だしな。
俺、今のうちにアカデミーと王都で人脈を作って、今後に役立てたいと思っているんだ」
「そっか……すごいね。ジェラルドはいつか伯爵様になるんだもんね」
メアリーとは違い、ジェラルドはしっかりと将来のことを見据えている。
こんなふうに抱き締められていても、段々とメアリーの手の届かない人になっていく。メアリーの胸が小さく軋んだ。
「……そうやって、簡単に線を引くなよな。
俺は別に爵位を継ぐために頑張ってるわけじゃないんだから」
「え? 違うの?」
ジェラルドは嫡男だ。当然伯爵位を継ぐ予定だし、そのために頑張っているものだと思っていたのだが。
「違うよ。俺はただ、大事なものを守るための力が欲しいだけだ。そりゃ、父上はまだ認めてくれていないけど、それでも俺は自分の考えを曲げるつもりはない」
その瞬間、二人の視線が静かに絡む。
何故だか居たたまれなくなって、メアリーはそっと顔を背けた。
「そっか……よくわからないけど、頑張ってね」
「ああ、頑張る。……だけど長いな。あと二年半か」
切なげに響くジェラルドの声。なんと答えればいいか分からず、メアリーは静かに目を伏せた。
「手紙、書けよ」
「……うん」
「次、頼ってくれなかったら、怒るからな」
「…………うん。ごめんね」
「謝らなくて良いんだって。俺はただ、メアリーに甘えてほしいだけだから」
あんなに甘えん坊だったジェラルドが、今度は甘えられる側になろうとしている。それがなんだかおかしくて、メアリーはクスクスと笑い声を上げた。
「――――帰りたくないな」
「……? 頑張るんじゃなかったの?」
そう思ったのも束の間、ジェラルドはやはりジェラルドだった。先ほどとは正反対のひどく甘えた口調で呟くものだから、メアリーはついつい意地悪な表情を浮かべてしまう。
「それはそうなんだけど! 一緒にいると欲が出るっていうか……本当は俺、結構ギリギリなんですけど」
「ギリギリ? なにが?」
不思議に思いつつ、メアリーはジェラルドをそっと見上げる。
すると、濡れた瞳がメアリーのことをまじまじと見つめていた。
熱い眼差し。ジェラルドの喉が上下する。
唇を、頬を、額を優しく撫でられているかのような心地がし、メアリーはそっと身を捩る。それはまるで、捕食される直前の動物のような気分だった。
(ギリギリって……ギリギリって…………)
先ほどの問いかけに明確な答えを貰えたわけではない。けれどメアリーは、これ以上詳細を尋ねたいとは思わなかった。
「……長いな。あと二年半か」
先ほどとまったく同じ言葉を繰り返し、ジェラルドは大きくため息を吐く。
彼はメアリーをちらりと見遣り、それからギュッと抱き締め直す。
「――――今のうちに、ちゃんと心の準備をしておけよな」
次いで紡がれた別の言葉に、メアリーの喉が熱く焼け付くような心地がした。
(準備ってなんの?)
ついついそう尋ねたくなるが、聞けば後戻りができなくなる。
メアリーはグッと言葉を飲み込みながら、何も分からないふりをした。
はじめはそれで良かったものの、段々と精神状態が落ち着いていくにつれ、メアリーは居たたまれない気持ちになっていく。
(どうしよう……これ、どうしたら良いの?)
背中を、頭を優しく撫でられ、ちっとも止まる気配がない。放って置いたら、ジェラルドは延々とメアリーのことを甘やかし続けるだろう。
嬉しい――――けれど恥ずかしい。
なんと言えば良いかも分からず、メアリーは真っ赤に染まった頬をジェラルドの胸に埋め続けた。
(……良い香り)
彼の服から香ってくるのは上品で甘いコロンの香りだ。王都で流行っているものだろうか? 昔はちっとも洒落っ気がなかったのに、いつの間にか色気づいてしまったらしい。
(一体何の……誰のために?)
思わずそんなことを考えて、メアリーの胸がツキンと痛む。
誰か好きな人でもできたのだろうか? その人のために変わったのだろうか?
――――仮にそうだとしても、平民の自分には関係ない。主人の私生活を詮索するなど侍女失格だ。愚かなことを考えた自分が、メアリーはひどく腹立たしかった。
「ありがとう、ジェラルド。もう大丈夫だよ」
胸を押し返そうとして、拒まれる。メアリーは先ほどよりも強く、ジェラルドに抱き締められていた。
「ジェラルド、あの……」
「せっかくだし、もう少しこうさせてよ。前にも言っただろう? お前のこと、抱き締めたいって」
「あ……」
ジェラルドを王都へ送り出したときの記憶がありありと蘇る。メアリーの全身がカッと熱を帯びた。
「だけど……」
「――――俺にこうされるの、嫌?」
耳元で響く掠れた声音。メアリーはゴクリと唾を飲み、小さく首を横に振った。
「嫌じゃない……けど、ダメだと思う」
「ダメ? なんで?」
相変わらず、ジェラルドの声音はどこか普段と違っている。甘えるような、縋るような――――それでいて、メアリーから何かを引きずり出そうとしているような、そんな印象を受けてしまう。
「だってわたしたちは……」
雇い主と侍女だから――――そう言おうとしたところで、メアリーははたと口を噤む。
ジェラルドは以前、メアリーのことを使用人とは思っていないと話していた。同じ話を繰り返すことは建設的ではない。第一、この話題を深掘りするのは危険だと直感していた。
「アカデミーはどう? 楽しい?」
「え? ……ああ、楽しいし充実してるよ。だけど、あそこにはメアリーが居ないから」
(~~~~またそういう……)
せっかく話題を変えたのに、甘い空気から中々抜け出せない。メアリーが小さく息を吐くと、ジェラルドがクスクスと笑い声を上げた。
「周りは俺なんて目じゃないぐらい優秀な人ばかりでさ。すごく勉強になるし、行ってよかったと思ってるよ。再来年には王太子も入学してくる予定だしな。
俺、今のうちにアカデミーと王都で人脈を作って、今後に役立てたいと思っているんだ」
「そっか……すごいね。ジェラルドはいつか伯爵様になるんだもんね」
メアリーとは違い、ジェラルドはしっかりと将来のことを見据えている。
こんなふうに抱き締められていても、段々とメアリーの手の届かない人になっていく。メアリーの胸が小さく軋んだ。
「……そうやって、簡単に線を引くなよな。
俺は別に爵位を継ぐために頑張ってるわけじゃないんだから」
「え? 違うの?」
ジェラルドは嫡男だ。当然伯爵位を継ぐ予定だし、そのために頑張っているものだと思っていたのだが。
「違うよ。俺はただ、大事なものを守るための力が欲しいだけだ。そりゃ、父上はまだ認めてくれていないけど、それでも俺は自分の考えを曲げるつもりはない」
その瞬間、二人の視線が静かに絡む。
何故だか居たたまれなくなって、メアリーはそっと顔を背けた。
「そっか……よくわからないけど、頑張ってね」
「ああ、頑張る。……だけど長いな。あと二年半か」
切なげに響くジェラルドの声。なんと答えればいいか分からず、メアリーは静かに目を伏せた。
「手紙、書けよ」
「……うん」
「次、頼ってくれなかったら、怒るからな」
「…………うん。ごめんね」
「謝らなくて良いんだって。俺はただ、メアリーに甘えてほしいだけだから」
あんなに甘えん坊だったジェラルドが、今度は甘えられる側になろうとしている。それがなんだかおかしくて、メアリーはクスクスと笑い声を上げた。
「――――帰りたくないな」
「……? 頑張るんじゃなかったの?」
そう思ったのも束の間、ジェラルドはやはりジェラルドだった。先ほどとは正反対のひどく甘えた口調で呟くものだから、メアリーはついつい意地悪な表情を浮かべてしまう。
「それはそうなんだけど! 一緒にいると欲が出るっていうか……本当は俺、結構ギリギリなんですけど」
「ギリギリ? なにが?」
不思議に思いつつ、メアリーはジェラルドをそっと見上げる。
すると、濡れた瞳がメアリーのことをまじまじと見つめていた。
熱い眼差し。ジェラルドの喉が上下する。
唇を、頬を、額を優しく撫でられているかのような心地がし、メアリーはそっと身を捩る。それはまるで、捕食される直前の動物のような気分だった。
(ギリギリって……ギリギリって…………)
先ほどの問いかけに明確な答えを貰えたわけではない。けれどメアリーは、これ以上詳細を尋ねたいとは思わなかった。
「……長いな。あと二年半か」
先ほどとまったく同じ言葉を繰り返し、ジェラルドは大きくため息を吐く。
彼はメアリーをちらりと見遣り、それからギュッと抱き締め直す。
「――――今のうちに、ちゃんと心の準備をしておけよな」
次いで紡がれた別の言葉に、メアリーの喉が熱く焼け付くような心地がした。
(準備ってなんの?)
ついついそう尋ねたくなるが、聞けば後戻りができなくなる。
メアリーはグッと言葉を飲み込みながら、何も分からないふりをした。
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