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第二部
立ちはだかる試練 1
しおりを挟む創介さんの会社のエントランスを出るとすぐに、私は走り出していた。一刻も早くここから離れて一人になりたかった。とにかく、心を落ち着けたかったのだ。
秋の晴れ空は清々しいのに、時おり吹き抜ける風は冬に向かってもう冷たくも感じる。思わず胸元の白いブラウスをぎゅっと握りしめていた。
こんなに走ったのは、いつ以来だろう。喉がひりひりとして痛くて、それに息苦しくて、駈け出していた足が止まる。
街路樹に彩られた賑やかな歩道には、ところどころベンチが設置されていた。そこに、腰をストンと下ろし息を整えた。この街は、私が生まれ育った場所とは全然違う煌びやかで賑やかなところだ。歩道を行き交う人も皆、颯爽としてキラキラとしている。ベンチに片方の手をつき、乱れた呼吸をなだめるように俯いた。
この日は、創介さんの秘書をしている神原さんから丸菱グループでの奥様たちと付き合いについていろいろ教えてもらうために、創介さんの会社に来ていた。
『ずっと前から決まっていらっしゃった婚約を破棄し奥様とご結婚されたことのペナルティと、お相手の家の面目のため、榊常務が本社からこちらのような小さい会社へと出向になった、ということです。それは、すべてお父様である社長がそのように決められたとのことでした』
呼吸は次第に落ち着いて来たのに、先ほど神原さんから聞いた言葉が何度も頭を巡って、私の動揺を鎮めてくれない。そんなこと、何も知らなかった。知らないでいた。知らずに、創介さんに笑いかけていた。
四月から半年間も――。
『父もようやく雪野のことを認めてくれた』
二年待ってくれと言った創介さんが、嬉しそうに私にそう言っていた。
『父に宣言した条件、達成できたんだ。これで、誰に何を言われることもない。正々堂々、おまえは俺の妻になれ』
私は、何の疑いもなく思い込んでいた。
創介さんが”二年待ってくれ”と言ったのは、自分の責任を果たすこと、そして、お父様と婚約していた相手方に誠意を見せるため。その誠意というのは、二年という期間と、お父様と約束していたという社での創介さんの成績で。それを達成できたから、お父様も私との結婚を認めてくださった。それで、済んでいたのだと思っていた。
俯いたまま額に手をやる。
私、どれだけおめでたかったのだろう――。
半年前、四月付けで出向になったと知っても、役職が”常務”になったということも聞いていたから、それが飛ばされることになるなんて思いもしなくて。
あんなにもすべてをかけて頑張っていたのに、左遷されるように本社から出されたの――?
それが私との結婚が原因だと思うと、いてもたってもいられなくなる。
創介さんに、真相を確かめる――?
ううん。そんなことしても何の意味もない。創介さんは私に言わなかったのだから、それが創介さんの私への配慮だ。きっと、「関係ない」と笑うだろう。
それに、そんなこと創介さんに確かめたりしたら、「誰に聞いたのか」と問われる。神原さんは、私に言ってしまったことを後悔していたようだった。いろんなことを考えてみても、創介さんには神原さんから聞いたとは言わない方がいい。おそらく、それは事実なんだろう。それだけは、部外者の私でもなんとなく分かった。
ふと息を吐く。どうしようもない罪悪感で胸が苦しくなる。でも、私がそんなものを感じたからと言って、この現実が変わるわけでもない。だったら、私が創介さんのために出来る事は何かを考えるべきだ。
胸の奥が、さっきからずっと、ひりひりと痛い。
神原さんに言われた言葉のどれもが、私を恥ずかしくさせる。
もっと、ちゃんとしないと――。
どんな覚悟も持っているつもりだったけれど、本当の意味では分かっていなかったのかもしれない。榊創介の妻になるということの現実を。
――しっかりしなさい、雪野。
母の声が聞こえて来た気がした。
そうだよね――。
俯いていた視線が私の靴から、スカートへと移る。
『もう少しお召し物にお気を使われた方がよいかと思います』
この日は職場である市役所からそのまま創介さんの会社へと向かったこともあり、普段の通勤スタイルで行ってしまった。市役所というところは、華やかな大企業とは違って、特別着ている物に意識を向けたりしない。こういう服の方が、私の職場では浮いたりせず馴染むのだ。
これでも、創介さんと一緒に表に出る時は、服装にも気を使っていた。今日は、油断してしまった。
ごめんね、創介さん――。
創介さんは、私の服装にとやかく言うことはない。それも無理はない。お母様と言っても血は繋がっていない他人のような関係の方だし、兄弟も弟だけ。身内にほとんど女性がいない。女性の服など特に気に留めることもないだろう。
もっと、私、頑張るから――。
そう自分を鼓舞したら、少しだけ落ち着いて来た。そうだ。やるべきことはいくらでもある。ベンチから腰を上げ、立ち上がる。
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