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第一部
忍び寄る現実 12
しおりを挟む汚れ一つない黒塗りの車で連れて行かれた場所は、都心にある高級ホテルだった。近くのスーパーに行くつもりだった私の服装は、完全に場違いだ。
テレビで芸能人の結婚披露宴か何かで見たことのあるバンケットルーム。そのすぐ脇にあるラウンジで、倉内さんと向き合う。
私の座った席からは、扉が開け放たれているその大広間の中がよく見えた。どうやら、何かのパーティーが開かれるみたいだ。着飾った人たちが続々と集まってきている。
どうしてこんな場所に連れて来られたのか――。
座っているだけで落ち着かない。
「今日は突然、申し訳ございませんでした。改めまして、私は、創介さんのお父様である丸菱グループ代表取締役社長の秘書をしております。秘書業務だけでなく、社長のお近くでずっと仕えてまいりました。職務上以外の面についても知り得る立場にあります」
私のようなただの女子大生にも、丁寧過ぎるほどの言葉遣い。でも、その丁寧さには何の感情もなく、ただ機械的にそう接しているのだということも感じる。
「それで、本題ですが――」
淡々としていながら有無を言わさない口調に緊張が走る。気を抜いてしまえば手も足も震えてしまいそうで、身体中に力を込めた。
「戸川雪野さん。創介さんが大学四年の頃からお付き合いされていらっしゃいますね?」
その質問は、私の答えなんて求めていない。ただの念押しだ。何も言えずにいる私に構わず、事務的に倉内さんは言葉を繋げた。
「創介さんが、どんな立場の人間かお分かりですか?」
かろうじて頷く。それが精一杯だった。
「それなら話は早い。創介さんは、この先、日本経済を背負う方だと言っても過言ではない。代々続いた榊家の中で、創介さんにゆくゆくは社長職に就いてもらいたいと、お父様は強く望んでおられる。ただ、血筋だけでそれが成し得るような簡単なものではない。それは、あなたもお分かりですね?」
何も持っていない私が、こうしてこんな地位の高い人と向き合うことすら考えられないことで。私なんかが知り得ない世界のことなんだと、改めて思い知らされる。
「失礼ですが、戸川さんのことを少し調べさせていただきました。あなたは、お母様と弟さんと三人で市営団地にお住まいで、大学も奨学金を得ながら通われている。そういうご家庭の方だ。ただひと時、お付き合いをするのは自由です。でも、将来のことを考えれば、あなたではだめなのです」
目を固く閉じる。
分かっている。最初から、そんなこと分かっている――。
何度も心の中で繰り返した。
「創介さんには、負うべき責任がある。将来、丸菱のトップに立つためには、一つの隙も作るわけにはいかない。すべてにおいて完璧でなければなりません。それだけ厳しい世界です。創介さん自身の努力はもちろんのこと、ご結婚される方においても創介さんを助け支えとなる方である必要がある」
決して声を荒げられたわけでもない。ただ、事実を淡々と告げられる。それが余計に辛かった。
「創介さんには今、今後の丸菱グループを左右する非常に重要な縁談が進んでいます。これを破談にするわけにはいかない」
榊君に聞いておいて良かったのかもしれない。聞いていても、この胸の痛みだ。聞いていなかったらきっと、こんな場所でみっともない姿を見せてしまっていたかもしれない。
「その方は、将来の総理最有力候補と言われる閣僚のお嬢さんです。それがどれだけ強力な力添えになるか分かりますね?」
将来の総理候補のお嬢さん――。
なんの現実味も湧かない存在だ。遠い遠いどこか別の世界のこと。自分と比べることさえできない。
創介さんは、そういう世界にいる。全部、分かっている。創介さんの立場ならその立場にふさわしい人がいる――。
頭では分かっていた。分かっていたのに、生々しい痛みが胸を刺す。
「私は、創介さんが社に入ってからの仕事ぶりを間近で見て来ました。それはもう、本当に身を削って努力されている。それはきっと、創介さん自身も将来トップに立ちたいという思いがあるからでしょう」
私だって、すべては知らなくとも、創介さんが仕事を頑張っていたのはよく分かっている。創介さんもお父様と同じ未来を見ているはずだ。きっと、そのためにいつも頑張っている。
「この縁談は、必ず創介さんの将来のためになります。だからこそ、この結婚以外の選択肢はありません」
「……お話はよく分かりました。でも、そのことは創介さんもよく理解されていることですよね。なので、ご心配いただく必要はないと――」
――私との関係を終わらせる。
縁談が進んでいる以上、創介さんもそのつもりでいるはずだ。本来なら、倉内さんはこんな風に私のところに訪ねて来る必要なんてない。
「あなたから離れていただきたい。それをお願いするために、こうやって戸川さんに話をしに来ました」
「……え?」
その言葉の意味がよく分からない。私は驚きを隠せずにいると、倉内さんが言いづらそうに話し出した。
「……創介さんは、あなたとの関係を終わらせるつもりはないようです」
「まさか――っ」
「あなたのことを、愛人にでもするつもりでしょう」
それはつまり、奥さんのいる創介さんと会い続けるということ――。
「あなたは、真面目に勉学に励み家族を助けるためにアルバイトも頑張っている。そんなあなたが、誰かの愛人になどなれますか?」
創介さんがそんなことするはずない――。
どうしても私はそう思ってしまう。創介さんはそんな人じゃない。そんなことしない。
「すみません、こちらへ来ていただけますか?」
動揺する私をよそに、倉内さんは突然立ち上がった。訳が分からないままに倉内さんに続く。何を思ったのか、私の席から見えていたバンケットルームの入り口へと私を連れて行った。
「――あちらにいる薄紫色の着物を着た方、分かりますか?」
言われるままにその姿を会場内に探す。少し離れた先に、艶やかな振袖を着た女性を見つけた。
「あの方が、創介さんの縁談のお相手です。とても、お綺麗な方でしょう?」
無意識のうちに手をぎゅっと握りしめていた。目の当たりにしたその人は、美しさに溢れてきらきらと輝いていた。綺麗なだけじゃない。滲み出る雰囲気は、品が良くて育ちの良さを感じさせる。そして何より、優しそうで柔らかな表情をしていた。大学で何人ものお嬢様を見て来た。でも、その誰とも違う、本当に綺麗な方で。美しくまとめられた髪に、透き通るような白い肌。優しく微笑んでいる。
「外見だけではないんですよ。本当にお心も綺麗な方なんです。奥ゆかしくて、お優しくて。ただの政略結婚ではありません。家柄や条件だけではない。あんなにいい人はなかなかいません」
見ただけで分かる。人格は外見にも滲み出る。本人を見てしまえば、もう、わずかに残る迷いも吹き飛んだ。
「……あの方ならきっと、創介さんは幸せになれますね」
その人を見つめながら、私はそんなことを口にしていた。
「え? あ、ああ、そうです。間違いありません」
扉の影に隠れて盗み見ている私は、着古したジーンズにセーターを着て、その上に一つしかないコートを着た何もない女だ。
あの人の隣に創介さんが立ったら、きっととてもお似合いだろう――。
そう思った時だった。
創介さん――?
年配の方と連れ立った創介さんが、その女の人の前に現れた。創介さんのスーツ姿はいつも見ていたけれど、私の前にいる創介さんとは全然違った。どこから見ても上流階級の男の人。この場にいる誰よりも、立派に見えた。
それに、お相手の方と向き合って話をしているその二人の姿は、本当に自然で、どこにも違和感はなかった。
そういうことだ。しっくりと二人で並んで立つ姿が、私の目に焼き付けられる。
創介さんの隣に立つのは、私じゃない――。
今度こそ、ちゃんとそう思える。
創介さんを見上げるその人は、ほんのりと頬を赤くしていた。恥ずかしそうにしながらも、その表情は美しく綻んで。一目でわかってしまった。きっと、あの方は創介さんに恋している。倉内さんの言う通りだ。ただの政略結婚じゃない。創介さんを大事に想い、きっと、創介さんを優しく包み込んでくれるはずだ。
私はもう必要ない――。
そう納得したのに、頬に生暖かいものが流れ落ちて行った。ちゃんと現実をこの目で見て、心も頭も理解したはずなのに、胸が抉られるように痛い。痛くて痛くてたまらない。
「――私は、創介さんのことを子供の頃から見て来ました。いろんな闇を心に抱えて育ち、冷たい心を持った人間になってしまった。でも、創介さんは変わりました。それはきっとあなたのおかげなのでしょう。ありがとうございました。社長に代わってお礼申し上げます」
背後に立っていた倉内さんが私に頭を下げる。その姿を見れば、堪えていた涙が溢れそうになって私は口元を押さえた。そして、すぐに涙をぬぐう。
倉内さんは、創介さんのお父様の意思を代弁するために私に会いに来た。最後の力を振り絞って、倉内さんを真っ直ぐに見つめる。
「創介さんとは終わりにします。もう、会ったりしません」
何もかもを振り切るように深く頭を下げた。その時目に入ったのは、染み一つない赤い絨毯と何も考えずに履いて来た古いスニーカーだった。
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※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・出来事などとは一切関係ありません。
※本作品は、他サイトにも掲載しています。
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