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第二章 たった一つの心の支え
―メイ―⑫
しおりを挟む廊下は生徒で溢れていて上手く走れない。今が昼休みだったことに今更ながらに気付く。それでも、障害物にしか見えない生徒たちを掻き分け息苦しい校舎を駆け抜けた。
どこかに行ってしまいたい。誰もいない所へ――。
「あれ? 長谷川さんじゃん」
校門へと続く道を夢中で走っていると、正面に山崎が現れた。
「どうしたの? 早退?」
まさにこんなことになった原因の張本人が現れて、その顔を睨みつけてしまう。今一番関わり合いたくない人間だ。無視してその横をすり抜けようとした。それなのに、背後から強く腕を掴まれた。
「離してよ」
結が意味不明なことを言って逆上したのも、きっとこの男のせいだ。抑えられない怒りで身体が充満する。ありったけの力で振り払ったつもりなのに、その手が腕から離れることはなかった。
「君、加藤の家で暮らしてる居候なんだって?」
私の言葉なんてまるで耳に届いていないかのようにそんなことを言って来た。
「あんたに関係ない。いいから離してっ!」
「やだよ」
その腕の力の強さで、目の前の人間が男だったってことに思い至る。
「小さい時に虐待されて、その親も死んじゃって、それで加藤の家に引き取られたんだってな。いろいろ大変だったんだ。だから、長谷川さんってなんとなく他の子と雰囲気違うんだね」
この人、何言ってんの――?
その憐れむような目が気持ち悪い。憐れむ自分に酔っているような山崎が心底気持ち悪いと思う。
「俺、君のこと見かけた時からずっと気になってて。そしたら君、加藤の家で暮らしてるって知ってさ。いろいろ聞いたんだ」
結はどんな風に話したのだろう。考えただけで吐き気がする。
「それでよけいに君のことが気になって。まあ、つまり、長谷川さんのことが好きってこと」
緊張するでもなく、普通の会話の延長上のような言葉だった。一瞬、言っていることの意味が分からなかった。でも、次の瞬間にすべてを理解した。
この男、私のことが好きだって結に言ったんだ。
あの怒り狂った目がちらつく。
「だから俺たち付き合おうよ。そうしたら君も一人じゃなくなる――」
――君も一人じゃなくなる。
その言葉が何故か胸に鋭く突き刺さる。突き刺さった場所から熱く焼けるように感情が昂ぶって行く。
「……じゃないの」
「え? 何?」
身体の奥底から自分でも把握しきれないほどの怒りで耐えられなくなった。
「バカじゃないの?」
「え……?」
呆気にとられた山崎が口をぽかんと開けてこちらを見ていた。
「私は寂しいなんて思ったことない! もう話し掛けるな! あんたのことなんて好きじゃない!」
そこがどこかも忘れて、気付けばそう叫んでいた。呆然と立ち尽くす姿を置き去りに、私は走り出した。
手のひらの中に握りしめたままの歪んだ髪留めが皮膚に食い込んで痛いのに、握りしめる力を緩めることが出来ない。
一人になりたい。私とこの髪留めだけしかない場所に行きたい――。
息が切れて足がもつれるまで走ってたどり着いたのは、川沿いの土手だった。川と言っても水量なんてほとんどなくて、その地形で川だと知らしめる程度のもの。疲れ切った身体を投げ出すように座り込んだ。
恐る恐る手のひらを広げる。中から出て来たのは、無残に形を変えた髪留め。一度も髪につけたことはないままに、使い物にならなくなった。こんなことなら大事にし過ぎずに、使えばよかった。ただその欠片を握りしめて日が暮れるまでずっと座り続けた。
見上げた空がいつのまにか暗くなっていた。
結局どこにも行く場所なんてない。一人になりたいと思ったところで、ずっと一人でいられる力も自分にはなくて。微かな光を放つ星空を虚しく見上げた。情けない。どんなに喚いても強がっても、私には何の力もない。こんな自分、消してしまいたい。でも。
そんな勇気もないくせに――。
一人、苦笑する。
家へと向かう足取りは果てしなく重く、踏み出す一歩が笑っちゃうほどに小さい。それなのに、そこにたどり着いてしまう。重い重い扉を開いたと同時に、平手打ちが飛んで来た。
「一緒に住まわせてやってるっていうのに、どれだけ迷惑かければ気が済むの!」
伯母が鬼の形相で立っていた。ただその顔を見上げることしか出来なかった。
「勝手に学校早退して、あんたのせいで呼び出されたのよ! 誤魔化すのがどんなに大変だったか。あんたがどこに行こうとどうでもいい。でも、こっちに迷惑かけるのだけはやめて」
伯母の肩が上下している。
「その上、結のこと突き飛ばして怪我させたんだって? 今度やったら、次は本当に追い出すからね。覚えときな」
伯母の背後にある結のニヤリと口角をあげた表情が視界に入る。一切の反論をせずに、世界で一番居心地の悪い部屋に向かった。
「帰って来なくたっていいのに」
待ってましたとばかりに結の声がした。
「あんたさ。どんなに強がったって、結局どこにも行けないじゃん。ここに帰って来ることしかできないくせに」
無視した私に回り込むように真正面に結が立つ。そして、同じくらいの背の結が私の顎を掴んだ。
「アンタのことは絶対に許さないから。どんな手を使ってでも、どれだけ時間がかかっても、絶対アンタを追い出してみせるから」
結の醜く歪んだ表情をただ見つめた。そう。全部結の言う通り。言い返す言葉なんて私にはないのだ。
どんなに叫んでも、どんなにもがいても、私にはなす術なんてない――。
朝の時間を過ごした校庭脇の石階段も、あの男が来るかもと思うと行けなくなった。行けなくなって改めて思い知る。あのわずかな時間が、どれだけ大切なものだったかを。
家でも学校でも、浸食するように私の時間も場所も奪っていく結の執拗な嫌がらせに、知らぬうちに神経がすり減って行った。
梅雨に入った雨空が、鬱屈とした空気を振りまく。重苦しい空気に窒息してしまいそうだった。
力の入らない手で錆びついた郵便受けを開ける。相変わらずたくさんの郵便物が入ったままになっている。加藤の家の人間は郵便受けを開けるということをしない。どれだけいい加減なんだか。機械的にその束を手に取る。その時、灰色の景色の中に鮮やかな空色が目に入った。
お兄ちゃん――?
急に身体に力がみなぎり始める。
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