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第二部
"前夜" 5
しおりを挟む結局、母との話は平行線のままで、何の進展も得られなかった。
どうしたら理解してもらえるのか、答えが見つからない。気付けば溜息ばかりを吐いていた。
「まだ帰らないの?」
「えっ……?」
同じ課の先輩が、上着を着ながら声を掛けて来た。
「もうこんな時間だったんですね。私も、もう少ししたら帰ります。お疲れ様でした」
慌てて見上げた壁の時計は、夜の八時を指していた。
「お疲れ。早く帰るんだよ」
その先輩が執務室を出て行き、部屋に一人になる。
なんとなく、家に帰りたくない――。
優太にも、私と母に挟まれて気を遣わせている。このままじゃよくないのはわかっている。でも、何を言っても母の態度は変わらない。母の気持ちが分かるだけに、強くも言えない。
言いようのない不安が私を押し潰そうとする。
創介さんの声が聞きたい――。
そう思ってしまったら、自分を止められなかった。
部屋を出て、勢いのままに創介さんに電話をかけた。
(雪野、どうした?)
長めのコールの後、創介さんの声が耳に届く。
「声が聞きたくなって……」
(何かあったのか?)
勢いのままに掛けてしまったが、この時間ならまだ仕事中のはずだ。
「突然ごめんなさい。仕事中でしたよね」
(大丈夫だ。支障がないからこうして出てる。それより、声が聞きたいなんてどうした。お母さんと、何かあったか?)
ぎゅっと目を閉じる。
「……私、早く、創介さんのものになりたい」
この身動きの取れない状況に、強引にでも奪ってほしいなんて、そんなことを考えてしまう。
(もう、お互いのものだろ?)
「でも、私、不安で――」
このまま母が賛成してくれなかったら。創介さんのお父様も、本当は許してなんかいなかったら――。
創介さんから離れたくないと思ってしまえば、そんな不安ばかりが押し寄せて来るのだ。
(雪野、大丈夫だ)
優しく囁くような声に、より甘えてしまいたくなる。
「私、創介さんと離れるのが怖くて仕方ない――」
(俺は雪野を手放したりしないし、おまえが去っていくのも許さない。誰が許さなくてもだ。何があっても一緒にいる。それだけは変わらない。そうだろう?)
小さな子どもにでもなったように、私はスマホを握り締めながらただ何度もうんうんと頷く。
(だったら、何度でもお願いすればいいだけだ)
「……ごめんなさい。勝手に不安になったりして。心配かけちゃいますよね」
むしろ創介さんの方が辛い立場にあるのに、私の方が弱音を吐いてしまった。
(雪野はしっかりし過ぎるところがあるから、まだまだ足りないくらいだ。もっと俺に甘えていい)
創介さんの声が、じんわりと心に染み込んで行く。
(また会いに行く。俺ももっともっとお母さんの気持ちや不安を知りたいと思ってる。少しでも安心して雪野を送り出せるようにさせたい)
「ありがとう、創介さん」
どんな不安も恐れも、もう一人で抱えることはないんだと、創介さんが教えてくれる。
それから一週間ほど経った日のことだった。
いつもは私より帰宅が早いはずの母が、仕事から帰ってもまだ家にいなかった。
「あれ……お母さんまだなの?」
玄関で靴を脱ぎ、部屋へと入りながら声を掛ける。
「ああ。遅くなるって、さっき電話あったけど。どうしてだかは知らない」
優太がお風呂場へと向かう途中でそう答えた。不思議に思いながら自分の部屋へと入る。
「ただいまー」
それから少しして、玄関口から母の声がした。
「おかえり」
「雪野もう帰ってたんだね。今度の日曜日、お祝いしようか」
「急に、何の話?」
意味が分からず母の顔を見る。
「榊さんにも、来てもらう約束したからね」
「え……ええっ?」
更に驚かされる。
「どういうこと? 榊さんって、創介さんに会ったの?」
まったく訳が分からない。
「そう。今日、今までお話してたのよ」
そんな話、聞いていない――。
「なんだよ、騒がしいな。どうしたんだよ」
お風呂から出て来た優太が、髪をタオルで拭きながら居間にやって来た。
「優太も、今度の日曜日は開けておいてね。うちで、雪野のお祝いするから」
「なんだよ、母さん、姉ちゃんの結婚許したの?」
弟も同じように目をぱちくりとさせている。姉弟揃って、頭の中はクエスチョンマークが回っていた。
「雪野」
「は、はい……」
母が私の腕を取り、座らせる。そして、私の真正面に母が座った。
「これまで、喜んであげられなくてごめんね。それだけじゃなくて、雪野の話も聞いてやらなかった。苦しかったでしょう」
まだ状況をよく理解できないまま、母の目を見つめた。
「心から愛している人とは、誰が止めたって離れられないもの。それを分かっていてお母さんは反対したの」
「分かってて、敢えて反対した……?」
母が「そうよ」と言って私の手を両手で包み込んだ。
「一つは、雪野にどれだけ大変な結婚なのかを改めて考えさせるため。家の格が違い過ぎる結婚は苦労が多い。それをどれだけ覚悟できるかが大事だからよ。反対されるくらいで心が折れていたら、そんな得体の知れない家に嫁ぐことなんて出来ないと思うの」
私の覚悟を見たかったのか。そして、私に現実を知らしらめるため――。
「もう一つは、榊さんに知ってもらうため」
「創介さんに?」
「そう。相手の親に、受け入れてもらえないということがどういうことか。多かれ少なかれ、これから雪野が味わうこと。もしかしたら、これまでだって、そんな経験しているんじゃない?」
二年前、創介さんのお父様の代理として、秘書の方が私の前に現れた。
「あなたの痛みを榊さんにも知ってもらいたかったのよ。そうすれば、この先、雪野が何か向こうのご家族との関係で辛い目に遭った時、きっとその痛みを分かってくれる。その辛さを共感してもらえるだけで救われるってこと、あると思うのよ」
「お母さん……」
私は、知っていたはずだった。母の愛情の深さを。それなのに、見えていなかった。
「榊さんが、今日お母さんところに会いに来て、言ってくれたの」
母の言葉にまたも驚く。
「お母さんのところって、お母さんのパート先?」
「そうなのよ。夕方、あんな場所に立派な男の人が立ってるからびっくりしちゃって。店のパートさんたちも大騒ぎしてたわよ」
会いに行くとは言ってくれていた。でも、まさか母に直接会いに行くなんて思わなかった。
家まで送ってもらう途中で、母の勤める惣菜店を通った時に教えたことはあった気がする。
それで、直接お母さんのパート先に――?
「榊さんは正直な人だね。お母さんに言ったのよ。自分の立場では分からない感覚のこともある。だから、お母さんの考えていること、不安、気持ち……全部教えてほしいって。それを知らないと、始まらないからって」
――俺ももっともっと知りたいと思ってる。
そう言ってくれていたのを思い出す。
「だからね、お母さんも包み隠さず言葉を濁さず、全部伝えた。榊さんのお宅のこと、社会的な立場、家が釣り合わないことで雪野がどういう目で見られるのか。それも聞いた。榊さんも率直にお母さんに答えてくれた。榊さんがあなたのいないところで話をしに来てくれたのは、雪野にもお母さんにも気を使わせたくなかったからじゃないかな」
私が傍にいれば、私は母の言葉に心を痛める。母は、私を気にして、本当に言いたいことのすべてを言えないかもしれない。
そんなことまで、考えてくれていた。私の家族のことをちゃんと――。
そう思ったら、胸の奥が熱くなって、そのまま涙腺まで刺激してくる。
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