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夏の終わりのみぎわにて
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八月の二十七日。ある年の夏が終わろうとしている日。海の家、みぎわは閉店作業をしていた。前日のうちに、これまで泊まり込みで働きに来ていたアルバイトの面々を駅まで送り届け、方々には閉店の届けを出した。現在店内にいるのは若い男女が一人ずつ。
「そろそろ休憩にしよっか」
ホールの掃除をしていた若い女に、裏から出てきた男が声をかけた。
「うん。じゃあ、泉久は座ってて」
「え、俺も作るよ」
「いいよ。お母さんに作れって言われてるし」
若い女はそう言ってデッキブラシを壁に立てかけ、泉久の横を通り抜けて奥にある簡易キッチンに向かった。奥にあるのは店員たちの休憩スペースだ。
女、蓮香はキッチンにかがむとシンク下にある棚を開け、調理器具を出した。簡易的なものしか作れない場所だが、道具はある程度揃っている。続いて冷蔵庫を覗き、何を作るか考えた。
「麺でいい?」
奥の方に仕舞いこまれている可哀そうなそうめんを見つけて泉久に聞いた。
「オンリーはちょっと」
「さすがにしない。ナスのおひたしとー、あ、大根とニンジンの酢漬けある」
「じゃあ食べる」
案外渋い二人の考えは一致した。
蓮香は手伝おうとするいとこをダイニングに固定し、キッチンに立った。日常的にキッチンに立ってはいるが、この海の家の簡易キッチンに立つのは、今年はこれが最後だ。
水で洗って終わりという文明の進化に感謝しながらそうめんを水にひたし、ザルで水気を切っている間にめんつゆを作る。蓮香の作業風景を泉久はダイニングに座りながらぼんやりと眺めていた。
「なに見てんだよ~」
「べっつにー」
少々荒い言葉遣いも、無意味な言動も、二人にとっては何気ないコミュニケーションの一つに違いなかった。
「酢漬けとおひたし、どんぐらい食べる?」
「付け合わせ程度で」
「なに、胃もたれ?」
「夏バテー」
もう夏も終わるのに、そうごちりながら蓮香は小皿に言われた通りに酢漬けとおひたしを盛り付ける。蓮香自身は空腹だったので少し多めに盛り付けた。続いてそうめんも盛り付ける。蓮香はいつも洗った手で少量ずつ手に取りそれを軽く丸めながら大皿に盛っている。それが彼女の実家、葉桐家の習慣で、泉久がそれに文句を言うことはない。最初はぎょっとしていたが、慣れとは恐ろしいものだ。
「できたー」
大皿を中央に置き、そのあとに小皿とつゆ、箸を出したら、二人の昼食が始まった。
そうめんはつるつるとしていてのど越しがよく、適度に冷えている。つゆも濃すぎないうえに適度に冷えているのでエアコンを切ったホールを掃除していた蓮香の体を芯から冷やしていくようだった。おひたしも酢漬けもよく漬かっていて、漬物ばかりだが塩分も水分も補給できた。
「ねぇ、はーちゃん。俺さ、沖縄に移住しようと思うんだよね」
ナスのおひたしを食べながら、こともなげに泉久が言った。
「へぇ、いいんじゃない」
それに対して、蓮香は適当とも取れそうなほどの抑揚のなさで答えた。余りにも淡白な返答に、泉久は逆に面食らった。
「え、驚かないの」
箸を持ったまま蓮香の方を見れば、蓮香は大皿からそうめんをつまんで自分のつゆに入れていた。
「いや驚いたよ」
「なにその冷静な反応」
「馨さんでしょ? 沖縄ってことは」
図星だった。
馨、というのは泉久の恋人だ。沖縄に生まれ育ち、現在も沖縄で働いている。という話を蓮香は以前、目の前で面食らった様子の泉久本人から聞いたことがあった。そのときも蓮香は恋人ができたことよりも名前とばかり思っていた『馨』というのが、苗字であることの方に驚いてたものだ。
「違うの?」
「違わない。でも、もうちょっと驚いてよ」
「いつかは言われると思ってたからね」
蓮香はそういうと、つゆにつけていたそうめんをちゅるちゅるとすすった。こともなげに言ったとはいえ、もう少し真剣な反応をもらうだろうと考えていた泉久は脱力からか、机に突っ伏した。
「………………反対しないの?」
不安げな視線は蓮香とかちあった。
「なんでいとこの私が反対しなきゃいけないのさ。泉久はもう社会人だしね」
「でも、リゾバと単発バイトで生計立てて年がら年中日本を旅してる男だよ?」
「そうなった経緯は知ってるし」
「趣味サーフィンとスノボだよ」
「いいじゃん、楽しいじゃん」
「ピアスあけてメッシュ入れてアクセサリー付けて。めっちゃ派手な見た目だよ」
「それがなりたい姿なんでしょ。おしゃれだよ」
「馨に騙されてるかも」
「証言台なら立つよ。てか、恋人のことは信じなさいよ。惚れてんでしょ」
なに、止めてほしいの? と蓮香は有色透明の綺麗なガラスのコップを持ちながら呆れたように聞いた。
「そういうわけじゃないけどさぁ…………」
何やら複雑な感情が渦巻いているようで、泉久は大きくため息をついた。蓮香はそれを見ながら自分のコップにお茶を注ぎ、ついでに身を乗り出して泉久のコップにもお茶を注いでから座りなおした。
「別に、私は泉久が幸せなら何でもいいよ。だって泉久、高校のときからずっと大変なことばっかだったじゃん。抱え込みやすいのが泉久の癖だし。だから私、泉久が幸せだって思えて、違法じゃないならなんだっていいと思うよ。最終判断を下すのは泉久なんだしさ」
机に伏せる泉久を前に、蓮香は頬杖をついた。そして、心の中でため息をつく。
葉桐蓮香と庭月野泉久は同い年のいとこである。泉久は高校生のときに両親を事故で亡くし、蓮香の家に居候していた。泉久は完全に明るい性格というわけでもないが、少しダウナーな雰囲気を持ちながらも話しやすい性格である。現代っ子というのもあるのだろう。そして、それ以上に意外と泥臭くて努力家だった。新たな生活環境で戸惑うことも多かったが、それでも楽しそうにやっていた。少なくとも、蓮香には楽しそうに見えていた。
しかし、泉久の楽しそうな様子を見ることができたのは、大学を卒業するまでだった。就職したのは俗にいうブラック企業で、過労と暴力行為で体を壊し、精神を病んだ。そもそも、生来そこまで精神の強い男ではないのだ。無理もない。数年経って何とか持ち直した泉久は、昔から好きだった旅行やリゾートバイトを生活の主軸にすることにした。
「はーちゃんは、優しいなぁ」
蓮香が泉久の半生を振り返っていると、泉久が独り言のように呟いた。
「どうだろう。興味がないだけかもよ」
「それでも、俺にとっては優しいよ。無関心よりずっといい。………………夏には帰ってこようと思うんだ」
「夏こそ沖縄で過ごさなくていいの?」
「あっちはあっちで馨の仕事が繁忙期なんだよね。盆もあるし、実家(ここ)の手伝い自体は楽しいから、まだしたい」
帰巣本能があるのかないのか分からない泉久にも、実家の認識はあるらしい。その認識があることに、蓮香はどこか安心した。
「お父さんとお母さんには?」
「もう言った。何なら引っ越しの準備もしてる」
蓮香の口から「えっ」と声が漏れた。夏の間だけとはいえ同じ場所に住んでいたのに、全く気付かなかった。
「はーちゃん、家じゃ民宿の手伝いしたり、リモートワークしてたから。気付かせないようにやってたし」
蓮香は普段、一人暮らしをしながらクレジットカード会社で働いている。しかし夏の期間だけは、普段どおり民宿を営みながらさらに海の家を出すというなかなかに忙しい実家の手伝いのために帰ることにしていた。会社にも事情を話して了承を得ているため、扱いとしてはリモートワークだ。朝から夕方までは泊まり込みのアルバイトたちと一緒に海の家で働き、夕方以降は民宿を手伝ったり、本業の仕事を片付けてる。そんな生活をしたため、ほかのことを気にしていなかった。というか、気にする余裕がなかった。
「もっと早くに言ってくれてもよかったのに」
「忙しそうだったから」
別に拗ねているというわけでもない。気を使わなくても、というニュアンスを含めれば、どこか軽い調子の答えが返ってきた。
「向こうでは何するの? というか、就職するの?」
「うん、印刷業に。観光業で仕事してたし旅行は好きだから、読者に伝わりやすい文章とか写真とか選ぶの上手いみたい」
「ふぅん。ま、スーツ着ておべっか使いながら他人の旅行プラン考えるよりは、そっちの方が向いてるんじゃない。派手な見た目だし」
「ほんとに?」
「うん。泉久にとっては容姿に縛られない職の方が、絶対にいい」
やけに言葉に重みが乗った。
「そっかぁ…………はーちゃんが言うなら、安心だなぁ」
泉久は安心したように表情を和らげた。
「ほら、いつまでも寝てないで作業するよ」
蓮香は互いに空腹が満たされたのを察し、少しの気恥ずかしさを紛らわせるように立ち上がった。食器をシンクに置いて片付けようとすると、泉久が食器洗いは自分がやると言い出した。
「んじゃ、任せたよ」
そう言ってホールの作業に戻った。
海の家の閉店後の作業はところによって異なる。みぎわの場合は店全体を掃除し、片付けられるものは葉桐家の物置に仕舞われることになっていた。日の目を見るのは次の夏だ。電気系統の作業や店の解体作業は業者に依頼しているため、二人の仕事は内装を片付けることだった。
蓮香の仕事はホールの掃除と片付けだった。昼食前にデッキブラシでホールの砂を落とし、できる限りの汚れをぞうきんで拭いて、消毒をしてから一つのところに寄せる、そこまでは終わった。椅子はともかく机は重いので、あとで泉久と片付けるためだ。
店内にある調理場に移動してコンロを拭いていると、蓮香は昔を思い返した。
そういえば、蓮香の通っていた高校の修学旅行先は沖縄だった。特別沖縄に思い入れがあるわけではないが、友人たちと過ごした思い出は十年経っても残っている。
(あのときは確か、ガマを見て、琉球村にも行ったっけ)
楽しかったという記憶はある。しかし、具体的に何をしたのかは覚えていなかった。確か、一日目にガマの探索や平和記念公園などの見学を通して戦争について学び、二日目と三日目は勉強を忘れて、ひたすらに楽しいアクティビティをしていた。蓮香としては、本当は首里城など歴史を感じる場所を見学したかったのだが、あいにくと蓮香の母校の修学旅行の予定には組み込まれていなかった。
(何だかんだ、楽しかったなぁ)
秋ごろの予定だったおかげで暑すぎることはない。しかし海も空も綺麗で、観光地としては人の少ない期間だった。まだまだ海で遊ぶこともできた期間だったこともあり、蓮香は海で遊ぶ同級生たちの荷物番をしていた。
(思えば、カナヅチは今も昔も変わらないなぁ…………)
蓮香はため息をついた。ため息ついでにしつこい油汚れを取ろうと力を入れ直す。
蓮香はカナヅチだった。浮き輪やビート板があれば泳ぐこともできる。しかし、不思議なことに支えがなくなるとどうにも泳げなくなってしまう。
(泉久は泳げるのになぁ)
蓮香に対して、泉久は趣味がサーフィンということもあって当然泳げる。波に乗り損ねて海に落ちたが自力でどうにか浮上したこともあった。その様子を見ていた幼き日の蓮香は恐怖で思わず泣いたものだ。
(思えばあのころから、随分と経ったんだなぁ)
葉桐家と庭月野家は仲が良く、幼いころから蓮香と泉久もよく会っていた。とはいえ、葉桐家は東海、庭月野家は九州にあったため、基本的に会うのは長期休みだった。当時から夏の葉桐家は民宿と海の家の二足の草鞋だったため、庭月野家もよく手伝っていた。
しばらく力を込めて洗剤を相棒に戦っていると、根負けした油汚れが取れて、コンロが綺麗になった。
「よし」
油汚れとの戦いに勝った蓮香は、次に食器類を片付けようと足元に置いた段ボールを作業台に上げた。そのタイミングで、向こうから音が聞こえる。
「はーちゃん、椅子持ってっていい?」
帽子をかぶってサングラスをかけ、タオルを首に巻いた泉久が店の方にやってきて、寄せていた椅子を持ち上げた。
「時間かかるし、後回しでいいよ」
「裏の掃除終わったんだよね。先にこっち片付けた方が後で楽だし」
来年も使えるものは二人が乗ってきた軽トラの荷台に乗せて家まで持って帰ることになっている。軽トラはみぎわから少し離れた駐車場に停めてあるためどうしても十分は歩かなくてはならず、暴力的な暑さの下に放り出されることになる。
「じゃあ、私も行く。食器は生ものじゃないし」
「はいよー」
椅子は軽いが折りたためないものだし、安全のために一度に二脚ずつしか運べない。ならば一人より二人で協力した方がよほど早く終わる。蓮香は泉久を待たせないように手早く帽子とサングラスを身に着けると、椅子の二脚を持ち上げて外に出た。
「あっついね」
「あちー。早く終わらせよ」
外に出た瞬間に汗をかいた。二人とも毎年、夏の終わりにはこの作業をしているがボヤくのはいつも同じだ。
「沖縄はもっと暑いのかな」
暑さを紛らわすためか、泉久が呟いた。
「私より泉久の方が詳しいんじゃない?」
「繁忙期は避けてたからなぁ」
以前ちらっと聞いた馨の仕事は、確か土産物屋だったか。実家を手伝っているのだとも聞いたことがある気がする。蓮香は沖縄の夏事情を考えると発言内容に納得した。
「案外南の方が涼しいっていううわさも聞いたことあるけど、どうなんだろね。でも、きっと暑いだろうから、しっかり対策するんだよ」
「会社勤めだよ?」
「実は室内の方が熱中症になるんだよ。会社勤めしてる私が言うんだから信じときな」
会社内は空調が整っているが、そのせいで水分補給を忘れる人も多い。蓮香の周りは自己管理できる大人が多いためそこまでひどいケースに会ったことはないが、可能性だけは否定できない。泉久は間延びした返事だけをよこした。
夏の海辺、しかも真昼の日差しは湿気も相まって人を少しずつ締め付けていくような、溶かしていくような、とにかく矛盾する苦しさを与えた。たった一往復分を歩くだけで体力が削られていくのを感じる。
「そういえば、沖縄にも海の家あるの?」
暑さに対抗しようと、蓮香が口を開いた。
「そりゃあね、あるにはあるよ。場所にもよるけど。でも、ウチみたいなのはなかった気がする」
みぎわでは酒を含む飲食類の提供だけでなく、浮き輪のみ貸し出しを行っている。また、地域に根付いた民宿のネットワークを使って、近隣の飲食店への予約や地域のレンタル店への仲介なども行っている。確かにこのタイプは珍しいかもしれない。
「まあ、ここは近くに頼れる公的機関がないからやってるってだけだし、都会じゃやらないか」
「そりゃあねぇ。病院遠いからって担架三つとAED二個も置いてあるの、ウチぐらいなんじゃない?」
ほかの海の家事情を知らない泉久はそう言って笑った。蓮香も笑った。コンプライアンスがしきりに叫ばれるこの現代なら、AEDはどこにでも置いてありそうだが、担架があることをさすがに普通だとは思えなかった。
「泉久はほかの海の家とか行ったことないの?」
意外そうな顔をして蓮香が聞いた。
「そりゃ夏の間はずっとここにいるし」
「そうじゃなくてさぁ。九月とか、六月でもまだやってるとこあるでしょ」
「敵情視察はしないタイプなの」
もっともらしいことを言って、泉久は煙に巻いた。しかしその本意が分からない蓮香ではない。
(実際はただうちでの思い出を上書きしたくないだけのくせに)
そう思いながらも、男のプライドを潰してやるのはかわいそうだと、飲み込んだ。代わりに別の言葉を言う。
「あ、そうそう。泉久さ、来年以降も手伝ってくれるって言ってたけど、遠いんだし、無理しなくていいからね」
体調第一だよ。そう気遣うのが蓮香の精一杯だ。しかし蓮香の言葉をよそに、泉久は去年の夏を思い出していた。
泉久は毎年、夏になってみぎわを出店する時期になると、民宿に、葉桐家に帰る。年末年始にも帰るが、そのときは一週間ほどでまた旅に出ている。場所はアルバイトの期間に合わせて変えたり変えなかったりしていた。
去年は帰る前に夏の沖縄に行っていた。
暑かった。これでもかというぐらい暑くて、正直、蜃気楼が見えた気がした。どこを見ても人が多くて、外国人の姿も多くあった。間違いなく日本にいるはずなのに、どこか遠い国まで来てしまったかのように錯覚したのを覚えている。ついでに暑さのせいで若干のめまい、そして吐き気もしていた。
ついには歩くのも辛くなり、ようやく日影で休んでいた泉久の首に、氷嚢が押し付けられた。驚いてそちらを見ればそこにいたのは恋人の馨。無意識の間に馨の実家であり働いている場所でもある土産物店の近くまで来ていたらしい。人波に溺れてフラフラと歩く泉久の姿を見かけ、本能的にまずいと感じ、後輩に店を頼んで急いで抜けてきたのだと言う。その行動力と優しさに泣き、その勢いで同棲を申し込んだことがすでに懐かしい。
泉久は精神を病んでいた時分、特に涙腺が緩んでいた。どういうことかと言うと、やたらめったら泣いていた。それはもう、ことあるごとに泣いていた。水分と塩分とタオルを手元に置き、ブランケットに頭から覆われていないと不安で仕方ない。そんな状態の自分を相手に、手探りながら絶対に目を背けずにいた周囲の強さに何度も涙した。今になって思い返すと、よく脱水症状にならなかったものだと感心するほどだ。
それはさておき、感謝で泣くことはあれど、愛しさに泣いたのは初めてだった。慈愛にも似た、家族や友人に対しては温かいと感じたものが、さらに熱を持って溢れたような感覚。「愛しい」と書いて「かなしい」と読むのを知ったのはそのあとである。
「ねぇ、ちょっと、泉久? 大丈夫?」
自分を心配する声で我に返った。黙っていたせいで体調が悪いのかと思われたらしい。泉久は手で顔を仰いで咳払いをした。
「大丈夫、死ぬほどダサいとこ思い出しただけ」
「カエルに驚いたときほどダサい姿もないから安心していいよ」
蓮香の怪訝そうな声と言葉でまた一つ、恥ずかしい過去を思い出した。
あの時は確か、中学生だったか。蓮香と一緒に夕方の散歩兼買い出しに行ったとき、道の端から出てきたウシガエルに驚いて飛び上がり、無様にも地面に転がったことがある。
「あ、あれは、急に草むらから出てきたからびっくりしたんだって」
「確実にあのとき二メートルは飛んでたよ」
「盛りすぎ」
軽口交じりに話しながら軽トラに椅子を積み、みぎわまで戻る。あとはその往復だった。みぎわは四人掛けのテーブル席が八つある。同じことをあと七往復したうえで机を運ぶためにさらに八往復もしなくてはならない。
「さすがに駐車場もっと近くに欲しいねぇ」
「ねー。これ毎年言ってるけどさ、自治体が改善してくれないんだよねぇ。二人だときついし」
「来年からはバイトの子たちにも手伝ってもらう?」
「そうするしかないかもねぇ。お父さんたちに相談してみよっか」
二人が子どもの頃は今よりも気温が低く、二人の両親も元気だったため、六人で作業していた。現在は暴力的な気温の中で六十代を目前にした葉桐家の両親に作業をさせるのはリスキーだと判断し、二人で作業をしている。しかしこの分だと二人して体調を崩しそうだ。
「夏の終わりだし、特別手当でなんか出せば残ってくれるかな」
蓮香は何がいいかと考え始めた。しかし唸っているあたり、特別真剣に考えているわけではなさそうだ。蓮香が本気で考えるときは無口になって、後ろ姿では寝ているのかと錯覚するほど動かない。
「夏の終わりって言っても、今は十月まで暑い日とかあるからね」
「もはや秋がどっか行ったよね。夏至は来るし、ハロウィンだってあるのにね」
「人が決めたことなんだから、そりゃ来るでしょ」
どうでもいい会話で酸素を消費しながら往復を繰り返した。みぎわに戻るたびに水分補給と塩分補給をして、椅子や机を軽トラに乗せた。店で使うもの以外にも、休憩スペースにあった机と椅子も追加で乗せる。乗せ方には少々コツが必要で、テトリスのように組み合わせてから揺れで落ちないように固定する。それが終わるとみぎわに戻り、休憩スペースと店用の食器を新聞紙に包んで段ボールに詰めた。それとは別に、貸し出し用の浮き輪や店の中にある装飾品、そのほかの小物を段ボールに詰めたら、軽トラの開いた隙間に乗せて布を被せる。熱中症を危惧して休み休み作業をしていると、終わるころにはすでに日が傾いていた。
「じゃあ私、最終チェックするけど、泉久どうする?」
「待ってるよ。階段のとこいる」
作業を終えた泉久は最終チェックを行う蓮香を置いて、みぎわの近くにある砂浜と道路をつなぐ階段に腰かけ、夕焼けの空を見上げていた。
今日の夕焼けはやたらと赤い。空というものは概して『青色』と評されることが多いが、泉久はこの赤が好きだった。青と混ざって紫の混ざる、色がマーブル模様に滲んだ空の色が海に反射して、まるで一つの絵画のようにすら見える。空は世界でつながっているものだから、きっと沖縄でも見れるだろう。しかし、今日の夕焼けは今日しか見れない、などと詩的なことを考えた。
「泉久、終わったよ」
最終チェックを終えたらしい蓮香が泉久の元に歩いてきて、隣に腰かけた。夕焼けが海に反射して、昼間とは違って寂しさを感じる赤が海に染まっていた。
「綺麗だねぇ」
年がら年中、会社で仕事に追われている。家に帰れないほど激務というわけでもないが、仕事はいつもあって、暇にはならないがそれなりに大変だ。休みを取れるいい職場ではあるが、帰るころには疲れてしまって空の色を見ることすら忘れていた。
「そうだね」
夕焼けは朝焼けよりも色が濃くて、赤い。泉久は以前、リゾートバイトの働き先だった旅館の近くに住んでいるおじいさんに、その理由を教えてもらったことがある。
「はーちゃん、聞いた話なんだけどさ」
「うん、なに?」
「人が生活したことでほこりやチリが空気中に散らばる。だから波長の短い色は届かないんだって。けど、赤の波長は長いから、それに負けないで遠くまで届く。だから、夕焼けは濃くなるんだって。要するに、夕方の赤は『地球の血の色』なんだってさ」
本当はもっと詳しくて小難しい説明を三十分ほど聞かされたが、難しい内容は忘れてしまった。しかし、元理科の教員を自称するおじいさんが言っていた『地球の血の色』という言葉がひどく印象的で、記憶に残っていた。
「いい言葉だね」
ぼんやりとした調子で蓮香が呟いた。日が暮れかかっているだけあって、暑いことに変わりはないが、昼間よりも過ごしやすい。二人の間に、生ぬるい風が吹いた。
「はーちゃん、俺が移住したら、寂しい?」
センチメンタルなのか、泉久が口を開いた。
「どうだろ。私も普段は一人暮らしだしなぁ」
変わるのは両親だろうか。と、蓮香はゆったりとしながら考える。今の時代、スマホ一台でいくらでも連絡を取ることができるし、いつもは会えなくても、どうせ夏には自分から帰ってくるのだから、不安にも思わない。そもそも、いとこと頻繁に会うことも一般的ではないだろう。
「泉久は夏と年末年始以外はリゾバだし、特に変わんないな。寂しがってほしかった?」
蓮香が質問を返すと、泉久は小さく唸り答えた。
「寂しがられたら、後ろ髪引かれるなって」
その返答に、蓮香は笑った。庭月野泉久は、いつまで経っても寂しがり屋で繊細な男だ。この男と一緒に暮らす馨は、なかなか大変なんじゃなかろうか。そんな考えを笑って消化した。言葉にしたら泉久が拗ねるからだ。
「笑わなくたっていいじゃん!」
蓮香の気遣いもむなしく泉久は少々拗ねた様子で蓮香の肩を叩いた。ふーっふーっ、と深呼吸をして息を落ち着けようとする蓮香だが、落ちつけようとすればするほどツボにはまってしまって、笑いは収まらなくなった。
「はぁー、ごめんごめん、ふふっ、結局、寂しいんじゃ、って思っちゃって、ふふっ」
「笑うなよ! ほら、もう帰ろ! 俺、明日早いし!」
泉久は恥ずかしさからか、カバンを持って立ち上がると、駐車場の方へ歩きだした。蓮香も急いで立ち上がり、自分のカバンを拾ってその後を追う。夏を感じるTシャツにハーフパンツ、首にはタオル。どこにでもある日常の服装をした男の背中が妙に遠く感じ、蓮香は新鮮な気持ちになった。
「はーちゃん?」
笑い声が止んだことを訝しんだのか、泉久が振り返った。目元にはサングラスをかけていて、じっと見つめてみても、その奥にある瞳を覗くことはできない。
「なに?」
「…………ううん。泉久の背中が所帯持ちになってた」
「なにそれ。馨とはまだそんなじゃないよ」
「まだ、なんだ」
「そりゃ、いつかはって考えてるけど」
そうめんを啜りながら騙されてるかも、なんてほざいた男が何を言うんだ。率直に蓮香はそう思う。蓮香は駐車場付近で所帯持ちの背中を追い越し、カバンのポッケに押し込んでいた軽トラのカギを出した。
「明日は何時?」
「六時に家出る」
「車出すよ」
「いいの」
「うん」
車内の会話は多くない。無言のなかでラジオが交通情報を知らせていた。この狭い国のどこかでは、今日も今日とて人が生きて、事故が起こっているらしい。夏が終わるから、高速道路では渋滞も起こっているそうだ。ラジオで他の人間を息吹を感じた。なんだか新鮮な感覚がする。
「夏が終わるんだね」
「そうだね」
蓮香の独り言に、外の海を眺めていた泉久が答えた。
翌日の朝、泉久が床を汚さないようにキャリーケースを持ち上げて玄関に向かうと、蓮香がすでにいて、玄関で待っていた。
「本当に出してくれるんだ」
「こんなことで嘘ついてどうすんの。てかまだキャリーケース必要なんだ。リュックもじゃん」
「冬服とか、絶対に持っていきたいものは送ってた。これは夏服とか、今日まで持っていけなかったものとか、悩んだやつ」
泉久は長年の相棒を見下ろした。このキャリーケースは、泉久が大学生のときにバイト代をためて買ったものだ。黄色と緑が差し色となっていて、かなり派手な配色だが盗難防止には一役買っている。物は大切に扱うタイプである泉久ですら手の施しようがないのか、あちこちに落としきれない汚れやキズがある。それだけ長いこと泉久の近くにいたのだと、すぐに分かった。
「じゃ、後部座席に乗せちゃって」
蓮香はそう言って外に出ると、車のカギを開け、運転席に座る。泉久は後部座席にキャリーケースを乗せると、助手席に乗り込んだ。運転をする蓮香は朝焼けの眩しさに目を潰されないようサングラスをかけ、車を走らせる。空港までの道はだいたい一時間ほどだ。
「悪いね、朝の早くから」
「別にいいよ。いとこの新たな門出だしね」
蓮香は心なしか楽しそうにハンドルをさばく。特別運転好きというわけでもない蓮香が楽しそうである意図を察せられないほど、泉久は鈍くなかった。
「門出なんて、大それたものじゃないと思うけど」
仰々しい言い方に、やや照れが勝る。
「門出に大小なんて関係ないでしょ。家族以外に同じ場所で同じ時間を過ごしたいほど大事な人ができた。結構なことだよ」
蓮香は照れもせずに、当たり前のように言った。
(はーちゃんはそうだよなぁ)
無言でいたが、合点がいった。葉桐蓮香は泉久が知る限り、他人にそこまで興味がない。たとえ血のつながった親であっても、いとこの自分であっても、幼馴染や友人であっても。一定以上の興味を示すことがなく、他人との境界線がはっきりしている。そのため泉久が精神を病んでも、両親が毎年飽きもせず海の家をやると言い出しても、泉久が沖縄に移住すると言っても『へぇ、いいんじゃない。手伝えることがあれば言って』の二言で済んでしまう。ストレス社会で生きるためにはある種、必須のスキルと言えるだろうが、人生や人間の妙味は味わえない。そんなこと、大人の蓮香は知っている。だからこそ、恋人と一緒にいたいと思った泉久の決断を何の他意もなくさらりと肯定して、送り出せてしまうのだ。
「はーちゃんはドライだよね」
「今更でしょ。何でもかんでも否定するよりはずっとマシだと思うけどね」
何を言っても、きっと蓮香の心には届かない。しかしそれが逆に気楽でもあった。身内だということもあるが、どんなにおかしなこと言っても、変にギクシャクしても、蓮香は別に気にしない。数日すればそんなことがあったことも忘れて、蓮香の日常を生き始める。やや繊細で考えすぎる傾向のある泉久にはそれがありがたかった。
ありがたいからこそ、馨とは真面目に向き合いたかった。自分にはこれ以上の人はきっといないから。そう思える相手に出会ったからこそ、多少重いと言われても、いつでも腹を割って話して、気持ちをむき出しにできるようになりたい。そういう願いが泉久の胸中には渦巻いていた。
「泉久、リラックスだよ。必ず一回は深呼吸。急いては事を仕損じる」
バレていたのだろうか。運転をしているはずの蓮香から忠告があった。
「いきなりなに?」
「緊張してそうだったから。ま、大丈夫でしょ。馨さんとは会ったことないけど、泉久と馨さんなら、きっとどうにかなるよ」
何がどう、とは聞かなかった。他人に興味がないくせに、こういう時ばかり鋭い。
「あ、苗字変えるなら言ってね。必要書類の書き方とかなら教えられるから」
「気が早いって」
「馨さんの下の名前ってなに? 庭月野が特殊だし、語感がいいと嬉しいよね。それとも、馨泉久になる? 響きはいいね」
なぜ当事者ではないのに勝手にこう盛り上がってるんだろう。泉久は羞恥心を覚えながらラジオの方に神経を集中させた。
朝のラジオは、飽きもせずに交通情報と気象予報、世の中のニュースを伝えている。今のところ事故は起きていないようだが、世の中で起きた事件にはあまり進展は見られない。この時間だと、バラエティに富んだ面白メールが届くのはまだまだ先だろう。
車は順調に道路を走り、最寄りの空港に到着した。それなりに混んだ駐車場に車を停めた蓮香は、降りようとする泉久を呼び止めて自分のカバンを漁った。
「はいこれ。行く前に渡しておこうと思ったんだよね」
そういって取り出したのは、鮮やかな和柄の布が目をひく小さな物体。
「なにこれ」
受け取りながら蓮香に尋ねた。
「お守り小刀。肥後守だよ。刃渡りが七センチだから預入荷物に入れて、向こうでは家の中に置いといてね。本物だから銃刀法違反になる」
布の鞘の中から見える刃物には、刺せば容易に血を溢れさせる刀の気迫を感じた。本物とはこのことか。
「肥後守、ってはーちゃんが初任給で買ったものじゃん。いいの?」
「お守りだからね。まぁ、縁切りを連想させるから刃物はNGって考えもあるけど、私が使ってたものだし、ちゃんと言い聞かせたから、悪縁を断ち切ってくれるよ。きっと泉久と馨さんを守ってくれると思う。私からの餞別。ほら、早くリュックかキャリーケースに入れな。遅れるよ」
そこまで言って若干照れたのか、蓮香は顔を背けて、しっしっ、と手を動かす。泉久は受け取った小刀を一度ぎゅっと握ると、預け入れ予定のリュックの中に小刀を仕舞いこんで、車から降りた。後部座席のキャリーケースを出すと、蓮香も運転席から降りて来た。
「必要なもの持った?」
「うん。ありがとう、はーちゃん」
「どういたしまして。気を付けてね」
「うん」
行ってきます。晴れやかな笑顔でキャリーケースを転がして空港に入っていった。泉久が振り返ることはない。その背中に、せめてものエールを込めた。
「行ってらっしゃい」
夏は、ようやく終わるらしい。
「そろそろ休憩にしよっか」
ホールの掃除をしていた若い女に、裏から出てきた男が声をかけた。
「うん。じゃあ、泉久は座ってて」
「え、俺も作るよ」
「いいよ。お母さんに作れって言われてるし」
若い女はそう言ってデッキブラシを壁に立てかけ、泉久の横を通り抜けて奥にある簡易キッチンに向かった。奥にあるのは店員たちの休憩スペースだ。
女、蓮香はキッチンにかがむとシンク下にある棚を開け、調理器具を出した。簡易的なものしか作れない場所だが、道具はある程度揃っている。続いて冷蔵庫を覗き、何を作るか考えた。
「麺でいい?」
奥の方に仕舞いこまれている可哀そうなそうめんを見つけて泉久に聞いた。
「オンリーはちょっと」
「さすがにしない。ナスのおひたしとー、あ、大根とニンジンの酢漬けある」
「じゃあ食べる」
案外渋い二人の考えは一致した。
蓮香は手伝おうとするいとこをダイニングに固定し、キッチンに立った。日常的にキッチンに立ってはいるが、この海の家の簡易キッチンに立つのは、今年はこれが最後だ。
水で洗って終わりという文明の進化に感謝しながらそうめんを水にひたし、ザルで水気を切っている間にめんつゆを作る。蓮香の作業風景を泉久はダイニングに座りながらぼんやりと眺めていた。
「なに見てんだよ~」
「べっつにー」
少々荒い言葉遣いも、無意味な言動も、二人にとっては何気ないコミュニケーションの一つに違いなかった。
「酢漬けとおひたし、どんぐらい食べる?」
「付け合わせ程度で」
「なに、胃もたれ?」
「夏バテー」
もう夏も終わるのに、そうごちりながら蓮香は小皿に言われた通りに酢漬けとおひたしを盛り付ける。蓮香自身は空腹だったので少し多めに盛り付けた。続いてそうめんも盛り付ける。蓮香はいつも洗った手で少量ずつ手に取りそれを軽く丸めながら大皿に盛っている。それが彼女の実家、葉桐家の習慣で、泉久がそれに文句を言うことはない。最初はぎょっとしていたが、慣れとは恐ろしいものだ。
「できたー」
大皿を中央に置き、そのあとに小皿とつゆ、箸を出したら、二人の昼食が始まった。
そうめんはつるつるとしていてのど越しがよく、適度に冷えている。つゆも濃すぎないうえに適度に冷えているのでエアコンを切ったホールを掃除していた蓮香の体を芯から冷やしていくようだった。おひたしも酢漬けもよく漬かっていて、漬物ばかりだが塩分も水分も補給できた。
「ねぇ、はーちゃん。俺さ、沖縄に移住しようと思うんだよね」
ナスのおひたしを食べながら、こともなげに泉久が言った。
「へぇ、いいんじゃない」
それに対して、蓮香は適当とも取れそうなほどの抑揚のなさで答えた。余りにも淡白な返答に、泉久は逆に面食らった。
「え、驚かないの」
箸を持ったまま蓮香の方を見れば、蓮香は大皿からそうめんをつまんで自分のつゆに入れていた。
「いや驚いたよ」
「なにその冷静な反応」
「馨さんでしょ? 沖縄ってことは」
図星だった。
馨、というのは泉久の恋人だ。沖縄に生まれ育ち、現在も沖縄で働いている。という話を蓮香は以前、目の前で面食らった様子の泉久本人から聞いたことがあった。そのときも蓮香は恋人ができたことよりも名前とばかり思っていた『馨』というのが、苗字であることの方に驚いてたものだ。
「違うの?」
「違わない。でも、もうちょっと驚いてよ」
「いつかは言われると思ってたからね」
蓮香はそういうと、つゆにつけていたそうめんをちゅるちゅるとすすった。こともなげに言ったとはいえ、もう少し真剣な反応をもらうだろうと考えていた泉久は脱力からか、机に突っ伏した。
「………………反対しないの?」
不安げな視線は蓮香とかちあった。
「なんでいとこの私が反対しなきゃいけないのさ。泉久はもう社会人だしね」
「でも、リゾバと単発バイトで生計立てて年がら年中日本を旅してる男だよ?」
「そうなった経緯は知ってるし」
「趣味サーフィンとスノボだよ」
「いいじゃん、楽しいじゃん」
「ピアスあけてメッシュ入れてアクセサリー付けて。めっちゃ派手な見た目だよ」
「それがなりたい姿なんでしょ。おしゃれだよ」
「馨に騙されてるかも」
「証言台なら立つよ。てか、恋人のことは信じなさいよ。惚れてんでしょ」
なに、止めてほしいの? と蓮香は有色透明の綺麗なガラスのコップを持ちながら呆れたように聞いた。
「そういうわけじゃないけどさぁ…………」
何やら複雑な感情が渦巻いているようで、泉久は大きくため息をついた。蓮香はそれを見ながら自分のコップにお茶を注ぎ、ついでに身を乗り出して泉久のコップにもお茶を注いでから座りなおした。
「別に、私は泉久が幸せなら何でもいいよ。だって泉久、高校のときからずっと大変なことばっかだったじゃん。抱え込みやすいのが泉久の癖だし。だから私、泉久が幸せだって思えて、違法じゃないならなんだっていいと思うよ。最終判断を下すのは泉久なんだしさ」
机に伏せる泉久を前に、蓮香は頬杖をついた。そして、心の中でため息をつく。
葉桐蓮香と庭月野泉久は同い年のいとこである。泉久は高校生のときに両親を事故で亡くし、蓮香の家に居候していた。泉久は完全に明るい性格というわけでもないが、少しダウナーな雰囲気を持ちながらも話しやすい性格である。現代っ子というのもあるのだろう。そして、それ以上に意外と泥臭くて努力家だった。新たな生活環境で戸惑うことも多かったが、それでも楽しそうにやっていた。少なくとも、蓮香には楽しそうに見えていた。
しかし、泉久の楽しそうな様子を見ることができたのは、大学を卒業するまでだった。就職したのは俗にいうブラック企業で、過労と暴力行為で体を壊し、精神を病んだ。そもそも、生来そこまで精神の強い男ではないのだ。無理もない。数年経って何とか持ち直した泉久は、昔から好きだった旅行やリゾートバイトを生活の主軸にすることにした。
「はーちゃんは、優しいなぁ」
蓮香が泉久の半生を振り返っていると、泉久が独り言のように呟いた。
「どうだろう。興味がないだけかもよ」
「それでも、俺にとっては優しいよ。無関心よりずっといい。………………夏には帰ってこようと思うんだ」
「夏こそ沖縄で過ごさなくていいの?」
「あっちはあっちで馨の仕事が繁忙期なんだよね。盆もあるし、実家(ここ)の手伝い自体は楽しいから、まだしたい」
帰巣本能があるのかないのか分からない泉久にも、実家の認識はあるらしい。その認識があることに、蓮香はどこか安心した。
「お父さんとお母さんには?」
「もう言った。何なら引っ越しの準備もしてる」
蓮香の口から「えっ」と声が漏れた。夏の間だけとはいえ同じ場所に住んでいたのに、全く気付かなかった。
「はーちゃん、家じゃ民宿の手伝いしたり、リモートワークしてたから。気付かせないようにやってたし」
蓮香は普段、一人暮らしをしながらクレジットカード会社で働いている。しかし夏の期間だけは、普段どおり民宿を営みながらさらに海の家を出すというなかなかに忙しい実家の手伝いのために帰ることにしていた。会社にも事情を話して了承を得ているため、扱いとしてはリモートワークだ。朝から夕方までは泊まり込みのアルバイトたちと一緒に海の家で働き、夕方以降は民宿を手伝ったり、本業の仕事を片付けてる。そんな生活をしたため、ほかのことを気にしていなかった。というか、気にする余裕がなかった。
「もっと早くに言ってくれてもよかったのに」
「忙しそうだったから」
別に拗ねているというわけでもない。気を使わなくても、というニュアンスを含めれば、どこか軽い調子の答えが返ってきた。
「向こうでは何するの? というか、就職するの?」
「うん、印刷業に。観光業で仕事してたし旅行は好きだから、読者に伝わりやすい文章とか写真とか選ぶの上手いみたい」
「ふぅん。ま、スーツ着ておべっか使いながら他人の旅行プラン考えるよりは、そっちの方が向いてるんじゃない。派手な見た目だし」
「ほんとに?」
「うん。泉久にとっては容姿に縛られない職の方が、絶対にいい」
やけに言葉に重みが乗った。
「そっかぁ…………はーちゃんが言うなら、安心だなぁ」
泉久は安心したように表情を和らげた。
「ほら、いつまでも寝てないで作業するよ」
蓮香は互いに空腹が満たされたのを察し、少しの気恥ずかしさを紛らわせるように立ち上がった。食器をシンクに置いて片付けようとすると、泉久が食器洗いは自分がやると言い出した。
「んじゃ、任せたよ」
そう言ってホールの作業に戻った。
海の家の閉店後の作業はところによって異なる。みぎわの場合は店全体を掃除し、片付けられるものは葉桐家の物置に仕舞われることになっていた。日の目を見るのは次の夏だ。電気系統の作業や店の解体作業は業者に依頼しているため、二人の仕事は内装を片付けることだった。
蓮香の仕事はホールの掃除と片付けだった。昼食前にデッキブラシでホールの砂を落とし、できる限りの汚れをぞうきんで拭いて、消毒をしてから一つのところに寄せる、そこまでは終わった。椅子はともかく机は重いので、あとで泉久と片付けるためだ。
店内にある調理場に移動してコンロを拭いていると、蓮香は昔を思い返した。
そういえば、蓮香の通っていた高校の修学旅行先は沖縄だった。特別沖縄に思い入れがあるわけではないが、友人たちと過ごした思い出は十年経っても残っている。
(あのときは確か、ガマを見て、琉球村にも行ったっけ)
楽しかったという記憶はある。しかし、具体的に何をしたのかは覚えていなかった。確か、一日目にガマの探索や平和記念公園などの見学を通して戦争について学び、二日目と三日目は勉強を忘れて、ひたすらに楽しいアクティビティをしていた。蓮香としては、本当は首里城など歴史を感じる場所を見学したかったのだが、あいにくと蓮香の母校の修学旅行の予定には組み込まれていなかった。
(何だかんだ、楽しかったなぁ)
秋ごろの予定だったおかげで暑すぎることはない。しかし海も空も綺麗で、観光地としては人の少ない期間だった。まだまだ海で遊ぶこともできた期間だったこともあり、蓮香は海で遊ぶ同級生たちの荷物番をしていた。
(思えば、カナヅチは今も昔も変わらないなぁ…………)
蓮香はため息をついた。ため息ついでにしつこい油汚れを取ろうと力を入れ直す。
蓮香はカナヅチだった。浮き輪やビート板があれば泳ぐこともできる。しかし、不思議なことに支えがなくなるとどうにも泳げなくなってしまう。
(泉久は泳げるのになぁ)
蓮香に対して、泉久は趣味がサーフィンということもあって当然泳げる。波に乗り損ねて海に落ちたが自力でどうにか浮上したこともあった。その様子を見ていた幼き日の蓮香は恐怖で思わず泣いたものだ。
(思えばあのころから、随分と経ったんだなぁ)
葉桐家と庭月野家は仲が良く、幼いころから蓮香と泉久もよく会っていた。とはいえ、葉桐家は東海、庭月野家は九州にあったため、基本的に会うのは長期休みだった。当時から夏の葉桐家は民宿と海の家の二足の草鞋だったため、庭月野家もよく手伝っていた。
しばらく力を込めて洗剤を相棒に戦っていると、根負けした油汚れが取れて、コンロが綺麗になった。
「よし」
油汚れとの戦いに勝った蓮香は、次に食器類を片付けようと足元に置いた段ボールを作業台に上げた。そのタイミングで、向こうから音が聞こえる。
「はーちゃん、椅子持ってっていい?」
帽子をかぶってサングラスをかけ、タオルを首に巻いた泉久が店の方にやってきて、寄せていた椅子を持ち上げた。
「時間かかるし、後回しでいいよ」
「裏の掃除終わったんだよね。先にこっち片付けた方が後で楽だし」
来年も使えるものは二人が乗ってきた軽トラの荷台に乗せて家まで持って帰ることになっている。軽トラはみぎわから少し離れた駐車場に停めてあるためどうしても十分は歩かなくてはならず、暴力的な暑さの下に放り出されることになる。
「じゃあ、私も行く。食器は生ものじゃないし」
「はいよー」
椅子は軽いが折りたためないものだし、安全のために一度に二脚ずつしか運べない。ならば一人より二人で協力した方がよほど早く終わる。蓮香は泉久を待たせないように手早く帽子とサングラスを身に着けると、椅子の二脚を持ち上げて外に出た。
「あっついね」
「あちー。早く終わらせよ」
外に出た瞬間に汗をかいた。二人とも毎年、夏の終わりにはこの作業をしているがボヤくのはいつも同じだ。
「沖縄はもっと暑いのかな」
暑さを紛らわすためか、泉久が呟いた。
「私より泉久の方が詳しいんじゃない?」
「繁忙期は避けてたからなぁ」
以前ちらっと聞いた馨の仕事は、確か土産物屋だったか。実家を手伝っているのだとも聞いたことがある気がする。蓮香は沖縄の夏事情を考えると発言内容に納得した。
「案外南の方が涼しいっていううわさも聞いたことあるけど、どうなんだろね。でも、きっと暑いだろうから、しっかり対策するんだよ」
「会社勤めだよ?」
「実は室内の方が熱中症になるんだよ。会社勤めしてる私が言うんだから信じときな」
会社内は空調が整っているが、そのせいで水分補給を忘れる人も多い。蓮香の周りは自己管理できる大人が多いためそこまでひどいケースに会ったことはないが、可能性だけは否定できない。泉久は間延びした返事だけをよこした。
夏の海辺、しかも真昼の日差しは湿気も相まって人を少しずつ締め付けていくような、溶かしていくような、とにかく矛盾する苦しさを与えた。たった一往復分を歩くだけで体力が削られていくのを感じる。
「そういえば、沖縄にも海の家あるの?」
暑さに対抗しようと、蓮香が口を開いた。
「そりゃあね、あるにはあるよ。場所にもよるけど。でも、ウチみたいなのはなかった気がする」
みぎわでは酒を含む飲食類の提供だけでなく、浮き輪のみ貸し出しを行っている。また、地域に根付いた民宿のネットワークを使って、近隣の飲食店への予約や地域のレンタル店への仲介なども行っている。確かにこのタイプは珍しいかもしれない。
「まあ、ここは近くに頼れる公的機関がないからやってるってだけだし、都会じゃやらないか」
「そりゃあねぇ。病院遠いからって担架三つとAED二個も置いてあるの、ウチぐらいなんじゃない?」
ほかの海の家事情を知らない泉久はそう言って笑った。蓮香も笑った。コンプライアンスがしきりに叫ばれるこの現代なら、AEDはどこにでも置いてありそうだが、担架があることをさすがに普通だとは思えなかった。
「泉久はほかの海の家とか行ったことないの?」
意外そうな顔をして蓮香が聞いた。
「そりゃ夏の間はずっとここにいるし」
「そうじゃなくてさぁ。九月とか、六月でもまだやってるとこあるでしょ」
「敵情視察はしないタイプなの」
もっともらしいことを言って、泉久は煙に巻いた。しかしその本意が分からない蓮香ではない。
(実際はただうちでの思い出を上書きしたくないだけのくせに)
そう思いながらも、男のプライドを潰してやるのはかわいそうだと、飲み込んだ。代わりに別の言葉を言う。
「あ、そうそう。泉久さ、来年以降も手伝ってくれるって言ってたけど、遠いんだし、無理しなくていいからね」
体調第一だよ。そう気遣うのが蓮香の精一杯だ。しかし蓮香の言葉をよそに、泉久は去年の夏を思い出していた。
泉久は毎年、夏になってみぎわを出店する時期になると、民宿に、葉桐家に帰る。年末年始にも帰るが、そのときは一週間ほどでまた旅に出ている。場所はアルバイトの期間に合わせて変えたり変えなかったりしていた。
去年は帰る前に夏の沖縄に行っていた。
暑かった。これでもかというぐらい暑くて、正直、蜃気楼が見えた気がした。どこを見ても人が多くて、外国人の姿も多くあった。間違いなく日本にいるはずなのに、どこか遠い国まで来てしまったかのように錯覚したのを覚えている。ついでに暑さのせいで若干のめまい、そして吐き気もしていた。
ついには歩くのも辛くなり、ようやく日影で休んでいた泉久の首に、氷嚢が押し付けられた。驚いてそちらを見ればそこにいたのは恋人の馨。無意識の間に馨の実家であり働いている場所でもある土産物店の近くまで来ていたらしい。人波に溺れてフラフラと歩く泉久の姿を見かけ、本能的にまずいと感じ、後輩に店を頼んで急いで抜けてきたのだと言う。その行動力と優しさに泣き、その勢いで同棲を申し込んだことがすでに懐かしい。
泉久は精神を病んでいた時分、特に涙腺が緩んでいた。どういうことかと言うと、やたらめったら泣いていた。それはもう、ことあるごとに泣いていた。水分と塩分とタオルを手元に置き、ブランケットに頭から覆われていないと不安で仕方ない。そんな状態の自分を相手に、手探りながら絶対に目を背けずにいた周囲の強さに何度も涙した。今になって思い返すと、よく脱水症状にならなかったものだと感心するほどだ。
それはさておき、感謝で泣くことはあれど、愛しさに泣いたのは初めてだった。慈愛にも似た、家族や友人に対しては温かいと感じたものが、さらに熱を持って溢れたような感覚。「愛しい」と書いて「かなしい」と読むのを知ったのはそのあとである。
「ねぇ、ちょっと、泉久? 大丈夫?」
自分を心配する声で我に返った。黙っていたせいで体調が悪いのかと思われたらしい。泉久は手で顔を仰いで咳払いをした。
「大丈夫、死ぬほどダサいとこ思い出しただけ」
「カエルに驚いたときほどダサい姿もないから安心していいよ」
蓮香の怪訝そうな声と言葉でまた一つ、恥ずかしい過去を思い出した。
あの時は確か、中学生だったか。蓮香と一緒に夕方の散歩兼買い出しに行ったとき、道の端から出てきたウシガエルに驚いて飛び上がり、無様にも地面に転がったことがある。
「あ、あれは、急に草むらから出てきたからびっくりしたんだって」
「確実にあのとき二メートルは飛んでたよ」
「盛りすぎ」
軽口交じりに話しながら軽トラに椅子を積み、みぎわまで戻る。あとはその往復だった。みぎわは四人掛けのテーブル席が八つある。同じことをあと七往復したうえで机を運ぶためにさらに八往復もしなくてはならない。
「さすがに駐車場もっと近くに欲しいねぇ」
「ねー。これ毎年言ってるけどさ、自治体が改善してくれないんだよねぇ。二人だときついし」
「来年からはバイトの子たちにも手伝ってもらう?」
「そうするしかないかもねぇ。お父さんたちに相談してみよっか」
二人が子どもの頃は今よりも気温が低く、二人の両親も元気だったため、六人で作業していた。現在は暴力的な気温の中で六十代を目前にした葉桐家の両親に作業をさせるのはリスキーだと判断し、二人で作業をしている。しかしこの分だと二人して体調を崩しそうだ。
「夏の終わりだし、特別手当でなんか出せば残ってくれるかな」
蓮香は何がいいかと考え始めた。しかし唸っているあたり、特別真剣に考えているわけではなさそうだ。蓮香が本気で考えるときは無口になって、後ろ姿では寝ているのかと錯覚するほど動かない。
「夏の終わりって言っても、今は十月まで暑い日とかあるからね」
「もはや秋がどっか行ったよね。夏至は来るし、ハロウィンだってあるのにね」
「人が決めたことなんだから、そりゃ来るでしょ」
どうでもいい会話で酸素を消費しながら往復を繰り返した。みぎわに戻るたびに水分補給と塩分補給をして、椅子や机を軽トラに乗せた。店で使うもの以外にも、休憩スペースにあった机と椅子も追加で乗せる。乗せ方には少々コツが必要で、テトリスのように組み合わせてから揺れで落ちないように固定する。それが終わるとみぎわに戻り、休憩スペースと店用の食器を新聞紙に包んで段ボールに詰めた。それとは別に、貸し出し用の浮き輪や店の中にある装飾品、そのほかの小物を段ボールに詰めたら、軽トラの開いた隙間に乗せて布を被せる。熱中症を危惧して休み休み作業をしていると、終わるころにはすでに日が傾いていた。
「じゃあ私、最終チェックするけど、泉久どうする?」
「待ってるよ。階段のとこいる」
作業を終えた泉久は最終チェックを行う蓮香を置いて、みぎわの近くにある砂浜と道路をつなぐ階段に腰かけ、夕焼けの空を見上げていた。
今日の夕焼けはやたらと赤い。空というものは概して『青色』と評されることが多いが、泉久はこの赤が好きだった。青と混ざって紫の混ざる、色がマーブル模様に滲んだ空の色が海に反射して、まるで一つの絵画のようにすら見える。空は世界でつながっているものだから、きっと沖縄でも見れるだろう。しかし、今日の夕焼けは今日しか見れない、などと詩的なことを考えた。
「泉久、終わったよ」
最終チェックを終えたらしい蓮香が泉久の元に歩いてきて、隣に腰かけた。夕焼けが海に反射して、昼間とは違って寂しさを感じる赤が海に染まっていた。
「綺麗だねぇ」
年がら年中、会社で仕事に追われている。家に帰れないほど激務というわけでもないが、仕事はいつもあって、暇にはならないがそれなりに大変だ。休みを取れるいい職場ではあるが、帰るころには疲れてしまって空の色を見ることすら忘れていた。
「そうだね」
夕焼けは朝焼けよりも色が濃くて、赤い。泉久は以前、リゾートバイトの働き先だった旅館の近くに住んでいるおじいさんに、その理由を教えてもらったことがある。
「はーちゃん、聞いた話なんだけどさ」
「うん、なに?」
「人が生活したことでほこりやチリが空気中に散らばる。だから波長の短い色は届かないんだって。けど、赤の波長は長いから、それに負けないで遠くまで届く。だから、夕焼けは濃くなるんだって。要するに、夕方の赤は『地球の血の色』なんだってさ」
本当はもっと詳しくて小難しい説明を三十分ほど聞かされたが、難しい内容は忘れてしまった。しかし、元理科の教員を自称するおじいさんが言っていた『地球の血の色』という言葉がひどく印象的で、記憶に残っていた。
「いい言葉だね」
ぼんやりとした調子で蓮香が呟いた。日が暮れかかっているだけあって、暑いことに変わりはないが、昼間よりも過ごしやすい。二人の間に、生ぬるい風が吹いた。
「はーちゃん、俺が移住したら、寂しい?」
センチメンタルなのか、泉久が口を開いた。
「どうだろ。私も普段は一人暮らしだしなぁ」
変わるのは両親だろうか。と、蓮香はゆったりとしながら考える。今の時代、スマホ一台でいくらでも連絡を取ることができるし、いつもは会えなくても、どうせ夏には自分から帰ってくるのだから、不安にも思わない。そもそも、いとこと頻繁に会うことも一般的ではないだろう。
「泉久は夏と年末年始以外はリゾバだし、特に変わんないな。寂しがってほしかった?」
蓮香が質問を返すと、泉久は小さく唸り答えた。
「寂しがられたら、後ろ髪引かれるなって」
その返答に、蓮香は笑った。庭月野泉久は、いつまで経っても寂しがり屋で繊細な男だ。この男と一緒に暮らす馨は、なかなか大変なんじゃなかろうか。そんな考えを笑って消化した。言葉にしたら泉久が拗ねるからだ。
「笑わなくたっていいじゃん!」
蓮香の気遣いもむなしく泉久は少々拗ねた様子で蓮香の肩を叩いた。ふーっふーっ、と深呼吸をして息を落ち着けようとする蓮香だが、落ちつけようとすればするほどツボにはまってしまって、笑いは収まらなくなった。
「はぁー、ごめんごめん、ふふっ、結局、寂しいんじゃ、って思っちゃって、ふふっ」
「笑うなよ! ほら、もう帰ろ! 俺、明日早いし!」
泉久は恥ずかしさからか、カバンを持って立ち上がると、駐車場の方へ歩きだした。蓮香も急いで立ち上がり、自分のカバンを拾ってその後を追う。夏を感じるTシャツにハーフパンツ、首にはタオル。どこにでもある日常の服装をした男の背中が妙に遠く感じ、蓮香は新鮮な気持ちになった。
「はーちゃん?」
笑い声が止んだことを訝しんだのか、泉久が振り返った。目元にはサングラスをかけていて、じっと見つめてみても、その奥にある瞳を覗くことはできない。
「なに?」
「…………ううん。泉久の背中が所帯持ちになってた」
「なにそれ。馨とはまだそんなじゃないよ」
「まだ、なんだ」
「そりゃ、いつかはって考えてるけど」
そうめんを啜りながら騙されてるかも、なんてほざいた男が何を言うんだ。率直に蓮香はそう思う。蓮香は駐車場付近で所帯持ちの背中を追い越し、カバンのポッケに押し込んでいた軽トラのカギを出した。
「明日は何時?」
「六時に家出る」
「車出すよ」
「いいの」
「うん」
車内の会話は多くない。無言のなかでラジオが交通情報を知らせていた。この狭い国のどこかでは、今日も今日とて人が生きて、事故が起こっているらしい。夏が終わるから、高速道路では渋滞も起こっているそうだ。ラジオで他の人間を息吹を感じた。なんだか新鮮な感覚がする。
「夏が終わるんだね」
「そうだね」
蓮香の独り言に、外の海を眺めていた泉久が答えた。
翌日の朝、泉久が床を汚さないようにキャリーケースを持ち上げて玄関に向かうと、蓮香がすでにいて、玄関で待っていた。
「本当に出してくれるんだ」
「こんなことで嘘ついてどうすんの。てかまだキャリーケース必要なんだ。リュックもじゃん」
「冬服とか、絶対に持っていきたいものは送ってた。これは夏服とか、今日まで持っていけなかったものとか、悩んだやつ」
泉久は長年の相棒を見下ろした。このキャリーケースは、泉久が大学生のときにバイト代をためて買ったものだ。黄色と緑が差し色となっていて、かなり派手な配色だが盗難防止には一役買っている。物は大切に扱うタイプである泉久ですら手の施しようがないのか、あちこちに落としきれない汚れやキズがある。それだけ長いこと泉久の近くにいたのだと、すぐに分かった。
「じゃ、後部座席に乗せちゃって」
蓮香はそう言って外に出ると、車のカギを開け、運転席に座る。泉久は後部座席にキャリーケースを乗せると、助手席に乗り込んだ。運転をする蓮香は朝焼けの眩しさに目を潰されないようサングラスをかけ、車を走らせる。空港までの道はだいたい一時間ほどだ。
「悪いね、朝の早くから」
「別にいいよ。いとこの新たな門出だしね」
蓮香は心なしか楽しそうにハンドルをさばく。特別運転好きというわけでもない蓮香が楽しそうである意図を察せられないほど、泉久は鈍くなかった。
「門出なんて、大それたものじゃないと思うけど」
仰々しい言い方に、やや照れが勝る。
「門出に大小なんて関係ないでしょ。家族以外に同じ場所で同じ時間を過ごしたいほど大事な人ができた。結構なことだよ」
蓮香は照れもせずに、当たり前のように言った。
(はーちゃんはそうだよなぁ)
無言でいたが、合点がいった。葉桐蓮香は泉久が知る限り、他人にそこまで興味がない。たとえ血のつながった親であっても、いとこの自分であっても、幼馴染や友人であっても。一定以上の興味を示すことがなく、他人との境界線がはっきりしている。そのため泉久が精神を病んでも、両親が毎年飽きもせず海の家をやると言い出しても、泉久が沖縄に移住すると言っても『へぇ、いいんじゃない。手伝えることがあれば言って』の二言で済んでしまう。ストレス社会で生きるためにはある種、必須のスキルと言えるだろうが、人生や人間の妙味は味わえない。そんなこと、大人の蓮香は知っている。だからこそ、恋人と一緒にいたいと思った泉久の決断を何の他意もなくさらりと肯定して、送り出せてしまうのだ。
「はーちゃんはドライだよね」
「今更でしょ。何でもかんでも否定するよりはずっとマシだと思うけどね」
何を言っても、きっと蓮香の心には届かない。しかしそれが逆に気楽でもあった。身内だということもあるが、どんなにおかしなこと言っても、変にギクシャクしても、蓮香は別に気にしない。数日すればそんなことがあったことも忘れて、蓮香の日常を生き始める。やや繊細で考えすぎる傾向のある泉久にはそれがありがたかった。
ありがたいからこそ、馨とは真面目に向き合いたかった。自分にはこれ以上の人はきっといないから。そう思える相手に出会ったからこそ、多少重いと言われても、いつでも腹を割って話して、気持ちをむき出しにできるようになりたい。そういう願いが泉久の胸中には渦巻いていた。
「泉久、リラックスだよ。必ず一回は深呼吸。急いては事を仕損じる」
バレていたのだろうか。運転をしているはずの蓮香から忠告があった。
「いきなりなに?」
「緊張してそうだったから。ま、大丈夫でしょ。馨さんとは会ったことないけど、泉久と馨さんなら、きっとどうにかなるよ」
何がどう、とは聞かなかった。他人に興味がないくせに、こういう時ばかり鋭い。
「あ、苗字変えるなら言ってね。必要書類の書き方とかなら教えられるから」
「気が早いって」
「馨さんの下の名前ってなに? 庭月野が特殊だし、語感がいいと嬉しいよね。それとも、馨泉久になる? 響きはいいね」
なぜ当事者ではないのに勝手にこう盛り上がってるんだろう。泉久は羞恥心を覚えながらラジオの方に神経を集中させた。
朝のラジオは、飽きもせずに交通情報と気象予報、世の中のニュースを伝えている。今のところ事故は起きていないようだが、世の中で起きた事件にはあまり進展は見られない。この時間だと、バラエティに富んだ面白メールが届くのはまだまだ先だろう。
車は順調に道路を走り、最寄りの空港に到着した。それなりに混んだ駐車場に車を停めた蓮香は、降りようとする泉久を呼び止めて自分のカバンを漁った。
「はいこれ。行く前に渡しておこうと思ったんだよね」
そういって取り出したのは、鮮やかな和柄の布が目をひく小さな物体。
「なにこれ」
受け取りながら蓮香に尋ねた。
「お守り小刀。肥後守だよ。刃渡りが七センチだから預入荷物に入れて、向こうでは家の中に置いといてね。本物だから銃刀法違反になる」
布の鞘の中から見える刃物には、刺せば容易に血を溢れさせる刀の気迫を感じた。本物とはこのことか。
「肥後守、ってはーちゃんが初任給で買ったものじゃん。いいの?」
「お守りだからね。まぁ、縁切りを連想させるから刃物はNGって考えもあるけど、私が使ってたものだし、ちゃんと言い聞かせたから、悪縁を断ち切ってくれるよ。きっと泉久と馨さんを守ってくれると思う。私からの餞別。ほら、早くリュックかキャリーケースに入れな。遅れるよ」
そこまで言って若干照れたのか、蓮香は顔を背けて、しっしっ、と手を動かす。泉久は受け取った小刀を一度ぎゅっと握ると、預け入れ予定のリュックの中に小刀を仕舞いこんで、車から降りた。後部座席のキャリーケースを出すと、蓮香も運転席から降りて来た。
「必要なもの持った?」
「うん。ありがとう、はーちゃん」
「どういたしまして。気を付けてね」
「うん」
行ってきます。晴れやかな笑顔でキャリーケースを転がして空港に入っていった。泉久が振り返ることはない。その背中に、せめてものエールを込めた。
「行ってらっしゃい」
夏は、ようやく終わるらしい。
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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