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DIVAの定義
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近年では『年越しライブ』というものが流行っている。新しもの好きとして知られる歌姫、音羽も、今年は『年越しコンサート』なるものを開催した。ダンスの経験もある音羽はどれだけ激しく踊っても乱れない、抜群の肺活量と歌唱力を持っている。人生初となる年越しコンサートでは類まれなる歌唱力と、ずば抜けた運動能力、人々を飽きさせない多彩な演出で工夫を凝らし、拍手の雨を浴びた。
音羽は汗拭きシートで汗を拭ってから服を着替え、関係者入り口で待っていた旧友のエリカを伴って、近所にある個室の焼き肉店に向かった。
「正月の夜中に二十代の女二人で焼肉ですか」
個室は座敷になっている。靴を脱ぎながらエリカがボヤいた。
「お腹すいたの。まだ若いんだし、消化できるよ」
呆れるエリカをよそに音羽はメニュー表を開いて肉を厳選し始めた。呆れの様子を見せているエリカだが、音羽が先ほどまで雪もちらつく真冬だというのに、ほぼ水着のような露出度の衣装に身を包んで滝のような量の汗をかきながらも歌とダンスの圧倒的な実力を披露していた、と考え何もいないことを選んだ。代わりに音羽が脱ぎ散らかしたコートについての小言を言う。
「焼肉屋行くのにファー付きのコートってどうなんです」
「それあんま着ないやつ」
裾と袖口と襟に黒のファーがついた品のいいコート。匂いが付いたらそう簡単に取れないように思われるコートだが、音羽はそれでいいらしい。エリカは自分のレザーコートの横に音羽の分をかけてから対面に座る。この店のシステムはタブレット注文らしく、各々が食べたい肉を卓上のタブレットで選んだ。
「エリカ飲む?」
ドリンクを選びながら音羽が尋ねた。
「飲みますよ。店の在庫、空にしてやりましょう」
「禁酒してたんじゃないの?」
「もう終わりましたよ」
海外で活動することが多いエリカと、国内での活動が多い音羽。二人が最後に会ったのは三年前。エリカが二十三歳、音羽が二十一歳の頃だ。エリカは大学卒業後すぐに本格的な海外活動を開始したために環境の変化に追いつけず、体調を崩しがちだったらしい。健康のためにと酒豪の酒好きでありながら、禁酒をしていた。
「三年ぶりだっけ」
「えぇ。というと、あのころ二十一歳だったから……あなたもう二十四歳ですか」
「そうだよ。エリカが二十六でしょ? 妹は十九歳」
「早いですねぇ」
エリカはしみじみと時の流れを噛みしめるように呟いた。音羽はババ臭いと思いながらも口には出さない。口に出したら殴られることが分かりきっているからだ。
「妹さん、元気ですか」
「うん。今は保育の専門学校に行ってる」
「保育に進んだんですか」
「意外だよねぇ。どっちかというと子ども嫌いなのに」
音羽は妹の姿を思い浮かべた。音羽の妹は姉の自分とは異なり、新しいものより古いものを好んだ。古着やアンティーク雑貨や歴史。そう言ったものを一等愛していて、音羽自身も周囲も、てっきりその道に行くのだとばかり思っていた。
「学芸員にでもなるのかと思ってたけどね」
「私もそう思ってました。どういう心境の変化で?」
「さぁね。今度会ったら聞けばいいんじゃない?」
音羽がそっけない返事をする。すると、そのタイミングで個室の襖が開いて、店員が入ってきた。酒類だけが先に届き、乾杯をしてしばらく談笑していると、いよいよ肉が届く。空腹に耐えかねていた音羽はせっせと肉を焼き始めた。
「じゃ、焼くよー。エリカはこっちね」
「はいはい」
大まかに網をそれぞれの陣地に分けて肉を広げる。二人の間にある鉄板がじゅうじゅうと音を立てると、ふと会話が途切れた。
肉の焼ける音を見ながら、エリカは窓に目をやる。この日はコンサートが始まった時間から雪がちらついていて、この焼き肉店に来たときもはらはらと雪が降っていた。ところが、今は少し強まってしんしんと雪が降っている。しかしその雪で、雪の名を冠する人を思い出した。二人の年齢が十歳にも満たないころから指導し、二人が『歌姫』と呼ばれるほどに育ててくれた、二人の師。
「先生はお元気ですか?」
かすれて妙に儚げな声が出た。
「元気すぎるくらいだよ。今日も紅白蹴って松井さんと一緒にディナー行った。ちょっと前なんて、年末の大掃除だから徹底的にしたいって言ってぞうきん大量生産してた。松井さんに使いきれないだろって怒られてたし」
「え、先生まだ篠原雪乃なんですか」
「早くしろって話だよね。お互いもう五十六なんだしさ」
思わずエリカは窓から音羽の方に顔を向ける。驚いた様子のエリカとは対照的に、音羽は淡々とした様子で肉を焼いて口に運んでいた。表情を乗せれば愛らしいことこの上ない童顔は、素の状態である仏頂面だ。
「出会ってもう…………四十三年じゃないですか」
雪乃と松井は中学校時代の同級生だ。果てのない友情はいつしか双方、愛情に変わっていったが、明確な名前を付けることも、変化が生じることもなく、なあなあで時が過ぎた。具体的には、同級生から友人に、友人から女優とマネージャーに、そして昔馴染みになるといった具合である。
「なんか踏ん切りつかないんだってさ。松井さんに聞いたら『雪乃がいいと言うならしなくても』だって。先生はまんざらでもないみたいだけど、鈍感同士で困るっていうか」
ずっと日本にいるため、二人と関わることも多い音羽はそう愚痴をこぼした。実際、海外にいるエリカ以外に雪乃と松井、両方と関わりがあり、いざというときに間に立てるのは音羽しかいない。そのため音羽は貧乏くじを引くことが多かった。
「言い方を慎みなさい」
音羽の愚痴に難色を示すのはいつもエリカだ。エリカは篠原雪乃を神仏のごとく敬い、もはや信仰のように尊んでいる。対して音羽は雪乃を尊敬すべき憧れの人としながらも、盲目的に信じる気にはならなかった。しょせんは刺せば死ぬ人間だからだ。
「はいはい。エリカも冷める前に食べなよ。ほら」
音羽はエリカの小言の類は聞き流すことにしている。そして、甲斐甲斐しくエリカの皿にヒレ肉を中心とした低カロリーの肉を選んで乗せた。
「かわいい爪ですね」
皿に肉を乗せてくれる年相応に大人びた指の先に、黒猫がいた。爪全体に猫がいるのではなく、白いネイルチップの爪の先に猫の顔が描かれているものだ。アレンジ次第では思いきり派手にできそうなデザインだが、今は小さなパーツが乗っているだけ。おそらくは音羽本人があまり派手なデザインを好まないからだろう。
「あぁ、今回のメインテーマが『黒猫』だったから」
言われて思い出した音羽は、自分の方に爪を引き寄せて見下ろした。普段はネイルをしない派閥の音羽だが、せっかくだからと頼んだのだ。
「細かい演出ですね」
「メイクさんがやってくれた。今日限りだし、簡単だから普段使いできますよって」
エリカに爪を見せながら音羽が説明した。白いベースの上に黒猫が乗っかっているネイルは難しそうだ。本当に簡単にできるのだろうか、とエリカは首を傾げた。
「教えてあげよっか?」
「できるんですか」
「教えてもらったからね」
素っ気ない返事をした音羽は空腹に耐えかねたのか、ひとまず箸で肉と白米を口に入れる。咀嚼をしながらバッグの中に入っているメモ帳を取り出して、ボールペンでネイルのやり方を書き、エリカに渡した。
「あら、本当に簡単ですね。子どもでもやりやすそう」
「ネットで見たんだけど、タピオカのストローがネイルチップの代わりになるらしいよ。珍しいね、子ども嫌いなのにそんなこというの」
ジョッキのビールを飲みながら、音羽は本当に物珍しそうに言った。音羽の妹と同じく、エリカは昔から子ども嫌いである。子どもがいるような場所はどこだって避けるほどだ。
「客観的な事実ですよ。子ども向けのおしゃれはいつの時代も需要があります」
したり顔で言って、エリカはメモ帳を手帳に挟み込んだ。
「そういえばさ、エリカあの服やめたんだね」
「あの服?」
「前に会ったときさ、流行りだって言ってワンピース着てたじゃん」
「流行りに乗るのはDIVAらしくないのでね。モデルは副業なんですよ」
天女のごとき美しさを持つエリカはスタイルもよく、副業でモデルもしている。普段着では露出は少ないが体のラインが出るパンツスタイルが多いが、一時期は流行の最先端にいるモデルらしくしようと、好きでもないワンピースを着ていたことがある。以前、音羽と会ったときに着ていたのも、黒のゆったりとしたワンピースだった。似合ってはいたが、珍しいこともあるものだと不思議に思ったのも事実である。
「ふーん」
「あなたこそ今日はずいぶんと可愛らしい」
「いいでしょ、黒のニットワンピ」
今日の音羽が着ているのは、小さな赤いハートがちりばめられた黒いニットワンピース。普段はカジュアルでアクティブな服装が多い音羽だが、今日はテイストが違った。
「臭くなりますよ」
「これあんま着ないやつ」
コートのときと同じ返答がきた。
「デート向きなのに?」
「相手いないし」
「おや意外。スキャンダル対策で黙ってるんですか? この私に?」
「だからいないんだって。後ろにしっぽがついてるから、コンサートのテーマにあってると思って、気合入れたいから着てきただけ」
机に頬杖をついて精神的に詰めよってくるエリカから離れようと、音羽は反射的に半身を後ろに退いた。
「あなたも二十四なんですから浮いた話の一つや二つあるでしょう」
水を得た魚のように、何やら楽しそうにエリカが詰めよった。
「ないって。私は歌で生きてるの。エリカこそ、もう二十六なんだから、何かあるんじゃないの?」
「私は海外を飛び回っているので忙しいんですよ」
「私だって国内だけど忙しいよ」
しばらく押し問答が続いた。音羽は不意に思い出す。そういえば、この三つ上の幼馴染は、そういえば恋バナが好きだったな、と。しかし残念ながら音羽は歌に注力して生きてきた上に、エリカほどの美しさも、雪乃と松井ほどの仲の良い異性もいない。どうやってエリカの追及から逃れようか、音羽は必死に否定を繰り返した。
「久しぶりに恋バナでもしましょうよ」
「したことないでしょ」
「まあいいじゃないですか」
「酔っ払い勘弁してよ」
「あなたも酔っ払いですよ」
酔っ払いとは厄介なもので、エリカの恋バナという名の追及はそれから小一時間ほど続いた。音羽はどうにかこうにかエリカの意識を焼肉の方に戻させ、食事を終えた。行くところがあるというエリカは、音羽の呼んだタクシーで駅とは反対の方向に行むかった。一方で、電車で帰る音羽は、酔い覚ましのために徒歩で駅まで向かった。
相変わらず雪の降っている寒い日だが、二つ上の相弟子と久々に会うことができた音羽の心は軽かった。
というのが二年前。お盆の時期に発売する新しいアルバムのレコーディングも終え、少しばかりの夏休みをもらった音羽は、早々に雪乃の家に呼び出された。何やら忙しそうにしている家主であり師匠の雪乃を放って、冷房の効いたリビングで夕方のニュースを見ていたところ、テレビ画面が速報の中継画面に切り替わった。
――――クルーズ船「フリーデリケ」沈没。乗客総勢、五百人が海上で遭難。
「せんせぇ、クルーズ船が沈没ですって」
少し遠くにいる雪乃に、声を張って言った。
「まぁ、この時期だからなぁ。これだけ暑いとそりゃあ、船の一つや二つ沈むだろ」
雪乃は慌ただしく作業をしながら適当に返事をした。
――――船内では「脱出ゲーム」イベントが開催予定。
――――クルーズ船所有者兼主催者の十条敷鱒二氏、行方不明。参加者と乗務員が捜索するも見つからず。関係者の証言によると――――
「脱出ゲーム企画してた主催者が行方不明ですって」
「飛んだんじゃないか? というか音羽! 暇なら手伝え! あと十分であいつ来るんだぞ」
「えー」
「えーじゃない!」
雪乃に怒られ、ようやく立ち上がって手伝おうとしたところで、画面が現場でのインタビュー映像に切り替わった。クルーズ船「フリーデリケ」の所有者であり、脱出ゲームの主催者であり、行方不明者、十条敷鱒二の孫娘、亜里香が映っている。
「十条敷さんの行方について心当たりは?」
「何かおかしなところはありませんでしたか?」
「脱出ゲームはどのように行われる予定だったんでしょうか?」
「泣いてないで答えてください!」
などと、遠慮と配慮とデリカシーを知らない無礼な記者団が、五歳とテロップが表示されている女の子を取り囲んで質問攻めにしている。とてもじゃないが見ていられない。混乱と不安で泣いてしまっている亜里香に手を差し伸べる者もいない。それどころか、マイクとカメラを押し付けて、さらに助長させている。
(この現代にこれはないでしょ。絶対ネットで炎上してる)
教育の行き届いていない記者団の様子に耐えかねてチャンネルを変えようとしたところで、亜里香の指先が目に入った。
「音羽! 早く手伝え!」
「ちょっと待ってせんせぇ。これだけ!」
音羽は忙しなく涙を拭っている亜里香の指先を注視した。小さい上に忙しなく動いているため、あまりよく見えない。しかし、小さな爪の上にピンク色の何かが乗っていて、その上に黒猫が描いてある。
「いい大人が、あまり彼女に無理をさせないでください」
聞き慣れた声が画面の外から入ってきた。記者団をかき分けて亜里香に近づいてきたのは、フェミニンで品のある服に身を包んだエリカだ。
「世界的歌手のエリカさん! どうしてあなたがここに⁉」
「招待されましたので」
「エリカちゃん!」
亜里香はエリカの声に安心したのか、ほっとした様子で泣くのをやめた。エリカの方へと両手を伸ばし、エリカはそれに応えようとかがむ。
「亜里香さんや十条敷さんとはどのような語関係で?」
「以前、仕事でお会いしたことがあります。亜里香ちゃん、行きましょうか」
エリカは記者団の不躾な質問を、いつもの厭世的でダウナーな調子を保ちながら打ち返し、亜里香を抱き上げながらカメラを一瞥した。
「これから警察からの事情聴取がありますので。以降のことは警察と会社と事務所を通してください」
きっぱりと言い切って、他の参加者や警察のいる方へ歩いて行った。その後を記者団が追おうとすると、いつの間にか着ていた警備員がそれを阻む。
「エリカ…………」
ワンピース、禁酒、子どもへ言及、そして、今の言動。音羽は深いため息をついた。
「音羽! 手伝え! 早く片付けないとあいつにまた怒られる!」
雪乃は押入れの中身を片付けながら音羽を呼びつけた。押入れ前は大変なことになっているが、そもそもの原因は、雪乃が今日の夏祭りに着ていく浴衣をどこにしまったか忘れ、押入れの奥の方にしまってあるのを見つけたために、押入れの中身を一度出したことだ。浴衣は無事に発掘できたが、物をしまう段階がまだ残っている。
「また怒られればいいじゃないですか。それで早いとこ結婚して、私たち安心させてくださいよ」
「うっ、胸が痛い!」
「それを言うなら耳でしょ。もう、しょうがない先生だなぁ」
音羽は出産祝いと喪中見舞い、どちらを送るべきか悩みながらようやく雪乃の方に向かった。念のため、テレビは消して。
深夜にインターホンが鳴った。結局夏祭りでも松井と一緒に雪乃に振り回され、くたくたになって帰ってきた音羽は、深夜の訪問者に苛立ちを覚えた。
もう一度、インターホンが鳴る。
「はーっ」
深く強く息を吐き、ベッドから降りてインターホンのカメラを確認した。この深夜の時間帯にオートロック式のマンションのインターホンを鳴らすのは、音羽の知り合いの中では一人しかいない。
「音羽、こんな深夜にすみません。入っていいですか」
「――――いいよ。今開ける」
オートロックの鍵を開け、一分ほどで部屋の前に来たエリカを招き入れた。昼間のテレビで見たフェミニンな服装は黒のパンツドレスだったようだ。エリカは申し訳なさそうな様子でありながら、今一つ心ここにない様子でリビングのソファに座った。
「寝てましたよね、すみません」
「いいよ、別に」
浅く腰かけて、膝の上に置いた自分の手を見つめている。相当ショックを受けているようだ。音羽はキッチンに立つと、二人分のホットミルクを入れた。夏場だが、こういうときは温かいものの方がいいだろう。
「はい」
「ありがとうございます」
エリカと目が合わないのは初めてだった。子どもの頃、初対面のときでもエリカは絶対に音羽から目を逸らさなかった。音羽は人の目を見ることに圧迫感を覚えるために滅多に人の目を見ることはないが、エリカは違う。それだけ目の前にいる人をよく見ようとしているのだ。
なんと切り出したものか。音羽はエリカの横に座りながら思案した。
「ねぇ」
エリカの体がわずかに震えた。取って食いやしないのに。気付いていないふりをして言葉を続けた。
「シャワー使う? 服のサイズ合うかわかんないけど」
音羽の身長は一五八センチ。日本人女性の平均身長ほどだが、エリカは一七二センチの高身長だ。部屋着はオーバーサイズを好む音羽だが、果たしてエリカに合うサイズの服はあるだろうか。
「いえ。大丈夫です。もう、そんな元気もなくて」
声に覇気がない。何を言っても突き返されそうなエリカに様子に、音羽は困惑し、対応しかねた。
(何を言っても脈なしか。私ができることって、何だろう)
何を言えばいいのか、何を聞けばいいのか、そもそも何があったのか。音羽は何も知らない。
(心の傷があるほうが色気があるっていうけど、本当なんだな)
元から気だるげな色気があると同性ながら思っていたが、まさか今になって増すことがあるのか。試しに現実逃避をしてみたが、現実は変わらない。こんなことなら、愚痴に付き合えと言われる方がまだマシだなと思いつつ、現状を持て余して部屋を見渡す。
キッチンに、置きっぱなしの酒が見えた。大きな瓶のものを買って、少しずつ飲もうと思っていたものだ。そこまで高い酒ではないし、音羽自身が酒に弱いというわけでもないが、コンデションを整えるために酒は飲んでも三杯まで、と決めている。これを使うか、と音羽は立ち上がってキッチンに向かい、二人分のおちょこと一緒に酒瓶を持ってきてソファ前のテーブルに置いた。
「飲むんですか? もう日付変わりますよ」
「献杯だよ。け・ん・ぱ・い」
はい、といつもの調子でおちょこを押しつけ、酒を注ぐ。エリカが無気力におちょこを支えているのをいいことに、音羽は勝手におちょこを合わせてぐい、と飲み込んだ。その様子を観察して、まるで生まれて初めて酒を飲むかのごとく、薄い唇におちょこを押し付けた。その動作だけでもこれだけ色っぽいのだから、美女とはずるいものである。
エリカは目に見えて疲れている。憔悴、というよりは疲労困憊の方が適切だろうか。試しにつまみを取りやすいようにパーティー開きにしてみたが、手を付ける様子がない。
「エリカ、食べていいよ」
声をかけてみても、曖昧な返事しかよこさない。心ここにあらずと言った様子で、どこかぼんやりしている。夜中にふらふらと家を出て、どこかに行ってしまいそうな不安定さすら感じた。姿勢も悪いし、肌も疲れていて、化粧もよれている。
「あの記者団はないよね」
「え?」
ようやくエリカの意識がこちらに帰ってきた。またどこかに行かないように、音羽はそのまま話し続けた。
「失礼がポイント制ならカンスト超えて青天井だよね」
ニュースを見ていて、腹が立った。少しの言動がハラスメントとして取り沙汰されるこの現代で、よくもまあ、あんな行いができたものだと思ったのだ。煙に巻くのが得意なエリカが毅然とした態度で立ち向かっていたのに、胸がすく思いがした。
「…………本当に。女の子一人を囲って言いたい放題。子どもの気持ちをまるで慮ってない。あんなのでマスコミを名乗れるものですか」
忌々しい。そう吐き捨てて、酒を飲み込んだ。少しだけ、調子が戻ってきたようだ。
「マスゴミ、って言うらしいよ。ネットでも大炎上してた」
「マスゴミ、と大炎上。ふふ、いい気味です」
下がりっぱなしだった口角が上がり、頬に少しだけ血の色が戻ってきた。化粧で誤魔化していない、自然な桃色だ。酒で血行が良くなっているのも影響しているのだろうか。音羽はそれに安堵しつつも、何があったのかを把握するためにあくまで自然な体を装って、おちょこに酒を注ぎながら口を開いた。
「ねぇ、合意?」
「今それを聞きます?」
無神経だ、とでもいうように、エリカが眉をひそめた。しかしあいにく、それで怯むような音羽ではないし、それが分からないエリカでもない。音羽は回りくどいことが嫌いで、性に合わないのだ。
「いや、合意があるんなら別に構わないんだけどさ。ちょっと調べたけど、行方不明の十条敷鱒二って、今年で六十一なんでしょ。先生たちよりも年上なんだなって」
「………………つまり?」
「私ほどじゃないけど体力あるエリカによくついて「やめなさい」……エリカが言えって言ったんじゃん」
ため息をつきながら酒を飲む。こうして音羽にツッコミを入れられる程度には精神が回復したようだ。しかし、雪乃のことを話題に出したせいか、どこか落ち着きのない様子になった。
「安心しなよ、まだバレてない。世間と先生にはね」
「そ、そうですか。――――――よかった」
ほっと、胸をなでおろす。口に出すつもりのない本音が明らかに零れて落ちた。それに対して、音羽は期待が外れた時に感じる、落胆に近い感情を抱いた。
(やっぱり、信仰か)
エリカにとって雪乃は、人生の師匠であり指針であり信仰対象だ。
篠原雪乃は、今でこそ自らが表舞台に立つよりも後進を育てることに重きを置き始めているが、本来は宝塚歌劇団出身の元男役だ。卒業後にミュージカル女優としての名を馳せ、数年にわたる留学でオペラを収得して、更なる飛躍を遂げた。執着にも近い歌へのストイックな姿勢と実力。歌と経歴に隠れてあまり取り上げられることは少ないが、年々増していく艶やかさと凛とした宝石のような美しさ。よく、美しい女性を『傾国の美女』などと表現することがあるが、雪乃の場合は『建国顔』が適切か。世間ではよく『ミューズ』と称されている。雪乃の存在は音楽界や芸能界のみならず、多くの人に知られている。間違いなく、国民的歌手と言えるだろう。
そんな凛々しい雪乃に、エリカは心酔した。子どもの頃からその心酔ぶりは変わらずで、大人になれば落ち着くだろうと音羽は推測していたが、どうにもそうはいかなかったらしい。雪乃から教わった歌に、エリカは命を懸けた。真摯に、真面目に、どこまでも熱心に取り組んだ。
(信仰や尊敬は勝手だけどね)
身を滅ぼすような、身を縛るような尊敬の仕方は、カルト宗教の域に近い。絶対に知られたくないことを、絶対に知られたくない人に知られずにいる安堵感はいかなるものだろうか。気にはなる。音羽がそれを知る日は来ないだろう。
「合意、でしたね。――――――あると言えばあるし、ないと言えばないです」
黙っていると、今度はエリカが口を開いた。
「その心は?」
「謎かけじゃないんですよ。――――――海外には、子を想う母の歌が多いんです。だから、いえ、こういう言い方はいけませんね。一度だけ、人の親になってみたかった。娘を持つ母親の気持ちがどんなものか、気になったんです」
「あくまでも、歌のためにって?」
「最初だけ。でも、歌に責任を押しつけることはできない。もちろんあの人にも、あの子にも」
「ふうん」
「あなたも、分かるでしょう。同じDIVAなんですから」
そうだね、というには、間が開いた。エリカへの下火の劣等感がそうさせる。
エリカの歌は、――――本人もそうだが――――魔性だ。エリカはどんな曲でも自分のものにしてしまう。完璧な分析と解釈、そして表現力で歌を落とし込み、奏でることでその場を支配する。天使の歌声では生ぬるい、聞いたものをすべて自分の虜にする、本物のDIVAの歌。
対して、音羽は特殊だ。いわゆる一点特化型というやつで、どんな形式の歌でも歌える代わりに、歌に共感できないとなにも表現できない。ラップでも、長唄でも、なんでもそうだ。歌の内容にわずかでも共感すれば、音羽はこの世の道理を超越する、それこそ歌姫としての実力を発揮し、聞いたものの心に届けることが可能だ。
音羽は達観した子どもであった。それゆえに、早いうちから自分とエリカの違いを理解していた。一時期はエリカに追いつこうとしたこともあったが、すぐに無理だと察して自分の強みを探すことにした。あまりにも、自分とかけ離れていたのだ。才能はもちろんのこと、それを発揮するために努力を惜しまない女、それがエリカだった。音羽が雪乃の弟子と言える存在になったのは六歳の頃だったが、エリカは当時九歳にして英語は二級に合格して、同時進行でラテン語の基礎的な単語や構造を理解していた。今でこそ音羽もイタリア語とフランス語の歌を歌えるほどにはなったが、日常会話は挨拶とごく簡単なやり取りしかできない。
暇さえあればそれが三分であっても発声や楽譜の確認に費やし、自分には歌以外の道がないのだと定めて突き進んでいた。対して、音羽はすごく現実的というか、冷めていた。もちろん、国民的歌手と呼ばれる人に師事している自負はあった。そのため一倍努力していたし、英語には馴染みがあったため、当時から洋楽は得意だった。しかし、いつまでも成熟しない幼顔に、平均の域を出ない体躯、そして、共感がなければ何もできない己の歌唱力は、静かにエリカとの差を主張しているようで、音羽の心をえぐった。
「本当は、先生のように、ああいう人と出会いたかった」
エリカが酒を飲みながら寂しげに言う。いつのまにか手酌で酒を注ぐほどの気力を取り戻していたらしい。
「……………………ねぇ。取り調べ時間かかった?」
それに乗じて、音羽も一度ネガティブな考えを封じ込んだ。深夜に考え事をするとろくなことにならない。
「え? えぇ。なにしろ人が多いですからね。待たされましたよ」
「カツ丼出た?」
「あれ自分で頼んで自分でお金払うんですよ。食べません」
「丼もの嫌いだもんね」
くだらない会話をする程度の元気も出て来たらしい。嫉妬と劣等感はさておき、安堵した。二つしか違わない相弟子が嫌いなわけではない。
「ねぇ、シャワー浴びなよ。肌に悪い」
試しにもう一度、風呂を進めてみた。綺麗好きなエリカならはい、というだろうと考えてのことだ。
「いいんですか?」
「下着はそのまま使ってもらうことになるけど、オーバーサイズだし、服ならたぶん貸せるんじゃない?」
「かなり身長差ありますよね」
「裸で寝るよりマシでしょ。帰ったっていいんだよ」
「嫌です。意地でも居座りますよ」
「そんな元気があるなら大丈夫だね。早く汗流しな」
酔いが回り始めている。そう察した音羽はまだ飲み足りないという様子のエリカから酒の入ったおちょこを没収してキッチンに持っていき、シンクに沈めた。酒は栓をしてから冷蔵庫に入れておけば勝手にエリカが漁ることもない。
「ナイトブラくらいなら貸すから」
半ば強引にエリカを風呂に押し込み、音羽は片づけをしてからベッドに入った。自室の時計を確認すると、時刻は日付を回った深夜一時。
(夏休みでよかった)
仕事がないことに安堵しながら目を閉じる。せっかく寝ていたのに、エリカのせいで目が覚めてしまった。すぐには寝付けないだろう。
(DIVA、か)
エリカに言われた称号を反芻した。
エリカも音羽も、確かな実力と歌への情熱、ストイックな精神を持つ。いつからか、世の中は二人を『DIVA』と呼ぶようになった。特に音羽は『歌姫の寵児』とも呼ばれている。雪乃の弟子であることからつけられた異名だが、音羽にしてみれば、寵児はエリカの方だった。
(歌い方も、歌への向かい方も。情熱と高潔さも。絶対に私よりエリカの方が上だ。でも、エリカは確かに単独での印象が強いかも)
いい歳をして、師匠の影から出ることもかなわない。そんな歌手を、果たしてDIVAと呼べるのだろうか。強引に抑え込んだはずの劣等感が首をもたげる。
音羽とて、プライドがないわけではない。毎日発声練習や基礎練習をしていたし、子どもの頃から英語以外にも、近所にあった外国語教室のドイツ語講座を受講していた。大学で学んだだけのイタリア語とフランス語の日常使用には不安が残るが、そもそも歌であれば問題はない。それがドイツ語であれば日本語、英語と同じくらい上手く使える自信がある。ラップや長唄などの幅広い歌を心得ているから、リズム感覚も人より頭一つ抜けていい自覚もある。
それに、容姿も歌への順応性もエリカには劣るが、ダンスの能力だけは負けない。歌手も体力仕事のため、エリカだって体力はある。しかし、運動が得意ではないエリカと違って、音羽は身体能力が高い。体力テストも球技も、並外れた体力と一度動いたら覚える記憶能力によって、表彰されるほどの実力を身につけた。
歌以外にも武器がないと生きていけない、若くしてそう悟ったために、親が習っていた社交ダンスに始まるダンス全般を磨き、圧倒的なダンス能力を得た。広い会場を縦横無尽に踊り狂いながらも、絶対に音は外れないし、歌も途切れない。いつぞやの年越しコンサートではコンテンポラリーダンスやアクロバティックな技を披露しながらもいっさい音を外さず、トークのときはともかく歌っているときは絶対に息を乱さなかった。聴覚を支配して心に直接感動を届け、視覚的に楽しませることも忘れない。
歌手としての自分を評価することほど烏滸がましいことはないが、エンターテイナーとしての自分については、絶対的な自信があった。そうして、一部分のみでも自分に自信を持たせることで、エリカへの劣等感を抑え、たまにセンチメンタルになったときのみ嫉妬の炎が下火で燃えるようにする。一番身近な人間がこうも超人的だと、こうして人間は大人になるのだ。
おもむろに、音羽は枕元に置きっぱなしにしていたスマホを手に取り、無意識にネットニュースを開いた。半ばわかっていたが、やはりフリーデリケ沈没に関する報道と、記者団への批判がニュースの大半を占めている。
――――クルーズ船「フリーデリケ」沈没 同乗者には花桐グループ令息と世界的ミューズEricaの姿も――――
一つの見出しが目に入った。ローマ字表記の『Erica』はエリカの芸名だ。花桐グループは確か、十条敷鱒二の会社と懇意にしていたのではなかったか。しかし、それよりも。
(ミューズ、ね)
ミューズは神話に出てくる九人の女神のことで、みな乙女である。つまりはそう言う意味だ。松井という異性と何十年も共にいながら何の進展もない雪乃は、そういう意味ではまっとうに乙女だと言える。
「ちょっと、勝手に電気消してベッド行かないでくださいよ」
思考を中断する声が頭上から聞こえた。目を開けると、オーバーサイズでもやや寸足らずに見える部屋着を着た、すっぴんのエリカが立っていた。美人はすっぴんでも美人だな、と何の生産性もない感想を抱く。それより、このあとに続く言葉が想像できてしまって、無意識に抵抗した。
「タオルは出してたでしょ」
「入れなさい。この家客間ないでしょ」
「リビングのやつソファベッド。勝手に使ってよ」
睡眠も思考も邪魔されて、さすがにいらだった。面倒くさいという心情を隠しもせずに口調に乗せながら言って、反対の方に寝返りを打つ。しかしそれで諦めるエリカではない。
「嫌ですよ体痛くなる。ほら、ちょっと詰めなさいって」
エリカは布団をめくって強引に侵入してきた。さすがに音羽も押し出そうと抵抗するがエリカは構いやしない。
「ちゃんと冬用の布団かけておいたじゃん。ちょ、やめろって」
「いいでしょう同性なんですから」
「お互いいくつだと思ってんの。きついって。ねぇこれシングルサイズ!」
「お互い細いんだから、入るでしょう」
乱暴にしても、やはり美術品のような美しい肉の器に傷をつけることは憚られる。結局は少し遠慮したのがあだになり、侵入を許してしまった。シングルサイズの二人使用は、いくら細身とはいえ成人女性二人のため、きついものがある。拗ねた音羽はエリカに背を向けて布団にくるまった。涼しい室内とはいえ、二人分の体温がある布団のなかはやや暖かすぎる。
「はぁ、ようやく寝られそう」
「こっちのセリフだよ」
いっそ清々しいほどの暴挙に苛立ちながら返すと、エリカは慣れた様子で口だけの謝罪をよこした。しかし、いつもなら反撃のように続く皮肉のような嫌みのような軽口が聞こえない。気になって振り返ってみると、エリカは寝落ちしていた。よく見れば、ケアの痕跡が見られる肌にも疲労の色が戻っている。酒精が抜けたらしい。昼間に考えていたことの答えが、ようやく出てきた。
「………………残暑見舞いかな」
音羽は小さな声で言って、目を閉じた。隣で寝ている人間の呼吸音が聞こえてくると、いつの間にか自分も眠くなってくる。意識がぼんやりと滲んだ。これなら寝られそうだ。
先進的で革新的で行動的な乙女である雪乃はミューズ、師匠も歌も心から愛し歌のために生きて飛躍のために純潔を捨てたエリカはDIVA、共感によってのみ卓越した歌唱力を披露できる乙女の音羽はDIVAであり歌姫の寵児。果たして本物のDIVAとはなんで、誰が最適なのだろう。眠りの淵で考えた。
音羽は汗拭きシートで汗を拭ってから服を着替え、関係者入り口で待っていた旧友のエリカを伴って、近所にある個室の焼き肉店に向かった。
「正月の夜中に二十代の女二人で焼肉ですか」
個室は座敷になっている。靴を脱ぎながらエリカがボヤいた。
「お腹すいたの。まだ若いんだし、消化できるよ」
呆れるエリカをよそに音羽はメニュー表を開いて肉を厳選し始めた。呆れの様子を見せているエリカだが、音羽が先ほどまで雪もちらつく真冬だというのに、ほぼ水着のような露出度の衣装に身を包んで滝のような量の汗をかきながらも歌とダンスの圧倒的な実力を披露していた、と考え何もいないことを選んだ。代わりに音羽が脱ぎ散らかしたコートについての小言を言う。
「焼肉屋行くのにファー付きのコートってどうなんです」
「それあんま着ないやつ」
裾と袖口と襟に黒のファーがついた品のいいコート。匂いが付いたらそう簡単に取れないように思われるコートだが、音羽はそれでいいらしい。エリカは自分のレザーコートの横に音羽の分をかけてから対面に座る。この店のシステムはタブレット注文らしく、各々が食べたい肉を卓上のタブレットで選んだ。
「エリカ飲む?」
ドリンクを選びながら音羽が尋ねた。
「飲みますよ。店の在庫、空にしてやりましょう」
「禁酒してたんじゃないの?」
「もう終わりましたよ」
海外で活動することが多いエリカと、国内での活動が多い音羽。二人が最後に会ったのは三年前。エリカが二十三歳、音羽が二十一歳の頃だ。エリカは大学卒業後すぐに本格的な海外活動を開始したために環境の変化に追いつけず、体調を崩しがちだったらしい。健康のためにと酒豪の酒好きでありながら、禁酒をしていた。
「三年ぶりだっけ」
「えぇ。というと、あのころ二十一歳だったから……あなたもう二十四歳ですか」
「そうだよ。エリカが二十六でしょ? 妹は十九歳」
「早いですねぇ」
エリカはしみじみと時の流れを噛みしめるように呟いた。音羽はババ臭いと思いながらも口には出さない。口に出したら殴られることが分かりきっているからだ。
「妹さん、元気ですか」
「うん。今は保育の専門学校に行ってる」
「保育に進んだんですか」
「意外だよねぇ。どっちかというと子ども嫌いなのに」
音羽は妹の姿を思い浮かべた。音羽の妹は姉の自分とは異なり、新しいものより古いものを好んだ。古着やアンティーク雑貨や歴史。そう言ったものを一等愛していて、音羽自身も周囲も、てっきりその道に行くのだとばかり思っていた。
「学芸員にでもなるのかと思ってたけどね」
「私もそう思ってました。どういう心境の変化で?」
「さぁね。今度会ったら聞けばいいんじゃない?」
音羽がそっけない返事をする。すると、そのタイミングで個室の襖が開いて、店員が入ってきた。酒類だけが先に届き、乾杯をしてしばらく談笑していると、いよいよ肉が届く。空腹に耐えかねていた音羽はせっせと肉を焼き始めた。
「じゃ、焼くよー。エリカはこっちね」
「はいはい」
大まかに網をそれぞれの陣地に分けて肉を広げる。二人の間にある鉄板がじゅうじゅうと音を立てると、ふと会話が途切れた。
肉の焼ける音を見ながら、エリカは窓に目をやる。この日はコンサートが始まった時間から雪がちらついていて、この焼き肉店に来たときもはらはらと雪が降っていた。ところが、今は少し強まってしんしんと雪が降っている。しかしその雪で、雪の名を冠する人を思い出した。二人の年齢が十歳にも満たないころから指導し、二人が『歌姫』と呼ばれるほどに育ててくれた、二人の師。
「先生はお元気ですか?」
かすれて妙に儚げな声が出た。
「元気すぎるくらいだよ。今日も紅白蹴って松井さんと一緒にディナー行った。ちょっと前なんて、年末の大掃除だから徹底的にしたいって言ってぞうきん大量生産してた。松井さんに使いきれないだろって怒られてたし」
「え、先生まだ篠原雪乃なんですか」
「早くしろって話だよね。お互いもう五十六なんだしさ」
思わずエリカは窓から音羽の方に顔を向ける。驚いた様子のエリカとは対照的に、音羽は淡々とした様子で肉を焼いて口に運んでいた。表情を乗せれば愛らしいことこの上ない童顔は、素の状態である仏頂面だ。
「出会ってもう…………四十三年じゃないですか」
雪乃と松井は中学校時代の同級生だ。果てのない友情はいつしか双方、愛情に変わっていったが、明確な名前を付けることも、変化が生じることもなく、なあなあで時が過ぎた。具体的には、同級生から友人に、友人から女優とマネージャーに、そして昔馴染みになるといった具合である。
「なんか踏ん切りつかないんだってさ。松井さんに聞いたら『雪乃がいいと言うならしなくても』だって。先生はまんざらでもないみたいだけど、鈍感同士で困るっていうか」
ずっと日本にいるため、二人と関わることも多い音羽はそう愚痴をこぼした。実際、海外にいるエリカ以外に雪乃と松井、両方と関わりがあり、いざというときに間に立てるのは音羽しかいない。そのため音羽は貧乏くじを引くことが多かった。
「言い方を慎みなさい」
音羽の愚痴に難色を示すのはいつもエリカだ。エリカは篠原雪乃を神仏のごとく敬い、もはや信仰のように尊んでいる。対して音羽は雪乃を尊敬すべき憧れの人としながらも、盲目的に信じる気にはならなかった。しょせんは刺せば死ぬ人間だからだ。
「はいはい。エリカも冷める前に食べなよ。ほら」
音羽はエリカの小言の類は聞き流すことにしている。そして、甲斐甲斐しくエリカの皿にヒレ肉を中心とした低カロリーの肉を選んで乗せた。
「かわいい爪ですね」
皿に肉を乗せてくれる年相応に大人びた指の先に、黒猫がいた。爪全体に猫がいるのではなく、白いネイルチップの爪の先に猫の顔が描かれているものだ。アレンジ次第では思いきり派手にできそうなデザインだが、今は小さなパーツが乗っているだけ。おそらくは音羽本人があまり派手なデザインを好まないからだろう。
「あぁ、今回のメインテーマが『黒猫』だったから」
言われて思い出した音羽は、自分の方に爪を引き寄せて見下ろした。普段はネイルをしない派閥の音羽だが、せっかくだからと頼んだのだ。
「細かい演出ですね」
「メイクさんがやってくれた。今日限りだし、簡単だから普段使いできますよって」
エリカに爪を見せながら音羽が説明した。白いベースの上に黒猫が乗っかっているネイルは難しそうだ。本当に簡単にできるのだろうか、とエリカは首を傾げた。
「教えてあげよっか?」
「できるんですか」
「教えてもらったからね」
素っ気ない返事をした音羽は空腹に耐えかねたのか、ひとまず箸で肉と白米を口に入れる。咀嚼をしながらバッグの中に入っているメモ帳を取り出して、ボールペンでネイルのやり方を書き、エリカに渡した。
「あら、本当に簡単ですね。子どもでもやりやすそう」
「ネットで見たんだけど、タピオカのストローがネイルチップの代わりになるらしいよ。珍しいね、子ども嫌いなのにそんなこというの」
ジョッキのビールを飲みながら、音羽は本当に物珍しそうに言った。音羽の妹と同じく、エリカは昔から子ども嫌いである。子どもがいるような場所はどこだって避けるほどだ。
「客観的な事実ですよ。子ども向けのおしゃれはいつの時代も需要があります」
したり顔で言って、エリカはメモ帳を手帳に挟み込んだ。
「そういえばさ、エリカあの服やめたんだね」
「あの服?」
「前に会ったときさ、流行りだって言ってワンピース着てたじゃん」
「流行りに乗るのはDIVAらしくないのでね。モデルは副業なんですよ」
天女のごとき美しさを持つエリカはスタイルもよく、副業でモデルもしている。普段着では露出は少ないが体のラインが出るパンツスタイルが多いが、一時期は流行の最先端にいるモデルらしくしようと、好きでもないワンピースを着ていたことがある。以前、音羽と会ったときに着ていたのも、黒のゆったりとしたワンピースだった。似合ってはいたが、珍しいこともあるものだと不思議に思ったのも事実である。
「ふーん」
「あなたこそ今日はずいぶんと可愛らしい」
「いいでしょ、黒のニットワンピ」
今日の音羽が着ているのは、小さな赤いハートがちりばめられた黒いニットワンピース。普段はカジュアルでアクティブな服装が多い音羽だが、今日はテイストが違った。
「臭くなりますよ」
「これあんま着ないやつ」
コートのときと同じ返答がきた。
「デート向きなのに?」
「相手いないし」
「おや意外。スキャンダル対策で黙ってるんですか? この私に?」
「だからいないんだって。後ろにしっぽがついてるから、コンサートのテーマにあってると思って、気合入れたいから着てきただけ」
机に頬杖をついて精神的に詰めよってくるエリカから離れようと、音羽は反射的に半身を後ろに退いた。
「あなたも二十四なんですから浮いた話の一つや二つあるでしょう」
水を得た魚のように、何やら楽しそうにエリカが詰めよった。
「ないって。私は歌で生きてるの。エリカこそ、もう二十六なんだから、何かあるんじゃないの?」
「私は海外を飛び回っているので忙しいんですよ」
「私だって国内だけど忙しいよ」
しばらく押し問答が続いた。音羽は不意に思い出す。そういえば、この三つ上の幼馴染は、そういえば恋バナが好きだったな、と。しかし残念ながら音羽は歌に注力して生きてきた上に、エリカほどの美しさも、雪乃と松井ほどの仲の良い異性もいない。どうやってエリカの追及から逃れようか、音羽は必死に否定を繰り返した。
「久しぶりに恋バナでもしましょうよ」
「したことないでしょ」
「まあいいじゃないですか」
「酔っ払い勘弁してよ」
「あなたも酔っ払いですよ」
酔っ払いとは厄介なもので、エリカの恋バナという名の追及はそれから小一時間ほど続いた。音羽はどうにかこうにかエリカの意識を焼肉の方に戻させ、食事を終えた。行くところがあるというエリカは、音羽の呼んだタクシーで駅とは反対の方向に行むかった。一方で、電車で帰る音羽は、酔い覚ましのために徒歩で駅まで向かった。
相変わらず雪の降っている寒い日だが、二つ上の相弟子と久々に会うことができた音羽の心は軽かった。
というのが二年前。お盆の時期に発売する新しいアルバムのレコーディングも終え、少しばかりの夏休みをもらった音羽は、早々に雪乃の家に呼び出された。何やら忙しそうにしている家主であり師匠の雪乃を放って、冷房の効いたリビングで夕方のニュースを見ていたところ、テレビ画面が速報の中継画面に切り替わった。
――――クルーズ船「フリーデリケ」沈没。乗客総勢、五百人が海上で遭難。
「せんせぇ、クルーズ船が沈没ですって」
少し遠くにいる雪乃に、声を張って言った。
「まぁ、この時期だからなぁ。これだけ暑いとそりゃあ、船の一つや二つ沈むだろ」
雪乃は慌ただしく作業をしながら適当に返事をした。
――――船内では「脱出ゲーム」イベントが開催予定。
――――クルーズ船所有者兼主催者の十条敷鱒二氏、行方不明。参加者と乗務員が捜索するも見つからず。関係者の証言によると――――
「脱出ゲーム企画してた主催者が行方不明ですって」
「飛んだんじゃないか? というか音羽! 暇なら手伝え! あと十分であいつ来るんだぞ」
「えー」
「えーじゃない!」
雪乃に怒られ、ようやく立ち上がって手伝おうとしたところで、画面が現場でのインタビュー映像に切り替わった。クルーズ船「フリーデリケ」の所有者であり、脱出ゲームの主催者であり、行方不明者、十条敷鱒二の孫娘、亜里香が映っている。
「十条敷さんの行方について心当たりは?」
「何かおかしなところはありませんでしたか?」
「脱出ゲームはどのように行われる予定だったんでしょうか?」
「泣いてないで答えてください!」
などと、遠慮と配慮とデリカシーを知らない無礼な記者団が、五歳とテロップが表示されている女の子を取り囲んで質問攻めにしている。とてもじゃないが見ていられない。混乱と不安で泣いてしまっている亜里香に手を差し伸べる者もいない。それどころか、マイクとカメラを押し付けて、さらに助長させている。
(この現代にこれはないでしょ。絶対ネットで炎上してる)
教育の行き届いていない記者団の様子に耐えかねてチャンネルを変えようとしたところで、亜里香の指先が目に入った。
「音羽! 早く手伝え!」
「ちょっと待ってせんせぇ。これだけ!」
音羽は忙しなく涙を拭っている亜里香の指先を注視した。小さい上に忙しなく動いているため、あまりよく見えない。しかし、小さな爪の上にピンク色の何かが乗っていて、その上に黒猫が描いてある。
「いい大人が、あまり彼女に無理をさせないでください」
聞き慣れた声が画面の外から入ってきた。記者団をかき分けて亜里香に近づいてきたのは、フェミニンで品のある服に身を包んだエリカだ。
「世界的歌手のエリカさん! どうしてあなたがここに⁉」
「招待されましたので」
「エリカちゃん!」
亜里香はエリカの声に安心したのか、ほっとした様子で泣くのをやめた。エリカの方へと両手を伸ばし、エリカはそれに応えようとかがむ。
「亜里香さんや十条敷さんとはどのような語関係で?」
「以前、仕事でお会いしたことがあります。亜里香ちゃん、行きましょうか」
エリカは記者団の不躾な質問を、いつもの厭世的でダウナーな調子を保ちながら打ち返し、亜里香を抱き上げながらカメラを一瞥した。
「これから警察からの事情聴取がありますので。以降のことは警察と会社と事務所を通してください」
きっぱりと言い切って、他の参加者や警察のいる方へ歩いて行った。その後を記者団が追おうとすると、いつの間にか着ていた警備員がそれを阻む。
「エリカ…………」
ワンピース、禁酒、子どもへ言及、そして、今の言動。音羽は深いため息をついた。
「音羽! 手伝え! 早く片付けないとあいつにまた怒られる!」
雪乃は押入れの中身を片付けながら音羽を呼びつけた。押入れ前は大変なことになっているが、そもそもの原因は、雪乃が今日の夏祭りに着ていく浴衣をどこにしまったか忘れ、押入れの奥の方にしまってあるのを見つけたために、押入れの中身を一度出したことだ。浴衣は無事に発掘できたが、物をしまう段階がまだ残っている。
「また怒られればいいじゃないですか。それで早いとこ結婚して、私たち安心させてくださいよ」
「うっ、胸が痛い!」
「それを言うなら耳でしょ。もう、しょうがない先生だなぁ」
音羽は出産祝いと喪中見舞い、どちらを送るべきか悩みながらようやく雪乃の方に向かった。念のため、テレビは消して。
深夜にインターホンが鳴った。結局夏祭りでも松井と一緒に雪乃に振り回され、くたくたになって帰ってきた音羽は、深夜の訪問者に苛立ちを覚えた。
もう一度、インターホンが鳴る。
「はーっ」
深く強く息を吐き、ベッドから降りてインターホンのカメラを確認した。この深夜の時間帯にオートロック式のマンションのインターホンを鳴らすのは、音羽の知り合いの中では一人しかいない。
「音羽、こんな深夜にすみません。入っていいですか」
「――――いいよ。今開ける」
オートロックの鍵を開け、一分ほどで部屋の前に来たエリカを招き入れた。昼間のテレビで見たフェミニンな服装は黒のパンツドレスだったようだ。エリカは申し訳なさそうな様子でありながら、今一つ心ここにない様子でリビングのソファに座った。
「寝てましたよね、すみません」
「いいよ、別に」
浅く腰かけて、膝の上に置いた自分の手を見つめている。相当ショックを受けているようだ。音羽はキッチンに立つと、二人分のホットミルクを入れた。夏場だが、こういうときは温かいものの方がいいだろう。
「はい」
「ありがとうございます」
エリカと目が合わないのは初めてだった。子どもの頃、初対面のときでもエリカは絶対に音羽から目を逸らさなかった。音羽は人の目を見ることに圧迫感を覚えるために滅多に人の目を見ることはないが、エリカは違う。それだけ目の前にいる人をよく見ようとしているのだ。
なんと切り出したものか。音羽はエリカの横に座りながら思案した。
「ねぇ」
エリカの体がわずかに震えた。取って食いやしないのに。気付いていないふりをして言葉を続けた。
「シャワー使う? 服のサイズ合うかわかんないけど」
音羽の身長は一五八センチ。日本人女性の平均身長ほどだが、エリカは一七二センチの高身長だ。部屋着はオーバーサイズを好む音羽だが、果たしてエリカに合うサイズの服はあるだろうか。
「いえ。大丈夫です。もう、そんな元気もなくて」
声に覇気がない。何を言っても突き返されそうなエリカに様子に、音羽は困惑し、対応しかねた。
(何を言っても脈なしか。私ができることって、何だろう)
何を言えばいいのか、何を聞けばいいのか、そもそも何があったのか。音羽は何も知らない。
(心の傷があるほうが色気があるっていうけど、本当なんだな)
元から気だるげな色気があると同性ながら思っていたが、まさか今になって増すことがあるのか。試しに現実逃避をしてみたが、現実は変わらない。こんなことなら、愚痴に付き合えと言われる方がまだマシだなと思いつつ、現状を持て余して部屋を見渡す。
キッチンに、置きっぱなしの酒が見えた。大きな瓶のものを買って、少しずつ飲もうと思っていたものだ。そこまで高い酒ではないし、音羽自身が酒に弱いというわけでもないが、コンデションを整えるために酒は飲んでも三杯まで、と決めている。これを使うか、と音羽は立ち上がってキッチンに向かい、二人分のおちょこと一緒に酒瓶を持ってきてソファ前のテーブルに置いた。
「飲むんですか? もう日付変わりますよ」
「献杯だよ。け・ん・ぱ・い」
はい、といつもの調子でおちょこを押しつけ、酒を注ぐ。エリカが無気力におちょこを支えているのをいいことに、音羽は勝手におちょこを合わせてぐい、と飲み込んだ。その様子を観察して、まるで生まれて初めて酒を飲むかのごとく、薄い唇におちょこを押し付けた。その動作だけでもこれだけ色っぽいのだから、美女とはずるいものである。
エリカは目に見えて疲れている。憔悴、というよりは疲労困憊の方が適切だろうか。試しにつまみを取りやすいようにパーティー開きにしてみたが、手を付ける様子がない。
「エリカ、食べていいよ」
声をかけてみても、曖昧な返事しかよこさない。心ここにあらずと言った様子で、どこかぼんやりしている。夜中にふらふらと家を出て、どこかに行ってしまいそうな不安定さすら感じた。姿勢も悪いし、肌も疲れていて、化粧もよれている。
「あの記者団はないよね」
「え?」
ようやくエリカの意識がこちらに帰ってきた。またどこかに行かないように、音羽はそのまま話し続けた。
「失礼がポイント制ならカンスト超えて青天井だよね」
ニュースを見ていて、腹が立った。少しの言動がハラスメントとして取り沙汰されるこの現代で、よくもまあ、あんな行いができたものだと思ったのだ。煙に巻くのが得意なエリカが毅然とした態度で立ち向かっていたのに、胸がすく思いがした。
「…………本当に。女の子一人を囲って言いたい放題。子どもの気持ちをまるで慮ってない。あんなのでマスコミを名乗れるものですか」
忌々しい。そう吐き捨てて、酒を飲み込んだ。少しだけ、調子が戻ってきたようだ。
「マスゴミ、って言うらしいよ。ネットでも大炎上してた」
「マスゴミ、と大炎上。ふふ、いい気味です」
下がりっぱなしだった口角が上がり、頬に少しだけ血の色が戻ってきた。化粧で誤魔化していない、自然な桃色だ。酒で血行が良くなっているのも影響しているのだろうか。音羽はそれに安堵しつつも、何があったのかを把握するためにあくまで自然な体を装って、おちょこに酒を注ぎながら口を開いた。
「ねぇ、合意?」
「今それを聞きます?」
無神経だ、とでもいうように、エリカが眉をひそめた。しかしあいにく、それで怯むような音羽ではないし、それが分からないエリカでもない。音羽は回りくどいことが嫌いで、性に合わないのだ。
「いや、合意があるんなら別に構わないんだけどさ。ちょっと調べたけど、行方不明の十条敷鱒二って、今年で六十一なんでしょ。先生たちよりも年上なんだなって」
「………………つまり?」
「私ほどじゃないけど体力あるエリカによくついて「やめなさい」……エリカが言えって言ったんじゃん」
ため息をつきながら酒を飲む。こうして音羽にツッコミを入れられる程度には精神が回復したようだ。しかし、雪乃のことを話題に出したせいか、どこか落ち着きのない様子になった。
「安心しなよ、まだバレてない。世間と先生にはね」
「そ、そうですか。――――――よかった」
ほっと、胸をなでおろす。口に出すつもりのない本音が明らかに零れて落ちた。それに対して、音羽は期待が外れた時に感じる、落胆に近い感情を抱いた。
(やっぱり、信仰か)
エリカにとって雪乃は、人生の師匠であり指針であり信仰対象だ。
篠原雪乃は、今でこそ自らが表舞台に立つよりも後進を育てることに重きを置き始めているが、本来は宝塚歌劇団出身の元男役だ。卒業後にミュージカル女優としての名を馳せ、数年にわたる留学でオペラを収得して、更なる飛躍を遂げた。執着にも近い歌へのストイックな姿勢と実力。歌と経歴に隠れてあまり取り上げられることは少ないが、年々増していく艶やかさと凛とした宝石のような美しさ。よく、美しい女性を『傾国の美女』などと表現することがあるが、雪乃の場合は『建国顔』が適切か。世間ではよく『ミューズ』と称されている。雪乃の存在は音楽界や芸能界のみならず、多くの人に知られている。間違いなく、国民的歌手と言えるだろう。
そんな凛々しい雪乃に、エリカは心酔した。子どもの頃からその心酔ぶりは変わらずで、大人になれば落ち着くだろうと音羽は推測していたが、どうにもそうはいかなかったらしい。雪乃から教わった歌に、エリカは命を懸けた。真摯に、真面目に、どこまでも熱心に取り組んだ。
(信仰や尊敬は勝手だけどね)
身を滅ぼすような、身を縛るような尊敬の仕方は、カルト宗教の域に近い。絶対に知られたくないことを、絶対に知られたくない人に知られずにいる安堵感はいかなるものだろうか。気にはなる。音羽がそれを知る日は来ないだろう。
「合意、でしたね。――――――あると言えばあるし、ないと言えばないです」
黙っていると、今度はエリカが口を開いた。
「その心は?」
「謎かけじゃないんですよ。――――――海外には、子を想う母の歌が多いんです。だから、いえ、こういう言い方はいけませんね。一度だけ、人の親になってみたかった。娘を持つ母親の気持ちがどんなものか、気になったんです」
「あくまでも、歌のためにって?」
「最初だけ。でも、歌に責任を押しつけることはできない。もちろんあの人にも、あの子にも」
「ふうん」
「あなたも、分かるでしょう。同じDIVAなんですから」
そうだね、というには、間が開いた。エリカへの下火の劣等感がそうさせる。
エリカの歌は、――――本人もそうだが――――魔性だ。エリカはどんな曲でも自分のものにしてしまう。完璧な分析と解釈、そして表現力で歌を落とし込み、奏でることでその場を支配する。天使の歌声では生ぬるい、聞いたものをすべて自分の虜にする、本物のDIVAの歌。
対して、音羽は特殊だ。いわゆる一点特化型というやつで、どんな形式の歌でも歌える代わりに、歌に共感できないとなにも表現できない。ラップでも、長唄でも、なんでもそうだ。歌の内容にわずかでも共感すれば、音羽はこの世の道理を超越する、それこそ歌姫としての実力を発揮し、聞いたものの心に届けることが可能だ。
音羽は達観した子どもであった。それゆえに、早いうちから自分とエリカの違いを理解していた。一時期はエリカに追いつこうとしたこともあったが、すぐに無理だと察して自分の強みを探すことにした。あまりにも、自分とかけ離れていたのだ。才能はもちろんのこと、それを発揮するために努力を惜しまない女、それがエリカだった。音羽が雪乃の弟子と言える存在になったのは六歳の頃だったが、エリカは当時九歳にして英語は二級に合格して、同時進行でラテン語の基礎的な単語や構造を理解していた。今でこそ音羽もイタリア語とフランス語の歌を歌えるほどにはなったが、日常会話は挨拶とごく簡単なやり取りしかできない。
暇さえあればそれが三分であっても発声や楽譜の確認に費やし、自分には歌以外の道がないのだと定めて突き進んでいた。対して、音羽はすごく現実的というか、冷めていた。もちろん、国民的歌手と呼ばれる人に師事している自負はあった。そのため一倍努力していたし、英語には馴染みがあったため、当時から洋楽は得意だった。しかし、いつまでも成熟しない幼顔に、平均の域を出ない体躯、そして、共感がなければ何もできない己の歌唱力は、静かにエリカとの差を主張しているようで、音羽の心をえぐった。
「本当は、先生のように、ああいう人と出会いたかった」
エリカが酒を飲みながら寂しげに言う。いつのまにか手酌で酒を注ぐほどの気力を取り戻していたらしい。
「……………………ねぇ。取り調べ時間かかった?」
それに乗じて、音羽も一度ネガティブな考えを封じ込んだ。深夜に考え事をするとろくなことにならない。
「え? えぇ。なにしろ人が多いですからね。待たされましたよ」
「カツ丼出た?」
「あれ自分で頼んで自分でお金払うんですよ。食べません」
「丼もの嫌いだもんね」
くだらない会話をする程度の元気も出て来たらしい。嫉妬と劣等感はさておき、安堵した。二つしか違わない相弟子が嫌いなわけではない。
「ねぇ、シャワー浴びなよ。肌に悪い」
試しにもう一度、風呂を進めてみた。綺麗好きなエリカならはい、というだろうと考えてのことだ。
「いいんですか?」
「下着はそのまま使ってもらうことになるけど、オーバーサイズだし、服ならたぶん貸せるんじゃない?」
「かなり身長差ありますよね」
「裸で寝るよりマシでしょ。帰ったっていいんだよ」
「嫌です。意地でも居座りますよ」
「そんな元気があるなら大丈夫だね。早く汗流しな」
酔いが回り始めている。そう察した音羽はまだ飲み足りないという様子のエリカから酒の入ったおちょこを没収してキッチンに持っていき、シンクに沈めた。酒は栓をしてから冷蔵庫に入れておけば勝手にエリカが漁ることもない。
「ナイトブラくらいなら貸すから」
半ば強引にエリカを風呂に押し込み、音羽は片づけをしてからベッドに入った。自室の時計を確認すると、時刻は日付を回った深夜一時。
(夏休みでよかった)
仕事がないことに安堵しながら目を閉じる。せっかく寝ていたのに、エリカのせいで目が覚めてしまった。すぐには寝付けないだろう。
(DIVA、か)
エリカに言われた称号を反芻した。
エリカも音羽も、確かな実力と歌への情熱、ストイックな精神を持つ。いつからか、世の中は二人を『DIVA』と呼ぶようになった。特に音羽は『歌姫の寵児』とも呼ばれている。雪乃の弟子であることからつけられた異名だが、音羽にしてみれば、寵児はエリカの方だった。
(歌い方も、歌への向かい方も。情熱と高潔さも。絶対に私よりエリカの方が上だ。でも、エリカは確かに単独での印象が強いかも)
いい歳をして、師匠の影から出ることもかなわない。そんな歌手を、果たしてDIVAと呼べるのだろうか。強引に抑え込んだはずの劣等感が首をもたげる。
音羽とて、プライドがないわけではない。毎日発声練習や基礎練習をしていたし、子どもの頃から英語以外にも、近所にあった外国語教室のドイツ語講座を受講していた。大学で学んだだけのイタリア語とフランス語の日常使用には不安が残るが、そもそも歌であれば問題はない。それがドイツ語であれば日本語、英語と同じくらい上手く使える自信がある。ラップや長唄などの幅広い歌を心得ているから、リズム感覚も人より頭一つ抜けていい自覚もある。
それに、容姿も歌への順応性もエリカには劣るが、ダンスの能力だけは負けない。歌手も体力仕事のため、エリカだって体力はある。しかし、運動が得意ではないエリカと違って、音羽は身体能力が高い。体力テストも球技も、並外れた体力と一度動いたら覚える記憶能力によって、表彰されるほどの実力を身につけた。
歌以外にも武器がないと生きていけない、若くしてそう悟ったために、親が習っていた社交ダンスに始まるダンス全般を磨き、圧倒的なダンス能力を得た。広い会場を縦横無尽に踊り狂いながらも、絶対に音は外れないし、歌も途切れない。いつぞやの年越しコンサートではコンテンポラリーダンスやアクロバティックな技を披露しながらもいっさい音を外さず、トークのときはともかく歌っているときは絶対に息を乱さなかった。聴覚を支配して心に直接感動を届け、視覚的に楽しませることも忘れない。
歌手としての自分を評価することほど烏滸がましいことはないが、エンターテイナーとしての自分については、絶対的な自信があった。そうして、一部分のみでも自分に自信を持たせることで、エリカへの劣等感を抑え、たまにセンチメンタルになったときのみ嫉妬の炎が下火で燃えるようにする。一番身近な人間がこうも超人的だと、こうして人間は大人になるのだ。
おもむろに、音羽は枕元に置きっぱなしにしていたスマホを手に取り、無意識にネットニュースを開いた。半ばわかっていたが、やはりフリーデリケ沈没に関する報道と、記者団への批判がニュースの大半を占めている。
――――クルーズ船「フリーデリケ」沈没 同乗者には花桐グループ令息と世界的ミューズEricaの姿も――――
一つの見出しが目に入った。ローマ字表記の『Erica』はエリカの芸名だ。花桐グループは確か、十条敷鱒二の会社と懇意にしていたのではなかったか。しかし、それよりも。
(ミューズ、ね)
ミューズは神話に出てくる九人の女神のことで、みな乙女である。つまりはそう言う意味だ。松井という異性と何十年も共にいながら何の進展もない雪乃は、そういう意味ではまっとうに乙女だと言える。
「ちょっと、勝手に電気消してベッド行かないでくださいよ」
思考を中断する声が頭上から聞こえた。目を開けると、オーバーサイズでもやや寸足らずに見える部屋着を着た、すっぴんのエリカが立っていた。美人はすっぴんでも美人だな、と何の生産性もない感想を抱く。それより、このあとに続く言葉が想像できてしまって、無意識に抵抗した。
「タオルは出してたでしょ」
「入れなさい。この家客間ないでしょ」
「リビングのやつソファベッド。勝手に使ってよ」
睡眠も思考も邪魔されて、さすがにいらだった。面倒くさいという心情を隠しもせずに口調に乗せながら言って、反対の方に寝返りを打つ。しかしそれで諦めるエリカではない。
「嫌ですよ体痛くなる。ほら、ちょっと詰めなさいって」
エリカは布団をめくって強引に侵入してきた。さすがに音羽も押し出そうと抵抗するがエリカは構いやしない。
「ちゃんと冬用の布団かけておいたじゃん。ちょ、やめろって」
「いいでしょう同性なんですから」
「お互いいくつだと思ってんの。きついって。ねぇこれシングルサイズ!」
「お互い細いんだから、入るでしょう」
乱暴にしても、やはり美術品のような美しい肉の器に傷をつけることは憚られる。結局は少し遠慮したのがあだになり、侵入を許してしまった。シングルサイズの二人使用は、いくら細身とはいえ成人女性二人のため、きついものがある。拗ねた音羽はエリカに背を向けて布団にくるまった。涼しい室内とはいえ、二人分の体温がある布団のなかはやや暖かすぎる。
「はぁ、ようやく寝られそう」
「こっちのセリフだよ」
いっそ清々しいほどの暴挙に苛立ちながら返すと、エリカは慣れた様子で口だけの謝罪をよこした。しかし、いつもなら反撃のように続く皮肉のような嫌みのような軽口が聞こえない。気になって振り返ってみると、エリカは寝落ちしていた。よく見れば、ケアの痕跡が見られる肌にも疲労の色が戻っている。酒精が抜けたらしい。昼間に考えていたことの答えが、ようやく出てきた。
「………………残暑見舞いかな」
音羽は小さな声で言って、目を閉じた。隣で寝ている人間の呼吸音が聞こえてくると、いつの間にか自分も眠くなってくる。意識がぼんやりと滲んだ。これなら寝られそうだ。
先進的で革新的で行動的な乙女である雪乃はミューズ、師匠も歌も心から愛し歌のために生きて飛躍のために純潔を捨てたエリカはDIVA、共感によってのみ卓越した歌唱力を披露できる乙女の音羽はDIVAであり歌姫の寵児。果たして本物のDIVAとはなんで、誰が最適なのだろう。眠りの淵で考えた。
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