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八月二十六日
恋は盲目
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「──なんかね、目が見えないんだ」
彼女のその一言が、僕にはこれ以上ないほど場違いで、突拍子なものに思えた。だからなのだろう──先に感じていた何もかもが、泡沫のように音も香もなく消え失せて、代わりにただ、この妙な現実へと我知らず引き戻されているだけの僕自身がいた。
「死んだはずなのに、気が付いたらここにいたの。暑かった。すぐにお家の縁側だって分かった。手のひらの感触と、お外の匂いと、お日様の当たり方と、他にも、色々。……でも、なんでか目だけが見えなくて、いつの間にか誰もいないお家に一人ぼっちで、どれだけ時間が経ったのかも分からなくなっちゃった。何日とか、何週間とか、何ヶ月とか、何年とか──真っ暗のところで、ずっと生かされてるの。お腹も空かないし、眠くもならないんだ。だから私、本当に死んだはずなのに……死ぬよりも、苦しい気がしてる」
指先を縁台の縁になぞらせて、取り繕ったような笑みを、あやめは洩らした。淡々とした告白の裏面には、その字面からは想像もできないほどにおびただしい、煩悶の数々が見え隠れしている。
──だからこそ僕は、僕自身の薄情を自覚せざるを得なかった。ただ黙り込んで、呆然としているだけだった。予期するところを遥かに超えた彼女という存在の境遇に、僕は気の利く言葉の一つさえ投げ掛けられないまま、ここで何か言えたらいいのに、と、そんな無駄足だけを踏んでいる。
「……本当は、死んだ人がここに残ってるのって良くないんだよね。どうやったら成仏できるのかな。それとも、真っ暗の中でいつまでもこのままなのかな。ずっと考えてたけど、まったく分からないや。でも、そうしたら、彩織ちゃんに会ったんだよ。たまに誰かが来ることはあっても、誰も私には気が付かなかった。どれだけ話しかけても、無視されてるみたいで──きっと、今の私って、誰にも見えないんだろうね。死んだから幽霊になったのかな。でも、彩織ちゃんだけは、私が見えて私と喋れるんだね」
喜色という名の泡沫が弾けたように、あやめは溌剌と笑う。その笑みが彼女にとってどれほど尊いものなのかというのは、今の僕にも容易に想像できることだった。
同時に、何とも言い知れぬ心地の悪さが──それがどうして僕だったのだろう、という疑念と邪推が──どこからともなく浮かみ現れてくる。一度でも意識してしまうと、それはなかなか僕の目の前から離れてはくれない。
「だから、名前が呼ばれた時、凄く嬉しかったの。結構びっくりもしたけど……でも、久しぶりに会った彩織ちゃんを失望させたくなかったから、なんとか演技したんだ。生きてる時みたいに、盲目を悟られないように振る舞って──だけど結局、彩織ちゃんは知っちゃったね。……私のこと、失望した? 怖いよね、きっと」
いつからか、彼女の声は微かに震えていた。睫毛も、目蓋も、口元も、華奢な手から指先に至るまで、その波紋が広がっている。僕はその様子を目の当たりにしいしい、どう返事をしようか、咽喉の出口まで差し掛かった言葉を、もう一度だけ飲み込んだ。
飾り気っぽい言葉なんて、綺麗なようできっと醜悪なのだ──そう思いつつも僕は、せめてもの本音を言わずにはいられなかった。
「……それは驚いたけど、失望なんて、してない。怖くもない。あやめちゃんは、あやめちゃんだから。僕はまだ何も知らないけど、そうなったのには、きっと理由があるんだよ。僕だけがあやめちゃんを見れて、話せるんだから、きっと、何かが──」
「──だったら、運命?」
「……そんな大それたもの、あるのかな」
「あるかもしれないよ、きっと。私が彩織ちゃんに初めて会ったのも運命なら、こうして死んだ後も会えるなんて、これも運命っていう気がする。月並みな表現だけど、彩織ちゃんだから、なのかな。なんで彩織ちゃんかは分からないけど、そう思うんだ」
運命──その二文字が持つ摩訶不思議な不可視の魅力に、あやめも僕も、どこかで魅入ってしまったような気がした。この再会が運命なら、それを織り成してゆく必然を積み重ねてきたのだろう──などと考え始めると、きりがない。何より物語の主人公みたような語り口調で、そういうのは、小説の中だけでよかった。
目前の少女は、盲目の瞳でこちらを見つめながら小さくはにかむ。きっと、今の僕は、あやめにとって唯一の、救済にも等しい相手なのだろう。苦悩を幾度も幾度も繰り返してきたらしい彼女にとって、たかが僕ごときは、いったい何ができるというのだろうか。既に亡き盲目の少女を相手に、僕はどうすれば──。
──盲目。それは黒洞洞たる暗闇の中で、あやめは昼も夜もなく薄幸を目の当たりにして苛まれ続けている。
それなら僕が、ほんの少しだけでも色を分けてやりたかった。自分の見ている全てを、感情の全てを彼女に分け与えて、たといそれが仮初のものだとしても、盲目の瞳に幻影が浮かみ現れてきたとしたら、少女の薄幸を和らげることができるかもしれない。
「だったら、僕が──」
そう言いかけたところで、口を噤む。この決意は恐らく、生半可なものではきっと、どうにもならないのだろう。『色を分けてやる』なんて、そんなものでは到底、解決しない問題なのかもしれない。けれども僕は、否、僕程度の人間には、これしか出来ないのだ。
自分の持つ語彙と感性だけを頼りにして──僕は、僕の見たこと感じたことをそのまま、あやめに伝える。それが彼女の盲目に色を分けるということだった。人間として大成しているわけでもなく、気の利く言葉すら投げ掛けられない。そんな僕が出来ることといえば、それこそ何の足しにもならない文芸創作、それっきりだ。
彼女のためと言ってしまえばそれまでなのに、どうにも上手く収まらない。一見して綺麗な『彼女のため』という心持ちは、反面、僕自身のためにも他ならないのだ。この現状に漬け込んで、あやめとの関係を利用して、なり損ないの才覚を利用して、自分が彼女に手を伸べた──という事実を作り上げたいがために、そういう胸臆の一物に従おうとしているのかもしれない。
だとしたら僕はやはり、褒められた人間ではないのだろう。根本的な解決を探しもせず、現状に甘んじて、あまつさえ自分をほんの少しでも立てようという気概の、いかに愚かしいことか。同時に、それを強く自覚していながらもなお、そうしようと心意気を変えない気概の、いかに浅ましいことか。
けれども今の僕には、そんなことはどうでもよかった。ただ、目前の少女にこの心持ちを伝えるだけの勇気を、ずっと、手のひらのなかで探している。
「……えっと」
噤んだ言葉を、もう一度だけ吐き直す。あやめはそんな僕の面持ちを、ただ黙って見つめていた。彼女にとっての自分は、どう映っているのだろうか。きっと、最後に話した四年前のままなのかもしれない。それはそれで構わなかった。今の自分に会うのは、これからの話なのだから。
──そう思い思い、あやめの瞳を見詰め返す。この鈍色の曇天にも、瞳は黒曜石の宝玉みたように玲瓏として、ただ澄んだ硝子玉のような美しさをたたえていた。
「──だったら僕が、君の盲目に色を分けてあげるよ」
「…………なに?」
自分で言っておきながら、失敗したなと思った。あやめは僕の言葉に目立った反応もせず、ただ真意を図りかねたように、呆然としつつ小首を傾げている。それもそうだ。完全に僕の伝え方が悪かった。こんな文学的な言い回しでは、誰も彼も分かりはしないだろう。やはり僕には似合わない。
どうしたものかと人知れず狼狽する。もしや一から説明しなければいけないのか──というところまで考えを巡らせているうちに、ふと、あの奔放な、さながら昔の彼女らしい笑い声が聞こえてきた。
「……ふふっ、なんか面白いね」
あやめは口元に手を当てて、相好を崩している。細まった目付きの合間に睫毛が覗いていて、何がなしに、彼女の笑い顔を見るのは久しぶりだな──などと見蕩れていた。
「彩織ちゃん、よく分からないけど必死だね」
あやめは笑みを噛み殺しながら、僕を見上げてそう微笑む。
「でも面白そうだから、その話、乗るよ。私は馬鹿だからよく分かんないけど、きっと彩織ちゃんの言うことだし、私に何かしてくれるんでしょ。何だろうなぁ、楽しみだなぁー。えへへっ」
華奢な膝に手を当てて、彼女は足を遊ばせている。やにわに曇天の切れ目から射し込んだ陽光が、その足元を照らしていって、まるであやめの心持ちを代弁するかのように、一筋、また一筋と雲間が見えてきた。青天井が広がっていく。
曇りのち晴れ──天気予報だと今日は曇りと言っていたのに、なんだか裏切られた気分だ。けれど、悪い気はしない。その理由はもう、分かりきっていた。
「取り敢えず彩織ちゃんは、私に色を分けてくださいな」
青天井から降り注ぐ青い日差しが、彼女の瞳を射していく。それが狂おしいほどに皮肉で、そうして、婉美だった。盛夏に咲いた向日葵のような笑顔が、この晩夏にもよくよく似合っている。
「うん」と返事をした僕の後悔はたった一つだけで、やっぱり物語の主人公みたような言い回しは、僕には似合わなかった。
彼女のその一言が、僕にはこれ以上ないほど場違いで、突拍子なものに思えた。だからなのだろう──先に感じていた何もかもが、泡沫のように音も香もなく消え失せて、代わりにただ、この妙な現実へと我知らず引き戻されているだけの僕自身がいた。
「死んだはずなのに、気が付いたらここにいたの。暑かった。すぐにお家の縁側だって分かった。手のひらの感触と、お外の匂いと、お日様の当たり方と、他にも、色々。……でも、なんでか目だけが見えなくて、いつの間にか誰もいないお家に一人ぼっちで、どれだけ時間が経ったのかも分からなくなっちゃった。何日とか、何週間とか、何ヶ月とか、何年とか──真っ暗のところで、ずっと生かされてるの。お腹も空かないし、眠くもならないんだ。だから私、本当に死んだはずなのに……死ぬよりも、苦しい気がしてる」
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──だからこそ僕は、僕自身の薄情を自覚せざるを得なかった。ただ黙り込んで、呆然としているだけだった。予期するところを遥かに超えた彼女という存在の境遇に、僕は気の利く言葉の一つさえ投げ掛けられないまま、ここで何か言えたらいいのに、と、そんな無駄足だけを踏んでいる。
「……本当は、死んだ人がここに残ってるのって良くないんだよね。どうやったら成仏できるのかな。それとも、真っ暗の中でいつまでもこのままなのかな。ずっと考えてたけど、まったく分からないや。でも、そうしたら、彩織ちゃんに会ったんだよ。たまに誰かが来ることはあっても、誰も私には気が付かなかった。どれだけ話しかけても、無視されてるみたいで──きっと、今の私って、誰にも見えないんだろうね。死んだから幽霊になったのかな。でも、彩織ちゃんだけは、私が見えて私と喋れるんだね」
喜色という名の泡沫が弾けたように、あやめは溌剌と笑う。その笑みが彼女にとってどれほど尊いものなのかというのは、今の僕にも容易に想像できることだった。
同時に、何とも言い知れぬ心地の悪さが──それがどうして僕だったのだろう、という疑念と邪推が──どこからともなく浮かみ現れてくる。一度でも意識してしまうと、それはなかなか僕の目の前から離れてはくれない。
「だから、名前が呼ばれた時、凄く嬉しかったの。結構びっくりもしたけど……でも、久しぶりに会った彩織ちゃんを失望させたくなかったから、なんとか演技したんだ。生きてる時みたいに、盲目を悟られないように振る舞って──だけど結局、彩織ちゃんは知っちゃったね。……私のこと、失望した? 怖いよね、きっと」
いつからか、彼女の声は微かに震えていた。睫毛も、目蓋も、口元も、華奢な手から指先に至るまで、その波紋が広がっている。僕はその様子を目の当たりにしいしい、どう返事をしようか、咽喉の出口まで差し掛かった言葉を、もう一度だけ飲み込んだ。
飾り気っぽい言葉なんて、綺麗なようできっと醜悪なのだ──そう思いつつも僕は、せめてもの本音を言わずにはいられなかった。
「……それは驚いたけど、失望なんて、してない。怖くもない。あやめちゃんは、あやめちゃんだから。僕はまだ何も知らないけど、そうなったのには、きっと理由があるんだよ。僕だけがあやめちゃんを見れて、話せるんだから、きっと、何かが──」
「──だったら、運命?」
「……そんな大それたもの、あるのかな」
「あるかもしれないよ、きっと。私が彩織ちゃんに初めて会ったのも運命なら、こうして死んだ後も会えるなんて、これも運命っていう気がする。月並みな表現だけど、彩織ちゃんだから、なのかな。なんで彩織ちゃんかは分からないけど、そう思うんだ」
運命──その二文字が持つ摩訶不思議な不可視の魅力に、あやめも僕も、どこかで魅入ってしまったような気がした。この再会が運命なら、それを織り成してゆく必然を積み重ねてきたのだろう──などと考え始めると、きりがない。何より物語の主人公みたような語り口調で、そういうのは、小説の中だけでよかった。
目前の少女は、盲目の瞳でこちらを見つめながら小さくはにかむ。きっと、今の僕は、あやめにとって唯一の、救済にも等しい相手なのだろう。苦悩を幾度も幾度も繰り返してきたらしい彼女にとって、たかが僕ごときは、いったい何ができるというのだろうか。既に亡き盲目の少女を相手に、僕はどうすれば──。
──盲目。それは黒洞洞たる暗闇の中で、あやめは昼も夜もなく薄幸を目の当たりにして苛まれ続けている。
それなら僕が、ほんの少しだけでも色を分けてやりたかった。自分の見ている全てを、感情の全てを彼女に分け与えて、たといそれが仮初のものだとしても、盲目の瞳に幻影が浮かみ現れてきたとしたら、少女の薄幸を和らげることができるかもしれない。
「だったら、僕が──」
そう言いかけたところで、口を噤む。この決意は恐らく、生半可なものではきっと、どうにもならないのだろう。『色を分けてやる』なんて、そんなものでは到底、解決しない問題なのかもしれない。けれども僕は、否、僕程度の人間には、これしか出来ないのだ。
自分の持つ語彙と感性だけを頼りにして──僕は、僕の見たこと感じたことをそのまま、あやめに伝える。それが彼女の盲目に色を分けるということだった。人間として大成しているわけでもなく、気の利く言葉すら投げ掛けられない。そんな僕が出来ることといえば、それこそ何の足しにもならない文芸創作、それっきりだ。
彼女のためと言ってしまえばそれまでなのに、どうにも上手く収まらない。一見して綺麗な『彼女のため』という心持ちは、反面、僕自身のためにも他ならないのだ。この現状に漬け込んで、あやめとの関係を利用して、なり損ないの才覚を利用して、自分が彼女に手を伸べた──という事実を作り上げたいがために、そういう胸臆の一物に従おうとしているのかもしれない。
だとしたら僕はやはり、褒められた人間ではないのだろう。根本的な解決を探しもせず、現状に甘んじて、あまつさえ自分をほんの少しでも立てようという気概の、いかに愚かしいことか。同時に、それを強く自覚していながらもなお、そうしようと心意気を変えない気概の、いかに浅ましいことか。
けれども今の僕には、そんなことはどうでもよかった。ただ、目前の少女にこの心持ちを伝えるだけの勇気を、ずっと、手のひらのなかで探している。
「……えっと」
噤んだ言葉を、もう一度だけ吐き直す。あやめはそんな僕の面持ちを、ただ黙って見つめていた。彼女にとっての自分は、どう映っているのだろうか。きっと、最後に話した四年前のままなのかもしれない。それはそれで構わなかった。今の自分に会うのは、これからの話なのだから。
──そう思い思い、あやめの瞳を見詰め返す。この鈍色の曇天にも、瞳は黒曜石の宝玉みたように玲瓏として、ただ澄んだ硝子玉のような美しさをたたえていた。
「──だったら僕が、君の盲目に色を分けてあげるよ」
「…………なに?」
自分で言っておきながら、失敗したなと思った。あやめは僕の言葉に目立った反応もせず、ただ真意を図りかねたように、呆然としつつ小首を傾げている。それもそうだ。完全に僕の伝え方が悪かった。こんな文学的な言い回しでは、誰も彼も分かりはしないだろう。やはり僕には似合わない。
どうしたものかと人知れず狼狽する。もしや一から説明しなければいけないのか──というところまで考えを巡らせているうちに、ふと、あの奔放な、さながら昔の彼女らしい笑い声が聞こえてきた。
「……ふふっ、なんか面白いね」
あやめは口元に手を当てて、相好を崩している。細まった目付きの合間に睫毛が覗いていて、何がなしに、彼女の笑い顔を見るのは久しぶりだな──などと見蕩れていた。
「彩織ちゃん、よく分からないけど必死だね」
あやめは笑みを噛み殺しながら、僕を見上げてそう微笑む。
「でも面白そうだから、その話、乗るよ。私は馬鹿だからよく分かんないけど、きっと彩織ちゃんの言うことだし、私に何かしてくれるんでしょ。何だろうなぁ、楽しみだなぁー。えへへっ」
華奢な膝に手を当てて、彼女は足を遊ばせている。やにわに曇天の切れ目から射し込んだ陽光が、その足元を照らしていって、まるであやめの心持ちを代弁するかのように、一筋、また一筋と雲間が見えてきた。青天井が広がっていく。
曇りのち晴れ──天気予報だと今日は曇りと言っていたのに、なんだか裏切られた気分だ。けれど、悪い気はしない。その理由はもう、分かりきっていた。
「取り敢えず彩織ちゃんは、私に色を分けてくださいな」
青天井から降り注ぐ青い日差しが、彼女の瞳を射していく。それが狂おしいほどに皮肉で、そうして、婉美だった。盛夏に咲いた向日葵のような笑顔が、この晩夏にもよくよく似合っている。
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