特になんてことはない、ある人々のある日

小桜千夜

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家族へのインタビュー

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 六時の鐘が鳴ると、子どもたちはどれだけ楽しくても遊ぶのをやめて家に帰る。親が心配するし、何よりこれが一生の別れではなく、また明日も学校で会えるからだ。
(そういえば、俺、柚希ゆずきのことも月埜つきののこともよく知らねぇなぁ)
 友人二人と別れた帰り道、逸希いつきは一人で家に帰りながら考えた。学校で出た『家族にインタビューをする』という課題をどうクリアしたものかと思ったためである。
 柚希と月埜というのは、母を病で、父を世にも奇妙な事件に巻き込まれた際に亡くし、親戚とはとうの昔に絶縁していて身寄りがないために施設に入っていた逸希を引き取ってくれた第二の家族だ。柚希はパン屋、月埜は弁護士をしている。
 二人とも逸希を本当の息子のように可愛がってくれていて、逸希も二人のことが大好きだが、考えれば考えるほど、二人のことをあまりよく知らないなと言う答えが出てきた。
(俺、二人の仕事しか知らねぇなぁ。帰ったら聞いてみるか)
 逸希はそう考えて、残りの帰り道を走り始めた。公園を抜けて夕日が沈む方向に横断歩道を渡ったらクリーニング屋のある角を左に曲がり、十字路をまっすぐ進んで二つ目の角を右に曲がった突き当りにある一軒の建物。そこが柚希の経営しているパン屋であり、逸希の家でもあった。
 逸希は店の裏側に回って二階に続くらせん階段を上る。パン屋さんの二階と三階の部分が三人の生活スペースだからだ。
「ただいま!」
 大きな声で帰宅を告げると、中からお帰り~という声が聞こえて来た。月埜だ。
「あれ、月埜、今日はいるんだな」
「うん。今日はお仕事お休みだったからね。さっきは少し夕飯の買い物行ってたんだよ」
 月埜は玄関まで出てきて、温かい手で冷え切った逸希の顔を包んだ。
「わぁ~ちべたい! 寒かったでしょ~」
 逸希の頬と耳を温めるように優しく包む月埜に逸希は笑って抱き着いた。ずっと暖かい部屋の中にいたからだろう。子ども体温だが外にいた逸希よりも月埜の方が温かかった。
「サッカーしてたからそんなことなかったぜ!」
「そっか~じゃあ汗かいたでしょ。お風呂湧いてるよ。入る?」
「入る! ありがと月埜!」
「どういたしまして」
 月埜はお返しのように逸希をぎゅっと抱きしめると風呂の催促をしてリビングの中に戻った。逸希も上着を脱いでハンガーにかけると手洗いうがいをして三階にある自分の部屋から着替えを持って降りてきて、風呂に入った。
「あったかーい!」
 いくらまだ子どもで体温が高いうえに二、三時間ほど運動をしていたとはいえ寒いものは寒いし、人間、遊んでいるときは寒いと感じなかったにしても、温かいお湯を浴びたらやはり温かいと感じるものだ。
(名前の由来や小さい頃の俺に関することは聞かないにしても、結婚した理由とかは聞いてもいいよな。あと、仕事のこと)
「作文どうすっかな~」
 湯船につかりながらわりと大きな声で言うと、浴室内に水音と一緒に逸希の声が反響した。
 親に聞いたことをまとめて作文にする、というのは逸希にとって初めてのことで、いくら先生から作文についての説明を聞いてもよく分からなかった。そもそも、家族の定義を血縁とするなら、二人は他人だ。インタビュー対象になるのだろうか。湯けむりで輪郭のぼやける浴室で五分ほど肩まで浸かって考えていると、うっかり寝そうになった。逸希は、溺死は勘弁だと急いで風呂から上がった。
「上がった~」
「お帰り」
 リビングに出ると、月埜は床に座って洗濯物を畳んでいた。
「なぁ月埜」
「ん? どうしたの?」
 逸希は変に後回しにするのもよくないと思い、ランドセルから筆記用具とプリントを出しながら月埜に尋ねた。
「学校の宿題でインタビューしなくちゃいけねぇんだけど、いいか?」
「うん。もちろんいいよ」
 少し遠慮がちに聞くと月埜はあっさりと笑って快諾してくれた。
「どんなインタビューなの?」
「家族に関する作文。インタビューしたことをまとめて明日作文にするんだって」
「しょ、小学生の授業のわりには難しいことしてるのね。しかも十一歳の国語の授業でなんて。今はレベルも上がってるのね」
 月埜は目を見開いて驚いたような表情をしながら洗濯物を畳む手を止め、逸希の方に向き直った。
「それじゃ、やろっか」
「おう! まず、月埜っていくつなんだ?」
「今年で三十五よ。ゆずもそう」
「マジかよ! ふたりとも同い年なのは知ってたけど、いってても二十七とかだと思ってた!」
 今度は逸希が驚く番だった。月埜はアハハッと口元を手で隠しながら笑った。年齢の話は敬遠されがちだが、月埜は気にした様子もなくあっけらかんと答えていた。
「私は一応、肌には気を使ってるからね。ゆずは童顔だけど」
「なんで気を使ってんだ?」
「私は敏感肌でね。食器用洗剤でも手が荒れることがあるから。だから私、皿洗いの時はビニール手袋してるでしょ?」
「うん!」
「それはそういうことなのよ」
 なるほど、と逸希は納得した様子でプリントにメモをした。
「じゃあ次の質問。月埜の仕事ってどんな仕事なんだ?」
 逸希は二つ目の質問を読み上げた。月埜は腕を組んで少し考え込むような仕草をしてから質問に答えた。
「私の仕事の弁護士っていうのはね、法律の専門家として、裁判で人を弁護したり、法律に関わるトラブルが起こったときに手続きをするのが仕事なの。事件解決のサポート役、って言ったら分かりやすいかな」
「事件解決のサポート役?」
「うん。詳しいことは仕事のルールがあるから言えないんだけど、離婚の手続きや被告人の弁護が主な仕事よ。ドラマでもあるから分かりやすいんじゃない?」
「何となく分かった。じゃあ月埜は法律全部覚えてるのか?」
「さすがに全部は覚えてないよ。でも、よくある事件に関する法律は覚えてるよ」
「すっげぇ! なんで⁉」
「慣れだよ。逸希だって、アルファベットや九九を最初から全部覚えようとして覚えたわけじゃないでしょ? それと同じで、ある程度は覚える努力が必要だけど、ずっとやってると慣れるのよ」
「そうなのか! なんか家事みたいだな」
「そうとも言えるね」
 月埜の仕事は弁護士である。逸希は月埜の仕事風景などを見たことがあるわけではないが、一度だけ柚希と一緒に月埜の勤める弁護士事務所に忘れ物の弁当を届けに行ったことがある。
 そのときに月埜が家で見せる優しくて明るい笑顔とはまた違う顔を見た。パキッとしたパンツスーツを着こなして、凛とハキハキした言動で手際よく仕事を片付ける月埜の姿は、幼いながらに逸希に『カッコいい』と憧れの念を抱かせた。
「なぁなぁ、どうしたら俺も月埜みたいにかっこよくなれる?」
 逸希はあの日に見た月埜の姿を思い出し、月埜に尋ねてみた。
「かっこよく?」
「うん。俺、前に月埜が仕事してるときすげぇかっけぇって思った。俺もあんな大人になりたい」
 首を傾げる月埜に逸希は真っ直ぐに聞いた。月埜はあまりにもはっきりと褒められたため少し気恥ずかしい、というような表情をしたが、咳払いで誤魔化して表情を元に戻した。
「そうねぇ……私が嫌だったから言わないようにしてるけど、やっぱり勉強をたくさんすることかな。でも、ただするんじゃなくて、楽しむこと。出来ない分野は生活で困らない程度でもいいけど、好きな分野はとことん突き詰めることかな」
「それでかっこよくなれるのか?」
「う~ん、かっこいいって思う基準は個人差があるから、ハッキリとこうっていうのは言えないし、分からないな」
 月埜はそこで一度言葉を切ると、あぁ、と思い出すように逸希に言った。
「でも一つだけ分かるのはね、なによりも自分を大事にして、それと同じくらい周りの人を大事にして、自分の意思を持って自分の好きなことをとことん突き詰められる人。そんな人が一番かっこいいよ」
「じゃあ月埜は、好きを突き詰めて今なのか?」
「そうだね。私は法律が好きだったから、法律を突き詰めてたらいつの間にか弁護士になっちゃった」
 月埜はそう言って笑った。月埜が教えてくれたことをメモして逸希は三つ目の質問に目を通した。
(次はこれ……いや、怯むな。大丈夫、月埜が酷いこと言うわけない)
 三つ目の質問は逸希が出来るだけ聞かないようにして来たことだ。それは気遣いなどと言った理由より、逸希が気になってはいたものの、どうしても勇気が出なくて、本音を聞くのが怖くて聞きたくなかっただけのことだ。
「どうしたの? お腹でも痛い?」
 下を向いて黙り込んでいたからか月埜が心配して逸希の背中をさするように手を置き、逸希の顔を覗き込むようにした。
「大丈夫?」
「お、おう。大丈夫だ。………………よし、聞くぞ」
「うん。質問はなぁに?」
 月埜は優しい表情で首を傾げた。逸希は深呼吸してから尋ねる。
「どうして、月埜は柚希と結婚して、俺を引き取ってくれたんだ?」
 逸希の心臓は早鐘のように激しく脈打っていた。
 無理もない。逸希が巻き込まれた奇妙な事件には、逸希だけでなく、柚希も一緒に巻き込まれていた。逸希と、逸希の父親と、柚希。この三人が何の因果か、世にも奇妙なある事件に巻き込まれ、結果として、逸希の父親だけが亡くなった。このとき、柚希は既婚者ではなく、一人でのんびりパン屋さんを営んでいる独身男性だった。しかし、逸希を引き取るにあたって、月埜と結婚したと聞いている。
「――――前に、独身男性が身寄りのない他人の子を引き取るのは可能だけど経済的な理由でとても難しいって話はしたよね?」
「うん。だから結婚したんだって話も聞いた。でも、どうしてだ?」
 逸希は覚悟を決めて真剣な目で聞いた。本当は手汗も酷いし脈も速い。しかし、ここまで来たら聞かずにいられなかった。
「実は、あの事件の後にね、ゆずにせがまれたの。『どうしても逸希君を引き取りたいから協力してくれ。絶対に迷惑はかけないから籍だけ貸してほしい』ってね。最初はとうとう犯罪に手を出したのかと思ったよ」
 月埜は静かな声で逸希に語った。周りに月埜の声を妨害するような音が特にないというのもあるが、逸希の耳には月埜の声だけが自然と入って来て、自然と月埜をじっと見つめていた。
「事情を聴いて、法律や実際の事例とすり合わせて、何度も話し合って、殴りあったりもしたなぁ」
「殴り合い⁉」
「うん。幼馴染だから、つい手が出ちゃうんだよね。逸希はこんなことしちゃダメだよ? 殴り合いなんて、漫画の中でしか青春表現にならないから。普通に暴行事件だし」
「しねぇよ! …………たぶん」
 逸希もさすがに未来のことに関してこうと断定できないようで、言葉尻を濁した。
「それで?」
「うん。まぁ言葉も拳もたくさんかわして、色々あって、結局は夫婦別姓で籍を入れることにした」
「なんで夫婦別姓なんだ?」
「私の仕事の関係よ。結婚して苗字が変わるとき、色々と手続きが必要なんだけど、面倒だったから夫婦別姓でもいっかな~って」
「すっげぇ適当だな!」
 逸希は驚いた。義父、柚希の苗字は有本(ありもと)、義母、月埜の苗字は水瀬(みなせ)で、逸希の苗字は柚希と同じ有本である。同じ学校の友人たちの両親は夫婦別姓ではないため、何か深い事情があるのではないかと思っていたが、そうでもないらしい。
 夫婦別姓が法で認められているとはいえ、まだ認められてからそんなに月日が経っていないからか、夫婦別姓を使用しているパートナーは少ない。その点でも、この二人は少しだけ周りから浮いていた。
「確かに適当だけど、昔からずっと一緒にいるからね。恋愛感情はないけど、私たちはこんなもんでいっか、ってお互いに納得した結果だよ」
 逸希の驚きをよそに、最初から予想していたとでもいうように笑っている月埜は、なんてことないように逸希にそう言った。逸希はそんな月埜の様子にどこか力が抜けるような感覚がした。
「でもなんか、二人らしい理由で安心したっていうか、んなことだろうと思ったって感じだなぁ」
「そうでしょ。特に言う必要がなかったから言わなかったけど、単に仕事の関係で夫婦別姓を選んだだけなの。ふふ、言ってみたけどこんなの、作文に使えないかな」
「うん。そもそも夫婦別姓の話自体、作文にはなんねぇと思う」
 月埜の苦笑いに逸希は他に返す言葉もなく、思ったことをそのまま返した。
「でも、なんで結婚したんだ? それじゃあ月埜はただ柚希と俺の事情に巻き込まれただけじゃねぇか。質問に対する明確な答えじゃねぇし」
 逸希は二人の結婚に疑問を持った。二人は別に仲が悪いわけではない。ただ、お互いに友愛しか抱いていないのに、自分を引き取るためだけに結婚をしたことがずっと不思議だったのだ。
「確かに、これだけじゃあ私はただゆずの事情に巻き込まれただけに聞こえるね。けど、私もさすがに仲のいい幼馴染みのお願いだからって、ほぼ仮面夫婦状態とはいえ、結婚するわけじゃないよ」
 逸希の当然の疑問に月埜は確かにね、と肯定しつつもやんわりと否定した。
「じゃあなんで結婚したんだ?」
「逸希に会いたかったからだよ」
「えっ? どういうことだ?」
「ゆずから逸希の話をたくさん聞いてね。話を聞いてるうちに、逸希に会いたくなった。だから会える確率を少しでも上げるために、ゆずと結婚したんだよ」
「で、でも、それで月埜は幸せなのかよ?」
 あんまり直接的に言われたからか逸希は照れた様子で目をそらしながら月埜に聞いた。
「もちろん。正直ゆずは恋愛対象には見れないけど、一緒にいて落ち着ける、安心できる相手だし、逸希は話に聞いてた通り、優しくて元気で明るい子だから、見てる私も元気がもらえる。結婚前も好きなことができて楽しかったけど、今も毎日幸せだよ」
 月埜の言葉に照れくさいやら恥ずかしいやらで逸希はそ、そうかよ、とぶっきらぼうな返答しかできなかった。
「い、インタビューはこれで終わりだ。ご協力ありがとうございました、だぜ!」
「はい。ありがとうございました。いい作文書けるといいね」
「おう! 頑張る!」
「そういえば、ゆずにはインタビューするの?」
「あ、忘れてた!」
 月埜が洗濯物を再度手にしながら逸希に聞くと、逸希は今の今まで忘れていた、言う様子で思い出したように大きな声を出した。
(ゆず、かわいそ…………)
 月埜はあちゃー、と苦笑いを浮かべる。
「ゆずにもインタビューをしてみるといいよ。きっといろんな作文のネタが出てくるから」
「僕が何ですか?」
 ガチャ、という扉の開閉音と足音と共に、柚希の声がした。店じまいを終えた柚希が帰って来たらしい。
「お帰り、ゆず」
「おかえり!」
「はい、ただいま」
 月埜はそういってコートを脱いだ柚希のコートを受け取ってハンガーにかけた。
「ゆず、まだお風呂温かいけど、先はいる?」
「え、月埜は?」
「私は後でいいよ。先にご飯用意したいし。逸希、ゆず上がったらご飯にするからそれまでに明日の用意しておいて」
「え~めんどっちい」
「じゃあ好きなときにしなさい。でも明日の朝は忙しいからね」
 月埜はそう言うと洗濯物を持ってリビングを出て行った。
「月埜と何かしていたんですか?」
「おう。学校の宿題でインタビューしてた。柚希にもしていいか?」
 逸希は荷物を置く柚希に尋ねられてプリントを見せつつ柚希に聞き返した。
「もちろんいいですよ。では、ご飯の後にしましょうね。今は学校の宿題にインタビューが出るんですか」
「おう。正確にはインタビューして、その結果をまとめて作文にするためらしいけどな」
 逸希がそう説明すると柚希はあぁ、と納得した様子を見せてから風呂に向かった。
 それを見送った逸希は机の上に散らかして放置していた宿題を軽く片付けて、三階にある自分の部屋から明日の授業で使う教材を持ってきてランドセルにつめ、学校から来た手紙を出しておいた。
(月埜にはすんなり聞けたけど、やっぱ柚希は緊張するなぁ)
 今日やらなくてはいけない他の宿題を確認しながら、こっそり柚希は緊張から手を固く握った。
 特にこれといった明確な理由があるわけではない。あるいは逸希本人にも分からない理由で、月埜にインタビューするよりも、柚希にインタビューをすることの方がとてもドキドキした。
 もしかしたら、月埜は関係者ではあるが当事者ではないので、事件に関しても逸希の養子縁組に関する話にしても地雷がないため、ある程度の聞きやすさはあったのかもしれない。しかし、柚希は当事者である。実際に事件に共に巻き込まれ、ともに恐怖を共有し、柚希単体でも何か感じることがあっただろうから、同じ当事者である逸希がインタビューをするのは、する必要のない緊張感があった。
(柚希は優しいから、なんか失礼なこと言っても諭すだけだけど、でも、地雷踏んだことに変わりはねぇからな。…………つか柚希の地雷が何かわかんねぇし)
 逸希はぼんやりとテレビを見ながら考えた。ソファの上で膝を抱え、両ひざの上に頭を乗せて縮こまりながら考えているうちに、些細な心配事はありもしない付属品を付けて漠然とした不安になる。
(もし、変なこと言って柚希に嫌われたらどうしよ…………施設に送られんのかな。月埜も俺のこと嫌うかな。そしたらあいつらにも会えなくなるよな)
 逸希がそうやって日本人特有の不安を抱えやすいDNAの働きを感じ、憂鬱な気持ちになっていると、柚希が風呂から上がったようで、柚希が後ろから声をかけた。
「逸希くん、どうしました?」
「柚希。いや、何でもない」
 逸希が柚希を見上げて不安げな瞳を隠しもせず、顔をそらした。柚希はそんな逸希の隣に座り、逸希に再度尋ねた。
「学校で何かありましたか?」
「いや、なんもねぇよ」
「では月埜に嫌なことを言われましたか?」
「ううん。月埜は優しかった。全部、俺の妄想だから、大丈夫」
「そんな顔をして、大丈夫なわけないでしょう。妄想でも辛いことがあったら言いなさい。僕に言いづらかったら月埜でもいいですよ」
 柚希は逸希の頭を撫でた。あえて顔を見ることはしない。逸希がそれを嫌がるのを知っていたからだ。
「まぁ、今すぐでなくともいいです」
「いいのか?」
「えぇ。言いたくないときは言わなくてもいいです。言いたいな、言ってもいいかな、と思えたときに言ってくれれば、それでいいんですよ」
 柚希の言葉に逸希はまだ何も返せなかった。柚希は逸希の返答を聞くことなく、おそらく家事をしているだろう月埜の手伝いのために部屋を出て行ってしまった。
(言いたいときに言えばいい……無理に言わなくていい…………)
 逸希は心の中で柚希の言葉を反芻していた。
 しばらく考えていると、月埜と柚希がリビングに戻ってきて夕食の時間になった。
「月埜、今日の夕飯なんだ?」
「シチューだよ。今日は寒かったからね」
 ほら、よそうよ~。と月埜は深皿を出してシチューをよそい、二人に席まで運ばせる。シチューとサラダとお味噌汁と白米。統一感はないが、それが有本家、というより月埜の作る食事である。
「味に飽きたらご飯を入れて食べるとおいしいよ」
「ほんとかよ?」
「うん。私これ子どものころからやってたからね」
 月埜が手本を見せながら説明すると、興味をそそられた逸希は月埜の真似をしてシチューの中に茶碗に入っていた白米を入れる。カレーの要領で混ぜて食べると逸希は目をキラキラとさせた。
「うめぇ!」
「だから言ったでしょ~?」
 逸希の反応に月埜も嬉しそうに笑っていた。柚希もそれを見てニコニコと笑っている。
「月埜はアレンジ好きだよね」
「ゆずほどじゃないよ。私がするのは王道アレンジだし」
「そうなのか?」
 月埜の言葉に首を傾げていると柚希は乾いた笑いを浮かべた。
「ゆずは筋金入りのアレンジ好きだよ。ゆずの店にある星屑パンとかあれゆず発案だよ」
「えっ⁉ あんな美味いのに人類のマジョリティじゃねぇのか⁉」
「難しい言葉知ってますね。まぁそうですね。星屑パンもそうですが、スープパンとか、トランプマフィンとかは僕が初めて作ったやつですね」
「な、なんだって…………⁉」
 今まで見たことないような驚きの表情になる逸希をよそに月埜はそうそう、と頷いた。
「まぁまともな人間はまず思い浮かばないよね。あんな斬新すぎる案」
「僕はまともじゃないって?」
「まともな人間は『ジャムを全部混ぜたとき何味が一番強く残るか』なんて実験を幼馴染み道連れにして夏休みの自由研究にしたりしない」
「なんだそれ!」
「あのね、ゆずったらひどいんだよ? 小六の夏休みの朝にいきなり家に来てさ」
「その話はまた今度! 月埜!」
 柚希は羞恥の果てに声を荒げて月埜を止めた。その反応が面白かったのか、月埜はスプーンを置いてお腹を抱えて笑っていた。
「なんだよ、俺も気になる!」
「ダメです! 月埜も何回そのネタ擦るんだよ!」
「死ぬまで擦るよ。アンタ、外面はいいからこのエピソードで本性知ってもらわないと」
「やめて!」
 逸希は二人のやり取りを物珍しそうに眺めていた。柚希は基本親や友人であっても敬語を使う。しかし月埜に対してのみ敬語が取れ、少々幼い言葉づかいではあるもののため口になる。
(柚希も月埜も、お互いに友情以外の感情はないって言ってるけど、絶対それ以上の感情、あるよな…………)
 思ったところで、言ってしまえば慌てた様子で否定されるのが目に見えているため口には出さない。しかし、柚希の口調や月埜の安心しているような雰囲気から、何となく二人の事情を幼いながらに察していた。
「なぁ柚希と月埜ってなんでそんな仲いいんだ?」
「え?」
「どういうこと?」
 逸希はいつの間にか疑問を口にしていた。二人は逸希のそのひとりごとに近い小さな呟きに反応し、逸希の方を見た。
「だって、二人って幼馴染だけど、お互い恋愛感情はない。なのに俺のために結婚までして今こうして一緒にいる。ただの仲良しじゃやっていけないのに、何で?」
 逸希の質問を聞いて、二人はそろって首を傾げた。
「え、そういえば何で一緒にいるんだろう」
「アンタが逸希を引き取りたいから籍だけ貸してくれって言って、そのあと気付いたら殴りあってたし、気付いたら婚姻届け書いてたよね」
「なんでお前らってそんな感じなのにずっと一緒にいられんだ? わりとマジで」
 逸希は今度こそはっきりと疑問を口にした。話に聞いているだけであるため憶測の域を出ない部分も多いが、それにしても二人は成り行きで生きすぎている気がしないかと疑問に思ったのだ。
(なんか難しい審査があって俺を引き取って聞いたけど、二人ともどうやってその審査パスしたんだ?)
 思わずそんな疑問が出てくるほど、逸希から見た柚希と月埜は流れに身を任せて生きているように見えた。
「なんでって、なんでだろうね」
「そうだね。僕たちが一番知りたいよ、そんなこと」
 二人はそう言うとお互い少し黙り込んで考えるような仕草をし、柚希は口を開いた。
「でも、月埜の隣にいるのが一番気を張らなくていいって感じるのはあるかもね」
「確かに。私もゆずだったら別に知られて困ることないし。忘れてほしいことは山のようにあるけど」
「それはお互い様だろ。あと、価値観も合ってたからかな」
「それはあるよね。アンタとは私用の金銭感覚は合わないけど、そのほかの価値観は大体あってたし、そういう意味でも一緒にいて楽だったからかな」
「質問の答えになりましたか?」
「おう。普通の夫婦からはとてもじゃねぇけど聞けねぇような理由で、なんか安心した」
 逸希は悟ったような表情でそう言い、お茶を喉に流し込んだ。
(普通、結婚した理由を聞いたら『好きだから』とか返ってくるもんだろうけど、マジで二人らしい理由で納得した俺がいる)
 不思議なほどに納得した理由で、逸希もそれ以上は聞いても無駄だろうなと分かった。それ以上は本人たちすら自覚していない、なにか潜在的なものがあるだろうということが逸希の本能で分かったからだ。
 それからも和やかに食事を終えると、月埜は風呂に行った。その間に柚希と逸希の二人で皿洗いを済ませると柚希へのインタビューの時間になる。
「それじゃあよろしくお願いします、だぜ!」
「はい。よろしくお願いします」
 対面になるように座り、インタビューが始まった。
「まず、柚希はいつからパン屋になりたいって思ったんだ?」
「そうですねぇ、中学生の頃でしたね」
「それまでは別の夢があったのか?」
「いえ。何となく料理に関する仕事に就きたいな、とだけ思っていました。ハッキリとこれって決まったのが中学生の頃です」
「そうなのか!」
 早速、初めて知った柚希の過去に逸希は少し新鮮な気持ちになった。
「柚希が月埜にだけタメ口なのは、なんか理由があんのか?」
「え、僕そうでした?」
 えっ、と逸希は一瞬言葉を失った。
「無自覚だったのかよ!」
「はい。自分の口調なんてそんなに気にしないでしょう」
「そうだけど、むしろ不自然なくらい月埜にだけタメ口だから、なんか深い理由でもあんのかと思っちまったぜ」
 逸希が思わぬ返答に苦笑いし、柚希は口元を手で押さえて、はてさてどうだっただろうかと自分の言葉を思い出しているようだった。
「そんなに僕、敬語ですか?」
「現在進行形だよ。月埜にはずっとタメ口だけど」
 柚希のけげんな表情に対して逸希は上手いこと表情は作れなかったが、正しい返答は出来た。
「う~ん、意識したことありませんでした。でも確かに、月埜には他の女性に言ったら殴り殺されても不思議じゃないようなことをたくさん言った記憶があります」
「マジで何してんだよ」
「月埜といるとつい口が軽くなってしまうんですよね」
 柚希はハハ、と乾燥した笑いを浮かべて遠い目をした。
(たぶん月埜といて色々あったんだろうな)
 その様子だけでおそらく過去に何かあったのだろうということを逸希も察した。
「直した方がいいですかね?」
「いや、別に気にしてねぇし、それが柚希って感じするし、無理に直す必要もねぇと思うけど」
「おや、口説きますねぇ」
「くっ、口説いてねぇ!」
 柚希がからかうように笑うと、逸希は照れた様子で慌てて否定し、机をバン、と叩いた。
「これ、机を叩いてはいけません」
「お前のせいだろ!」
「はいはい」
 事実を言っても軽くいなされてしまう。柚希を相手に口で勝てるわけがないことは分かっているので深呼吸をして座りなおし、次の質問へと移った。
「じゃあいつも敬語の柚希にとって、唯一ため口で話す月埜ってどんな存在なんだ?」
「仲のいい友人ですよ」
「――――そうか」
 素朴ながらいざ聞かれると困るであろう質問を、柚希は澄んだ目をして何を今さら、というような声音で答えた。
(こいつマジで無自覚かよ。大分ドロついた友情だなぁ)
 逸希は少し引いた様子ながら話を変えようと次の質問をした。
「柚希は色んなオリジナルパンを作ってるけどよ、その発想ってどこから来るんだ?」
「テレビのインタビューみたいですね」
 柚希はふふ、と笑った。そして一度立ち上がってテレビの横にある棚の中からノートを取り出した。そのノートはわりと古いもので、表紙に黒いペンで書かれている日付は二十年ほど前。柚希が中学生ぐらいの時期に記されたものだということが分かった。
「これは僕がパン屋を目指した時からこんなパンがあったらいいな、と思ってメモ代わりにしていたものです。授業や日々の生活のなかでインスピレーションを得たものなので、突拍子もないものばかりですが、これが僕の発想の源ですね」
「そうなのか。見てもいいか?」
「どうぞ。見てもそこまで面白いものではありませんが」
 逸希はノートを受け取ってパラパラとページをめくった。中には様々なパンのアイデアが書き記されており、材料の殴り書きのメモとパンのイラストだけでなく、柚希以外の筆跡がいくつも見られた。
「これ、柚希の字じゃねぇな」
「学校の友人たちも協力してくれたりしたんですよ。高校や大学に入ってからは、調理系の学科や部活の人も手伝ってくれました」
「ふぅん」
 見てみると、確かに突拍子もなくてとてもじゃないが商品化出来ないようなものも多くボツになっただろう案もあったが、ノートの後半ページになるにつれてだんだんと現実味を帯びてきていて、逸希は柚希のパンにかけて来た時間を追体験しているような感覚すら覚えた。
「すっげぇなぁ。こういうのがあって今のパンになってんだ」
「そうですね。たくさん試行錯誤してオリジナルのパンが生まれているんです。まぁどの業界にも言えることですがね」
「でも、二十年近く努力してこうして今、夢をかなえてるってすごいことだと思う。柚希は夢を追ったんだな!」
「そうですねぇ、でも、昔は一度、諦めようとしたんですよ」
「え、そうなのか?」
 初めて聞いた事実に逸希は驚いた。柚希は初志貫徹と言う言葉が似合うほどのまじめな男でいつも営業や料理の本を読んでいて、柚希の部屋の本棚には栄養学や経営に関する専門書だけでなく、料理雑誌も山ほど置いてあるのを逸希も見たことがある。
「何で諦めようとしたんだ?」
「普通に経営が分からなかったので。自分で言うのもなんですが、小さいころから料理の腕はありましたし、味などは別に何の心配もしていなかったんです。でも、経営などはどうも苦手意識があって、それで諦めようとしてましたね」
「ぜいたくな悩みだな」
 思わぬ理由に逸希もそれしか言葉を返せなかった。
「えぇ。若者らしい自意識過剰な悩みでしょう? でも、これも月埜に目を覚まさせてもらったんですよ」
「どうやって?」
「自意識過剰な悩みを理由に夢を諦めようと思うと伝えたら問答無用でアッパーが飛んできましたね。そして、その後に言われました」

――んなつまんねぇ理由で夢を諦めんじゃねぇ! 経営が分かんねぇなら大学で授業でも何でもとればいいだろうが! 専門学校を目指す? んじゃ専門書でも買って学びやがれ! 学びと努力と挫折なしに未来があると思ってんじゃねぇぞ!

「なんて怒鳴られました。顎は痛いし厳しいことを言われるしで、すでに心が折れそうだったのですが、心のどこかで納得した自分もいたんですよ」
「すっげぇなぁ、月埜……」
 逸希は脳内がショート寸前だった。それもそうだ。逸希の知っている月埜は明るくて優しい、適度な距離感を保って接してくれる、とても頭のいい人だ。柚希の語ったアグレッシブな姿も、荒々しい言葉遣いも、逸希は一度たりとも聞いたことがなかった。
「そうでしょう? あの可愛い顔にこんなこと言われたら多少は心に来るんですよ。でも、それでも、確かにと思ったし、諦めたくないとも思いました。だからパン作りの専門学校に通いながら経営に関する専門書で学びつつ、パン作りの修行で海外行ったり、簿記検定を受けたり、色々としてたら三十五になってましたね」
「海外! どこ行ったんだ?」
「フランスとイタリアとウクライナに行きましたよ」
「何でその国なんだ?」
「フランス料理は世界三大美食ですし、イタリア料理はフランス料理の元になった料理です。ウクライナは小麦の出荷量が世界ナンバーワンなんですよ」
 へぇー、と逸希は物珍しそうに相槌を打った。メモを取るのも忘れない。
「じゃあ最後の質問!」
「はい、何ですか?」
 逸希は一度深呼吸をしてから覚悟を決めて柚希に質問した。
「どうして、俺を引き取ってくれたんだ?」
 一番の謎だった。聞いた瞬間に逸希の頭の中には、一年前に経験した事件の様子が思い浮かぶ。
 その事件は、夏祭りの日に起こった。当時逸希が暮らしていた地域の祭りの日の夜に、逸希は今は亡き実の父と出掛けており、柚希は納品のついでにふらりと立ち寄っていた。
 逸希はいつの間にか父親とはぐれ、柚希はそんな様子の逸希を見つけて保護、本部のある近くの神社に向かって鳥居をくぐった。そこで、常識では考えられないようなことが起こった。
 何も聞こえなかった。祭囃子も、人の声も、風に揺れる木々のざわめきも、鳥の声も、蚊の羽音も、とにかく何もかもが聞こえない。辺りを見渡せば、いたはずの人たちも一斉にいなくなっていた。いや、むしろ、二人だけが誰もいない世界に飛ばされてしまったかのよう、と言う方が正しい。
 電源は切っていないのに携帯は起動せず、腕時計は狂ったように針が回り続ける。異常事態をどうにか理解し境内へと歩を進め、無礼を承知でお堂の中を覗いた。
 お堂の中にいたのは、人の形をしていたが、化け物と呼ぶのにふさわしいナニカだった。長さがバラバラなボサボサの髪、げっそりとした体躯に黒ずんだ肌、素手で土でも掘っていたのか、爪は剥がれ落ちていた。目は血走っており、辛うじて人の顔だと分かるほどにまで焼けただれていた。
 その化け物の口元は血に汚れており、化け物の足元には元は人の形をしていただろう肉の残骸が、赤い海の上にポロポロと落ちていた。
「――――父ちゃん?」
 逸希は足元に広がる惨劇の跡の上に落ちていた藍色の布切れと、少し長い黒い糸の束を見て、確かにそういった。合点がいったのだ。どれだけ探してもいないわけだ。父親は化け物に食べられてしまったのだから。
 その後のことを逸希はよく覚えていない。気が付いたら誰もいない謎の空間を全力で走っていて、また気が付いたら病院のベッドに寝ており、父親は惨殺死体となって発見されたことを伝えられ、施設に預けられた。
 施設での暮らしは、楽しいは楽しい。しかし、やはりどこか心にぽっかりと穴が開いた感覚がしていた。別に施設での暮らしに不安があったわけでも、施設に問題があったわけでもない。ただ、常にどこか喪失感は拭えなかった。そんな状態から救い上げてくれたのが柚希だった。
「俺、自分で言うのもなんだけど、結構悲惨な経歴だし、俺を引き取ったって、柚希に何か利益があるわけじゃないだろ? 俺のことで月埜と殴り合いの喧嘩もしたって聞いた。なんでそこまでして、あの祭りが、あの事件がなかったら一生出会わないだろう他人の子どもを引き取ってくれたんだ?」
 素朴ながら、逸希の心の中にずっとくすぶっていた疑問だった。
 逸希の疑問に柚希は少し驚いたような顔をして、少し間をおいてからゆっくりと答えた。
「まず、人の命が関わることを損得勘定で判断するのは改めなさい。僕は何か利益があって君を引き取ったわけではありません」
「じゃあ、どうしてなんだ?」
「単純なことですよ。ご尊父を亡くされ、よりどころを無くして絶望に染まっていた君を放って、僕だけが平穏な日常に戻ることが出来なかった。どうにかしてあげたいと思った。ただそれだけです。それに、あの祭りが、あの事件がなかったら出会うことなどなかっただろうからこそ、縁を感じたのです。離してはいけないご縁が今ここにある、そう感じて、君を引き取るために多少の無茶もしました。質問の答えになってますか?」
「あ、お、おう」
 逸希はどもりながら答えた。あまりに熱烈すぎて、聞いているこちらがなんだか恥ずかしくなってしまう。
「では最後に。逸希くん、僕も月埜も、君のことが大好きです。ご尊父のようにはいかないかもしれませんが、これからもずっと、君に愛情を注いでいきます。だから、伸び伸びと育ちなさい」
 柚希はそう言ってお茶を飲んだ。平然としている柚希とは対照的に、逸希は泣きそうだった。柚希も月埜も、もちろん優しい。しかし改めて言葉にして言われると、照れくさいものがあって、うまく言葉を返せなかった。
「いい作文は書けそうですか?」
「わ、分かんねぇけど、やるしかねぇから頑張る」
「そうですか。無理はしないようにしてくださいね」
 柚希は返答できなかったことを意にも介さず、話題を変えた。逸希への配慮もあったのかもしれない。逸希がいつもの調子で返すと柚希はふふっと笑った。


 深夜の十一時。逸希が寝たあと、柚希と月埜は二人でお茶を飲みながらテレビを見ていた。月埜も風呂から上がっているため、いつもはまとめている髪を下ろしていた。
「ゆず、逸希のインタビュー答えたの?」
「答えたよ。照れてた」
「なに言ったのよ。あ、またどうせ歯の浮くようなセリフ言ったんでしょ。小学生男子にそれは刺激が強いからやめなさいって」
「月埜は笑うじゃん」
「そりゃ私は慣れてるもん。いまさらアンタの歯の浮くようなセリフで照れたりしないよ。ただ『なんか言ってら』って思って笑いは止まらなくなるけど」
 翌日は二人とも仕事があるためアルコールは取らないで、お茶だけ飲み、軽口をたたく。二人の会話のBGMを務める今日の深夜のテレビ番組は一昔前のコント番組だった。
「僕たちが小学生の頃、あんな宿題なかったからびっくりしたよね」
「何年前の話してんのよ。でも、自分のルーツを探るっていうのはやったよね。名前の由来とか、先祖のことを調べるっていうやつ」
「あぁ、夏休みの課題になったやつだっけ?」
「そうそう」
 二人は平坦なトーンで話しながらお互いに小学生の頃の記憶を呼び覚ましていた。二人は幼馴染なので当然、小学校は同じだった。
「その年の自由研究が自分のルーツに迫る、で統一されたのは楽でよかったわ。私その日のうちに適当なこと書いて終わらせた記憶がいまだにある」
「それはみんなそうだよ」
「あと、学校から脱走した同級生探すためにみんなで外出たけど、面倒すぎてみんなで家に帰ったことあったよね」
「あぁ、担任が地獄だった年ね。あのとき別に打ち合わせしたわけでもなく家に帰ったのは天才だった」
「それな。私あのとき以上の団結力見たことないもん」
 あのときはあぁだった、このときはこうで、そのときはそうだった、と話に花を咲かせていると、ふと静寂が訪れた。最初はその静寂を何となく居心地が悪いと感じていたが、ある程度話してお互いが満足した後の静寂だと歳を経るにつれて理解し、その静寂を心静かに過ごせるようになった。
「逸希くんは、本当に幸せなのかな」
 ポツリと、柚希が弱音を吐いた。
「どうだろうね」
「もしかしたら、何か言い出せないことがあるのかもしれない。でも、僕はそれを察してあげられない」
「当然よ。だって、私も、ゆずも、逸希も、別の人間で、まして一緒に暮らし始めてまだ少ししか経ってない。だから分からなくて当然なのよ」
 月埜は柚希の隣で、視線はテレビに向けたまま静かに呟いた。
柚希はいつもこうだ。温和な平和主義のくせに、厄介ごとに巻き込まれたら戦い方も知らないくせに前に出て、大切なものを抱え込み、疲れたら月埜の前でパンクする。
「僕は、親たる資格があるのかな」
「――さあね。それを言ったら私だって、親たる資格があるかなんてわからない。というかそもそも、資格を取るには勉強が必要。私たちは今、親と言う資格を取るための勉強中なのよ。逸希が毎日学校で勉強してるんだから、私たちも勉強していかなくちゃね」
 柚希のセンチメンタルな状態に、月埜は慣れた様子で相手する。本当は酒でも飲みたいところだが、さすがに明日の仕事に差し支えるし、酔っぱらった状態で柚希の相手をするのはきっと誠実ではないという考えが、月埜にストッパーをかけていた。
「月埜……僕、ちゃんとした親になれる自信ないよ…………」
「今更じゃない。それに、逸希を育てるのはアンタだけじゃない。私だって義母で、名目上アンタの奥さん。アンタと二人三脚で育児する覚悟くらいあるの。私を頼りなさい」
 月埜の肩に寄りかかる柚希の肩を抱いてポンポンと軽くたたいてから、柚希の頭に手を伸ばし、そっと撫でた。柚希は鼻声でうん、と小さくうなずいた。
(本当、私の前でしか弱らないなんて、難儀な男…………)
 横目で柚希を見て、月埜はこっそりと呆れた。有本柚希と言う男は、どうも手先は器用だが、生き方は不器用だ。昔から周りと一線を引いていて、どんな出来事でも当事者になることを何となく嫌がる。しかし月埜にだけは、嫌なときは嫌、苦しいときは苦しい、辛いときは辛い、楽しい時は楽しい、と伝えており、月埜にだけは甘えている。
(よくもまぁ、恋愛感情がない女にこうも甘えられるもんだなぁ)
 月埜はそう考えたが、それは自分も同じね、と思い直した。月埜は世渡り上手な方だったがどうも恋愛感情と言うものが理解できず、当事者であってもどこか事態を他人事のように受け止めていた。一時期はそれで悩んだりもしたものだが、今は吹っ切れている。
「僕、本当に月埜と結婚してよかった……」
「でしょ? てかアンタもう寝なさい。明日も早いんでしょ? 夜で眠いからそんな考えになるのよ」
「やだ。月埜といるほうが温かい」
「子どもが二人に増えた~」
 インタビューの影響で色々と思い出したのもあるのだろう。少々子ども返りしているような言動が多い。しかし月埜は愚痴のように呟くだけで、特に柚希を嫌がったり咎めたりはしない。しても柚希が傷つくだけと言うことは分かっていた。
「寒いなら暖房付けなさいよ」
「湯たんぽが欲しい」
「私を湯たんぽ代わりとはいい度胸だな。まあいいけど」
 月埜はすでに瞼が落ちかけている柚希を引きずって柚希の寝室に運び、寝かしつけた。さすがに結婚しているとはいえ、仮面夫婦状態のいい歳した男女が同じベッドで寝るのは、たとえ寒くても嫌だったからだ。
「柚希はいつになっても手がかかるんだから」
 適当に寝かしつけてリビングを片付け、日付が回る少し前には月埜も自分の寝室に戻った。そして明日の準備を済ませると、あくびをしながら布団に入る。
「はぁ……」
 布団にくるまって深呼吸をしながら天井を見上げ、眠気に身を任せる。
(親になる資格、か………………私も、自信なんてないよ。でも、みんなそうでしょ。だって、誰でも最初は経験ないんだもの)
 柚希の発言を思い出し頭の中で一人、柚希の言葉に返事をした。誰もがみんな、最初から自信があるわけではないのだ。月埜はもう一度ため息を付いて本格的に寝入った。


 翌日。あれだけ月埜に甘えていた柚希も普段の調子に戻り、早朝からパンの仕込みに向かった。ひと段落したところで家に戻って三人で朝の食卓を囲み、時間になると二人で逸希を見送る。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「行ってらっしゃい」
「おう! 行ってきま~す!」
 逸希は今日も元気に家を出てらせん階段を降り、通学路に出た。
「おはよう、逸希!」
「はよ~っ!」
「うおっ⁉」
 一人で歩き出した逸希の後ろから駆け寄ってきて、逸希に体当たりをしながら挨拶をする二人の少年がいた。昨日も一緒にサッカーをした友人、純哉じゅんや雅仁まさひとだった。
「なんだお前らかよ。おはよう」
「逸希、昨日のインタビューうまくいった?」
 純哉がなるべく自然に、しかし少し遠慮した様子で逸希に聞いた。別に遠慮しなくてもいいのに、と思いながら笑顔でおう!と答えた。
「あっ!」
 雅仁が突然声を上げた。首をかしげる逸希に対して、純哉は先ほどの会話の流れから、嫌な予感を感じ取った。
「どうした?」
「まさかお前…………」
「インタビュー、忘れてた!」
「バカ野郎!」
「今度こそ怒られるぞ!」
 雅仁の忘れ物に二人で一通りのツッコミを入れ、どうするかを三人で話し合う。いつもの日常が今日も繰り広げられている。
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