鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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八月二十五日

引き波

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斜陽が蝉時雨を掻き消して、また昨日のような黄昏が、瞳に飛び込んでくる。これはまだ晩夏の夕暮れで、同時に、黎明だった。
 塵埃が皓皓こうこうと立ち込める庭も、四つの手が並ぶ縁側も、僕も、あやめも──何もかもが茜に染まりきっている。瞬きの度に目蓋の裏を焼く陽光も、瞳を入り乱れて射すのも、そのせいだった。

その眩しさに目を細める。そうして僕たちは結局、時折、何度か言葉を交わしたくらいで、特に四年越しの再会を懐かしむ以上には、それといって特筆するような話もなかった。ただ漫然と夏に降られて、何をするわけでもなく一緒にいるのが、もしかしたら心地よかったのかもしれない。ふいと、そんなことを思った。 


「……烏、いてるね」


あやめはそう呟きながら、僕を上目に見つめる。確かに烏が啼いていた。何処かで一羽が一声上げると、もう一羽が追随して、その二羽が幾度も幾度も啼きながら、遠く近くを波のように飛び回って、気が付いた時にはやがて、その余韻を聞かされている。


「彩織ちゃんは、お家の時間、大丈夫なの」
「夕食時だし……そろそろ帰ろうかなって思ってる」
「それなら、早めがいいよ。遅いと危ないよ」
「うん。あやめちゃんは、まだお留守番?」
「……まぁ。でも、大丈夫。心配しないで」


困ったように笑うあやめの姿を見ながら、「そっか」と僕は緩慢に立ち上がる。一拍遅れてから、彼女は視線をこちらに向けた。


「夏休みが終わるまで、この村にいるの」
「まぁ、少なくとも終わるまでかな」
「……そっか。楽しんできてね」
「うん。また明日も来ていい?」


もっと別の場所を散策しようと考えていたけど、思いがけず彼女と再会を果たしたのだから、それはそれで、楽しみが増えた。ここは改めて、あやめに村を案内してもらうのも良いかもしれない。そんなことを思い思い、目蓋の裏を焼く残像をそっと目で追っていた。そんな僕を見て、彼女は何も答えず小さく笑った。





僕が帰宅した後の雨宮邸は、昨日の結婚式騒動を上回るほどの賑やかさで、どうやら聞くところによると、僕の歓迎会を村の人間も含めて改めて催すらしい。小さな村とはいっても十数人は集まっていて、それが神社の神主さんやら駅の駅長さんやらに始まり、小学校の先生から商店のおばあちゃんやら何からが集まって、久々の僕の帰省を祝ってくれるらしかった。何事なのか。

──というわけで大広間に一同が会し、雨宮家と集落の面々の愉楽はいよいよ最高潮に差し掛かっていた。祖父は酔いが回った結果に祖母との馴れ初めを語り出し、そのついでに叔父も馴れ初め話を強要され、いつしか面々の馴れ初めを語る会になっている。

かと思えば神主さんの教話を聞かされ、駅長さんと小学校の先生の怪談を聞かされ、商店のおばあちゃんの武勇伝から波は広がり、いつしか今度は面々の武勇伝を語る会になっていた。

しかし面白いことにと言おうか傍迷惑と言おうか、その殆どが酔った勢いで成立しているのだから、僕たち子供の存在感といえば有れども無きが如き状態で、僕の歓迎会とは何だったのかとも言いたくなるような傍若無人ぶりである。暇はしないけれども。それがようやく収まったのは、いよいよ十時が見えてからだった。


「んじゃあ雨宮の坊ちゃん、小さな村だけど楽しんでってな」
「あっ、はい。どうもお疲れ様でした」
「彩織ちゃん、また今度な、婆の店に来な。お菓子あげる」
「ふふっ、ありがとうございます。近いうちに」


客人があらかた帰宅すると、大広間には大した人数は残されていなかった。あとは祖父や叔父みたく泥酔して雑魚寝をしているか、祖母や叔母、叶兄が食器の片付けをしているくらいだ。あとは僕と小夜で残り物を処理しているのだけれど、十数畳あるこの部屋には、テレビの音が流れている以外には閑散としている。


「いやぁー、ようやく帰ったんね……。静かになったわ」


欠伸混じりの伸びをしながら、小夜は寛いだように笑う。


「なんかさ、僕の歓迎会っていうか、それを口実に呑みたかっただけの気がしない? 田舎の人ってみんなそうなのかな」
「まっ、そんなもんでしょ。娯楽なんて何も無いもん」
「だよねぇ……。にしても、全員おじいちゃんの知り合いとかそんな感じなの? どうせ言い出したのおじいちゃんでしょ」
「じゃない? っていうか、こんな小さな村じゃ全員が顔見知りで友達みたいなもんでしょ。これぞ田舎のコミュニティ!」


狭くて深い田舎のコミュニティ。意外に悪くはなさそうだ。
 「そういえば、彩織ちゃん散歩に行ってたんやっけ。何処に行ってたん? そもそも村に何があったか覚えとるんー?」
 悪戯心のあるような笑みをして、彼女は僕の顔を見詰めてくる。お生憎様、何も覚えていないのだから、少し申し訳なくなってきた。小さく肩をすくめてから、諦観ていかんしたように僕は苦笑する。


「いや、殆ど忘れちゃった……。だから色々なところ回ろうって思って行ったんだけどね、そしたら偶然あの子に会ったんだよ」
「あの子、って……男か女かはっきりせんと。ウチらと同じ?」
「うん。えっと──ほら、同級生の子でさ、女の子の」


小夜は中身を注ぎ切ったオレンジジュースの瓶を卓上に置きながら、僕を一瞥いちべつしてグラスに口付ける。甘酸っぱい匂いがこちらにも届いてきて、それがまた、彼女の柑橘みたような匂いとい交ぜになっていた。中身が減るにつれて、匂いも薄れていく。


「──そうだ。あやめちゃん。椎奈あやめちゃん」


途端に小夜が小さく悲鳴したように聞こえた。それをいぶかしむ間もなく、何かが畳に当たる鈍い音がする。やけに濃くなっていく柑橘の匂いが先行して、足元に妙な冷たさを感じた時にはもう遅かった。僕が布巾に手を伸ばすよりも早く彼女に手を引かれる。


「ちょっと、なんで……!」


矢庭に立ち上がった小夜は、そのまま二階の廊下まで僕を引っ張っていった。後ろ髪と背格好だけで面持ちは見えない。ただ酷く狼狽ろうばいしたような態度で、それが僕に非のあることを存分に物語っている。何が失言に当たったのかはおおよそ予測がついていた。──だからこそ彼女の説明を、固唾かたずを呑んで待たずにはいられないのだ。この忙しない脈搏みゃくはくは既に一二〇ほどを打っている。

小夜はそれから一度だけ大きな深呼吸をすると、掴んだ手を離さないまま──むしろ先程よりも強く握り締めて、真正面に向かい合った。けれどようやく見えたはずの表情を、僕はまだ見たことがない。これ以上ないほどに遣り切れないような、怖気立ったような、とにかく何とも言い様のない表情を、彼女はしていた。


「……彩織ちゃん、知らないん?」


何が、とも軽率に切り出せない口調をしている。


「……あやめちゃんはもう、死んでるんよ」


階下で騒いでいる祖母たちの声が、距離よりも遠く聞こえた。
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