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第二章

鮮やかな群青、淀む純白

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 しばらく石段に座って景色を眺めていたり、それが飽きたら家に戻ってお金を片手に、今度は商店へ行ってみたり──そこで買ったものを、集会所で食べてみたり。行ったことのないところに行こうとは話したものの、なんだかお互いに、行き慣れた場所に落ち着いていた。

 いつもなら圭牙たちと遊んでいるはずの昼下がり、しかし今日だけは白波と水入らずで過ごしている。ぶっちゃけ、特別感は薄い。ほとんど日常のワンシーンのように思えた。けれどそれがどれほど尊いものなのかを、僕も、そして恐らく彼女も、分かっているのだろう。


「……暇ですねぇ。今度はどこに行きますか?」


 座布団の上で足を崩しながら、白波は退屈そうに言う。僕と一緒にいても暇しないというあの言葉は、いったい、なんだったのだろう──とでも言いたくなった。でもそれが、いちばん白波らしい。苦笑いを隠すこともせずに、僕は座卓に肘をつきつつ口を開いた。


「じゃあ、桟橋。定期的に行きたくならない?」

「……ふむ。分からなくはないですねっ」


 決まりだね、と笑って、すぐに集会所から離れる。首元に吹き付けていた冷房の風がいなくなるのは、流石に少し寂しいけれど──炎陽の日射しが燦々と照りつけようが、今は彼女と一緒にいられることが、楽しかった。空気に乗った潮風の匂いが、枝葉に揺られて鼻腔へ香る。


「マスター」

「なに」

「んっ」


 差し出されたそれを見て、僕も躊躇わず手を取る。


「私が転んだら、マスターの責任ってことで!」

「まったく……。ほら、そうやって縁石に乗る」

「楽しいからいいんです! これだと私の方がマスターよりもおっきくなっちゃいますね……。えへへっ」


 拳一個ぶんの目線差ではなくなってしまった。左手を少しだけ高く上げながら、バランスを取って進んでいる彼女に遅れないように、僕も隣をついていく。高台から見える群青色の海と空に、真っ白い入道雲が泳いでいた。

 緩やかな道沿いに続くガードレールを横目に、僕たちは初日、二人で歩いてきた道を辿る。燦々と照りつける陽光の眩しさも、今はどこか許そうと思えた。上目がちに白波を見て、彼女は僕を見下ろしている、その構図がどこか新鮮で、こんな些細なことでも楽しめている今が、とても充実した夏休みを過ごしているなと感じられた。


「えいっ」


 軽快な掛け声とともに、軽やかな足音が響く。えへへ、といつものように上目で笑う彼女の姿を、僕はいつものように見下ろした。見晴らしの良い景色が、僕たちの目の前を覆い尽くしていく。左手にカーブしたガードレールと、頭上を切り裂いていく電線、真夏の日射しに的皪とした群青色の海面が、瞳に射さって眩しく見えた。

 なだらかな坂道を、二人で小走りになりながら駆け下りる。左に見える郵便局と、右にある駐在所を超えて、その坂道が終わるまで、風を切りながら走っていく。何も言わずに、ただ無言のまま笑いながら、手を繋いで酸素の続く限りひたすらに進む。これでさえも、楽しい。


「ちょっ……と待って、流石に息が……」

「えぇー、マスターはよわよわですねぇ……」

「このままこの坂は下りたくないでしょっ」

「……む、見事に論破されました。しょんぼり」


 もはや島名物の急勾配を目の前にして、僕と白波は覚悟を決めずにはいられなかった。それだけこの坂は厳しい。上るのにも疲れるし、下りるのにも気を遣う。下手に間違えば、この間みたいに全力疾走で水没だ。


「よし、マスターっ! また一気に下りま──」

「ちょっ、ダメダメダメっ!」


 途端に駆け出した白波の手を必死に戻しながら、僕は叫ぶ。なんてことを──という思いが一瞬だけよぎったけれど、そういえば彼女は、結構ノリノリの立場だったな……と気が付いて、深く溜息を吐く。流石にもう全力疾走はしたくないし、別に飛び込みたい気分でもない。


「ゆっくり下りよう。ね?」

「……マスターがそう言うなら、そうします」


 少しだけ残念そうに言われて、ほんのわずかにだけ良心が痛む。白波の楽しめることをさせてやりたいとは思うけど、流石にこれは、うん、覚悟の必要なことだ。

 直に吹き付ける潮風をときおり全身に浴びながら、そのたびに乱れる髪を直そうと、僕は手櫛を駆使する。逆に白波はそんなことなどお構いなしに、「涼しいですねっ」と笑っていた。ここで僕がその髪を整えてあげられるくらいの度胸があれば良かったのに、意識してしまうから、やはりそれは難しい。指摘するのが精一杯だ。

 やがてアスファルトが木組みの桟橋になって、僕は足元に波の打ち付ける音を聞きながら、そのまま深呼吸をした。口のなかに、生ぬるい空気が入ってくる。潮の匂いがする。肺が満たされる。少しだけ苦しくなって、そのまま一気に、二酸化炭素を吐き出した。繋いだ手のひらが、お互いに少しだけ、汗ばんでいるような気がした。

 群青色の夏空が眩しくて、隣にいる白波の瞳の色も、炎陽の視線に照らされて、爛々としている。それが僕を見つめて、目を細めて笑った時の、あの笑顔が──向日葵というには、やはり弱々しくて、路傍の花というには、まだ明るい。一体これは、どんな花に似ただろうか。


「ちょっと疲れちゃいましたから、座りましょっ」


 白波に言われて、手を繋いだまま桟橋の上に腰を下ろす。離すという選択肢が、お互いになかった。波音と、その柱に打ち付ける振動が、床に手をついているとよく分かる。僕があの時、タラップから降りてきて、ここに立った時には──そんなことを、気にする余裕などなかったというのに。今はこうして、実感している。


「……もう一週間くらい前かな。ここに来た時、僕は連絡船の窓から、白波を見たんだ。綺麗な人がいるなって思った。こんな島に、こんな人が残ってたんだ、ってね」


 特に予定していたはずのない言葉が、喉を通って勝手に出てきてしまう。けれど僕は、それを止められずにいた。今から話すことはきっと、僕の本心なのだろう。それを白波に伝えたいと、その一心だけで、喋っている。


「あの時、白波は──ここで何かを見てたよ。それが何かは、僕には分からなかったけど。でも、その姿がとても綺麗でね。タラップから降りて、すぐに探そうとした。そしたら君の方から話しかけてくれて、おばあちゃんの知り合いだって言った。君がバーチャル・ヒューマノイドだってことも、家に入る前に、教えてもらった」


 僕の一人語りを、彼女は頷いて聞いてくれる。僕もそれに甘えて、言いたいことをすべて、言いきろうとした。


「余命わずかなヒューマノイドの世話を任されて、しかもそれがかなりのポンコツだから、最初はどうしようかって思ったよ。今でこそ慣れてきたけどさ」

「私はそんなにポンコツじゃ……いや、これは、たぶん愛嬌ってやつですよ、マスター! 言い方に難があります」

「ふふっ、そうだね、愛嬌。その通りだと思うよ。良くも悪くも、それが白波らしいなって、僕は思った。圭牙も凪も、考えてることは同じなんじゃないのかな」

「えへへ……。何をやっても可愛いんですよ、今の私」

「うん、否定しない」


 いつものように、お互いに顔を見合わせながら笑う。二人ぶんのその声が、だだっ広い夏空へと融けていった。周囲を遮るものは何もなくて、水平線が続いている。


「それで、しばらく白波と一緒にいるうちに、僕は君のその雰囲気にね、少し懐かしさを感じたんだ。最初にこの桟橋で見かけた時もそう。もしかしたら昔、会ったことがあるんじゃないかって、そう思ったんだ」

「……なんで、そう感じたんですか?」

「──僕の初恋の人に、似てたから」


 その言葉は、思ったよりもすんなりと、喉の奥から流れてきた。海風に少しだけ掻き消されがちになりながらも、それは彼女の耳に、間違いなく届いている。面食らったように目を瞬かせた白波を横目に、僕は続けた。


「その髪も、瞳の色も、声も、笑い顔も──思い返してみれば、全部、似てたよ。……もちろん、最初は確信が持てなかった。けどね、段々と過ごすうちに、分かってきちゃったんだ。君が僕のことを抱きしめたりなんかするから、思い出しちゃった。あれがきっかけだったよ」

「……私がマスターの、初恋の相手、だったんですか? そんなこと、全然言ってくれなかったじゃないですか」

「……流石に恥ずかしくて言えないよ、そんなの。僕は白波にそのことを伝えたかったわけじゃなくて、昔、小さい時に会ってたことを思い出してほしかったから。僕だけ覚えてて、君に忘れられてるのが、どこか怖かった」


 彼女は僕から目を逸らすと、そのまま揺れる海面を見つめていた。潮風に吹かれて、波紋が立つ。耳に染み付いて離れない、波の音がする。アスファルトに打ち付ける白波が、余韻を伴って、泡沫とともに消えていく。


「私、マスターが小さい時のことを思い出して、少しだけ懐かしい気分になってました。時間は有限だから、なんでもいいから、楽しみたくなりました。昔は直接、触れませんでしたけど──今はこうやって、触れます」


 繋いだ手の感触が、ひときわ強くなる。白波は気恥ずかしそうに視線を落として、それから僕を見た。


「我ながら、ちょっとマスターに、甘えすぎてる感じがあるかもしれませんねっ。でも、最後までこうしているつもりです。一緒に過ごせる最後の夏休み、ですから」


 小さく笑った彼女に向けて、僕も小さく頷き返す。繋いだ手の隙間を、風が気まぐれに通り過ぎていった。変な涼しさにくすぐったいと思いながらも、我慢する。


「……じゃあ、最後の夏休みってことで、僕の我儘も聞いてもらえるかな。これでもう、二回目だけど」

「マスターの仰ることなら、なんなりと」

「……うん。えっとね──」


 ここで初めて、僕は、自分が二の句に詰まっていることに気が付いた。喉が締め付けられているのは、恐らく緊張と不安と、後はわずかな恐怖──ろくに経験のない異性への告白を前にして、僕は明らかに物怖じしていた。跳ねるような心臓の鼓動も、燦々と照りつける陽光も、眩しいくらいの群青色も、すべてが鬱陶しかった。

 けれど僕は、言わなくてはならない。この感情に整理を付けるために、或いは区切りを付けるために、或いは圭牙や凪に向けた、僕自身の体裁を保つために──やらないで後悔はしたくないから、だから、やるしかない。


「──あなたのことが、好きになりました」


 白波は僕の告白に、少しだけ息を呑んだ──ような気がした。繋ぐ手の感触が、生ぬるい肌の温かさが、さらに熱を帯びていく。分かりやすく何度も瞬きを繰り返す彼女の面持ちが、一瞬だけ晴れやかになったような気がした。そこに射し込む白い日射しが背後の入道雲に映えて、その群青色の瞳を、爛々と写し続けている。


「だから──」

「──マスター」


 僕の声を遮るようにして、白波は言う。想定していなかったその態度に、分かりやすく肩が跳ねた。けれどそれすらも気にしないまま、彼女は深く大きな瞬きを、一度、二度、と繰り返す。そうして胸元のあたりで手を握りながら、見慣れた群青色の瞳が、僕を見つめた。


「マスターの気持ちは分かります。けど──ごめんなさい。私にそういうことは、求めない方がいいですよ」


 一気にまくし立てるように白波は言うと、そのまましばらく目線を彷徨させてから、繋いでいた手を解いて立ち上がった。吹き抜ける潮風が、着物のたもとを揺らす。

 
「──私、八月三十一日に、寿命で消滅しますから」


 それは本当に、この夏空にも、潮風にも、消え入ってしまいそうな声だった。そうして離れていく彼女の背姿を引き留める暇もないまま、僕はそれをただ、呆然と見つめていた。薄墨色をしたアスファルトに、白波の影が落ちる。純白の髪が揺れる。しかしそれも、このアスファルトの上には、どこか澱んでいるように見えた。

 ──僕が見たあの晴れやかな面持ちは、僕自身が、都合よく幻視したものだったのだろうか。ほんの一瞬だけ彼女が見せてくれたあの表情が、まだ、脳裏に強く焼き付いている。でも、だったらなんで、いま──白波はあんなに辛そうな表情で、悲しそうな表情で、或いはやるせない顔をして、僕の隣を離れていったのだろうか。

 ──空の青さと入道雲の白さだけは、変わらなかった。
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