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第三章
今日はみんなで、明日もみんなで
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──そうして、あの日の前日。開きっぱなしのリビングの窓から、潮の匂いが入り込んでいた。それがカーテンを揺らして、ソファに座る僕の頬を撫でていく。
膝に頭を乗せて、白波は呑気に寝息を立てていた。呼吸するごとに動く身体が、寄せては返す波のよう。眠りかけのまどろみ、薄目の彼女に、優しい潮風が吹く。
「……昔と逆だね」
昔は僕が彼女に見守ってもらう立場だったのに、今は僕が、こうして彼女を寝かしつけている。時間の流れを実感させられるから、現実は非情だな、なんて、少しだけ思った。
──来客を知らせるチャイムの音。「白波、起きて。圭牙たち来たから」と立ち上がって、小走りで玄関に向かう。扉を開けると、熱気とともにいつもの二人がいた。
「あれ、白波は? いつもは大体、あの子なんに……。珍しいやん」
「白波は寝てた。起こしたとこ」
「ふぅん。明日のこれ、持ってきたんやけどさ」
そう言って、凪は隣にいる圭牙に目配せする。彼が無言のまま僕に差し出してきたのは、横に長い和紙の包みだった。なんだろう、と思って、それから納得する。
「あっ、これが?」
「……忘れてたのか、お前」
「いや、こんなの見たことないし……」
「着物とか包むための紙や。知らんのん?」
腕を組みながら、少しだけ自慢げに僕を見て笑う。知らないなぁ、と苦笑しながら包みを受け取ると、わずかな重量感と、埃っぽいような匂いがした。
これは明日の花火大会用に、彼女が白波へと貸してくれた浴衣だ。それをサプライズで渡すことになっている。いくつかあるなかで、凪がいちばん似合うものを選んできたらしい。
「……白波、喜ぶかな」
「お前が喜ばすんだよ。早く行け」
「わっ、ちょっ、押さないで……」
圭牙と凪に背中を押されながらリビングに戻る。玄関先の話が聞こえていたのか、彼女はちょうど、目を覚ましたらしいところだった。律儀にあくびをして、ソファの上に座り直す。
「ふぁ……。お揃い、ですね」
「せやでっ。夏月がアンタに渡したいものがあるって。ウチらはそれを運びに来ただけや」
「渡したいもの……」
欠伸を噛み殺しながら、白波は僕に手を引かれて、ゆっくりと立ち上がる。それから包みを不思議そうに眺め回すと、『これですか?』とばかりに上目で見つめてきた。警戒するように指先でつついている。猫っぽい。態度的には、あの寝起きの彼女なのだろうけど。
「……古い押入れのなかの匂いがします」
「そんなの知らないでしょ、君……」
苦笑していると、後ろの二人から催促される。
「あの、それより、白波」
「はい」
「これ、なんだと思う?」
「……和紙です」
うん、まぁそうだけど。
「見てのお楽しみ。ほら、開けていいよ」
「いいんですか?」
「うん」
僕は包みをテーブルの上に置くと、白波に開けるよう促した。彼女は興味ありげに頷いて、たどたどしく結んである紐を解く。ちょっと不器用になっているのか、苦戦していた。
鮮やかなピンク色をした生地が見えてくる。幾何学模様に花の意匠が施されていた。白波はそれを広げるや否や、すぐに目を輝かせて──それはまるで、例の約束を思い出したかのような、晴れやかな笑顔だった。さっきとは表情が一気に変わっている。
「あっ──わーっ、これ……! マスター、これって……浴衣? 浴衣ですよねっ!」
「うん、用意してもらったんだ。これで花火大会に行こうってことで……その、約束。ね?」
「はいっ! やっぱりマスター大好きですーっ!」
「ちょっ……」
無理やり抱きつかれた勢いで、少しだけよろめいてしまう。白波もその勢いを殺しきれなくて、僕はそのまま背中から倒れかかった。凪か圭牙が支えてくれるだろう──と思っていたら、二人ともいつの間にかソファに座っている。大丈夫かの一言もない。扱いが軽い。
「ねぇマスター、いま着てみていいですか⁉」
「……もちろん」
「じゃあ着替えますねっ! えっと……」
溌剌(はつらつ)とした態度で白波はそう言うと、僕の膝に乗ったまま帯を解き始めた。案の定、帯を解くのも難しくなっているらしい。というか、なんでここで着替えようとするんだろう。いやまぁ、別にいいんだけど──いや全然良くなかった。解くのが遅くて助かった。
「ちょっと待って白波、ここで着替えるのは……」
「……? 裸にならなければセーフですよね。というより、襦袢(じゅばん)は着ていますので、下着も見えませんっ! マスターの期待には応えられませんが……。えへへ」
「あぁ、うん……。そっか」
凪が反応しないからセーフ、と思ってしまった。一瞬でも焦った僕が馬鹿馬鹿しい。
「それで、マスター。帯が上手く解けないんですけど、手伝ってくれませんか……?」
「僕に馬乗りになりながらそういうこと言わないで」
「……えっちなことするわけじゃないのに」
明らかに残念そうな顔をされては放っておけなくて、半ばヤケクソで帯を解いてやる。嬉しそうな顔をされているのがなんだか癪だ。凪と圭牙がいるからだろうか……。手扇で顔を扇ぎながら、凪はソファの手すりに肘をかけて、白波の着替えを見つめている。
「……凪って、女の子のことが好きなんですか?」
「へっ……? いや、そういうわけやないけど……」
「……ニヤニヤしながら私の着替えを見てたので、もしかしたらと──」
「あっ、ううん、別にちゃうんよ……。えへへ……」
丁寧に手まで振って否定している。いつもなら、『はぁーっ⁉ そんなことあるわけないやん! ウチは別に、そんな……っ、女の子同士とか! 興味あらへん!』くらいは……。
……一周回って本気の可能性? そう思って圭牙に目配せする。意味ありげに頷かれた。
「そっ、そんでー……白波、着付けとかできんやろ? ウチが手伝うから大人しく──」
「いや、できますけどっ。……あ、カカシの格好してればいいですか?」
「……はい」
そう言って凪は浴衣を手に取ると、立ち上がってカカシの格好をしている白波に、慣れた感じで着せていく。位置を調整……するふりをして、どこか不自然にベタベタ触っているのは見ないことにした。そんな僕の代わりに、圭牙が呆れ果てたように笑って言う。
「さっきから欲望ダダ漏れだぞ、テメェ。手つきがエロい」
「はっ……別に肩に触ろうが腰に触れようが胸を揉もうがアンタには関係ないやろっ! あとエロくないから!」
「いや、凪はエロだと思います! どスケベです!」
「どスケベ……⁉」
どこでそんな言葉を覚えたのだろう。どスケベを選ぶそのセンス……。
その後も、煩悩(ぼんのう)まみれの凪だけが着付けをできるということもあって、誠に遺憾ながら白波へのセクハラが不定期に行われていた。これは凪への報酬ということにするしかない。
「──よしっ、これでええやろ」
「おぉ……! マスター、どうですかっ⁉」
「動くのはいいけど転ばないでね……」
白波は浴衣のたもとをヒラヒラと遊ばせながら、無邪気にはしゃぐ子供みたいに、ゆっくり一回転してみせる。それを眺めているだけでも、素直に嬉しくなった。楽しそうにしている彼女を見ると、誇張じゃなく、それだけで満足できる。
「うん、似合ってるよ」
「はいっ。私は可愛いので何を着ても似合います!」
「相変わらず自信だけはポンコツじゃねぇのな……」
「白波が可愛いのはガチやろ。素直に認めぇや」
えへへ、と自信ありげに笑っている彼女を前に、僕もつられて笑う。この調子で、明日も──明日まで、上手く保ってくれると、嬉しい。夏休みも最終盤、いよいよ迎える八月三十一日に向けて、いつもと変わらない白波の無邪気さに、僕はどこか、救われていた。
「──明日はみんなで、いっぱい楽しみましょうねっ」
膝に頭を乗せて、白波は呑気に寝息を立てていた。呼吸するごとに動く身体が、寄せては返す波のよう。眠りかけのまどろみ、薄目の彼女に、優しい潮風が吹く。
「……昔と逆だね」
昔は僕が彼女に見守ってもらう立場だったのに、今は僕が、こうして彼女を寝かしつけている。時間の流れを実感させられるから、現実は非情だな、なんて、少しだけ思った。
──来客を知らせるチャイムの音。「白波、起きて。圭牙たち来たから」と立ち上がって、小走りで玄関に向かう。扉を開けると、熱気とともにいつもの二人がいた。
「あれ、白波は? いつもは大体、あの子なんに……。珍しいやん」
「白波は寝てた。起こしたとこ」
「ふぅん。明日のこれ、持ってきたんやけどさ」
そう言って、凪は隣にいる圭牙に目配せする。彼が無言のまま僕に差し出してきたのは、横に長い和紙の包みだった。なんだろう、と思って、それから納得する。
「あっ、これが?」
「……忘れてたのか、お前」
「いや、こんなの見たことないし……」
「着物とか包むための紙や。知らんのん?」
腕を組みながら、少しだけ自慢げに僕を見て笑う。知らないなぁ、と苦笑しながら包みを受け取ると、わずかな重量感と、埃っぽいような匂いがした。
これは明日の花火大会用に、彼女が白波へと貸してくれた浴衣だ。それをサプライズで渡すことになっている。いくつかあるなかで、凪がいちばん似合うものを選んできたらしい。
「……白波、喜ぶかな」
「お前が喜ばすんだよ。早く行け」
「わっ、ちょっ、押さないで……」
圭牙と凪に背中を押されながらリビングに戻る。玄関先の話が聞こえていたのか、彼女はちょうど、目を覚ましたらしいところだった。律儀にあくびをして、ソファの上に座り直す。
「ふぁ……。お揃い、ですね」
「せやでっ。夏月がアンタに渡したいものがあるって。ウチらはそれを運びに来ただけや」
「渡したいもの……」
欠伸を噛み殺しながら、白波は僕に手を引かれて、ゆっくりと立ち上がる。それから包みを不思議そうに眺め回すと、『これですか?』とばかりに上目で見つめてきた。警戒するように指先でつついている。猫っぽい。態度的には、あの寝起きの彼女なのだろうけど。
「……古い押入れのなかの匂いがします」
「そんなの知らないでしょ、君……」
苦笑していると、後ろの二人から催促される。
「あの、それより、白波」
「はい」
「これ、なんだと思う?」
「……和紙です」
うん、まぁそうだけど。
「見てのお楽しみ。ほら、開けていいよ」
「いいんですか?」
「うん」
僕は包みをテーブルの上に置くと、白波に開けるよう促した。彼女は興味ありげに頷いて、たどたどしく結んである紐を解く。ちょっと不器用になっているのか、苦戦していた。
鮮やかなピンク色をした生地が見えてくる。幾何学模様に花の意匠が施されていた。白波はそれを広げるや否や、すぐに目を輝かせて──それはまるで、例の約束を思い出したかのような、晴れやかな笑顔だった。さっきとは表情が一気に変わっている。
「あっ──わーっ、これ……! マスター、これって……浴衣? 浴衣ですよねっ!」
「うん、用意してもらったんだ。これで花火大会に行こうってことで……その、約束。ね?」
「はいっ! やっぱりマスター大好きですーっ!」
「ちょっ……」
無理やり抱きつかれた勢いで、少しだけよろめいてしまう。白波もその勢いを殺しきれなくて、僕はそのまま背中から倒れかかった。凪か圭牙が支えてくれるだろう──と思っていたら、二人ともいつの間にかソファに座っている。大丈夫かの一言もない。扱いが軽い。
「ねぇマスター、いま着てみていいですか⁉」
「……もちろん」
「じゃあ着替えますねっ! えっと……」
溌剌(はつらつ)とした態度で白波はそう言うと、僕の膝に乗ったまま帯を解き始めた。案の定、帯を解くのも難しくなっているらしい。というか、なんでここで着替えようとするんだろう。いやまぁ、別にいいんだけど──いや全然良くなかった。解くのが遅くて助かった。
「ちょっと待って白波、ここで着替えるのは……」
「……? 裸にならなければセーフですよね。というより、襦袢(じゅばん)は着ていますので、下着も見えませんっ! マスターの期待には応えられませんが……。えへへ」
「あぁ、うん……。そっか」
凪が反応しないからセーフ、と思ってしまった。一瞬でも焦った僕が馬鹿馬鹿しい。
「それで、マスター。帯が上手く解けないんですけど、手伝ってくれませんか……?」
「僕に馬乗りになりながらそういうこと言わないで」
「……えっちなことするわけじゃないのに」
明らかに残念そうな顔をされては放っておけなくて、半ばヤケクソで帯を解いてやる。嬉しそうな顔をされているのがなんだか癪だ。凪と圭牙がいるからだろうか……。手扇で顔を扇ぎながら、凪はソファの手すりに肘をかけて、白波の着替えを見つめている。
「……凪って、女の子のことが好きなんですか?」
「へっ……? いや、そういうわけやないけど……」
「……ニヤニヤしながら私の着替えを見てたので、もしかしたらと──」
「あっ、ううん、別にちゃうんよ……。えへへ……」
丁寧に手まで振って否定している。いつもなら、『はぁーっ⁉ そんなことあるわけないやん! ウチは別に、そんな……っ、女の子同士とか! 興味あらへん!』くらいは……。
……一周回って本気の可能性? そう思って圭牙に目配せする。意味ありげに頷かれた。
「そっ、そんでー……白波、着付けとかできんやろ? ウチが手伝うから大人しく──」
「いや、できますけどっ。……あ、カカシの格好してればいいですか?」
「……はい」
そう言って凪は浴衣を手に取ると、立ち上がってカカシの格好をしている白波に、慣れた感じで着せていく。位置を調整……するふりをして、どこか不自然にベタベタ触っているのは見ないことにした。そんな僕の代わりに、圭牙が呆れ果てたように笑って言う。
「さっきから欲望ダダ漏れだぞ、テメェ。手つきがエロい」
「はっ……別に肩に触ろうが腰に触れようが胸を揉もうがアンタには関係ないやろっ! あとエロくないから!」
「いや、凪はエロだと思います! どスケベです!」
「どスケベ……⁉」
どこでそんな言葉を覚えたのだろう。どスケベを選ぶそのセンス……。
その後も、煩悩(ぼんのう)まみれの凪だけが着付けをできるということもあって、誠に遺憾ながら白波へのセクハラが不定期に行われていた。これは凪への報酬ということにするしかない。
「──よしっ、これでええやろ」
「おぉ……! マスター、どうですかっ⁉」
「動くのはいいけど転ばないでね……」
白波は浴衣のたもとをヒラヒラと遊ばせながら、無邪気にはしゃぐ子供みたいに、ゆっくり一回転してみせる。それを眺めているだけでも、素直に嬉しくなった。楽しそうにしている彼女を見ると、誇張じゃなく、それだけで満足できる。
「うん、似合ってるよ」
「はいっ。私は可愛いので何を着ても似合います!」
「相変わらず自信だけはポンコツじゃねぇのな……」
「白波が可愛いのはガチやろ。素直に認めぇや」
えへへ、と自信ありげに笑っている彼女を前に、僕もつられて笑う。この調子で、明日も──明日まで、上手く保ってくれると、嬉しい。夏休みも最終盤、いよいよ迎える八月三十一日に向けて、いつもと変わらない白波の無邪気さに、僕はどこか、救われていた。
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