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第一部
それぞれの決断 1
しおりを挟む”今度の土曜日、会えないか?”
創介さんからメールが届いたのは、倉内さんに会った二日後のことだった。その画面を前にして、私はただ立ち尽くす。
『もう創介さんとは会いません』
そう倉内さんに告げたのだ。会えば、その約束を破ることになる。
あのホテルのバンケットルームで見た女性の顔がちらつく。その後には創介さんの顔が浮かんで、私を苦しめる。
『創介さんは、あなたとの関係を終わらせるつもりはないようです』
そう言った倉内さんの言葉を思い出す。
ここ最近の創介さんの様子が蘇る。いつもどこか疲れていて、苦しそうだった。私を簡単に切り捨てることもできないで、苦悩しているのかもしれない。倉内さんがわざわざ私に会いに来た理由は、きっとそこにある。
『その時が来たら――。自分の立場も引き際もわきまえているつもりです』
木村さんにそう告げた、三年前の決意。それは、この恋を続けてきた自分との約束であり唯一のプライドだった。
『……雪野』
どこからともなく聞こえて来る、低くて甘い声。私の醜い欲望が暴れ出す。どれだけ耳を塞いでも、創介さんに会いたいと身体中が叫ぶ。
もう一度だけ。最後に、なんでもない時間を創介さんと過ごしたい。
その日を最後に終わらせるから、ちゃんと創介さんから離れるから、だから、許して――。
名前も知らないあの綺麗な女性に、心の中でそう言っていた。
三年という日々を終わらせるため、あと一日だけ許して欲しい。
「無理を言ってすみませんでした」
「まあ、しょうがないよ。それなりの事情があるんだろう? 戸川さんはこれまで誰よりも真面目に働いてくれたからね。後はなんとかするから」
「本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
頭を下げると、「最後の仕事、頼んだよ」と店長が私の肩を叩いた。
四年働いて来たこの店を辞める。突然辞めることは店に迷惑をかける。それでも、この先創介さんと会うことのないように、そして何より、すべての未練を断ち切るために、こうするしかなかった。
最後の仕事を終えてロッカールームを出ると、出勤して来た榊君に出くわした。
「お疲れさま」
「ねえ、戸川さん――」
会釈して通り過ぎた私に声が届き、振り向く。
「僕は君を騙すようなことを言った」
私を好きだと言ったことを言っているのか。その目をただ見つめる。
「戸川さんに近づくために君の家の近くに引っ越し、ここで働いた。全部、君を奪うためだ」
「そんなこと、もういいのに」
私は、ふっと息を吐いた。
「でも、君と接して君と話して、僕が感じたことに嘘はない。だからーー」
「榊君、ありがとう」
最後に何とか笑う。
「じゃあ、お先に失礼します」
もう一度小さく頭を下げて、そこから立ち去った。
外に出て見上げた空には、珍しくいくつもの星が瞬いていた。煌めいては消えるその輝きは、いつのものか。そんなことを考えてしまった。
約束の土曜日、待ち合わの時間は14時だった。
自分の部屋で鏡の前に立つ。
いつも余裕がなくて、創介さんに会う日でもお洒落なんかしたことがなかった。最後くらいは、少しくらい綺麗にして会いたいと思うのは女のとしての思いなのだろうか。
いつもただ一つ結びにしていた髪をそのまま流し、唯一のワンピースを着た。
色こそ地味なネイビーだけれど、スカートなんてめったに着ないからなんだか足元が心許ない。
ちゃんと、終わりにして来るから――。
チェストの上に置いた象のぬいぐるみに視線をやった。
「どこか出かけるのか……って、なんだよ、珍しくめかし込んで。まさかデートか?」
自分の部屋を出てすぐの和室で、優太がごろごろしながら雑誌を読んでいた。
「違います。今日は遅くなるから、お母さんにもそう伝えておいて」
「あれ、聞いてないの? 母さん、パートの助っ人とかで、他県の店舗に行くらしくて今日帰って来ねーよ」
「そっか、そう言ってたね」
ここ数日は自分のことで精一杯で、すっかり忘れていた。母の働く惣菜店では、時おりそういうことがあった。
「俺もサークルの合宿があるから。今日の夜、深夜バスで行くんだ」
「分かった」
「……朝帰りしてもバレないよ? デートなんだろ?」
優太のニヤリとした顔に、思わず声を張り上げていた。
「だから、違うって言ってるでしょ! バカなこと言わないで」
「な、何だよ、こえーな。ムキになるなよ」
ぶつぶつ言う優太を残し家を出た。
待ち合わせの場所は、地下鉄六本木駅付近だ。約束の十分前にそこに到着した。
三年前、少ない時間を縫うようにここに通っていた。今はもう創介さんは住んでいない高層マンションが変わらずそこにそびえたつ。
創介さんの会社は、ここからほど近いところにある。午前中は仕事があると言っていたから、約束の場所はここにしたのだ。その方が、創介さんとの時間をより多くもらえる。最後の最後にこんなに欲張る自分に呆れてしまう。
黒い外国車が目の前に止まった。何度も見て来た創介さんの車だ。緊張が走る身体で深く深呼吸をし、すぐに車へと駆け寄った。
「こんにちは」
「乗って」
助手席の窓を下がり、中に創介さんの顔が見えた。その顔を見た途端に、胸の奥が刺激されて焦る。気を引き締めて笑顔を作った。
交通量の多い道路だ。素早く助手席に乗り込むと、すぐに車は滑るように走り出した。
「待たせたか?」
そう声を掛けて来た創介さんは、この前会った雪の日とは違って穏やかな表情をしていた。
やっぱり、今日、創介さんが会おうと言った目的は別れ話じゃない――。
少なくとも、今日ではない。そう確信した。
「いえ。私も今来たところです。母がいなかったので、弟の昼食を作って食べさせてきたから、私の方が遅れるかもしれないと焦りました」
「何を作ったんだ?」
「え?」
そんなことを聞かれるとは思わなくて、思わず創介さんの方を見返してしまった。
「昼飯。弟に作ってやったんだろう?」
「家にある残り物で適当に作った焼きそばです。創介さんは食べたことないかな……」
焼きそばなんて庶民的なメニュー、創介さんにはイメージが湧かないかもしれない。
「焼きそばくらい食ったことあるよ」
「本当に?」
またも驚いて声を上げてしまった。
「いつもフルコースばかり食べてるとでも?」
「い、いえ……。あ、はい」
「どっちだよ」
「……実は、そうかも、と思っていました」
正直に言うと、創介さんが笑った。
他愛もない会話をしたい。この時間に、悲しみはいらない。
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