28 / 35
第三章
仮初の関係、負うべき責任
しおりを挟む
──白波の姿が見えないかを確認して、四宮家の前を小走りで通り過ぎる。暑さでふらついているのをなんとか我慢しながら、今の自分に残された唯一のオアシスへと向かった。
集会所の扉を開ける。つきっぱなしの冷房の風が、薄膜を張る汗にひんやりと触れた。誰もいないそこを独占しようと、畳敷きの小上がりに寝転がる。座卓に置かれたセルフサービスの麦茶を思い出したようにあおって、それからまた、わずかない草の匂いに目を閉じた。
「……」
こうやって一人でいる時ほど、辛いものはない。考えていることが筒抜けで、誤魔化そうにも誤魔化せなくて、自分が悪い、ということを、否が応にも認めさせられる。つまらない意地のために謝れないでいる僕自身が、どれだけ馬鹿馬鹿しいかを、直視させられる。それでもすぐに動こうとしないのは、まだまだ子供なのだろう。動く気も起きない。
なんともいえない室内の心地よさに微睡んでいると、誰かが入ってくる気配がした。
「こんな真っ昼間から涼しいとこで寝てるったぁ、若ぇのにいい趣味してら……」
含み笑いのような声が聞こえて、思わずそっちを向く。農作業中らしいおじいさんだった。
「誰かと思やぁ聡史んとこの孫か。いつもの女の子はどうした? 泣かしたか? へへ……」
冗談に決まっているのに、隠しごとがバレたような気になる。
「や、泣かしちゃないですっ。今日はたまたま、僕だけ……」
「ほぉん。まぁ男だら一人になりてぇ時もあるわな。あんな可愛い子と一緒ならな」
「おじいちゃん、それセクハラっていうんですよ」
「知らん、麦茶くれ。それ飲むためだけに来たんだわ」
苦笑しながら注いでやる。一気に飲み干すと、満足気な顔で本当に帰ってしまった。ほんの一分程度。こんなこともあるか、と思いながら、また寝転がって目をつむる。
それからずっと、冷房の音しか聞こえない室内で、目蓋の裏を眺めていた。十分、二十分は優に過ぎて、だんだんと意識が急転直下を繰り返す。遠くの方で、また扉の開く音がした。
「あっつ……」
絞り出すような声。もはや誰だか分からない。無視しながら、また意識を別に向ける。
……けれど、なぜか落ち着かない。誰かの前で寝ようとしているせいだろうか。喉も乾いてきたし、ひとまず起き上がろう、と、目を開け──たところで、反射的にのけぞる。
「わっ……!」
「ひゃっ……⁉ いや、人の顔を見といて驚くとかないやろ……」
「……人の寝顔を眺めるのもそれはそれでないでしょ」
間近で見えた凪の顔が、一瞬だけ脳裏に焼き付いた。妙な恥ずかしさでドギマギする。
彼女は苦笑しながら溜息を吐くと、座敷に上がって足を崩した。
「っていうか、夏月が一人でおるん珍しいんな。白波はどしたん?」
「白波は……別に。家にいる」
「ふーん。いつも一緒にくっついてるんに、そんなこともあるんやね」
「まぁ」
適当にごまかそうと麦茶を飲む。無言で手を伸ばしてきた彼女のぶんも、一緒に注いでやった。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。喉を冷やしたその余韻が、真夏の昼には心地よい。
「圭牙は?」
「モデルガンの整備」
「へぇ」
「……」
「……」
無言。なんだか気まずい。ただでさえ白波のことで気まずいのに。
それを察しているのか、凪も変に気を遣っているようだった。ときおり目線が合う。
「なぁ」
「うん」
「気分転換に、散歩でも行く?」
──商店で奢ってもらったラムネを飲みながら、あてもなく二人で歩く。隣に白波じゃない誰かがいるのは、とても違和感があった。その違和感も無理やり、炭酸で流し込む。けれど暑さが消えるはずもなくて、郵便局の庇の下に逃げながら、二人揃ってしゃがみこんだ。
「あっちいな……。散歩とか失敗やったかも」
「どう考えてもおかしいでしょ」
「そやね……。あはは」
困ったような笑い顔に、建物の陰が淡く乗る。凪は頭のお団子に触れると、そのまましばらく離さなかった。落ち着きがないのは、やはり気を遣わせているからなのだろう。けれど僕自身、それを少しだけありがたく思っている。今日はこのまま乗り越えて、また後で、いつも通り──とか。……彼女の優しさに甘えるなんて、つくづく自分は最低だ。
「ラムネ、美味しいやろ」
「うん」
「お腹が空いたときは、炭酸で膨れるしな」
指先に触れる硝子瓶の感触。少しだけ冷たくて、それが少しだけ、気持ち悪い。
……いや、気持ち悪いのは、自分のほう。このままで、いいのだろうか。目先のことから逃げて、現実逃避のためだけに無駄な話をして、白波に向き合うのは、いつになる?
そうは思いながらも、まだ、動けないでいた。彼女に対峙するのがどこか怖くて、自然に話せなくなりそうで、それが嫌で、いつまでも尻込みしている。いっそのこと、凪が、僕のことを後押ししてくれればいいのに。そうすれば、行けるかもしれないのに──。
「……こんなんで気分転換になるなら、ええんやけどさ」
「……うん、ありがと」
眩しそうに目を細めながら、凪が笑う。それがどこか無理しているように見えて、僕のほうが辛くなった。罪悪感、なのだろうか。直視できなくて、目を逸らす。入道雲が見えた。
……白波はあの入道雲に、どこか似ている。純白の色。奔放さ。夏空を彩る要素の一つで、いなければどこか物足りない、そんな存在。いてくれれば満足できる、そんな存在。
「ばーちゃん、こんちゃー」
軽快な凪の声がする。ふと顔を向けると、買い物帰りらしいおばあさんが歩いてきた。
「なっちゃん、圭牙とおらんでその子と一緒なん珍しいがね」
「偶然ね、偶然。集会所でばったり会ってん」
「あぁそう。あんちゃんは、いつもの白い女の子とおらんのん?」
「まぁ……。今日はたまたま」
「なんや向こうの方でウロウロしてたで。あんちゃんのこと探してたんやないか」
「えっ……?」
おばあさんはそう言って、集会所のほう、通りの向こう側を指さす。咄嗟にそちらを向いた。緩やかなカーブのその先を、見えるはずがないのに、しつこいほど凝視する。息が詰まって、肩が跳ねて、我に返ったような気がした。隣の凪が、無言で僕を見ている。
──逡巡する暇はなかった。ラムネ瓶の残りを一気に飲み干して、そのまま腰を上げる。彼女に無言で頷いてから、おばあさんにもお礼を言って、弾かれるようにその場を後にした。
歩いてきた道を遡りながら、必死に白波の姿を探す。体裁とかそんなのはどうでもよくて、身勝手な考えだけど、今はただ、彼女を一人にしておけなくなった。僕を追ってきたのなら、放ったままにしておきたくなかった。今更だけどそれが、僕の負うべき責任だと思った。
商店を過ぎて、集会所の通りへ出る。白波の姿は見えない。そこを右手に曲がって、いつか彼女と歩いた、あの遠回りの道に入った。壁一面に張り付いた苔や蔓草が、青々とした匂いとともに爽涼の気を放つ。緩やかなカーブの先に、錆びかけのミラーが見えた。ここで白波に、寿命のことを聞いた。あそこにある東屋のところでは、白波のやりたいことを聞いた。
彼女との思い出ばかりが見えて、肝心の本人は見つからない。高台から見下ろしたあの桟橋にも、人影は見えない。すぐに踵を返して、もと来た道を走る。炎天下を全力疾走。潮風がなびいて心地よいのに、感情はまったく治まらなかった。上り坂を気合いで乗り越えながら、今度は神社のほうへ向かう。まだ最近の話、二人きりで訪れた場所だ。
白波が転んだ階段を駆け上がりながら、勢いそのままに石段も駆け上がる。けれど彼女の姿は見えなくて、囃し立てるような、或いは煽るような蝉時雨が頭上から降り注いでいた。元気いっぱいに告げたあのお願いごとを思い出しながら、海に沈んだ港を眼下に見る。切るような呼吸は治まらなくて、肺から喉が粘っこいような気がした。暑さにふらつく身体をなんとか保たせながら、砂利のせいで滑りやすい石畳の上を、急ぎながらもゆっくりと戻る。
「あとは……」
まだ行っていない場所を思い出すよりも早く、身体が動いていた。階段を一個飛ばしで降りる。最後の一段につまずいて、大きく身体が傾いた。咄嗟に差し出した手のひらが、滲みるような熱さを帯びる。一瞬だけひやっとしたのも忘れて、すぐに立ち上がった。
脇目もふらず、四宮家を通り過ぎる。小学校を過ぎて、役場も過ぎて、いちばん最初に寝転がった、あの電柱のところまで来ていた。それでも白波の姿は見えなくて、言いようのない焦燥感のようなものが、僕の胸臆にくすぶっていく。足を前に出したいのに、これ以上、動けない。呼吸もほとんど絶え絶えで、喉は粘液に覆われていた。朦朧としてきた意識だけを自覚しながら、なんとか落ち着けようとその場に横たわる。夏空を目蓋で遮った。
「どこだ……」
自分から逃げておいて、どれだけ僕は我儘なんだろう。あぁ、でも、白波が消えてしまえば、それもできなくなるのか──なんて、ふと思った。存在した記録だけが記されて、あとはただ、思い出として残るだけ。それもいずれ、指の間から零れる水のように、消え失せてしまうのに。だからこの我儘も、今だけは許してほしかった。今だけ。今だけだから──。
「マスター……!」
聞き馴染みのある声が聞こえた。少し向こうで、潮風に掻き消されがちで、いつもの声とは、少し感触が違うかもしれない。けれども確かに、彼女の声だった。僕がいま、いちばん探している相手だった。……それなのに、見るのが、顔を向けるのが、怖い。ゆっくりと、おぼつかない足音を聞くごとに、心臓が破裂しそうになる。やがて日射しを遮って、それは──白波は、僕の顔を覗き込んでいるらしい。しばらく無言のまま、目蓋の裏を見つめる。
「……なんで、わざわざ探しにきたの。こんなに暑いのに」
「だって、心配でしたから」
「ほっといてくれても、良かったのにさ」
素直じゃない。素直になれない、わけでもない。なのに僕は、そう言ってしまった。彼女はいま、どんな顔をしているだろう。どんな顔で、僕を見ているのだろう。そんな不安が脳裏をよぎる。小さな深呼吸が聞こえて、それから、あの、懐かしくて優しい声がした。
「……ほっとけません。ずっと帰ってこないマスターを心配するのは、ダメでしょうか」
それに、と白波は続ける。
「私は怒ってるわけでもなくて、悲しんでるわけでもないです。ただ、心配なので、マスターを探しに行っただけです。……だから、お顔、隠さなくても大丈夫ですよ」
胸の内をすべて見透かされて、それは気まずいというよりも気恥ずかしいような、そんな心地がした。少しだけ心臓が跳ねたのを気取られないようにしながら、或いは目蓋の裏に溜まった涙を零さないようにしながら、僕は恐る恐る、目を開ける。群青色の夏空と、燦々と照る日射しを遮っているのは、紛れもない彼女そのものだった。逆光で、その面持ちはよく見えない。今朝と変わらない淡々とした声だけれど、笑っている。僕には確かにそう思えた。
「起きてください。アスファルト、熱いでしょう」
差し出された手を掴もうか、一瞬だけ迷った。人肌程度に温かい──いや、真夏の暑熱にあてられて、気怠いほどだ。その温もりを手のひらに感じながら、焼けたアスファルトから立ち上がる。刺すような陽光が目に痛くて、手のひらを抜けていく風は涼しい。
「……なんか、ごめん」
「気にしなくていいです」
白波は小さく笑うと、それと同じくらい小さく、溜息を吐いた。
「暑いですから、早く戻りましょうか」
「……そうだね」
何事もなかったかのように、二人で行き先を合わせる。暑い暑いと手扇で顔を扇ぎながら、アスファルトに靴音を響かせていた。そんななかで、少しだけ嬉しくなる。
淡々としているはずの白波が、ここまで僕のために動いてくれたこと。僕の思いを知ってか知らずか、それを許してくれたこと。こんな時だからこそ分かった一種の愛情めいたものが、今はこれ以上なく嬉しかった。滲む涙を、バレないように指の腹で拭う。
──ただ、空いている片手が、そのぶんとても、寂しく思えてしまっていた。
集会所の扉を開ける。つきっぱなしの冷房の風が、薄膜を張る汗にひんやりと触れた。誰もいないそこを独占しようと、畳敷きの小上がりに寝転がる。座卓に置かれたセルフサービスの麦茶を思い出したようにあおって、それからまた、わずかない草の匂いに目を閉じた。
「……」
こうやって一人でいる時ほど、辛いものはない。考えていることが筒抜けで、誤魔化そうにも誤魔化せなくて、自分が悪い、ということを、否が応にも認めさせられる。つまらない意地のために謝れないでいる僕自身が、どれだけ馬鹿馬鹿しいかを、直視させられる。それでもすぐに動こうとしないのは、まだまだ子供なのだろう。動く気も起きない。
なんともいえない室内の心地よさに微睡んでいると、誰かが入ってくる気配がした。
「こんな真っ昼間から涼しいとこで寝てるったぁ、若ぇのにいい趣味してら……」
含み笑いのような声が聞こえて、思わずそっちを向く。農作業中らしいおじいさんだった。
「誰かと思やぁ聡史んとこの孫か。いつもの女の子はどうした? 泣かしたか? へへ……」
冗談に決まっているのに、隠しごとがバレたような気になる。
「や、泣かしちゃないですっ。今日はたまたま、僕だけ……」
「ほぉん。まぁ男だら一人になりてぇ時もあるわな。あんな可愛い子と一緒ならな」
「おじいちゃん、それセクハラっていうんですよ」
「知らん、麦茶くれ。それ飲むためだけに来たんだわ」
苦笑しながら注いでやる。一気に飲み干すと、満足気な顔で本当に帰ってしまった。ほんの一分程度。こんなこともあるか、と思いながら、また寝転がって目をつむる。
それからずっと、冷房の音しか聞こえない室内で、目蓋の裏を眺めていた。十分、二十分は優に過ぎて、だんだんと意識が急転直下を繰り返す。遠くの方で、また扉の開く音がした。
「あっつ……」
絞り出すような声。もはや誰だか分からない。無視しながら、また意識を別に向ける。
……けれど、なぜか落ち着かない。誰かの前で寝ようとしているせいだろうか。喉も乾いてきたし、ひとまず起き上がろう、と、目を開け──たところで、反射的にのけぞる。
「わっ……!」
「ひゃっ……⁉ いや、人の顔を見といて驚くとかないやろ……」
「……人の寝顔を眺めるのもそれはそれでないでしょ」
間近で見えた凪の顔が、一瞬だけ脳裏に焼き付いた。妙な恥ずかしさでドギマギする。
彼女は苦笑しながら溜息を吐くと、座敷に上がって足を崩した。
「っていうか、夏月が一人でおるん珍しいんな。白波はどしたん?」
「白波は……別に。家にいる」
「ふーん。いつも一緒にくっついてるんに、そんなこともあるんやね」
「まぁ」
適当にごまかそうと麦茶を飲む。無言で手を伸ばしてきた彼女のぶんも、一緒に注いでやった。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。喉を冷やしたその余韻が、真夏の昼には心地よい。
「圭牙は?」
「モデルガンの整備」
「へぇ」
「……」
「……」
無言。なんだか気まずい。ただでさえ白波のことで気まずいのに。
それを察しているのか、凪も変に気を遣っているようだった。ときおり目線が合う。
「なぁ」
「うん」
「気分転換に、散歩でも行く?」
──商店で奢ってもらったラムネを飲みながら、あてもなく二人で歩く。隣に白波じゃない誰かがいるのは、とても違和感があった。その違和感も無理やり、炭酸で流し込む。けれど暑さが消えるはずもなくて、郵便局の庇の下に逃げながら、二人揃ってしゃがみこんだ。
「あっちいな……。散歩とか失敗やったかも」
「どう考えてもおかしいでしょ」
「そやね……。あはは」
困ったような笑い顔に、建物の陰が淡く乗る。凪は頭のお団子に触れると、そのまましばらく離さなかった。落ち着きがないのは、やはり気を遣わせているからなのだろう。けれど僕自身、それを少しだけありがたく思っている。今日はこのまま乗り越えて、また後で、いつも通り──とか。……彼女の優しさに甘えるなんて、つくづく自分は最低だ。
「ラムネ、美味しいやろ」
「うん」
「お腹が空いたときは、炭酸で膨れるしな」
指先に触れる硝子瓶の感触。少しだけ冷たくて、それが少しだけ、気持ち悪い。
……いや、気持ち悪いのは、自分のほう。このままで、いいのだろうか。目先のことから逃げて、現実逃避のためだけに無駄な話をして、白波に向き合うのは、いつになる?
そうは思いながらも、まだ、動けないでいた。彼女に対峙するのがどこか怖くて、自然に話せなくなりそうで、それが嫌で、いつまでも尻込みしている。いっそのこと、凪が、僕のことを後押ししてくれればいいのに。そうすれば、行けるかもしれないのに──。
「……こんなんで気分転換になるなら、ええんやけどさ」
「……うん、ありがと」
眩しそうに目を細めながら、凪が笑う。それがどこか無理しているように見えて、僕のほうが辛くなった。罪悪感、なのだろうか。直視できなくて、目を逸らす。入道雲が見えた。
……白波はあの入道雲に、どこか似ている。純白の色。奔放さ。夏空を彩る要素の一つで、いなければどこか物足りない、そんな存在。いてくれれば満足できる、そんな存在。
「ばーちゃん、こんちゃー」
軽快な凪の声がする。ふと顔を向けると、買い物帰りらしいおばあさんが歩いてきた。
「なっちゃん、圭牙とおらんでその子と一緒なん珍しいがね」
「偶然ね、偶然。集会所でばったり会ってん」
「あぁそう。あんちゃんは、いつもの白い女の子とおらんのん?」
「まぁ……。今日はたまたま」
「なんや向こうの方でウロウロしてたで。あんちゃんのこと探してたんやないか」
「えっ……?」
おばあさんはそう言って、集会所のほう、通りの向こう側を指さす。咄嗟にそちらを向いた。緩やかなカーブのその先を、見えるはずがないのに、しつこいほど凝視する。息が詰まって、肩が跳ねて、我に返ったような気がした。隣の凪が、無言で僕を見ている。
──逡巡する暇はなかった。ラムネ瓶の残りを一気に飲み干して、そのまま腰を上げる。彼女に無言で頷いてから、おばあさんにもお礼を言って、弾かれるようにその場を後にした。
歩いてきた道を遡りながら、必死に白波の姿を探す。体裁とかそんなのはどうでもよくて、身勝手な考えだけど、今はただ、彼女を一人にしておけなくなった。僕を追ってきたのなら、放ったままにしておきたくなかった。今更だけどそれが、僕の負うべき責任だと思った。
商店を過ぎて、集会所の通りへ出る。白波の姿は見えない。そこを右手に曲がって、いつか彼女と歩いた、あの遠回りの道に入った。壁一面に張り付いた苔や蔓草が、青々とした匂いとともに爽涼の気を放つ。緩やかなカーブの先に、錆びかけのミラーが見えた。ここで白波に、寿命のことを聞いた。あそこにある東屋のところでは、白波のやりたいことを聞いた。
彼女との思い出ばかりが見えて、肝心の本人は見つからない。高台から見下ろしたあの桟橋にも、人影は見えない。すぐに踵を返して、もと来た道を走る。炎天下を全力疾走。潮風がなびいて心地よいのに、感情はまったく治まらなかった。上り坂を気合いで乗り越えながら、今度は神社のほうへ向かう。まだ最近の話、二人きりで訪れた場所だ。
白波が転んだ階段を駆け上がりながら、勢いそのままに石段も駆け上がる。けれど彼女の姿は見えなくて、囃し立てるような、或いは煽るような蝉時雨が頭上から降り注いでいた。元気いっぱいに告げたあのお願いごとを思い出しながら、海に沈んだ港を眼下に見る。切るような呼吸は治まらなくて、肺から喉が粘っこいような気がした。暑さにふらつく身体をなんとか保たせながら、砂利のせいで滑りやすい石畳の上を、急ぎながらもゆっくりと戻る。
「あとは……」
まだ行っていない場所を思い出すよりも早く、身体が動いていた。階段を一個飛ばしで降りる。最後の一段につまずいて、大きく身体が傾いた。咄嗟に差し出した手のひらが、滲みるような熱さを帯びる。一瞬だけひやっとしたのも忘れて、すぐに立ち上がった。
脇目もふらず、四宮家を通り過ぎる。小学校を過ぎて、役場も過ぎて、いちばん最初に寝転がった、あの電柱のところまで来ていた。それでも白波の姿は見えなくて、言いようのない焦燥感のようなものが、僕の胸臆にくすぶっていく。足を前に出したいのに、これ以上、動けない。呼吸もほとんど絶え絶えで、喉は粘液に覆われていた。朦朧としてきた意識だけを自覚しながら、なんとか落ち着けようとその場に横たわる。夏空を目蓋で遮った。
「どこだ……」
自分から逃げておいて、どれだけ僕は我儘なんだろう。あぁ、でも、白波が消えてしまえば、それもできなくなるのか──なんて、ふと思った。存在した記録だけが記されて、あとはただ、思い出として残るだけ。それもいずれ、指の間から零れる水のように、消え失せてしまうのに。だからこの我儘も、今だけは許してほしかった。今だけ。今だけだから──。
「マスター……!」
聞き馴染みのある声が聞こえた。少し向こうで、潮風に掻き消されがちで、いつもの声とは、少し感触が違うかもしれない。けれども確かに、彼女の声だった。僕がいま、いちばん探している相手だった。……それなのに、見るのが、顔を向けるのが、怖い。ゆっくりと、おぼつかない足音を聞くごとに、心臓が破裂しそうになる。やがて日射しを遮って、それは──白波は、僕の顔を覗き込んでいるらしい。しばらく無言のまま、目蓋の裏を見つめる。
「……なんで、わざわざ探しにきたの。こんなに暑いのに」
「だって、心配でしたから」
「ほっといてくれても、良かったのにさ」
素直じゃない。素直になれない、わけでもない。なのに僕は、そう言ってしまった。彼女はいま、どんな顔をしているだろう。どんな顔で、僕を見ているのだろう。そんな不安が脳裏をよぎる。小さな深呼吸が聞こえて、それから、あの、懐かしくて優しい声がした。
「……ほっとけません。ずっと帰ってこないマスターを心配するのは、ダメでしょうか」
それに、と白波は続ける。
「私は怒ってるわけでもなくて、悲しんでるわけでもないです。ただ、心配なので、マスターを探しに行っただけです。……だから、お顔、隠さなくても大丈夫ですよ」
胸の内をすべて見透かされて、それは気まずいというよりも気恥ずかしいような、そんな心地がした。少しだけ心臓が跳ねたのを気取られないようにしながら、或いは目蓋の裏に溜まった涙を零さないようにしながら、僕は恐る恐る、目を開ける。群青色の夏空と、燦々と照る日射しを遮っているのは、紛れもない彼女そのものだった。逆光で、その面持ちはよく見えない。今朝と変わらない淡々とした声だけれど、笑っている。僕には確かにそう思えた。
「起きてください。アスファルト、熱いでしょう」
差し出された手を掴もうか、一瞬だけ迷った。人肌程度に温かい──いや、真夏の暑熱にあてられて、気怠いほどだ。その温もりを手のひらに感じながら、焼けたアスファルトから立ち上がる。刺すような陽光が目に痛くて、手のひらを抜けていく風は涼しい。
「……なんか、ごめん」
「気にしなくていいです」
白波は小さく笑うと、それと同じくらい小さく、溜息を吐いた。
「暑いですから、早く戻りましょうか」
「……そうだね」
何事もなかったかのように、二人で行き先を合わせる。暑い暑いと手扇で顔を扇ぎながら、アスファルトに靴音を響かせていた。そんななかで、少しだけ嬉しくなる。
淡々としているはずの白波が、ここまで僕のために動いてくれたこと。僕の思いを知ってか知らずか、それを許してくれたこと。こんな時だからこそ分かった一種の愛情めいたものが、今はこれ以上なく嬉しかった。滲む涙を、バレないように指の腹で拭う。
──ただ、空いている片手が、そのぶんとても、寂しく思えてしまっていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる