【完結】鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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九月一日

進展、後退、現状維持

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 薄ぼけた月明かりが瞳を射す。どれくらい目蓋の裏を眺めていたか分からないけれど、この八畳間の様子は、夜目にもよく窺えた。蒸し暑さはほとんどなくて、涼風が、やや汗ばんだ肌の上を撫でていく。窓から覗く星は、さながら藍のインクに散らべた輝石のようだった。

 それが眩しくて、僕はまた目を閉じる。あやめに抱きしめられていた感触を、ふと思い出す。否応なしに沈んでいく意識には抗えなくて、でも、彼女がそこにいるんだなということは、しっかり感じていた。体温も、匂いも、実体も、確かにそこにある。だから、安心できる。

「ん……」

 ──二度目の寝落ちる寸前に、寝言のようなあやめの声が聞こえた。

 暑いのか、少しだけ身をよじって、僕から離れる。

「ごめんね」と、小さく聞こえたような気もした。

 ──鼓膜を微かに、遠く薄い金属音が、震わせていく。

 

 

「……ちゃん、彩織ちゃん、起きてって」

 あやめに揺さぶられて目が覚めた。別に、声に緊張感があるわけじゃない。いつも話すような、温和で、優しいあの声音だ。鋭く射し込む朝日を、彼女の身体が遮ってくれている──わけもなく、無慈悲に燦燦と降り注いでいる。小さく返事しながら、無理やり身体を起こした。

「……おはよ」

「おはようっ」

 盛夏の向日葵にも似た満面の笑みが、まだ重い目蓋越しにもよく分かった。可愛らしいなぁ、なんて漠然と思いながら、ようよう寝ぼけまなこを擦って、欠伸をして、あやめを見直す。

「今日は……起こしてくれるパターン?」

「彩織ちゃん、私に起こされることあったかなーって」

「いや、それは多分、ないと思う……。なんか新鮮だね」  

 意識を晴らすように、二人で笑う。何事もない、平和な朝だ。いや、ぶっちゃけ、いつも平和なんだけれど。あやめが一緒にいようがいまいが、僕の周りは、ずっと平和だった。

 ──そう思ったのも束の間、ほんの一瞬、心臓を鷲掴みにされたような、嫌な動悸がする。

「……そっか」

 それだけしか、言えなかった。どうしようもないと分かっていたから。

 昨夜よりも透明度が増した彼女のことを、どう言えばいいか分からなかったから。

 半透明の身体を透き通っていく朝日は、いつもよりも眩しくて、白かった。

 あやめも気づいていたのか、けれど、いつものような無邪気な笑みを洩らす。

「だんだん透明になるとさ、なんか、神秘的って感じするよねぇ」

「……あやめちゃんに初めて会った時は、透明感のある子だなって思ったよ」

「今は本当に透明になってるけどねっ」

 何も気にしていないように。或いは、そう振る舞っているように。

「神秘的で綺麗だね」なんて、そう言いながら、腕を広げている。

 なんて言えばいいのか分からないけれど、ひとまず、頷いた。

「……ところで、彩織ちゃんさ」

「うん?」

「私、駄菓子屋さん行きたいな」

「随分と脈絡のない話をするね……」

 でもまぁ、いいか。何かしら気分転換をしないと、やってもいられなさそうだ。

「じゃあ……ちょっと待っててね。着替えてくる。少ししたら降りてきて」

「えー、着替えるくらい一緒でもいいよね? お風呂に入った仲だもん」

「いやまぁ、いいんだけどさ……。あやめちゃん、なんかオープンになったね」

 無自覚なのか、よく分かっていなそうな彼女に苦笑しながら、僕は部屋を整理する。ひとまず窓を閉めて、布団は面倒なのでそのまま、あとは日記帳を持って……うん、大丈夫かな。

「じゃあ、降りよっか」

 頷くその笑顔に、柔らかな日射しが透ける。素直に綺麗だと思った。まだ、思えている。

 軽快な音を立てて階段を降りながら、脱衣所に向かった。着替えを見られるくらい別にいいか、と思い思い、部屋着を脱いで、服を着る。それをにやけ顔で見守っているあやめの姿が面白くて、吹き出してしまったのを怒られて、そんなことをしながら、居間に顔を出した。

「おはよう。駄菓子屋さん行ってくるね」

 部屋にいた小夜と祖父母が適当に返事する。そのまま玄関に行こうとして、ふと気になった。

「あれ、小夜って高校は? もう夏休み明けたんじゃないの?」

「ウチは通信制やから大丈夫。全日制なんに行ってない彩織ちゃんのほうが問題やで?」

「あっ、通信なんだ。僕のことはほっといていいよ。それじゃあ」

「えっちょっ、意外になんも驚いてないな……!? リアクションうっす……!」

 毎日ゴロゴロしていて、宿題もせずにご気楽だな──とは思っていたけれど。

 でも、そういうのんびりした学生生活も悪くないのかな、とか考えながら、あやめの手を取って、履物を履いて、玄関を開けた。まだ夏らしい紺青の空が、入道雲をたたえていた。





「そういえばね、彩織ちゃん」

 駅の少し向こうに見える線路は、だんだんと昇ってきた炎陽の日射しに照らされて、鈍く光っていた。黄金色の稲と、或いは路傍に咲く曼珠沙華が、鮮やかに揺らめいている。

 駄菓子屋へと向かう道の途中で、麦わら帽子を持ち上げたあやめはふと、あの曼珠沙華を見つめながら言った。

「私、色が少しだけ見えるようになったんだ」

「えっ……色、色も?」

「うん、色。色がね、薄いけど、見えるようになった」

 はにかむように柔らかな笑みで、それが症状の進行を意味すると分かっているはずなのに、あやめはただ、ひたすら嬉しそうに、笑っている。数日前にカラーの夢を見たと話してくれた時も、ちょうど、こんな感じの笑顔だったなと、そんなことを思い出した。

「曼珠沙華って、もっと赤いはずなのになぁ」

 困ったように、不満げに頬を緩ませながら、あやめはいつの間にか解いていた手を結び直す。急かすようなそれが可愛らしくて、『早くアイス奢れ』と言われているような気がした。

 ショーケースから漏れた水が、焼けたアスファルトに道を作っている。それが排水口の金網から落ちて、小さく水音を立てていた。それに被さるような、エアコンの室外機が回る音。

「よし、入ろっか。あやめちゃん、静かにしててね」

「いっそのことポルターガイスト起こしちゃう?」

「それはまた変な噂になりそうで嫌なんだよ……」

 冗談冗談、と笑うあやめの髪が、顔を寄せてきた拍子に、僕の肌に触れる。けれど引き戸の窓硝子には一人しか映っていなくて、当たり前のはずなのに、少し寂しい気分になった。

 カランコロンと風鈴が鳴る。いつものおばあちゃんは……いない。その代わりに、カウンターに置き手紙がしてあった。『代金はこちらの箱にどうぞ』とのこと。無人販売だ。

「彩織ちゃん良かったね、おばあちゃんいなくて」

「普通に助かるね……。変な気とか遣わないし」

 手を繋いだまま、何を買おうかなぁと店内を物色する。

「ねぇねぇ彩織ちゃん、ラムネ飲む?」

「二本ちょうだい」

「……アイスは?」

「なんでも好きなの買っていいよ」

「いぇーいっ。優しいねぇ」

 あやめにメインのものを選ばせて、僕は適当な駄菓子をかごに入れていく。何気にカルパスがいちばん好きだ。あればあれだけ食べられるしね……と、二十個くらい掴んでみる。

 ふとあたりを見渡して、彼女の姿を探した。いない──ように見えたのは気のせいで、日射しが強く当たるところに立っていたから、透けていて分かりにくくなっていただけらしい。

「……彩織ちゃん、それ一人でみんな食べるの?」

「あ、いや、さすがに半分こするけど」

「おー……。あ、あとラムネも食べたいっ」

「食べるほうのラムネね……二本あればいっか」

 大量のカルパスと、プラスチックのラムネ瓶と、硝子のラムネ瓶、あとアイスが数種類。かごも少し重くなってきたところで、こんなものかな、と値段を計算してみる。あやめが律儀に数えてくれるのを隣で眺めながら、適当にお金を準備した。まぁ、千円札しかないけど。

「彩織ちゃん、駄菓子屋でお釣りなしの千円って使いすぎじゃない……?」

「まぁ、それはそうだけど……。いくらくらいになった?」

「だいたい千円っ! ギリギリだねぇ……。あっ、ほーれいざい入れなきゃ」

 保冷剤あるある。ほーれいざい、って伸ばして言っちゃうんだよね。

 お金をカウンターに置いて、諸々を袋に詰めて、アイスが溶けないように、保冷剤をたんまりと入れる。あやめはそれを大事そうに持って、どこかから吹く冷房の風に当たっていた。

「お家に戻ったら、私、午前中のおやつで食べたいな」

「いいよ、いつ食べたって。あやめちゃんの好きで来たんだし」

「えへへ、ありがとっ。幽霊だから太らないもんね」

 そう言って、服の上から自分のお腹を触っている。ぽんぽんと叩くたびに軽快な音がした。

「彩織ちゃんも触ってみる? ほらっ」

「ちょっ……」

 あやめは悪戯っぽく笑いながら、半透明のお腹に僕の手を当てさせる。少しだけへこんでいて、温かくて、柔らかい。それだけの話、なんだけど──当の本人は、なぜか嬉しそうだ。

「……できちゃったね、赤ちゃん」

「馬鹿なこと言わないでよ、もう……」

 変なことで顔を赤らめないでほしい。





 家に戻って、すぐに袋ごと冷蔵庫へしまった。ただ、特にやることもなくて、居間で適当にくつろいでいる。テレビに夢中な祖父母の横で課題をやっている小夜を、僕とあやめは後ろから眺めていた。当の本人は明らかに落ち着かなそうだ。シャーペンを持つ手が止まっている。

「通信制って全日制と変わらないの?」

「……そうやよ」

 座卓から視線を動かさないまま、小夜は小さく呟いた。

「『お勉強難しい?』って聞いてみて」

「勉強は? 難しいの?」

「別にー……普通やないん? 聞いてれば」

「ふぅん……」

「小夜ちゃんはさすがだねぇー……私とは違うや」

 畳の上に寝転がりながら、あやめは軽く笑う。どうせ誰にも見えていないから何をしてもいいよね、みたいな態度で、だいぶ我が家の雰囲気にも慣れているらしい。手を伸ばして扇風機の風を受けているのが、やはり子供らしいなぁと思っても、迂闊に笑えないのが大変だ。

 終わったのか、集中が切れたのか、小夜は大きく伸びをしてから寝転がる。

「んー……! こんなもんかな……。彩織ちゃんは勉強とか、どうなん?」

「ちょっ、ちょっ、小夜ちゃん待って……! 私の足っ、踏んでるって……!」

「あ、小夜、ちょっと一回だけ起き上がって。踏んじゃってるから」

「えっ……? あー……そっか、そやね。ほんとや。ありがと、ごめんな」

 あやめが、とは言わなかったけれど、きちんと伝わったらしい。「なんでそんなところにおるん……?」とは言われたけど。見えないとなかなか厳しいところってあるよね。

「冷蔵庫の袋のなかにカルパスいっぱいあるから、食べていいよ」

「おー……さんきゅ」

「んじゃあ彩織、ついでにじいちゃんとばあちゃんにもくれるか」

「ずっとテレビ見てたのになんで今だけ反応するの?」

「あっ、彩織ちゃん、私も食べたい!」

「……まぁ、みんなで食べよっか」

 僕にしか聞こえないはしゃぎ声を聞きながら、人数分だけ持ってくる。あやめにはバレないように、起き上がった小夜の背中に隠れて食べてもらうことにした。小さいからよく隠れる。

 可愛らしい顔に似合わず一口で飲み込む彼女を横目で見ながら、僕も封を開けて食べた。ただそれだけで、特にやることもないなぁと思いつつ、舌に広がる旨味を漠然と味わっている。

「僕、暇だから部屋でのんびりしてるね。小夜は課題とか頑張って」

「お気遣いどうもー。あーあ、やんなっちゃうな……めんどいめんどい」

「あれ、これって彩織ちゃんと二人っきり……ってこと? お誘いされてるっ」

 後ろでうるさいあやめを無視しながら、空気の籠もる二階に上がる。案の定、部屋も蒸し暑くて、すかさず窓を全開にしてから扇風機を回した。布団は敷きっぱなしのままだ。

「あやめちゃん、一緒に寝る?」

「……いいの?」

「うん。どうせ暇だしね」

 用のない掛け布団を軽く畳んで、扇風機の風が届く枕元に寝転がる。あやめもそこに飛び込むと、汗ばんで貼り付いた髪を直しながら、気持ちよさそうな笑みを洩らした。生ぬるい吐息が直にかかって、でも、それが気になるわけでもない。この距離感にも、少し慣れてきた。

「あー、涼しい……。私、昨夜はあんまり寝れなかったから、ガチ寝しちゃうかもね」

「あれ、そうなの? ……もしかして、夜中に一回、起きてたっけ?」

 そういえば、目が覚めて、また寝落ちしかけた瞬間に、あやめが部屋を出てどこかに行った気もする。別に気にはしていなかったけれど、夜中に動くのも珍しいな、とふと思った。

「どっかに行ってたよね。なにしてたの?」

「あー……彩織ちゃん、あの時、起きてたんだ?」

 あやめは目を丸くして僕を見る。それから視線を彷徨させると、「いや、特に、なんでもないんだけどね」と、歯切れ悪く切り出した。指で頬を掻きながら、曖昧に笑っている。

「ほら、ちょっと暑くて……。涼みに出てこようかなって、思っただけ、だから」

「あ、そっか。さすがにくっついて寝るのは暑かった?」

「ううん、それは平気だよ。ただ、やっぱりその、ドキドキしちゃう……かな」

 手を縮めるその姿がいじらしくて、はにかむ彼女と一緒に、つられて笑う。慣れてきたはずなのに、中途半端に自信がついていたのだろうか。羞恥心で目を逸らしながら、そう思った。

「じゃあ、あやめちゃんのこと、抱きしめて寝れないね」

「んー……。じゃあ、こうするくらいなら……いいよね」

 そうとだけ言って、僕の服をちょこんと掴む。目もしっかり閉じて、何度か呼びかけても、小さく笑うだけだった。まるで彼女が、自分自身に言い聞かせたかのような言葉に聞こえた。

「……可愛いから仕方ないか」

 僕も諦めて、目をつぶる。純白のワンピースの、薄く透けたその生地を、軽くつまんだ。





 次にあやめが目を覚ましたのは、夜の八時を過ぎたあたりだった。お風呂上がりの蒸し暑さに、窓から吹き込む小夜風が涼しい。日記帳の上に滑らせていたペンを置いてから、僕は薄っすらと覗く、焦点のあっていない、あの澄み切った黒曜石のような瞳を見た。

「……彩織ちゃん、なにやってるの」

「日記帳。書いてた」

 ふぅん、と、欠伸混じりの声が洩れる。あやめはゆっくり起き上がって、そのまま窓の外を見た。街灯の明かりなんて、踏切のところに一つだけだ。宵に咲く一番星みたいだと、ふと、そんなことを思う。蛍光灯の白さが彼女の身体を透き通って、それが一層、淡かった。

「涼しいし、夜のお散歩、行きたいな」

「……この時間に? いいけど、珍しいね」

「うん。行ったことないなって思ったから」

 寝起きのためか、ぎこちなく笑う彼女の手を引きながら、「じゃあ、行こうか」と手短に言う。僕の指だけを掴むその感触が、まるで小さな子供のようで、ちょっと新鮮に感じられた。

 部屋を出てすぐに、お風呂上がりの小夜と行き違う。手ぬぐいを首にかけて、いつも通りのだらしない格好だった。蒸すような暑さのなかに、少しだけシャンプーのいい匂いがする。

「あ、小夜、あやめちゃんとお散歩行ってくるね」

「おー、二人っきりで夜の散歩なんて初めてやない? いってらー」

 手を振ってくる彼女に振り返して、そのまま階段を降りた。履物を履いて、玄関の扉に手をかける。動くたびにカラカラと鳴る。それをうるさいなぁと思い思い、後ろ手で閉めた。

 道路に出ても、案の定、照明はない。街灯が数十メートルおきにあるくらいで──だから、こんなに暗いから、どれだけ目を凝らしても、あやめの姿が見えない。雲に陰った月のせいで、月明かりすらも当てにならなかった。まったく見えないのが少し怖くて、握る力を強める。

「私のお家のほう、行ってみていい?」

「うん。ここ何日か行ってなかったもんね」

 歩を踏み出す。冷めたアスファルトの硬さが、足の裏に伝わっていく。どこからか、ひっきりなしに虫の鳴き声が聞こえていた。いよいよ夏が終わるんだな、と、そう思った。

 手のひらに、温かいものが触れている。柔らかいものが触れている。ただそれだけで、姿は、よく見えない。近づいてきた街灯に照らされて、その光に降られながら、あやめは横目で僕を見上げていた。薄闇のなかに、半透明の少女。正真正銘の幽霊だ、なんて、ふと思う。

「……また暗くなっちゃった」

 残念そうな彼女の声が、薄れていく明かりの余韻に照らされていった。いま暗がりで見えないだけで、これほど不安になるんだったら、本当に透明になってしまったら、僕はどうすればいいんだろう。声も温度も匂いも分からないまま、触れた感触もなくなって、真昼なら見えていたはずのものが、最初から存在しなかったかのように、返事すらしてくれなくなる。

 ……今はきっと、近い未来に訪れる苦痛を、そっと慣らすための時間でしかない。お互いに平静を気取っているけれど、心のどこかでは怖いはずだ。今朝のことだって、きっとそうだ。

「明かりは少ないけど、大丈夫? 怖くない?」

「ん……大丈夫。彩織ちゃんがいてくれるから」

 かろうじて、顔の輪郭が分かる。虫の鳴き声を聞きながら、手のひらの温かさを確認する。

 それからふと、言い方を間違えたな、と思った。せめて『僕がいるから大丈夫だよ』の一言くらい、言えればよかったのに。昔から、こういう気の利いたことは、言えずにいたままだ。

「足元──」

 暗いから、転ばないでね。いつもの坂道に差しかかったところで、二人の声が重なる。

 考えていることは同じなんだなと、姿は見えにくいけれど、少しだけ嬉しくなった。高まる脈拍を抑えながら、湿りかけてきた手を、更に強く握り直す。あやめは今、どんな表情をしているだろう。僕は、たぶん、笑っている。あやめにも、笑っていてほしかった。

「ちょっと歩いただけなのに、なんだかあっついね」

 少しだけ踏ん張って、真っ暗な坂道を登る。雲間から射す月明かりに照らされて、白いガードレールの終わりが見えた。「縁側、座ろっか」と、含み笑いのように彼女は言う。

 腕を伸ばしたその輪郭も、細やかな指のそれも、僕にはほとんど見えない。もう少しだけ月が出てくれれば、あやめの顔が見えるのにな、と、そんな祈りとともに、冷たい縁側に座った。

「夜にここに来るの、何気に初めてかも」

「彩織ちゃんはたぶん、そうだよね。私はよく、ここで涼んでたよ」

「ちょうどいいもんね。縁側があって、庭が開けてて」

「うん。さすがにちょっと、暗くて怖いかもしれないけど」

「僕がいるのに? そのうち月明かりも出てくるから、大丈夫だよ」

 彼女の横顔、その輪郭が少し動いて、小さな笑い声を洩らす。それに呼応するように、晩夏の小夜風が、頬を優しく撫でていった。繋いだ手の温もりは変わらなくて、遥か頭上をゆっくりと揺蕩う雲も、いつの間にか、隠れがちだった月の姿を現して、仄かに辺りが明るくなる。

「……ほんとだ、明るくなった。これでやっと、顔が見れるね」

 はっきりと、とは言えないけれど、これでも充分だ。まったく見えなかったさっきまでに比べれば、少し目を凝らせば、見えるんだから。形があって、色がある。確かに、そこにいる。そんな半透明のあやめが、目を細めて嬉しそうに笑ったのを、僕は今、この目で見た。

「お散歩に行こうって言ったのは、涼みたかったのもあるんだけど……本当は、彩織ちゃんに話したいことがあってね。みんなに変に思われないように、わざわざここまで来たんだ」

「……話したいことって? 相談事とかあるなら、聞くよ」

 なんだろう、と疑問に思うよりも早く、心臓が跳ねた。咄嗟に嫌な予感がして、けれど、動揺していることを気取られたくなくて、僕は小さく深呼吸しながら、そのまま先を促す。

 明らかに言い淀んでいた。何かを言おうとして、口を閉じる。僕に向けた視線が、ときおり右往左往と彷徨する。淡い月明かりが、瞳に揺らぐそれを反照させている、ような気がした。

「……彩織ちゃん、もう、実家に帰って」

「は……?」

 崖から突き落とされたような、そんな衝撃だった。心地の悪い浮遊感。脳髄を思い切り殴られたあとの、夢とも現ともつかないような、あの余韻。むしろ夢であってほしいと、そう思う。

「実家にって、なんで……? 僕は最後まで、あやめちゃんと一緒にいるつもりで──」

「ううん、それももう、必要ないから。彩織ちゃんのため、だから。お願い。帰って」

「僕のためってなに? それが理由だって言うんなら、もっと説明してよ」

 握る手の感触が少しずつ離れていって、それを食い止めるように、また強く掴んだ。

「──っ、やだ! だったら全部、彩織ちゃんのためなんかじゃないっ。みんな私のためだから……! こんなんだったら、好きになんかなるんじゃなかった! もう、彩織ちゃんなんか、大嫌いっ、だから……だから、さっさと、私のとこから離れてよ……! これじゃ、ずっと、彩織ちゃんのこと、好きになっちゃってるまま、だから……! ……もう、怖いんだよ」

 僕にしか聞こえない嗚咽混じりの声は、悲痛の色を帯びていた。咄嗟に立ち上がったその拍子に、あやめの手が僕の手を振りほどく。こんなの絶対に、彼女の本心じゃない、そう分かりきっていながらも、どう声をかけたらいいのかは、今の僕には分からないでいた。さっきまで笑っていたのも、寝る前に少しだけとったスキンシップも、全て嘘だったとは、思えないから。

「……僕のことが嫌いなんて、嘘でしょ。そうやってなにか一人で考えてさ、勝手にやろうとするの、よくないよ。嘘をついてまで、わざと辛い思いをしてまで、やりたいことなの?」

「こうでもしなきゃ、私も彩織ちゃんも、いちばん辛くなるんだよ? 本当に、明後日、最後の日にさ──笑って終われると思ってるの? そんなの無理だよっ。だから、せめて……!」

 月明かりに照る紅涙が、玲瓏たる珠のように煌めいて、こんな状況なのに、綺麗だと思うくらいの余裕は残っていた。あやめが手の甲で拭ったそれが、地面に落ちて、土に染みていく。

 だからといって、聞き漏らすはずもなかった。明後日が最後の日だと、そう、言ったのを。

「……なんで分かるの? 明後日が最後だって」

「症状の進み方……だけじゃないよ。だって、九月四日が、私の命日だから」

 諦観のような笑みを貼り付けて、あやめは乾いた声を洩らす。それは同時に、自嘲で、皮肉だとも思った。九が苦しみなら、四は死そのものだ。きっと、狙ったわけではない、と思う。でも、きっとその日が最後なのだと、疑いようのない確信を、僕もたった今、抱いてしまった。

 純白の布を固く握りしめながら、彼女は滔々と、思いの丈を吐き出すかのように続ける。

「……四年ぶりに、彩織ちゃんに会ってさ、やっと成仏できるんだって思った。最後に好きな人に会えて、好きだって言えたら、それでもう充分だから、って。それで、彩織ちゃんが色を分けてくれたおかげで、私は目が見えるようになった。嬉しかったけど、でも、怖くなった」

 彼女のサンダルが土を踏む。蒸したような匂いが、鼻腔を仄かに香っていく。

「覚悟はしてたはずなのに、やりたいことは終わったはずなのに、好きな人と離れるのが怖くて……ただ、それだけなんだけど、でもね、私、気付いちゃったんだ。本当のこと」

「……本当のこと?」

「うん。目が見えるようになったのも、身体が透明になっていくのも、みんな、私のせい。彩織ちゃんのことを好きだって思う気持ちと比例するみたいに、どんどん進んでいくんだよ」

 だからね、と、泣き笑いのような表情で、それを月明かりが薄く照らす。

「だから、彩織ちゃんと離れて、本気で嫌いになれば、また、成仏できないままになるのかなって。目が見えなくなっても、夢のなかに逃げればいいかなって。会えないけど、私はまだこの世界にいるんだって、そう思ってもらいたかった。彩織ちゃんのなかでは、生きてるって」

「……そんなの、納得するはずないじゃん。自分で言ったんだよ? 幽霊がこの世界にいるのはおかしいんだって。いま会えてるのは、お互いの目的を果たすため。それできっちりと清算して、綺麗に別れるため。僕だって辛いけど、それくらい分かってるよ。いちばん逃げちゃ駄目なのは、あやめちゃんのほうでしょ? その代わり、最後まで一緒にいるんだよ」

 好きになるんじゃなかった、なんて、そんなの言わないでほしい。勝手に帰れとか、そんなの言われたくもない。嘘塗れの大嫌い、なんて、そんなのが響くはずもない。僕は──見ないだけで、言わないだけで、覚悟は決めているのに。怖いのも、辛いのも、お互い様のはずなのに。自分だけが逃げようとするなんて、あやめはそんな子じゃないと、思いたかった。

「……そう、だよね。ごめんね。大嫌いとか言ったのも、みんな嘘。もしかしたら、言い負かせるかなって思ったけど、無理だった。……でも、それ以外のことは、本当だから。やっぱり、一緒にいられないのは寂しいんだよ。一回は死んだはずなのに、また死ぬのは、怖い」

 縁側に座り直しながら、僕に言うでもなく、自分に言い聞かせるように、あやめは語る。視界の端に、半透明の彼女の手が見えて、触れてみたその感触は、さっきと何も変わらなかった。

「駄目だよ、現実から逃げちゃ。最後まで僕が一緒にいるから、せめて、悔いのないようにしよう。最後にはきっと、笑えるようにさ。少しでも怖くなくなるように、僕がするから」

どうやって、なんて、そんなの分からない。分からないけど、せめて今は、この夏が終わるまでは、あやめと別れるまでは──一緒にいなければいけないのだと、そう思っている。それが僕の使命だ。僕にだけ彼女が見えることも、話せることも、全てはきっと、そこなのだろう。

「──どんなになっても、彩織ちゃんは、私のそばにいてくれる?」

「いるよ、絶対に。最後の最後までね」

 月明かりに照らされた薄い笑みが、それでもどこか、純粋な安堵のような気がした。
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