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 鼓動が速まった。悟られるはずがないと分かっていても、感情がバレそうで不安だった。

「他のやつらより一日早く来るんだってさ。待ちきれねぇんだなあのオヤジ」

 車はさびれた国道を走る。僕は無言で窓の外を眺めつづける。

「そんな顔するなって」

 黙り込む僕を、夏目が横目で観察している。僕は不機嫌そうに見えるんだろう。感情をかくすために、わざと作った無表情に彼は気づかない。

「言っただろ? もうちょっとだって。もうちょっと金貯めたら、こんなことぜんぶ終わるから。ふたりでこんなとこ出てって、クソみたいなことぜんぶ忘れられるから。そしたらお前はもう自由だし、俺が絶対に守ってやるから。な?」

 夏目の声はやさしい。それはたぶん彼の本心で、彼は本気でそれを信じてるんだろう。その愚かさは予想外の強さで僕の胸をしめつける。

 僕は夏目のことが好きだ。三つ年上のこの幼馴染を、捨てられない古いぬいぐるみを愛するように、愛している。

「分かってる」

 胸の痛みをふり払うようにため息をつく。僕が本当はなにを考えているのか、夏目には決して分からない。それはとても安全で、かなしい。運転しながら、彼は片手で僕の腕に触れた。傷ついた僕を慰めるように。

「十九時半に。いつもの部屋」
「うん」
「あの変態、いつかぶちのめしてやる」

 彼が絶対にそうできないことを僕は知っている。知っていながら、ありがとう、と答える。夏目はそれに満足したように頷く。車は廃墟と田園のなかを学校地帯に向かって進む。

「どっか寄るか? 朝メシ買ってやるよ」
「いらない」
「じゃあ夕方メシ食いに行くか。変態オヤジに会いに行く前に」
「今度でいい。時間がないから」

 毎年、夏目はダイナーで僕の誕生日を祝ってくれる。
 油のきつすぎるフライドポテトや、ばさばさしたクリームケーキや泥水みたいなチョコレートサンデー。どこか遠くに行くことはない。そんな選択肢は彼にはない。彼の想像力のなさは、彼の愚かさと同じくらい僕の心をしめつける。

「ごめんな、ケイク。急に今日に変わって、どうすることもできなかったんだよ」
「別にいい。気にしてないから」

 もっと拗ねてみせるべきなのかもしれない。だけどそんな気力はない。今夜、僕は彼に会える。夏目が言う変態オヤジに、自分の誕生日に会える。

「なぁケイク」

 信号待ちで停車する。車通りはほとんどない。汚れた窓から見えるのは、棄てられた農地とうらびれた民家。ショッピングモールへの道を案内する褪せた看板と、シャッターが下りた個人商店。もう少し進むと工場地帯が見える。

「お前、言ったよな。ここを出てくためなら何でもするって」

 窓の外を見たままで頷く。今日の夜のことを考えたい。無駄に話しかけてくる夏目に苛立つ。

「俺だって好きでお前をこんな目に合せてるわけじゃねぇんだよ。他に方法があればそうしてる。それはちゃんと分かってるよな?」

 あまりに真剣な声で言われて、仕方なく夏目を見る。彼はなぜか傷ついた目をしている。まるで僕が彼を罵りでもしたみたいに。

「分かってるよ」

 彼の目を見ていると、身体の中心が空洞になった気がする。やるせなくて、いたたまれなくて、今すぐ彼を抱きしめるか殺したくなる。

 衝動を抑えるために、どうにか笑ってみせた。夏目はそれで安心したらしい。ひび割れた唇を吊り上げて、やさしげな笑みを僕に返す。

「愛してるよ、ケイク」

 彼の言葉は、僕の空洞を、煙草の煙みたいに漂う。その軽さが、どこにも着地しないうつろさが切なくて、身を乗りだして夏目の頬に口づけた。信号が変わる。僕のキスを受けた夏目は、微笑んだままでアクセルを踏む。

 愛していると夏目が言うたび、僕の心は少しずつ死ぬ。
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