特になんてことはない、ある人々のある日

小桜千夜

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腹が減ったと言えること

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 外からゴミ収集車の音がして目が覚めた。熱でぼんやりと霞みがかった頭はだんだんと現状を理解し始め、涙で潤んだ目を開けると、海月うづきはまず時計を確認した。壁掛け時計は三時を指している。夕方が始まる昼の終わり目の日差しが閉じたカーテンの隙間から差し込んでいて、電気をつけていなくとも部屋は明るい。
 サイドテーブルとして使っている低い机。そこには海月用の水筒と、主治医から処方された薬が散らかっていた。普通の薬ではなく、海月用にしっかりと処方されたものだ。
(父さん、は、買い物かな?)
 一軒家だとしても、人がいるなら生活音を感じることができる。しかしそれがないということは、晴孝はるたかは買い物だろう。
 海月は一昨日から体調を崩している。一昨日の昼に突然熱が出て、関節痛と倦怠感がひどく、持病が悪化している可能性があるため医者にかかった。今回は単に風邪を引いただけだという診断が下ったが、突然病状が悪化する可能性も否めないため、自営業で融通の利く晴孝が休みを取っている。
(起きれないことはない、けど、だるい)
 海月は重い腕を伸ばして水を飲んだ。少し体を動かして分かったが、まだ頭痛とめまいが収まっていない。試しに薬の横に置いてあった体温計で熱を測ってみると、三七.二度という微熱の値が出た。指の力が抜けて、机の上で体温計を落としてしまい、耳障りな音が部屋と鈍った頭に響いた。海月は忌々し気にうなると、寝返りを打って布団を鼻まで被る。
 部屋の中は無音だった。ゴミ収集車もここでの仕事を終えて別の場所に移動していったため、外からも何も聞こえない。ただ、二四時間三六五日、今でも海月の体の中でたゆまず働く心臓の音だけが聞こえた。眉を顰めてみると、額に張られた解熱シートが温まっているのが分かった。ぬるい解熱シートは不快で、海月は不満げな様子でシートを取ると、少しだけ寝返りを打ってごみ箱に捨てた。そうしてまた布団をかぶり直す。
 誰もいない無音の部屋の中ではやることがなくて暇だ。海月は普段、絵を描いているが、こういうときばかりはそうもいかない。後ろ向きな考えが顔を出しそうなのを、クマのぬいぐるみを抱きしめることで誤魔化した。
(父さん、早く帰ってきてよ)
 こうして病状が悪化しているときはとにかく寂しい。海月はクマのぬいぐるみを抱きしめて、目を閉じた。こういう時は寝るに限る。


 司城海月つかさきうづきは同性婚の二人に引き取られた養子である。一般的な夫婦の間に生を受け、ごく一般的な人生を営んでいた。しかし、現在から数えて二年前。海月が十六歳の頃、事態は急変する。
 梅雨が始まる六月ごろ、海月は三十八度の熱を出した。それが一週間続き、あまりに長い発熱期間を怪しんだ両親は、大学病院に海月を連れて行き、精密検査を受けさせた。結果は難病指定されている全身性の病気で、完治は難しいという診断が下る。
 これを受けた両親は嘆いた。
「せっかくここまで育ててきたのに」
「病気になってしまっては未来が望めない」
「完治しないなら意味がない」
「どうして海月がこんな目に」
 医者は何度も説明した。
「現在でも根本的な治療法は発見されていませんが、病気をコントロールして軽減させることは可能です。適切な治療を受ければ、一般の方と同じように生活していただくことができますよ」
 と。しかしながら両親は「完治しなければ意味がない」「治療が長引けばそれだけお金がかかってこちらが損をするばかりだ」「海月にはこれから今までにかかった養育費を返済させようと思っていたのに」と聞かない。高熱を出して今も苦しそうにしている娘が目の前にいるというのに、両親は金と己の保身のことばかり口にして、これには医者も看護師も呆れかえっていた。
 かくして、話を聞かない悲劇の主人公気取りの両親たちは、海月を隣県にあるホスピスに入れた。治療の価値がないと判断したためだ。
 海月が入ったホスピスは相楽峰町さがらみねまちにある『平和の家』という施設だった。町名の由来でもある相楽山さがらやまの中にありながら『平和の家前』というバス停があるために、交通の便がいい場所だ。
「池田さん、最後にもう一度だけ聞くね。本当に治療は望まない、症状緩和のケアだけでいいの?」
 池田は海月の旧姓である。海月はあまりに稀な入居希望者だったため、ケアマネジャーの津田つだと何度か入居前にやり取りをしていた。
「はい。まだ未成年だから親に逆らえないし…………治療したくても、お金がないですから」
「ご両親を説得することも、できると思うよ? 保険だって申請すれば、通るだろうし」
「いいんです。あの人たちは悲劇のヒロインを気取りたいだけで、きっとあたしが元気になることなんて、望んでませんから」
 もとより、どこかで両親に距離を感じていた。大切にされていたとは思うが、それでもどこかで義務的な愛情というものを感じ取っていたのだろう。だからこそ、迷惑をかけないようにしようという、自立心が育ったのかもしれない。
「まだ十六歳でしょう? 全く治らないってわけじゃないし」
「いいんですって。それに、あの人たちのところに戻るの、いまさら嫌だし」
 海月は達観していた。よくいえば、自立心が強かった。
 何となく、分かっていたのだ。自分がもう二度と治らない病におかされたとき、きっと両親はこうするだろうと。それに異を唱える気はなかった。なぜなら、海月自身が治療をしない選択をする可能性の理由が思いついたからだ。
『あまり無理な治療をして、辛い時間を長引かせたくない』
 あの両親にこんな考えがあるとは微塵も思わないが、自分だったらそういう理由で、治療を拒否する。海月はそう思ってしまった。
(あたしも、あの両親の血を引いてるんだな)
 思わぬところで両親との血のつながりを実感した海月は、津田とのやり取りを経て、平和の家に入居した。
 この施設では、がんや悪性腫瘍、積極的な治療が困難な病気の人たちが年齢も性別も関係なく穏やかな最期を迎えるために入居している。海月の入居時点で六人ほどの人がいて、みなが七十代から八十代と、高齢者ばかりだった。そのため、海月は最年少の入居者となる。
 施設での暮らしも、そう悪いものではなかった。ほかの入居者からは孫のようにかわいがられ、思い出話やちょっとした豆知識のようなものをたくさん教わったし、看護師やケアマネージャーたちも、海月の体調がいいときは施設の外に出ないことと、連絡用のGPSを持つことを条件に一人での外出を許可していた。
 海月は毎日、絵を描いていた。元から好きだったのもあるが、固定ファンができれば死に至るまでのちょっとした小遣い稼ぎになるだろう、というちょっとした下心からである。これまでは油絵を専門的に描いていた海月は、平和の家への入居を機にタブレットでのイラストに挑戦した。
 以前は、数キロはあるだろう画材をつめたバッグと、キャンバス、イーゼルを持ってどこかに出かけ、インスピレーションが浮かぶ場所で絵を描いていた。しかし病気が進行してからはすっかり筋力が落ち、重い画材とキャンバス、イーゼルを持って歩くだけの体力はなくなっていた。そのため、必要なツールが内包されていて、いくらでもデータとして絵を保存しておけるタブレットが役立つ。
「クラゲちゃんは絵が上手いねぇ」
 隣の部屋に入居している梅沢うめざわという女性は、よく海月の近くでお茶をしていた。そうして、海月が絵を描く様子をよく見ているのだ。
「それは何の絵?」
「クラゲに沈む人魚だよ」
 この日描いていたのは深海の底に沈む人魚の絵だった。クラゲと人魚の尾を極彩色で描いて目立たせ、背景は微妙に色味の違う深い青でシンプルにする。
「綺麗ねぇ。特にクラゲが鮮やかで魅入っちゃうわぁ」
「ありがとう梅沢さん」
 梅沢は海月が絵を描いていると毎度その絵を褒めた。そして、海月という字はクラゲと読めるからと海月を『クラゲちゃん』と呼んだ。
「クラゲちゃんの絵は緩急がいいね」
「ありがとう榎木えのきさん」
 榎木という男性も、海月の絵を独特の語彙で褒めた。海月の絵は極彩色を使っている。しかし部分を絞って他の色との調和させているため、極彩色のギラギラとした真夏のような雰囲気を抑え、派手すぎないが地味過ぎない、華美ではないが華のある世界を描いているのだ。
「クラゲちゃんの絵は目が痛くならないから、いつまでも見ていられるわ」
「そうですね。極彩色がうまく他の色と溶け込んで、共存してる。クラゲちゃんはいい色彩感覚を持ってるね」
「榎木さんの語彙力には負けるよ」
 極彩色を使いながらも目立たせないのは、自分のためでもあった。海月は目が弱く、あまり強い光や色を見ると目がくらんでしまう。目がチカチカするのとはまた違った感覚で、目がつぶれる、というイメージが近い。
「どこかに出さないのかい?」
「もう少し溜まったらどっかに投稿してみようと思ってるよ。ストックためておかないと死んだ後に困るだろうし」
 いつ容体が急変して死ぬのか分からないが、それを見越して準備をしておかなくてはいけない。
「きっとこの絵を欲しがる人は多いんじゃないかなぁ」
 榎木はそう言ってお茶を飲む。この二人がよく側にいるから、海月は本当の孤独を感じずに済んだ。

 じわじわと進行していく病気の影を感じながら、二年を生きた。海月が十八歳の頃、現在の保護者である弘文ひろふみと出会う。
 それはたしか、三月から四月になるころ。仕事の関係で弘文が平和の家を訪れた。その日も、海月は中庭に出て絵を描いていた。
「津田さん、ここにはお嬢さんも来たのかい?」
 弘文は中庭がよく見える渡り廊下から海月の姿を見かけ、津田に尋ねた。
「二年前に入った子ですよ。まだ十八なんです」
「十八⁉ そんな若いのに、なんだってこんなとこに」
「守秘義務がありますのでね」
「親は仕事しないのか」
「その親たっての希望ですよ」
 津田の言葉に、弘文は愕然とした。そんな弘文を現実に引き戻すため、津田はパン、と手を打ってから仕事の話を始めた。今日こうして弘文が来たのは、亡くなった入居者の遺品の買い取り業務をするため。それを忘れられては困るというものだ。
 平和の家では、亡くなった入居者の遺品はスタッフのサポートの元に、遺族が引き取るか、買い取に出すか、処分するかを決めることになっている。今回は直近で二人の入居者がなくなったため、何度かに分けて買い取り業務をすることになりそうだ。弘文は眼精疲労の覚悟を決めながら一人目の入居者の部屋に入る。
「ピンクのふせんを貼っているものが買い取り希望のものです」
「主に詩集と本棚、服もか。この量、服は全部か?」
「服のサイズも好みも、誰とも合わないんだそうで。捨てるのは忍びないから下着だけ処分にして、売れそうなものは残しておいたんですよ」
 津田はそう言って、他の仕事に向かった。部屋に一人残された弘文はひとまず、遺品の一つ一つを手に取って確かめる。
 どうやらこの部屋にいた入居者は文学人だったらしい。詩集だけでなく短編の小説集も置いてあり、丁寧に扱われていた名残がある。服も同様で、パーカーよりは襟のあるクラシカルな服を好んでいたらしい。男物だから、さぞ老獪な紳士だったのだろうと想像をめぐらせた。短編ばかりなのは、もしかしたら、物語の結末が分からないまま死ぬことを避けたかったのかもしれない。私物と思われる杖も、何度か磨かれた痕跡がある。細かな傷や汚れはあるが、価値を大きく損なうものではないだろう。
 じっくりと見て、価値をつける。骨董品好きの弘文には転職に相違ないが、人間であるため体力の限界はある。男性入居者の遺品の買い取り作業が終わった弘文は、脱力感と開放感、そして息切れと空腹を覚えた。気が付けば三時間が経過して、正午を回っている。津田に休憩をしてから二部屋目の作業をすると伝えると、体を伸ばしながら中庭に出た。
 中庭には、海月がいた。三時間前と変わらず中庭のベンチに腰掛け、タブレットに向かっている。弘文はなんとなしにその様子を後ろから観察し、タブレットを覗き込んだ。
「覗きは犯罪だよ」
「わっ、気づいてたのかい。すまんね」
「別にいいけど」
 弘文は海月の横に腰かけ、堂々とタブレットの中身を覗き込んだ。
「嬢ちゃんは絵が上手いな。自然の絵か」
「梅の花と榎の絵」
「梅は季節外れじゃねぇかな」
「梅沢さんと榎木さんの追悼絵だからいいんだよ」
 海月は敬語も使わずに素っ気ない様子で、弘文を見ることもなく絵を描き続けている。
「仲が良かったのか」
「いつも褒めてくれた。一週間前に死んじゃったけどね」
「そうか」
 悪いことを言ったかな、と弘文は気まずさを感じた。しかし海月は先ほどと変わらない様子で弘文に言った。
「二人の遺品の買い取りできたんでしょ。仕事はいいの?」
 海月は津田から少し話を聞いていたため、買い取り業者が来ることは知っていた。今日になって見知らぬ顔が津田と歩いていたため、あの人がそうなのだろう。と仮定していたのだ。
「休憩中だよ。それより、嬢ちゃんこそ昼はいいのか? 若い子は食べなきゃだめだぞ」
「お昼まであと三十分だからいいの。それにどうせ死ぬんだし」
「病気か何かか?」
「よくデリカシーないって言われない? 当たってるけど」
 海月は訝し気に眉をひそめた。しかしようやく手を止めて顔を上げる。その顔には、鼻を中心に、両頬に蝶が羽を広げるかのような赤みが広がっていた。
「薬があったり、ちゃんとした治療を受ければ治りはしないけどコントロールはできる。そういう病気なのに、両親が治療を放棄したからこのザマ」
 ようやく弘文の方を見た海月は自嘲気味に自分の顔を指さした。
「――――――痛いのか?」
「全然。鏡見ないとあることすら分からないくらい」
 海月はタブレットを置いて座った状態で伸びをした。ゴリゴリという音が弘文にも聞こえてきて、苦笑いを浮かべる。
「三時間ずっとここで作業してたのか」
「うん。なかなかうまい構図が思い浮かばなかったから」
「せめて一時間ごとに休憩取りな。凝ると痛いぞ~」
「それ実体験?」
 不遜な言い方だが、海月は少し気を許したようで、肩の力を抜いた様子でタブレットの絵を弘文に見せた。
 川のほとりに一本だけ榎の木が生えていて、そのそばに喪服の女性が座っている。川の上に梅の花がいくつも乗っていて、まるで運ばれているようだ。空を始めとする背景はどんよりと重い、幾重にも重なった曇り。梅の花と榎だけは極彩色を使っているあたりに海月の個性が出ていた。哀悼と寂しさ、物悲しさを内包する。朝方の湖畔のような絵は、追悼に相応しい絵だった。
「これは、彼岸かい?」
「うん。本当は舟を二艘、描こうと思ってたんだけど、描けなかった」
 描かなかった、とは、言わないのだな。いや、言えないのか。弘文はどこか落ち着いた様子でそう感じ取った。
「嬢ちゃん名前はなんていうんだい」
「海月。海のお月様で『うづき』だよ」
 昼食の時間だからと食堂に向かう海月を見送って、弘文も少し休憩をしてから仕事に戻った。二人目の入居者は女性だったようで、女性用の服と趣味のものだったらしい観葉植物にミシン、布などの裁縫道具、雑誌と筆記用具、私物のほとんどを買い取りの依頼に出していた。
「遺品はいらないから売れそうなものは売ってくれ、と言われたんです」
 弘文の言わんとしていることを察したのか、津田が言った。
「ひどいこと言うもんだ」
「結構いますよ、そういう遺族の方も」
 海月も、そうなのだろうか。一瞬だけ、弘文にそんな考えがよぎった。
 この出会いから、弘文は海月の元を訪れることになる。何となく、十八と若いのに何の治療も受けられずに死にゆくことを諦観によって受け入れている海月の様子を哀れに思ったためだ。
「今日も仕事?」
 二回目の訪問時、海月は施設の裏庭にいた。前回とそう変わらない様子で、この日も絵を描いていた。
「そんなところ」
「なんであたしのとこに?」
「絵を見せてもらえないかと思ってね」
 レジャーシートの上で胡坐をかいている海月は、やや怪しむような目を向けながらも少し横にずれ、弘文が座れる場所を確保した。
「優しいなぁ、海月は」
「最低限でしょ。敬語使ってないんだから」
「そこに罪悪があるのか」
「使う気にはならないけどね」
 やや辛らつだが、そこでめげるような弘文ではない。弘文は笑って右から左へ受け流しながら、海月に絵を見せてくれるよう頼んだ。
「なぁ、海月の描いた絵を見せてくれよ」
 海月は少々値踏みをするような様子で弘文をじろりと見やり、あからさまなため息をついて絵のフォルダを開いた。
「何の絵が見たいの?」
「何でもいいさ。お前の最高傑作を見たい」
「口説くね」
「あいにく俺にはパートナーがいるんでね」
「貴方は趣味じゃない」
「俺が振られる側かぁ」
 はっはっはっ、と何が面白いのか弘文は笑った。海月は何が楽しいのか分からない、という顔をしながらもタブレットを操作し、フォルダを開いた。
「おっ、これか?」
 軽い調子で渡されたタブレットを見て、弘文は息を飲んだ。
 桜の木の中に、仰向けになった女が眠っている。おそらくこれは桜の木の下で眠っている女を上からとらえた構図だろう。肌の色合いと質感から、確実に死んでいることが分かった。鮮やかな刺繍が入った黒い着物、艶のある黒髪を下ろした、匂い立つような色気のある美しい女の死体。それが、そこに眠っている。眠っている女を上から描く構図で、桜の木の上から見下ろしているようだ。まるで写真で撮ったものをイラスト風に加工したもののようなリアリティすらある。
「坂口安吾の『桜の森の満開の下』をモチーフにして描いたんだ」
 横で海月の解説を聞き、さらに驚いた。どうして齢十八の少女がこんな絵を描けるのか不思議なほどに、女には艶がある。桜もそうだ。木の幹や根っこの質感、地面の土の感触。そして桜吹雪と影が女にかかり、弔っているように見えて養分として吸い尽くそうとしているような、妖しげな美しさがある。背筋が泡立つほど艶美で、目をそらしたいのにそらせない。魅入られる、という言葉の意味をこれほど突き付けられる作品もそうないだろう。
「ものすごい絵だな」
 下世話なことを言いそうになって、慌てて引っ込めた。この絵を的確に表現する言葉が見つからず、陳腐な言葉が口をついて出る。
「綺麗で引き付けられて、それでもってただ美しいだけじゃない。これは間違いなく最高傑作だな」
「着物の刺繍と一部の桜にだけ極彩色を使ってるからね。より人の目をひくと思う」
「これ本当に海月が描いたのか」
 タブレットを返しながら弘文は冷や汗をかいた。これほどまでの画力と表現力があるとは思わず、少々なめてかかっていたのだ。
「うん。ここに入ってすぐの頃にね。榎木さんが本を読み聞かせてくれた」
「十代の女子にか?」
「短編小説の挿絵が画集になってるシリーズがあって、それを見せてもらうついでだよ。そのときの絵と絵柄が似ちゃったんだけど、一番よくできたって言える」
 海月はあぐらから体育座りになって、懐かしむように目を細めた。
「大事な思い出、なんだな」
「うん。榎木さんが遺書を残してくれたから、その画集シリーズはあたしが引き取った。絵柄は似てても、あたしこれ以上の傑作は描けないと思う」
 海月はいとおしげにタブレットをなぞった。
「確かに、これは傑作中の傑作だな。展覧会にあったっておかしくはない」
 お世辞でも何でもなく、素直に感じたことだった。それが伝わったのか、海月はにっこりと笑う。
「でしょ。死を決意しながら描いたやつだもん。何だかんだで二年も死が先延ばしになったけど」
 この絵は、海月がこの施設に入ったころに、いつ死ぬのかを想像しながら部屋にこもって描いたものだ。結局まだ死なずにいるが、死の淵に立って芸術家は真の才能を開花させるのかと、やや他人事に思ったことがある。
 三回目の訪問は雨の日だった。今度は仕事ではなく、海月への面会が主目的だ。この日の海月はラウンジで珍しく絵具とスケッチブックを広げていた。
「よう、海月。今日は何を描いてるんだい?」
 肩甲骨の間の背中部分に触れながら海月に話しかけた。
「うわっ! なんでいるの?」
 驚きながら振り返った海月は、弘文の姿を見てさらに驚いた。
「また仕事?」
「いんや、お前の面会」
「はぁ?」
 本気で意味が分からない、という様子で海月は首を傾げた。その拍子に、海月の顔についた絵の具が目に入る。
「元気にしてるかと思ったんだが、顔に絵の具付けて絵が描けるくらいには元気そうで何よりだ」
 弘文は親戚のおじさんのような言い方をしながらハンカチを出した。そして流れるような動作で机上の綺麗な水を入れたバケツでハンカチを濡らし、海月の頬を拭った。
「にゃに?」
「絵の具。わんぱくだなぁ」
 片手で顎を固定されながらも海月はむずかるように首を振り汚れるから、とハンカチから離れた。
「そのためのハンカチだろ」
 弘文は海月の抵抗も意に介さず綺麗に絵の具をふき取った。汚れてはいるが、しっかり洗えば落ちるだろう。海月の体面に座りながらハンカチをたたみ直した。
「藤棚?」
 弘文のハンカチを見ながら海月が呟いた。
「あぁ。藤まつりに行ったときに買ったやつだ。海月は、藤は好きか?」
 海月は静かに首を横に振った。
「あんまり。藤は山を殺すから」
 どことなく寂し気な言い方に引っ掛かりを感じ、弘文は聞き返した。
「山を殺すって、どうやって?」
 海月は筆をおいて、どこか恨みを含んだ調子で口を開いた。
「あくまで人工林の場合だけど、手入れが届かなくなった山や林なんかの木々に藤が咲くのは荒廃の象徴だよ。木を絞め殺して枯らして、養分を奪うの。そもそも藤には毒があるし、藤があるせいで伐採のときにあらぬ方向に倒れたり、それによって死人を出したりする。じわじわと侵食して、最後には木を乗っ取る。どれだけ手入れされてようと、あたしは藤を好きって感覚は一生理解できない」
 なるほどな。弘文は相槌を打ちながら考えた。ところ変わればものの認識が変わるのは世の常だが、それをあらためて感じたのである。
「海月は林業に詳しいんだな」
「別に。親が樹木医だったから」
 弘文はこのとき、はじめて海月の両親の話を聞いた。あまり本人が話したがらないあたりに、漠然とバックボーンを想像していたし、この施設にいるということの意味を、大人の弘文は知っている。
「藤を見てるとあたしも締め付けられてる気分になる」
 雨の降る外を見ながら、独り言のように小さな声で海月が呟いた。
「死ぬからか」
 それを眺めながら、弘文は頬杖をついた。
「死ぬのは怖くないよ。生まれればいずれ人は死ぬ。ただそれが早いか遅いかの違いがあるってだけ。あたしはたまたまそのタイミングが今だったんだよ」
 達観していて、儚げで。言えば嫌われてしまうから言わないが、藤のようだと感じた。紫のTシャツを着ているのもあるのだろうか。
「そっか。今日は何の絵を描いてたんだ?」
 やや強引に話題を変えると、海月は少し間をおいてから絵の具が乾いていることを確認し、描きかけのスケッチブックを弘文に見せた。
 藤棚の中で、男が首をつっている。藤の花で隠れているため顔は見えないが、骨格や地面に落ちている靴によって性別が浮き彫りになっていた。美麗でどこか清廉な雰囲気だが、やはりわずかな狂気を感じる。藤が口を開けて頭から男を喰っている様子にも見えるのがこの絵の妙だろう。
「これも何かの縁かねぇ」
「どうだかね」
 来たときよりも雨足は強くなっている。やらずの雨、と言いかけて弘文は黙った。
 四回目の訪問時はパートナーの晴孝も同行していた。弘文が晴孝に海月のことを話すと、晴孝が会ってみたいと言ったのだ。
 この日の海月は、施設の敷地内にある湖のほとりにいた。
「平和の家にこんなところがあるなんてなぁ」
「綺麗な場所だね」
「なんか増えてる」
 二人がにこやかに話しながら海月に近づいても、海月は歓迎するどころか呆れを隠そうともしない。
「海月、俺のパートナー、晴孝だ」
「司城晴孝。相楽峰町でカフェをしてるんだ。弘文から話はよく聞いてるよ」
 牽制がてらも至極穏やかな調子で話しかけると、海月は首を傾げた。
「ひろ、ふみ?」
「俺だよ」
「そんな名前だったんだ」
 今度は晴孝が首を傾げた。てっきり、とっくのとうに名乗っているものだと思っていたのだ。
「そういえば言ってなかったな。俺は司城弘文だ」
「へぇ。あたしは池田海月。海のお月様で『うづき』だよ」
 海月はタッチペンを置いて晴孝と握手をする。そして、改めて自己紹介をした弘文とも握手をした。この日は前回の訪問の日から降り続いた雨が嘘のように止んで、空が晴れて澄み渡り、絵を描くにはうってつけの日だと海月は語る。
「雨のあとはいつもの景色も違って見えるから」
「水量が上がってるのに水辺にいるのは危険じゃないか?」
「関係ないね。どうせ元より死ぬ体。気にしたところで惜しい命じゃない」
 どこか誇らしげに言うから、止めようと思っていた口を開きかけていた晴孝も、言葉を失った。それでも何か言葉を出さないと座りが悪いのか、必死に言葉を絞り出した。
「前はスケッチブックで描いてたそうだけど、今日は違うんだね」
 あまりに話の流れから逸脱した質問だったが、海月はあぁ、と相槌を打ってから答えた。そもそも晴孝が何事か言おうとしていたのすら気づいていなかったようだ。
「あのスケッチブックは遺品だから。画家やってた志村しむらさんって人がいてさ、その人が残してくれたんだ。だから、室内用にしてる。量産品の、どこにでもあるスケッチブックだけど、落としたりして変な汚し方したくないんだよね」
 あまりにさらりと言うものだから。晴孝は何と答えればいいか分からなくなった。ただそうなんだね。と相槌を打ち、一度話を区切る。
「今日は、何の絵を描いているんだい?」
 話を変えるためか、少々下手な話題転換ながら唐突にそう切り出した。弘文は空気を読んでそれに乗っかり、海月の画面を覗き込む。
「風景画か」
「いつもはインスピレーションが湧く場所で思いついた絵を描いてるけど、今日は特別。綺麗だったから、たまには風景画もいいかなって」
 広い湖と、それを囲う青々とした木々、湖の上にかかる橋と真ん中に鎮座する休憩所のような日陰。写実的とも言い難いが、完全なイラストとも言い難い。うまく現実の風景を自分の世界観の落とし込んでいる見事な風景画だ。強いて言うならモネの絵に近いだろうか。
「いつも弘文から話に聞くばかりだったけど、本当にきみは絵が上手いんだね。こんなに綺麗な風景画、初めて見たよ」
 晴孝は一瞬にして目を奪われ、まじまじと画面を覗き込んだ。いつもの極彩色は使われていないが、色の重なりや影の描写が巧みで、水彩画の画風にも近い。しかしイラスト的な風味と油絵のような厚みも絵から感じ取れる。
「素敵な絵だねぇ」
 しみじみと、まるで赤子を可愛がるように、晴孝が呟く。
「えへへっ」
 海月は初めて恥ずかしそうに笑った。
「俺にはそんな風に笑わないくせに!」
 思わず弘文が立ち上がりながら言うと、海月はニマニマと笑いつつそれを抑えようとしながら言い返した。
「だ、だってっ、んふふ、梅沢さんとか、榎木さんみたいに、じっくり見てしみじみ言ってくれる人、あんまりいないからぁ…………嬉しい」
 上機嫌で肩を震わせて笑う海月はそのときばかりは十八歳の少女に見えた。毒気を抜かれた晴孝は腕時計を見直し、持ってきたリュックの中から箱を出した。
「そうだ。事前に申請すれば訪問者と一緒に、訪問者が持ち込んだ料理を食べることができるって聞いて、お弁当を作ってきたんだけど」
「え、そりゃそうだけど。あたし申請とかしてないよ」
「心配するな、俺がした」
 晴孝が持ってきたのはカツサンドときんぴらごぼうを始めとした和洋折衷の雰囲気を感じる茶色弁当だった。
「カツサンドが好きで辛いものが苦手だって聞いたから、カツをパンで挟んだだけにしたんだけど、どうかな?」
 優しい調子で晴孝が聞くと、海月は恐る恐るカツサンドを口に入れた。小さな口を大きく開けて口に含み、咀嚼する。何度か噛むと、探るような視線の定まらない表情が現実に戻ってきて、驚きと幸せそうな色に染まった。
「美味しい! 最高!」
 ニコニコと嬉しそうにカツサンドを食べる。弘文と晴孝は二人で顔を見合わせ、同時にホッと肩の力を抜いてから食べ始めた。海月は大人たちの様子は気にせず、自分の分に口をつける。晴孝の料理の味付けが気に入ったようで、どれも楽しそうに食べていた。
「気に入ってくれて良かったよ」
 晴孝が今度は何の含みもない、完全な本心で言うと、海月は力強く頷いた。
「すっごく美味しかった! ありがとう、晴孝!」
 まるで美味しいものを初めて食べたような反応を、今度は弘文がからかった。
「おいおい、俺だけのときはそんな顔しなかっただろ。お前もしかして」
「人のものに手を出す趣味はない。いずれは死ぬのにそんなことして、意味なんてないでしょ」
 途端にツン、とした様子になった。しかしそれも照れ隠しの一部だろうかと思えばかわいく見えてくるのだから不思議なものだ。

 この訪問から少しして、海月は津田に呼び出された。
「池田さん、司城さんとは面識があるよね?」
「はい。何度か面会してます」
「その人たちから、養子縁組の相談が来てるの」
「――――――――は?」
 海月は言われたことを一瞬理解できなかった。津田が言うには、海月を自分たちの娘として引き取り、本人が望むなら治療を受けさせてやりたいという申し出があったらしい。
「池田さんはまだ若いから、病気がある程度進行してもまだ軌道修正できると思うの。でも、池田さんはどう考えるかなと思って」
 いきなり言われても。というのが率直な感想だ。今までずっと死ぬことを前提に生きてきたのだ。それなのに、急に生の道示されても、困る。どうして、なんで、何の理由があって。疑問と混乱だけが頭の中をぐるぐると回って働かない。
「もちろん、嫌だったから拒否もできるからね」
「それはないです!」
 つい、口をついて出た。口に出て、初めて分かった。
「あたし、まだ、生きてたい………………」
 死ぬことを怖がってはいない。しかし、まだ死にたくはない。相反するような願いは確かに海月の中に共存していた。
 かくして、池田海月は司城海月になったのである。


 階段を上ってくる音がして目が覚めた。どうやら今に至るまでの夢を見ていたらしい。
(ゆめ、か…………)
 ぼんやりとしていた頭が徐々にはっきりしてきた。ここは司城家の、自分の部屋だ。
「あれ、起きてたか」
 控え目なノックのあとに晴孝が入ってきた。やはり買い物に出ていたのだろう。それなりの服を着ている。
「夢を見たの」
「そっか。いい夢だったかい?」
「分かんない」
 ふへへ、と笑いながら海月はベッド横に座り込む晴孝に、布団の中から手を出す。晴孝はその手を握ってつないでくれた。
「ねぇ父さん、あたし、ずっとパパと会ってたけど、嫌じゃなかったの?」
 自分のパートナーが異性と会っているというのは、時として事件につながりかねないほどの嫉妬を湧き起こすものだ。海月は少しだけ心配になった。
「気にはなっていたけどね、きみに横恋慕の気持ちがないことくらい、会った瞬間に分かったよ」
「父さん、変に鋭いよね」
「きみの父さんだからね。海月、調子はどうだい?」
「微熱。ねぇ父さん、お腹すいた」
 じゃあ何か作ろうか。そう言ってくれる、安心できる相手がいることを、海月はこっそりと噛みしめた。
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