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第一部
忍び寄る現実 2
しおりを挟む榊さんはびっくりするほどに覚えが早くて、私が指導することは三日も経てばなくなってしまっていた。
「もうレジも配膳も完璧です! 凄いです」
上がりの時間がたまたま同じになり、駅までの道を並んで歩いていた。これまで指導したバイトさんの中で、榊さんはダントツの物覚えの早さかもしれない。余裕のある表情で淡々とこなせてしまうのだから尚更すごい。
この店は、乗降客が東京都内の駅の中でも多いと言われる池袋駅前にあり、お客さんの出入りも激しい。テキパキできる人がいてくれると本当に助かるのだ。
「いえ、戸川さんの指導が適切だからですよ。分かりやすい上に簡潔で。ありがとうございます」
榊さんが頭を下げるから、恐縮してしまう。
「そんな、やめてください。榊さんと私、同級生だし!」
慌ててそう言うと、榊さんがふっと笑って私を見た。
「それを言うなら戸川さんだって。同級生なのに”さん”付けだし、敬語だし」
「そっか、そうですね」
二人で笑い合う。
「僕にとって戸川さんは同級生かもしれないけど、バイト先では先輩なわけで。僕が敬語なのはいいとして、戸川さんは敬語やめてください。それと”さん”付けも」
「じゃあ、”榊君”って呼びます……じゃなくて、呼ぶね」
「はい」
「榊……君も、敬語はやめてね。同じバイト先で働く者同士、それに同じ学年なんだもん。バイト仲間としてよろしくお願いします」
男の人と話をすることには慣れていないのに、何故か榊君は変に緊張せずに済んだ。仕事上の指導として接することから始まった、というのが大きいのかもしれない。
「うん。よろしく」
榊君は優しく笑った。細身で長身の彼は、こうして雑踏の中を歩いていても人目を惹くらしく、さっきから女性たちの視線を感じ続けている。
確かに、つい二度見してしまうような容姿だよな……。
他人事のように隣を歩く榊君を見つめてしまった。
「ん? どうかした?」
敬語でなくなった榊君は、それだけで同級生ということを実感する。
「あ……えっと、榊君はどこに住んでるの?」
とりあえず、思いついた質問を投げかけておいた。
「狛江に住んでる。アパートで独り暮らししてるんだ。狛江って知ってる? ここからだとちょっと遠いよね」
「本当に? 私も狛江だよ!」
あまりにびっくりして声を張り上げてしまった。
「すごい偶然だね。 池袋から狛江なんて、いないと思ったよ」
「それは私も同じ」
狛江は、東京の世田谷区に隣接する市で、都心からは少し離れている。多摩川の傍にある住宅街だ。
「じゃあ、電車同じだね」
榊君が穏やかな笑みを浮かべた。
夜二十二時を過ぎた山手線内は、仕事帰りのサラリーマンや私たちのようにアルバイトを終えた学生たちでごった返している。吊革につかまり、榊君と並んで立っていた。
「戸川さんって、聖晃女子大なんだって? 竹田さんに聞いたんだ。お嬢様だ」
「ああ……確かに大学はお嬢様な雰囲気かもしれないけど、私は違うから。見ての通りね」
私の身なりを見ればお嬢様には見えないと思うけれど、それだけこの大学名に威力があるということだ。
「見ての通りって、僕は、戸川さんは、品がある子だなって思うよ?」
「ええ? そんなはずないよ―」
つい笑ってしまった。
「そんなこと言ったら、榊君だってとても育ちが良さそうに見える」
綺麗な肌と色素が薄いさらりとした髪、麗しい見た目はそう――王子様みたいだ。
「僕、結構苦学生だよ? それを証拠に君以上にシフトを入れてるだろ?」
そう言って、榊君は静かに微笑んだ。
新宿で小田急線に乗り換えて、狛江駅で二人降りた。
「じゃあ、また」
「うん。じゃあ気を付けてね」
駅前のアパートに住んでいるという榊君とは駅で別れる。こんなに近くに住んでいたのに、全然気付かなかった。
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