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第一部
忍び寄る現実 4
しおりを挟む冬休みは、バイトのシフトを増やしていた。
バイト三昧だったけれど、元旦だけは家族三人で初詣に出かけた。
「優太は、初日の出を一緒に見に行く彼女とかいないの?」
母が呆れたように優太の肩を叩く。
「余計なお世話。彼女なんかいなくてもな、バイトに勉強にサークルに超リア充なんだよ。それより、そろそろ社会人になろうという人の方が問題じゃないか? 毎年、相も変わらず家族と年末年始を過ごしてますけどー」
隣を歩く優太が横目で私を見て来る。
「私は別にいいの。放っておいてよ」
私も母に続いて、優太の肩をつついた。
「クリスマスだって毎年バイトでさ。行き遅れとか、やめてくれよー」
「優太、うるさい」
やり合う私たちに母の声が入り込んだ。
「雪野は大丈夫。社会人になったら急に出会いがあったりするのよ。『自分なんて』と思っていても、大人になると自分と見合った相手が出て来るものよ?」
――自分と見合った相手。
市役所に勤めれば同じような価値観を持った人と出会って、いつか、穏やかで未来を見ることのできる恋をするのだろうか。
「おい、姉ちゃんどうしたんだよ。急にぼーっとして。人にぶつかるだろ」
「う、うん。なんでもない」
無理矢理に笑顔を作る。
まだ先のことなんて考えたくない。そう思い続けて、既に三年が経っている。必ず行き止まりが来る道を、私はひたすらに歩いていた。
大学の冬期休暇は短い。
大学最後の試験と卒業論文の提出期限に追われて、アルバイトと勉強で一日が終わっていた。
一月中旬からは試験勉強と卒論に集中するために、アルバイトのシフトを減らしている。
この日も、大学の授業の後、閉館時間まで図書館にこもっていた。
「あれ……。戸川さん?」
帰宅途中の小田急線の車内で、ドア付近に立ち窓の外に視線をやっている時だった。駅に停車して反対側の扉が開くと、新たに乗り込んで来た人並みの中から自分を呼ぶ声が聞こえた。私の正面に現れたのは、榊君だった。
「偶然だね。今から、帰るところ?」
「そうなの」
さらに乗り込んで来た乗客により、榊君との距離が縮まる。
「最近、バイトで会わないからどうしたのかなって気になってたんだ」
冬休み中、ほぼ毎日のように会っていた。
「試験と卒論でシフト減らしてたの。榊君は、バイトの帰り?」
「そう。戸川さんと一緒に働かなかったことで、いかに君に助けられていたかを実感したよ」
「大袈裟だな。榊君はもうなんでもこなせちゃうじゃない。むしろ、みんなの助けに――」
急に車内が揺れる。榊君の背後にいた乗客に背中を押されたのか、突然その身体が私に迫った。
「大丈夫?」
「う、うん――」
答えるより早く、榊君が私の肩を抱き寄せる。
「危ないから。次の駅で客が降りるまで、ちょっと我慢して」
反射的に離れようとすると、いつもと同じ表情で榊君が微笑んでいた。この密着に一人意識している自分が失礼なような気がして、バッグを胸に抱えて縮こまっていた。
次の駅でたくさんの乗客が降りスペースに余裕ができると、自然とその腕は離れて行った。
「それにしても、こっち方面の電車は本当に混雑しているね。まだ、慣れないな」
そう呟いた榊君を見上げる。
「狛江に越して来たの、最近なの?」
そんなことは言っていなかったはず。
「あ、いや……そうなんだ」
何か余計なことを聞いてしまっただろうか――。
そう思うほどにその目を泳がせていた。でもすぐに、いつもの落ち着いた表情に戻る。
「それまでは実家で暮らしていたんだけどね、先月、勝手に家を出て一人暮らしを始めた」
「そうだったんだ」
どうして――とつい疑問に思ってしまったけれど、さっきの反応を見たら、それ以上聞いてみようとは思えなかった。
「この辺りまで来ると、急に明かりが減って来るよね……」
榊君が扉にもたれて窓の向こうを眺めている。話題が変わったのかどうか測りかねて、何も言わずにその様子をうかがった。
「僕が育った場所とは全然違うな。僕としては、こっちの方が絶対に居心地がいいと思うんだけど……」
その言葉は、私に言っているようでそうじゃない気がした。
「……ってごめんね、一人で勝手にしゃべっちゃって。意味わからないよね」
「ううん」
我にかえったように私の方に顔を向ける。
「……戸川さんってさ、本当に気遣いの人だよね」
目を細め、突然そんなことを言い出した。
「戸川さんは、無意識のうちに相手のことを思いやってるから、自分では全然そんなつもりはないんだろうね」
「そんなことない――」
「今だって。どうして家を出たのか、そっと触れないようにした。たぶん、少し先回りして人に嫌な気分にさせないようにって考えてる。思慮深くて優しい人だ」
なんと答えればよいのか次の言葉を選んでいると、榊君が私を覗き込んで来た。
「今日に限らず、この一か月でそうなんだろうなって分かって来た」
「ただいろいろ考え過ぎるだけだよ。そんないいものじゃ――」
「他人だからこそ分かるんじゃないかな? 僕は戸川さんになら、何でも話してしまいそうだし。そういう、人を癒す雰囲気を持っている人なんだよ」
ふっと笑って、榊君は再び扉に身体を預けた。
「――僕ね、逃げるように家を出てしまったんだ。母親を残して」
その目は、ほとんど輪郭のはっきりしない夜の景色に向けられている。横顔だから、どんな表情をしているのかははっきりとは分からない。その声が怖いほどに穏やかで、余計に痛みを感じた。
「母は少し精神を病んでいてね。母を救うために二人で家を出ようとしたけど、結局僕では何もできなかった。それで何もかも嫌になって、一人逃げ出して楽になろうだなんて酷い人間だろ? 母が頼れるのは僕だけだったのに」
どうして突然、そんなことを私に話したのか――。
不思議に思ったけれど、それ以上に榊君の苦悩が伝わって来て、胸の奥に鈍い痛みが走る。だから、つい言葉を零してしまっていた。
「――私にはご家庭の事情は分からない。でも、榊君は本当に逃げ出そうだなんて思っていないと思う」
「え……?」
窓の向こうのどことも分からない方に向けられていた視線が、私の方へと移る。
「一人になった今でも、こうやってお母さんのこと考えて悩んでいるんだよね?」
きっと本当は逃げたいわけじゃない。だから苦しむ。私にはそう思えた。
「人が誰かのために出来ることって、ほとんどないんだと思う。それでも、何ができるかと悩んで考えてしまうのはその人が大切だからだよ。その思いは、必ず伝わる日が来る」
自分の母親を想って胸を痛めている。親子の縁は距離で切れるものじゃない。その想いは時間がかかっても届くはずだ。
「いつか、本当にお母さんを救える日が来るといいね。来てほしいな」
榊君が瞬きもせず強い眼差しで私を見ていた。その視線に、自分の言動が改めて蘇る。
「――って、勝手なことを言ってるよね。何も知らないのに、ごめん」
何を知っているわけでもないのに、無責任なことを言ってしまった。
「……う、ううん。そんなことないよ。そんなことない」
榊君の声が微かに震える。
「ありがとう……」
噛みしめるような言い方が、何故かずっと胸に残った。
「君は、そんなだから、汚れきった人間ほど甘えてしまいたくなるんだろうな」
耳に届いた低い声に、ビクッとする。一瞬誰のものか分からなくて、周囲を見渡す。もう一度榊君の顔を見つめても、その唇は閉じられたままだった。
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